現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
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忘れちゃいけない名古屋人のひとり加藤清正をよろしく
2007年01月21日 (日) | 編集 |
加藤清正像

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/200s(絞り優先)



 名古屋生まれで大成した人を見ると、ほとんど例外なくよその土地に移った先で成功している。特に戦国時代がそうだ。豊臣秀吉といえば大阪、前田利家といえば金沢、山内一豊といえば土佐というように、名古屋を捨てて名をなした人が多い。織田信長はそうそうに岐阜に移り、愛知県岡崎市出身の徳川家康も江戸に行ってしまった。江戸時代、尾張徳川家はついにひとりの将軍も出すことなく終わってしまったのも、地元にいては駄目だということを表している。
 今日紹介する加藤清正もそういうひとりだ。清正といえば熊本城に虎退治というイメージが強く、名古屋色は薄い。秀吉と同じ名古屋市中村区(名古屋駅の裏)生まれということを知っている人は少ないかもしれない。名古屋人も清正のことをあまり郷土の英雄として祭り上げてない。最後の領地となった熊本では今でもみんなに慕われているというのに。
 そういう私も、清正について詳しいのかと問われると口ごもってしまう。清正を主人公にした小説も読んだことがないから、表面的な知識しかない。これじゃあいけないと思い、今日は清正について勉強してみた。その成果をここに惜しみなく披露したい。拾った知識はみんなに配らないとバチが当たるから(そうなのか?)。

 1562年に尾張の土豪の息子として生まれた清正は、早くに父親を亡くして、近所でもあり、母親同士が遠い親戚ということもあって、9歳のときに豊臣秀吉に仕えることになる。そんな清正を秀吉とねねは我が子のようにかわいがったという。同じような境遇に福島正則がいて、のちに二人は大の親友となる。
 初陣は14歳、長篠の合戦だった。翌年に元服して、170石を与えられて秀吉の正式な配下となった。
 清正の名が知られるようになるのは、1583年の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)からだ。のちに賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになる七人のうちのひとりに入る活躍を見せた。二十歳そこそこでかなりの武勇伝をあげたことになる。これで所領は一気に3,000石となる。オリラジ並みのスピード出世だ。
 本能寺の変で信長がいなくなり、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家(名古屋市名東区生まれ)との後継者争いに勝った秀吉と共に、清正は数々の武勲をあげていくことになる。織田信長などと違って秀吉は代々の家臣などひとりもいないので、このように子飼いの武将や仲間に引き入れた武将などを集めて家臣団を作っていった。
 1585年に秀吉が関白に就任。勢いは完全に秀吉のものとなり、屈強だった島津家もついに降伏。その後肥後(熊本)を任されていた佐々成政が秀吉の怒りを買ってしまった代わりに、清正は肥後を与えられることになる。小西行長との分割統治とはいえ、いきなり25万石の城持ち大名となった。このとき清正26歳。異例の大抜擢であった。
 ただ問題は、清正と小西行長があまりにもそりが合わなかったことだ。キリシタン大名として有名な小西行長に対して日蓮宗信者の熱心な信者だった清正は、キリシタンを弾圧した。そのことでますます二人の中はこじれることになる。関ヶ原の合戦で清正は家康側の東軍につくことになるのだが、このときここぞとばかりに小西行長をやっつけまくった。関ヶ原とは遠く離れた九州で違うケンカが起こっていたのだ。

 清正といえば朝鮮出兵も重要な要素のひとつとなる。福島正則たちと共に秀吉の命で朝鮮に渡り、長く無益な戦いを強いられた。清正が何を思っていたかは分からない。本気で朝鮮を領土にできると思って戦っていたのだろうか。向こうでは大暴れしてたくさんの戦功を立て、朝鮮の民からは鬼将軍として恐れられたという。そのことがあって、韓国や朝鮮の人たちは今でもあまり熊本へ行きたがらないらしい。
 ただ、向こうで悪いことをしていたわけではなく、現地の人が困っているということで虎退治をしたり、捕虜に対して人間的に接したということで慕われたりもしている。清正はただの暴れん坊ではないのだ。
 そんな清正を妬んだのが石田三成だった。清正もインテリの石田三成を嫌っていて、ふたりはしだいに犬猿の仲となっていく。朝鮮出兵中に、三成は清正がこっちで悪いことをしてると秀吉に言いつけたことで清正は日本に呼び戻されて謹慎になってしまう。
 秀吉の死によって朝鮮戦争はうやむやのうちに終結となり、石田三成と清正のいがみ合いはますます強くなっていく。1599年に前田利家が死ぬと歯止めがきかなくなり、福島正則や浅野幸長ら6将と一緒に石田三成を暗殺しようとまでしている。これは家康になだめられて未遂に終わるものの、三成は謹慎となり、このことが関ヶ原の合戦へとつながっていくこととなる。
 関ヶ原の合戦は、もともと豊臣秀吉恩顧の西軍対それに取って代わろうとする東軍徳川家康軍との天下分け目の決戦だった。だから、秀吉に最も近い清正は本来なら当然西軍についてないとおかしい。しかし、西軍の大将は大嫌いな石田三成で、仲間にはこれまたいがみあってる小西行長がいる。清正としては秀吉に対する忠誠心がありつつ、時代の趨勢からも家康の方につくことを選んだ。
 結果は東軍勝利で、九州での活躍が認められて、清正は小西行長の所領ももらって肥後全州52万石の大名となった。清正としては、にっくき二人をやっつけて、領地も倍増してよかった。内心は複雑だっただろうけど。

清正石

 写真の石垣の巨大石は、通称「清正石」と呼ばれているものだ。幅6メートル、高さ2.5メートル、畳にすると十畳ほどの石が石垣の中にしっかり組み込まれている。こんなことができるのは清正しかないだろうということで清正石と名づけられた。実際は、この場所は黒田長政の担当だったので長政の仕事であろうということになっている。
 清正が担当した名古屋城天守台の石垣は、とても美しい。なだらかなカーブを描く石垣は、「清正三日月石垣」と呼ばれている。

 これだけ勇猛な武将でありながら、清正は城造りの名人でもあった。家康に許されて、熊本城築城に取りかかる。1608年、地方の大名にはふさわしくないほど立派な熊本城が完成した。各地から最高の技術者を集め、海外貿易で稼いだ資金を使い、領民には休みもしっかり与えたので、働き手は皆、喜んで仕事に従事したと伝えられている。
 その他、治水や土木でも当代一流だった清正は、領地の暴れ川を治めたりもしている。このあたりでも、いまだに熊本では「清正公(せいしょこさん)」と称されて慕われている要因なのだろう。
 熊本城は、明治10年、西南戦争のとき意外な形で名城ぶりを世に示すことになる。西郷隆盛軍が勢いに乗って北上する途中、熊本城にろう城した政府軍に思いがけず足止めを食ってしまう。少数の守備隊しかいないにもかからず熊本城は落ちない。そうこうしてるうちに政府軍の援軍が到着してしまい、西郷軍はそこから敗走を始めることになる。もし熊本城を落としていれば、西郷軍のその後は違ったものとなっていたかもしれない。しかし、この戦の際に強い風にあおられた飛び火によって大小天守閣など多くが焼け落ちてしまった。

 名古屋城天守の石垣を組み終わった清正は、やれやれとほっと一息ついたことだろう。家康に押しつけられた無理な築城仕事もやり終えて、しばらくのんびりできると喜んだかもしれない。それでも隠居するにはまだ早い49歳。
 二条城で家康と豊臣秀頼との会見が行われることになり、清正はそれを取り持つ役割を果たすことになる。形の上では家康の側についていた清正も、気持ちの中ではいまだ徳川家の家臣という思いが強かったのだろう。豊臣家を残すよう家康に訴えるつもりがあった。何かあったら家康と差し違えるつもりで懐に短刀を隠し持っていたという。
 家康もまた、清正の思いに気づいていなかったはずがない。武将としても一目置いていた清正を家康は恐れた。
 帰りの船の中で清正は突然発病し、帰国後熊本で急死してしまう。死因は心筋梗塞だとか脳出血だとかライ病だとかいろいろ言われいてはっきりしない。まことしやかに家康によって毒まんじゅうを食べさせられたというウワサも流れた。
 4年後、大阪夏の陣により豊臣家は滅亡する。清正が生きていれば大阪城が落ちるはずはなかったと言われる。
 21年後には嫡男の忠弘が改易され、肥後は以降細川家のものとなる。ただ、細川家の偉かったのは、清正人気を妬まずに自分たちも敬愛したことだ。熊本では今でも清正のことを悪く言う人はほとんどいないという。

 戦に強い武将ということで大男のイメージがある清正は、実は背は高くなかった。シークレットブーツではなく、長い帽子で大きく見せてはいたものの、実際は160センチそこそこだったと伝えられている。
 相当な潔癖性だったというのは意外だ。痔ということもあってか、便所でしゃがむときは30センチの高さの下駄をはいてしていたらしい。昔はくみ取りだから、はね返ってくるのを嫌ったのだろう。
 口の中に握り拳を入れることができたというのはちょっと有名な話だ。清正が好きだった新選組の近藤勇もマネしてやっていた。その近藤勇のマネをしてSMAPの香取慎吾も拳を口に入れるのをよくやっている。それを見た私も挑戦してみたけど、まったく入りそうになかった。こんなものが入る口はどうかしてる。
 結局、加藤清正というのはどんな人だったのか? いくつかの顔を持ちながら、そんなに複雑な人物ではない。強い武将でありながら城造りの名人で、インテリではないけど愚直でもなく、善人ではないにしても悪人でもなく、好き嫌いがはっきりした正直な人だった。忠義心は強く、野心はさほど強くなく、ある意味では普通の人間だったと言えるだろう。魅力的で愛すべき人だ。私の中では、理想の上司像みたいなイメージが出来上がった。戦しか能がないような武人でもなく、権謀術策の政治家でもない。現代に生きていたとしても何か立派な仕事を成し遂げることができる人だ。
 加藤清正って、こんな素敵な人だったんだと、これを読んで思ってもらえたら嬉しく思う。私自身、今日勉強して初めて知ったことばかりだったから、今日からもっと清正さんのことを敬愛したいと思う。熊本の人たちを見習って。


ダビデ、ミケランジェロ、フィレンツェ、ビビデダビデブー 2006年12月28日(木)
2006年12月29日 (金) | 編集 |
ダビデ像

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/15s(絞り優先)



 イタリア村にあるダビデ像のレプリカ。真っ裸なのであえて遠くから撮ってみた。見るときは部屋を明るくして画面に近づきすぎないよう注意してください。
 ダビデ像の作者は言わずと知れたミケランジェロ。英語読みすると、マイケルアンジョロとなってしまってちょっと間が抜けた感じになる、イタリアルのネサンス期を代表する芸術家だ。一般的に、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロと並んで三大巨匠と呼ばれている。個人的には断然レオナルド・ダ・ヴィンチ派なので、対立するマイケル君は必然的に敵方ということになる。セナを応援していたときのプロストのような存在とでも言おうか。決して嫌いとかそういうことではない。
 ミケランジェロやダ・ヴィンチというと、巨匠ということで老年のイメージが強いかもしれない。けど、当然二人にも若くて血気盛んだった時期があった。特にミケランジェロは時々ラテンの血が騒ぐ人間だったようで、若い頃にケンカをしてぶん殴られて鼻が曲がってしまったというエピソードがある。
 ダビデ像も、1504年、ミケランジェロが26歳のときにフィレンツェ政府から依頼されて作ったものだ。若き天才、そんな言葉がミケランジェロにはよく似合う。この頃すでに老齢にさしかかっていたダ・ヴィンチがこの才能に嫉妬したのも無理はない。口では酷評しながら、こっそりこの像のスケッチをしたりしている。
 4年の歳月を費やして作られたダヴィデ像は、434センチという巨大なものとなった。足もとに立って見上げるとその大きさを実感する。頭が大きいのは、下から見たときにバランスが良いためなんだとか。
 ミケランジェロの彫り方は人とは違っている。通常はまず大まかに形を掘り出して、それから細部を仕上げていくのに対して、いきなり一番出っ張っている部分から細かく掘っていくというやり方をした。その行程を見ていると、まるで大きな石の中から完成した像が掘り出されていくようだったという。ミケランジェロは言う。石をじっと観察していると、石がこう彫ってくれと語りかけてくるような気がする、と。頭の中から完成している音楽を取り出して書き間違えることなく楽譜に書き付けていったモーツァルトと同じタイプの天才だったようだ。習字で何も考えず書き始めたらスペースが足りなくなって最後の文字がちっちゃくなってしまう凡人とは違うのだ。
 出来上がった像をどこに置くかでひと悶着あった。ミケランジェロとしては最初から外に置くことをイメージして作っていたので、シニョリーア広場に置くと言ってきかない。対して設置委員会のひとりだったダ・ヴィンチは、貴重なものだから美術館の中に設置すべきだと主張した。この二人、たいてい子供のケンカのようになる。結局は制作者であったミケランジェロの意見が通って外に置くことになるのだが、雨風に晒されたり暴徒に腕を砕かれたりして痛みが激しくなったので、19世紀になってアカデミア美術館を作ってそこに置かれることとなった。現在、シニョリーア広場にあるものはレプリカだ。仏作って魂入れず。コピーがどれだけ精巧だとしても、本物とはまったくの別物だ。もちろん、イタリア村のものも感じるものはない。
 ダビデ像はミケランジェロの他にも、ドナテルロとヴェロッキオが作ったものが残っている。それらはかなりイメージが違う。そもそもハダカじゃなく服を着てるし。ミケランジェロはとにかくハダカ好きで、絵も必要以上にハダカを描いていたりする。
 ダビデというのは、紀元前1,000年頃の古代イスラエルの2代目王とされている人物で、全イスラエルを統一した国王だ。王の規範ともされていて、救世主(メシア)はダビデの系統から生まれるとされ、イエス・キリストもダビデの子孫ということになっている。ミケランジェロのダビデ像は、ゴリアテ軍との対決のときの様子を彫ったものだ。だから考えてみるとハダカというのはすごく不自然だ。決戦の前だったか後だったかの論議があったりしつつ。
 ユダヤ教の象徴であり、イスラエル国旗にも入っている六芒星(ヘキサグラム)のマークは、ダビデの星と呼ばれている。

 1475年3月6日、ミケランジェロ・ブオナローティは、トスカーナ地方のカプレーゼ村で次男坊として生まれた。父親はフィレンツェ政府から村に派遣された役人だった。
 母親が病弱だったため、1歳で石工の家に預けられることになる(母親は6歳のときに亡くなる)。小さい頃から絵を描くのが好きで、学校では勉強もせずにいつも何かを描いていたそうだ。
 13歳のとき、父親の反対を押し切って美術の道に進むために工房に入った。すぐに才能を認められ、当時フィレンツェを支配していたメディチ家に呼ばれ、屋敷に住むことになる。
 そから先は、89歳で死ぬまで、常に芸術と共にあった。いろいろなことがあって、苦労もしただろうし、時代も移り変わっていたけど、ミケランジェロの一生は幸せなものだったと思う。いつも誰かに乞われ、注文を受けて仕事をする人生だった。何もかもひとりでやらないと気が済まないという性格が孤独に追い込んだとしても、才能を認められ、好きなことを一生続けることができた人生に文句を言ったら罰が当たる。ダ・ヴィンチは67歳で死に、ラファエロは37歳で死に、ミケランジェロは生き残った。
 絵画としては、天井画の「最後の審判」や「アダムの創造」などのフラスコ画を残している。ただ、本人はあくまでも彫刻家という自覚があったようだ。絵画と彫刻とどっちが上かというダ・ヴィンチとの論争でも彫刻こそが芸術の頂点だと言っている。ダ・ヴィンチ程度の絵ならうちの使用人でももっと上手く描けるとも。
 その他、サン・ロレンツォ教会図書館、サン・ピエトロ大聖堂、ファルネーゼ宮増築の建築家でもあった。彫刻としては、死んだイエスを抱きかかえながら嘆くマリアの像「ピエタ」をいくつも彫っている。

 ミケランジェロ広場に立つと、フィレンツェの市街地を一望することができるという。そこからは、サンタ・マリア・デル・フィオーレも見えるはずだ。フィレンツェのドゥオーモは恋人たちのドゥオーモ。そう、映画『冷静と情熱のあいだ』に出てきたあのドゥオーモのクーポラだ。つきあい始めて間もなかった大学生の順正とあおいは、10年後のあおいの誕生日にクーポラで再会を約束する。その後二人は別れ、そして10年の歳月が流れる。私は誰が何を言おうとあの映画が大好きだ。あの作品に関しては個人的な思い入れが強すぎて、あまり人と話したくないくらいに。
 もし、自分の命が残り3日だと分かったら、私はきっとあそこへ行くだろう。ドゥオーモのクーポラから見下ろす夕暮れ時のフィレンツェの街並みは、最後に目に焼き付ける景色にふさわしい。できることなら愛する人と、462段の階段を自力で上れるくらい元気な間に、ケリー・チャン似の人なんて贅沢は言わないから、竹野内豊気分で行きたい。
 いや待て、考えたら何も死ぬ3日前じゃなくてもいいではないか、なんなら明日だっていい。そうなんだ、それは言える。それじゃあ、まずは格安チケットと宿を探さねばなるまい。デジとレンズは何を持っていこうか。って、そうなると、とたんにロマンチックじゃなくなくなるからイヤだ。やっぱりフィレンツェのドゥオーモは死ぬ前に限る。あの世からのお迎えは3日前に知らせてもらえるようお願いしたい。


光と風と変化と---モネが見た睡蓮とぬっくん疑惑 2006年12月20日(水)
2006年12月21日 (木) | 編集 |
冬の温帯スイレン

Canon EOS Kiss Digital N+TAMRON SP 90mm(f2.8), f5.6, 1/100s(絞り優先)



 へー、冬でもスイレンって普通に咲くものなんだ。
 ときどき自分で自分のお間抜けさにあきれることがあるけど、このときもそうだった。冬にスイレンが咲くかよ。どう考えても温水だろう。ぬくみずじゃないぞ、おんすい、だ。ああ、そうか、温水ね、だから冬でも外で咲けるんだね。
 冬の東山植物園で、ひとりヤヌスの鏡の芝居をする私であった。
 実際に水を触って確かめたわけではないけど、おそらく温水なんだと思う。そうじゃなければ、この時期こんなに花は咲いてないはずだ。それとも、今年は暖かいし、日本の風土に慣れてこれくらの寒さならへっちゃらで咲けるように進化したのだろうか。ぬっくんなんてお呼びじゃない?

 スイレンというとなんとなく東洋的なイメージがあるけど、実際はエジプトなどが原産で、世界の熱帯や亜熱帯にかけて広く分布する異国の花だ。日本には白くて小さなヒツジグサ1種が自生しているだけで、世界では40種類ほどの原種が知られている。品種改良も、日本よりもむしろヨーロッパで盛んに行われているそうだ。
 睡蓮は大きく分けると温帯性と熱帯性があり、温帯は欧米や日本でよく流通するもので、熱帯は東南アジアなどで出回っている。日本に入ってきたのは明治になってからで、大正から昭和にかけて少し流通したものの、第二次大戦で多くの原種が失われていったん下火になったあと、戦後しばらくしてからまた復活していった。熱帯魚ブームなどもあり、熱帯性のスイレンもたくさん入ってきている。
 温帯と熱帯の違いは、熱帯の方が水面から高々と顔を出して咲いているので分かる。根っこの形も違う。温帯性はすべて昼咲きで青や紫がなく、熱帯性にはナイルのほとりに咲く青いスイレンがある。古代エジプトでは、太陽の花と呼ばれる青いスイレンと、夜に咲く白いスイレンがあったという。エジプト人はスイレンを神聖なものとして大事にしていた。食卓に飾って姿だけでなく香りも楽しんだと言われている。
 お釈迦さまのスイレンは温帯性で、モネが描いたのも温帯性だ。エジプトの壁画には熱帯性のスイレンが描かれている。
 学名のニンファエア(Nymphaea)はラテン語で妖精を意味する。ヨーロッパなどでは妖精のイメージで捉えられてるようだ。
 日本の漢字では睡蓮となる。これは午後になると眠るように花を閉じるところからきている。イメージは眠り姫といったところだろうか。ヒツジグサは羊に似てるからではなく、未の刻に咲かせるところから来ているので未草となる。
 ヨーロッパではハスとスイレンをあまり厳密に区別してないようで、ひっくるめてロータスと呼んでいる。ロータス・ヨーロッパ・スペシャルだ(?)。アメリカでは、ハスがロータスで、スイレンはウォーターリリーになる。
 品種改良が盛んに行われるようになったのは比較的最近のことで、19世紀のフランスを中心にブームとなった。現在はアメリカ、イギリスなどでも専門家や愛好家が多いそうだ。アジアではタイでたくさん栽培されているらしい。
 近年は日本でも家庭でスイレンを育ててる人が増えている。関東から西では温帯性のものは越冬できるんだとか。

黄色スイレン

 スイレンというと、やはりモネの睡蓮を思い浮かべる人が多いだろう。睡蓮といえばモネ、モネといえば睡蓮というのは加藤芳郎キャプテンでも出さないくらい見え見えの連想だ。これなら江守徹でも正解できる。
 光のマエストロと呼ばれたクロード・モネは、晩年、何枚も何枚もジヴェルニーの池に浮かぶ睡蓮を描き続けた。描こうとしたのは睡蓮ではなく、時間や季節とともにとどまることなく移りかわっていく光と色の変化だったにしても、睡蓮が好きというのも当然あったのだろう。モネの生きた時代は、フランスにおける睡蓮の品種改良ブームの時期と重なる。
 1840年にパリに生まれたモネは、迷うことなく10代から画家を志した。しかし、印象派という新しすぎる画法は、当時の画壇に長く受け入れられることがなく、さんざん叩かれ相手にされなかった。印象派という呼び名は、モネの画『印象、日の出』から来ている。
 それでもモネはめげることなく自分の信じる画風で描き続けた。のちに印象派の画家と呼ばれるルノワール、セザンヌ、ゴーギャンたちはそれぞれ印象派を脱却して独自の画風を確立していったのに対して、モネだけは死ぬまで印象派であり続けた。
 貧乏暮らしの中でも妻のカミーユと息子のジャンという愛する家族がいて、モネの絵はいつでも明るい。特にカミーユとジャンを描いた『日傘をさす女』は、優しくて柔らかい光に包まれていて、見る者に向かって幸せな風が吹いてくるようだ。私はモネの絵の中でこれが一番好きだ。
 しかし、モネが38歳のとき、カミーユは32歳で死んでしまう。ベッドの中のカミーユを描いた『死の床のカミーユ』は、胸を打つ。青灰色で塗り込められた世界は、死そのものだ。見ること、観察することに生涯徹底的にこだわり抜いたモネだから描けたこの絵は、いいも悪いも突き抜けて、ただそこに存在している。カミーユの死に顔と共に。

 86歳まで生きるモネの生涯は、ここではまだ半分でもない。早くからモネの支援者だったオシュデの未亡人アリスと6人の子供と共に、各地をさまよい歩きながら絵を描き続けた。移り変わる光を追い求めて、何度も同じ風景を描き、やがてアリスとの結婚で大家族に囲まれ、また描き、そうやって自己を再生させながら、本当の意味で光を捕まえられるようになっていった。時代も変わり、ようやくモネの絵は認められるようになっていく。50歳のことだ。
 他の印象派の画家と同じく、モネも日本の浮世絵から多くの影響を受けた画家のひとりだ。その色づかいや大胆な構成にインスピレーションを得ていたという(大きな影響を与えたのが広重の「名所江戸百景・亀戸天神境内」だと言われている)。モネは特に日本のことも好きだったようで、日本風の庭園には藤を植え、池には太鼓橋を架け、インテリアは浮世絵に合わせた色づかいをしていたそうだ。
 睡蓮を盛んに描き始めたのはモネが57歳くらいの頃からだった。来る日も来る日も睡蓮の池の前に座り、光のある朝から日没まで描き続けた。捉えたかったのは、水面に映る光と色と変化だったのだろうか。モネは一瞬を切り取って定着させようとはしていない。絵の中に定着させようとしたのは、あくまでも変化そのものだった。だからいつも光が踊り、風が吹いている。水面というのはそういう意味で変化の象徴だったのかもしれない。
 生涯に描いた睡蓮の絵は200枚を超えている。

 以前、私が一番好きな画家はスーラだった。けど、今スーラの絵を見ると、すごく暗い。こんなに暗い絵だったのか驚くほどに。今はもっと明るい絵が好きだ。モネも前より好きになった。
 世界は光であり、光は色だということをモネがあらためて教えてくれる。そして、世界の本質は変化だということも。
 写真を撮っていると、光のありがたみを痛感する。光のない写真はどこか物足りなくて、光があるだけで平凡な風景が非凡なものとなる。だからいつでも光が欲しいと願ってしまう。けど、その前にもっときちんと光を捉えられるようにならなくてはいけない。そのためには、モネが言うように徹底的に観察することだ。光が見えたとき初めてシャッターを切るくらいにならないといけないのだろう。
 見る人の心に、明るくて穏やかで優しい光が差し込むような写真が理想だ。私もいつか、「日傘をさす女」を撮りたい。日傘の似合う人を募集してます。
 さあ、私たちも光を求めて太陽の下に繰り出そう。草原に、川に、池に、海に、街の中に、愛する人と共に。そこには風も吹いているだろう。とどまることなく移りゆく時間の中で、手を伸ばして一瞬を捕まえよう。それはもう二度と帰ることのないただ一度の一瞬だ。


小松未歩に関する自分のための覚え書き、あるいは宣伝 2006年10月7日(土)
2006年10月08日 (日) | 編集 |
小松未歩についての覚え書き

OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/40s(絞り優先)



 小松未歩はどの程度マイナーなんだろう? という素朴な疑問がある。どれくらいメジャーなんだろうという問いよりもマイナーさ加減が気になったりする。J-POPをよく聴く人でも、もしかしたらもう忘れてしまった人が多いんだろうか。アニメ「名探偵コナン」の主題歌を歌ってた人、というくらいの認識の人もいるかもしれない。そういえば昔いたよね的な人もいるだろう。
 私の中で小松未歩の存在は、もはや揺るぎがないほど確固とした地位を確立していて、1997年のアルバム『謎』以来、10年近くもメイントリームであり続けている。この間、いろんな女性アーチストの曲も聴いてきた。ELT、ZARD、aiko、misia、MY LITTLE LOVER、GARNET CROWなどなど。けど、結局最後に残ったのは、小松未歩だけだった。
 今日はそんな小松未歩について、自分のための覚え書きを兼ねて少し書いてみようと思う。小松未歩って誰だよぅ、って人はまずファーストアルバム『謎』をレンタルして聴いてみてください。なんなら私が全曲耳元で歌ってあげてもいいです。

『謎』というアルバムにはその後の小松未歩のすべてのエッセンスが詰まっていると言っても言い過ぎではない。もし、これを聴いて何も感じるところがなければ、その人の人生に小松未歩は必要ないということだ。私としては残念だけど、悲しむべきことではない。逆に、少しでもいいと思えば、ぜひ2枚目以降も聴いて欲しいと思う。
 ある意味では彼女はこのアルバムをいまだ超えられてないと言えるかもしれない。成長はしてるし、広がりも見せてるし、深みも増してるけど、アルバムとしての絶対的な力強さという点では、この作品が今でも最高の完成度だと私は思う。太宰治が言ったように、「すべての作家は処女作に向かって成熟していくしかないのだ」ということになるだろうか。
 今聴くと若さゆえの青臭いところが少しつらく感じたりもするけど、「傷あとをたどれば」、「輝ける星」、「alive」、「錆びついたマシンガンで今を撃ち抜こう」、「青い空に出逢えた」、「この街で君と暮らしたい」、「君がいない夏」へとたたみかけるように続く名曲群は今でも色あせていない。歌詞における言葉選びとドラマの構成が素晴らしい。この時期の小松未歩には天才性すら感じた。

 ファーストアルバムで期待の新星として注目され、短期間で地位を築いて出したのが2枚目のアルバム『未来』だった。「チャンス」、「氷の上に立つように」、「願い事ひとつだけ」など、「名探偵コナン」のテーマソング歌手のようになっていった時期だ。しかし、そういう表でのヒットとは裏腹に、このアルバムの出来は良くなかった。一枚目ですべてのエッセンスを出し尽くして早くも枯れてしまったのではないかと思わせるほどに。
 曲としてはいい曲も何曲かある。「手ごたえのない愛」はよかったし、「Deep Emotion」や「涙」など重くて暗い曲調の流れが生まれたのもこのアルバムだった。その後、明るい調子と暗い調子の2つの大きな流れが小松未歩の基調となる。同時に、少しずつ飾らない素の部分も出てきて、「静けさの後」の中の「この次は 首をへし折ってやる 覚えとけ」なんて歌詞は面白い。ラブソングの中にこういう言葉を織り込めるのも彼女の魅力のひとつだ。関西生まれということもあるかもしれない。
 3枚目の『everyehere』は全体的にハズレが少ない粒ぞろいのいいアルバムになった。2枚目のアルバムが難しいのは誰にとっても言えることで、1枚目はそれまで生きて経験してきたことすべてを詰め込めるけど、2枚目はプロとしての作品作りを短期間で要求されるから、内容が薄くなるのは必然だ。無数のアーチストが毎年デビューする中で、生き残れるかどうかを決めるのは3枚目のアルバムの出来次第と言えるのかもしれない。そして、小松未歩は見事に答えを出して見せた。
「BEAUTIFUL LIFE」、「AS」、「夢と現実の狭間」、「No time to fall」、「BOY FRIEND」、「さよならのかけら」、「雨が降る度に」など、いい曲が多く、ヒット率では全アルバムの中でこれがベストだろう。明るい曲調も増えて、想像するにこの時期は彼女にとって幸福な時期だったのかもしれない。本人にとってもこのアルバムの完成で大きな手ごたえを掴んだんじゃないだろうか。
 4枚目の『A Thousand feelings』はまた少し低調になる。ファイナルファンタジー・シリーズのように出来の良し悪しがジグザグする感じだ。3枚目を更に発展させて自分の世界を築き上げようとする半面、やや行き詰まりを感じていた時期だったのか。
 5枚目の『source』を作る前なのか作ってる途中なのか、何か弾けたというか突き抜けたものがあったようだ。ここでまた一気に広がりつつ深まった感がある。才能の二段ロケットが発射したみたいに。
 多様な恋愛観と言葉づかい、そして様々な曲調。暗いものから明るいもの、したたかだけど可愛い、恋の喜びと失恋の痛み、そんな相反するものを同時に見せるというプロとしての方法論みたいなものもここで確立された。ただ、あまりにも恋愛だけに絡め取られていて、歌われる世界観としては狭くなっていってしまったのは残念なところだ。私がファーストアルバムで感心したのは、地球や宇宙というものを意識した恋愛観や世界観を描ける希少な女性アーチストだと思ったからだった。すべてがラブソングというのはちょっと違うんじゃないかなと思い始めたのもこのときからだった。

 ジグザグの法則からいくと次の6枚目は出来が良くないことになる。そしてやっぱり実際そうだった。偶数が低調というところまでファイナルファンタジーと同じだ。
 ただ、全体として穏やかな曲調が多くて、そういう部分での成熟を感じさせる。まだベテランとは言えなくても、6枚目となれば完全にプロ意識として作ってるわけで、言うまでもなく平均点以上は楽に超えている。ややクルージングに入ったと言えばそう言えなくもないのだけど。
 7枚目『prime number』。うーん、さすが、小松さんとうなってしまう。2枚続けて不作じゃないところがやっぱりすごい。本気になればこれくらいは楽勝よ、って言われてるみたいで、参りましたと頭を下げるしかない。
 あまりにも自分の恋愛感情に囚われすぎていて、聴き手さえ息苦しくなるような曲が続いた中、「ひとは大昔 海に棲んでたから」や「故郷」で少しだけ恋愛から離れて、久しぶりに世界の広がりも感じさせてくれた。「恋心」、「東京日和」などは素晴らしい。特に「東京日和」は、東京を舞台にした上質な恋愛映画の主題歌として使って欲しいと思う。作品の内容と合えば、映画と曲の幸せな出会いとなるに違いないから。
 最新となる8枚目の『a piece of cake』は、やっぱりかという悪い予感が当たってしまった。まださほど聴き込んでないということはあるにしても、心の深いところまで届いてくる曲が少ない。「向日葵の小径」はいいし、「deep grief」は好きだけど、新しさというのがあまり感じられなかった。
 法則でいくと9枚目はまたいいのを作ってくれるだろう。そして、ファイナルファンタジーにならうなら、10作目に史上最高傑作を作ってくれることを個人的に期待している。もう偶数は駄目だなんて言わせないようなものを。
 まだまだ小松未歩は終わってなんていないし、このままマイナーに沈んでいいような才能ではない。きっとまた、世間は彼女を再発見することになるだろう。ヒットすることがすべてじゃないし、広く世間に知られることが成功でもないけど、もっと一般的に高く評価されるべきだと私は思っている。才能でいけば、現役の女性アーチストの中で間違いなくトップクラスなのだから。

 最後に、個人的なベストテンを書いておこう。忘れっぽい私自身のために。
「恋心」
「東京日和」
「向日葵の小径」
「でも忘れない」
「regret」
「commune with you」
「AS」
「夢と現実の狭間」
「特別になる日」
「君がいない夏」

 といった感じになるだろうか。その他、好きな曲はこのあたり。
「Deep Emotion」、「No time to fall 」、「手ごたえのない愛」、「さよならのかけら」、「哀しい恋」、「deep grief」、「約束の海」、「ふたりの願い」、「楽園」、「Last Letter」、「I 〜誰か...」、「傷あとをたどれば」、「涙」、「BOY FRIEND」、「雨が降る度に」、「ただ傍にいたいの」、「幸せのかたち」、「gift」、「dance」
 以上、小松未歩に関する自分のための覚え書きを、おすすめの言葉に代えさせていただきます。ご静聴ありがとうございました。




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