現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
小田井神社仏閣巡りは謎の多い星神社から始まる
2008年07月19日 (土) | 編集 |
小田井の神社仏閣1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 昨日から始まった小田井散策シリーズ。今日は上小田井地区の神社仏閣をいくつか紹介しようと思う。
 まず最初に行ったのが、星神社というところだった。けっこう珍しい名前かと思ったら、全国に同じ名前のところがいくつかある。名前からすると、やはり星に関する神社が多いのだろう。小田井の星神社も織姫と彦星の他、星の神とされる天香香背男(アマノカカセオ)を祀っていることから、この名前がつけられたようだ。
 かつてはどれくらい境内が広かったのかは分からない。現在は庄内川の堤防沿いにこぢんまりとある。境内の入り口としては、堤防の上からということになるだろうか。
 庄内緑地の北に位置していて、横までは車で入っていける。駐車場はないものの、短時間なら路上駐車も大丈夫そうだった。

小田井の神社仏閣1-2

 鳥居をくぐると、本殿の前に蕃塀(ばんぺい)がある。これってときどきあるよなぁと思いつつ、そのときは特に気にもしなかった。
 帰ってきてから調べてみると、透垣(すいがい)ともいい、東海地方特有のものなんだそうだ。個人的には津島神社の印象が強い。
 これがあると、横から回り込まなくてはいけないから、ちょっと邪魔だなと思うこともある。そうやって悪霊とかを防いでいるのだろうか。どういう理由でこういうものがあるのかよく分からない。全国共通ではなくこの地方にしかないのはどうしてだろう。
 またどこか他のところで見かけたら、紹介しつつ、そのときはもう少し詳しく調べたい。

小田井の神社仏閣1-3

 手水舎の水を飲んでいたヒヨドリ。私が近づいたら逃げていった。さかんに毛をバタバタさせていたから、水浴びでもしてたのかもしれない。鳥だって夏はきっと暑い。

小田井の神社仏閣1-4

 長い拝殿と、奥が本殿。こういう渡り廊下とか回廊のような感じは好きだ。神社特有の静謐さのようなものを感じる。

小田井の神社仏閣1-5

 創建年は不明ながら、山田郡坂庭神社として延喜式に載っていることから、平安時代からあったということになる。一説では、小牧市の坂庭神社が延喜式の神社で、ここはその流れを汲むところともいわれている(論社)。
 880年頃、大江音人(おおえのおとんど・貴族学者)の子孫によって社殿が建てられ、1280年にこの地方で起こった戦によって全焼し、その60年後、右近中将藤原朝臣実秋によって再建されたという。
 いつどうして星神社という名前になったのかは、よく分かってないようだ。
 祭神は、大国主命(オオクニヌシノミコト)だから、直接星には関係ない。オオクニヌシは、天の神アマテラスに対する地の神の代表で、出雲大社の神としても知られている。スサノオの子供(または子孫)ともいわれ、一般には国造りや農業、商業の神様とされる。
 星と関係があるのは、天香香背男だ。天の神が天孫降臨して地上を支配下に納めたとき、最後まで抵抗して屈しなかったのが天香香背男だと言われている。
 この神を祀っているいる地方は限られていて、茨城、千葉などの関東と中部、中国、四国、九州に多く、その他の地域はほとんどない。
 大和朝廷に抵抗した勢力の象徴ともされ、大和朝廷側からは悪い神とされていたのだとか。
 七夕でお馴染みの牽牛星と織女星がどういう経緯で祀られるようになったのかもよく分からない。ここでは毎年8月7日に七夕祭りが行われている。旧暦の7月7日は年によって違ってくるのだけど、今年はたまたま8月7日が旧暦の7月7日に当たる。2007年は8月19日だったし、2009年は8月26日だから、今年はいい年と言える。
 伝統行事としてなかなか盛り上がりを見せるようで、今年も8月7日には願い事が書かれたたくさんの短冊が境内に吊されることになるだろう。

小田井の神社仏閣1-6

 横にはお稲荷さんも祀られていた。

小田井の神社仏閣1-7

 屋根に何か乗っている。最初、ゾウか何かだと思った。神話上のゾウかなと。けど、よくよく見てみると、獅子が逆立ちしている姿を描いたもののようだ。何故こんな格好をしているのかは分からない。この神社はいろいろと謎が多い。

小田井の神社仏閣1-8

 神社の外には御嶽山をかたどった塚のようなものがあった。御岳信仰の表れなのだろうけど、星神社と関係があるのかどうかは不明だ。

小田井の神社仏閣1-9

 少し北にある大聖院を訪ねてみた。しかし、そこには民家しかない。地図上では確かにここなんだけど。
 門から中をのっとのぞき込むと、大聖院と表札が出ている。ああ、やっぱりここなんだ。
 でも、とても入れるような雰囲気ではなかった。横と後ろに回り込んでも入れそうな感じはない。

小田井の神社仏閣1-10

 玄関前には本尊地蔵大菩薩と書かれた木札がかかっていて、横には小さな鐘もある。やっぱり間違いなさそうだ。本気でお参りにいく気があるのなら、ごめんくださいと玄関をノックすれば入れてくれるのかもしれないけど、私はここまでだった。
 1549年に織田又六郎信張(のぶはる)が創建した寺で、本尊の地蔵菩薩は小田井城の護持仏堂にあったものとされる。
 織田信張は、小田井城主・常寛の孫で、織田三奉行の一人として、信長の下で戦った。

小田井の神社仏閣1-11

 隣にあったのは、諏訪社だろうか。
 祭神は建御名方神(タケミナカタノカミ)で、大国主の子とされている。軍神として知られ、長野県諏訪湖にある諏訪大社に祭られている他、全国に諏訪神社はある。これもその一つだろう。

 小田井神社仏閣巡りの第一弾はこれくらいにしておこう。もう1回では終わりそうにないから、あと2回はある。ただ、週末遠出して、帰ってきたら新しいシリーズが始まるから、小田井散策シリーズはしばらく中断することになりそうだ。
 明日は簡単更新で、あさって日曜はお休み。再開は月曜を予定している。


浅野祥雲コンクリ像は尾張旭の山の上に人知れずどんと立つ
2008年07月16日 (水) | 編集 |
尾張旭弘法-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 そのコンクリ仏像との出会いは偶然だった。尾張旭の神社巡りをしている途中、地図に愛宕大師の文字を見つけて、ついでに寄ってみるかという軽い気持ちに過ぎなかった。行ってみると、小高い丘の上に巨大な弘法さんがそびえ立っているではないか。こんなものがここにあるとはまったく予期していなかっただけに、驚き、のけぞった。
 これだけ尾張旭に昔からちょくちょく行っているのに、この存在は全然知らなかった。家に帰ってきてから調べてみると、知る人ぞ知るB級珍スポットとして、わりと知られたところのようだ。そのゆえんはやはり、この大きなコンクリートの弘法さんにある。
 五色園、桃太郎神社、関ヶ原ウォーランドと、キーワードを並べれば、ああ、あの人の作品かと気づく人もいるだろう。中部地方を中心に数々のコンクリート人形作品を残した浅野祥雲(あさのしょううん)その人の作だ。台座を含めると10メートル近い弘法像は、浅野祥雲が手がけた最も大きな像とされている。
 五色園を二度訪れている私でさえこの像のインパクトにはのけぞったくらいだから、浅野祥雲初心者が受ける衝撃はいかばかりか。

尾張旭弘法-2

 脇に回ってみると、なるほどこれは浅野ワールドだと思わせるコンクリ像たちが立ち並んでいる。これを見たとき、なんか、似たものをどこかで見たことあるなと思ったのだった。
 五色園では親鸞聖人の教えやエピソードをコンクリート像で再現した等身大(というより1.5倍くらい)のジオラマとなっているのだけど、こちらはわりと普通に立っていて、サイズも小さめだ。
 不動明王像と立て札があるから、真ん中がそうに違いない。背負っている炎(光背)が真っ赤に燃えているように表現されているあたりがいかにも浅野作風だ。
 流れる滝は何を表現しているのだろう。左右は誰なのか。不動明王にこんな付き人いたっけな。
 不動明王はインドで生まれた神様で、大日如来の化身とされている。どんなに俗にまみれた人間も力ずくで救おうとするあまり怒ったような表情として描かれることが多い。日本へは弘法大師空海が密教とともに持ち込んだとされている。

尾張旭弘法-3

 もう一方の脇には黄金のお釈迦様がいる。こちらもさほど大きくはない。
 しかし、この組み合わせはどうなんだ。中央に巨大な弘法大師が立っていて、左右で不動明王と釈迦如来が脇を固めるというのは、バランスとしてちょっとおかしいようにも思うのだけど、これはこれで成立しているのか。浅野祥雲が自分の熱い思いをぶつけた結果こうなったのか、依頼通り忠実に作ったのか、そのあたりの詳しいところまでは分からない。
 作られたのは昭和6年(1931年)で、浅野祥雲40歳の初期の作品だ。なんでも、瀬戸電気鉄道が観光用に作ったのだという。近くを走る鉄道の乗客を増やそうという目的だったようだ。できた当時は大変な話題となり、お祭りの日には身動きが取れないほどの人出だったとか。
 戦後は客足がばたりと止まり、現在は訪れる人もめったにないような珍スポットとなっている。ただ、これをちゃんと守っていこうという地元の人たちの活動もあり、建立80年に向けて今寄付金を集めているところだという。弘法像もだいぶ老朽化が進んで、補修や塗り直しが必要な時期に来ている(昭和30年に一度塗り直しをしているようだ)。

尾張旭弘法-4

 引いてみると、シュールさがいっそう際立つ。
 左側の建物は、拝殿兼集会所のようになっていて、屋根がついているから雨の日でも弘法さんを拝むことができる。

 浅野祥雲は、明治24年(1891年)、岐阜県の農家の三男坊として生まれる。父親が農業のかたわら土人形を作る作家で(足助の土雛として紹介したようなやつだろう)、祥雲も子供の頃から土人形作りには親しんでいたという。
 しかし、土では大きな人形は作れない。自分はもっと大きな人形を作りたいんだ、そうだ、コンクリートならできるかもしれないと思い立ち、33歳のとき名古屋に出てきた。当初は映画館の看板を描いたりして生計を立てていたようだ。
 それから数年の間にどうやってコンクリート人形作家としての地位を築いたのかはよく分からない。尾張旭の弘法さんを作ったのは40歳で、趣味として作ってる人にこれほど大きなものを依頼しないだろうから、その数年前にはすでに名前が売れていたということだろう。
 昭和53年に87歳で亡くなるまで、数々のコンクリ像を作ったとされているが、その全貌は明らかになっていない。現在残されている代表的な作品としては、関ヶ原ウォーランド、五色園、桃太郎神社、中之院軍人墓地などがあり、かつては関東などからも依頼があり、作ったとも言われている。噂では朝鮮半島にも浅野作品はあるらしい。
 制作費が安くて、ときには無償で提供したというから、さすがこの道の第一人者。他の追随を許さない。もしかしたら、あなたの街にも浅野祥雲作のコンクリート人形がいるかもしれない。

尾張旭弘法-5

 弘法さんたちがいる右手には、御岳山(みたけさん)遥拝所と書かれた木が立っている。更に左手にいくと、下に民家があってそちらに続いている。行きすぎないところで視界を確保して、御岳山を拝んでみることにする。

尾張旭弘法-6

 って、ホントに見えるのか!? 御岳山といえば、古くから山岳信仰で知られる霊山だけど、あるのは東京都の青梅市だ。標高も929メートルしかない。真冬の一番空気が澄んだときでも見えるような気がしないのだけど、実際見えるんだろうか。こっちの方角にあるから、気分だけでも拝んだ気になるということか。

<追記>
 コメント欄で教えていただいたように、これはやっぱり木曽の御嶽山(おんたけさん)のことのようですね。確かに御岳山とも書くけど、紛らわしいから、正式に御嶽山と表記して欲しいところ。
 御嶽山なら天気がよければ充分に拝めるはず。

尾張旭弘法-7

 南側は視界が開けていて、尾張旭や瀬戸の街並みが一望できる。高いところにいる弘法さんが見下ろしている風景もこれと同じものじゃないかと思う。きっと尾張旭を見守ってくれているのだろう。

尾張旭弘法-8

 愛宕山大師をあとにして山道を行くと、水野又太郎良春の墓という案内標識が出ている。
 水野又太郎良春といえば、かつてこのあたりを支配していた武将で、尾張旭新居の基礎を作った人物でもある。せっかくだから寄って挨拶していくことにしよう。

尾張旭弘法-9

 お墓へ向かう途中、山の中のすごいロケーションに一軒の家があった。すごい場所に住んではるなぁと感心してしまうような場所だ。意外と家の裏手は開けているのかもしれないけど、それにしても隣近所はなさそうだ。
 緑の草木に囲まれて、夢の中に出てくる幻の家のようでもあった。モミジの木がたくさんあったから、紅葉の季節はまたすごくいい雰囲気になるんじゃないだろうか。そのときまで覚えていたら見に来ようと思った。

尾張旭弘法-10

 これが水野又太郎良春の墓とされる宝篋印塔(ほうきょういんとう)だ。左側に三基並んでいる塔の中央が良春の墓で、左右のどちらかは息子兼春の妻・松木てつのものとされている。
 右手前にあるのは、愛宕神社の祠だ。どれもかなり荒れている。塔は上の部分はなくなってしまっている。
 水野又太郎良春は守山区志段味生まれの室町時代の武将で、奈良の吉野金峯山寺(よしのきんぷせんじ)で修行をして僧兵となり、金峯山寺の僧兵の頭にまでなった人物だ。南北朝時代には南朝について戦ったものの、どうやら南朝に未来はないと気づいて故郷に戻ってきたのち、尾張旭に移り住んだ(1361年)。新たに居を構えたことから新居と呼び習わされ、それがそのまま地名として現在も残っている。
 ここから少し西へ行ったところにある城山は、新居城があった場所で、水野又太郎良春から4代目(または5代目)の水野雅楽頭宗國(みずのうたのかみむねくに)が築城したとされている。新居城は跡地として少し残っているものの、建物などの遺構はない。城といっても戦国時代のような天守を持つものではなく、砦と屋敷を兼ねたようなものだったのだろう。城山にあるお城もどきは城レストランと展望台で、復元でもなんでもない。
 ちなみに、尾張旭の無形文化財として伝わる棒の手の無ニ流は、良春が法名として無二を名乗っていたところから来ている。実際の無二流創始者は、息子の嫁の松木てつだと言われている。息子が大峰山で修行中に病にかかり、それを看病にいったついでに自分も修行をして棒術を会得してしまったというすごい母だった。息子の心道が若くして亡くなり、その遺志を継いで、新居で棒術を広めたものが今に伝えられている。

尾張旭弘法-11

 愛宕山の入り口には安生山退養寺(たいようじ)というお寺がある。愛宕山もこの退養寺の敷地内にあるから、弘法像も退養寺の管轄ということになるのだろうか。コンクリの弘法さんも、厄除弘法大師という正式名を持っている。尾張国三大弘法の一つというのだけど、残りの二つは知らない。
 退養寺は1361年に水野又太郎良春がこの地に移ってきたときに創建した寺で、江戸時代になってからは、尾張初代藩主・徳川義直がこのあたりで狩りをしていたことから、1667年に義直の命で再建されている。
 地元の人は尾張旭の東寺と呼んでいるらしい(西寺は洞光院)。
 臨済宗の禅寺で、定光寺に属しているそうだ。義直の霊廟が定光寺にあるから、そのあたりの関係だろうか。
 本尊は釈迦牟尼仏。

尾張旭弘法-12

 門をくぐって本堂を見ると、なんじゃこれと思う。室町時代に創建された歴史のある寺という面影はどこにもなく、白塗りコンクリート造りの建物は新興宗教の本部みたいだ。
 昔はこんな本堂じゃなかったはずだけど、いつどんなきっかけでこんなことになってしまったのだろう。本堂は何度も焼けているというから、懲りていっそのこと燃えないコンクリート造りにしてしまえということになったに違いない。
 現在の旭小学校は、明治6年に、ここの本堂を仮校舎として開校されている。

尾張旭弘法-13

 境内の全体を見渡してみると、田舎のお金持ちの家の庭みたいだ。立派な本堂といい、この庭といい、けっこうお金はありそうだから、弘法像くらいすぐに直せるんじゃないかと思ってしまう。このお寺とあの弘法像は管理が別なんだろうか。
 今はなき瀬戸電気鉄道が作ったものだとすると、瀬戸電を吸収した名鉄が金にならないことをするとも思えないし、そうなるとやはり近所の人たちで何とかするしかないのか。私の賽銭の10円ではペンキの一塗りにもならない。ペンキ塗りが趣味の私だから、塗らせてくれるなら喜んで塗るのだけど。

 こんなところにも展開されていた浅野祥雲ワールド。こうなったら、犬山の桃太郎神社も行っておかなければなるまい。紅葉のときに寂光院へ行くついでに寄るか。犬山といえば今年いっぱいで廃線になるモンキーパークのモノレールにも乗らないといけないから、いずれにしても一度は行くことになる。
 岐阜歴史巡りのときはもちろん、関ヶ原ウォーランドも立ち寄ろう。かなり毛色が違っている南知多の中之院軍人墓地のコンクリート軍人像も気になるところだ。
 浅野祥雲初心者は、ぜひ日進市の五色園から始めることをオススメします。あそこには浅野ワールドのエッセンスがすべて詰まっている。これでもかと繰り出されるめくるめくコンクリ像体験をあなたもぜひ。尾張旭の巨大弘法像もよろしく。


有名人が多数訪れる篠島は歴史探索の魅力がいっぱい <第三回>
2008年07月08日 (火) | 編集 |
篠島神社仏閣-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 篠島編最後は神社仏閣特集での締めくくりとなる。日間賀島同様、篠島も神社仏閣が多いところで、知多四国八十八ヶ所の一つ正法禅寺があり、お遍路さんも海を渡って訪れる。たいていは日間賀島とセットで回ることになるのだろう。
 寺社はすべて島の中央部分に固まっていて、一度に全部巡るのに都合がいい。私たちは医徳院をのぞく3寺、2神社を参拝した。医徳院がやや離れたところにあったため時間切れになってしまったのはちょっと惜しまれる。西方寺などを見つけるのに時間を食ってしまったということもあった。
 まずは東照山松寿寺から。ここだけ島の北東部分の高台にあって、他とは離れている。ただし、高速船乗り場がそちら側で、中心に向かう途中にあるから、問題はない。
 離れているといえば、この島は小学校と中学校が島の北と南にあって、えらく離れている。日間賀島では隣り合っていたし、それが普通だと思うのだけど、どうしてだろう。南にある中学は集落から離れていて通うのに遠そうだ。敷地の問題だろうか。

篠島神社仏閣-2

 民家とお寺の境内が渾然一体となっていて、境界線がない。境内に芝生を植えてあるし、花壇まで作っている。写真には写ってない場所も花壇になっていて、家の人なのか住職さんなのかが花の手入れをしていた。
 お寺を神域とみるかどうかでも感じ方は違ってくるのだけど、ここなどは完全に日常の空間になってしまっている。神社ではなくお寺だからこれはこれでいいのだろう。
 戦国時代の1542年に建てられた寺で、最盛期には末寺を六坊も有していたというから立派なものだ。西国の大名が篠島へ渡ってきたときはここが本陣として使われたそうで、かつては知多半島の三名刹と呼ばれていたんだとか。
 曹洞宗のお寺で、本尊は如意輪観世音菩薩。
 徳川時代のはじめに、山号を東光山と改めたところ、悪いことがいろいろ起こったため、島民が元に戻してくれとお願いして戻されたというエピソードがある。
 古い寺のわりには本堂が新しいと思ったら、昭和57年に屋根の葺き替えをしたそうだ。昔はどうだったか知らないけど、現在は銅版葺きになっている。

篠島神社仏閣-3

 高台に建っているから境内からの見晴らしがいい。サンサンビーチと海がよく見える。こちらは南東向きだから、海から昇る朝日が見られそうだ。

篠島神社仏閣-4

 次にやってきたのが正法禅寺。知多四国38番目の札所で、お遍路さんが訪れるのはこのお寺だ。
 創建は南北朝時代の1347年とも、1362年とも言われ、開基は説宗讃大和尚とされている。ここも曹洞宗のお寺で、静岡の袋井市にある可睡斎の末寺に当たる。
 島の言い伝えによれば、仙麟等膳和尚が駿府の今川義元の人質でだった徳川家康を救い出してこの島に渡り、70日間ここにかくまっていたという。こんなような伝説はいろいろあって、どこまで本当なのか分からないのだけど、家康と篠島の縁は確かにあって、1582年に医徳院で武運長久の祈願を行った他、何度か訪れているそうだ。まったく縁がない尾張の離島に何度もやって来るとは考えられないから、仙麟等膳和尚の話は実際にあったことなのかもしれない。
 仙麟等膳和尚(せんりんとうぜんおしょう)というのは可睡斎の11世で、家康が浜松城主になったとき昔の礼をするために城に呼んだところ、家康の前でこっくりこっくり眠ってしまったという和尚だ。その姿を見た家康は、「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、眠るべし」と語り、それ以来和尚は可睡和尚と呼ばれるようになり、寺の名前も東陽軒から可睡斎へと改められたのだった。
 1645年に金・銀・銅・鉄で鋳造された龍門の梵鐘というのがあるらしい。知ったのは帰ってきてからだった。普通に見られる場所にあったんだろうか。

篠島神社仏閣-5

 これは秋葉堂か、観音堂か、どっちだろう。
 可睡斎は秋葉山の総本山だから、正法禅寺も当然その関係があることになる。
 それにしても、お寺には似つかわしくないようなポップなのぼりが目についた。ここだけちょっとアキバっぽい。秋葉山だけに? それはないと思うけど。カラフルなのぼりにはコミックタッチの坊さんが描かれている。

篠島神社仏閣-6

 時間を気にしながら、次は寂静山西方寺へ。知多四国八十八ヶ所 の番外でもある。
 1516年に安誉上人が創建されたとされる浄土宗のお寺だ。伊勢神宮で火災があり、皇太神宮の鬼門に当たる篠島に、天皇の命令で善光寺如来の分身を安置するために建てられたのがこの西方寺だという。そのときの資材は伊勢神宮のものを使ったとも言われている。
 その善光寺如来像は武田信玄が慈覚大師に命じて作らせた金仏だという話がある。こんな尾張の外れの離島で、こうも次から次へと有名人の名前が出てくるとにわかには信じがたいのだけど、この島が長く伊勢神宮の領域だったことを考え合わせれば、それが信じる根拠となるかもしれない。もしかすると、篠島は日間賀島と同列に語るべき島ではないのか。
 信玄の嫡男の勝頼も、この寺をたびたび訪れたという。
 現在の本堂は1974年に建て直されたものなので、往事の面影はない。ごく普通のお寺だ。
 張り紙があって、何が書かれているのだろうと見てみると、「ネコが入りますから、戸はかならず閉めてください」とあった。猫くらい自由に出入りさせてあげる仏心が欲しい。

篠島神社仏閣-7

 八十八ヶ所お砂踏み霊場サミットのポスターを見つけた。そんなものがあるのか。世の中には自分の知らないところでたくさんのいろんなサミットが開催されている。
 知多四国霊場は日本三大新四国の一つで(あとの二つはポスターにもある篠栗と小豆島)、ここは弘法大師が41歳のときに歩いたと言われている。それから今年で200年ということで、様々な催し物が行われているようだ。記念グッズや特製の印などももらえるといって、2008年は知多のお遍路さんにとっては記念すべき年となっている。百年祭など、誰にとっても一度しか体験できないことだから、そりゃあ気合いも入ろうというものだ。今小学生くらいの子供がここで八十八ヶ所巡りをやっておけば、もしかしたら三百年祭のお遍路もやれるかもしれない。
 札所88、開山所3、番外札所7の合計98寺。全行程は約150キロ。これくらいなら車を飛ばせば3泊4日くらいで終わるんじゃないかと思うけど、お遍路というのはそんなものではないのだろう。全制覇することが目的なのではなく、歩きながら自分と向き合うことが大切に違いない。菅直人は自分を見つめ直せたのだろうか。
 まずは、やろうと思える心境になれるかどうかというのが大事なことで、始めたらもう半分やったようなものと言えそうだ。

篠島神社仏閣-8

 お寺巡りはこれで終わって、残すは神社二つとなった。まずは神明神社から。
 倭姫命が天照大神の鎮座すべき場所を探して諸国を巡っているとき、この島を訪れてたいそう気に入ったという話を前回、おべん鯛のところで少し書いた。そのときに荒御魂を祀るために荒御魂宮を建てたことが神明神社の始まりとされている。
 荒魂(あらみたま)というのは、神の霊魂の激しい側面をいい、平和な面を和魂(にぎみたま)という(読み方はいくつかある)。更に幸魂、奇魂というのもあって、それぞれを祀っているところがある。
 771年に土宮(つちのみや)を勧請して、神明社が建てられた。そのときは伊勢神宮の用材で建てられている。
 以降、神宮の式年遷宮のたびに古材をいただいて、神明神社も遷宮を行ってきた。伊勢神宮の次回62回遷宮が平成25年完成なので、ここの遷宮は平成26年以降ということになるだろう。
 かつては伊勢神宮にお宮参りをした人は、宮巡りといって篠島の神明神社も参る習わしだったという。それが無理な場合は、二見浦から篠島に向かってお参りをしたそうだ。

篠島神社仏閣-9

 本殿は伊勢神宮と同じ神明造というのだけど、うーん、似てるかな。伊勢神宮の本殿もよく見えなかったから、似てるとも似てないとも言えない。
 全体的な雰囲気としては、神聖な緊張感があるというわけでもなく、古びて少し荒れてるような印象も受けた。特に境内は荒れ地みたいになっている。賽銭箱も小脇に抱えられそうなほど小さいし。

篠島神社仏閣-10

 巡った順序としては入れ替わってしまっているのだけど、最後に八王子社を紹介しよう。
 ここはなんといっても犬嫌いの神様として有名だ。それはこんな話が元になっている。
 篠島では正月三日の夜に八王子社の神オジンギサマが神明神社に渡るとされていて、その夜は家の明かりを消して物音も立てずに島民はみんな家にこもるのが習わしになっている。それはのちに篠島の大名行列という神事へとなっていき、現在でも続いている。明けて4日には、神明神社から八王子社へオジンギサマをお送りするということで大名行列を作り、前浜では若い衆によるやっこ踊りなどが披露される。
 ある年、そのお渡りの最中に犬が吠えた。神事は滞りなく終わったものの、それ以来海が荒れに荒れて漁ができなくなってしまった。海を沈めて欲しいと八王子社へ祈願へ行くと狛犬が台座から転げ落ちた。拾って置き直したのに、翌日行くとまた落ちている。それが続いたから、八王子の神様は犬が嫌いで怒ってこんなことをしているんだということになり、島から犬を追い出すことが決まった。かわいそうな犬と飼い主たち。狛犬も医徳院へ移したところ、ようやく海は静まって漁ができるようになったという。
 それ以来、長らく篠島では犬を飼うことが禁止されていたらしい。今はそんなこともなく普通に飼われているそうだけど、犬にしたらいい迷惑だった。そもそも、狛犬って犬じゃないし。狛犬は想像上の神獣で、決して犬ではない。ルーツを辿れば獅子やライオンに行き着く。
 それに、八王子社の御神体は、伊勢の箕面大社から奉納された獅子頭だ。御神体が獅子なのに狛犬が元凶とは筋が通らない。
 それでも、八王子社は今でも犬嫌いの神様ということになっている。
 創建は1288年。もともとは海の神様を祀る神社だったという。

篠島神社仏閣-11

  伊勢神宮の古材で建てられた神明神社の古材で建てられるのが八王子社で、やはり20年ごとに行われている。
 神明神社と八王子社の本殿は確かに似ている。そっくりと言ってもいいかもしれない。

 こうして見てきたように、篠島というのは深い歴史を有したところだ。更に時代をさかのぼれば、貝塚からたくさんの縄文土器などが出土している。伊勢神宮との縁が、のちに多くの縁を生んだということもある。
 今回は南エリアへまったく行けなかったので、そちらのレポートをすることができない。昔、クジラ漁をしていたときにクジラを陸揚げしていた鯨浜や、加藤清正が名古屋城の築城に使うために切り出そうとした清正の枕石、西行法師ゆかりの矢立、種田山頭火の碑など、見逃したものは多い。
 万葉集の歌が刻まれた碑が建つ歌碑公園から見る夕陽は、日本の夕日100選に選ばれている。
 日間賀島が観光の島とするなら、篠島は歴史散策の島と言っていい。だから、訪れる側としても、二つはまったく別の島として捉えておいた方がいいと思う。隣り合わせの島でありながら、二島はまるで似ていない。日間賀島の方が島民と観光客との距離が近くて、篠島は遠く感じたというのもあった。
 個人的には日間賀島の方が好きだけど、篠島の魅力も捨てがたい。篠島については、もう一度行かなくてはいけないことがはっきりした。一通り歩いて、主だったところを見終わったとき、また違った感想を持つことになるかもしれない。
 いずれにしても、二島はどちらも行くに値するところだ。はっきりオススメできる。手軽な離島体験というのはなかなか貴重なものだし、見るところが何もなくても不思議と鮮やかな印象をあとに残す。
 とりあえず今回の二島巡りシリーズはこれで終わりで、残り一回、番外編を追加しようと思っている。島に渡る前の河和と名古屋駅に戻ってからの写真が残っている。私の茹でタコ日焼け写真もお楽しみに。


誰も誉めてくれないけど日間賀島の神社仏閣を全制覇した<第三回>
2008年07月02日 (水) | 編集 |
日間賀島神社仏閣編-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 日間賀島へ遊びに行って、島の神社仏閣を全制覇しようという人はあまりいないと思う。お遍路さんでも全部は回らない。しかし、我々は回った。余すところなく。今日はそのときの様子を、一気にまとめて紹介しようと思う。
 日間賀島は6〜7世紀の古墳もたくさん見つかっていることから、古くから人が住んでいた島だということが分かる。だから、狭い島の割に神社仏閣の密度が濃い。神社が2つ、寺は5つもある。人口が多いから、寺もそれなりに成り立っているのだろうとは思う。
 寺はそれぞれ入り組んだ内陸部にあるので、ちょっと大変だ。効率よく回るということもできないから、地図を頼りに地道に回っていくしかない。途中で場所を訊ねたら耳が遠いおばあさんで助けにはなってくれなかった。そこまでムキになって制覇する必要があるのかという疑問もわき起こってくるのだけど、こういうものは行きそびれるとあとあと気になるものだから、なるべくなら残さない方がいい。
 寺は多くが東の集落に集まっていて、西には神社と寺が1つずつしかない。まずは北東の外れにある西の氏神様、八幡神社からいってみよう。

日間賀島神社仏閣編-2

 社は民家風になっていて新しい。すべてがこぢんまりとしていて、なんとなく神社のミニチュア版みたいな印象を受ける。摂社や末社もあるから、神社の規模としてはそれなりのものなんだろうけど。
 ここには禰宜(ねぎ)さんもいるようだ。何しろ船が多いところから、進水式やら季節ごとの漁の前やら祝詞をあげないといけないことが多いから、けっこう忙しそうだ。たぶん、常駐だろう。
 毎年7月の第二土曜日には祇園祭りがある。昼の部では船形の山車を引き回し、夜は海の安全と豊漁祈願として365枚の素焼きの大皿「ほうろく」に火を付けて海に流す、ほうろく流しを行う。

日間賀島神社仏閣編-3

 お社の中をのぞき撮り。
 海のすぐそばだし、晒しているとすぐに痛んでしまうから、こうして中にしまい込んでいるのかもしれない。
 祭神は海の神様の大錦津見命だそうだ。

日間賀島神社仏閣編-4

 西にあるお寺、長心寺へとやって来た。
 ソテツ?
 ヤシじゃないと思うから、やっぱりこれはソテツか。寺に入ったとたん、突然南国ムードになってちょっと戸惑う。このあと、島の寺のほとんどでこのソテツを目にすることになる。日間賀島の寺はどういう理由か分からないけどソテツがつきもののようだ。九州以南では自生するというけど、まさかここで自生でもあるまいから人が植えたものだろう。島の風土で育ちやすい木ということで選ばれたんだろうか。

日間賀島神社仏閣編-5

 これが弁天堂か。とすると、本堂が阿弥陀堂だろうか。十王堂というのもあるらしい。
 それか逆か。本尊が弁財天を祀った弁天堂かもしれない。
 寺としては安産の神様として信仰されているとか。
 詳しい歴史や由来についてはよく分からない。

日間賀島神社仏閣編-6

 東に向かう途中の高台あたりにあった鳥居。地図にも載っていなくて正体は不明。石碑の文字からすると、戦争関係のところか。

日間賀島神社仏閣編-7

 安楽寺へ行こうとして道に迷った。この先行き止まりという注意書きに従って道を折れて下ったら、呑海院(どんかいいん)に着いてしまった。別に順番は決まってないのだけど、自転車での登りが無駄になった。神社仏閣へといざなう案内標識のようなものは一切ない。島内の何ヶ所かに、小学生が手書きで描いた地図があるのだけど、だいぶ古びていて現在位置も記してない。島の様子は分かっても、今自分がどこにいるのかが分からない。

日間賀島神社仏閣編-8

 曹洞宗龍松山呑海院。本尊は延命地蔵大菩薩。
 弘法堂の中には、鯖(さば)を持った修行中の弘法大師を彫った鯖大師像がある。全国にはいくつかの鯖大師像があるそうだ。
 南知多五色観音の一つでもある。
 忠臣蔵に詳しい人なら大高源吾の名を知っているだろう。伝説なのか史実なのか、日間賀島では大高源吾はこの島で生まれ育ったという話になっている。この呑海院には、大高源吾のへその緒塚というものが建っている。
 一般に大高源吾は赤穂(兵庫県)で生まれたとされている。日間賀島の話では、志を抱いて江戸に出て行く途中の天竜川で、大名行列の殿様の陣笠が風に飛ばされて川に落ちたのを見て、速い流れをもろともせず飛び込み泳いで陣笠を拾ったところそれが赤穂藩で、こいつは見込みがあるということで仕官することになったのだという。
 まったく縁のない人間をつかまえてやつはうちの島出身だと言い張ることはないだろうから、実際に日間賀島生まれだった可能性はある。
 討ち入り前は大石内蔵助の信頼も厚く、赤穂、大坂、京都、江戸と同士の間を駆け回った。俳句の才があり、子葉と名乗り、吉良邸の動向を探るために茶の湯の四方庵宗遍に弟子入りして、討ち入り当日の12月14日の夜に吉良邸で茶会があることを突き止めたとされている。討ち入りでも活躍したと伝えられている。
 討ち入り後は松平隠岐守預かりとなり、浪士10人の最後に切腹して果てた。そのときの一句が、「梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の山」というものだった。享年32。
 墓は大阪中央区の薬王寺にある。

日間賀島神社仏閣編-9

 苦労してなんとか辿り着いた安楽寺。日間賀島小学校から真っ直ぐいけば着いたはずなのに、なんでこの先通行止めという注意書きがあったんだろう。あれは車のことだったのか。
 日間賀島がタコの島となったのは、この寺が由来になっている。
 あるとき島で大地震が起こり、日間賀島と佐久島の間の大磯にあった筑前寺が海の底に沈んでしまった。せめて本尊だけでも救い出そうとしたがいくら探しても見つからない。あきらめかけていたとき、タコ漁をしていて捕まった大ダコが阿弥陀如来像を抱いていた。これを章魚阿弥陀如来(たこあみだにょらい)として祀ったのが安楽寺の始まりで、日間賀島はタコを大事にするようになったのだという。
 そんな大事なタコを獲って食っちゃいけないような気もするけど、自然の恵みのタコをありがたくいただくという気持ちがあればいいのかもしれない。正月三日に日間賀神社で作られた干しダコが毎年ここに奉納されるそうだ。

日間賀島神社仏閣編-10

 けっこう古そうな本堂だ。その前にソテツがやっぱりいる。
 阿弥陀堂はどれだろう。本堂なのか、隣のものなのか。そこに安置されている阿弥陀如来座像は鎌倉時代末期の作だそうだ。
 普通、七五三などは神社でするものだけど、ここではお寺参りをする習慣があるらしい。

日間賀島神社仏閣編-11

 ここにも鯖大師というのがある。呑海院と関係があるんだろうか。
 石碑には毘沙門天の文字が見える。
 ここに関しては、詳しいことは調べがつかなかった。

日間賀島神社仏閣編-12

 大光院に着くと、入り口から入ってすぐのところでみやげ物屋があって、干物いかがですかという呼び込みをされてしまった。かなりひるむ。堂からはお経をあげている声が聞こえてきて、なんとなく入りづらくなって、入り口で引き返してしまった。ここだけそれまでとは雰囲気が違っていた。
 帰ってきてから調べたら理由が分かった。ここは知多半島一帯にある知多新四国八十八ヶ所の一つで、お遍路さんがやって来る寺だったのだ。だから、門前のみやげ物屋などがあって、中からお経が聞こえたのだ。そういうことだったんだと納得したのはいいけど、ある意味では日間賀島で最も見ておくべき寺を見逃したという後悔も感じることとなった。創建は飛鳥時代というから、それだけでも見ておく価値はあった。ちょっと失敗した。
 725年、行基によって創建され、1691年に再興されたという。
 ここの境内から、風が強い冬の日に、富士山の頭の白い部分が見えることがあるという。

日間賀島神社仏閣編-13

 西の八幡神社から始まり、東の日間賀神社で締めくくるというのは、収まりがいい。
 ここも由緒などはよく分からない。境内の裏手から古墳が発見されているから、かなり古くからあったのだろう。
 石碑にある村社というのは神社の社格のことで、上から府社、県社、藩社、郷社、村社、無格社となっている。式外というのは、延喜式神名帳に載っていない神社ということだ(載っているものを式内社という)。

日間賀島神社仏閣編-14

 島の神社は神社らしい格好をしてない。これもパッと見は本殿には見えない。扉を開けて、やっぱりそうだったんだと初めて分かったくらいだ。

 これで日間賀島の神社仏閣はすべてのはずだ。少なくとも地図に載っているものやネットに情報が出ているものに関してはすべて回りきったと思う。大光院は心残りだけど、自分の中では完結感がある。島民の人でも全部回っている人はそれほど多くないんじゃないか。回ったからといって特に自慢になることでもないけど。
 シリーズ3回目にして早くも私が紹介できる日間賀島のネタは尽きた。あとはイルカとのふれあいの様子だけだ。番外編としての写真も少し残っているか。
 今日、日間賀島の総括をしようかとも思っていたけど、また次回イルカのあとにする。島で感じたことや、日間賀島に対する思いはそのときまとめて書こう。
 ということで、今日のところは神社仏閣紹介で、ここまでだ。




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