現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
赤煉瓦造りのトンネルは守山区民の自慢となるか
2007年09月01日 (土) | 編集 |
鳥羽見赤煉瓦-1

PENTAX K100D+smc PENTAX-DA 18-55mm f3.5-5.6 AL



 名古屋のチベットだとか、いやネパールだ、ヒマラヤだなどさんざんな言われようの守山区だけど、名古屋の秘境とまで言われると、おいおいそれはちょっと言い過ぎだろうと、守山区民の私は制止したくもなってくる。そこまで奥地じゃないぞと。
 けれど、名古屋市最高峰193メートルの東谷山(とうごくさん)を擁し、名古屋で唯一の吊り橋がかかる白沢渓谷まであってしまった日には言い訳もむなしく響く。日本でただ一つのチベット寺院、強巴林(チャン・バ・リン)さえ存在する以上、名古屋のチベットどころか日本のチベットとして守山区民は自覚する必要があると言えよう。守山区民であることから目を背けようとしてはいけない。
 そんな守山区にまた一つ、知られざる伝説が加わることとなった。なんでも赤煉瓦造りのトンネルがあるという。名古屋市内の有名どころはかなり回ったし、行ってないまでも名所旧跡はたいてい知っているつもりの私も、それは初耳だった。観光名所とか保存地区とかではないはずだ。それなら知らないはずがない。本当にそんなものがあるのだろうか。これはもう、自ら行ってこの目で確かめるしかない。そんなわけで私はさっそく現地に飛んだのであった。

鳥羽見赤煉瓦-2

 場所はJR中央本線の新守山駅の南あたりで、住所としては鳥羽見(とりばみ)1丁目ということは分かっていた。ただ、地図で見てもそこにたどり着くはっきりとした道がない。いかにも狭そうな一方通行が複雑に入り組んでいる。北から行くか南からアプローチするか迷って、北の瀬戸街道を選択した。この道を通るのは久しぶりだ。お馴染みの瀬戸電も走っている。

鳥羽見赤煉瓦-3

 確かにそれはそこにあった。守山区民のみなさん、喜んでください、私は確かに見つけましたよ、赤煉瓦のトンネルを。しかし、ホントにあったのだな。
 この老朽化ぶりからして、よもや張りぼての赤煉瓦もどきということはあるまい。車一台がやっと通れるくらいの狭さで、高さも2.5メートル制限されている。昭和になってノスタルジーなオシャレを気取って赤煉瓦トンネルにしたとも考えにくい。やはり昔に造られたものがそのまま残ったと考えた方が自然だろう。

鳥羽見赤煉瓦-4

 赤煉瓦といえば明治時代だ。これも明治のものだろうか。
 JR中央本線の多治見-名古屋間が開通したのが明治33年(1900年)だから、基本的な部分は当時のままとも考えられる。だとしたら100年以上前のものということだ。ところどころに中途半端な補修あとも見られる。
 あるいは、鉄道とは別の時期に造られたトンネルなのだろうか。

鳥羽見赤煉瓦-5

 反対側に回ってみると、赤煉瓦トンネルにコンクリート製のトンネルを継ぎ足しているのが分かる。かなり乱暴な継ぎ足し方だ。同じデザインで延長させえようとか考えなかったのだろうか。意匠も何もあったもんじゃない。なんて無粋なことをするんだ、国鉄。
 おそらく、昔は単線だったものを複線にしたとき線路を造る幅が足りなくて、トンネルをつなぎ足したのだろう。ただ、それならどうして古い煉瓦造りの方まで全部新しく造り直さなかったのだろうかという疑問もわいてくる。せっかく古いものだからあちらは残してこっちだけ新しくすればいいやと思ったのか、そんなに予算をかけたくなかっただけなのか。どちらにしても、赤煉瓦を残してくれたのはありがたいことだった。こうしてずっとあとになって私が見つけることができたのだから。

鳥羽見赤煉瓦-6

 しばらく待っていると、お目当ての列車が通った。これを一緒に写さなければ意味がない。それ、今だ! って、見えんっ! 列車の上半分も見えてない。これは失敗だ。どうやらポジションが近すぎたらしい。もっと下がって後ろから撮らなくては。
 しかし、ここは古くからの民家が集まった住宅地。観光地でも何でもなく、おまけにどういうわけか人通りも車通りも意外と多い。近所の人の通り道や抜け道になっているらしい。そこに完全に異質な存在の私がカメラを持ってうろついているものだから、近隣住民がこの人何を撮ってるんだといういぶかしげな視線を痛いほどにぶつけてくる。赤煉瓦トンネルが貴重だという自覚もないのかもしれない。いや、私は決して電車クンとはではなくてですね、ただ写真が趣味で、ここに珍しい赤煉瓦のトンネルがあるって聞いたからそれを撮りに来ただけなんですよ、と道行くすべての人に説明したかった。でも、完全に変な電車男が今日トンネルのところで写真を撮っていたというお茶の間の話題になってしまったんだろうなと考えると、それがちょっと悲しかった。
 電車は夕方ということで10分に一度くらいは通るのものの、シチュエーション的にここで何もせずカメラを持ったまま10分立ちつくすというのはつらいものがある。無駄にうろうろしてもかえって不審だ。なんとか必要最小限のうろつきに抑えつつ次の電車を待つことにする。

鳥羽見赤煉瓦-7

 ついにチャンス到来。うまいことに右から電車が来てくれた。このときを逃してなるものか。すでに日が沈んであたりが暗くなってシャッタースピードが稼げず少しブレてしまったけど、ぜいたくは言ってられない。ちょっと焦ってタイミングも早かったか。
 でも、なんとか目的を達成したのでこれでよしとしよう。そそくさと逃げるように現場を立ち去る私。鳥羽見のみなさん、私は怪しい者ではありません。

鳥羽見赤煉瓦-8

 赤煉瓦トンネルから最後は電車撮りに目的が変わってしまっていたけど、赤煉瓦造りのトンネルは確かに見つけた。あれはニセモノじゃなく本物だ。守山区には確かに赤煉瓦造りの架道橋が存在する。
 帰ってきてからあらためてネットで調べたけど、ここの詳しい情報は見つからなかった。JR東海に問い合わせてみればある程度は分かるのかもしれないけど、そこまで知りたいわけじゃないので、私のレポートはここまでとしたい。あとは電車の人に続きを託すことにしよう。
 写真としても、ちょうど西向きということで夕焼け時間に行けばドラマチックな写真が撮れそうだ。私が狙った左斜めから撮るなら、名古屋行き列車のダイヤを調べてから行った方がいいかもしれない。電車が通る時間さえ分かっていれば、車の中で待機していればいい。近所の人の注目の的にならずに済む。
 行き方は矢田川にかかる矢田川橋を南から北上する方が分かりやすい。橋を渡ったすぐの細い道を左折して、そのまま道なりに行って突き当たりを右に曲がったところだ。車は線路沿いの路上に短時間ならとめておけそうだった。

 ワンダーランド守山区には、私の知らないワンダーがまだまだ潜んでいそうな予感がしてきた。長年住んでいるのに、チベット寺院も吊り橋も赤煉瓦トンネルも、知ったのはここ数年のことだ。これらの存在をいまだ知らずに守山区に住んでいる守山区民も多いことだろう。
 今後も、一人守山探検隊として様々な場所に潜入捜査を試みて、知られざる守山区の魅力をお伝えしたいと思う。まだまだ名古屋で唯一とか、名古屋で一番みたいなものがありそうだ。いつか、胸を張って私は守山区民だと大きな声で言える日が来ることを願ってやまない。きっと来ないだろうけど。


120歳の半田赤レンガ工場は眠りの中で100年前の夢を見る
2007年01月20日 (土) | 編集 |
半田の赤レンガ-1

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.6, 1/100s(絞り優先)



 半田名所巡り4部作の最後は赤レンガ工場。明治にカブトビールの工場として建てられたこの建物は、歴史の紆余曲折と共に歩み、今は静かな眠りについている。老いた紳士のように。120歳の赤レンガ工場は、威厳と風格をたたえ、現代に生きる私たちを見下ろす。
 道を一本隔てた反対側にはナゴヤハウジングセンターがあり、小さな子供を連れたたくさんの親子連れが戦隊ショーに歓声をあげていた。赤レンガは薄目を開けてその様子をちらりと見た後、また目を閉じて眠りに戻る。森の主のフクロウみたいに。

 ミツカン酢(中埜家)4代目の又左衛門と、のちに敷島パンを創設することになる盛田善平らによってビール会社・丸三麦酒醸造所が作られたのは1887年(明治20年)のことだった。2年後の明治22年、ビールは完成し、丸三ビールの名前で売り出されることになる。明治29年に会社名を丸三麦酒株式会社とし、明治31年この地に赤レンガの工場を建設した。ビールの銘柄もこのときカブトビールと改名される。
 工場の設計は明治建築界の三大巨匠と言われた妻木頼黄(つまきよりなか)が担当した。横浜の赤レンガ倉庫を設計したのもこの人だ(あとの二人は、東京駅や日本銀行本店を建てた辰野金吾と、赤坂迎賓館や京都博物館を設計した片山東熊)。
 赤レンガ造りにしては珍しく5階建ての高層建築で、のちの三度の増築も含めると、赤レンガの数は240万個になるという。現存する赤レンガ建築としては、東京駅、横浜赤レンガ倉庫、北海道庁に次いで全国4位だそうだ。
 ビール工場としては、北海道のサッポロビール工場もアサヒビール吹田工場も建て替えられ、東京の恵比寿ビール工場も取り壊されてしまった今、初期のビール醸造所の姿をとどめるのはここだけとなった。
 一部5階建てで全体には2階建ての鉄板葺。創建当時の主棟の他、ハーフティンバー棟、貯蔵庫棟によって構成されている。東側の部分は取り壊されて現在は残っていない。

赤レンガ貯蔵庫

 北側の重厚なレンガ造りと比べると、南側は軽やかな印象の赤レンガ造りとなっている。このように柱や梁(はり)、筋違(すじかい)などの骨組みを外にむき出しにして、煉瓦や土などで壁を作る様式をハーフティンバーという。イギリス、フランス、ドイツなどによく見られるもので、明治時代の日本人がそちらの方を向いていたのを示している。かつての日本人の憧れの対象は、アメリカではなくヨーロッパだった。だから、明治の建物は美しい。
 こちら側の建物は明治末期と大正時代に増築された部分で、貯蔵庫などに使われていたようだ。
 赤レンガというと、横浜の赤レンガ倉庫をまず思い浮かべる人が多いと思う。小樽運河も有名だ。その他、各地に少しだけ残っている。金沢や福井、京都の舞鶴や神戸、姫路、広島、長崎などに。
 倉庫ではなく建物としては、名古屋ではノリタケの工場がそうだ。もちろん、東京駅も。明治から大正にかけて、日本人はいい建築物をたくさん作っていた。明治村へ行くとそのことがよく分かる。あの頃の美意識はどこへ行ってしまったのだろう。

 第二次大戦の末期、この赤レンガ工場は中島飛行機半田製作所の衣糧倉庫として使われていた。それを知ったアメリカ軍によって、ここは攻撃目標とされてしまう。B29が爆弾をばらまき、その後にやって来た小型戦闘機P51によって工場は機銃掃射を浴びせられた。今でも赤レンガの外壁にはそのときの無数の弾痕がはっきりと残っている。それでも尚、赤レンガ工場は倒れずに建ち続けてきた。
 終戦後、1949年(昭和24年)から1996年(平成8年)まで、この建物は日本食品化工株式会社のコーンスターチ加工工場となっていた。しかし老朽化も進み、工場は閉鎖。取り壊す方向で話が進んでいた。
 そのとき飛んできたのが日本中の赤レンガ野郎たちだった。取り壊し、ちょっと待ったとあちこちから声がかかり、学術調査が入り、こんな貴重な建物を壊すなんてもってのほか、断固保存すべしということになり、平成8年に半田市が土地ごと買い取ることで話がまとまった。平成16年には国の登録有形文化財となり、現在は半田観光の目玉のひとつとなっている。
 残念ながら、普段は非公開で建物の外側からしか見ることができない。年に数回一般公開をしているものの、いついっても見られないというのでは観光としては弱い。建物が常時公開に耐えられないほど老朽化してるのだろうか。次の公開日は3月の3日、4日だそうだ。

赤レンガ北側

 オリジナルのカブトビールを飲んだことがあるという人ももうほとんどいなくなった。1933年、サッポロやアサヒの前身である大日本ビールに合併吸収されてカブトビールは消えた。けど、かつて一地方都市のローカルビールが、大手4大ビールメーカーと互角に競っていた時代があったのだ。それがこの赤レンガ工場で作られたカブトビールだった。
 漢字で書くと、加武登麦酒。日本酒を喉を鳴らして飲むことをカブルというところから名づけられたという。商標は、日清戦争に勝って兜の緒を締めよから兜マークとした。
 酒造りで培った技術と経験、そして中埜家の財力を費やし、満を持して出品した1900年(明治33年)のパリ万国博でカブトビールは金牌を受賞する。その後全国で売れに売れたそうだ。
 2005年、かねてより続いていた研究が実り、明治のカブトビール復刻版が完成した。330ml650円で、半田のいくつかの場所で販売している(寿司料亭魚福、黒牛の里、半田ステーションホテル、山田屋ベル、花まんま、ビアシティ南知多など)。一般公開日に買うこともできる。

 何も知らなければほとんど廃墟のようにしか見えない赤レンガ工場には、多くの夢や思いや歴史が刻まれていた。たった120年、でもそれは軽くない120年だ。
 今ではたまに揺り起こされる以外は眠りについた赤レンガは、未来にどんな夢を見ているのだろうか。ときどき訪れる私たちのような人間をどう思っているのだろう。かつての活気と情熱に満ちていたときの思い出に浸っているのか。
 朽ちそうな赤レンガの建物を見上げながら私が思うのは、何があろうと、どんな姿になろうと、建ち続けることの意義だ。人が死ぬより生き続けることの方が難しいように、建物もまた壊されるより建っていることの方がずっと難しい。ただ生きればいいってもんじゃないと言うけれど、ただ建っていればいいということもある。
 私たちも120年生きて、昭和のことを語ろう。120年後には消えてなくなってしまったあれこれのことを。


ハロー・グッバイ、旧中埜家住宅紅茶のおいしいT's Cafe
2007年01月18日 (木) | 編集 |
旧中埜家住宅

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.0, 1/160s(絞り優先)



 半田へ行こうと思ったきっかけは、ネットで知ったこの建物だった。国の重要文化財に指定されている旧中埜家住宅。「明治村(明治時代の建物を移築展示してある野外博物館)」が大好きな私だから、明治の建物には目がないのだ。ミツカン酢や赤レンガが見たくて半田へ行ったのではなかった。これが見たかったのだ。
 ひと目見て、お、いいねぇと思う。これだけ古いと住むのは大変だけど、見て回るだけなら無責任に楽しめる。更にここのいいところは、紅茶専門店「T's Cafe」として現役で使われているところだ。もちろん、一般客として中に入ることができて、室内を見学することもできる。重要文化財といっても保存しておくだけでは能がない。こうして違う形で活用して一般に公開するのは私も大賛成だ。貴重なものほど実際に見て触れて初めてその価値が分かるものだから。

 ミツカン酢の第十代当主中埜半六がイギリス留学中に見たヨーロッパの住宅の美しさに感動して、帰国後の明治44年に別荘としてこれを建てた。
 設計は東海地方建築界の権威だった名古屋高等工業学校教授の鈴木禎次。アールヌーヴォーを取り入れたイギリスチューダー様式住宅は、木造二階建てで、壁にはレンガを使用し、屋根はスレート葺きとなっている。飾り窓やバルコニーなどが明治時代の優雅な感覚を今に伝える。イギリスチューダー様式の建物が残っているのは全国でも珍しいそうで、1976年(昭和51年)に国の重要文化財に指定された。
 敷地は丘の上にあって、当時は三河湾まで見えたという。現在はここだけが時間に取り残された異空間となっている。
 1950年(昭和25年)にいったん洋裁専門学校の桐華学園として使われた後、しばらく放置された。けど、せっかくこんないい建物が残っているんだから何かに使えないかとみんなで相談して、喫茶店にすることに決まった。なんだか、文化祭で何をするか意見がまとまらずに喫茶室になってしまったというのにちょっと似てるけど、重要文化財の明治の建築物でお茶できるというのはありがたいことだ。資料館とかよりはずっと気が利いている。
 ひととおり周囲を見て回った我々は、いよいよ紅茶専門店「T's CAFE」に潜入することにする。やや及び腰で入口の扉を静かに開けた。

T’s Cafe店内

 店内は、できる限り古い内装を残しつつ、喫茶店として機能させていくための近代的な設備がチラホラ顔をのぞかせている。暖炉の中にファンヒーターが置かれていたのはちょっと笑えた。これはどうなんだろうと。コンセントなどもむき出しになっていたりして、あちこちで時代考証が間違っているのがやや残念だった。もう少し演出に気を遣うと、もっと気分に浸れるはずだ。
 それでも店内はさすがに普通の喫茶店とは違う雰囲気を醸しだしていて趣がある。華麗なる一族の邸宅のように豪華絢爛すぎないのがいい。これくらいなら庶民がちょっと背伸びをすれば場に馴染むことができる。むしろ、意外と質素な別荘と言った方がいいのかもしれない。このあたりにも、ミツカン酢が浮ついてなくて地に足がついているのを感じさせる。
 ただ、内装に関しては、ここを喫茶店にしたときにかなり改造されただろうから、当時の姿そのままというわけではないだろう。改築する前はかなり老朽化が進んでいただろうし。

T’s Cafe二階

 お店の人にひと声かけると、室内に入らないという約束で二階も見て回ることができる。といっても、こちらは完全に楽屋裏というか、見学用に改築されていない。昭和に洋裁専門学校として使われた当時のまま時が止まっている。畳がむき出しの和室があり、布が簡単にかぶせられただけの機織り機が長い眠りについている。見どころといえば、古さと時間が停止している様くらいで他にはこれといったものはない。まるで使われなくなった田舎の家のようだ。人によっては、こちらの方が身近な懐かしさを感じられて嬉しいということがあるかもしれない。

T’s Cafe紅茶とケーキ

 紅茶専門店だけに、たくさんの種類の紅茶がメニューに並んでいて、何を頼んでよいものやら悩む。ダージリンやアッサムあたりは聞き覚えがあったものの、中国茶まで取り揃えてあって大部分が知らない名前の紅茶だった。それでも、紅茶も飲んだことがないような下級庶民と思われてはいけないと思い、さりげなく写真の紅茶を注文してみた。えーと、なんて名前だったかな。すっかり忘れてしまった。自分が思う以上に舞い上がっていたのだろうか。
 味はかなり酸っぱかった。レモンの酸味だけではない、かつて味わったことがない甘酸っぱさは、次はこれを頼むのはやめようと思わせるものだった。ただ、何を頼んだか覚えていないだけに、それを避けようにも避けきれない恐れはある。全部で30種類以上あったから、紅茶に詳しい人ならきっと楽しめることだろう。紅茶にまったく詳しくない人は、とりあえず午後の紅茶とでも頼んでおけば大丈夫でしょう。それは置いてないと言われたら、じゃあリプトンで、と答えてください。
 700円のケーキセットや、780円のランチセットもあったりするので、紅茶専門店という看板に恐れをなすことはない。コーヒーだってちゃんとある。
 私はケーキセットを頼んでみた。ケーキは4種類くらいから選べるようになっている。どれにしますかと訊ねられて、何気なく手を伸ばして取ろうとしたらそれは見本のケーキで、取っちゃダメ! と、ツレとウエイトレスの両方から同時ツッコミを入れられたお茶目な私であった。ケーキの見本は指差すだけにしなくちゃいけないぞ、庶民の諸君。

 営業は、10:00-18:00で、水曜定休。専用駐車場がないので、店の北にあるトーカヒルズ駐車場に入れる。50分100円だったか。店で1枚駐車チケットをくれるので、50分以内なら無料になる。
 毎月、紅茶教室というのも開かれているそうだ。紅茶の基礎から応用まで、ティーインストラクターの人がいろいろ教えてくれるらしい。値段は1,500円で定員は8名。私も参加したら、紅茶にはちょっとうるさい男になれるだろうか。うーむ、これはダージリンに似てるけどインド北部のシッキムだねとか、お、こいつはフラワリー・オレンジ・ペコーじゃないかとか。
 そんな男ってカッコイイのか? なんか、紅茶版川島なお美みたいでちょっとイヤかも。

 建物をぐるりと見て回って、写真も撮って、紅茶とケーキも味わって、すっかり満足した私であった。これだけでも半田に行ったかいがあった。半田へ行った際はぜひ旧中埜家住宅「T's Cafe」に寄ってみてください。紅茶のおいしい喫茶店ですから。白いお皿にグッバイとつぶやいて、銀のスプーンでくるくるかきまわせばカップにはハローの文字が浮かぶでしょう。
 ハロー・グッバイ、T's Cafe。いつの日か、紅茶に詳しい男になったら再び訪ねます。


いつか白川郷へ行くときのために合掌造りの予習をした 2006年11月25日(土)
2006年11月26日 (日) | 編集 |
東山植物園の合掌造り

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/50s(絞り優先)



 合唱といえばウィーン少年合唱団、合掌造りといえば白川郷というのはおおむね異存のないところだと思う。更に言えば、少年といえば岸和田少年愚連隊、ウィーンといえばたこさんウィーンナーが好物の渡辺徹、白川といえば白川由美を連想するという人がいるに違いない。たぶん、きっといる。
 白川郷、その響きは果てしなく遠い異国の地を思わせる。愛知県のお隣岐阜県でありながら、その存在は遠いイスカンダル。京都や大阪よりもずっと遠く感じる。たぶん、高速を使っていけば名古屋から2時間半くらいなのだろうけど、むしろ自分の中では遠い憧れの地としてとどめておきたいような気持ちもある。行って見てしまえば、こんなものかと少しでも失望してしまうのが嫌で。現在、東海北陸自動車道が白川郷まで延長工事をしている。何年かしたら、もっと便利になって行きやすくなる。けれど、何か違うような気がする。世界遺産なんかにせずに、ずっと陸の孤島のようにしておいて欲しかったと思ってしまう。そんなものは部外者の勝手なセンチメンタリズムなのだろうけど。

 昔から白川郷の合掌造りといえば、古き良き日本の原風景をとどめた秘境として有名だった。私の子供の頃からすでに観光地になっていたはずだ。それが一躍全国区になったのは、やはり1995年に世界遺産に登録されてからだ。それまで年間の観光客が60万人ほどだったのが、翌年には100万人を超え、今では150万人以上の人が訪れるようになった。単純に割っても、1日に4,000人からの観光客がやって来るという計算になる。村人は2,000人ほどなのに。やっぱりみんな、権威のあるレッテルに弱い。国宝に極端に弱い私も例外ではないのだが。
 白川郷の合掌造りが広く知られるようになったのは、ドイツの建築学者ブルーノ・タウトが、昭和10年(1935年)にこの地を訪れて、『日本美の再発見』で世界に知らせたことが大きかった。それまでは、日本人でさえ一般的にはこの地のことを詳しくは知らなかったのではないかと思う。最も栄えていたとき1,800棟以上あったものが、急激に数を減らし始めている頃でもあった。地域の高齢化や、近代化、ダム建設などで、多くが取り壊されたり、売却されたりしたという。
 1971年(昭和46年)には保存会が発足。「売らない、貸さない、壊さない」を合い言葉に合掌造りの保存活動が本格的に始まった。先細りになる村を救うには、これを観光資源とするしかなかったという事情もあったのだろう。
 現在残ったのは110軒ほど。これでもよくぞ残ったと思う。
 写真のものは、東山植物園にある合掌造りだ。なんでこんなところにこんなものがあるのかと不思議に思った人も多いだろう。どういうツテかは知らないけど、1842年に白川郷で建てられたもので、ダムによって沈んでしまうものを、1956年にこの地に移築したものだ。作り物ではなく本物なので、ありがたみはある。内部もそのまま保存してあって、自由に見学することができる。

合掌造りの干し柿

 合掌造りという名前は、屋根の形が手を合わせて合掌してる様に似ているところから来ている。急勾配の茅葺(かやぶ)き屋根が特徴だ。白川郷のものは、「切妻合掌造り」と呼ばれていて、角度はほぼ60度で正三角形に近い形をしている。この地域は豪雪地帯なので、雪が落ちやすく、重みに耐えられるようにという知恵でこういう格好になった。とんがっているとかわいいから、とかそういう理由ではない。
 建築方法はかなり特殊で複雑だ。説明文を読んでも専門用語だらけでよく分からない。もちろん、手抜き工事など許されない。雪だけでなく強風にも耐えられる作りになっていて、ちょっとやそっとではビクともしない。
 それにしても大きい。近くで見るとその迫力に驚く。とても一軒家のスケール感ではない。ちょっとした3階建てのコーポくらいの大きさがある。写真の人間の小ささでも分かるだろうし、2階から吊してある干し柿がミニチュアサイズに見える。武蔵丸がお茶碗を持つとお猪口に見えるのと同じ現象だ。
 合掌造りのこのスタイルが完成したのは江戸時代中期だと言われている。豊かとは言えなかったこの地で、現金収入を得るためにお蚕(かいこ)さんを屋根裏に飼うスペースを確保するためということでこういう格好になったんだそうだ。白い障子窓はそのときの名残で、蚕たちのために明かり取りとして作られたものだ。2階が狭くなれば3階にも蚕を置かないといけないし、半年は雪だから馬は家の中に入れないといけないというんで、どんどん大きく広い家になっていった。そもそも一族郎党、使用人まで含めて10人20人が住むから、狭い家では暮らせやしないというのもある。
 囲炉裏のあるある大広間、居間、仏間、寝室、台所、馬小屋、稲部屋などが1階にあり、中2階以上は蚕用となる。夜中に大量の蚕たちが葉っぱを食べてるカサカサする音が上から降るように聞こえてくるシーンを想像するとちょっと怖い。蚕にかじられる夢を見そう。
 合掌造りの何が一番大変かといえば、それはもう茅葺き屋根の葺き替作業だ。かつてはカヤにコガヤというものを使っていて、これは80年ほど持ったそうなのだけど、今のススキは30年か40年に一度全面的に葺き替ないといけない。この費用が一番大きな家で2,000万円もするというのだ。これでは維持しきれずに壊したくなった人たちの気持ちも分かる。
 作業も、とてもじゃないけど家族なんかでできるものではない。専門の業者さんもいない。となると村人総出で行うことになる。「結(ゆい)」と呼ばれる協同作業で、一軒につき2日間で仕上げるそうだ。

 白川郷の特徴としては、景観保存地区でありながら生活の場でもあるということだ。自分の家なのに勝手にいじれないし、外を歩けばいつでも観光客が大勢いて、暮らしにくいったらない。もちろん、24時間営業のコンビニやファミレスなどあるはずもない。行儀のいい観光客ばかりじゃないだろうし、外国人もいる。ちゃんと観光用になっている有料の和田家などだけでなく、一般の家屋にまで当然人は入っていくことになる。ここからは入ってはいけないという明確な区分はないだろうから。元々の村の人たちは世界遺産になったことを必ずしも喜んではいないかもしれない。ただ、世界的な保存地区ということで大きな援助が出ているには違いないだろう。そのあたりはいろいろと難しい問題をはらんでいる。
 ところで私は一体行くのかい、行かないのかい、どっちなんだい、と自分の筋肉に訊いてみる。いや、筋肉はあまりないんだけど。行きたい思いは十二分にある。行かないままそっとしておきたい思いもないではない。いつか行くかもしれないし、行かないかもしれない。
 もうあちらではそろそろ雪が降っている頃なんだろう。白い冬の白川郷も見てみたいし、田んぼが青くなった初夏もいい。秋は村全体が秋色に染まって素敵だろうな。
 行くときは、シルクのパジャマに身を包んで、ススキを口にくわえていこうと思う。もしかして、不審者として捕まってしまうだろうか。でも、合掌造りといえば絹糸とススキじゃないですかぁー、と言い訳しながら引きずられている男を白川郷で見かけたら、それはズバリ、私です。




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