現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
この一枚を撮るためだけでも行く価値がある中小田井の古い町並み
2008年07月18日 (金) | 編集 |
小田井町並-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 西区庄内緑地の西に、中小田井(なかおたい)という町がある。名古屋駅から電車で10分のこの場所に、古い町並みが残されていると知ったのはつい最近のことだった。ネットでそこの写真を見て、一目惚れじゃないけど、ここは絶対行こうと思った。そして、撮ってきたのが上の写真だ。
 中小田井の町並を紹介するときは必ず登場する場所だから、ここを知ってる人ならすぐに分かるだろう。残されている町並はごく短いこともあって、ベストポジションはここしかない。行ってみてそのことがよく分かった。これ以上近づくと全体が入りきらないし、離れると向こう側が見えなくなってしまう。だから、みんなここから撮る。
 けど、ここから写真を一枚撮るだけでも行く価値があるところだ。駅に近い名古屋市内でこの風景が残っているということに価値がある。
 そんなわけで、今日は中小田井で撮ってきた古い町並み写真を中心にお届けしたいと思う。これを見て、自分も行って撮りたいと思ってもらえるといいのだけど。

小田井町並-2

 中小田井の集落は平安時代にはできていたという。すぐ南に庄内川が流れていて、川が氾濫するたびに大きな被害が出ていたそうだ。今でこそ高い堤防が作られて、やや安心にはなっているものの、2000年の東海豪雨ではこのあたりも被害が出たんじゃないだろうか。名鉄の下小田井駅は完全に水没したそうだ。
 古くは織田井という字を当てられたようで、近世になって上小田井、中小田井、下小田井の3つの村に分かれた。
 小田井の転機は江戸時代に入ってからだった。名古屋城下と稲生街道を結ぶ岩倉街道として整備されたことで大きく変貌を遂げることになる。
 岩倉方面から枇杷島(びわじま)の青物市場へ野菜などを搬送するための道として使われて賑わうようになり、その帰り道に味噌や米、しょう油などの生活用品をここで買っていく人が増えたことで、街道沿いは商家が立ち並ぶようになっていった。
 明治以降、宅地開発などで古い建物は壊され、当時の面影を伝えるのは中小田井地区のみとなってしまった。明治24年(1891年)の濃尾地震で昔の建物はほとんどが倒壊してしまったという。現在残されている家屋も、それ以降に建てられたものだ。約300メートルほどの場所に、切妻造(きりづまづくり)や格子の家並みが並んでいる。

小田井町並-3

 観光地となっているところではないから、訪れるよそ者はさほど多くないだろう。それでも今はネットでこういう情報が出るから、昔よりもカメラを持った見学者がちょくちょく訪ねてくるのかもしれない。そのためではないだろうけど、こういうふうに家の前をきれいに飾っているところもある。自分のため半分、道行く人のため半分といったところだろう。嬉しい心遣いだ。

小田井町並-4

 昔のお金持ちの家特有の余裕のある作りだ。合掌造りのような大きくて容量のある家は、今はもう建てようと思ってもなかなか建てられない。

小田井町並-5

 生活している町だから、写真に車が入ってしまうのは仕方がない。電柱や電線もしょうがないか。
 有松も電柱地中化計画を立てているようだけど、ただ単に景観だけの問題で電柱を埋めるのは資金的に難しいのだろう。でも、目立たないようにという配慮で、電柱は茶色く塗られている。
 中小田井の岩倉街道は、町並保存地域に指定されているから、当面壊されることはなさそうだ。地面が赤く塗られている部分が指定ゾーンのようだ。

小田井町並-6

 こういう古い建物を撮った写真ばかりを並べていると、こんな風景がずっと続いているように思うだろうけど、実際はそうじゃない。大部分は普通の家で、ごく一部が残っているだけだ。規模としては小さいから、ここだけの散策なら10分もあれば終わってしまう。

小田井町並-7

 ここもなかなかいいところだ。こういう町並は、真っ直ぐよりも曲がっている方が雰囲気があっていい。

小田井町並-8

 このあたりはかつてどんな家だったのかは分からないけど、なかなか立派な家だ。
 水に浸からないようにということで、石垣で少し底上げしている。

小田井町並-9

 古い家屋以外はこんな感じの風景となっている。ごく普通で、特に変わったところはない。
 こんなところは知らなければよそ者が入り込んでくるような場所じゃない。日本全国にはさほど有名ではない隠れた古い町並みがたくさんあるのだろう。そういうところが好きで、そんなところばっかり巡っている人もいる。

小田井町並-11

 保存地区の南の終わりあたり。前に見えているのは、堤防を兼ねている庄内緑地沿いの道だ。この道のすぐ向こうが庄内緑地になっている。
 右側に並んでいる家は、昔の家屋ではなくて、昭和の家で、これも違う意味で保存したい。

小田井町並-12

 堤防道路沿いの家というか細い路地というか。公道なのか私有地なのか、よく分からない。物干し竿の台も置かれてるし。

小田井町並-13

 最後は日没。
 名古屋駅のタワー群がこれくらいの大きさで見える距離感だ。

 なんといっても中小田井のクライマックスは、一番最初の写真の場所だ。言い方を変えれば、見所はあそこと、あとは付け足しのようなものとも言える。ただ、あの一枚のインパクトは強い。
 ぎきれば違う時間帯の別のシチュエーションでもっと撮ってみたかった。おばあちゃんが歩いている昼下がりとか、夕焼け時間の中を自転車でいく高校生カップルとか、朝の小学生の登校シーンとか。
 私としては気軽に二度、三度と行けるところではないから、その他もいろいろまとめて回ってきた。いろいろといっても神社仏閣しかないんだけど。
 明日はその神社仏閣編になると思う。それが1回に収まらなければ、シリーズとしては全3回か4回になりそうだ。


又太郎良春さんはアマツヒコネ神がお好き? ---尾張旭神社巡り4弾
2008年07月17日 (木) | 編集 |
多度神社-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 尾張旭神社巡りの第一弾として最初に行ったのは渋川神社だった。その次に直會神社と一之御前神社を回って、前回が井田八幡神社だったから、今回の多度神社は第四弾ということになる。始まったのが2007年の4月だから、すでに1年3ヶ月の歳月が流れた。たった5つ回るのにこんなにかかっていていいもんだろうか。尾張旭の主な神社は9つしかないから、当初は半年くらいで軽く終わるはずだった。今のペースでは今年中に終わるかどうか怪しい。神社は待っていてくれるかもしれないけど、歳月は人を待ってくれない。残り4つは少し急いだ方がよさそうだ。
 多度神社は、昨日紹介した愛宕山大師(退養寺)から西に300メートルくらいの場所に位置している。城山街道には多度神社南という交差点があるから、あの道を知ってる人なら、あのあたりかと分かるだろう。ただ、実際に多度神社へ行ったことがある人はあまり多くないんじゃないか。奥まったところにあって道が行き止まりになっているから、偶然通りかかってちょっと寄っていくようなところではない。

多度神社-2

 普段はめったに人が訪れるようなところではないだろうけど、手水舎は一応ちょろちょろと水が出ていた。若干口をつけるのがためらわれたので、略式で手を清めるにとどめた。一つだけかかっているタオルがやけに汚れている。せっかく手を洗ってもこれで拭いたらかえって汚れそうだ。

多度神社-3

 小高い山の上にあるから、階段はやや長めだ。急ぐこともないからのんびり登っていく。
 近くに中学でもあれば、部活の練習用によさそうな階段だ。ただ、旭中は線路を越えた南側だから、わざわざここまでは来ないのだろう。私たちの時代は、こういうところでウサギ跳びだった。今思えば無茶なことをやらされたものだけど、ウサギ跳び全面禁止というのもちょっと過保護すぎるような気もする。空気椅子とか、今でもやってるのかな。

多度神社-4

 石段の左右はちょっとしたジャングル状態になっている。完全に山の中という感じだ。東にある愛宕山のように名前のついた山ではないようだけど、標高は何十メートルかありそうだ。

多度神社-5

 階段を登り切ると、広めの境内の奥に本殿が建っている。
 このときは何かの工事をしていて、境内はそわそわと騒がしかった。去年初めて訪れたときは、しんと静まりかえっていて寂しいところという印象だったのに、ずいぶん雰囲気が違っていた。
 特に用事もなく二度訪れるようなところでもないのだけど、最初のときは夕方の暗い時間で、撮った写真の多くがブレていて使えなかったので、もう一度撮り直しに行ったのだった。再訪すれば新たな発見もあるから、無駄ではなかった。

多度神社-6

 住所は新居町ということで、ここも昨日登場した水野又太郎良春の領地に属していた。室町時代の1361年、桑名の多度大社(勢洲多度社)から勧請して建立したとされている。一説では、熱田多度神社から勧請したという話もある。いずれにしても、桑名の多度山にある多度大社の流れには違いない。
 多度大社というのも創建は5世紀という古くて由緒のある神社で、昔からお伊勢参りとセットでみんなお参りしたところだった。あちらも何年か前に一度行っているけど、できればもう一度行って、ブログにちゃんと書いておきたい神社の一つだ。あのときは山歩きがメインだったから、しっかり見てなかったという心残りもある。当時はまだ神社仏閣に対してほとんど興味もなかった。
 多度神社というのはいくつかあって、ここらでは海上の森の中にもある。
 多度大社の祭神は、天照大御神の子である天津彦根命(アマツヒコネ)だけど、どうして水野又太郎良春はたくさんの神様の中からこの神様を選んだのだろう。アマツヒコネはたくさんの氏族の祖神となっているからといった単純な理由からだったのか、何かもっと深い思い入れがあったのか。
 その時代のそこの有力者が、どこからどんな神様を呼んでくるかというのも興味深いところだ。何か特別な理由がない限り、好き嫌いということだけかもしれない。外国では神の選択肢がほとんどないのに対して、日本ではたくさんの選択肢があった。こんなによりどりみどりで自分が好きな神を選べる国は他にない。アマツヒコネさん、ご指名入りましたー、ってなもんだ。

 創建から320年後の1681年に、水野家8代目の重大夫同金左右ヱ門尉が社殿を再建、1920年には本殿を修理するも、拝殿は朽ち果ててしまっていたという。1891年には濃尾地震もあった。
 戦争で更に荒れてしまい、なんとかしようではないかという話になって、現在の形に再建されたのは終戦から10年以上経った昭和33年(1958年)のことだった。寄付金や支援だけでは資金が足りず、境内の一部を売ったのだという。
 拝殿はかなり立派で、まだ50年しか建っていないから、古びた感じもない。
 このとき横の方で工事していた建物は、神社の社殿ではなかったかもしれない。

多度神社-7

 賽銭を入れるためにちょこっと扉を開けて、中をのぞき撮りしてみる。拝殿だから神様はいない。いるのはこの奥の本殿だ。拝殿をこんなに立派にせずとも、本殿をもっと大きくすればよかったんじゃないかと思ったりもした。

多度神社-8

 本家の多度大社にも別宮としてある、天目一連命(アメノマヒトツノミコト)を祀った一目連社(いちもくれんしゃ)がここにもあった。
 天目一連命は、本宮の祭神・天津彦根命の子供で、天照大御神の孫に当たる。
 刀や斧などを作って活躍した神ということで、鍛冶の神様ということになっている。多度大社には全国から金属関係の人たちがお参りに行くそうだ。
 ここは変な作りになっていて、高い塀で社がよく見えない。これは目一杯背伸びをして撮っている。足と手が震えそうだった。

多度神社-9

 左側の塀は更に高く、社の全貌をカメラに納めようとすれば、ジャンプして撮らないと入らない。中に入ろうとした人間がいたのか、有刺鉄線まで張られている。
 児社(ちごしゃ)に祭られているのは、少彦名命(スクナビコナノミコト)だ。
 とにかくちっちゃい神様で、一寸法師の元となったとも言われている。
 海の彼方から小さな船に乗り、蛾を身にまとってやって来て、大国主と兄弟の契りを結んで活躍したものの、粟の茎に弾かれて再び海の彼方に飛ばされてしまったという話だ。そんな神様いるかと思うけど、よく分からないことが多いという。
 医薬や酒造りも極めたということで、そのあたりの神様ということにもなっているようだ。

多度神社-10

 菅原道真が祀られた小さな天神様もあった。
 尾張旭はあまり神社が多いところじゃないから、一ヶ所でいろんな神様を取りそろえないといけない。天満宮として独立したところはないから、受験の合格祈願はみんなここに来るのだろうか。場所柄、旭野高校狙いの中学生とかが多いようだ。

多度神社-11

 横から見ても拝殿は立派なものだ。本殿(神殿)は、拝殿と塀に囲まれて全体を見ることができない。
 多度神社について私が紹介できるのは、これで全部だ。あまり盛り上がらなかった。
 最後に捕捉を少し。
 昨日もちょっと出てきた棒の手の無二流は、この多度神社に奉納される。水野又太郎良春の神社だから当然だろう。
 尾張旭にはその他4つの流派があって、検藤流は一之御前神社に、残り3つ直心我流、東軍流、直師夢想東軍流は渋川神社に奉納される。
 毎年10月の第二日曜日に行われる秋祭りの一環として行われるもので、その日はこのあたり一帯の神社や街が賑やかになる。私もちょこっと見に行ってみようかと思っている。
 多度神社では大晦日から元日にかけて、厄落としの行事をやっているそうだ。うちの田舎でいうところのどんど焼きみたいなものだろうか。多い年は1万人の初詣客が参拝に訪れるというから、尾張旭ではしっかり地元の神社として認知されているようだ。普段写真を撮りに来るような人がいないだけで、私が思っているよりもずっとメジャーな神社なのかもしれない。
 尾張旭の神社は残り4つ。近場だし、ブログのネタに困ったら回ることにしようか。写真だけ撮りに行っておいて、ネタの在庫にするのもよさそうだ。


幸心地区二つの寺社巡りで歴史の意外なつながりを知ることとなった
2008年07月11日 (金) | 編集 |
瀬古神社仏閣2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 瀬古の神社仏閣後編は、間黒神社と常雲寺の紹介となる。
 国道19号線を挟んで東側だから、住所としては幸心になる。でもまあ、瀬古の散策をすれば一緒に回ることになるところなので、ひとまとめにしてしまおう。
 かつてこのあたりに山田一族の城、幸心城があったとされている。19号線沿いに城跡という地名が残っていたそうだけど、今はなくなった。詳しいことは分かっていない。
 戦国時代以前、現在の名古屋市北西部から瀬戸、長久手一帯は山田氏の支配する土地だった。歴史を辿ると、平安中期、清和源氏の流れを汲む源重宗が美濃で挙兵するも(1079年)、源義家に討たれて一族は尾張の山田郡に移り住むこととなった。そこで山田氏を名乗るようになったところから始まる。
 治承・寿永の乱(1180年)で、山田重満は源氏の源行家について墨俣川で戦い討ち死に。その息子、重忠は鎌倉幕府に山田庄の地頭に任命されて、正式にこの地を治めることになる。
 後鳥羽上皇に仕えていた山田重忠は1221年、上皇が鎌倉幕府倒幕の挙兵をするとそれに従い、尾張川の墨俣で幕府軍を迎え撃つこととなった。しかし、京軍は総崩れを起こし、重忠はひとり奮戦するも退却を余儀なくされ、京都まで逃げ延びた。
 生き残った重忠らは京都で藤原秀康、三浦胤義たちと最後の一戦をしようと京都御所の上皇の元に参じるも、門は閉ざされ、中に入れてもらえない。仕方なく東寺に立てこもったところに幕府軍の大軍がなだれ込んできて、ついに命運は尽きた。ここでも孤軍奮闘したものの、味方はほとんどがやられてしまって、嵯峨の般若寺山へ落ちのびて、最後は自害して果てた。
 首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島に島流しとなり、結果的にこれが鎌倉幕府の地盤固めを進める手助けとなった。承久の乱の少し前に三代将軍源実朝が暗殺され、幕府の実権は執権の北条氏に移り、倒幕の失敗によって幕府による朝廷の管理が厳しくなったことで朝廷は徐々に力を失っていった。
 承久の乱なんて久々に聞いて懐かしいと思った人も多いだろうけど、日本史の教科書に出てくるような事件と関係のある人や土地が自分の身近にあったりするから、そういうところへ実際に行ってみると歴史の理解がより深まる。名古屋周辺というのは、戦国時代だけでなくそれ以前の歴史も面白いことを私も最近知った。
 前置きが長くなったけど、そろそろ間黒神社に話を戻そう。

瀬古神社仏閣2-2

 神社に入っていくと、なにやら大がかりな工事をしている。トラックも入って、古川に架かっている橋が壊されてかけている。何事だ。
 何をしてるのかよく分からなかったのだけど、ゆっくり参拝できるような雰囲気ではなかった。遠巻きに眺めつつ、写真だけ撮った。

瀬古神社仏閣2-3

 横に回ってみる。どうやら工事は、橋そのものの架け替えではなく、欄干を付け替えるものだったようだ。老朽化して危ないということだろうか。
 この神社の中には古川(神戸川(こうどがわ))が流れていて、境内を南北に分断している。こういうふうに川が流れている神社はあまりない。何故こういう配置にしたのか、よく分からない。
 分からないといえば間黒神社の名前の由来もよく分からない。このあたりの地名でもないし、ネットで検索しても、ここと茨城県にあるものと2つしか存在しないようだ。読みは「まぐろ」神社だ。間が黒いってどういう意味だろう。
 一説によれば鎌倉時代創建というけど、尾張初代藩主徳川義直の時代に(1636年)に、この地区の鎮守を祀るために建てられたというのが実際のところのようだ。

瀬古神社仏閣2-4

 こちらが拝殿と本殿なのだろうけど、入って行きづらくて、外から眺めるにとどまった。
 今頃は工事は終わって平静を取り戻しただろうか。落ち着いたところでもう一度行ってみたい気持ちもある。

瀬古神社仏閣2-5

 本殿あたりを横からのぞき見る。
 祭神は須佐之男命で、その他、多紀理姫命、多岐津姫命、大山祇命、市杵島姫命、天照大御神が祀られている。
 境内社には白山社、金毘羅社、秋葉社、津島社があり、御岳信仰の名残もあるとされる。

瀬古神社仏閣2-6

 次に訪れたのが、間黒神社からほど近いところにある常雲寺というお寺だ。
 ここは愛知四国の73番というのだけど、そんな霊場もあるのか。昨日紹介した石山寺は尾張四国観音で、愛知四国とはまた別だ。尾張西国だけでなく、尾張四国というのも別にあるらしい。気がつけば街中が霊場だらけだった。
 さすがにこんなところでお遍路さんの格好をしてる人は見ないけど、札所になってるから、御朱印をもらいに回っている人もいるのだろう。ただ無目的に歩くだけでは面白くないから、御朱印集めのために歩くというのは、老後の趣味としては悪くない。
 このお寺の由来や歴史はよく分からなかった。調べても情報がほとんど出てこない。

瀬古神社仏閣2-7

 分かったのは、曹洞宗のお寺だということくらいだ。誰がいつ開基したのかも調べがつかなかった。
 曹洞宗というのは、鎌倉時代に道元が宋に渡って持ち帰った教えで、道元自身は宗派を嫌ったものの、のちに禅宗に取り込まれて、その一派となった。
 鎌倉時代に臨済宗が武家政権に支持されたのと対照的に、地方豪族や一般に支持されて広まった。禅宗の庶民派ということで、今でも曹洞宗のお寺は多い。大本山は福井県の永平寺だ。
 曹洞宗の学校としては、愛知の地元なら愛知高校・中学や愛知学院がそうだし、豊川稲荷が曹洞宗という関係もあるのか、豊川高校もそうだ。全国区でいえば駒沢関連や東北福祉大なども曹洞宗の学校だ。

瀬古神社仏閣2-8

 ん? 見ざる、聞かざるがいるぞ。三猿といえば日光東照宮で、こういう寺にいるというイメージはなかった。帰ってきてから勉強して、ようやく理由が分かった。今日はなんだか勉強っぽい内容になっているけど、あと少しおつき合いを。
 この堂は、庚申堂(こうしんどう)という名前で、青面金剛童子(しょうめんこんごうどうし)を本尊として祀ってある。
 庚申というのは中国道教の民間伝説の庚申待から来ている。人の頭、腹、足には三尸(さんし)の虫がいていつもその人間の悪事を見張っているという。庚申の日(干支の組み合わせの日で、帝釈天の縁日でもある)の夜、人間が寝ている間に天に昇って天帝に報告にいくということで、悪いことを報告されてしまうと寿命を縮められたり、死後地獄に落とされてしまうから、その日の夜はみんなで寄り集まって神様を祀り、寝ないで夜を明かす風習が生まれた。これを庚申待(こうしんまち)という。
 これを3年間、18回続けると記念に庚申塔を建てる習わしで、庚申塚とも呼ばれて、今でも各地に塔や地名として残っている。これが流行ったのが江戸時代で、村や地域単位で行ったことでその集団を庚申講と呼んでいた。
 どうして猿と結びついたかといえば、庚申信仰の申と猿との洒落のようなもので、庚申塔にはよく三猿が彫られるようになったところから来ている。
 三猿は日本の教えではなく、元々古くから世界中にあったものとされている。古代エジプトやローマにもあったというから古い。日本へは8世紀頃に天台宗の教えとして伝わったといわれている。有名になったのは、やはり日光東照宮の左甚五郎の三猿からだろうと思う。
 仏教における庚申の本尊は青面金剛(帝釈天とも)なのに対して、神道では猿田彦神(猿田彦命)とされている。これも猿との連想だろう。
 ニニギノミコトが天孫降臨しようとしていたとき、地上で光り輝いて行く手を照らしていたのが国津神の猿田彦で、道先案内人としてのちに道祖神とも結びついている。
 仕事を終えた猿田彦は故郷の伊勢の五十鈴川へ帰り、松阪で漁をしているときに溺れ死んでしまう。
 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が天照大神を祀るのにふさわしい土地を探し歩いていたときに伊勢の五十鈴川を紹介したのが、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)で、一族は代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。
 猿田彦神を祀った神社としては、伊勢神宮の近くにある猿田彦神社が有名だ。滋賀県の白鬚神社の祭神ともなっていて、そこから白鬚明神とも呼ばれている。
 常雲寺や間黒神社がある幸心という地名は、この庚申堂から来ているという説と、猿田彦神がこの地で鼎(かなえ)や竃(かまど)を作っていたことから幸神と呼ばれ、それが転じたという説がある。
 いずれにしても、いろんなことが意外なところでつながりを持っていて面白い。近所の寺社巡りと、篠島行きと、次に行く予定の日光がこうもつながってくると、何か作為的なものを感じたりもする。すべての歴史は直接的、間接的につながっているといえばそうだけど。

瀬古神社仏閣2-9

 三猿のはずだけど、堂の前には見ざると聞かざるしかいなかった。言わざるはどこにいたんだろう。
 この三猿像は、昭和8年に地元の人が寄進したものだそうだ。

 今回はいつも以上にお勉強っぽい内容になった。私としては勉強になって楽しめたのだけど、わー、今更日本史なんて勉強したくないよー、という人もいたかもしれない。日本史といえば暗記物に属するもので、私も学生時代は苦手だった。楽しくなかったと言った方がいいか。
 大人になって、自分であちこち回って、勉強するようになってから、日本史の楽しさに目覚めた。流れとつながりを理解していけば、時代の変遷も見えてくるし、分かってくれば面白くなる。学校の教師はこういう教え方をして欲しかった。年号なんてどうでもいい。歴史を作ったのは人間に他ならず、人と人との思惑がぶつかるところにドラマが生まれる。日本史は本来、すごく面白い教科のはずなのだ。
 今後も神社仏閣や旧跡巡りを通して歴史の勉強をしていきたいと思う。



近所に歴史あり、御畳奉行と行く瀬古の古寺社巡りツアー
2008年07月10日 (木) | 編集 |
瀬古神社仏閣-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 少し前に水屋を探して守山区の瀬古を散策した。今日はそのとき立ち寄ったお寺と神社を一つずつ紹介しようと思う。同じ日にもう一つずつ寺社を回ったのだけど、写真が多くて一回分に収まりきらなかった。残った分はまたいずれ近いうちにということで。
 最初に行ったのは石山寺(いしやまじ)というお寺だった。表通りからも入れたようだけど、私はあえて裏道からアプローチした。民家の間の細い道を進んでいくと、四つ角に石山寺と彫られた石を見つけた。こういう石ってなんて呼ぶんだろう。石碑でもないし、石柱とでもいうんだろうか。ここからすでに石山寺の敷地内が始まっているという印かもしれない。その横には手書きでこの先行き止まりと書かれた木札がかかっている。寺があるのか、行き止まりなのかどっちなんだ。
 進んでみると、右手に寺の入り口があって、突き当たりは高牟神社だった。行き止まりといえばそうかもしれないけど、ちょっと紛らわしい。車に対しての注意書きだろうか。
 いずれにしても、夏場は葉が生い茂っていてよく見えない。

瀬古神社仏閣-2

「尾張西國第十三番 金剛廿一大師十六番 石山寺」と彫られれている。四国八十八ヶ所やら西国三十三ヶ所やら、日本全国にたくさんの巡礼地があって、人々はそれらを巡り歩いてきた。尾張にもいくつかあったようだけど、歴史の中で衰退したり、戦争で焼けてしまったものもあっていつしかうやむやになっていたのを、戦後の昭和30年(1955年)にもう一度ちゃんと決め直そうということで作られたのが尾張西国三十三観音だった。天白区の1番一乗院から犬山の33番継鹿尾山寂光院までの33ヶ所に定められた。
 顔ぶれを見てみると、けっこうマイナーなところが多くて、私は5つしか行っていない。気がついたらほとんど行っていたなんてことにはなりそうにないから、制覇したければ意識的に回るしかない。
 それはともかくとして、今回は石山寺についてだ。ここを訪れたのは、瀬古を散策したからというだけでなく、上の写真の山門が見たかったらというのが強かった。表からは木々が邪魔になってよく見えないから、さっそく中に入って見てみよう。

瀬古神社仏閣-3

 ほっそりしてるから迫力には欠けるものの、優美さがあっていい。この山門は好きだ。これを見るためだけでも瀬古へ行く価値はある。
 この寺は、御畳奉行の日記で有名な朝日文左衛門がたびたび訪れた寺で、「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき」にも何度か登場している。
 文左衛門の屋敷は、名古屋城から東に2キロほどの東区主税町(ちからまち)あたりにあって、そこから石山寺までは5キロくらいだから、当時としてみればごく近場という感覚だったのだろう。善光寺街道を通って矢田川を渡り、味鋺あたりで釣りをして、竜泉寺や大森の大森寺(だいしんじ)まで足を伸ばすこともあったようだ。
 朝日文左衛門の日記を読むと、筆まめだけが取り柄のまったくのダメ武士で、愛すべき人だったことが分かる。江戸では将軍綱吉の生類憐みの令が出されているのもおかまいなしに平気で毎日のように釣りを楽しみ、禁止されている芝居見物に変装して出かけたり、酒を飲み、美味しいものを食べ、茸狩りに出かけ、気が向けば博打をしたり、女を買ったり。何しろ仕事は月に3日くらい城に行けばいいだけなので、時間がある。給料もそこそこだから、遊んでるより他にすることがない。
 筆まめぶりは尋常ではなく、今でいうブログ中毒のようなものだ。食べたものから、身の回りの出来事、江戸での大きな事件や三面記事的なニュースネタ、藩でのスキャンダルや裏事情、季節の風物詩から芝居や花火大会の感想などなど、事細かに毎日27年間も書き続けていたからすごい。どうでもいいことばかりのようでありながら、江戸時代の武士の暮らしぶりがこれほどよく分かる日記は他にない。
 最後は酒好きがたたって肝臓を悪くして、45歳で死んでしまった。80歳くらいまで生きていたら、もっといろんなことが知れたのに、もったいないことをした。
 そんなことを思いながら石山寺を参拝するとまた違った思いを抱くんじゃないだろうか。

瀬古神社仏閣-5

 境内の庭園はきれいに整備されていて名刹っぽい趣がある。
 奥に見えているのが本堂で、左手には観音堂がある。
 鎌倉時代の1245年前後、道円によって開基されたとされている。
 江戸時代に入ってから、尾張二代目藩主・徳川光友が再建するものの、明治24年濃尾地震で倒壊。翌年に再建されるも、第二次大戦の名古屋空襲で燃えてしまう。ただし、観音堂と山門は焼け残って現在に至っている。本堂は平成8年に再建されたもので、ごく新しい。
 本尊は阿弥陀如来で、薬師如来、釈迦如来像とともに鎌倉初期の恵心僧都作とされている。

瀬古神社仏閣-6

 こちらが古い観音堂。古いといっても、明治に再建されたものだろうから、そこまで古くない。
 この左手には地蔵さんが並んでいて、奥は竹林になっている。

瀬古神社仏閣-7

 この寺がいい寺だと思わせたのは、やたら蝶やトンボが飛び交っていたことだ。オハグロトンボまでいて驚いた。
 こういう場所では蝶に霊魂が乗り移るというし、見る人が見ればたくさんの霊がうろつきまわっているのかもしれない。私はまったく見えないから平気だ。ヒョウモンチョウを撮って喜んでた。

瀬古神社仏閣-4

 最後にもう一枚、山門をかっこよく撮る。
 よく見ると屋根にシャチが乗っている。さすが尾張のお寺だ。

瀬古神社仏閣-8

 山門から左に向かって30秒も歩くと高牟神社に着く。ほとんど隣り合わせといっていいくらいだから、昔は神仏混交の神宮寺だったのかもしれない。
 創建は奈良時代の717年と古く、「延喜式」にも春日部高牟神社として載っている式内社だ。こんな奥まったところにあっては訪れる人も少ないだろうし、パッと見はどこにでもあるありふれた神社という感じなのに、実は格式の高いところだ。
 高牟神社というと千種区の今池にある同じ名前の神社の方が有名だろう。あちらは、尾張を支配していた物部氏(もののべし)が武器を納めた倉があった場所に建てられたということだけど、こちらとの関係はよく分からない。名東区の高針にも同じ名前の神社がある。

瀬古神社仏閣-10

 本殿の前に天満宮でお馴染みのなで牛がどんと構えている。はてな? と思う。なんで、こんなところにキミが? 狛犬は鳥居の外にいるだけで、境内にはいない。
 ここは高見という称号をもらっていて、江戸時代までは高見天神と呼ばれていたそうだ。今は別名瀬古天神ともいう。どうして天神というのか不思議なのだけど、「本国帳」には従3位高牟天神、「尾張本国内神明帳」には従3位上高見天神とあることから、最初の頃から天神様と関係があったことが分かる。ただ、菅原道真は相殿で、祭神は高皇産霊命(タカミムスビノミコト)だ。
 菅原道真は845年生まれで903年没だから、創建された717年にはまだ全然生まれていない。延喜式の一応の完成が927年ということで、この間に天神様の神社に成り代わっていたということだろうか。
 何年のことか分からないのだけど、山田次郎重忠という人が奉納した菅原道真の画というのがあったらしく、そのことがきっかけとなったのかどうか。江戸時代にはどういうわけかそれが一般家庭のものとなっていて、明治になってから神社と話し合いで半年ごとに持ち合うことになったらしい。ただし、それは戦争の時焼けてしまって今はないという。

瀬古神社仏閣-11

 高皇産霊命というのもよく分からない神様で、「古事記」では高御産巣日神(タカミムスビノカミ)として、天地創造に関わった神として登場するものの、「日本書紀」ではちらりとしか出てこない。
 天照大神(アマテラスオオミカミ)の息子の天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)と結婚したのが高皇産霊神の娘栲幡千千姫命で、その間に生まれた子が天孫降臨したニニギノミコト(瓊瓊杵尊)という。
 天御中主神、神皇産霊神とともに性別もなく、人間界からは姿を隠している神(独神)ということで、その実像はベールに包まれている。
 そもそも誰がそういう神様をこの地に祀ろうとしたのか、詳しいことは分かっていないようだ。いつの間にか、天神さんに主役が入れ替わってしまったようなところがある。
 伊邪那岐命、素戔嗚命、天照皇大神、大山祇命、菊理媛命も祀られている。
 社殿は一度900年に再建され、1767年には矢田川が決壊して水の底に沈んでいる。1825年にも修理と造営が行われ、昭和20年(1945年)の空襲で社殿は焼け落ちてしまった。現在のものは戦後、昭和36年に建て直されたものだ。

瀬古神社仏閣-9

 あまり撮りどころがない神社なので、こんなものでも撮ってみる。水がちょろちょろちょろと出ていた。エコかな、と思う。

 京都や奈良まで行かなくても、近くに歴史のある神社仏閣はあるものだ。うちの近所と奈良時代や平安時代というのはイメージが結びつかないのだけど、その頃からここにも人が住んでいて、都と同じ長さの歴史があるのだということを再認識した。
 石山寺はいいお寺だし、高牟神社は不思議な神社だから、両方セットでオススメしておこう。近い人は一度訪ねていってみてください。遠くから行くほどのところもでもないと思うけど、朝日文左衛門が遊び歩いていたところを辿る散策というのは楽しいかもしれない。川で釣りをして、寺巡りをして、ご馳走を食べて、芝居を見に行って、酒を飲んで、博打をして、家に帰って日記を書いて寝る。関ヶ原の戦いから100年、平和っていいような悪いような。




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