現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
時間不足により海上の森内外の断片風景写真を並べて簡単更新
2008年07月13日 (日) | 編集 |
海上の森2-1

Canon EOS 20D+TAMRON SP 90mm f2.8



 今日は海上の森の続きで花編をと思っていたのだけど、ちょっと時間がなくなったので、海上の森の断片写真を並べる簡単更新になってしまう。
 一枚目は、森に入る前、ちょうどいいタイミングで通りかかった愛知環状鉄道の電車だ。車を運転しながらのドライブ撮りだったのが惜しまれる。電車をファインダーの中におさめるので精一杯だった。
 海上の森近くは電車撮りのいいポイントがあるんじゃないだろうか。このあたりも夕焼け時間を待って撮れば、なかなかいい写真になりそうな気がする。

海上の森2-2

 あの森の深さを写真で伝えるのは難しい。深いところへ行けば本当に深いし、浅いところは浅い。上の写真は標準的な道と言っていいと思う。人がよく歩いている森だから、コースを逸れなければしっかりとした道ができている。道は広くなったり、狭くなったり、アップダウンもある。
 散策路から外れたり、谷の方に転げ落ちていくと遭難コースだ。街に近い森とはいえ、侮ると痛い目に遭う。日没後は本当に危険だ。

海上の森2-3

 ネムノキというのは、野生種なのか人の手によって植えられる木なのか、判断がつかないところがある。公園などに植えられているかと思えば、こんな森の中に自生したりもしている。
 海上の森で集落近辺以外に人の手によって持ち込まれた木や花がどれくらいあるのかは分からない。ときどき迷うことがある。本当にこれって自生だろうか、と。
 森で見る野性味溢れる藤や桜もいいもんだ。花本来の姿を教えてくれる。

海上の森2-4

 昨日の虫編に収まりきらなかった写真を何枚か。
 久しぶりにカタツムリを見た。昔は雨上がりの塀などによく這っていたのに、最近は街中で見かけなくなった。
 カタツムリやでんでん虫というのは俗称で、ウスカワマイマイのように何とかマイマイという名前のものが多い。これは何マイマイか知らない。カタツムリもいろんな種類がいるのだろう。

海上の森2-5

 ちょっとアブっぽいやつ。アブだろうか。
 田舎の家によくアブが入ってきて、刺されると痛いと子供の頃から聞いていたから、今でもアブは怖い。このときもそっと近づいてなんとか撮ったけど、これ以上近づくのは無理だった。
 二兎を追うものは一兎をも得ずと同じような意味で虻蜂取らずという言葉があるけど、アブもハチも最初から取ろうとは思わない。

海上の森2-6

 ショウリョウバッタ。通称チキチキバッタ。飛ぶときのチキチキチキという音は遠い日の記憶として鮮やかに残っている。
 メスの方がずっと大きな体をしていて、オスの方が小さい。写真はオスだと思う。

海上の森2-7

 春に行ったときはまだ木組みだけだったけど、すっかり完成して立派な案内標識になっていた。
 けど、これだけじゃまだ不親切だ。ここまでやるなら略地図を付けて欲しいし、少なくともそれぞれの場所までの距離と時間を書くべきじゃないか。まあ、そのうち誰かが手書きで書き加えることになるとは思うけど。

海上の森2-8

 湿地帯はこんなヘドロっぽくなっていた。これで正常なんだろうか。たぶん悪い水ではなくて、藻のたぐいなんだろうけど、それにしても毒々しい。
 こんな状態だからというのもあるのか、モウセンゴケ類がすごく少なくなっていたのは気になった。以前は一面が真っ赤になるくらい生えていたのに。

海上の森2-9

 赤池もさっぱり。スイレンが見られるかと思って足を伸ばしたのに、何も咲いていなかった。夏場はもっと浮き草もあったはずなのに、このあたりの環境も変化してるのだろうか。

海上の森2-10

 太陽は厚い雲に遮られて、顔を出したり隠れたり。梅雨明けはまだもう少し先になりそうだ。
 けど、雲に夏の力強さが出てきた。その年最初に入道雲を見ると、いよいよ真夏が来たなと思う。

海上の森2-11

 川のせき止めというか、水路というのか、模様が面白かったので撮ってみた。こうやって水の流れを調整するやり方もあるんだと、ちょっと感心した。

海上の森2-12

 森から出てきたところ。鈍く光った赤い太陽が沈みゆく。
 森のすぐ外に、あいち海上の森センターができて、このあたりの道も整備されてきれいになった。ここの行き止まり付近に何台か車をとめておけるところがあるので、最近はこっちから森に入ることが多い。四つ沢は森の入り口近くの駐車スペースが閉鎖されて、森まで遠くなってしまった。

 今日のところはとりあえずこんなところにしておく。もう一回分、花編が残っているから、来週のどこかで紹介したい。


約束されてない発見と出会いがあるところ ---2月の海上の森<後編>
2008年02月08日 (金) | 編集 |
冬の海上の森後-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 2月の海上の森後編は、冬枯れの大正池風景から。
 夏場は水を満たす大正池も、冬場は水が抜かれてこんな風景が広がる。ここはもともと川の流れる森だったところで、水をせき止めてダムにしたため、木々が水没して立ち枯れてしまった。水があるときは水面から立ち枯れた木がニョキッと顔を出す風景が絵になるけど、こうなってしまうと寒々しい。まるで死の世界のようだ。放射能に汚染されて木が枯れてしまったようにも見える。
 これも冬場に行かないと見られない光景だから、貴重といえば貴重だ。ただ、ここは夕焼けスポットでもあるので、水がないときは夕映えが見られないのが残念ではある。

冬の海上の森後-2

 水が抜かれているとはいっても完全に流れが涸れているわけではなくて、ちょろちょろと小さくは流れている。こんな流れでもせき止めれば大きな池になる。
 これだけ水量の増減が激しいと、魚は棲めない。たぶん、夏の間も大きなやつは泳いでないのだと思う。小魚はどうか分からないけど。だから、このあたりは鳥などの生き物も少ない。周辺には花もあまり咲かない。鳥はこの池の向こうの遠くで鳴いている。
 海上の森で人が足を踏み入れることができるのは、全体の10パーセントか20パーセントくらいだろうか。どこにどんな生き物がいるかは、まだまだ未知の部分が多そうだ。珍しい野草なども人知れず咲いているのだろう。

冬の海上の森後-3

 枯れた風景ばかり見ていると喉が渇きそうだから、水の流れを見て渇きを癒そう。
 ここの水は飲めるのかどうか分からない。飲んで飲めないことはないのだろうけど、相当追い込まれないと私は飲みたくない。大正池や篠田池の上流は大丈夫そうだ。森の中の集落には上下水道が通ってるんだろうか。

冬の海上の森後-4

 夕暮れ近づく冬枯れの木々のシルエット。
 ここで大物とはいかないまでも中物くらいの見慣れない鳥を見た。鳴き声も聞いたことがないやつだったから、ちょっと珍しいやつだったかもしれない。歩いていく先でパッと飛び立って、目の前を横切って奥に入ってしまった。少し離れたところでしばらく鳴いていたけど、正体は結局分からずじまいだった。
 この森の中には、オオタカなどの猛禽類や、フクロウ、サンコウチョウ、サンショウクイなどもいるというし、夜はムササビも飛んでいるらしい。タヌキなんかもたくさんいそうだ。猿はいないだろうけど。見たいけどキャンプを張ってまでとは思わない。

冬の海上の森後-5

 これが集落の中心地。ここだけで3、4軒くらい。少し離れたところにも数軒あって、全部で10軒くらいなんだろうか。きっと昔からここに住んでいる人たちで、野生の生き物が好きでここに住んでいるわけではないのだろうかと思う。海上の森も万博騒動以降、だいぶ知られるようになって、訪れる人も増えた。前より住みづらいと感じているかもしれない。
 相変わらずの風景ではあったのだけど、一つ大きな変化があった。田んぼや畑のある方に一面金網が張られて自由に入っていけなくなったことだ。たぶん、イノシシなどのケモノよけではあるのだろうけど、人も入れないことになったんだろうか。赤池とか湿地帯や物見山へ抜ける道がふさがれるとなると厳しい。一時的なものなのかどうなのか。
 山里の日暮れは早い。太陽が山の向こうに隠れて見えなくなってしまうと急激に暗くなる。ここから駐車場までは20分以上かかるから、こうなると急いで戻らなくてはいけない。

冬の海上の森後-7

 帰りを急いでいたら、茂みの中で鳥がゴソゴソっと動いた。スズメか何かだろうと思ったけど、それよりちょっと体が大きくて動きが重たい。身軽さに欠ける。これはスズメじゃないぞと思い、まずはおさえとして標準ズームで何枚か撮っておいた。だいぶ暗くなっていたこともあって何者かは分からない。ただ、初めて見るやつであることは確かそうだ。
 家に帰ってきてトリミングして見てみると、おー、ルリビタキのメスではないか。これは初めて撮った。見たこと自体が初めてだ。オスは背中全体がルリ色をしていて、日本における青い鳥の代表だ。メスは褐色の羽で、尾っぽだけが青色をしている。幼鳥もそんな感じではあるのだけど、今の季節に若鳥ということもないだろう。
 一年中日本にいる留鳥で、夏場は標高の高い山にいるので目にする機会は少ない。冬になると暖かい地上に降りてくるので冬鳥というイメージが強い。
 冬場も薄暗い林の地面近くにいることが多いので、なかなか撮るのが難しい。

冬の海上の森後-8

 様子を見ながらゆっくり静かに望遠レンズに交換したのだけど、レンズを向けたとたんに飛んだ。ああ、残念。そのあと住人らしき人の車が通ったこともあって、木の上の方にいってしまったまま降りてこなかった。とまった位置も悪くて、こんなふうにしか撮れなかった。
 次のチャンスがいつ訪れるか分からないけど、次こそちゃんと撮りたい。鳥との出会いは突然で撮れる時間は限られるから、常に撮れる体勢を保っていなくてはいけないと、あらためて思い知る。

冬の海上の森後-9

 ここまで暗くなってしまうと、空しか撮るものがなくなる。林道に灯りなどはない。夕方までいるつもりなら、ライトを持っていった方がいいかもしれない。道さえ外れなければ危険なことはないのだけど。

冬の海上の森後-10

 森を後にして、玄関口ともいえる屋戸橋まで戻ってきた。ここまで来れば民家も集まっているし、灯りもあるから安心だ。
 空は夕方から夜に移り変わろうとしていた。

 2月の海上の森は、やはりまだシーズンオフだった。野草は3月からで、ベストシーズンは4月から6月くらいだろう。花と虫と鳥とで、初夏の森は賑やかになる。歩くにもすがすがしくて気持ちいい。暑い夏になるとまた花は寂しくなる。
 個人的には湿地のハルリンドウを楽しみにしている。今年こそギフチョウという気持ちも強い。そんなことを想像していると春が待ち遠しくなる。
 これで海上の森行きは10回くらいになっただろうか。もう少し行ってるかもしれない。歩ける範囲で私が行ったところといえば、3割くらいのものだ。まだまだ知らないところが多い。本当は詳しい人と一緒に行っていろいろポイントを教えてもらうのがいいのだろうけど、本格的に歩くとなれば、5時間、6時間ではきかない。私としてはなんとか3時間コースくらいで勘弁してもらいたい。今回歩いた基本コースなら、写真を撮りながらでも1時間半くらいだから、お手軽コースとしてオススメできる。
 海上の森は、ゆったりしたテンポの長編映画を楽しむような気持ちで楽しむといい。悪く言えば間延びして退屈なところでもある。広さのわりに野草や野鳥の密度が低いから。ただ、逆に言えば発見の出会いの喜びが大きいとも言える。見たいものが必ず見られると約束された場所じゃない。
 だから、自分で行って、自分なりに歩いて、マッピングして、少しずつ攻略していくというのが正しい楽しみ方のようにも思う。行きさえすれば、必ず何かしらの出会いや発見があることだけは保障します。


冬の森が生み出す光と影の風景 ---2月の海上の森<前編>
2008年02月08日 (金) | 編集 |
冬の海上の森前-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 海上の森に最後に行ったのは去年のいつだったろう。確か秋には行ってないから夏だったろうか。調べてみると、6月の終わりだった。そんなに行ってなかったか。毎月とはいかないまでもワンシーズンに1回は行っておきたいところだ。車で30分の距離だし、お金もかからないところなんだから。
 というわけで、半年以上ぶりとなった海上の森へ行ってきた。時期的には今の季節が一番見所が少ないことは分かっていたからちょっと気が向かないところもあった。ただ、行けば何かがあるのが海上の森というところだ。撮るものも何かはある。ここで行っておかないとまたきっかけを失ったまま先延ばしになって、春にさえ間に合わないかもしれない。行こうと思ったときが行きどきだ。
 時間もなかったので、基本コースを歩くことにした。四ツ沢から大正池、集落とプラスアルファくらいを考えて出発する。ただ、いつもとまったく同じでは面白くないということで、今回は真っ直ぐ集落に向かう道ではなく、北海上川沿いの北ルートを選んだ。こちらも以前二度ほど歩いたことがある。
 結果的に収穫はそれほど多くなかったものの、写真の枚数だけは例によって多くなった。一回に収まらなかったので、前後編の二度に分けることにした。今日はその前編をお届けします。写真のテーマは、冬の森の光と影。

冬の海上の森前-2

 海上の森の中には大きな川が3本ほど横断するように流れていて、その支流の小さな流れがいくつも走っている。大正池や篠田池などは、自然の池ではなく砂防堰堤によって出来たダム池だ。ある程度人の手も入っていて、まったくの手つかずというわけではない。それでも、人が歩かない道から一歩入ると迷子必至の深い森であることに間違いはなく、単独で行って道に迷ったまま日没になると出られなくなる可能性もある。あまり甘く見ると危険だ。捜索隊を出されたりすると、その人たちの日当を払うことになって大変だ。携帯の電波は場所によって入るところと入らないところがある。
 清流には川魚がたくさんいてということはなく、意外と生き物の影が少ない。夏場は小さな魚が見えたりするものの、魚釣りができるような深い川はない。ニジマスなんかが泳いでるような川を想像していくと拍子抜けする。沢ガニなども見たことはない。よくよく探せばいるんだろうか。
 こういう水辺に鳥がいるのは朝から午前中だろう。いつも行く夕方にはいない。

冬の海上の森前-3

 自然の竹林。春になるとタケノコ堀の人が出没しそうだ。
 ところで、この森は誰の所有物になってるんだろう。愛知県とかだろうか。万博会場にならずに済んでよかったにしても、この森を今後どうしていくかについてはなんとなく曖昧なままとなってしまった感がある。多少整備もしたし、あとはこのままでということなのか。
 海上の森2005番地に住んでいることになっているモリゾーとキッコロの扱いは今後どうなっていくのか。森の中に木の上の家を造って、そこに着ぐるみを着たバイトを置いておくというのはどうか。いろんな意味で無理な話だとは思うけど。

冬の海上の森前-4

 写真では道に見えないかもしれないけど、道だ。道といったら道だ。大丈夫、人が歩いたあとがついてるから歩くのに問題ない。
 大正池沿いのコースは、多少険しいので、ちゃんとした靴を履いていかないと危ない。すごく高い崖というわけではないにしても、すべって転がり落ちたらタダでは済まない。私は転んでもデジだけは死守するつもりで慎重に歩いた。
 多少靴がどろんこになってもいいなら、この時期は大正池の中を歩くチャンスだ。水量が大きく減って枯れ池になってるから、普段は水の底になっているところを歩くことができる。
 こちらのコースは、年間を通じて野草の少ないところだから、写真向きではない。歩きをメインにする人用だ。野草写真メインなら素直に集落へ向かう道を選んだ方がいい。
 鳥の声は遠くに聞こえるだけで姿は見えず。オオタカなんてどこにいるんだろう。

冬の海上の森前-5

 海上の森では基本的には人に会わない。でも、たまに会うからぼぉーっとして歩いているとギョッとすることがある。誰もいないはずの森で人が出会うと、お互いにびっくりする。それでも平静を装ってこんにちはと挨拶はする。街ですれ違っても挨拶しない日本人も、どういうわけか森とか山とかですれ違うとかなりの高確率で挨拶を交わす。その習性は面白いなといつも思う。

冬の海上の森前-6

 鳥もいないし、野草には早すぎるしで、すぐに撮るものがなくなった。仕方がないので自分の影でも撮ってみる。だいぶ影が長く伸びて日没が近づいていることが分かる。
 大正池のあと、少し時間がありそうだったので篠田池を目指したのだけど、これが失敗。一番遠回りの真ん中コースを選んでしまったのでえらく時間がかかって、そのまま進むと日没になりそうだったので、途中で引き返すことになってしまった。奥まったところにある篠田池で日没を迎えるのは厳しい。森や山では引き返す判断も大切だ。
 篠田池へ行くなら、四ツ沢から北に入って、分かれ道で左方向へ行って道なりに進むのが一番早い。それなら30分もかからないだろうと思う。
 篠田池も特に何があるというわけでもないところなのだけど。

冬の海上の森前-7

 見上げると枯れ木が円陣を組んで何か相談しているようだった。私のことについて何かひそひそ話をしていたのかもしれない。
 それにしても見事な冬枯れだ。葉っぱを一枚残らず落としてしまって、冬の寒さに耐えている。でももう春は近い。新芽の準備は確実に進んでいるのだろう。あと3ヶ月もすれば、空が見えないほど葉が生い茂る。

冬の海上の森前-8

 ヒノキ林に太陽が差し込んで、光の帯を作った。見た目はもっと劇的に美しかったのに、写真に写し取ることができなかった。残念。
 このあたりは植林のような気がするけどどうだろう。木を切ることは必ずしも悪いことではなくて、計画的に伐採していかないと森は荒れる一方になる。適度に切ることで大木の下まで光が差し込むようになって小さな植物を育て、生き物も豊かになる。切った分だけまた植林すればいい。そうやって日本人は昔から里山と持ちつ持たれつの関係を築いてきた。

冬の海上の森前-9

 森の中の太陽は、とても貴重なものに思える。差し込む場所が限られていて、特に冬場はありがたみを知る。日が当たっているところと当たってないところでは、体感温度がまるで違う。
 今日は10度まで上がって暖かい日だったけど、日没後は急激に冷えた。

冬の海上の森前-10

 光が当たるところには色が生まれる。写真は光が生み出すコントラストだ。影がなければ物の存在を知ることができない。
 光が作る影と色でこの世界は成立している。写真もそうだ。人間界も例外ではない。

冬の海上の森前-11

 日没後の空を映す小川の水面。
 光がなくなれば森の中で撮れるものはほとんどない。

 前編はここまで。後編につづく。


森を歩きながら考えは地球を超えて宇宙まで行って帰ってきてただいま
2007年06月25日 (月) | 編集 |
森の光と影-1

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-55mm(f3.5-5.6 AL), f6.3 1/10s(絞り優先)



 初夏の海上の森は、強い光と影のコントラスト。生い茂った葉で光がさえぎられた森の道は、暑いけど涼しい。頬に流れる汗を吹き来る風がなでていく。
 蝉にはまだ早く、夏鳥たちの声だけが森に響いている。日陰では歩くたびに白い蛾が足もとを舞い、ときどき思い出したようにトンボが飛びすぎる。この時期の森は花が少なくて、目にはいるのはただただ緑ばかり。
 行き交う人の姿もなく、森の中では自分はあくまでも訪問者でしかないことを思い知る。森の中では森の生き物たちが主役だ。

森の光と影-2

 光のあるところに必ず影が生まれ、影があるから光の存在を知ることができる。私たちは光と影の両方を知ろう。どちらかが欠ければ片方も存在できなくなってしまう。世界は決して光だけで存在することはできないのだ。

森の光と影-3

 木を見て森を見ず、森を見て木を見ず。こんなにたくさんの樹木や草花は必要ないと思うかもしれないけど、多くのものが集まることで名前が変わるものがあり、違う意味を持つようになるものがある。たとえば木が林になり森になるように。人が家族になり国民になり人類になるように。木なんて少しくらい切り倒してもいいじゃないかというのは、人間なんて少しくらい切り捨ててもいいではないかというのと同じようなものだ。一本ずつに意味はなくても、集まって存在している一本いっぽんが全体を形作っている。
 この世界に無駄なものはない。無駄なものがあるとすれは、それはこの世界そのものだ。

森の光と影-4

 青は藍より出でて藍より青し。水面に映った青空は空の青空よりも青い。私たちは実像よりも虚像から多くのものを得ている。小説を読んで何者かを目指したり、テレビの向こうに恋をしたり、現実よりも美しい世界に溺れたり。
 鏡に映る自分の顔は本当の顔ではない。
 青い水面を手ですくってみても、それは青じゃない。

森の光と影-5

 シダの森を見て、共生ということを思う。地面近くの暗いところでも生きられる木と、光に向かって伸びなければ生きていけない木が同じ場所で生きている。太陽の下でしか生きられない人間と、日陰でしか生きられない人間がいる。同じ地球の同じ時間に生きていて、それもまた共生というものだ。昼を生きる人間と夜を生きる人間がいなければこの世は回っていかない。どちらかが主でも従でもない。それぞれが自分の場所で生きているだけだ。
 花々は季節によって交代で生きる。時期を変えて、同じ場所で。それもまた共生だ。みんなが春に咲いてしまったら共倒れになってしまう。人も全員が同じ一番を目指したら、ひとり勝ちでそれ以外は負けになってしまう。私たちは同じ場所を共有しながら少しずつズレて生きていくしかないのだ。

森の光と影-6

 化学薬品が流れ出したような水たまり。でも、これは自然の成分が生み出した色かもしれない。人が何かを捨てるような場所ではないから。
 ときに自然と人工は区別がつかない。人は自然をまねてあらゆるものを作ってきて、ときどき互いが追い越し合ってしまうことがある。人工が自然を超え、自然が人口を超える。人間の叡智と、自然の驚異。どちらも感嘆に値する。
 地球上のどこからどこまでが自然でどこからが人工なのか、もはや境界線は曖昧だ。地球外から見た地球は、それが野生のものであろうと人類が作ったものであろうと関係ない。生命が溢れる惑星は、あらゆる意味で奇跡に満ちている。長い歳月の間に人間は地球の一部となった。大昔海底に沈んだ船が自然と同化するように、歳月が自然と人工を混ぜていく。
 人間が作った森も、100年経てば自然の森になる。地球が生み出した人類という存在は、他の野生動物と同じく自然のものであって、その自然の人間が作ったものは自然の一部だ。人類はもはや、偶然生まれ落ちた徒花的な異物などではない。
 人間が作ったものをすべて自然物として捉え直したとき、今までとは物の見方も変わって、地球との共存の道も見えてくるはずだ。自然破壊さえも必ずしも悪というわけではない。厳しい生存競争の中で、全体としてよりよい世界を目指していくことを考えるべきだ。我々は勝者でも敗者でもなく、一部なのだから。

森の光と影-7

 青空と雲と月と飛行機雲と。もはや当たり前の光景となったこの取り合わせも、100年前までは誰も見たことがないものだった。月は変わらずそこに浮かんで満ち欠けを繰り返してきたけれど。
 この景色も永遠ではない。100年後はたくさんの車が空を飛んでるかもしれないし、透明なチューブの中を列車が走っているかもしれない。月はどこかへ飛んでいってしまって、代わりに人工の月が地球の周りを回ることになったりする可能性だってある。太陽の輝きも永遠ではない。あと50億年もすれば寿命が尽きるし、その前に膨張が始まって10億年もしたら地球は暑くて今の生物はすめなくなってしまう。
 私たちはどこへ向かい、今何をすればいいのか。その問いの答えはどこにも存在していない。何故ならそれはこれから作っていくものだから。毎日は無意味に過ぎていくように思えて意味があり、意味があるようでいて考えを進めていくとどんどん意味は小さくなる。海を見たり、星を眺めたりして自分の小ささを思い知っているくらいでは全然足りない。宇宙には1,000億掛ける2,000億個の太陽があって、それぞれに太陽系の惑星があって、その他の星々がある。時間軸も一種類ではない。その数字はあまりにも膨大すぎて絶望さえできない。
 意味不明で不確かすぎる現実の中で確かなものがあるとすれば、それは自分の意識だ。自分自身の存在とこの世界の認識する能力と言い換えてもいい。その意識が足もとの小さな花から広大な宇宙までもを同時に捉えることを可能にしている。その振幅の大きさに人間の偉大さがある。存在は小さく、今は愚かでも、空想する力こそが可能性だ。
 自分の幸せを求めることも大事。この世界をよくしようすることも必要。それと同時に、この宇宙の現実を知ることもまた大切なことだ。知るための手掛かりは日常のあらゆる場所に潜んでいる。森にも海にも空にも街にも本にもテレビにも。大きなことばかり考えていては自分自身に対して無責任になるし、自分のことばかりではこの世界の役に立てない。
 投げやりにならないことだ。自分ができないことや分からないことに対して。最後まで誠実に生きること、その積み重ねが遠い未来へとつながっていく。最後の最後、あらゆる存在が幻だったとしても、私たちは笑って終わらせよう。だって今、こんな素敵な地球で暮らせているのだから。これ以上、一体何を望むというのか。こんな楽しい夢はない。いつまでもずっと続いて欲しいとさえ思う。
 そんなことをつらつらと考えながら森を歩いてた私のことを、海上の森2005番地に住むモリゾーとキッコロはどこかで見てたかな。




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