現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
奈良番外編は残り物写真を見ながら思い出の中の奈良巡り
2008年03月16日 (日) | 編集 |
奈良番外-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 Di



 奈良シリーズは終わった。でもまた奈良ネタじゃないかと思うかもしれない。本編の最終回が終わればスペシャルがあるのは世の常だ。連ドラでは回想シーンだけでスペシャルにするなんてこともある。本編が終了してスペシャルまでの間が短すぎるけど、そもそも奈良へ行ったのは去年の11月のことだから、本編の終盤3回からスペシャルが始まっているようなものだったのだ。でもそれも今回で終わる。もうネタ切れだ。
 番外編は、思い出写真で奈良を振り返ることにする。お蔵入りさせてしまうのは残念な写真を集めたらけっこうあった。あらためて見ていると、懐かしくもあり、またすぐにでも行きたくなる。ドラマ「鹿男」を観たあとだからよけいに思いが強くなった。時間や場所の都合で見に行けなかったところもいろいろある。奈良公園周辺だけでも一日で全部回るのは無理な話だった。
 行けなかったところとしてまず思い浮かぶのが、「ならまち」だ。近鉄奈良駅から南に入っていったあたりに、古くても趣のある町並が残っている。時間があれば行きたかったのだけど、今回のコースからは外れていて行けなかった。
 寺社がたくさん集まっていた場所で、東大寺や春日大社の門前町としてかつては大いに賑わったところだそうだ。空襲で焼けなかったから、江戸から明治、大正、昭和に至るまでの面影が残っている。
 ただ、ここをしっかり回ろうと思えばそれなりに時間がかかるから、有名どころの寺社巡りとの両立は難しくなる。奈良巡り中級者以上向けということになるかもしれない。
 もし行けば、写真の撮りどころがたくさんありそうではある。

奈良番外-2

 興福寺で五重塔を見たあと、春日大社へ向かう途中で鹿の群れに遭遇する。平和そうに見えるこの光景が、私の持参したサツマイモ入り手作り鹿せんべいによって大混乱を来すことになる。思いがけず好評を博してしまい、逃げまどう私とどこまでも追いかける鹿の群れ。鹿に取り囲まれ、角で尻を突き上げられる私。ほとんどカツアゲ同然に鹿は私から鹿せんべいを強奪していったのだった。神の使いのくせに、鹿はとても凶暴な生き物だ。
 それにしても、まさか自家製鹿せんべいがあれほど喜ばれるとは思ってなかった。持っていく前は食べなかったらどうしようと不安だったのだけど、あれだけ食べてくれれば本望だ。次はボストンバッグ一杯に詰めて持っていってやろう。

奈良番外-3

 あきらめることを知らない鹿たちに恐れをなした私は、義経の鵯越の逆落としさながらに崖を下り降りて、鷺池の浮見堂まで逃げた。さすがにここまでは鹿たちも追ってこられまい。
 走り回ったもんだから、季節外れの大汗をかく私。上着なんて着ちゃいられない。セーターの袖も半分まくって、この人なんでこんなに汗かいてるんだと、周りの人たちに不審な目で見られてしまうのであった。まさか11月の終わりにハンカチで汗をぬぐうことになるとは。
 ここでちょっと一休みする。まだ奈良巡りは始まったばかりだ。

奈良番外-4

 鷺池から飛火野へ行くときに一つの事故が起きる。道路を渡って、下の芝生広場に降りようと階段状になっている土のところで、落ち葉に乗って滑って激しく転んでしまったのだ。横向きに腰から落ちて、そのまま1メートルほど落下した。
 最初はデジが心配だった。体の下になってどこか打ち付けた感じがあったから。それはフードが砕けただけで済んだのだけど、ダメージは体の方にあった。左腕を大きくすりむいて一部が切れて出血。更に骨までちょっといっていた。触ると変な出っ張りができている。腰もおかしい。鹿騒動のあとはこれか。
 まあしかし、とりあえず歩いたりするのには支障がなかったので、そのままランチにすることにした。
 そういえば、傷の証拠写真を撮っておけばよかった。ちょっとグロテスクすぎてここでは見せられなかったかもしれないけど。
 今でも左腕にははっきりと傷跡が残っていて、奈良傷と呼んでいる。骨は自然治癒させた。

奈良番外-5

 ロマンチックとは言えないランチ風景。下に敷いてるのが新聞紙だ。左の方には血がついたウェットティッシュが写ってるし。
 この日はツレがもらったお菓子類でランチとなった。その前の転倒騒ぎでびっくりしてしまって、二人とも昼食どころじゃなかったってのもある。

奈良番外-6

 体もデジも大ごとにならかったのは幸いだった。昼前にデジも体もダメになっていたら何をしに奈良まで行ったか分からなくなってしまう。鹿に追いかけられて転んで帰ったなんて笑い話にもならない。
 ランチで少し落ち着いたので、奈良巡りを再開することにする。
 春日大社でお参りをしたあと、裏を抜けて若草山を右手に見ながらおみやげが建ち並ぶ道を歩いて、東大寺方面に向かった。
 若草山も登らなかったのが少し心残りだった。丘を登るのがけっこう大変そうだったし、時間の余裕もそれほどなくなっていたのでやめておいた。あの上まで登れば奈良の町並が一望できることを「鹿男」を観て知った。しまったことをした。あの景色が見られるなら、ちょっと頑張って登っておくべきだった。次に行ったときは必ず登ろう。
 上の写真はおみやげ屋さんの一場面。昭和の中の昭和といった風情のおみやげ屋さんで、商売気があまり感じられず、商品は無造作に並んでいる。
 鹿皮の財布が2,500円を消して1,500円になっていた。さっきまで鹿にエサをあげてたのに、ここでは皮になってしまっているのは、なんとも切ないものがある。鹿の角グッズもいろんなのが売られていた。中には角そのものというワイルドなおみやげもある。1万円以上してたから貴重なものなんだろう。買ってもまったく使い道がないし、誰かにおみやげとして買っていっても嫌がらせとしか思われないけど。

奈良番外-7

 大仏殿へ行く前に、正倉院を先に見ることにした。けど、ここで何度か道を間違えてしまう。どこから正倉院に入れるのか分からず、ぐるりと反対方向に無駄歩きをしてしまった。
 大仏殿の裏にもたくさん鹿たちがいる。まだ鹿せんべいが残っていたから少しあげたのに、このときは食い付きが悪かった。もう夕方近くになっていたから、観光客にもらってある程度おなかが一杯になっていたのだろう。でも、やるとやっぱり囲まれてしまうので、早々に切り上げて逃げることにした。

奈良番外-8

 ようやく正倉院の入り口を見つけたときには、無情にも入り口は閉まった後だった。なんてこった。見学は午後3時までだなんて、早すぎないか。
 帰ってきてから知ったのだけど、そもそも見学できるのは平日の午後3時までで、土日祝日は閉まっていて見られないのだった。なんて厳しいんだ。学校の教科書で習った有名な校倉造りを我が目で見られると思ったのに、残念。
 まあ、裏手の門の隙間から遠巻きに少しだけ見られたのでよしとするか。それも道を間違えたおかげだったし。
 見られるといっても、正倉院の中ではなく建物の外からだけだ。基本的に正倉院はいろんなお宝がたくさん眠っているので非公開となっている。

奈良番外-9

 東大寺前で燃える火と煙。寺でこういう煙を見ると、訳も分からず煙を頭とかにかけてしまいがちだ。絶対間違ってると思うんだけど、ついやってしまうのが人情というもので、それを見た他の人も照れくさそうにマネをする。みんな、これ違うんじゃないかなと内心思っていることだろう。
 煙を悪いところにかけると治るってのは、どこの話だっただろう。

奈良番外-10

 こんな風景を見ると、すごく季節外れに思える。
 黄色絨毯の写真を撮りたいってのが奈良へ行く理由の一つだったことも思い出す。結局、紅葉のタイミングには少し早かった。一週間あとがよかったんじゃないだろうか。
 一面の黄色い絨毯の中で鹿たちが食べ物を探して頭を垂れているところに西日が斜めに当たっている、というのが私の頭の中にあった撮りたいイメージだった。

奈良番外-11

 ここのイチョウ絨毯が一番よかった。何枚も写真を撮ったし、以前の奈良シリーズでも載せている。とても印象深いシーンの一つとなった。
 ここの写真を見ると、もう一度撮りに行きたくなる。まだ物足りなかった。時間の余裕があったら、ここだけで1時間くらい撮ってみたかったところだ。

奈良番外-12

 忘れがたいという点では、朱雀門の行き帰りもまた記憶に残った。行くのにも苦労したし、帰りはそれ以上だったから。
 何しろ待てども待てどもバスがやってこない。1時間に1本しかないバスが30分も来ないもんだから、途方に暮れてしまった。他にも待ち人がいたから、時間を間違えてるわけでもない。もうしょうがないっていうんでタクシーを呼ぼうとタクシー会社に電話をしたら、30分か40分かかるという。私たちは朱雀門の前で永遠に帰れないのかと思ったほどだ。
 あきらめて大通りの向こうまで歩くことにした。そこまで行けばバスの本数がもう少し多くなるはずだから。
 10分ほど歩いて次の停留場に着くと、そこでも一人待ちぼうけを食った人がいて、話しかけてきた。バス来ないんだけどと。いやぁ、私たちもあまりにも来ないから歩いてるんですよなんて言ってたら、後ろからバスが来た。何食わぬ顔して。
 いろいろあった奈良巡りもようやく終わりが近づいた。行けなかったところややり残したことがいくつかあったものの、もうおなかいっぱいごちそうさまだった。相当歩いたし、走ったし、転がり落ちもして、ヨレヨレだったのだけど、楽しい奈良巡りになった。
 やっぱり奈良とは相性の良さを感じる。またきっと行こう。次は別の季節とも思うけど、やっぱり紅葉の奈良に惹かれる部分が大きい。桜なら吉野だし、秋の飛鳥というのも捨てがたい。夏はちょっと歩き回るのは厳しいか。エサがたくさんあるときは鹿も私の鹿せんべいをそんなに喜んでくれないかもしれない。
 次に奈良へ行くときは、三角の鹿せんべいを持っていこう。そうしたら鹿が話かけてきてくれるかもしれない。いや、丸ままフチを三角にするのが正解か。それこそ三角縁鹿煎餅鏡だ。


奈良シリーズ本編の最終回はどうしても見たかった朱雀門で締めくくり
2008年03月14日 (金) | 編集 |
奈良最終回-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 Di



 秋の奈良行き最終目的地は、ライトアップの朱雀門と決めていた。
 そもそも奈良へ行こうと思ったのは、この朱雀門の存在を知ったのがきっかけだった。もう3、4年前のことになる。ずっと行きたいいきたいと言いながらなかなか実現できずにいて、この前ようやく念願が叶ったのだった。名古屋-奈良間は、JRの直通電車がなくなって、近くて遠い都となった。
 しかし、朱雀門へ行くのは苦労した。近鉄電車で行こうとすると、新大宮と大和西大寺の中間だから、どちらから歩いても20分くらいかかるし、バスは本数が少ない。特に夕方以降は朱雀門に一番近い「二条大路南四丁目」まで行くバスがあまりなくなってしまう。このときはタイミングも悪かった。仕方がないのでそのだいぶ手前の二条大路南1まで行くバスに乗ったのだけど、夕方の大渋滞にはまり込んでしまってバスがまったく動かない。すんなり行けば10分のところを30分以上もかかってしまった。帰りはもっとひどい目に遭うことになる。
 そんな苦労をして行った朱雀門だから、ぜひここに書いて無駄足じゃなかったということにしなければならなかった。勉強するのにも時間がかったということもあるのだけど、最後に持ってくるのがふさわしいネタでもある。奈良シリーズは今回でようやく最終回となる。

 なんと(710年)見事な平城京、そんなふうに年号を覚えた人も多いだろう。なくようぐいす平安京に比べるとずっとマイナーではあるけど、奈良の都平城京も日本史の中で重要な意味を持つ都だったのは間違いない。
 ところで平城京の読みをわたしたちの年代は「へいじょうきょう」と習ったのに、近年は「へいぜいきょう」と仮名が振られていることを知っているだろうか。私はまったく知らなかった。最近そうなったらしい。確かに、何十年も経てばいろいろな発見もあるし、定説が覆されたり改められたりしても不思議ではない。今の歴史の教科書を読むといろんな発見があるのだろう。最近は聖徳太子を厩戸皇子として教えてるらしいし、聖徳太子の実在さえ疑われているというから驚く。若者は聖徳太子の1万円札なんて見たこともないのだろう。
 奈良時代の昔は、「平城」を「なら」と読んで、「平城宮」は「ならのみやこ」と呼んでいたというのが定説になっている。ならはならすに由来して、平坦な場所にある都ということで、ならのみやこといったというのが有力な説とされている。
 すでに長くなりそうな予感がしてきたけど、ここで平城宮遷都の前後の動きについて復習しておきたい。平安以前に関しては意外とあやふやな記憶になってるという人も多いんじゃないか。
 女王卑弥呼が邪馬台国をおさめていたのが230年代から240年代にかけてで、ようやく国家の基本的な形ができてきた時代だ。
 大和国として一応の統一が見えてくるのが500年代で、574年に聖徳太子が生まれている。この時代が飛鳥時代の始まりだ。
 法隆寺が建ったのが607年、遣隋使と、のちの遣唐使によって中国との本格的な交流が始まる。
 645年、大化の改新。
 694年に飛鳥から藤原京に都を移す。
 平城京への遷都は707年から段階的に行われ、710年に遷都が完了する。
 その後、途中で「恭仁京(くにきょう)や「紫香楽宮(しがらきのみや)」へ都が移ったりしたもののまた戻り、784年に長岡京へ遷都されるまで、平城京は日本の都であった。

 平城宮は、平城京の北部中央に位置していて、東西1.3キロ、南北1キロだった。
 唐の都長安や北魏洛陽城など手本にした碁盤状の作りになっていて、平安京のモデルにもなっている。ただし、東部分のでっぱりなど、平城宮特有の特徴も備えていることなどから、日本オリジナルの計画都市だったのではないかという説もある。
 天皇の住まいである内裏(だいり)や、政治・儀式の中心である大極殿・朝堂院などの建物が建っていた。
 四方には高さ5メートルの築地塀がめぐらされ、四辺にはそれぞれ3つの門を備えていた。南の中央にあるのが正門である朱雀門だ。
 平城京と平城宮を一緒だと思うと混乱する。平城京というと都全体のことを指し、平城宮というとその中の都施設のことをいう。私も最初ごっちゃになっていて、勉強している途中で訳が分からなくなった。平城京は甲子園球場30個分という広大な都のことで、平城宮は皇居と国会議事堂と官庁街が凝縮されたような施設といえば分かりやすいだろうか。
 朱雀門を出て南に真っ直ぐ伸びているのが朱雀大路で、その突き当たりには羅城門が建っていた。それが平城京の南端になる。
 朱雀大路によって分けられた右京と左京は、それぞれが碁盤の目のように整然と区画された町が形成されていた。最盛期には10万とも20万ともいう人々が住んでいたという。ただし、大部分は下級役人や一般庶民で、貴族は数百人だったそうだ。シルクロードの終点ということで、都には唐や新羅、インド人なども多かったらしい。
 平城京の主な寺としては、薬師寺、大安寺、興福寺、元興寺の四大寺などがあった。東の東大寺、西の西大寺、ちょっと離れた法隆寺を加えて南都七大寺という呼び方もされた。南都というのは北の長岡京に対する南の都という意味だ。

 都が平安京に移った頃には、平城京はうち捨てられ、田んぼになっていた。都を移したら、人も建物も物も一切合切移動させてしまうという昔の日本人の引っ越し体質というのは、今となってはちょっと信じられない。それは戦国時代まで続くことになる。日本人が定住ということを本当に考えるようになったのは江戸時代になってからだ。
 江戸時代の末になって、ようやく平城京のことを思い出した人たちがいた。藤堂藩の奉行所に勤めていた北浦定政たちによって実測調査が行われ、平城京の位置と規模が判明することになる。しかし、早い段階で気づいたのは幸いだった。その後この土地一帯の大部分は国の所有となり、保護されることになるからだ。
 今は思いっきり近鉄電車が斜めに横切ってしまっているけど、平城京跡の大部分は保存されている。世界遺産にも登録されたから、これ以上開発されることはない。
 現在は2010年の遷都1300年に向けて様々な復元作業が進められている。目玉は第一次大極殿正殿だ。外から覆いをかぶせて、一部しか見えないようになっているのが小憎らしい。これが完成してお披露目となったら大きな話題になるだろう。
 1998年には朱雀門の復元がなされた。ただしこれは想像復元に過ぎない。資料は何も残っていないからだ。だから、実際の朱雀門と復元された朱雀門は違っているのかもしれない。相当な年月と研究を重ねて作られているそうだから、違っていたらがっかりだろう。
 復元された朱雀門は、間口25メートル、高さ25メートル、奥行き10メートルの入母屋造りの二重門。国産ヒノキを3,000本使ったというから気合いが入っている。材料費だけでも相当な額だ。
 現在、見学は無料で、夜間はライトアップをしている。闇に浮かぶ朱雀門はなんとも幻想的で、これを見るだけでも奈良へ行く価値があると思った。
 全体の発掘調査はようやくまだ半分とのことだ。これから何かあっと驚く新発見も出てくるかもしれない。これまでに出た出土品などは、平城宮跡内部の「平城宮跡資料館」や「遺構展示館」などに展示されている。こちらも無料で見られるのだけど、夕方4時半くらいまでしか開いてないので私たちは見られなかった。朱雀門から向こうへも夕方には閉まって行けなくなる。
 東院庭園なども復元されているので、やはり行くなら明るい内から行くべきだったと、帰ってきてから悔やんだけど遅かった。2010年にもう一度行こう。大極殿もぜひ見なければなるまい。

 あをによし 奈良のみやこは 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

 小野老が万葉集で歌ったような奈良はもうない。けど、華やかかりし頃の面影はなくとも、奈良は1300年経った今でも魅力的であり続けている。
 奈良へ行くときは肩肘張らず、ありのままの自分でいられる気がする。京都や鎌倉を好きかと問われるとちょっと考えていろいろ言いたくなるけど、奈良は好きですと即答できる。友達みたいな気軽さで。その場を支配している空気感と同調するいう言い方もできるかもしれない。
 奈良シリーズは一応これで完結となる。あと、捨てるにはしのびない写真が何枚か残ったので、番外編としてそのうち載せることになると思う。
 今回見て回った分に関してはこれがすべてだ。長々とおつき合いいただきありがとうございました。また新しい奈良シリーズで会いましょう。それは2010年などではなく、意外と早くやって来るかもしれない。


東大寺後編は二月三月四月堂、一月堂や五月堂はないですよ
2008年03月10日 (月) | 編集 |
東大寺後編-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 Di



 東大寺の魅力は大仏殿だけじゃない。二月堂をはじめ他にも見所はある。私たちは時間が足りずにやや駆け足の見学になってしまったものの、二月堂だけは見にいった。三月堂、四月堂は外見だけとなってしまい、三月堂の内部を見られなかったのはちょっと残念だった。
 乾漆不空羂索観音立像や塑造日光・月光菩薩立像など国宝ゴロゴロで、宝庫とはまさにこのことを言うのだというくらいの充実ぶりを誇る三月堂。国宝、重文仏像がギュウギュウ詰めなんだとか。ただし、内部は撮影禁止で、拝観料も500円と高めだ。金額はともかく、撮影禁止というのはどうにかならないのか。国宝ってのは国の宝でも、寺の宝でもなく、国民の宝なのだから、自分の宝をお金を払って見せてもらってなおかつ写真まで撮ってはいけないというのも考えてみればおかしな話だ。
 建物自体も国宝指定になっている。東大寺に残る数少ない奈良時代建築の一つで、金鐘寺(こんしゅじ)時代に羂索堂(けんさくどう)として建てられたものだ(743年)。東大寺最古の建物でもある。
 当時そのままは仏像が安置されている北部分の正堂で、南側の礼堂(らいどう)は鎌倉時代(1199年)に再建されたものだ。写真に写ってるのが新しい南部分で、この裏手にあたる部分が奈良時代のものになる。
 本尊が不空羂索観音ということで昔は羂索堂と呼ばれていたのが、毎年3月に法華会が行われたことから法華堂や三月堂と呼ばれるようになった。

東大寺後編-2

 三月堂から二月堂に向かう途中の反対側にあるのが四月堂だ。それぞれ特徴と人気のある二月・三月堂に比べるとすごく地味な存在で、みんなに素通りされがちだ。
 重文の本尊千手観音像や阿弥陀如来坐像などが安置されていたり、室町時代に再建されたお堂だったり、それなりに見応えもあるのだけど、東大寺の中では目立たない。他のチームにいけばレギュラー確実なのにビッグチームにいて補欠に甘んじている選手のような存在だ。
 創建は1021年、仁杣、助慶両上人で、かつては普賢菩薩像を本尊としてために普賢三昧堂とも呼ばれていた。三昧堂の名は、毎年4月に法華三昧堂が行われるところからきている。四月堂の呼び名の由来もそこからだ。

東大寺後編-3

 三月堂、四月堂ときたら次は五月堂だろうと思いきや、二月に戻る。そしてそこで月シリーズは終わる。一月堂はない。五月堂も。昔は一月堂から十二月堂まであったんだよ、なんてもっともらしいことを言うと、へぇーなんて感心されてしまいそうだけど、実際はそんなものは昔からなかった。あるのは二・三・四月堂だけだ。
 二月堂の由来も他の二つと同じで、旧暦の2月に修二会(しゅにえ)という大切な行事が行われているところからきている。東大寺のお水取りといえば関西では有名な行事で、お水取りが終われば春が来るというのはよく言われることだ。
 修二会は752年に開山の良弁僧正の弟子だった実忠和尚(じっちゅうかしょう)によって始められたとされている。国家安泰や五穀豊穣を願う行で、中でも二階の舞台をたいまつの火が駆けめぐるのが有名だ。テレビのニュース映像などで見たことがある人も多いだろう。
 源平合戦のときも、第二次大戦中も途絶えることなく、1200年以上続いている伝統の行事だ。松明(たいまつ)の火の粉を浴びると無病息災ということで、大勢の人が詰めかける。お松明は期間中毎日行われているのだけど、クライマックスは12日の夜で、この日が特に盛り上がりを見せる。
 正式名は、十一面悔過(じゅういちめんけか)といい、本尊の十一面観世音菩薩に祈る行だ。修二会というのは、二月に修する法会という意味で、修二という人が開催する飲み会とかではない。
 お水取りというのは、若狭井(わかさい)という井戸から観音様に供えるお香水(おこうずい)を汲み上げる儀式からきている。いろんな呼び方があったり、読み方が難しかったりして、最初どういうことかよく分からなかった。帰ってきてから調べてようやく理解できた。
 こんな純木造建築で火を振り回して大丈夫なんだろうかと思うけど、1200年で一度しか火事になってないから大丈夫なのだろう。でも一度はそれで全焼している。平重衡の兵火でも、三好・松永の戦いでも燃えずに焼け残ったのに、自分のところの行事で焼けてしまったのはちょっと皮肉な話だ。現在の建物は、1667年に焼けて2年後には再建されたものだ。
 国宝指定は2005年と最近のことだ。建物は江戸時代のものだから、とびきり古いものでもない。
 本尊は秘仏の十一面観世音菩薩。

東大寺後編-4

 二月堂は崖の上に建っているから、石段を登っていかないといけない。ここが登り切ったところだ。
 左が二月堂の建物で、正面右手は手水舎だっただろうか。大きな提灯のようなものがたくさんぶら下がっている。

東大寺後編-5

 舞台からは大仏殿や、その向こうに奈良の街並みを見渡すことが出来る。奈良時代はこのあたりも山の中だったのだろう。遠くに平城宮が見えていたんだろうか。
 西向きだから夕焼けがきれいだろう。シーズンオフで人が少ない夕暮れどきなんかもよさそうだ。

東大寺後編-6

 左が舞台で、右には屋根付きの登り回廊がある。帰りはこちらから帰ることにした。
 この日は紅葉シーズンの休日ということで、二月堂の舞台上も大変な賑わいをみせていた。あさって12日はあの上を松明の火が走り回ることになるのだろう。行事は深夜だからニュース映像で見られるのは13日になる。YouTubeなどで映像だけならいつでも見られるのだけど。

東大寺後編-7

 登廊下から舞台を見上げたところ。ここからが一番絵になる姿かもしれない。秋の青空を背景に、二月堂は凛と建っていた。

東大寺後編-8

 石畳と土塀が続く東大寺の裏参道は思いがけずよかった。奈良は鎌倉や京都とは違って、意外と古都という言葉が似合わないところなのだけど、その理由はこういう風情のある場所が少ないからだろう。寺社も町も申し分なく古いのに、しっとりとした趣が足りない。街に色気がないとでも言うんだろうか。
 でもここはよかったから、東大寺へ行ったときはぜひ歩いてみて欲しいと思う。

東大寺後編-9

 たくさん撮った奈良写真の中でも、これは好きな一枚だ。無関係の他人だけど、家族写真のような親しみを感じる。見知らぬ一家の思い出の一枚としてここに貼り付けておこう。

東大寺後編-10

 ほぼ同じカットの写真を以前にも載せたけど、東大寺の締めくくりはこのシーンにした。東大寺大仏殿と中門、鏡池と鹿のショットは、これ以上ないというほど奈良らしい光景だ。
 東大寺編は前後編、これで完結となる。見物という点では少し心残りがありつつも、書くことに関しては思い残すことはない。書きたいことと書くべきことは書ききった。
 写真についてはどれだけ撮っても満足するということはない。今回も、もう一度行ったらもっといろんなものを違った風に撮れたのにという思いが強い。またすぐにでも行って撮りたいくらいだ。奈良にはいつでも行きたいという気持ちもある。
 また鹿せんべいをたくさん焼いて奈良へ行こう。完全に鹿の好みは掴んだから、今度は大量生産していっても大丈夫だ。ボストンバッグいっぱい分持っていっても残ることはない。しゃべる鹿には会えるかな。
 奈良公園周辺だけでなく、法隆寺や唐招提寺、飛鳥方面にも行ってみたい。奈良巡りはまだ始まったばかりだ。楽しみはたくさん残っている。


唐突に再開した奈良シリーズは長いながい東大寺編の前編から
2008年03月09日 (日) | 編集 |
東大寺-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 Di



 唐突だけど、今日は奈良の東大寺について書こうと思う。
 奈良へ行ったのは去年の11月、紅葉の季節だった。月日は流れて今はもう3月、春になった。その間、あっちこっち出歩いて、東大寺編はずっと在庫として寝かせてあった。いつかそのうち書こうと思いつつ、今日になってしまった。そろそろ東大寺二月堂のお水取りも近づいてきて、再開するなら今を置いて他になく、ドラマ「鹿男」が終わらないうちに書きたいというのもあった。
 そんなわけで東大寺だ。奈良へ行ってきて東大寺のことを書かずにどうすると今更ながら思う。書くと長くなりそうだから、それで先延ばしにしていただけとも言える。

 東大寺は中門より先に進むにはお金を取られる。500円。観光客を狙った厳しい取り立てだ。ここまで来て大仏を見ないと心残りになるから、つい言いなりに払ってしまう。それでも大仏殿の敷地内は人で溢れていて、ザクザク儲かっていることをうかがわせる。うちは葬式もしないし檀家もいない(いる?)から入場料だけが頼りなのだと東大寺は言うかもしれない。
 地続きのようになっている興福寺や春日大社は無料で、ここだけ徴収するのはどうかとも思うけど、興福寺も建物で個別に取られるし、京都や鎌倉のことを思えば良心的とも言えるか。
 東大寺の敷地というのはどこからどこまでなのかよく分からない。塀も仕切りもなく、内と外の区別がつかない。奈良公園の春日大社と興福寺の境目も判然としない。歩いているといつの間にか敷地内に入っている。

東大寺-2

 かつてのものと比べると間口が3分の2(11間から7間)になってしまったとはいえ、世界最大の木造建築物である東大寺大仏殿(金堂)。間口57メートル、高さは天平時代と同じ47.5メートルある。近くで見ると威風堂々、さすがとうならせる。
 現在のものは江戸時代に再建された三代目で、東大寺もまた波乱と浮き沈みの歴史を持つ寺だ。
 728年、聖武天皇が1歳にならずに亡くなった第1皇子の基王(もといおう)を弔うために金鐘山寺(きんしょうせんじ)という小さな寺を建てたのが東大寺の始まりだ。
 741年、聖武天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立を命じ、その際金鐘寺は大和の国分寺として金光明寺と名前が改められた。
 東大寺になるのは745年のことで、その2年前に聖武天皇の命で大仏が造られることとなった。
 東大寺の名前は、都がある平城京から見て東の大きな寺という意味で、「ひむがしのおおてら」とも呼ばれていたようだ。
 大仏の開眼供養は752年、最終的に伽藍が完成するのは789年のことだ。
 開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)。天皇の勅願寺ということで、藤原氏の氏寺だった興福寺とは根本的に性格が異なっている。興福寺が私立だとすると、東大寺は国立というたとえでいいだろうか。

 短かった奈良時代が終わり、時代は平安へと移る。平安時代にも地震で大仏の頭が落ちたり、大風で南大門が倒れたりなんてことはあったものの、おおむね平和に時が過ぎた。
 東大寺最初の大きな受難は、平安末期の源平合戦のときだ。平重衡の軍勢が南都に攻め込んできたとき、放たれた火によって大仏殿をはじめ、大半の伽藍を失うこととなる。1180年のことだ。大仏殿は数日にわたって焼け続けたという。
 数年は争乱が続いて再建どころではなかった。
 この事態を嘆いた僧侶の俊乗房重源が立ち上がる。全国で資金集めをし、源頼朝や後白河法皇に掛け合って援助の約束を取り付け、1185年に再建が始まった。
 1195年には、源頼朝、北条政子夫妻や後鳥羽上皇も参列して大仏の開眼供養が行われた。
 更に時は流れて戦国時代。大和の国も戦乱に巻き込まれ、反乱を起こした松永久秀によって再び大仏殿は焼かれることとなる。二月堂や南大門などが残ったものの、大仏殿は焼失、大仏も大打撃を受け、戦国の世で再建は進まない。仮堂が建てられるも、1610年の暴風で倒壊し、その後100年間、大仏は野ざらしのままとなる。
 大仏の修理がようやく行われたのは江戸時代の1691年になってからだ。大仏殿が再建されたのは綱吉の時代の1709年のことだった。
 大仏殿が小振りになってしまったのは、資金不足と木材不足に加えて技術不足でもあった。江戸時代にはこれほど大きな木造建築を建てる技術が失われていたのだ。現在の技術をもってしても難しい木造の大伽藍や五重塔などを、奈良時代やそれ以前に建てていた昔の大工の技術力はすごい。コンピューターどころか計算機さえもない時代に、経験と勘で建てていたのだから。
 明治時代の廃仏毀釈の嵐をどうにか乗り越え、明治と昭和の二度の大修理を経て、平成10年には世界遺産に登録され、今に至っている。年間300万人が訪れるという。

東大寺-3

 正式名称「盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)」というこの大仏さんの正体は、釈迦如来(しゃかにょらい)だ。華厳宗の別名がそうなっている。
 高さ14.98メートル。金銅仏では世界最大のものだ。金銅仏というのは、銅で鋳造した仏像に金メッキをしたものをいう。そう、大仏さんはかつて、金ピカだった。
 少し前に東大寺大仏殿を再現したCG映像を見たけど、あれは衝撃的だった。大仏はもちろん、柱や飾りは黄金色に輝き、天井には極彩色の絵が描かれ、大仏の頭なんて鮮やかな群青色をしていたというのだ。そばにはべる仏像も、青、赤、緑などで彩色され、あの色彩感覚はにわかには信じられないほどだった。私たちがありがたがって見ている大仏殿などは、枯れ果てた出がらしのようなもので、天平の人々が目にしたら、なんだこんなものと言うだろう。現代に同じ着色をしたら安っぽく感じてありがたみがないと思うのだろうけど、もしタイムトリップができて当時の実物を見ることができたとしたら、それはもう度肝を抜かれるどころじゃなく腰を抜かしてしまうかもしれない。
 昔と今とでは、仏像だけでなく仏教の在り方が根本から違っている。かつては国家の権威の象徴であり、外国から渡ってきた時代の最先端でもあった。祈りの対象や心の平安を求めてお参りにいくようなそんな穏やかなものではなかった。なんといっても国家事業でもあるし、時代を考えると庶民感覚からかけ離れたものであったとしても不思議ではない。
 動員された人数はのべ260万人だったと記録はいう。数字だけみれば日本人の3分の1以上が関わったことになる。
 金箔のために大量の水銀が必要で、うちの田舎の丹生から掘り出されたものが多かったということから、奈良の大仏には私も親しみを持っている。代替わりして、今ではすっかり金もはがれてしまったけど。

東大寺-4

 大仏の左右には、如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像が鎮座している。
 どちらも江戸時代に造られた木造仏で、当時の代表的な仏師一門によって、それぞれ30年以上かけて彫られた。
 如意輪観音像が1738年、虚空蔵菩薩像が1752年に完成した。

東大寺-5

 大仏の後ろには四天王のうち、広目天と多聞天の二体が控える(残り二体の持国天と増長天は予算不足で造られずじまいとなった)。
 左側のこちらが広目天だ。みうらじゅんじゃないけど、仏像はカッコイイ。昔のアイドルだったという言い方もできるから、憧れの対象でもあった。実際、仏像というのは格好良かったり、セクシーだったりするのだ。せっかく日本にはたくさんのいい仏像があるのだから、宗教色抜きにしてもっと親しめばいいのにと思う。仏像のフィギュアとかプラモデルとかたくさん販売して、ガンダムくらいの人気シリーズに成長させたい。
 CGで復元されたド派手な広目天なんて、モビルスーツ並みにカッコイイのだ。ああいうのをもっと子供たちに見せてあげれば、日本人も仏教を文化として大切にしていけると思うのだけど。

東大寺-6

 こちらは多聞天。毘沙門天と言った方が通りがいいかもしれない。
 こっちは軍神ということで衣装がクールだ。NHK大河の「風林火山」でGacktが上杉信玄を演じたけど、あのイメージはなかなか悪くない。
 奈良の観光の一環として、仏像の衣装レンタルというのはどうだろう。いろんな仏像の衣装やメイクを施して写真を撮ろうという企画だ。修学旅行の思い出にパンチパーマのカツラをかぶって大仏になるなんてのもいい。

東大寺-7

 天平時代の東大寺を再現したミニチュア模型が飾られている。目をひくのは、なんといっても左右に配置された七重塔だ。五重塔はあっても七重塔は見たことがない。
 高さ100メートルの木造建築物を造ることができたのもすごいし、それを二つも持っていた東大寺もまたすごい。大阪の通天閣と同じ高さの七重塔が現存していたらさぞや見応えがあっただろう。
 模型ではぎゅっと凝縮して建っているようだけど、実際は広い敷地の中にゆったりとしたスペースで伽藍が並んでいた。南大門から中門を経て大仏殿までが南北一直線に列び、左右には七重塔、大仏殿の後ろには講堂があった。その他、多数の伽藍があって、最盛期にはどんな全体像だったのか、想像するのも難しい。

東大寺-8

 比較のために、それぞれの時代の大仏殿が再現されて並んでいる。
 手前が現在のもので、左がかつてのものだ。ちょっと撮る角度を間違えて大きさの比較になってないけど、建物のスタイルがだいぶ違っていることが分かる。昔のものは非常に大らかで落ち着きのある構えになっている。
 せっかくだからこの模型もちゃんと当時の着色をしたらどうだろう。その方が本来の豪華絢爛さがよく伝わる。

東大寺-9

 お調子者のスリムな若いやつが鼻の穴くぐりをして成功していた。かなり引っかかり気味だったけど、けっこういけるもんだ。私はちょっと無理そうだ。
 この穴の大きさは大仏の鼻の穴と同じ大きさだとされている。実際は違うと聞いたこともあるんだけど、どうなんだろう。
 目から鼻に抜けるという言葉にあやかって、ここを通り抜けると賢い人になれるとか、この柱が大仏殿の中で鬼門の東北に位置しているから厄払いになるなどと言われている。

東大寺-10

 大仏殿の中におみやげ物コーナーを作ってしまっている。修学旅行生や外国人観光客が多いから、奈良名物に限らず日本みやげみたいなものが多い。ゆっくり見ていけば面白いものも見つかりそうだ。このときはもう閉まる間際で、時間がなかった。

東大寺-11

 大仏殿は広いけど人も多く、空気が濃密なので、表に出ると開放感がある。歴史の空気は外気よりも重たさを感じる。
 みんな帰るところで、秋の日に照らされて長く伸びる影がきれいだった。
 向こうに見えているのが中門で、1716年に再建されたものの一つだ。これも重要文化財に指定されている。
 その手前にあるのは、金銅八角燈籠で、これは古い。何度も修理されているものの、創建の奈良時代のもので、国宝になっている。

東大寺-12

 行きは裏手から回り込んでしまったので、帰りは南大門をくぐって帰ることにする。
 これまた大変立派な三門だ。鎌倉時代に再建された日本最大の三門ということで、当然国宝指定になっている(1199年)。高さは25.46メートル。
 大仏様(だいぶつよう)、または天竺様(てんじくよう)建築で、柱を貫通させる水平の木材を多用しているのが特徴だ。五間三戸の二重門で、天井はない。
 門の中には高さ8.4メートルの木造金剛力士立像一対が安置されている。どういう理由からか、一般とは逆に、左に阿形(あぎょう)、右に吽形(うんぎょう)が配置されている。
 運慶が総指揮を執って、快慶や定覚、湛慶などが弟子たちとともに短期間で彫り上げた。

 やはり書き始めると長くなる。神社仏閣や歴史ものはどうしてもそうなりがちだ。東大寺編は一回で終わらないのは最初から分かっていた。まだ二月堂などの主だった建物も紹介してないし、そのあたりは後編で書きたいと思っている。
 平城宮跡の写真は撮れなかったのだけど、夜になって朱雀門をわざわざ見にいってきたので、それも没ネタにはできない。奈良時代の歴史の復習と絡めて書く予定をしている。
 ということで、終わったと思った奈良シリーズがここに復活。少なくともあと2回はある。神社仏閣好きの方もそうじゃない方も、もう少しおつき合いください。




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