 Canon EOS D30+EF75-300mm(f4-5.6), f4.5, 1/500s(絞り優先)
夕暮れの帰り道、橋を渡ろうとした彼女は夕焼け空がきれいなことに気づき、自転車を止め、鞄からデジカメを取り出して写真を撮った。その姿をたまたま通りかかった私にデジカメで撮られた。その女子高生を撮っている私を撮っている人間がいないかとあたりを見回したけど、残念ながらいなかった。もしいたら、ロシアのみやげ物マトリョーシカみたいで面白かったのに(ちょっと違う)。または映画『カイロの紫のバラ』みたい(それも違う)。 でもいつか、写真を撮ってる人を撮ってる人の写真を撮りたいと思う。そのときは、その私の姿を誰か撮ってください(ややこしい)。
最近ふと気づくとデジカメ所有率が異常に高い。3年前は周りでもこんなにデジカメを持ってなかったし、5年前と比べたらその増加率の速さにびっくりしてしまう。あっという間にみんな持ってしまったという感じだ。 携帯のデジカメを入れたら、20代、30代の所有率はどれくらいなんだろう。80パーセントはいかないにしても70パーセントくらいはあるんじゃないだろうか。ネットをやっている人間に限定すれば90パーセント近いかもしれない。それは本当にここ数年のことだと思う。ここまでというのはちょっと想像してなかった。 20年くらい前だったか、使い捨てカメラが一世を風靡したことがあった。でも、あのときと今とでは意味がまるで違う。あのときも確かにカメラというものが誰にとってもすごく身近なものになったけど、あれは手軽になっただけでまだ日常生活の中にまでは入り込んでなかった。写真を撮るという行為は相変わらず特別なことで、観光地へ行ったり、イベントのときに使うもので、日常の中で使うにしてもせいぜい友達同士、恋人同士で撮り合うくらいのものだった。 それに対してデジカメは完全に日常の中で生活の一部となっている。夕焼けがきれいだから撮り、お店の料理が美味しそうだから撮り、飼い猫の寝姿を撮り、部屋にあるお気に入りのものを撮る。手軽さと経済性とリアルタイム性、それが写真のあらたな魅力や使い道を私たちに教えてくれた。 ネットや携帯の普及によって不特定多数に向かって発信できるようになったのも大きい。そのことで私たちは写真を撮る理由や動機を持つことができるようになった。 デジカメとネットは、写真の意味や在り方を大きく変えた。ここ1年ということでいえば、ブログの普及も流れを加速させたと言えるだろう。 今後更にデジカメの普及率は上がり、100パーセントに近づいていくだろうし、もっと多くの人が自分のHPやブログを持つようになるはずだ。そこではもはや写真というものは欠かすことができないものとなる。
私たちはデジカメで写真を撮る。それはフィルムで写真を撮るのとはひとつ決定的な違いがある。デジカメの写真はデジタルのデータだということだ。それは、インターネットの世界が存続する限り、半永久的に色あせることなく存在し続けるということを意味する。撮った人間の手を離れ、撮影者の名前も付かないまま。 現実的にはサーバの問題や契約してるプロバイダの問題などで発信者が消えれば表からは見えなくなってしまうこともあるだろうけど、データとして残ってさえいればいつでも再現できる可能性がある。たとえば100年後でも1,000年後でも、もしかしたら1万年後でも。 時代は加速しているから今から100年後は100年前と今よりももっと大きな隔たりが生まれるはずだ。どういう世界になっているか想像もつかない。 3005年の地球に生きる人たちに、私はどんな写真を見せたいだろうかと考えてみる。美しい風景なのか、幸せそうな人たちの笑顔なのか、街や文明の姿なのか。そうでもあり、そうでもない。見せたいのは、今の時代の今の人間がいる風景の写真だ。特別なものじゃなく、移り変わっていく街や人の今を写し取れたらせたらいいなと思う。21世紀はじめの日本に生きる私たちの当たり前の姿を、風景の中で捉えたい。多くのものを失っているであろう22世紀の人たちが、なつかしいと感じるようなものを。
この写真を撮ったあと、私は振り返って、彼女が撮っている空を見てみた。なるほど、きれいな夕焼け空だった。でも、その空は彼女のもののような気がして、私は写真を撮らなかった。このとき彼女が撮った写真が、今ごろネットのどこかに存在してるかもしれない。それに偶然出会うことができたら素敵なことだ。だから、あのとき見た空を覚えておこう。脳に書き込まれるアナログのデータとして。

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