現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
思いがけず勉強することになった壬申の乱について 2006年6月22日(木)
2006年06月23日 (金) | 編集 |
思いがけず壬申の乱の勉強

Canon EOS 10D+EF50mm(f1.8), f2.8, 1/60s(絞り優先)



 提供した写真が載った「週刊ビジュアル日本の合戦」という雑誌が送られてきた。壬申の乱(じんしんのらん)関連で、東谷山(とうごくさん)の尾張戸神社(おわりべじんじゃ)の写真が必要だというので撮ってきたやつだ。私の写真が小さく載ってるので、本屋に行ったら立ち読みしてください。
 せっかくのいい機会なので、今日は壬申の乱について勉強してみた。日本史の教科書で習って以来なので、記憶はとてもぼんやりとしていた。大人になってあらためて勉強してみると、なんで学生時代はこんなことがはっきり理解できなかったのだろうと不思議に思う。歴史は暗記科目だと思い込んでいたけど勘違いだった。ちゃんと人物関係や時代の流れを掴んでいれば、日本史はそんなに難しいものじゃない。年号や人の名前なんてのは重要なことじゃない。
 今さらながら、壬申の乱ってそういうことだったのか、とようやく分かった私であった。脳は歳を取れば衰える部分ばかりじゃない。

 壬申の乱というのは、古代日本における最も大きな内乱であり、以後の流れを決定づけた重大な出来事だった。二大勢力による直接対決という意味では、関ヶ原の合戦と同じくらいだと思っても間違いではない。
 時は5世紀、大和朝廷が全国を統一したことで国家としての形が出来上がりつつあった時代。都は奈良県の飛鳥にあり、蘇我氏(そがし)と物部氏(もののべし)が勢力を持っていた。中国から仏教が伝わってきたのもその頃だ。しかし、まだまだ国家としては不安定なこの時代に、聖徳太子が生まれる。574年のことだ。国は蘇我氏と物部氏の対立が深まり、結果的には聖徳太子が属する蘇我氏の勝利となる。その後、国は推古天皇と摂政聖徳太子のおかげでかなり形がはっきりし始める。
 622年、聖徳太子死去。それをきっかけに蘇我氏が力を持ちすぎて暴走を始める。これを止めたのが中臣鎌足(なかとみのかまたり)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)で、蘇我入鹿(そがのいるか)殺害によってクーデターは成功する。有名な大化の改新だ。中大兄皇子はその後天智天皇(てんじてんのう)になるのだが、その前にひとつ大きな失敗をする。百済からの援軍要請を受けて、朝鮮半島の白村江へ合戦の助太刀に行って大敗するのだ。これがのちに壬申の乱へもつながっていくことになる。
 ほとぼりが冷めた頃、中大兄皇子は天智天皇となり、都を難波から大津に移す。天智天皇は、天皇としてはなかなかに有能で、国造りの基礎となることをあれこれやっている。問題は後継者のことだった。
 当初、それまで片腕として働いていた弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)に皇位を譲るつもりだったのだが、自分の息子の大友皇子(おおとものおうじ)が成長するにつれ、こちらへ譲りたいという気持ちがどんどん強くなってきてしまう。皇子もなかなに出来がよかったようで、器量としてもまずは申し分なかった。
 そのことを知った大海人皇子は、自ら身を引く決心をする。下手にごねたら自分の身が危なくなる。頭を丸めて、出家するといって吉野へ逃げるように去っていった。
 しばらくして天智天皇が病気になり、亡くなってしまう。ここで事態は急展開を見せる。実力、人望とも自分よりずっと上の大海人皇子を恐れた大友皇子は、ひそかに兵を集めて大海人皇子討伐計画を立てた。それを知った大海人皇子も黙ってやられるわけにはいかないと、こちらはこちらで兵を募る。そのとき歴史が動いた。司会の松平です。

 672年、壬申の乱は始まった。まずはお互いの兵集めだ。しかし、このときすでに勝負は決していたと言える。急進的な改革派であった天智天皇の治世を面白く思わなかった地方の有力豪族たちが、続々と大海人皇子側につき始めたのだ。一方の大友皇子は当てにしていた九州の兵が集まらない。白村江の戦いに破れたこともひとつの大きな要因となった。
 大海人皇子軍は、吉野を出て、美濃、尾張と進む内に大きな兵力にふくれあがり、一気に反攻に転じる。勢いづいた大海人皇子軍は、連戦連勝を重ね、やがて大津の都に迫る。最後の戦いとなった瀬田橋の戦いで決着がつき、都は陥落。大友皇子は自害して果てた。
 朝敵となった軍が鮮やかな逆転勝利を収めるという、日本史史上類を見ない合戦となった。
 翌673年、大海人皇子は飛鳥に都を移し、天武天皇(てんむてんのう)として即位した。その政治は、兄のものを引き継いだものとなり、天皇を中心とする中央集権国家の性格を強めていく。割を食ったのは、壬申の乱に協力した地方の豪族たちだ。天智天皇に不満を持っていて天武天皇に付いたのに、気づいてみればますます締め付けが厳しくなっていたというオチとなってしまった。

 天皇という言葉を初めて使ったのが、この天武天皇だと言われている。それまで国の王は大王(おおきみ)と呼ばれていた。天皇というのは、もともと道教の最高神をあわらす称号で、天武天皇は自ら大王を超える存在と知らしめるためにこの言葉を使ったようだ。
 もうひとつ、それまで倭国だったのを日本と呼ぶようになったのも、この天武天皇からだ。だから、壬申の乱以前以降という歴史的な分け方ができる。
 ただし、天皇の系譜としては、天武天皇の奥さんだった持統天皇などを経つつ、もう一度天智天皇に系列に戻り、現在に至っている。これは、持統天皇が天智天皇の娘だったということもあって、そういう流れになった。

 そんなこんなの壬申の乱スタディ。今日勉強するまでこんなにも人間くさくて面白いドラマだったとは思ってなかった。身内の争いを面白いと言ってはいけないんだけど。
 歴史や合戦というと、どうしても戦国時代や幕末を思い描くけど、どの時代にも戦はあって、夢と野望がぶつかってきたのだ。それを肯定したり否定したりすることがどうこうではなく、そういうことがあったんだということに思いを馳せることが大事なんじゃないかと思う。今私たちが生きているのは、それらの長い年月を経た、夢の果てなのだ。彼らの想いを無駄にはできない。私たちが暮らしてる地面の下にはたくさんの歴史が折り重なっている。土には多くの血が染み込んでいる。そのことを忘れないようにしたい。
「週刊ビジュアル日本の合戦」、これからも楽しみだなぁ。と思ったら、今週で最終刊だった。なにっ。バックナンバーを読むしかないか。
 写真提供から思いがけず壬申の乱について知ることができてよかった。それと、一冊の雑誌に載せる一枚の写真のために編集者というのは大変な労力を要するということも初めて知った。いろんな意味でありがとうと言いたい、今回の出来事であった。




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