現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
白馬の王子様はいないけど王子バラ園は素敵なところ 2006年10月30日(月)
2006年10月31日 (火) | 編集 |
遅かった王子バラ園

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f5.6, 1/15s(絞り優先)



 上弦の月を見上げるビクターボーグ。バラに月を。月にバラを。バラも眠れない夜は月を見ているのかもしれない。
 1991年にデンマークで生まれたこのバラは、秋が深まり他のバラが次々と終わっていく中、最後の生き残りとしてピンク・オレンジの花を咲かせていた。もう、秋バラも終わりが近づいた。

 春日井にある王子製紙工場の社宅の一角にバラ園がある。その名も「王子バラ園」、素敵なネーミングだ。去年の初夏、初めてその存在を知ってから今回が4度目の訪問となった。しかし、完全に出遅れた。花がポツリ、ポツリとしか残っていない。遅すぎた春ならぬ遅すぎた秋。この暖かさにすっかり油断してしまった。
 秋バラは夏バラに比べると断然数は少ないものの、色が鮮やかで香りも強くなるので、秋ならではのよさもある。秋バラ好きの人も多い。ただ、今日くらい少なくなってしまうとさすがに寂しすぎた。岐阜の花フェスタは今ごろどうなってるんだろう。あそこは種類が多いからまだ賑わってるんだろうか。
 王子バラ園は、一般に無料開放されていて、誰でも気軽にバラを見ることができる。全部で200種類2,000株というから、なかなか見応えがある。手入れも行き届いていて、気持ちがいい。初夏のシーズン中は近所の人たちで賑わいを見せる。

新しい波

 遠巻きに見るとすっかり寂しくなったバラ園も、咲いているバラに近づいて見てみると、きれいに咲いているものも残っている。今回見つけたお気に入りがこれ。「ニュー・ウェーブ」というプレートをメモ撮りして、帰ってきてから調べてみると、またもや寺西菊雄。これには自分でも驚いた。
 というのも、私が一番好きなバラがマダム・ヴィオレで、これが寺西菊雄作出で、その後いいなと思った荒城の月、天津乙女など、ことごとくが寺西菊雄が作り出したバラだったのだ。これだけ符号するということは、よほど私のバラの好みと寺西菊雄の作りたいバラが一致するということだろう。菊雄なのに菊じゃなくバラ作りの名人になったというのも素敵だ。というか、薔薇雄という名前はちょっとイヤだ。
 まあしかし、寺西菊雄ファンは世の中にたくさんいるから、驚くこともないのだろう。このニュー・ウェーブも人気が高いバラだそうだ。切り花ではフォルムという名前で売られていることも多いとか。
 2000年作出のモダンローズで、ハイブリッドティー、直立性、八重平咲き。名前の通りウェーブがかかっているのが特徴だ。色は咲き始めがやや青色がかった紫で、開いていくとピンクが強くなる。香りの強さも人気の秘訣だろう。私はあえて臭わないマダム・ヴィオレが好きなのだけど。

王子製紙の夕暮れ

 かつて製紙工場は公害の元凶だった時代があった。煙突から出る煙や、たれ流す産業廃棄物によって、街や川や海は汚された。あれから時代は流れ、環境問題が声高に叫ばれるようになって製紙工場も大きく変わった。今はもう、煙突から出る煙を見てもおびえる気持ちはない。こうして夕暮れどきに煙突からはき出される煙を見ていると、まだまだ元気に稼働してるなとちょっと嬉しくなったりもする。花粉症の私のためにせっせとネピアを作っておくれよとも思う。
 王子製紙は春日井が本社だと思っていたら違った。元々東京の北区王子に渋沢栄一が作った「抄紙会社」が前身なんだとか。なんで春日井と思ったかといえば、都市野球の野球部が「王子製紙春日井」だったからだ。しかしこれも、2002年に米子チームと苫小牧チームが廃部となって春日井に吸収されたことで、チーム名は「王子製紙」となった。ただ、これが戦力アップにつながって、2004年の都市対抗では初優勝を飾ったのだった。ケガの功名と言うべきか。
 最近では、北越製紙に対して敵対的買収を仕掛けて失敗したといので話題になった。

 そんなこんながありつつ、王子バラ園は今日もさりげない開放で訪れる人を出迎えてくれる。時期はずれとなると、社宅の人が犬を散歩してるくらいで人もいないので、ゆっくりバラを眺めたり写真を撮ったりできる。人目を気にせずバラ写真が撮れるところはそう多くないから、そういう意味でもここはオススメできる。特に5月の終わりから6月にかけては素晴らしい。
 名古屋側から行くと、東名阪沿いの環状2号線(302号を)北へ向かって、庄内大橋を渡りきってすぐの信号「松河戸町北」を右折。30号線から道なりに左へ進んで25号線となり、「上条町6」の信号をすぎた直後が入口になってるのでそこを入って、ちょっと行った右に無料駐車場の広場がある。バラ園はその左側だ。
 どうしても分からない場合は、そのへんを歩いてる人に、王子バラ園はどこですかと訊けばたぶん教えてくれると思う。ただし、王子、バラ園はどこですか? と区切って訊いてしまうと、え? 私、王子じゃないですが? などと会話がかみ合わなくなる恐れがあるので注意が必要だ。窓の助手席側から身を半分乗り出して、王子! 王子! 王子! と辻元清美のように連呼していると反感を買ってしまうのでやめた方がいいでしょう。外国人に訊いてしまうと、オージー? オー、オージー・ビーフね。と近所のスーパーを紹介してもらえるかも。
 それにしても、王子バラ園というと、どうしても白馬にまたがってサーベルを腰に差しているモナコのアンドレア王子なんかを思い浮かべがちな私なのだった。もちろん、そんな人は王子バラ園にはいませんので、期待してはいけないです。


秋だから美味しい和食が食べたいよねサンデー料理 2006年10月29日(日)
2006年10月30日 (月) | 編集 |
美味しい和食が食べたいサンデー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.0, 1/25s(絞り優先)



 前回のサンデー料理の中で、自分が作りたかったのは図画工作的料理だということに気づいた。今回はそれを意識して図工的な料理に取り組むというのが自然な流れなのだろうけど、私の場合、分かってしまうととたんに興味を失ってしまうという悪いクセがあって、今回はそうならなかった。スポーツでも趣味でも、ある一定の線を越えてしまうとやめてしまうというのも、やっぱり飽きっぽいというのだろうか。自分の中では根拠のある卒業だと思うのだけど。
 今回のテーマは、「秋ですねぇ、美味しい和食が食べたくなりませんか」だ。前回、味は二の次三の次と書いておきながら今回は味の追求。思えば物心ついた頃から天の邪鬼だった私。こういう性格はなかなか直らないらしい。

 手前のメイン料理は、野菜煮込みサバのそぼろがけ。
 ダイコン、ニンジン、アスパラ、シイタケ、タマネギをスティック状など適当な大きさに切って、だし汁でじっくり煮込む。やわらかくなってきたところで、酒、みりん、しょう油を加えて更に煮る。
 サバは切り身をスプーンでかき出して、塩、コショウで下味をつけ、サラダ油、しょう油、酒、みりんを加えて、火が通るまでかき混ぜながら温める。
 あとは野菜の上にサバそぼろをかければ完成だ。パセリも少し。
 これはかなり美味しかった。これまで私が作った中でベスト5に入るだろう。野菜と魚嫌いの子供でもこれなら喜んで食べると思う。そぼろはひき肉だけじゃなく魚でも充分美味しくできる。お弁当のご飯にかけてもいい。

 右上のはマツタケか!? と思ったアナタは甘い。北朝鮮産が入ってこなくなった今、マツタケは私にとってますます縁遠いものとなった。実際はサトイモ団子とゴボウだ。なんだそりゃ。精進料理か。とツッコミが入っても仕方ない。
 サトイモをよく洗って皮ごとレンジで2分加熱。皮をむき、乱切りにしてめんつゆをたっぷりまぶして更にレンジで2分。やわらかくなったらつぶして団子状に丸める。
 ゴボウは、だし汁で煮込み、その後、酒、みりん、しょう油などで煮て味を染み込ませる。サトイモ団子にゴボウを刺して、魚焼きグリルで焼く。
 たれは、しょう油、酒、みりん、砂糖を煮立たせて、水溶きカタクリでとろみをつける。白ごまをふりかけて、たれをかければ出来上がり。
 最初からサトイモ丸ごととゴボウを煮ればいいじゃないかと思うかもしれないけど、ここは気持ちの問題ということで。それに、つぶして団子にした方がサトイモのもちっとした食感がより楽しめて、なおかつ表面を焼くことで風味も増すので、手間は無駄じゃないのだ。

 左は再び挑戦した手作り豆腐。
 今回もまた、固形分10パーセントの豆乳しか見つけられず、やわやわの豆腐しかできなかったのがちょっと残念だった。ただ、見てくれは悪いものの味はとても美味しいのでそれが嬉しい。やわやわツルツル豆腐は、市販のものでは味わえない食感と甘みを体験できる。今回はすりつぶした枝豆も中に封じ込めたのでよけいに甘みが増していた。
 成分無調整でなるべく固形分が多い豆乳と液体のにがりを買ってきて、茶碗などに豆乳を入れ、にがりをスプーン一杯くらい入れてかき混ぜる。ラップをして2分加熱して、10分蒸らしたあと、もう一度2分加熱して冷ませば手作り豆腐ができる。簡単で美味しくて作るのも楽しいからぜひやってみてください。

 今回は味の追求がテーマだったとはいえ、期待を上回る美味しさに自分でもびっくり。人が作ったものだったらかなり誉めてただろう。どれも美味しいね、と。でも誉めてくれる人はいなかったので、自分で自分を誉めてあげたい、有森裕子に代わって。アイ・ワズ・ゲイのガブは元気にしてるんだろうか。
 今日のサンデー料理でちょっと自信が増した。その気になれば味もけっこうできるじゃないかと。これなら主夫にもなれるかもしれない。キャリアウーマンのお嫁サンバを探すか。
 それはともかくとして、これで料理の二本柱がどうやら見えてきた。図工的な凝った料理を作りたいときはフレンチ風、美味しいものを食べたいときは和食でいけばいい。あともう一本、まだ見ぬ未知なる料理に挑戦というのも加えて三本柱にしたいという気持ちもある。ただこれは、材料を揃えるのが大変なので、どこかいいスーパーを見つけなくてはいけない。ダイエーの地下あたりでは、世界の料理を作る食材が揃わない。
 料理は楽しい。まだまだある一線というのは見えてこない。追求する方向が3つあるから、しばらくは大丈夫だろう。追いつけ追い越せ、キムキム兄やん。私もいつか、ファミマでオオタ兄やんの弁当を出したい。


マイナー城シリーズ「岩崎城」編---話が長いので注意 2006年10月28日(土)
2006年10月29日 (日) | 編集 |
岩崎城裏

Canon EOS Kiss Digital N+EF-S 18-55mm(f3.5-5.6), f4.0, 1/100s(絞り優先)



 愛知県のあまり知られていない城を紹介するマイナー城シリーズ。今日は日進市にある岩崎城を取り上げたいと思う。たぶん、多くの愛知県民が知らないであろうこの城を私が知ったのは、ほんの偶然からだった。地図を見ていたら、岩崎城跡公園というのを見つけた。岩崎城? 聞いたことない。でも試しに行ってみたら、思いがけずちゃんとした天守があって驚いた。存在自体まったく知らなかったのに、うちの近所にこんなものが建っていたのか。
 この城、調べてみると実は歴史上けっこう大きな役割を果たしていたのだ。大げさに言えば、この城があったことで徳川幕府が誕生したと言っても言い過ぎではないかもしれない。ことの顛末はこうだ。

 本能寺の変の後、明智光秀を討った豊臣秀吉(このときはまだ羽柴秀吉)は、後継者争いに決着をつけるための賤ヶ岳(しづがたけ)の戦いで柴田勝家に勝利をおさめ、天下統一への道を歩み始める。この戦いで、信長の三男・信孝を味方につけたのが破れた柴田勝家で、次男・信雄を擁立したのが秀吉だった。しかし、秀吉と信雄の思惑は大きく食い違いを見せる。信雄にしてみたら父信長の後継者は当然自分だと思ったのに対し、実質的に敵を討ったのは秀吉の功績に違いなく、天下の流れも秀吉へと傾きつつあった。
 この決裂が元で起こったのが小牧長久手の合戦だ。信雄は、同じく秀吉の天下を認めていない徳川家康の元へ走り、力を借りることにする。家康にとっては代理戦争になるとはいえ、秀吉をつぶす大義名分を得ることになったと喜んだだろう。
 本拠である岡崎城を出た家康は、いったん清洲城へと入る。秀吉は大阪城にいる。ここで今日の主役となる池田恒興(いけだつねおき)の登場となる。古くからの信長の家臣で、数々の戦に参加した歴戦のツワモノだった恒興が、信雄ではなく秀吉側についたことで事態は大きく動いた。大垣城主だった恒興はかつて自分の城だった犬山城を乗っ取り、家康軍に対抗の構えを見せた。そこで家康は清洲を出て、小牧山城へと軍を移す。そしてここから長いにらみ合いが続くことになる。
 秀吉も犬山城に入り、陣を構えたものの、事態はまったくのこうちゃく状態に入って動かない。そして、しびれを切らした池田恒興がいらんことを言ってしまう。家康の本隊が小牧にいるってことは本拠の岡崎は留守になってるじゃん? と。そこを突けば本拠落とせるかも? いってみる? このとき、秀吉もまた判断を誤る。いけるかも……。ただし、岡崎には急いで行けよ、途中で寄り道なんかしてちゃダメだぞ、とは言った。けれど、秘密はバレるもので、この話、すっかり家康側に筒抜けになっていたのだった。
 三好秀次(のちの豊臣秀次17歳)を総大将として、森長可、池田恒興、堀秀政などの隊、総勢2万ほどで岡崎へ向けて出陣していった。そして、そのとき歴史は動いた。岩崎城がここで登場することとなる。

 岩崎城主であった丹羽氏次は家康軍とともに小牧に出陣していて、弟の氏重が城代として城を守っていた。このとき氏重16歳。城には300の兵が留守番してるだけだった。そこへ通りがかったのが秀次の別働隊となっていた池田恒興の1万の軍勢。16歳の氏重は焦って舞い上がってしまったのだろう。恒興にしてみれば、秀吉に敵に見つかって戦うと岡崎行きがバレてしまうから戦うなとクギを刺されているから、そのまま通り過ぎるつもりだった。しかし運命のイタズラか、魔が差したのか、岩崎城から撃たれた一発の威嚇射撃が、なんと、恒興が乗ってる馬を直撃。落馬した恒興はそりゃあもう怒った、怒った。我を忘れて攻めかかれの号令を出したのも無理はない。絶対、許さないと思ったことだろう。
 しかしここで恒興もびっくり、300の兵しか持たない氏重がろう城ではなく城から飛び出してきたのだ。これには恒興軍もひるんで、かなりおされたりした。三度も大群を押し返したというから大したものだ。とはいえ、1万対300では勝負は見えている。岩崎城は落城、氏重勢は全員討ち死にという結末となってしまうのだった。
 このとき別の場所で、先行していた本隊である三好秀次が、こっそりあとからつけてきていた家康の先鋒隊、丹羽氏次・康政軍の奇襲を受け壊滅したことを恒興はまだ知らない。あのガキめ、恥をかかせた上にさんざん手こずらせやがってなどと言いながら、休憩していた。そこに届いた、三好秀次敗走の2時間遅れの報告。なんですとぉー!? と驚く恒興。こうなったら岡崎なんて行ってる場合じゃない、急いで引き返すぞー、と引き返していく途中、いつの間にか長久手で陣取っていた徳川家康本隊の手前で急ブレーキ。別働隊の残った兵を集めて9,000。対する家康軍も井伊直政や信雄軍をあわせて9,000。
 2時間ほどにらみ合いが続いたのち、ついに戦いが始まる。両軍入り乱れて2時間あまり、当初は互角だったものの、徐々に家康軍有利となり、秀吉軍の森長可(森可成の次男で森蘭丸の兄)が鉄砲で眉間を撃ち抜かれ、池田恒興は岩崎城で落馬したときに古傷の足を痛めていて、動きがままならず敵方の槍で討ち取られたところで勝負あり。
 こうして長久手の合戦は家康側の大勝利で幕を閉じた。

 歴史にifはないとはよく言われることだ。でもやはり、もしあのときと考えたくなるような場面が歴史にはいくつかある。このときも、もし岩崎城がなかったら、もし、あの一発の銃弾が恒興の馬に当たらなかったら、歴史はどうなっていただろう。小牧長久手の合戦で秀吉側が勝っていたら、徳川幕府は誕生していなかったかもしれない。
 この戦ののち、秀吉は家康を完璧にたたきつぶすことをあきらめざるを得なくなり、信雄と講和することになる。結果、大義名分を失った家康は岡崎に帰ることとなり、秀吉と家康は微妙なバランスを保ったまま和解という形になった。ただ、このことによって東国を完全に支配下に納められなくなった秀吉は征夷大将軍への道が閉ざされることとなる。征夷大将軍になれないということは、幕府を開けないということを意味する。よって歴史上、秀吉が天下を統一したことにはなっていても豊臣幕府というものは存在していない。
 地方の小さな豪族の城にすぎなかった岩崎城が、歴史の裏側で意外にも大きな役割を果たしていた。その存在さえほとんど忘れられているけれど。そんな歴史に思いを馳せながら訪れてみると、また違った思いも生まれるかもしれない。

岩崎城表

 岩崎城の築城年代は不明とされていて、1529年頃に信長の父・織田信秀が築いたという説と、この地方の豪族だった丹羽氏清によって1538年に築かれたという説がある。いずれにしても、氏清−氏識−氏勝−氏次と丹羽氏4代、約60年に渡って守られたというのは確かなようだ(信長の家臣だった丹羽長秀とは別の流れらしい)。
 小牧長久手の合戦での活躍と、のちの関ヶ原の合戦で家康側について戦ったことが認められ、丹羽氏は三河の伊保(豊田市保見町)へ一万石の大名として取り立てられることとなった。大出世だ。16歳で討ち死にした氏重も喜んだことだろう。その後も丹羽氏は、徳川譜代大名として明治に至ったという。
 現在の岩崎城は、昭和に入ってから発掘調査が行われ、昭和62年に岩崎城跡公園として整備され、模擬の天守閣が建てられた。当時はこんな立派な天守はなかったことだろう。資料が残ってないので、想像上のものとなっている。
 周囲には、空堀や土塁、曲輪などがけっこう残っていて、模擬櫓門も再現されたりしている。隣には資料館もあり、戦国好きならなかなか楽しめるんじゃないだろうか。
 けっこう維持費がかかるだろうに、入場も、天守に登るのも、駐車場も無料と、日進市、太っ腹。入場は夕方4時半までで月曜定休。オマケに祝日も休みなので注意が必要だ。更に月曜日が祝日の場合は、火曜日も連休になってしまう。元々無料なんだからそんなもの。
 屋根に乗ったお約束の金鯱も、なんかちょっとズレた感じで素敵だ。何故ここに金鯱なんだと、深く追求してはいけない。

 それにしても、長かった今日の記事。なんとか一回読み切りにおさめたけど、普通なら2回に分けたかったところだ。どうしても歴史や城シリーズは長くなりがち。書き始めると加減ができなくなる。
 歴史の履修不足で単位が足りず卒業が危ぶまれている人でこれをしっかり人には、補習の代わりとしてあげたい。けど、歴史は面白いからたとえ授業になくても自分で勉強して欲しいと思う。教科書に載ってない人間ドラマは、テレビの連ドラや映画にも負けない面白さがあるから。


アイボクとコスモスと逆光の馬とまだ見ぬジェラートと 2006年10月27日(金)
2006年10月28日 (土) | 編集 |
コスモス畑の親子

OLYMPUS E-1+Super Takumar 135mm(f3.5), f5.6, 1/160s(絞り優先)



 愛知牧場のコスモスが満開を過ぎたという話を聞いて、ちょっと焦って出かけていった。花はなんでも満開過ぎよりも満開前の方が美しい。桜でもユリでもコスモスでもそうだ。
 行ってみると、やはり出遅れを感じた。かなり枯れ花が目立ち始めていて、もう遅いのや、と明石家さんまのモノマネをしてみたけど誰も耳を傾ける人はいない。若手のカップルやちびっ子を連れたお母さんの世代にはもはや元ネタが分からないだろう。寂しさを紛らわすために心の中でチャチャチャを歌ってみた(ニッポン、チャチャチャではない)。
 とはいうものの、少し離れてみればまだまだ充分に咲いている。離れて望遠で撮ると一面ピンクに染まって見えた。ちょうどいいところに若いお母さんと少年二人がいたので、入ってもらった。ややシャッターチャンスを逃してしまって少年たちの入りが甘かったのが残念だ。
 コスモスの群生って、いつももうひとつだと思う。なんというか、雑然としていて、落ち着かない。ヒマワリを見習えとは言わないけど、もう少しお行儀よく揃って咲いてくれないだろうか。けど、陽気なメキシコ育ちにそんなものを要求しても無理というものか。きっと、メキシコの高原ではこんなせせこましくじゃなく、もっとみんなてんでバラバラ思いおもいに咲いているのだろう。いつか見たい、メキシコに咲く野生のコスモスを。日本で咲いているコスモスよりも、私はきっとメキシコで咲くコスモスを愛すると思う。

 江戸末期に初めて日本にやってきたコスモスは、明治になって一般に出回るようになり、秋に咲く桜のようだということから秋桜と名づけられた。中国でもやっぱり秋の字が入って「秋英(しゅうえい)」と呼ばれる。
 属名のCosmosは、秩序や調和などを意味するギリシャ語のKosmosから来ている(対義語はカオス)。のちに転じて宇宙の意味にもなった。どこらへんが秩序なのかといえば、どうやら花びらの様子が整然としてるというのでそう名づけられたようだ。言われてみれば、コスモスの花びらはきれいに整っているものが多い。
 ただし、キク科の花ということで、コスモスの花びらは中央にたくさんかたまって咲いている小さいやつだ(筒状花)。外側の花びらは、花弁の1枚が大きく発達したもので、舌状花と呼ばれる。
 コスモスの花びらは何枚ですか? という無邪気な質問にはどう答えればいいのか迷うところだ。子供相手に、コスモスは頭状花というグループで、5枚の花びらを持った筒状花が中央にたくさん集まっていて外側の舌状花は8枚なんだぞ、分かったかい、などとくわしく説明したら泣き出してしまいそうだし、女の子がコスモスの花びらで恋占いをしてるとこに、おいおい、やるなら筒状花も全部やらないとダメだぞ、なんて説教したら嫌われるに決まってる。考えようによっては、コスモスというのはけっこうややこしい花なのだ。
 しかし、そんな人間の事情とは関係なく、コスモスは丈夫で長持ち、種を風に乗せて運び、落ちたところでけっこうたくましく生きていく。早咲きと遅咲きがあって、7月から12月くらいまで咲いている。そのあたりも、日本情緒ではないものを感じる。日本に馴染んでるけど、やっぱりメキシカンだな、と。そう、コスモスは政井マヤなのだった。

逆光の馬と女の人

 コスモス畑から動物ふれ合いゾーンへ移動する途中、このシーンに出会った。ファインダーをのぞきながら、ああ、なんて美しい、とため息が出た。こういうのが写真の幸せだと思う。ほんの数秒のことで、このときこの場にいたのは私ひとり。もちろん私は目で見ても感動したのだけど、これを言葉で説明することはできなくて、写真に撮れば人に見せてあげられて共有することができる。逆光の馬も、彼女も、人馬の関係性も、本当にきれいで素敵だった。ありがとう。ぼくぁ、幸せだなぁ。

 愛知牧場は、東名三好ICの近くの日進市にある。入場も駐車場も無料ということで、ここはいつ行ってもけっこうな賑わいを見せている。というか、やたらと駐車が多い。中にはそんなに人数がいないのだけど。
 メインは動物たちとのふれ合いコーナー。特に小さな子供連れで行くのがオススメだ。触ったりエサをあげたりする楽しさは子供だけではなく大人でも充分味わえる。
 乗馬というとクラブに入会して高いお金がかかるというイメージがあるけど、ここは気軽に体験できるコースがあるので、ちょっと試しに乗ってみたいという人にはいい。45分コースで5,250円とか、手綱を引いてもらってトラック1周1,000円なんてのもある(子供はもっと安い)。
 菜の花、ヒマワリ、ケナフ、キバナコスモス、コスモスなどの立体迷路もここの名物となっていて、各季節にそれぞれ楽しさがある。
 欠点というか弱点を挙げるとすれば、カントリーの香りがかなりきつめだというところだ。私は嫌いじゃないけど、都会育ちのお嬢を初デートに誘う場所ではないと思う。
 結局、今回もまた、牧場特製ジェラートを食べることができなかった私。今年のアイボク行きはたぶんこれで終わりだから、次は来年の菜の花のときか。そのときまでなんとしてでも生き延びなくてはならない。ジェラートを食って死ね、の意気込みでガンバって生きていこうと思う。


名東区の3大緑地のひとつ明徳公園は何もない秋です 2006年10月26日(木)
2006年10月27日 (金) | 編集 |
明徳公園の風景

OLYMPUS E-1+Super Takumar 28mm(f3.5), f4.5, 1/160s(絞り優先)



 名古屋市の住宅地としてなかなかに評判がいい名東区。適度に静かで都会で、栄や名駅まで40-50分という距離が人気の秘訣だろう。私の住んでいるのは誰が呼んだか名古屋のチベット・守山区。道一本隔てているだけなのにこの扱いの違い。うちのベランダから生卵を投げたら名東区の民家にぶつかる距離なのに。
 守山区の愚痴は置いておいて、名東区は郊外なのでまだまだ緑が多い。特に、牧野ヶ池緑地、猪高緑地、明徳公園の3つの緑地は、一歩中に踏み込むと名古屋市内であることを忘れさせるほどの森林地帯となる。
 写真のここは、明徳公園の中心となっている明徳池だ。親子連れ、犬の散歩の人、鳥の人、釣り人、近所の人などが歩いたり、釣ったり、遊んだり、鳥の数を数えたり、走ったり、思い思いのことをして過ごしている。あまり写真を撮っている人はいないけど、私がいる。
 3つの緑地の中では、一番小さくてローカルなので、訪れる人は多くない。ただ、釣り人は多く、朝から晩まで釣りをしてる人が途切れることがない。朝一で来て、持参の弁当を食べて、日暮れまで釣ってる人もいるとか。しかも、毎日。労働に換算したらかなり稼げそうな気がするけど、釣りとはそういうものではない。そこまでいくともはや哲学の域だ。毎日行って飽きないほどウハウハに釣れるもんなんだろうかと不思議に思っていたら、フナを放流してるんだそうだ。半分自然の釣り堀がタダとなればそれは楽しいだろう。

 広さは18ヘクタール。と言われてもよく分からない。1ヘクタールがどれくらいなのか、上手くイメージできないから。ナゴヤドーム5個分くらいだろうか。新庄大泣き記念で札幌ドームに換算すると4個分くらいだと思う。
 特に何があるといわけでもなく、ちょっとした広場があったり、子供用のアスレチック遊具、野球グラウンドやサッカー場と、あとは散策路が整備されてるくらいだ。緑地と公園の中間くらいの森林散歩コースといったところだろうか。
 野鳥もそれなりにいるし、池にも渡り鳥が少し渡ってきたりするのだけど、数も種類もあまり多くない。というのも、野草が決定的に少なくて、それゆえに虫たちも少ないから野鳥が集まらないんじゃないかと思う。木の実もそれほどないようだし。生き物の豊かさという点では、ここははっきりと物足りない。
 ただ、池には人を襲うアヒルや、キケンなカメがいてエキサイティングだ。岸辺で人を待ち構えていて、誰かがやってくると食い物をよこせとガァガァ言いながら寄ってくるので、たまに子供が泣いたりしている。カメは、大人の指も食いちぎる実力を持ったワニガメが生息していて、「キケンなカメにご注意!」という看板も出ている。なかなかに油断できない池なのだ、ここは。
 その他のポイントとしては、竹林やめったにトンボがいないトンボ池、まったく展望の利かない標高72.8メートルの「からす山」あたりだろうか。木もれ日の小径も、残念ながら夕陽は木々の枝越しにしか見ることができない。遠くには名古屋駅方面のビルなどがわずかに見えるのだけど、枝の間から頭や体を動かしながら見てるときの様子は、露天風呂の女湯をのぞこうとしてる人の挙動に似てしまいがちなので若干の注意が必要だ。
 駐車場も無料で夜8時まで開いていて、一周ゆっくり歩いて1時間くらいなので、日常的な散歩コースとしては悪くない。アップダウンの変化もあるから、アスファルトの道をウォーキングするよりも体にはいいし、消費カロリーも高くなる。猪高緑地のように迷子になりやすいなんてもことなく、道が分かれているところには見やすいマップもあって初めての人も安心だ。

光りの中へ

 とまあ、オススメできるようなできないようなはっきりしない明徳公園なのだけど、うろうろと歩いていると、たまにこんないいシーンに出会うことがあるから侮れない。
 光りの中へ。まるでこれからスポットライトの当たる舞台に向かう人の後ろ姿みたいだった。

 近所に住んでるのに実は行ったことないんですよぉ、なんて方はぜひ一度行ってみてください。名東区の明徳公園に。めいとうくのめいとくこうえん……。うっ、苦しいっ。
 ちなみに、5月10日は「名東区の日」となっている。理由は察しのいい人ならすぐに気づくと思う。いや、私が作ったんじゃなく、ホントにそうなんですってば。私はこう見えてもダジャレは言わない男なのだ。


秋の雨池は生の爆発と静かな死の見えないコントラスト 2006年10月25日(水)
2006年10月26日 (木) | 編集 |
ウォーターレタス雨池

Canon EOS Kiss Digital N+EF-S 18-55mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/30s(絞り優先)



 この写真を見せて、これは池なんですよと言ったら、人は信じるだろうか。でもこれは実際、池なのだ。インディアン嘘つかない。どう見ても畑か、草原か、芝生か、地面に生えた緑にしか見えない。うっかりしてると、この上を歩いて向こうまで行こうとしてしまいそうだ。忍者ハットリくんなら行けるかもしれないけど、常人には無理なのでやらない方がいいと思う。立錐の余地もないとはまさにこのこと。乗車率200パーセント。
 しかしすごい超絶的爆発繁殖だ。初めて見たら、あたなもきっとそのつもりはないのに松田優作のモノマネをしてしまうだろう、なんじゃこりゃ、と。

 和名をボタンウキクサ、英名をウォーターレタスという水草だ。ところどころ紫に見えているのがホテイアオイで、これも害草として厄介者扱いされることが多いのに、それを更に大きく上回る繁殖力。完全にホテイアオイが押されている。
 それにしてもこれは大問題だ。この水草の下では、死の池となっている可能性がある。ウォーターレタスもホテイアオイも、水中の汚れや不純物を吸い取ってくれる性質もあるとはいえ、これだけ水面を覆ってしまうともういけない。水中に日光が届かないから植物プランクトンが死んでしまい、酸素が不足して水中生物も全滅してしまうのだ。水だけは異常にきれないなのに生き物がいない光景は不気味に映る。
 この雨池は、去年も夏場に酸素不足が原因で数百匹のコイやフナが死んでいる。ただし、そのときはこんな水草風景ではなかった。今年に入ってから突然こんなことになってしまった。勝手に外来種の水草が外から入ってくるとは考えられないから、おそらく店で買ってきたやつが増えすぎて誰かがこの池に捨てたのだろう。
 それにしてもこんなふうになるまで放っておいたのは区か市の責任もある。ここまで来てしまうともはや駆除は不可能に近い。これは本当に痛々しい光景だ。

ウォーターレタスに少し近づいて
OLYMPUS E-1+Super Takumar 28mm(f3.5)

 少し近づいてみると、こんな感じ。密集ぶりのすごさが分かってもらえるだろうか。完全に歩けそうな気がする。
 ウォーターレタスは、アフリカ大陸原産の熱帯植物で、日本には昭和初期に観賞用として入ってきた。それがこんなふうに野生化して大繁殖するようになったのはここ10年くらいのことだという。熱帯植物ゆえに9月の終わりくらいには枯れて姿を消していたのだけど、最近の温暖化で10月や11月まで残るようになった。あるいは、日本の気候に馴染んでしまったのかもしれない。沖縄でしか越冬できないと言われたものが最近では本州でも越冬し始めたという話もある。一応耐えられる水温は15度までと言われている。
 ボタンウキクサやウォーターレタスという名前のくせに牡丹のような花が咲くわけでもなく(すごく地味で小さい白い花が咲く)、レタスのように食べられるわけでもない。とにかくやっかいもののこいつをやっつけるには、水から出すより他に方法がない。大繁殖してしまったら、船ですくい上げるのも無理があるし、機械が使えないから人力に頼るしかなく、重さもあるので、本当に大変だ。実際のところ、冬を待つより他にどうしようもないのだろう。何かこいつを食う動物はいないのか。
 とにかく繁殖力が強くて早いのが特徴で、株元から水面に匍匐茎を伸ばして、無性生殖して子株をどんどん増やしていく。ここも、最初は2株とか3株くらいだったかもしれない。
 全国のあちこちで問題になってるところが増えてるようで、環境省も2006年2月に特定外来生物に指定して、販売、栽培、譲渡は基本的に禁止とした。でも、ホームセンターで普通に売ってるようだから、個人宅で育てるのは問題ないのか。

 個人的にこれが大問題だと思うのは、この雨池には全国的にも珍しいミコアイサという冬鳥が毎年訪れる場所だからだ。通称パンダガモというかわいいやつを見られるのは、名古屋では、ここと牧野ヶ池くらいしかない。11月くらいには偵察隊が北から戻ってくるはずだから、この有様を見てビックリ仰天してしまうだろう。ミコアイサまで松田優作のようになってしまうに違いない。なんじゃこりゃぁー、と。
 このままでは水面を泳ぐことはまったくできないし、水中の貝やエビなどのエサもないだろうから、ここでは生きていけない。彼らは毎年だいたい決まった場所に戻ってくるから、これを見て途方に暮れてしまうじゃないだろうか。私も見られなくなると寂しい。名古屋はまだ暖かい日が続いてるから、急に枯れるとも考えにくい。雨池は一体どうなってしまうんだろうか。
 ただ、コサギが1羽いたから、まだ完全に生き物がいなくなったわけではなさそうだ。どうにかミコアイサがやって来るまでに水面の一部でも見えるようになれば大丈夫かもしれない。また近いうちに様子を見に行こう。
 近くの金城学院の女子大生たちに全員ボランティアでかき出し作業をさせたらどうだろう。って、絶対実現しないだろうな、名古屋ではお嬢様大学として通ってるお嬢たちだから。でももし、彼女たちが作業するというのなら、私もぜひ参加したい。キャッキャッと歓声を上げる女子大生に囲まれて、浮かれ気分ではしゃいでウォーターレタスの上をゴロゴロと転がっている男がいたら、それはきっと私です。いやぁ、想像するだけで楽しい作業になりそうだなぁ。


ミッドランドスクエア半完成でトヨタの歴史と未来を思う 10月24日(火)
2006年10月25日 (水) | 編集 |
ミッドランドスクエアが遠くに見える

OLYMPUS E-1+Super Takumar 28mm(f3.5), f5.6, 0.5s(絞り優先)



 午前5時半。日の出前。明るくなり始めた空が、見慣れた風景を不思議な色に染める。夜でもなく朝でもない狭間には、静けさとわずかなざわめきが入り交じる。夜の終わりと朝の始まりが交差して、街はゆっくりとリズムを刻み始めるのだ。
 中央遠くに見えているのが、名古屋駅のセントラルタワーズと、今度新しくできたミッドランドスクエアだ。朝日を浴びると、ボーンホワイトとプラチナオレンジに輝く。
 このまま真っ直ぐ空を飛んでいけば5分くらいで着けそうなのに、地上を飛ばしても昼間なら1時間近くかかる。けど、深夜に行ってみると20分ほどで行くから驚く。そんな近くて遠い名古屋駅は今、大きな変貌をとげようとしている。

 名古屋で3番目の超高層ビル・ミッドランドスクエアがこの10月に一部完成した。10月3日に完工式が行われたというニュースを見て、早速行ってみようよ思ったら、まだ一般人は立ち入り禁止だった。勝手に入っていって捕まってニュースにならなくてよかった。ただ、エレベーターも動き始め、オフィスの引っ越し作業が始まったようだ。
 場所は名古屋駅の道一本隔てた向かい側で、旧豊田・毎日ビルがあった場所だ。古いビルを取り壊してそのままそこに建てた。なので、ミッドランドスクエアの愛称とは別に、「豊田・ 毎日ビルディング」という名前もある。あと、東和不動産も共同出資をしているようだ。
 この年末年始に、トヨタ関係者が一気にどかっと引っ越してくる。名古屋のオフィスや東京の営業部などをあわせて3,000人。周辺の飲食店や百貨店は、それはもう、てんやわんやで浮き足立っている。百貨店は張り切って改装を始めるわ、食べ物屋は新装オープンして店員を急募だし、完全に浮かれ気分の名古屋駅なのだった。しかし、名古屋人は昼飯で並ぶなんて習慣がないけど、飲食店は押し寄せるお客をさばききれるのだろうか。ランチどき、殺意に満ちた厨房で働くのはイヤだ。
 セントラルタワーズが円柱なのに対してミッドランドスクエアは名前の通り四角形をしている。デザインにもうひと工夫欲しい気もするけど、そのへんはトヨタらしいと言えばらしいか。地上47階、地下6階で、高さはセントラルタワーズよりも2メートル高い約247メートル。そのうち、27フロアーをトヨタが占める。トヨタの社員だらけで、ちょっとこの書類を田中さんに持っていってくれとか言われたとき、どこの田中さんか分からずに困ってしまいそうだ。
 その他、全日空、野村証券など30ほどの企業が入り、総従業員数は6,000人ほどになるらしい。順次引っ越しをしてきて、来年の2月にはすべて入り終わる予定になっているようだ。引っ越し会社も大もうけの大わらわ。
 来年2007年の3月には商業棟が完成して、いよいよグランドオープンとなる。ルイ・ヴィトンなどのブランドショップから飲食店、シネコンの映画館、コンサートフロアなど約60のテナントが入り(イエス! 高須クリニック! も入る)、最上階には屋外型の展望施設「スカイプロムナード」もできることになっている。屋外型としては日本一の高さということで、名古屋人や愛知県民がこぞって行くのは誰の目にも明らかだ。私は少し落ち着いてから行きたいと思っている。
 試算によると、このビルの一日の出入り人数は6万人くらいになるだろうということだ。毎日が愛・地球博みたいで楽しそうだな。

落日のミッドランドスクエア
OLYMPUS E-1+Super Takumar 135mm(f3.5)

 夕方5時過ぎ。一日の半分が終わり、太陽はミッドランドスクエアの向こうの山に沈んでいく。空はオレンジに染まり、街はシルエットに沈む。遠く、近くから絶え間ない喧噪が聞こえ、少しうるさく感じつつも、街が生きているのを実感させてくれる。街のざわめきは嫌いじゃない。

 豊田佐吉のオヤジが作った豊田自動織機製作所の中で、息子の豊田喜一郎が自動車部を作ったのが1933年。73年後の未来に名古屋のど真ん中にこんな超高層ビルが建つことになるとは、親子もきっと想像できなかっただろう。
 戦後には経営危機に陥ったこともあった。そのままではつぶれていたかもしれないのを救ったのは朝鮮戦争だった。米軍用のトラックを大量に作って売ったことで倒産を免れ、その後は高度経済成長の波に乗って、今では従業員数世界第3位の企業にまで成長した。連結経常利益も1兆円を超えている。なんでこんなに金があるのに名古屋グランパスエイトにもっと金を使ってくれないのか。グランパスはいつになったら優勝できるんだろう。頼むぞ、トヨタ。
 しかし、今は真昼の太陽ギラギラのトヨタも、いつ斜陽になり、落日の日を迎えるか知れない。もし、50年後とかにまだ私が生きていて、世界のトヨタが消える日が来たとしたら、そのときはとても感慨深いものがあるだろう。あのトヨタがまさかなぁ、と。
 私はこれまでに一度だめトヨタ車に乗ったことがある。スターレットターボ、EP71というやつに。あれはとても相性の悪い車で、起こした事故のほとんどがあれだった。自爆は4回くらい、突っ込まれたのが1回、おばさまをボンネットに乗せたのが1回。マフラーから足回りまで全部改造して、街中をゆっくり走っていた私。友達からはターボが腐るとまで言われたのに、何故。スタートダッシュはめっぽう速かったけど、止まらない、曲がらない、言うことを聞かない、とんでもないやつだった。それでも7年乗って、最後は黒煙を吐くようになって動かなくなってしまった。ただ、それでも余生を送るために東南アジアへと旅立っていったという。あっちの国でも黒い煙を吐きながら暴れてたんだろうか、私のスタタボちゃん。
 今のトヨタ車のラインナップにはあまり心惹かれるものがない。もう一度トヨタ2000GTをとは言わないけど、AE86のようなライトウェイトスポーツカーを復活させてくれないだろうか。もちろんFRで。儲かっている今作らないでいつ作る。F1にも参戦してるのだし、どうだまいったかってくらいのフラッグシップ・スポーツカーなんかも作っていいんじゃないか。ホンダのNSXを超えるようなものを。ま、作ってもらっても私は買えないんだけどね。
 一応地元ということで、これからもゆるくトヨタを応援しつつ、ホンダのインテグラに乗り続けようと思っている私なのだった。もし、万が一グランパスが優勝するようなことがあったら、トヨタ車に乗り換えてもいいかな。


花の名前を知ることで、自分の心の中に花が咲く 2006年10月23日(月)
2006年10月24日 (火) | 編集 |
名前のない花なんてないけれど

Canon EOS Kiss Digital+TAMRON SP 90mm(f2.8), f3.5, 1/80s(絞り優先)



 気がつけば秋。振り向けば夏。遠くからは冬の便りも届き始めた昨今。ふと我に返ると、花の名前の勉強をすっかり怠っていることに気づいた。あ、今寝てた、私? 春まではしっかり季節の歩みについていっていたのに、夏頃から遅れがちになって、秋になる頃にはたくさんの野草が私から遠ざかっていったのだった。一体何をしていたんだ、私は。逃した野草は数知れず。写真に撮らなければ勉強も進まず、知識が増えることもない。
 はじめて野に咲く花に興味を持ったのがおととしの秋だった。デジカメを持ってあちこちをふらついていたら、道には自分の知らないたくさんの花が咲いていることに気づいた。写真に撮れば名前が知りたくなる。少し分かるようになると、もっと知りたいという欲が出てくる。あれから季節は2周した。2回季節をなぞれば、野草のことはまるっとお見通しだ! となっていると思ったのに、まるで貧脳のままだ。去年の同じ時期と比べてもほとんど変わってないような気さえする。
 なんとかもう一度野草に対しての気持ちを高めて、残り少ないシーズン、少しでも追いかけていきたいと思っている。秋野草は11月くらいまで咲いてるものもあるから。

 写真の花は、9月の終わりに海上の森へ行ったとき撮ったものだ。名前が分からないまま放っておいたらひと月も経っていた。今日もう一度調べてみたのだけど、やっぱり分からない。海上の民家の庭先に咲いていたものだから、野草じゃなく園芸種の可能性が高い。そうなるともうほとんどお手上げになる。野草なら「山渓ハンディ図鑑 野に咲く花」にたいてい載っているから調べがつくけど、園芸種は何しろ種類が多すぎて私の持っているポケット図鑑ではまったく補完できていない。ネットでも写真から園芸種の名前を調べるのは難しい。
 こんなときはどうすればいいかといえば、ネットに写真を載せるのが一番だ。知ってる人がさっと現れて、通りすがりでも名前を教えてくれたりするから。完全なる他力本願。突然の浄土教への改宗。親鸞さん、よろしく頼みます。

 それにしても、名前って何だろう、と思う。名前がなくちゃいけないのか、本当に、と。名前というのは、他と区別するための便宜的な記号だ。基本的にその存在の本質とは関係がない。名前が違っても花の姿に変わりはないのだから。けど、同時に名前は存在そのものだとも言える。
 私たちが知らない生物はこの地球に無数に存在している。でも、それらは名前を持っていないということで私たちにとってみれば存在しないのと同じだ。人の場合なら、戸籍も名前も持たない人は、生物としては人に違いなくても社会の中で人でないように。
 あるいは、もし自分の目の前に記憶喪失の人が現れて、その人が名前を思い出せないとする。そうすると、私たちは名前がないというだけの理由でその人とのつき合い方に戸惑い、得体の知れない不安を感じるだろう。名無しの人間は存在としては非常に不安定なものだ。だからきっと仮にでも名前をつける。そうすることでそうやくその人の存在が安定して、気持ちが安心する。名前をつけるという行為は、人が自らを安心させるためのものでもあるのだ。花や生き物に対しても同じことが言える。
 私たちが目にするすべての野草には名前がある。日本人がつけた日本名があり、学名があり、英名やそれぞれの国の名前がある。別名や、愛称なども。ひとつのものについて名前はひとつではない。それもまた、この世界の本質のひとつだろう。存在というのはそれ自体の存在と、人間にとっての存在の二面性がある。自分の中に存在させるためには、やはり名前というのは必要不可欠なものなのだ。
 おととしまでの私は、せいぜい20くらいしか花の名前を言えなかった。桜とかバラとかタンポポとかヒマワリとか。今の私は、たぶん300やそこらは言えるようになっただろう。野草や木の花、園芸種などをあわせれば。それだけこの世界の中で知り合いが増えたということは単純に嬉しい。それまでは雑草だったり、道ばたの花だったりしたものが、自分の中で名前を持った花として認識できるようになった。名前が具体的な関係性を作ってくれたということだ。
 花の名前なんて知らなくても生きていく上で何の支障もない。私も30年以上、花の名前を知らなくて困ったこともなかったし、恥をかいたというような経験もない。逆に、花の名前を知るようになって何か得したことがあるかというとこれも特に思い浮かばない。でもやっぱり、知らないよりも知っていた方が面白いのだ。プロ野球を観に行ったとき、選手の名前を知らないより知っていた方が楽しめるように。野草をたくさん知ってると、道を歩くときだって楽しめる。あ、キツネノマゴだとか、イヌタデもよく見るなとか、これはミゾソバでいいんだろうかアキノウナギツカミだろうかとか、これは見たことないぞとか、退屈しない。それを声に出して言っていると、周りからヘンな目で見られるので注意が必要だけど。

 主な野草だけでも日本には300種類以上ある。木の花もそれくらいで、園芸種になるともっとたくさんだ。試験があるわけじゃないから、何も全部覚える必要はない。興味を持ち続けていれば、自然と知識は増えていく。写真に撮ったり、こうしてブログに書いたりすれば更に詳しくなれる。
 いつかどこかで、何かの野草の名前を知っていたことで決定的にいいことが起きるかもしれない。道ばたで野草の写真を撮っていた美人に花の名前を訊かれて華麗に答えた私に彼女が惚れ込む、なんてことが絶対ないとは言い切れまい。そんな日を夢見つつ、これからも私はせっせと野草の勉強をして、花の名前に詳しい男となろう。野草とあたしとどっちが大事なの! とか言われても挫けたりはしないのだ。
 あなたの心に花は咲いていますか?


自分が作りたいのは図画工作的料理だった 2006年10月22日(日)
2006年10月23日 (月) | 編集 |
図画工作的料理

OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/50s(絞り優先)



 今日ふいに、自分が料理に何を求めているかがやっと分かった。私がやりたいのは図画工作だったのだ。普通の意味で料理が上手くなりたいというわけではなかった。学校の授業で一番楽しかった図工を料理でやっていたのだ。そうか、そうだったんだ、とひとり納得する日曜日の夕暮れどき。
 だから、味への追求がおろそかで、フランス料理や懐石料理なんかに惹かれたのだろう。思えば昔からああいう細かい作業が好きだった。それも、時間をかけてじっくりやるのが。
 図工的料理という自覚がなかったから、これまではまっとうな料理を作ることと、味をちゃんとすることと、お絵かき的な方向性と、自分の中で中途半端になっていた。でも、これからは自分がしたいことが分かったから、もっと作りたい料理のスタイルがはっきりしてくると思う。今日のところはまだ自覚が途中だったので、これまたなんともあやふやな料理をなってしまったのだけど。
 ただ、コンニャクと豆腐のツートンカラーに、図画工作的な部分が少し出ている。こういうのでもっと凝ったものが作りたい。ソースを絵の具に見立てて、絵や字を描いたりもしたい。彩りももっと考えないといけないだろう。そして何より、もっと自由でありたい。

 コンニャクと豆腐は蒸して、白みそベースのたれをかけた(白みそ、しょう油、みりん、酒、砂糖など)。サイコロはもっと小さくした方がよかった。もしくは、コンニャクではなく豆腐だけをサイコロにして、青のりの緑や他の何かでいろんなカラーリングにしてみるのも面白い。カラーサイコロ豆腐。それは、カラーヒヨコを思わせる。って、カラーヒヨコを最後に見た世代はいつなんだ? 私は小学校の校門に売り来ているおっさんが先生に追い払われているのを見たのが最後だった。あれは小学校の低学年だっただろうか。
 右は、白身と野菜のコロッケ風。白身を刻んで、タマネギ、ニンジン、長ネギの刻みを混ぜ、とろけるチーズを仕込みつつ、カタクリ粉、小麦粉で丸め、溶き卵、パン粉をつけて揚げる。ソースは、マヨネーズ、ゆで卵、パセリ、タマネギ、しょう油、白ワイン、牛乳、塩、コショウ、その他を混ぜたもの。
 左奥は、ジャガイモとキノコのサクサクとろ〜り甘辛仕上げ。ジャガイモは細切りにして小麦粉と塩をまぶして揚げる。シイタケ、シメジ、エリンギ、マイタケなどのキノコ類をしょう油、酒、みりんなどで味付けして炒めて、揚げたポテトの上に乗せる。彩りにニンジンと大根の細切りゆでをも乗せてみた。ポテトのパリパリとキノコのとろりが、ギンギラギンにさりげなくマッチする。
 ……。

 今日はほとんどいつもの応用のようになって、結果的にチャレンジ精神を欠くものとなってしまった。図画工作的料理って何をどう使って作ればいいんだろうという考えに頭がいっていて、それがまだ形にならなかった。
 図工は、なんといっても作っていく過程と出来上がったときの喜びがすべてと言っていい。美術ではないからそんなに観賞するわけでもなく、ほとんどが完成した時点で興味をほぼ失うことになる。これは私の料理にも言えることで、食べるのはついでのようなものなのだ。美味しい料理を食べたいから自分で料理をしてる人とはまるで姿勢が違う。前から薄々気づいてはいたのだけど、図工というキーワードが見つかればなるほどそういうことだ。図工的料理だから、今まで作ったことがないものを作りたかったのだ。珍しいものが食べたいというのとは違った。
 けど、図工と料理はやっぱり同じじゃない。似てるけど一緒じゃない。図工だけは卒業するまでずっと5だったけど、料理はまだ3と4の間くらいをいったりきたりしているところだ。料理は難しくて奥が深い。だから、まだまだ続けていけると思う。できなかったものができるようになるのも楽しいから。
 料理の体裁にも必ずしもこだわることはない。食材を練って粘土に見立てて動物なんかを作ってもいいし、7色のソースで更に絵を描いたり、焼き物、版画、組み立て工作など、図工と料理の融合に多くの可能性を感じる。そのうち、料理の上で電飾がチカチカするようになるかもしれない。
 ただ、味に関してもまだまだ改善の余地はあるから、こちら方面ももっと勉強していかないといけない。行き当たりばったりで当たり外れの多いものではなく、狙って安定した味を出せるようになりたい。作ることが目的でも、食べるために作ってるのだから、美味しいに越したことはない。人に出せるようなものを作れるようにもなりたいし、ときどきは基本に立ち返ることも必要だろう。
 おまえは一体どこへ向かおうとしてるんだという自問自答に今こそ答えられる。料理は図画工作だ、と。


シュー、ウッズ、シャワポワ、ガッツ、この共通点は? 2006年10月21日(土)
2006年10月22日 (日) | 編集 |
バナナスタンドとバナナ

OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.0, 1/60s(絞り優先)



 バナナを見ると反射的にガッツ石松を思い出す。たぶん、ガッツは世界でもっともバナナが好きな人間の中のひとりだと思う。「めちゃイケ」の寝起き早食い選手権では、5.2秒という世界新記録をたたき出していた。ありゃあ人間ワザじゃねぇ。目が覚めて目の前に差し出されたバナナに5秒でかぶりつくなんて、もはや思考を超えた本能だったな。
 私はといえば、昔からバナナはあまり好きじゃなかった。甘みはともかく、もごもごしていて果物にしてはジューシーさが決定的に欠けているところが気に入らなかった。一本食べるとおなかいっぱいになるのもなんだか損した気分になる。しかし、「発掘!あるある大事典」を観て、思いが変わった。あらゆる意味でバナナは体にいいことを知った私は、長年のバナナに対する偏見を取り払い、固い握手を交わしたのだった。今までごめんよ、バナナマン(それは別物)。これからは仲良くしようね。
 かつては年間2、3本だった個人消費量が、ここへきて一週間で2、3本まで跳ね上がった。体にとてもいいと分かって食べるバナナは非常に美味しく感じられる。それになんといっても頭にいいのが嬉しい。食べてから15分で効くという即効性と、2時間は効果が続くという持久性をあわせ持っているところが素晴らしい。ガッツには本当に効いているのかという疑問がわき上がるところだが、効いてあれなんだと思う。
 こうして私の生活風景の中には、バナナスタンドに引っかけられたバナナの姿が常に存在するようになったのだった。あ、そうそう、これ、バナナスタンドというんだけど知ってただろうか。前にもらって、こんなもの洒落としては笑えるけど使わねぇよなぁと思っていたら、思いがけないところで活躍することとなった。バナナは寝かせておくと、下になった部分がから傷んでくるから、こうして木になっているときと同じ状態にしておくことで長持ちするのだ。最近では100円ショップでも売ってるらしいし、フックさえあれば自分でも手作りできるから、バナナ好きを自認するならぜひとも持っておきたいアイテムだろう。

 ところで、バナナについて私たちは意外と知らないことが多いのではないだろうか? 身近な果物だけど、バナナの木は本州にはあまりないし、家庭菜園で作ってる人も少ないということもあって、案外バナナのことを知らない。どこで生まれたのか、どこで作ってるのか、どんな歴史があるのかなどをよどみなく説明できる日本人はあまりいないと思う。バナナのたたき売りも見たことないし。
 まずバナナが木になるものではなく草だというから驚きだ。知ってました? 常識? 私は今までまったく知らなかった。木の幹のように見えてる部分は茎でさえなく葉っぱで、それが何重にも渦巻き状になって木の幹のように見えているんだそうだ。高さ何メートルにもなるオバケ草だったとは。草だから一年草ごとに生えかわる。
 バナナには種がない。あれは突然変異だったというのだ。ある時、人類はたまたま種のないバナナを発見して、これはいいぞということで栽培を始めたのが始まりだと言われている。紀元前5,000年前のマレー半島でのことだ。種がないのにどうやって増えるかといえば、地下に伸びた茎から株が顔を出してそこからあらたに伸びていく。竹の子のようなものだろうか。
 バナナは熱帯でしか育てることができないので、赤道の南北30度の間でもっぱら生産されている。この地域をバナナベルト地帯という。最大の生産地がインドというのは意外だった。2位以下は、エクアドル、コスタリカ、コロンビア、フィリピンなどだから、イメージとしてはこちらの方が強い。
 世界には実にたくさんのバナナがある。大きなものは50センチのものからミニバナナまで、300種類以上のバナナがあるそうだ。ただし、果物としてではなく、イモ類のように主食として食べられているところもある。それは食用バナナといってまた別の種類なのだけど。

 マレー半島からアジアへ広がっていったバナナが日本に入ってくるには長い時間を必要とした。どうしてこんなに時間がかかったのかはよく分からないけど、日本に入ってきたのは20世紀に入ってからで、それは台湾からだった。日本では気候的に栽培できないことが遅れてきた大きな原因だったのだろう。最初はとにかく高価だった。戦前、戦中生まれの人がバナナは高級果物という思いが抜けないのは無理もない話で、戦後などは死ぬほどの病気をしなければ食べることができなかったほど幻の高級果実だった。ガッツがむさぼり食ってしまうのもうなずける。それが今では悲しいほど安くなって、地位が大暴落してしまったのをどう思ってるのだろう。いい時代になったというよりも、詰まらない時代になったなと思ってるんじゃないだろうか。なんでもたやすく手に入ることは必ずしも幸せなことではない。
 現在、日本は年間100万トンのバナナを輸入している。果物全体の輸入量が170万トンだから、輸入果物の半分以上がバナナということになる。日本に入ってくるバナナの80パーセント以上がフィリピン産のものだそうだ。エクアドルや台湾からも少し入ってきている。
 品種としては、「キャベンディッシュ」がほとんどで、「グロスミッチェル」、「モラード」、「セニョリータ」などを置いているスーパーも増えてきたようだ。子供の頃の学校給食で出てくるやつには、デルモンテのシールが貼ってあったような記憶がある。
 外国でとれた青いバナナを輸入してくるには理由があって、植物防疫法の規定で熟したバナナは輸入禁止とされているからだ。運搬の都合とかスケジュールの関係とかではなかったのか。味はやはり木になったまま熟したものの方が美味しいらしい。

 試合の途中で、外国人選手がいきなりバナナを食べ始めるシーンを目撃して、おいおい、と思ったことがある人も多いかもしれない。ゴルフのタイガー・ウッズ、F1のシューマッハ、テニスのシャワポワが食べてるのだから、根拠がないはずがない。彼らの好物がたまたま一緒だったなんていうのは考えられない。ガッツと彼らの共通点を見出すのはちょっと難しいけど。
 即効性のエネルギー源としてだけでなく、バナナは脳にもいいことが分かっている。脳のエネルギーとなるブドウ糖とセロトニンが同時に届いて、活性化して集中力も増すのだ。食べてから15分後には効き始めるということで、勉強の時やテストの前などに食べても効果が期待できる。セロトニンにはリラックス効果や精神安定効果もあるので、イライラ解消や、眠りにつく前にもいいと言われている。キレる前にバナナをいっとけということだ。冗談じゃなく、学校の1時間目の前に各自一本ずつバナナを配ったらどうだろう。
 栄養素としても、カリウム、マグネシウム、カルシウム、鉄、繊維、ミネラルなどが豊富に含まれていて、骨や歯を丈夫にしたり、粘膜を強くしたり、免疫力が上がったり、高血圧やガンの予防にもなると言われている。
 太りそうなイメージがあるけど、実際はまったく違って、脂肪分は0.1%で、ご飯茶碗半分のカロリーしかない。小腹が空いたとき、お菓子の代わりにバナナを食べれば、体にも脳にもよくで、ダイエットにもなる。

 とにかく死角のない食べ物バナナ。こんなにスーパー果実だとは私も知らなかったし、もっと宣伝した方がいいと思う。みのに電話してみるか。
 というわけで、私は声を大にして言いたい。みなさん、うちにバナナを送ってください! と。いや、送らなくてもいいからバナナを食べてください。
 私も今後は、2日に1本くらいにペースを上げていきたいと思う。車の運転やテニスやゴルフが上手くなるだろうか。ガッツ化したらちょっとイヤだな。目が覚めて5秒後にバナナをほおばるようになってしまっては人としてどうなんだと思う。
 そういえば遠足の前、必ずこんなことを先生に訊ねるお調子者がいたっけ。
「バナナはおやつに入るんですか!?」
 私が先生の代わりに答えよう。おやつに入ろうと入るまいと、嬢ちゃん、坊っちゃん、遠足にはバナナを持っていきなさい。できれば房ごとな!


清洲城 後編---キミは3万5千円の信長像を見るか!? 2006年10月20日(金)
2006年10月21日 (土) | 編集 |
清洲城夕暮れ

Canon EOS Kiss Digital N+SIGMA 18-125mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/125s(絞り優先)



 清洲城は、名古屋市民や愛知県民よりも、JR東海道本線や名古屋-関西方面の新幹線をよく利用する人にとっての方が馴染み深いかもしれない。夜に名古屋へやって来たとき、その手前で突然ライトアップされた清洲城が現れて驚いた人もいると思う。
 名古屋駅からさほど遠くない距離にあるとはいえ、名古屋の人間がわざわざ出向いていくほどの観光地でもないから、清洲城を見たことがない名古屋人もたくさんいるに違いない。その存在さえ知らない人も大勢いるだろう。私も、三重の田舎へ行く東名阪道を走っているとき、いつも左手に見てるだけで、実際に訪れたのは今回が初めてだった。
 割と戦国好きの私でさえそんな程度なのだから、歴史に関心のないジュリエットに清洲城に興味を持って欲しいというのも無理な注文というものだ。ツアー客のみなさんはそろそろお目覚めだろうか。そろそろ清洲城物語後編を始めたいと思います。みなさーん、出発進行ですよー。

 清洲越しによってその存在を置き去りにされた清洲は、清洲城と共に消えた。以降、歴史の表舞台に登場することはない。江戸時代は宿場町となり、明治、大正、昭和、平成と移り、今は名古屋のベッドタウンとして生まれ変わった。近くに東名阪が通ったことで、交通の便も良くなり、地価も上がったことだろう。
 昭和の終わり頃、清洲城を復元して清洲の町おこしをしようではないかという気運が盛り上がる。信長第二の故郷であり、長らく尾張の首府だった清洲をこのまま埋もれさせておくわけにはいかないという思いが昔からくすぶっていたのだろう。そして平成元年、清洲城の模擬天守は完成を見ることになる。
 しかし、そんなことはまったく想定してなかったのがJRだ。恐ろしいことに、清洲城が建っていた敷地の真上を新幹線と東海道本線が思い切り通っている。信長がこれを見たら怒り狂って皆殺しにされてしまうかもしれないほどの冒涜ぶり。それとも、新しもの好きだった信長は新幹線を見て喜んだだろうか。で、あるか、などと言って。
 そんなわけで、清洲公園と清洲城は少々複雑な地形をしている。五条川を挟んで西側の線路右側が旧清洲城のあった場所で、左が清洲公園、五条川の東側に今の清洲城という配置になっている。本来なら旧清洲城があった場所に再建すべきなのだけど、土地の関係で無理だったのだろう。そういう意味でもややありがたみを欠く清洲城なのであった。

 当時の清洲城に関しては、まったく資料が残っておらず、現在の天守は模擬天守ということになる。ハイカラさんの信長が10年も住んでいたのだから、ちんけで質素な城ではなかったはずだ。見た目の派手さも備えていただろう。戦国時代の天守ということで、入母屋屋根をのせた望楼型天主であったことは間違いないそうだ。金のシャチも乗っていたようだし、金箔の瓦が出土してることから、想像以上に絢爛なものだったのかもしれない。あるいはまだ天下を取るにはほど遠くてそれほどの余裕もなく、実用本位のものだったのだろうか。
 清洲城が本当に立派になったのは、本能寺の変のあと、次男の信雄が城主になったときだった。大改造!劇的ビフォーアフターによって華麗に生まれ変わった清洲城は匠の技が随所に散りばめられ、大天守、子天守、書院などを造営しつつ、堀なんか三重にしてしまい、城下は東西1.6キロ、南北2.8キロまで広がったという。
 現在のものは、鉄筋コンクリート製で、3層4階建てで、中には郷土の文化・歴史コーナーなどがあり、4階が展望台になっている。入場料は300円で、月曜定休の夕方4時半まで。清洲城自体は無料で5時まで。わりと見晴らしがいいようで、名古屋城や小牧山城も見えるそうだ。
 旧城跡には信長を祀る祠などがあり、清洲公園には鎧武者姿の信長銅像が桶狭間の方を向いて建っている。
 当時の面影が残るものは何かないかと探してみても、わずかに本丸土塁の一部や堀跡が残るのみで拍子抜けしてしまう。JRによってさんざん引っかき回されてしまって、何も残ってないのが悲しい。江戸時代末期に川底から発見された城の畳石が「右大臣信長公古城趾」と刻まれて建っているのが、わずかななぐさめと言えるだろうか。
 清洲城のもので現在も残っているのが、名古屋城の堀の北西にある「清洲櫓」だ。これは清洲越しで名古屋城が築城されるとき、清洲城天守の木材を使って作られたもので、戦争の空爆にも耐えて当時そのままの姿をとどめている。

 清洲市民の誇り、清洲城。しかし、その清洲城が自らの首を絞めることになろうとは、信長も予測がつかなかったか。この城を維持するために大赤字になっているそうなのだ。確かに観光地としては圧倒的にマイナーな清洲城。天守の300円は高いという人もいるけど、たまに訪れる人の300円などでは莫大な維持費をまかなえようはずもないのであった。
 ここはひとつ、清洲城を訪れた際はぜひ天守に登り、おみやげも買っていただきたい。信長モナカが一個120円とお買い得になっております。しかし、何故か10個セットになると1,300円になってしまう。まとめ買いすると普通は安くなるもんだけど、さすが信長モナカ。とりあえず10個欲しくても9個にとどめておいた方がいいかもしれない。
 お酒が好きな方は、なんといっても清洲の名物「清洲城 信長鬼ころし」という地酒をおすすめしたい。この酒を飲めば鬼も殺せるくらい気分が大きくなること請け合い。いや、そんなこと請け合っちゃまずいだろう。清洲城には売ってないかもしれないけど、このあたりのコンビニでも売ってるのが嬉しいところ。
 更にお金持ちのみなさんにぜひともお買い求めいただきたいのが、3万5,000円の信長像であります。ええー!? さんまんごせんえんーー!! たけえなぁー! というお声をたくさんちょうだいしたのか、値札を隠したというウワサもあるこのシロモノ。幻の信長像みやげとして天下に名高い。もし買ったあかつきには、写真でもいいので見せてください。
 毎年10月の体育の日には、「清洲ふるさとまつり」が行われている。ついこの前だ。織田信長や武将、姫などに扮した時代行列があり、今年は大河にあやかって一豊と千代も参加していたらしい。といっても、もちろん仲間由紀恵さんは来てないです。
 昨日の写真にあった赤い橋「大手橋」の上では、火縄銃の実演などもあって、なかなか楽しそうだ。何故か、モリゾーとキッコロがいたり、仮面ライダーショーがあったりするのは愛嬌として許して欲しい。

 そんなわけで、一泊二日の清洲城ツアーもついに終わりの時を迎えることになりました。ジュリエットも少しは清洲城のことが好きになってくれただろうか。
 また機会があったら歴史・城ツアーでお会いしましょう。今回はこれにて解散。みなさん、お疲れ様でした。


清洲城物語・歴史編---長くなりすぎたので前編のみ 2006年10月19日(木)
2006年10月20日 (金) | 編集 |
橋から見る清洲城

Canon EOS Kiss Digital N+SIGMA 18-125mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/80s(絞り優先)



 メジャーでもなくマイナーでもないお城のことを、歴史にあまり興味がない人に説明するのは難しい。たとえばこの清洲城などがそうだ。戦国時代が好きな人には説明するまでもない城だけど、日本史なんてまったく興味ないワって人に向かって清洲城が信長にとっていかに重要なお城だったかを熱く語ってもたぶんダメだと思うのだ。言葉を重ねれば重ねるほど遠くなるふたりの距離。ロミオとジュリエットの片方だけロミオ状態に陥って、手を伸ばしてもジュリエットは窓を閉めて寝てしまう。一体私は誰に向かって清洲城のことを語ればいいのだろう?
 語りかけるべき対象を上手くイメージできないまま、とりあえず「功名が辻」は観てるけど戦国時代はそんなに詳しくないかな、っていう人あたりを想定して書いていきたいと思う。途中で脱落者が続出しても気にせず進みますので、付いてこられるところまで付いてきてください。

 今川義元の大群が京都へ上洛するため(上洛ではなかったという説が近年有力らしい)尾張に向かっているという報告が届いたとき、信長は清洲城にいて動かない。2万5,000の今川軍に対して織田軍は3,000。目前の丸根、鷲津の両砦を攻撃されているという知らせを受けてもまだ動かない。深夜、信長は「敦盛」を舞い、立ったまま湯漬け(お茶漬けのお湯版)をかき込んだかと思うと突然の出撃命令を出す。ええーい、出陣じゃぁー! ワシに続けー! と叫びながら清洲城を飛び出していったのが早朝4時のこと。そんなこと急に言われても困ってしまった武将たちが今度は動けない。わずかに続いたのは5騎のみ。行く先は熱田神宮だった。
 地図を見ると、清洲城から熱田神宮までは直線距離にして南東に12キロくらいだろうか。車の渋滞はなくても当時の道路状況を考えると気軽に馬でひとっ走りという距離ではない。馬で駆けに駆けて、熱田神宮に到着したのは朝の8時だった。昔の人は本当に元気だ。
 戦勝祈願を終えた後、最前線に近い善照寺砦に入ったのが午前10時。その頃には、遅れていた後発部隊もようやく追いつき、なんとか合流を果たす。昼12時、今川義元の部隊が桶狭間に入って休憩してるという知らせを聞き、信長勢も中島砦に進む。午後1時、突然の雷雨。雨でおじゃるよ、なんとかせい、などと怒鳴りつけてる今川義元。豪雨はほんのいっときで上がり、好機到来とばかりに、かかれー! の合図と共に一斉に突撃する織田軍。急襲というとだまし討ちのように聞こえるけど、このときの織田勢は正々堂々の正面突撃だった。ひとかたまりになって本陣を目指す。
 雨に気を取られてすっかり油断していた今川軍は、たちまち大混乱に陥り、さんざん打ち負かされて大敗走。戦うどころか武器を捨てて逃げる連中もいたりして、1時間もたたずに勝負は決まった。午後2時、今川義元捕まる。弱小と侮っていた織田勢によもや負けるなんて思いもしなかったことだろう。このとき今川義元49歳、織田信長27歳。信長はたちまち天下に名をとどろかすことになる。
 また別のとき。豊臣秀吉が信長の草履取りとして仕えたのもこの清洲城だった。あるいは、信長が本能寺の変で死んだ後、後継者を誰にするかを決めるために開かれたのもここ清洲城で、清洲会議として有名なエピソードになっている。
 清洲という地は、今でこそ知名度が低くなっているものの、徳川家康が尾張の首府を名古屋に移すまでの200年間、清洲こそが尾張の首府だったのだ。その中心が清洲城だったわけだから、戦国の歴史上、重要な意味を持つ場所だったのは当然と言えば当然だ。関ヶ原の合戦のとき、東軍の先発部隊が集まっていたのも清洲城だった。

 ここまで書いて、まだ全体の3分の1くらいでしかないと言ったら、更なる脱落者を生んでしまうだろうか。これはまずいぞ。源頼朝のことを書いたときと同じではないか。あのときのように前編、後編に分かれそうな予感がしてきた。というか、そうなると思う。桶狭間の合戦について詳しく書きすぎたのが失敗だ。でも、気を取り直して続きを書こう。
 みなさーん、付いてきてますかー? こっちですよー。まだまだ先は長いから頑張りましょうねー。って、なんだかか頼りにならないツアーコンダクターみたいになってないか私。

 清洲城ができたのは、1404年(1405年という説も)。室町幕府の尾張守護職だった斯波義重が、下津城(稲沢市)の別郭として築城したのが始まりとされる。1476年、下津城が戦乱で焼け落ちてしまい、守護所がこの清洲に移ってきたことから清洲の繁栄が始まる。
 やがて斯波氏が力を失い、それに代わって勢力を伸ばしてきた織田家の本城となる。1555年、少し前にオヤジさんの織田信秀が死んで家督を受け継いだ信長が、城主だった織田信友を攻めて、清洲城を奪い、それから10年間、ここは信長の居城となる(信長が生まれたのは、今の名古屋城がある場所にあった那古屋城)。この10年間は尾張の統一にかかった時間だ。かなり苦労している。
 続いて美濃攻略のため、信長は小牧山城に移り、以後は番城となった。ただ、城主の顔ぶれはそうそうたるものだ。信長のあとは嫡男の信忠が9年間、信忠亡き後は次男の信勝が9年、豊臣の代になってものちの関白・秀次が6年、関ヶ原の合戦当時は福島正則(5年)、関ヶ原ののちも家康の四男・松平忠吉が8年、家康の九男・義直が7年、それぞれつとめている。
 そんな重要視されていた清洲城も、江戸時代に入って戦争がなくなるとあまり用を足さなくなってきた。そして家康は名古屋の地に大きな城を築城することを思いつく。元々信長親子が城主としていて、清洲に移ってからは廃城となっていた那古屋城があった場所に建てたのが今の名古屋城というわけだ。そして、有名な「清洲越し」がやって来る(1609年からの4年間)。
「思いがけない名古屋が出来て、花の清洲は野となろう」と、当時歌われたように、6万人の都市が全移動となったのだから、清洲は空っぽ同然になってしまったのだった。今でいう遷都などよりももっと大がかりなもので、街をひとつ全部家や建物ごと移してしまったようなものだから、本当に清洲は何にもなくなってしまった。その後の大洪水などもあり、清洲城も影も形も残っていない。再建された清洲城の天守閣は、まったくの勘で作られている。

 というわけで、案の定、後編に続く、となった。歴史に触れすぎて、清洲城そのものについてまだほとんど書けてない。明日はそのあたりのこともきっちり書いて、清洲城物語を完結させたい。
 みなさーん、今日はここで野宿になりました。ええー!? そんなの聞いてないぞー、って? おむすびを配りますので、今日はゆっくり休んで明日に備えてください。明日も長丁場になりそうですので。
 ええーと、出発地点からずいぶん人数が減ってるような気がするけど、気のせいかな?


近場で修学旅行気分が味わえる妙興寺 2006年10月18日(水)
2006年10月19日 (木) | 編集 |
妙興寺の総門越しの勅使門

Canon EOS Kiss Digital N+SIGMA 18-125mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/15s(絞り優先)



 愛知県一宮市(いちのみやし)に、古くて立派なお寺があると知ったのは去年のこと。喜び勇んで出向いていったら閉まっていた。閉門が5時だということを知らなかった私は、固く閉ざされた門の前でしばし佇む人となったのであった。たのもー、とかひと言叫びたかった。
 その反省を生かして、今回はちゃんと4時に行った。今度はしっかり門も開いていた。お久しぶりです、妙興寺さん。私のことを愛・おぼえていますか? どちらさまですか、リン・ミンメイです。いや、オオタです。こんにちは、お邪魔します、どうぞお入りください、ありがとう、とひとしきり門の前でひとり芝居をしつつ、総門をくぐる。おお、ここが妙興寺か。なるほど、この趣はなかなかのものですよ。禅寺特有の空気感を入口付近から感じさせる。さすが、「尾張に杉田(過ぎた)の妙興寺」とうたわれただけのことはある。京都の古刹と比べても遜色ない。
 鎌倉時代の1348年に、尾張中島城主・中島蔵人の次男・滅宗宗興によって創建され、18年かけて建てられた臨済宗のお寺だ。山号は長嶋山(ちょうとうさん)、寺号は妙興報恩禅寺(みょうこうほうおんぜんじ)という。本尊は釈迦三尊。
 足利義詮の祈願所だったり、後光厳天皇の勅願寺だったり、その後も歴代の為政者によって手厚く保護されてきた。一宮では一番歴史のある寺で、現在でもなかり広い境内を持っている。

 手前に見えている門が一番南にある総門で、江戸時代に名古屋城から移築した門だ。ただし、昭和34年の伊勢湾台風で一度倒壊している。そのせいではないんだろうけど、扉のところにプチプチで覆いをしていたのが気になった。何か意味があるんだろうけど、もう少し一体感のある素材を使って欲しかった。これじゃあ車をぶつけたところにガムテープを貼ってしまったみたいだ。
 奥に見えているのが勅使門(ちょくしもん)。このお寺の中で最も重要なお宝だ。建物のことごとくを火事や地震などで失った中、この門だけが建てられたときのそのままの姿で生き残った。さすがに放っている歴史オーラが違う。国の重要文化財も納得だ(以前は国宝だったものが格下げになったらしい?)。門の勅額「国中無双禅刹」は後光厳天皇の字だとか。形式は、一間一戸の四脚門(よつあしもん)。
 せっかくだからくぐってみたなかったのだけど、それどころか周りを囲まれていて近づくことさえできなかった。そもそも、勅使門というのは、宮廷からの勅使を出迎えるときのみ開かれた門だから、一般庶民の私などくぐれるはずもないのだ。もし、ここの門が開くと、そこから三門、仏殿が一直線に並んでいることが分かる。総門だけ東にずれてるのは、鎌倉時代の禅宗伽藍では一般的な配置なんだとか。

妙興寺の三門

 私としてはこいつが見たかった。ガイドブックの写真を見て、わっ、これ絶対見たいと思った三門。実物を見て、その期待を裏切らない立派さに感動。横にギターを弾いているおじさまがいて、ええっ!? と最初戸惑ったのだけど、しばらくするとこれが実にいい感じになってきた。寺の境内とギターの音色という異色の組み合わせがこんなにも馴染むとは思わなかった。夕陽を浴びながら海に向かってギターをかき鳴らしていた青年も感激したけど(ホントにこんな人いるんだと思って)、ここのギターおじさまはそれよりもよかった。室町時代の人が聴いても、これはちょっといいなと思ったんじゃないだろうか。

 三門というのは、山門と書かれることもあるけど、元々は三門が正しい。正式名称は三解脱門。三は、空、無相、無作のことで、仏を求める者はこの三つを解脱しなければならない、といったような意味らしい。
 形式は、三間三戸の重層門。間口が三間あって三間とも通ることができるから三間三戸。重層というのは、二階部分にも屋根がある門のことをいう。
 昔のものは火事で焼けてしまって、現在のものは明治11年に再建されたものだけど、そんな新しさは感じない。この門はとても気に入った。

妙興寺の仏殿

 最後は仏殿。門三つで充分満足してしまっておまけのような感じになってしまったけど、これも五間四方の入母屋造りの立派なものだ。
 賽銭箱に100円を投げて、さて何を拝もう、と迷う。考えてみると、お願い事はいつも神社に行ってする。お寺では何を願えばいいんだろう? そもそもお寺って願い事するところなの? という素朴すぎる疑問に自分自身答えることができなかった。実際のところどうなんだろう。一応、こちらの関係者各位のことをよろしくお願いしますと挨拶だけはしておいたけど、それでよかったんだろうか。
 ふと扉を見ると、何やらどこかで見たような紋が彫られている。誰のだっけ。戦国武将の誰かだと思ったけど。帰ってきてから調べてみると、豊臣秀吉の五七の桐だった。そうだそうだ。ただし、もともとは足利尊氏の足利家の紋章だったということで、そちらの関係なのだろう。

 このお寺は、神陰流の開祖である上泉信綱が無刀取りを会得した場所としても有名だ。文献としてはっきりしたものはないものの、どうやらここで修行したというのは本当らしい。子供を誘拐した暴れん坊が振り回す刀を素手で受け止めて、そこから無刀取りを開眼したという、時代劇のようなエピソードも語り伝えられている。池波正太郎の「剣の天地」でもそのことが描かれていてい、舞台は妙興寺となっている。
 禅寺ということで、現在でもたくさんの雲水たちがこのお寺で修行をしている。夕方、大勢出てきて境内を掃除していた。その全員に挨拶されて戸惑う私。超こんにちは攻撃。ここの修行僧が編み出したらしい妙興寺そばというのも地元の名物としてちょっと有名らしい。
 神社仏閣好きにはたまらない魅力を持った、ここ妙興寺。自信を持っておすすめしたい。たいてい長くても30分も神社などにはいない私がたっぷり1時間過ごした。閉門時間が迫ってきて、今度は中に閉じこめられそうになるくらいだった。入れないのもイヤだけど、出られないのはもっとイヤだぞ。お前さん、ついでに修行していきなさいなどと誘われても困ってしまう。いや、私、修行は俗世間でしますので。
 というわけで、ちょっとした修学旅行気分を味わえた妙興寺行きとなったのだった。よかった、よかった。


自分の中で中途半端なブドウを秋の味覚トップに抜擢 2006年10月17日(火)
2006年10月18日 (水) | 編集 |
ブドウについて

Canon EOS Kiss Digital N+EF 50mm(f1.8), f2.0, 1/20s(絞り優先)



 秋の味覚といえばシイタケで決まりだネ、という特殊な人をのぞいて、秋ははやりマツタケであり、サンマであり、果物でいえばブドウや梨ということになるだろう。その他、栗もあるし、季節が進めば柿やミカンも出回ってくる。そんな中で、秋のトップバッターとして私が選んだのはブドウだった。まずは無難な選択と言えるだろう。
 それにしても、果物世界におけるブドウのポジションというのはどうも中途半端なところがないだろうか。高級でもなく低級でもなく、とびきり美味しいわけでもないしもちろんまずくもない。値段的にもバリエーション的にもそこそこで、どこをとってもそこそこ感がつきまとう。オレはブドウが死ぬほど好きで気づくとブドウの絵ばかり描いてるんだよね、なんて人は見たことがない。いや、もちろん、世の中は広いから、一番の好物がブドウだと答える人もたくさんいるんだろうけれど。
 私の中のランキングでいうと、ミカン以上バナナ以下といったあたりだろうか。もともとあまり果物を食べない方なので、ブドウはシーズンでも2、3回とマイナー果物に属する。頻度としてはキウイ以上イチジク以下か。
 思い起こしてみると、小さい粒のブドウは子供の頃けっこう食べていた。ただ、大粒の巨峰は今ほど出回ってなかったような気がするし、緑色のマスカットはまだ高かったのか、めったにお目にかかることがなかった。私があまり食べない間に、ブドウ業界もすっかり様変わりしたのだろうか。

 そんな私とブドウとの疎遠な仲とは裏腹に、ブドウは世界で最も生産されている果物なんだそうだ(オレンジが一番という話もある)。誰だよ、そんなにブドウを食いまくってるのはと思ったら、大部分がワインになるのだった。なるほど、そういうことか。世界では8割がワイン用で、食用は2割というから、世界ではあまりブドウは食べられてないのかもしれない。日本では9割が食用で、ワイン用は1割でしかないという。ワイン通の川島なお美なんかはきっと日本製のワインなんてめったに飲まないのだろう。外国産をありがたがるという点では、ワインはファッションブランド以上のものがある。いくら伝統が違うからといって、本当にみんなそんなにワインの味の違いが分かってるんだろうか。私はアルコール全般を受け付けないので、ワインも料理に使うだけで飲んだことがない。きっと、300円のものも何十万のものも、どっちもまずいと感じるだろう。
 ブドウにはいくつかの原種が世界のあちこちにあって、どこが原生地かというのは難しい。ヨーロッパ・ブドウと呼ばれる種類のものは、カスピ海沿岸に自生していたもので、紀元前3,500年頃の古代エジプトではすでに栽培されていたという。もうひとつの原産地は北アメリカ大陸。東部のアパラチア山脈にあったそうで、現在でもこのふたつの系統に大別されている。
 日本に入ってきたのは、平安時代末期の1186年(壇ノ浦の合戦が1185年)、遣唐使によって甲州に持ち込まれたのが栽培の始まりとされている。それとは別に、昔から野山にヤマブドウが自生していた。相当酸っぱいらしいけど、今でもあるそうなので、見つけたら食べてみたいと思う。山で酸っぱい顔してる男を見かけたらヤマブドウを食べた私かもしれない。
 本格的に栽培されるようになったのは江戸時代や、明治に入ってからで、現在は山梨、長野、山形、北海道、岡山あたりでたくさん作られている。品種も多く、日本で出回ってるだけでも20種類以上あるらしい。もし、この先で私がブドウに目覚めるようなことがあったら、全種類食べるのを目標としよう。皮ごと食べられる甘いブドウというやつも一度食べてみたい。リザマート、ニューナイ、バラディなんかがそれで、テレビで紳助と松っちゃんがで食べていた。
 ただし、私は干しぶどうが大の苦手なので、レーズンパンの差し入れだけはやめてください。小学校のとき、レーズン食パンがたまに出てきたけど、スイカの種を取るようにレーズンを取って食べたものだ。今でもレーズンの食感と味が苦手で、克服できないでいる。ブルーベリーは好きなのに。

 ブドウには体にいいものがたくさん含まれていることが分かっている。ポリフェノールが動脈硬化の予防になったり、ガン細胞と戦ったり、レスベラトロールという成分は寿命を延ばす効果があるといわれている。更にブドウの種からは育毛効果のある成分も見つかったという。とりあえずブドウをたくさん食べて体調を良い方向に持っていきながら、出した種は頭に蒔くといい。毛も生えてくるし、上手くいえばブドウも生えてくるかもしれないので、一石二鳥だ(誰も信じないと思うけど信じないでください)。
 漢字で書くと葡萄で、この語源は中国から来ているようだ。そもそもは、ペルシャのバァダァ(badah)が元になっているようで、これがシルクロードを通って中国から入ってきたときには伝言ゲームのようにズレていて、日本ではブドウとなり、そのまま名前になった。日本書紀などにも蒲桃や葡萄として出ているところからしても、その存在自体はかなり古くから知られていたのだろう。
 日本人にとってブドウというのは食べる果物というのが一般的だけど、外国人にとってはワインの原材料というイメージなんだと思う。
 ワインの歴史も古く、ブドウの歴史とワインの歴史はおそらく重なっている。というのは、世界中のお酒で、人間が手を加えず自然に発酵して酒になるのはブドウから出来るワインだけだからだ。きっとブドウが見つかったところで同時にワインも見つかったのだ。作ったのではなく。
 普通の酒は、酵母などを加えて発酵させることでアルコールになるのだけど、ブドウだけはアルコールとなるような糖分と酸の割合になっていて、皮には天然酵母が付いてるので、つぶしさえすれば勝手にワインになるのだ。これぞ自然の恵み。なので、私たちもブドウを踏みふみすればワインができるはずだ(たぶん)。いまでも、半ばイベントとして、乙女のブドウ踏みのようなものが行われている。おっさんが踏んで出来たワインはイヤだ。

 ブドウに関する一般的な知識が身に付いたとことで、更に時代を先取るニューパワーとして(なっつかしいですねっ)、もう一歩進んだ雑学も知っておきたい。
 まずおさえておきたいところとしては、巨峰を作ったのは大井上康代さんだということだ。そんな知識、一体どこで役立つんだよと思ったあなた、ミリオネアの1,000万円の問題で出るかもしれないので油断は禁物だ。
 種なしブドウはどう作るかというと、花が咲いている時期に、ジベレリンという植物ホルモン剤に房を浸けることで種子をできなくさせるのだ。これをジベ処理という。種なしブドウを彼女と食べてるときなどに、「ジベ処理を最初に思いついた人ってすごいよね」、などとさりげなく雑学を披露するのもまた一興。
 葡萄色というくすんだ赤紫色があるけど、あれは「えびいろ」と読む。えび染め、などというときはこの字を使う。
 ひとつのブドウ棚は一本のブドウの木から作られていて、そのままにしておくとどんどん成長していって、最終的には30メートル四方にも広がるそうだ。そして、その一本の木になるブドウの数は3万房。もぐだけでも手がおかしくなってしまう。けど、そんなことをすると甘みが分散して美味しくなくなるので、栄養を集約させるために200分の1ほどに間引きをする。私たちが食べているブドウは、そんな犠牲の上に成り立っていたのだ。
 まずはこれくらいのブドウ雑学を用意しておけば、川島なお美のワインうんちくにも対抗できるんじゃないだろうか。ワイン・サイドからいったら負けるので、ブドウ側から攻めたい。打倒川島なお美でブドウを食べて食べて食べまくろう。


忘れてきた夏の花の宿題を取りに少し過去に戻る 2006年10月16日(月)
2006年10月17日 (火) | 編集 |
クサギって

Canon EOS 10D+Super Takumar 55mm(f1.8), f2.8, 1/640s(絞り優先)



 季節はすっかり秋の深まりを見せている中、保存写真のフォルダを見ていたら、とりこぼしていた花がいくつか見つかった。そこで夏の花の宿題を秋の今のうちにやっておくことにした。江戸の敵を長崎で討つようなものだ(それは全然言葉の使い方が間違ってるぞ)。
 まずはクサギから。カタカナで書くとまったくインパクトはないけど漢字で臭木と書くとあなたもきっと、ひどいっ! ひどいわっ! とおすぎとピーコのようになってしまうだろう。臭木って、いくらなんでもストレートすぎるだろう。小学生がつけたあだ名じゃないんだから。なんでも、葉っぱをちぎったり枝を折ったりすると、ひどく嫌な匂いがするらしい。でも、だからといって、見た目も性質もまったく無視して臭いから臭木ってのはないんじゃないか。ヘクソカズラ(屁糞葛)と並んでかわいそうな名前の代表と言えるだろう。
 原産は中国で、現在は日本全国から中国、朝鮮半島に生えているクマツヅラ科の落葉小高木だ。暖かいところへ行くと変種が出てきて、ショウロウクサギと呼ばれるものが多くなり、沖縄はこれがほとんどだそうだ。
 赤い部分がガクで、白いのが花、雌しべと雄しべがびよ〜んと飛び出している。細い手足を目一杯広げた間抜けっぽい人に見えたりもする。
 実は、ガクの部分が赤紫で反り返り、実が黒紫という、ドムを思わせるようなカラーリングになる。その実を鳥が食べて種がまかれ、受粉はアゲハチョウやスズメガなどの長いストローを持っているのが担当する。蜜は中央のくぼんだ奥の方にあるので、口が長くないと届かない。
 今では臭いということでやや嫌われてるところもあるけど、昔は根っこは薬用、実は染料、若葉は食料としても利用されていたそうだ。特に実の染料は重宝されていたようで、自然界から青色を作り出せるのは藍とクサギだけだという話もある。もし、新撰組のコスプレをしたくなって、あの浅葱色(水色)が欲しくなったときはクサギの実を使うといいかもしれない。ホントにあんな色に染まるかどうか、私は知らないけど。

サルスベリ

 これはお馴染みのサルスベリ。今ではすっかり日本の夏風景に欠かせない花となっているけど、やってきたのは江戸時代と、意外と新参者だったりする。原産は中国南部やオーストラリアという比較的暖かい地方ということで寒さに弱いから、北日本の人たちにはお馴染み感は薄いのかもしれない。
 漢字で書くと百日紅で、なんでサルスベリって名前なんだろうとずっと不思議に思っていた。それが今日勉強してやっと分かった。百日紅というのは、100日間も紅色の花を長く咲かせるところから来ていて、サルスベリは幹の肌がすべすべのツルツルでこれは猿でも滑るだろうというところから名づけられたのだそうだ。なるほど、言われてみれば納得する。百日紅という字からヒャクジツコウと呼ばれることもある。
 花色は、ピンク紫が一般的だと思うけど、人によっては白のイメージかもしれない。他にも、紅、ピンクなどがある。
 それにしても、3ヶ月もの長きにわたって次から次へと花を咲かせ続けるエネルギーの持続力はすごい。普通、そこまで花を咲かせる必要はないのに、サルスベリの花を咲かせる情熱はどこから来ているのだろう? しかも、暑い夏の盛りに。前世がサルスベリで次に人間に生まれ変わるときは、日本や中国よりもラテン系をおすすめしたい。イタリアとかスペインとか、あっちの方が合ってる。この国に生まれてしまったら、欧米か! とツッコミが入るだろう。

マメアサガオかな

 三重の田舎に帰郷したときに見つけたこの花。川沿いの道にピンク色が唐突な印象を与えた。隣が畑だったから、何か野菜の花かとも思ったけど、形はアサガオっぽい。調べたけどどうも確信が持てない。ホシアサガオかと思ったら、あれなら内側が紫色をしてるというんで違う。じゃあマメアサガオだろうか。
 マメアサガオだとしたら、北アメリカが原産で、1950年代に帰化したということだ。現在は関東より西から九州にかけて分布してるという。

 夏の花写真はもう少し残っているけど、それはまた来年でいいか。今年の夏の花の宿題はこれにて完了ということにしたい。わずか1ヶ月、2ヶ月前の写真がなんだか遠く感じる。もうあの頃咲いてた花が咲いてないように、あの花を撮っていた私ももはやいない。季節が過ぎるように、自分もまた時とともに流され吹かれていく。もう一度同じ場所に立っても、同じ写真は撮れないだろう。
 2006年の夏は確かに終わった。そこに何を残し、自分の中に何が残っただろうと考えてみる。何もなかったような、大切な始まりがあったような、それらはきっと、もう少しあとになってみないと分からないことだ。私たちは今が一番大切だし、過去よりも未来のことを思って生きていくことは間違いじゃない。ただ、過去に張られた伏線を見逃してはならない。すべての時間は過去からの延長線上にのみ存在する。過去を取り落としてしまえば、生きた時間を無駄にしかねない。たまには、過去に戻って落とし物を拾うことも必要なのだ。


料理は誰にでもできて、できないよりできた方がいい 2006年10月15日(日)
2006年10月16日 (月) | 編集 |
彩りサンデー

Canon EOS Kiss Digital N+EF 50mm(f1.8), f4.5, 1/25s(絞り優先)



 料理は心だというのは、入口と出口でのことであって、中間はあくまでも知識と経験と技術だ。確かに初心として、心を込めて料理を作ることは大切なことだし、技術が究極まで極まればあとはどれだけ心を込められるかということになってくる。ただし、その間にいる人間としては、心を込めても美味しくなければやっぱり駄目だと思うのだ。心を込めてテストを受けて精一杯空欄を埋めても、それが正解でなければ点はもらえないように。下手だけどあなたのためにガンバって作りました、てへっ、とか言われても、限度を超えてまずければそれは暴力に近い。こいつは心以前の問題だろうということになる。
 料理は決して難しいものではない。レシピ本の通りに作れば、食べられないようなものはまずできない。しょう油とソースを間違えるとか、そういう致命的な失敗を重ねない限り。たとえ、刃物恐怖症で包丁が握れなかったとしても、手でちぎればなんとかなる。日常生活を送れる人なら、レシピを見て5回も料理すれば基本的なことは身に付くはずだ。なにも英語をマスターするとか、ピアノを弾くとかの特殊技能を身につけろとかいう話ではないのだから。
 料理に関する特別な才能もなく、食べることにほとんど無関心だった私でさえ、50回も作ればこれくらいのものができるようになる。相変わらず手際が悪くて時間がかかるけど(今日は2時間半コース)、ややこしい料理も作り続けていればいつかは完成する。
 とにかく料理することは楽しい作業なので、これまでやったことがなかった人や、興味さえなかった人にこそおすすめしたい。毎日の義務としてではなく、あくまでも趣味として。ゲームよりも面白いし奥が深い。ものを作ることは喜びを伴うものだし、食べてくれる人がいればなお嬉しいもの。自分のためだけに作るにしても、上達していけば達成感が得られる。
 私のサンデー料理を見て、ひとりでも料理に目覚める人が出れば、それはとても喜ばしいことだ。ぜひ、「突撃!私の晩ごはん」の助手としてスカウトしたい。

 左のグリーンのものは、野菜と魚介と鶏肉のグリーンピースソースとなっている。
 ジャガイモをスライスしてレンジで温めて、少しオリーブオイルで焼く。その上に、ツナ缶、ゆで卵の黄身、マヨネーズを混ぜて焼いたものを乗せる。更に、鶏肉、ホタテ、ニンジン、ほうれん草を小さく切って、焼いて、乗せる。一番上にはとろけるチーズを。
 スープは、グリーンピースを温めてつぶして、オリーブオイル、牛乳、飲むヨーグルト、コンソメ、白ワイン、バター、塩、コショウと混ぜて温める。できれば裏ごしした方がいい。
 右手前は、スズキの大葉ロール。
 スズキの切り身をスライスして、大葉を乗せて巻き込む。塩、コショウもする。外れやすいので、最初は爪楊枝を差して、オリーブオイルで焼く。スープは、オリーブオイルをベースに、酢、カラシしょう油、塩、コショウを混ぜて作る。
 右奥は、エビとクリームソースの岩石揚げ・ミートソース。
 小麦粉、バター、牛乳でホワイトソースを作り、エビの切り身、タマネギのみじんと混ぜる。
 トマトソースは、トマトを乱切りにして煮込みながらつぶし、ニンニク、タマネギを加え、コンソメ、砂糖、酢、オリーブオイル、塩、コショウ、白ワインで味付けする。
 衣は、パンの耳を5mm角くらいに切って、ホワイトソースの具に小麦粉、溶き卵の順でつけてまぶす。
 今回はこれがダントツの美味しさだった。人に出すときはこの一品を加えたい。中身がとろ〜りホワイトソースに外はパン耳のサクサク感が抜群。これは普通のパン粉では出せないサクサク感なので、ぜひおすすめしたい。油の温度はやや低めにして、じっくり揚げるのがコツだ。ミートソースも市販のものを買うだけでなく自分で作っても充分美味しいものが出来る。

 カノジョが心を込めて精一杯作った美味しくない料理を、美味しいよとひきつる笑顔で言い続けられるのはつきあい始めて何ヶ月目までだろう? 期間にして3ヶ月、回数にして5回くらい。とにかく美味しくなくてもいいから普通のものを食べさせてくれという心の叫びがカノジョさんには届くだろうか? いや、私の話ではなく一般論として。
 料理は決して難しいものではない。自分の実力以上に凝ったものを作ろうとすると無理が出てくるけど、身の丈にあった料理ならそれほど全力を出さなくても作れるはずだし、カレシさんも充分満足してくれると思う。初めは簡単なものから、だんだん難しいものに移っていけば、おっ、成長したね、となる。
 世の中のすべての男が料理で転ぶわけではない。料理上手を必要以上にアピールする女ってイヤね、と思う気持ちも分かる。それでも、恋する乙女のみなさん、料理をしてみませんか? と私は言いたい。出来て損はない技能だから。
 美味しい料理は人を幸せにするということが今になってやっと分かった。自分が作り手となれば、食べる側に回ったときも作り手の気持ちが分かるようになる。作り手と食べ手の気持ちがつながれば、そこに笑顔と感謝の気持ちが生まれる。そうなると、食べる人のことを思いやる気持ちが何より大切なのかなぁと思うけど、いやいや、やっぱり料理は知識と経験と技術なのだと言おう。
 カノジョさん、カレシさんのひきつり笑顔をぜひ満面の笑みに変えてあげてくださいね。


ヒクイドリとツルに学ぶそれぞれの在り方と自由について 10月14日(土)
2006年10月15日 (日) | 編集 |
ヒクイドリさん

OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f4, 1/250s(絞り優先)



 ひと目見て、こいつぁ恐竜だと直感的に思った。鋭い目や肌の質感が確かに恐竜を思わせた。実物の恐竜を見たことはないけど、遺伝子の遠い記憶が私にそう告げた。
 名前がまた恐ろしい。ヒクイドリという。漢字で書くと、火食鳥。火を吐くのではなく食ってしまうのだ。いや、もちろん本当に火を食べたりはしない。ノドから赤い肉が一対たれ下がっていて、これを見た江戸時代の人がまるで火を食べたみたいだというんで、そう名づけた。この赤い部分は、気分によっても変化するらしい。立派なトサカも強そうだ。
 凶悪さは見た目にとどまらない。まず図体がデカい。体長170センチ、体重80キロにもなり、鳥の中ではダチョウにつぐ世界第二位の大きさを誇る。がっちりした柔道部みたいな体つきだ。
 性格は用心深さと凶暴さを併せ持ち、ばったり出会った人間を突然襲ってくることがあるという。脚は長く太く強力で、3本の指のツメはナイフのように鋭く尖っている。ナイフみたいに尖っては触るものみな傷づけてしまうギザギザ・ハートのヒクイドリさんなのであった。実際、森で蹴り殺された人もいるというから本当に危ないのだ。もし、うっかり出会ってしまったら、助かる方法はただひとつ、木の上に昇ることだ。逃げたらやられる。なにしろ、深い森の中でも時速50キロで走れるのだから。
 ただ、日常生活の中でヒクイドリに出会う確率はないので安心していい。動物園にいるのはおとなしいし。野生の生息地は、ニューギニアとオーストラリア北西の熱帯雨林のみと、かなり限られている。かつてはもう少し広い範囲にいたようだけど、熱帯雨林の減少に伴って数を減らした。
 これだけの体なので、やはり空は飛べない。体重80キロもあって空を飛べたら、人間はとっくの昔に飛んでいる。鳥だから当然羽はあるものの、退化してしまっている。こういう飛べない鳥のことを、走鳥類という。
 そんな荒くれ者の一面を持つヒクイドリではあるけど、肉食ではなく果物を食べて生きている。たまに昆虫や小動物を食べたりすることもあるようだけど、主食はあくまでも果物だ。
 かわいげがあるところとしては、オスはメスにちっとも頭が上がらないというところ。メスは適当な巣を作って、交尾したあと卵を4、5個ポロッと産んで、そのままフラッと出て行ってしまう。卵を温めるのも、ヒナを育てるのも全部オスの役目だ。ヒナがかえったら、9ヶ月くらいは付いて世話をする。メスはどこへ行ったかというと、その頃には別のオスのところへ行って、また卵を産んでいる。で、そこも出て行ってしまう。なんて自由なんだ。
 なんにしても、ヒクイドリは一見の価値がある。おそらくこの鳥を見たら、たいていの人が、こいつは恐竜だと思うんじゃないだろうか。これを見ると、恐竜は進化して鳥になったという説を素直に信じられるようになる。恐竜の体色も、図鑑なんかに載ってるような地味なものではなく、実際はこんなふうに鮮やかな色をしてたはずだ。暖かいところに生息する生物が派手になるのは、昔も今も変わらない。

ホオカザリヅル

 ヒクイドリは恐竜のような荒っぽさがあるけど、ツルには鳥の鋭さがあって、これはこれはちょっと怖い。厳しい目つきといい、あまり和やかな雰囲気ではない。
 写真のものは、エチオピアからモザンビークあたりにかけてのアフリカの東南部に生息するホオカザリヅルという名のツルだ。左右にたれ下がった肉を頬にたとえて名づけられたのだろう。
 水辺を好むツルで、アフリカでは川沿いの湿地などで暮らしているという。現在7,000羽ほどに減ってしまったらしい。
 体長は130センチほどで、灰色の頭と半分赤い顔はよく見ると面白い。
 エサは、水草、昆虫、貝、カエルなどで、食料が豊富なところでしか生きていけないそうだ。
 ツルはやはりサギなんかとは存在感がまるで違う。単に体が大きいとかだけではない。サギとは違うのだよ、サギとは、とでも言いたそうな目をしている。

 ツルというと、すぐに北海道のタンチョウヅルを思い出して、なんとなく日本の鳥のような気がするけど、実際はそうではなく世界中にいろんな種類のやつがいる。だいたい17種類くらいに分けられて(亜種を入れるともっと多くなる)、南極大陸と南アメリカ大陸をのぞく大陸に広く分布している。日本で見られるのは7種類。釧路にやって来るタンチョウヅルの他に、山口や鹿児島などに冬鳥として渡ってくるナベヅル、マナヅルあたりが有名だ。逆に言うと、それらの地方以外の人は野生のツルを見る機会はほとんどないというのが実情だ。昔、ドラマ「池中玄太80キロ」で西田敏行がタンチョウヅルの写真を撮っていたのを思い出す。私もいつか釧路でタンチョウヅルの写真を撮ってみたい。
 かつての日本ではもっと各地にツルが飛んできていたんだろうか。昔から、鶴は千年亀は万年などという言葉があったり、物語としても姿としてもいろいろ描かれてるから、今よりはもっと身近な鳥だったのだろう。「鶴の恩返し」もあるし。
 ただし、もちろんツルは千年も生きない。動物園で50年くらい、野生で30年くらいだと言われている。それでも、ツルはいったんつがいになると、どちらかが死ぬまでずっと一緒に過ごすというから、そういう意味では縁起がいいというかおめでたい生き物と言えるだろう。

 ひとくちに鳥と言っても世界には実に様々なやつがいる。こんなにもたくさん種類はいらないだろうと思うけど、これが地球のいいところだ。多様さの贅沢がある。決して無駄なんかじゃない。みんなそれぞれに可能性を追求していった結果がこうなった。絶滅していった鳥たちも多かったことだろうけど、それらもまた今につながっている。
 飛ぶことだけが鳥じゃない。森を猛スピードで駆け抜ける鳥がいてもいい。色だって、地味には地味のよさがあり派手には派手のよさがある。ペアの在り方も、子育ての方法も、生き方も、すべてそれぞれでいい。どうすれば正しいかなんて決まってはいないのだ。人もまた同じこと。みんなと同じような格好をして同じように生きる必要はどこにもない。自然の生き物たちみたいに自分の可能性を追い求めればそれでいい。私たちはみんな、生物としての進化の途中にいるのだから。


吊り橋理論実践の前に白沢渓谷の吊り橋で下準備を 2006年10月13日(金)
2006年10月14日 (土) | 編集 |
白沢渓谷の吊り橋

Canon EOS Kiss Digital N+EF-S 18-55mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/40s(絞り優先)



 名古屋市内に吊り橋があると言ったら名古屋人は信じるだろうか。私は去年初めて聞いたときは、にわかには信じられなかった。いくらなんでも吊り橋はないだろうと。しかし、それは確かにあったのだ、しかも我が町守山区に。だから守山区は、って言われてしまうのだろう。
 かつては堀川にもかかっていたらしいけど、現在では市内の吊り橋はここただ一本しかない。白沢川に架かる白沢川つり橋という木製の吊り橋。長さは10メートルくらいだろうか。渡ってみると、吊り橋特有のぐわんぐわんと揺れる感じがあって、ちょっと気分が悪くなりそうになる。渡り終えてからもしばらく地面がぐらぐらするような感覚が残る。意外と本格派だったりするのだ。
 名古屋近郊の方にはぜひおすすめした