現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
マイナー城シリーズ「岩崎城」編---話が長いので注意 2006年10月28日(土)
2006年10月29日 (日) | 編集 |
岩崎城裏

Canon EOS Kiss Digital N+EF-S 18-55mm(f3.5-5.6), f4.0, 1/100s(絞り優先)



 愛知県のあまり知られていない城を紹介するマイナー城シリーズ。今日は日進市にある岩崎城を取り上げたいと思う。たぶん、多くの愛知県民が知らないであろうこの城を私が知ったのは、ほんの偶然からだった。地図を見ていたら、岩崎城跡公園というのを見つけた。岩崎城? 聞いたことない。でも試しに行ってみたら、思いがけずちゃんとした天守があって驚いた。存在自体まったく知らなかったのに、うちの近所にこんなものが建っていたのか。
 この城、調べてみると実は歴史上けっこう大きな役割を果たしていたのだ。大げさに言えば、この城があったことで徳川幕府が誕生したと言っても言い過ぎではないかもしれない。ことの顛末はこうだ。

 本能寺の変の後、明智光秀を討った豊臣秀吉(このときはまだ羽柴秀吉)は、後継者争いに決着をつけるための賤ヶ岳(しづがたけ)の戦いで柴田勝家に勝利をおさめ、天下統一への道を歩み始める。この戦いで、信長の三男・信孝を味方につけたのが破れた柴田勝家で、次男・信雄を擁立したのが秀吉だった。しかし、秀吉と信雄の思惑は大きく食い違いを見せる。信雄にしてみたら父信長の後継者は当然自分だと思ったのに対し、実質的に敵を討ったのは秀吉の功績に違いなく、天下の流れも秀吉へと傾きつつあった。
 この決裂が元で起こったのが小牧長久手の合戦だ。信雄は、同じく秀吉の天下を認めていない徳川家康の元へ走り、力を借りることにする。家康にとっては代理戦争になるとはいえ、秀吉をつぶす大義名分を得ることになったと喜んだだろう。
 本拠である岡崎城を出た家康は、いったん清洲城へと入る。秀吉は大阪城にいる。ここで今日の主役となる池田恒興(いけだつねおき)の登場となる。古くからの信長の家臣で、数々の戦に参加した歴戦のツワモノだった恒興が、信雄ではなく秀吉側についたことで事態は大きく動いた。大垣城主だった恒興はかつて自分の城だった犬山城を乗っ取り、家康軍に対抗の構えを見せた。そこで家康は清洲を出て、小牧山城へと軍を移す。そしてここから長いにらみ合いが続くことになる。
 秀吉も犬山城に入り、陣を構えたものの、事態はまったくのこうちゃく状態に入って動かない。そして、しびれを切らした池田恒興がいらんことを言ってしまう。家康の本隊が小牧にいるってことは本拠の岡崎は留守になってるじゃん? と。そこを突けば本拠落とせるかも? いってみる? このとき、秀吉もまた判断を誤る。いけるかも……。ただし、岡崎には急いで行けよ、途中で寄り道なんかしてちゃダメだぞ、とは言った。けれど、秘密はバレるもので、この話、すっかり家康側に筒抜けになっていたのだった。
 三好秀次(のちの豊臣秀次17歳)を総大将として、森長可、池田恒興、堀秀政などの隊、総勢2万ほどで岡崎へ向けて出陣していった。そして、そのとき歴史は動いた。岩崎城がここで登場することとなる。

 岩崎城主であった丹羽氏次は家康軍とともに小牧に出陣していて、弟の氏重が城代として城を守っていた。このとき氏重16歳。城には300の兵が留守番してるだけだった。そこへ通りがかったのが秀次の別働隊となっていた池田恒興の1万の軍勢。16歳の氏重は焦って舞い上がってしまったのだろう。恒興にしてみれば、秀吉に敵に見つかって戦うと岡崎行きがバレてしまうから戦うなとクギを刺されているから、そのまま通り過ぎるつもりだった。しかし運命のイタズラか、魔が差したのか、岩崎城から撃たれた一発の威嚇射撃が、なんと、恒興が乗ってる馬を直撃。落馬した恒興はそりゃあもう怒った、怒った。我を忘れて攻めかかれの号令を出したのも無理はない。絶対、許さないと思ったことだろう。
 しかしここで恒興もびっくり、300の兵しか持たない氏重がろう城ではなく城から飛び出してきたのだ。これには恒興軍もひるんで、かなりおされたりした。三度も大群を押し返したというから大したものだ。とはいえ、1万対300では勝負は見えている。岩崎城は落城、氏重勢は全員討ち死にという結末となってしまうのだった。
 このとき別の場所で、先行していた本隊である三好秀次が、こっそりあとからつけてきていた家康の先鋒隊、丹羽氏次・康政軍の奇襲を受け壊滅したことを恒興はまだ知らない。あのガキめ、恥をかかせた上にさんざん手こずらせやがってなどと言いながら、休憩していた。そこに届いた、三好秀次敗走の2時間遅れの報告。なんですとぉー!? と驚く恒興。こうなったら岡崎なんて行ってる場合じゃない、急いで引き返すぞー、と引き返していく途中、いつの間にか長久手で陣取っていた徳川家康本隊の手前で急ブレーキ。別働隊の残った兵を集めて9,000。対する家康軍も井伊直政や信雄軍をあわせて9,000。
 2時間ほどにらみ合いが続いたのち、ついに戦いが始まる。両軍入り乱れて2時間あまり、当初は互角だったものの、徐々に家康軍有利となり、秀吉軍の森長可(森可成の次男で森蘭丸の兄)が鉄砲で眉間を撃ち抜かれ、池田恒興は岩崎城で落馬したときに古傷の足を痛めていて、動きがままならず敵方の槍で討ち取られたところで勝負あり。
 こうして長久手の合戦は家康側の大勝利で幕を閉じた。

 歴史にifはないとはよく言われることだ。でもやはり、もしあのときと考えたくなるような場面が歴史にはいくつかある。このときも、もし岩崎城がなかったら、もし、あの一発の銃弾が恒興の馬に当たらなかったら、歴史はどうなっていただろう。小牧長久手の合戦で秀吉側が勝っていたら、徳川幕府は誕生していなかったかもしれない。
 この戦ののち、秀吉は家康を完璧にたたきつぶすことをあきらめざるを得なくなり、信雄と講和することになる。結果、大義名分を失った家康は岡崎に帰ることとなり、秀吉と家康は微妙なバランスを保ったまま和解という形になった。ただ、このことによって東国を完全に支配下に納められなくなった秀吉は征夷大将軍への道が閉ざされることとなる。征夷大将軍になれないということは、幕府を開けないということを意味する。よって歴史上、秀吉が天下を統一したことにはなっていても豊臣幕府というものは存在していない。
 地方の小さな豪族の城にすぎなかった岩崎城が、歴史の裏側で意外にも大きな役割を果たしていた。その存在さえほとんど忘れられているけれど。そんな歴史に思いを馳せながら訪れてみると、また違った思いも生まれるかもしれない。

岩崎城表

 岩崎城の築城年代は不明とされていて、1529年頃に信長の父・織田信秀が築いたという説と、この地方の豪族だった丹羽氏清によって1538年に築かれたという説がある。いずれにしても、氏清−氏識−氏勝−氏次と丹羽氏4代、約60年に渡って守られたというのは確かなようだ(信長の家臣だった丹羽長秀とは別の流れらしい)。
 小牧長久手の合戦での活躍と、のちの関ヶ原の合戦で家康側について戦ったことが認められ、丹羽氏は三河の伊保(豊田市保見町)へ一万石の大名として取り立てられることとなった。大出世だ。16歳で討ち死にした氏重も喜んだことだろう。その後も丹羽氏は、徳川譜代大名として明治に至ったという。
 現在の岩崎城は、昭和に入ってから発掘調査が行われ、昭和62年に岩崎城跡公園として整備され、模擬の天守閣が建てられた。当時はこんな立派な天守はなかったことだろう。資料が残ってないので、想像上のものとなっている。
 周囲には、空堀や土塁、曲輪などがけっこう残っていて、模擬櫓門も再現されたりしている。隣には資料館もあり、戦国好きならなかなか楽しめるんじゃないだろうか。
 けっこう維持費がかかるだろうに、入場も、天守に登るのも、駐車場も無料と、日進市、太っ腹。入場は夕方4時半までで月曜定休。オマケに祝日も休みなので注意が必要だ。更に月曜日が祝日の場合は、火曜日も連休になってしまう。元々無料なんだからそんなもの。
 屋根に乗ったお約束の金鯱も、なんかちょっとズレた感じで素敵だ。何故ここに金鯱なんだと、深く追求してはいけない。

 それにしても、長かった今日の記事。なんとか一回読み切りにおさめたけど、普通なら2回に分けたかったところだ。どうしても歴史や城シリーズは長くなりがち。書き始めると加減ができなくなる。
 歴史の履修不足で単位が足りず卒業が危ぶまれている人でこれをしっかり人には、補習の代わりとしてあげたい。けど、歴史は面白いからたとえ授業になくても自分で勉強して欲しいと思う。教科書に載ってない人間ドラマは、テレビの連ドラや映画にも負けない面白さがあるから。




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