
| あらためて光についてちょっと勉強してみた 2006年11月28日(火) |
 PENTAX istDS+Takumar 200mm(f3.5), f3.5, 0.3s(絞り優先)
光は色であり、色は目である。光のないところに色は存在せず、色は私たちの脳の中にしか存在しない。 光とは何かという問いに、そんなの簡単じゃん、とあっけなく答えられる人はどれくらいいるんだろう。昨日までの私は完全に答えに詰まっていた。どちて坊やに質問を投げかけられた新右衛門さんのように。けど、今日からの私は違う。一夜漬けで光について勉強したからだ。光のことなら何でも訊いて……もらっては困るが、ぼんやりと理解したような気がしないでもない。 光は電磁波だと聞いて、ホントかよと思う。どうやら本当らしい。しかし、電磁波といえば、ラジオだって携帯電話だってそうだ。あれと光が同じものだとは最初は納得できなかった。ただ、波長の長いものや短いものは目に見えなくて、中間のいわゆる可視光線が光なんだという説明を読んで、なるほどそういうことかと納得した。波長が短いものにはガンマ線やエックス線、紫外線があり、波長の長いものに赤外線や電波などがある。動物には色が見えてないなどというのは、人間とは見える波長域が違うからだ。 電磁波というのは、要するに波だ。電界と磁界が相互に作用して組み合わさったものが空気を伝って動くことで波となる。電磁波は光で光は電磁波なので、電磁波も光と同じく秒速30万kmのスピードで移動する。波が一往復する間に進む距離を波長といい、波が1秒間に往復する回数を周波数という。 奥さん、嬢ちゃん、坊っちゃん、今日はちょっと難しいですよ。でも、なるべく簡単に書くから最後までおつき合いくださいね。
光は波である、ということろまで分かった。けどこれは光の本質の半分でしかない。光は波であると同時に粒子でもある。光は波か粒子かどちらなんだという議論が長らく続いた中で、アインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論や、その後の量子力学によって、光は波であり粒子でもある量子だということが分かったのだった。さすが、先生、お見事です(アインシュタイン先生は私の心の師匠なのだ)。 光は質量ゼロなのに存在していて、エネルギーも持っている。このへんのことは私にはよく分からない。分かっているのは、光というやつはどこまでも真っ直ぐなヤツだということだ。何にもぶつからなければひたすら直進するしか能がなく、曲がることは一切できない。自分では加速もできなければ減速もできない。こんな車はイヤだ。秒速30万kmで、1秒で地球を7周半できるというのはよく使われるたとえだけど、光クンは地球に沿って曲がるなんて器用なことができる子じゃないので、実際には地球の周りをぐるぐる回ったりはできない。ある意味では、地球2周目に突入したラブワゴンにも勝てない。ヒデは光より上ということか!? 性質としては、ものにぶつかれば反射する。まっすぐぶつかればまっすぐはね返り、角度があればそのように反射する。透明なものに当たれば透過しつつ、減光したり屈折したりする性質も持っている。人の目で見える色というのは、このときの吸収や反射によって認識される。
光については、まだ完全に解明されたというわけではないようだ。相対性理論からまだ100年しか経っていないのだから、当然といえば当然だろう。この世界には光の速度以上に早い物質は存在しないという定説も、いつかくつがえされる日が来るかもしれない。タキオンでヤマトの波動砲だって絶対に撃てないと決まったわけではない。 ウラシマ効果というのは実際どうなのだろう。光の速度で移動すると時間の速度がゼロに近いくらい遅くなって、自分は歳を取らないというあれだ。高速で飛ぶ宇宙船で50年飛び続けて地球に返ってきたら、地球では50年経っているのに乗組員は数年も歳を取らないと理論上はなるらしい。浦島太郎の話からウラシマ効果と呼ばれるこの現象を、人類はいつか体験することになるのだろうか。歳は取りたくないけど、浦島太郎にはなりたくないと個人的には思う。
 PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4) 今、街ではさまざまな光に満ちている。もはや暗い夜は失われてしまった。街灯、車のヘッドライト、信号機、店の蛍光灯、民家の窓からもれる明かり。様々な種類の光があることにも気づく。昔は、太陽の光や月明かり、火の明かりくらいしかなかった。オイルランプから石油ランプになり、人類が電気を手に入れたのはほんの120年ほど前に過ぎないのに。 エジソンが白熱電球の開発に成功したのが1879年だった。このときエジソン32歳。フィラメントに日本の竹を使うなど、試行錯誤の末、苦労して完成させた。同じ年のエジソンより前にイギリスのスワンも白熱電球を作ったのに、これは寿命が短すぎて実用とならなかった。歴史に名を残す人間とそうじゃない人間の差は大きいようで小さいのかもしれない。 エジソンが発熱電球を売るために作った会社がのちのGE(General Electric)社となり、のちに蛍光灯を売り出すことになる。 蛍光灯の研究自体は古くから行われていて、1856年にドイツの物理学者(当時はガラス工)ハインリッヒ・ガイスラーが作ったガイスラー管が蛍光灯の起源とされている。それから70年後の1926年、ドイツの発明家エトムント・ゲルマーが考えたアイディアが蛍光灯の実用につながり、蛍光灯発明者となった。GEはその特許を買い取って、ジョージ・インマンが完成させて、1938年に発売することになる。 蛍光灯の優れている点は、小さい電力で電球よりも強い光を出すことができるところだ。寿命も長い。その技術の先に、発光ダイオードLED(light Emitting Diode)がある。最近では街のイルミネーションもこれが増えてきた。半永久的とも言えるような長い寿命を持つLEDが今後の主流になっていくだろう。
ドイツの文学者ゲーテの最期の言葉は、Mehr Licht! もっと光を! だったと言われている。象徴的な言葉として有名だ。実際は、部屋が暗いからブラインドを開けてくれって話だったそうだけど、そんなゲーテも今の時代に生まれていたら、明るすぎるから光を消せ、になっていたかもしれない。考えてみたら、部屋に100ワットなんていう光は必要ない。夜だって暗くてよかったのだ。 地球の夜の衛星写真を見たことがあるだろうか。日本は恐ろしいほど明るいのに対して、北朝鮮だけは驚くほど真っ暗だ。それはもう見事なほどに夜ということを表している。暗さを貧しさゆえだと安易に判断するのは正しくない。むしろあれこそ正常な夜の姿だと言ってもいい。北朝鮮の子供たちはみんな、満点の星空を見ながら成長しているのだろう。国や政府がどうだからといって、星空の思い出が無駄になることはない。あの光を知らずに大人になる日本の子供たちの方が、何か大切なことを見失った人間となってしまいかねない。 地球は青い星というだけでなく、光の満ちあふれる惑星でもある。宇宙からやって来た異星人たちは、地球の青さに胸を打たれ、この星の明るさに驚くだろう。こんな辺境にこんなにも豊かな惑星があったのかと。けれど、地球は必ずしも光の天国とは言えない。虚飾の明るさとも言える。 光は確かに文明が繁栄している証だ。そのこと自体は間違いではない。ただ、私たちは明かりと引き替えに失ったものもあるということだけは知っておいた方がいい。その上で、もう一度光の大切さやありがたみを自覚したい。 もはや光なしには通常の生活は不可能なまでになっている。スイッチを押せば部屋は光に満ちるけど、たまには部屋の蛍光灯にお礼を言っても罰は当たらない。わっ、また切れたのかよ! この前替えたばっかりじゃねぇか! などと怒鳴りつけたりすると、電球はすぐにキレるだろう。いつもご苦労さんと、トイレを出るときにひと声かけて出れば、電球もきっと1.2倍くらい長持ちしてくれるだろう。
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| アリゾナ生まれの弁慶柱は三本締めの待ち構え中 2006年11月27日(月) |
 OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/30s(絞り優先)
東山植物園の温室にある巨大サボテンを見ながら、これはどういうポーズだろうとしばし物思いにふける。ウルフルズ「バンザイ」を歌ってるところというには手が短すぎるし、もうお手上げさっていうのとはちょっと角度が違う。なんかこんな手の構えをすることあるよなぁと考えて、そうか、あれだ、と気づいた。みなさん、お手を拝借! よ〜っお、チャチャチャッ、チャチャチャッ、チャチャチャッチャッ、はいっ! のときの構えじゃないか。そう思ったら笑えてきた。でもひとりで巨大サボテンを見ながらニヤついてる人は自分でもイヤなので、笑いはこらえた。それにしても、アリゾナ育ちのくせに日本の三本締めの構えをマスターしてるとは、やるな、弁慶柱(べんけいちゅう)。
アメリカの西部劇などでお馴染みのサボテンである弁慶柱のふるさとは、アリゾナ州からメキシコにまたがるソノラ砂漠だ。世界最大級のサボテンで、大きなものは12メートルを超えるという。東山にあるものも相当大きい。8メートルくらいはあるんじゃないだろうか。1987年にやって来たということは、日本での暮らしもそろそろ20年になる。倒れるといけないというので、背中をポールに支えられて、後ろから輪っかで羽交い締めにされている。ちょっと苦しそうだ。離せってば、と短い手を必死に伸ばして抵抗してるようにも見える。 とにかく成長が遅く、毎年ちょびっとずつしか伸びない。手が出てくるまで70年以上、こんなに大きくなるには100年もかかってしまう。寿命は200年というから、誰も最初から最後まで成長を見守ることはできない。子供が産まれたときに、弁慶柱の種を庭にまくといいかもしれない。その子が100歳になる頃には立派なサボテンになっているだろう。 英名はSaguaro。初夏になると枝先に白っぽい小さな花を咲かせる。咲くのは夜ということで受粉はコウモリが担当するんだとか。果実は食用になり、茎の芯は固いために昔はネイティブアメリカンがテントの材料に使ったそうだ。 今でもアリゾナ州あたりの自然公園では野生のこいつが乱立してる姿を見ることができるという。やはり、こいつらには砂漠の砂と空と乾いた空気がよく似合う。
 比較対象として親子連れに入ってもらった。やっぱりデカいぞ、弁慶柱。そしてあらためて思うのは、こいつのチャームポイントは短い手だということだ。もしこれがなかったら、ずいぶん愛想のないサボテンになっていたと思う。ただ、人が見てないときはこっそりこの手を下ろしていそうではある。あー、手が疲れた、とか言いながら、ブルブル振ってるかもしれない。
一般的なサボテンの原産地は、北米大陸と中米から南米にかけてだ。北はカナダ南部から南はチリまで、アメリカ大陸の広い地域に自生している。もちろん、コロンブスが新大陸発見するはるか以前から、サボテンはネイティブたちと共にそこにあった。世界に知られるようになったのは、やはり大航海時代の16世紀以降だ。過酷な環境に生きながらも、けっこう耐性が高かったサボテンたちは世界中に広まっていった。暑さだけでなく寒さにも強い。日本には江戸時代にオランダ船が持ち込んだと言われている。その前から入っていた可能性もある。 いつ頃地球上に誕生したのか、はっきりしたことは分かってない。一番古い化石がユタ州で見つかった6,500万年前のもので、それ以外ではアリゾナ州の200万年前くらいしかなく、手がかりが掴めないようだ。恐竜時代にはおそらくあったのだろうけど。 サボテンの種類は、8,000とも1万とも言う。生き延びるための必死の姿勢が様々な変化を生み出していったのだろう。形によって、木の葉、ウチワ、柱、球のなどに大別される。 サボテンの特徴はなんといってもトゲトゲだ。ほとんど雨の降らない砂漠で生きるために、水分が逃げていきやすい葉っぱをトゲに変えた。外敵から身を守るためとかそういうことではない。刺座(アレオーレ)と呼ばれるものをサボテン、ないものを多肉植物として区別している。アロエなどがそうだ。刺座(とげざ)がなくても毛疣(けいぼ)が残っているサボテンもある。 たいていのサボテンは花を咲かせる。サボテンの花なんて見たことないぞという人が多いかもしれない。それは、花が咲くのが数日から一週間くらいと短いのと、大量生産で作り出されたものは発育不良で花が咲く年齢になる前に枯れてしまうものが多いからというのがある。それゆえ、サボテン好きにとってみれば、花を咲かせることの喜びはひとしおなのだろう。奥さんが一所懸命育てたサボテンの花が咲いて、あなた見に来て! と大きな声で呼ばれたなら、面倒がらずにちゃんと見に行って一緒に喜んであげないといけない。 サボテンが種から育つと聞いて意外に思った人も多いかもしれない。なんとなく分裂して増えていくようなイメージが私にもあった。サボテン農家が種から5年くらいかけて育てたものが店に並ぶことが多いそうだ。サボテンの苗生産の全国80パーセントが愛知の春日井というから驚く。隣町の春日井市がサボテン王国だなんて、まったく知らなかった。春日井の街にサボテンがあふれているというような印象は一切ないのだけど。 サボテンは、日本に入ってきた当初は覇王樹という字が使われていたようだ。現在は仙人掌という字を当てることが多い。 サボテンの語源にはいくつかの説があって、昔は茎で服の汚れを拭き取ったりしていたところから、ポルトガルの石けんを意味するシャボンに手を付けてシャボンテ、それがなまってサボテンになったというのがある。確かにサボテンはシャボテンとも言うから、この説はあり得るかもしれない。
サボテンは観賞用だけでなく、昔からいろいろと利用されてきた。ネイティブアメリカンは食べられるサボテンを知っていて食べていただろうし、今でもサボテンステーキやサボテンサラダなんかがある。もしかしたら、私の知らないところでみんなこっそり食べているんだろうか。「ステーキハウスあさくま」(東海ローカル)のメニューにも入っているかもしれない。果実は美味しいものもあるようなので、それはちょっと食べてみたい気もする。 これまでサボテンというのは見た目の変化が小さすぎて面白くない植物だと思っていた。もう少しなんか変わってみろよと指でつつくと痛い思いをするからイヤだとか。けど、勉強してみたら、なかなか興味深い植物だということが分かってきた。ここはやはり、実際に育ててみるのがサボテンと親しくなる最善の方法だろう。 なんでも、電磁波を吸い取るサボテンがあるという。その名もセレウス・ペルヴィアナス。今ちょっとしたブームになってるようで、私も買いましたという報告がネットでたくさんなされている。むむむ、出遅れたか。電磁波といえば私もPCやテレビなんかで日常的にかなり浴びているから、実は心配していたところだ。NASAの研究でもその効果は実証済みなんだとか。そう聞くとかえって怪しいような気もしてくるけど、ちょっと本気で欲しくなってきた。近いうちに買いに行こう。 よかったら、キミも買ってみないかい? そして私とサボテン・ブラザーズになろうではないか!
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| 自分でも意外だった初の中華サンデーは中エプの出来 2006年11月26日(日) |
 PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f3.5, 1/15s(絞り優先)
私たちは日常的によく中華料理を食べている。一般庶民の場合は、ラーメンだったりギョウザだったりシュウマイや八宝菜などだろうし、私の場合なら、フカヒレ、アワビ、ツバメの巣、北京ダックなどだ。 ……。 書いていて虚しくなった。ウソはいけない、ウソは。そんなもの見たこともないではないか、私。 それはともかくとして、日本人にとって中華料理というのは和食に次いで馴染み深い料理に違いない。にもかかわらず、私たちは中国の家庭でどんな料理が食べられているかを案外知らない。テレビのレポート番組などで垣間見る中国の料理は、お店の料理であって家庭の料理ではない。日本でも和食屋で出てくるものと家庭の食卓に並ぶものは違う。 中国人のお母さんが、家で巨大な中華鍋を振り回して、顔の高さまで炎を燃え上がらせながら、玉で鍋を叩くようにガツンガツン、ジャージャーいわせて、子供たちにおまえたち、すぐできるアルよ、待つアルね! などと言ってるシーンを想像したら、それはきっと中国人に対して失礼に当たるのだと思う。北京の高級住宅街に住んでる中国人などは、たとえ中華でも、もっと上品に作り、上品に食べてるに違いない。鍋を振り回したりせず。 中国に行ったことはないし、中国人の知り合いもいないので確かなことは言えないのだけど、たぶん、日本でいう中華料理と中国における中国料理は別物なのだろうと思う。よく知られているように、日本式のラーメンはあちらにはいないし、向こうでは焼きギョウザはほとんど食べられてなくてギョウザといえば水餃子だったりするそうだ。他にもいろいろ違いがたくさんあるのだろう。もちろん、共通のものもあれこれあるはずだけど。 ひとつ意外だったのに、しゃぶしゃぶは元々中国料理だったというのがある。完全に日本オリジナルのような顔していて実は中国生まれだったのだ。中国人と思わせて東京生まれの日本人だった陳建一の逆パターンだ。
日本における多くの中華料理は、広東料理なんだそうだ。長崎の中華街は例外的に福建系で、横浜をはじめ大部分が広東系だという。考えてみると、私たちは北京料理や四川料理、上海料理などいったものをあまり知らないことに気づく。 何しろ中国は広いから、地方によってかなり違いがある。使っている食材も、調理方法も、調味料も。日本だって北と南ではかなり差があるのだから、中国では尚更だ。他にも山東料理、上海料理、湖南料理、潮州料理などがあり、台湾料理というジャンルもあるようだ。 笑えない笑い話として、「中国人は四足(よつあし)なら机以外、空を飛ぶものなら飛行機以外は何でも食べる」というのがある。アグネス・チャンも、日本に初めてやって来てお寺の境内にたくさんハトがいるのを見て、美味しそう、と思ったという。 食べる食材が多いということは料理も多くなる。更に地域による特色や、世界に広がった過程で取り込んでいったその国の要素も加えると、中国料理の種類というのはほとんど無数と言ってもいいのかもしれない。中華の料理人は、数万種類の料理を作れるという話もあるくらいだ。間違いなく、世界で最も種類の多い料理という言い方ができるだろう。 中華料理の特徴といえば、なんといっても中華鍋と強い火力というのがある。これがあるから、家庭では店の味が出せず、中華料理屋が繁盛するというのもあるだろう。 脂っこいというイメージも強い。どんな料理も油で炒めたりするから、すごく食べたくなるときと、中華はごめんだと思うときがある。風をひいたりしたときは、中華料理はちょっと食べたくない。 イメージとして健康に悪そうというのもあるけど、特に中国人が不健康だとか早死にだとか聞かないから、そうでもないのだろう。ウーロン茶で油を打ち消してるという話もある。 中華は基本的に暖かい料理がほとんどだ。火を通さないものは食べないという風習が昔からあったらしい。中華で冷たい料理というのも思いつかない。あんかけのあんも、料理が冷めないための工夫のひとつなんだとか。しかし、それも最近は変わりつつあって、一番の危機がマグロ問題だ。少し前に鳥インフルエンザがあって、鶏肉を食べられなくなったとき、彼らはマグロを発見してしまった。えらいものが見つかってしまったものだ。今では中国人はマグロを食べまくって、そのうち買い占めて日本に入ってこなくなるというウワサさえある。
日本に初めて中華料理がやって来たときは、支那(シナ)料理だった。当時の日本人は中国人のことを支那人と呼んでいたから。 そもそもは、明治に横浜港が開港して、そこに入ってきた中国人によって作られた南京町や唐人街(のちの中華街)で、中国料理の店ができたところから、日本における中華料理の歴史が始まった。 本格的に中華料理の店が増えていったのは明治の中頃以降だった。ラーメン屋台は、大正11年の関東大震災で、家や商売をなくした中国人たちが生活のために引き始めたのが元祖なんだとか。 中華料理が今のように一般にも浸透したのは、やはり戦後だろう。中国人だけでなく、戦争などで中国へ行っていた日本人が向こうで料理を覚えて帰ってきたことで、ますます中華は日本人好みに味を変え、広まっていった。
長い前置きはこれくらいにして(もう充分だろう)、今日の本題に入ろう。今回のサンデー料理は、自分でも意外だったんだけど、初めての中華料理となった。これまでも単品としては何種類か作ってはいたものの、中華のテーマで統一して作ったことはなかった。 左奥は、お馴染みのエビチリだ。多少工夫があるとすれば、エビと豆腐を一緒にしたことだろうか。エビは殻をむいて背わた腹わたを取って、酒と塩をまぶし、豆腐は水分を飛ばしてサイコロ切りにする。どちらもカタクリ粉をまぶして、油で軽く揚げたらいったん取り出す。 チリは、豆板醤・小1、ケチャップ・大3、しょう油・大1、酒・大1、砂糖・小1、水・大2、ニンニクひとかけらで作る。豆板醤を炒めて、そこにケチャップなどを入れ、沸騰させたらエビと豆腐を入れて絡める。 右奥は、魚介と野菜のとろみ牛乳スープがけだ。鶏肉、白身魚、イカ、アスパラ、白菜、ニンジン、ブロッコリー、タマネギなどを適当な大きさに切って、炒める。 あんは、牛乳・大3、酒・大1、スープの素・1、水・1/2カップ、塩、コショウ、ごま油少々、唐辛子などを混ぜて、煮立たせる。最後に水溶きカタクリ粉を加えてとろみをつける。 手前は形が崩れてしまったのだけど、卵シュウマイだった。溶き卵・2、カタクリ粉・大2、塩、コショウを混ぜて薄焼き卵を作って、それを四角形に切って皮にする。 具は、タマネギのみじん、キャベツ、シーチキンで、塩、コショウ、しょう油、砂糖などで味を付けておく。あとは包んで蒸し器で蒸すだけ。なんだけど、形が保てないので爪楊枝を刺して形を整える。見た目を気にしなければ全体を包んでしまった方が早い。 たれは、酢、しょう油、カラシ、酒、砂糖を混ぜて煮立たせ、水溶きカタクリ粉でとろみをつける。
味の方はといえば、見慣れた周富徳を久しぶりに見ても特に新鮮な驚きがないような味だった。って、どんな味だ、それ。普通に美味しかったけど、面白みはなかったというか、インパクトに欠けた。中華料理店で出しても、大学生の兄ちゃんがジャンプなんかを読みながら顔も上げずに食べてしまえるような料理を作れるようになった自分が嬉しくもあり、残念でもある。愛のエプロンに出ると、一番中途半端でいろんな意味で美味しくないポジショニングだ。中エプでは笑いも感動も呼び込めない。 味の安定感が出てきたのは、ある意味では停滞期と言えるだろう。ここから更に上に行くには何が足りないのだろう。工夫なのか、更なる経験なのか、それとももともとのセンスなのか。そのへんのことを追求しながら今後もサンデー料理は続いていく。 まだ全然納得はしていない。料理の究極は、「鉄板少女アカネ!!」で語れるように、食べて泣けることだと思う。私もいつか、海原雄山を泣かせてみたい。ザ・シェフとなれなければ、クッキングパパとなって。 明日からは、中華鍋に砂を入れて腱鞘炎になるまで振り続けるところから出直そう。泣ける料理を作る前に私が泣き出してしまうだろうか。
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| いつか白川郷へ行くときのために合掌造りの予習をした 2006年11月25日(土) |
 OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/50s(絞り優先)
合唱といえばウィーン少年合唱団、合掌造りといえば白川郷というのはおおむね異存のないところだと思う。更に言えば、少年といえば岸和田少年愚連隊、ウィーンといえばたこさんウィーンナーが好物の渡辺徹、白川といえば白川由美を連想するという人がいるに違いない。たぶん、きっといる。 白川郷、その響きは果てしなく遠い異国の地を思わせる。愛知県のお隣岐阜県でありながら、その存在は遠いイスカンダル。京都や大阪よりもずっと遠く感じる。たぶん、高速を使っていけば名古屋から2時間半くらいなのだろうけど、むしろ自分の中では遠い憧れの地としてとどめておきたいような気持ちもある。行って見てしまえば、こんなものかと少しでも失望してしまうのが嫌で。現在、東海北陸自動車道が白川郷まで延長工事をしている。何年かしたら、もっと便利になって行きやすくなる。けれど、何か違うような気がする。世界遺産なんかにせずに、ずっと陸の孤島のようにしておいて欲しかったと思ってしまう。そんなものは部外者の勝手なセンチメンタリズムなのだろうけど。
昔から白川郷の合掌造りといえば、古き良き日本の原風景をとどめた秘境として有名だった。私の子供の頃からすでに観光地になっていたはずだ。それが一躍全国区になったのは、やはり1995年に世界遺産に登録されてからだ。それまで年間の観光客が60万人ほどだったのが、翌年には100万人を超え、今では150万人以上の人が訪れるようになった。単純に割っても、1日に4,000人からの観光客がやって来るという計算になる。村人は2,000人ほどなのに。やっぱりみんな、権威のあるレッテルに弱い。国宝に極端に弱い私も例外ではないのだが。 白川郷の合掌造りが広く知られるようになったのは、ドイツの建築学者ブルーノ・タウトが、昭和10年(1935年)にこの地を訪れて、『日本美の再発見』で世界に知らせたことが大きかった。それまでは、日本人でさえ一般的にはこの地のことを詳しくは知らなかったのではないかと思う。最も栄えていたとき1,800棟以上あったものが、急激に数を減らし始めている頃でもあった。地域の高齢化や、近代化、ダム建設などで、多くが取り壊されたり、売却されたりしたという。 1971年(昭和46年)には保存会が発足。「売らない、貸さない、壊さない」を合い言葉に合掌造りの保存活動が本格的に始まった。先細りになる村を救うには、これを観光資源とするしかなかったという事情もあったのだろう。 現在残ったのは110軒ほど。これでもよくぞ残ったと思う。 写真のものは、東山植物園にある合掌造りだ。なんでこんなところにこんなものがあるのかと不思議に思った人も多いだろう。どういうツテかは知らないけど、1842年に白川郷で建てられたもので、ダムによって沈んでしまうものを、1956年にこの地に移築したものだ。作り物ではなく本物なので、ありがたみはある。内部もそのまま保存してあって、自由に見学することができる。
 合掌造りという名前は、屋根の形が手を合わせて合掌してる様に似ているところから来ている。急勾配の茅葺(かやぶ)き屋根が特徴だ。白川郷のものは、「切妻合掌造り」と呼ばれていて、角度はほぼ60度で正三角形に近い形をしている。この地域は豪雪地帯なので、雪が落ちやすく、重みに耐えられるようにという知恵でこういう格好になった。とんがっているとかわいいから、とかそういう理由ではない。 建築方法はかなり特殊で複雑だ。説明文を読んでも専門用語だらけでよく分からない。もちろん、手抜き工事など許されない。雪だけでなく強風にも耐えられる作りになっていて、ちょっとやそっとではビクともしない。 それにしても大きい。近くで見るとその迫力に驚く。とても一軒家のスケール感ではない。ちょっとした3階建てのコーポくらいの大きさがある。写真の人間の小ささでも分かるだろうし、2階から吊してある干し柿がミニチュアサイズに見える。武蔵丸がお茶碗を持つとお猪口に見えるのと同じ現象だ。 合掌造りのこのスタイルが完成したのは江戸時代中期だと言われている。豊かとは言えなかったこの地で、現金収入を得るためにお蚕(かいこ)さんを屋根裏に飼うスペースを確保するためということでこういう格好になったんだそうだ。白い障子窓はそのときの名残で、蚕たちのために明かり取りとして作られたものだ。2階が狭くなれば3階にも蚕を置かないといけないし、半年は雪だから馬は家の中に入れないといけないというんで、どんどん大きく広い家になっていった。そもそも一族郎党、使用人まで含めて10人20人が住むから、狭い家では暮らせやしないというのもある。 囲炉裏のあるある大広間、居間、仏間、寝室、台所、馬小屋、稲部屋などが1階にあり、中2階以上は蚕用となる。夜中に大量の蚕たちが葉っぱを食べてるカサカサする音が上から降るように聞こえてくるシーンを想像するとちょっと怖い。蚕にかじられる夢を見そう。 合掌造りの何が一番大変かといえば、それはもう茅葺き屋根の葺き替作業だ。かつてはカヤにコガヤというものを使っていて、これは80年ほど持ったそうなのだけど、今のススキは30年か40年に一度全面的に葺き替ないといけない。この費用が一番大きな家で2,000万円もするというのだ。これでは維持しきれずに壊したくなった人たちの気持ちも分かる。 作業も、とてもじゃないけど家族なんかでできるものではない。専門の業者さんもいない。となると村人総出で行うことになる。「結(ゆい)」と呼ばれる協同作業で、一軒につき2日間で仕上げるそうだ。
白川郷の特徴としては、景観保存地区でありながら生活の場でもあるということだ。自分の家なのに勝手にいじれないし、外を歩けばいつでも観光客が大勢いて、暮らしにくいったらない。もちろん、24時間営業のコンビニやファミレスなどあるはずもない。行儀のいい観光客ばかりじゃないだろうし、外国人もいる。ちゃんと観光用になっている有料の和田家などだけでなく、一般の家屋にまで当然人は入っていくことになる。ここからは入ってはいけないという明確な区分はないだろうから。元々の村の人たちは世界遺産になったことを必ずしも喜んではいないかもしれない。ただ、世界的な保存地区ということで大きな援助が出ているには違いないだろう。そのあたりはいろいろと難しい問題をはらんでいる。 ところで私は一体行くのかい、行かないのかい、どっちなんだい、と自分の筋肉に訊いてみる。いや、筋肉はあまりないんだけど。行きたい思いは十二分にある。行かないままそっとしておきたい思いもないではない。いつか行くかもしれないし、行かないかもしれない。 もうあちらではそろそろ雪が降っている頃なんだろう。白い冬の白川郷も見てみたいし、田んぼが青くなった初夏もいい。秋は村全体が秋色に染まって素敵だろうな。 行くときは、シルクのパジャマに身を包んで、ススキを口にくわえていこうと思う。もしかして、不審者として捕まってしまうだろうか。でも、合掌造りといえば絹糸とススキじゃないですかぁー、と言い訳しながら引きずられている男を白川郷で見かけたら、それはズバリ、私です。
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| 勤労感謝の日に本当の11月23日らしさを考えてみた 2006年11月23日(木) |
 PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/4s(絞り優先)
小学生のとき、風邪やハライタで学校を休んで、NHK教育テレビの「はたらくおじさん」を観るのが好きだった。 ♪はったらくおじさん〜 はったらくおじさん〜 こ〜んに〜ち〜は〜〜♪ どんな内容の番組だったのか、なんで好きだったのかは、今となっては思い出せない。ただ、確かに好きだったという記憶だけが残っている。体が丈夫で休まず学校に行っていた人には、あまり馴染みのある番組ではなかったかもしれない。確か、午前中の時間帯にやっていた記憶がある。学校を休むことが決まって間もなくだから、9時とか10時とかだったろうか。しかし、あれはどういう視聴者層に向けての番組だったのだろう。平日のそんな時間帯に、働くおじさんをテーマにした子供向け番組を観てる人はそうはいない。当時はまだ家庭用のビデオなんてのもなかったし、おじいちゃんおばあちゃんが観て楽しい番組でもない。お母さん向けでもなかった。だとすると、あれは学校を休んだ子供に対する遠回しのメッセージだったんだろうか。おじさんは働いてるのだから、キミもしっかり学校へ行って勉強するんだよ、という。 当時の私の中で働くおじさんというのは、たとえば重機を運転してるおじさんとか、工場で労働してるおじさんとか、大工さんとか、そういうイメージだった。汗を流して力仕事をしてるおじさんこそが働くおじさんであって、公務員とか教師なんかは働くおじさんではなかった。だからといって、そういうおじさんに憧れを抱いていたかといえば決してそんなことはなかった。小学校の卒業文集で将来なりたい職業には、「きこり」と書いた。当時からどこか浮世離れしたところがあったチビの私であった。
何故唐突にはたらくおじさんなんかを持ち出しかといえば、それはもちろん、今日が勤労感謝の日だからだ。しかし、間違えてはいけない、感謝するのは勤労者ではなく勤労だ。働く人に感謝する日なら勤労者感謝の日となっていなければおかしい。なので、この日はお父さんやお母さんに対して子供が感謝する日などではない。そのあたりのことを、親によく言い聞かせたい。働くことに対して自らが感謝する日なのだ。つまり、この日ばかりは労働を休むのではなく、むしろいつも以上に労働しなければいけない。勤労に感謝するのだから。一体、いつから勤労感謝の日はこんなふうに変わっていってしまったのだろう。 11月23日を勤労感謝の日として祝日に定めたのは、1948年のことだった。戦後になってからと、かなり新しい祝日なのだ。「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」という建前で作られた。 どうして11月23日なのかといえば、この日は元々、古来から続く日本国の重大な行事である「新嘗祭(にいなめさい)」の日で、大王(天皇)が農作物の恵みに感謝する儀式が執り行われていた日に当たるからだ。昔から新嘗の日として祝日だった。旧暦の頃は、11月の2回目の卯の日だったのだけど、太陽暦に切り替わった明治6年(1873年)は11月23日でよいものの、次の年が新暦では1月になってしまってまずいということで、11月23日に固定してしまったというわけだ。だから11月23日という日付そのものに意味はないとはいえ、ハッピーマンデーごときで簡単に動かせる日にちではない。 戦後になって新嘗祭の日から広く一般国民を対象とした勤労感謝の日と名前を変えたことで、この日の性格も大きく変わってしまった。現在では、収穫された五穀に感謝するイベントをしてる家庭はまずないだろうと思う。神社の関係者はともかく、農家でも少ないんじゃないだろうか。戦後になって、本来の趣旨はほとんど忘れ去られてしまった。アメリカやカナダなんかのThanksgiving Dayにならって、収穫感謝の日とでもしておけばよかったのに。勤労感謝なんてするからおかしなことになってしまったのだ。
 OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6) 新嘗祭(にいなめさい、または、しんじょうさい、古くはにいなえ)がいつ頃から始まったのかははっきりしない。皇極天皇元年(642年)に行われたというのが「日本書紀」に出てくる最初の記述ということになってはいるけど、さらに起源は古そうだ。 春に五穀豊穣を祈って行われるのが「祈年祭(きねんさい)」で、秋のはじめ9月に収穫を感謝して神様に作物を捧げるのが「神嘗祭(かんなめさい)」。11月の相嘗祭(あいなめさい)を経て、新嘗祭となる。このとき初めて、その年に収穫された新穀や新酒を天照大神や天地の神に捧げて、天皇は国民の代表として新穀を食べて収穫に感謝する儀式を行う。つまり、この日まで国民はその年に穫れた新米はまだ食べてはいけなかったのだ。 天皇が即位して最初に行う新嘗祭を大嘗祭(おおなめさい)といい、これは天皇一世一代の大規模な祭典となる。現在の今上天皇も、1990年(平成2年)に執り行っている。新嘗祭は、戦後になって皇室典範から儀式として除外されたものの、今でも完全非公開で行われているという。中でどういう儀式をしているのか、普通の人は誰も知らない。そんなことがなされているという報道さえない。 伊勢神宮は天照大神の正宮ということで、新嘗祭も神嘗祭も大々的に儀式が行われている。こちらは一般でも見物することができる。 勤労感謝の日というのは、実はこんな裏事情や歴史があったのだ。古代から続く日本の重大な儀式が行われていた日だとは、知らなかった人も多いんじゃないだろうか。私も今日勉強して初めて知ったのだった。こんなことも知らず、新米が穫れると真っ先に親戚から送ってもらって、たいして感謝もせずにパクパク食べていた。来年からはこの日まで新米を我慢……できないだろうけど、せめて感謝する気持ちだけは忘れないようにしようと思った。勤労に感謝するのは難しくても、毎日食べてるお米に感謝するのは難しくない。お米ひと粒には七人の神様がいるという教えが昔あったけど、あれは今思えばいい教えだった。
11月23日は語呂がいいということでいろんな日になっている。いい夫婦の日や、いいふみの日、いい兄さんの日など。その他、手袋の日、外食の日、ゲームの日だったりもする。 出来事としては、Jリーグ発足、角川書店設立、通信衛星による日米のテレビ中継成功、たまごっち発売、ジュークボックス設置、女性の大相撲見物が可能になる、なんてことがあった。 樋口一葉が死に、白井義男が亡くなり、風船おじさんはゴンドラでアメリカを目指してどこかへ消え、たこ八郎は神奈川の海で溺れ死んだ。たこ八郎の座右の銘は「迷惑かけてありがとう」だった。 感謝は強要したり義理で嫌々差し出すようなものじゃない。押しつけたり、無理矢理引き出したりするものでもない。心の奥から自然に生まれてくるものだ。感謝しなさないなんて言われて嬉しい人はいない。たとえそれが親子の間柄であったとしてもだ。本当に自分の中から感謝の思いがわき出してきたのなら、そのときは言葉と態度でそれを表現すればいい。勤労感謝の日だからといって形だけで感謝してもあまり意味がない。 11月23日はどうやって過ごせばいいのか? それはもう、11月23日らしく過ごすに限る。奥さんやだんなさんは互いに相手に対して手紙を書き、テレビの衛星放送でJリーグと大相撲を観つつ、引き出しの奥にしまったたまごっちを出してきて遊び、樋口一葉を読んで、いい時間になったところで手袋をして外食に出かける。ライスの皿についた米粒も残さず食べなくてはならない。帰りにゲーセンに寄って軽くゲームをして、ジュークボックスで思い出の曲をかけ、海へ行って砂浜でシャドーボクシングをしつつ、たこ八郎のモノマネをして、最後は風船に乗って海の彼方に消えるのだ。はたらくおじさんのテーマソングを歌いながら。うーん、完璧だ。これぞ11月23日の過ごし方の見本と言えよう。最後がちょっとイヤな場合は、風船を海に飛ばすだけでも可とする。来年はぜひ、実践してみてください。私に成り代わって。
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| 東山植物園の紅葉トンネルで勝者と敗者がすれ違う 2006年11月22日(水) |
 OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/25s(絞り優先)
神社仏閣巡りばかりしていると、ジジむさくなりそうなので、生態エネルギーを補給するために植物園に行ってきた。紅葉を見て元気いっぱい……って、紅葉って枯れ葉じゃん!? 逆に私の生命エネルギーを吸い取られたかもしれない。東山の紅葉トンネルがきれいなのは、私の精気を奪ったからということがないとも限らない。 写真は一番きれいなところを写してるから、これを見て、うわっ、早く行かなくちゃと焦ったあなた、ちっちっちっ、早まっちゃあいけないよ。まだちと早い。完全に染まるまでは、あと一週間やそこらはかかりそうだった。明日、あさってが雨模様で週末が晴れ、来週前半はまた雨ということで、早く行くならこの週末、ゆっくり見るなら来週の雨開けといったところだろうか。気温が高い日が続くようだから、一気に進むことはないと思う。 なんにしても、鮮やかな色彩は目が覚める思いだった。これでまたエネルギーが補充されて、神社仏閣巡りができるというものだ。結局、そっち巡りたいのか、私。いや、そうではなくて紅葉の名所の多くが寺院関係なんで、否が応でもそうなってしまうのだ。別に根っからの神社野郎とかそういうことではないので、私にジンジャーオーターなどとあだ名を付けるのはやめてください。
東山に行ったことがない人は、動物園と植物園と公園と遊園地の関係性が今ひとつ掴めてないところがあるかもしれない。単純に言ってしまえば、全部あわさって一体となった複合施設ということになる。入場料は動物園、植物園、遊園地共通で大人は500円だ。区域は一応分かれているものの、橋でつながっていて(ただし、いったん外に出ると再入園は不可となるはずなので注意)、東山スカイタワーも動物園の中にある。 つながっているとはいえ、どちらも広い。動物園は32ヘクタール、植物園は27ヘクタールもあり、一日で全部回ろうとすると、日頃運動不足のおとーさんはヘトヘトのくたくたになって、月曜日の朝起きあがれなくなる恐れがあるほどだ。半日くらいでどちらか一方に絞った方がいいと思う。どちらも、ざっと歩いて一周するだけなら2時間くらいなのだけど。
昭和12年、東山の雑木林の中に作られた植物園には、木や花や温室の植物などをあわせて5,500種類以上あるそうだ。デジカメで一種類につき一枚RAWで撮影したとして、1GBのコンパクトフラッシュが550枚くらい必要になる。フィルムで全部撮影したら破産しそうだ。 熱帯地方の花や水生植物などを集めた「温室」、睡蓮池やプランターの花で彩られる「洋風庭園」、尾張藩の俳人横井也有にちなんで作られた庭園「也有園(やゆうえん)」、岐阜県白川村から移築した「合掌造りの家」、湿地植物を集めた「湿地園」、万葉集に詠まれた植物を配した「万葉の散歩道」、東海地方特有の木などを植えた「東海の森」、300種類の薬草を植えた「薬草の道」、名古屋市内最高峰にある「お花畑」、椿園、バラ園、アメリカ産植物見本園、中国産植物園林、梅林、桜並木、竹林などがある。 いろいろ取り揃えてあって花に興味がない人でも楽しめるようになっているので、動物園しか行ったことがない人にもオススメできる。動物園と比べて人気がない分、のんびりゆったりできるのもいい。 野鳥も多く、人の少ない午前中などは街中では珍しいもの見られるようだ。動物園の方の池などは、飼われてるわけでもないのに飼育動物たちと一緒になって暮らしていたりする。特に冬場はカモたちが多くなって、どれがどれやらよく分からないようなことになっている。すごい珍しいのがいるなと思ったら、動物園のアメリカオシだったり。 日本庭園はたくさんの野鳥のさえずりが聞こえるということで、日本の音風景100選にも選ばれているのだった。
 昭和12年(1937年)の開園と同時に作られた温室が、今度国の重要文化財に指定されることが決まった。こんなものがと言っては失礼だけど、神社仏閣や歴史的建造物以外でも重要文化財になるのは知らなかった。名古屋市内では10件目になるらしい。植物園の温室としては日本初となる。 ロンドン植物園のキューガーデンの温室を模して作られ、完成当時「東洋一の水晶宮」と称されたのだとか。昭和12年としては、このデザインはかなり新しかったのだろう。今見てもさほど古めかしさは感じない。 重文指定の決め手は、当時の最新技術が使われていて、建築技術史上重要な建造物という点だったそうだ。鉄骨の継ぎ目にはリベットを使わずに電気溶接されてるなどが高く評価されたらしい。 東邦ガスがポンと出した25万円の中から、6万2,500円を使って建設されたという話だ。安っ! それくらいなら私でも出せるぞ。けど、現在同じ物を作ろうとしたら10億円かかるらしい。それは金輪際出せっこない。しかし、70年でそんなに物価って上がっただろうか。昭和12年の大卒初任給を調べてみたら75円だった。なんだか単位が小さすぎて上手くイメージできない。75円で一体何ができるというのか。もらっても途方に暮れてしまう金額だ。この調子でいくと、私がじじいになる頃は、大卒の初任給が2,000万円とかになるのか!? 幅66メートル、高さ13メートル、総面積は596平方メートルあり、現存する植物園の温室としては日本最古となる。老朽化が言われて久しい東山動植物園だけど、古いまま残しておいていいこともあった。 内部はブロック分けされていて、水生植物室、中南米植物室、サガロ温室、ハワイアンハウス、食虫植物室、多肉植物室、シダ室、中央ヤシ室などがある。一番の見どころは巨大サボテンだろうか。
東山動植物園は、月曜定休で、開園は9時から4時半まで。入園は大人500円、中学生以下は無料。スカイタワー単独は500円で、動植物園との共通券だと800円になる。名古屋市内の65歳以上は100円なので、年食ったら行き放題だ。なんならここに住んでもいい(それは無理)。一年間のパスポートが以前は1万2,000円という無茶な値段だったのだけど、大きく反省してこの4月から2,000円になった。どんだけ反省したんだ、値下げしすぎだろう。近所なら4回行けば元が取れるので、持っていて損はない。 駐車場が一回(一日)800円というのは高く感じる。丸一日停めるなら安いかもしれないけど、2時間やそこらで800円というのはイヤだ。そんな人のためには、遠くに無料駐車場がある。ありがてえことでごぜえます、と何故か卑屈になる私。南側の植物園(左手)と動物園(右手)の入園ゲートを超えて、左右に有料駐車場を見つつ、赤い大きな橋を過ぎて少し行った左手がそうだ。余分に歩く時間は5分くらいなので、800円と天秤にかけたら私は迷うことなくこちらに停める。ただし、無料は平日だけで週末はここも有料になってしまうので、そのときは路上駐車することになる(週末だけ駐禁じゃなくなるので)。
秋は野草が少なくなるだけに植物園の花が貴重となる。なのだけど、やっぱり植物園の花にはトキメキを感じない。たくさん咲いているのを見ても、わぁーっと思わないし、あまり写真を撮る気にもなれない。野に咲く花と植物園に咲く花の決定的な違いって何なんだろう? その問いの答えは分かるようで分からない。たとえば温室の花だって、現地に行けば野に咲いているやつなのに、温室で見るとありがたみがない。外国で咲いているのを見たら心が動くはずなのに。天然鮎と養殖鮎の違いのようなものなのだろうか。 それにしても、この時期の植物園はさすがに寂しい。お花畑も、ぬっくんの頭のようにめっきり寂しいものとなっていた。物足りない要因のひとつに虫たちの姿がまったくなったということもあった。さすがにこの時期はもう、生き残りの蝶もトンボも飛んでなかった。 植物園のベストシーズンは、5月から6月くらいにかけてだろうか。一斉に花が咲き乱れ、虫たちが元気に飛び回り、歩き回っても暑すぎない。この時期は撮るものも多くて、気分も高揚する。紅葉が終われば、私の中でも植物園はオフシーズンということになる。また来年の春だ。 今日感じたことは、動物園は親子連れや若いカップルが似合うのに対して、植物園は老夫婦がよく似合うということだった。ふたりで一日のんびり過ごして200円。それもまた、勝者の姿だと思う。閉園1時間前に500円払って駆け回りながら写真を撮ってる私は、もちろん敗者だ。植物園のコントラストは、赤と黄色の紅葉だけでなく、勝者と敗者のコントラストでもある。
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| 山羊のネタは在りし日のうなずきトリオとおじいさんの歌 2006年11月20日(月) |
 OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f5.6, 1/200s(絞り優先)
ヤギを見ると頭の中でメロディーが流れ出す。ヤーギさんのヒツジ〜、ヒツジ ヒツジ〜 ヤーギさんのヒツジ〜 かわいいなぁ〜。 あれ? ヤギさんじゃなくて、メリーさんだ。ヤギさんがヒツジではどう考えてもおかしいだろう。 もうひとつ思い出すのが、アルプスの少女ハイジ。同世代の人は、うん、うんと大きくうなずくんじゃないだろうか。キミはうなずきトリオか! と突っ込んでみる。 ハイジにアルムおじいさん、山羊飼いのペーターにクララ。何故かヤギの名前だけユキ。どうしてそこだけ日本風だったんだろう。アルプス地方にもユキという名前はあるんだろうか。
日本ではすっかりマイナーな家畜になってしまったヤギも、世界で見ると約7億頭が飼育されている現役メジャー家畜だ。中国、インドをはじめとしたアジアが全体の60パーセント以上を占め、アフリカの25パーセントが続く。世界的には現在でも増加傾向にあるそうだ。日本ではかつて、乳牛ほど場所も取らずエサ代もかからないということで、一般家庭でも乳搾り用としてよく飼われていた。貧乏人はヤギを飼え。うちの田舎でも飼っていたそうだ。今ではヤギを飼っている家庭は圧倒的少数となった。といか、一般家庭で飼われているヤギなど金輪際見たことがない。ヤギの散歩してる人とかも見かけない。 野生のヤギを最初に飼い慣らしたのは、今から1万年ほど前の西アジアの山岳地帯の人たちではないかと言われている。ただ、その年代の遺跡でヤギの骨が見つかっているというだけなので、本当に家畜だったのかどうか、もっと前から飼われていたのではないかなど、詳しいところまでは分かってないようだ。品種も、ノヤギやヨーロッパノヤギ、ベゾアール、マーコールなど、どれが最初のヤギだったのかもはっきりしていない。いずれにしても、そこから東西と南へヤギの飼育が広まっていったようだ。 日本にやって来たのはずっと後になってからで、江戸時代に朝鮮半島あたりから持ち込まれたのが最初だろうということになっている。ただ、琉球ではもっと昔に入っていたという話だ。 ヤギは当初、乳目的で飼われるようになった。世界で最初のチーズやバターは、ヤギから撮られた乳で作られたと思われている。ヤギの乳は人間の母乳に最も近いとされ、昔は体にいいからといって無理矢理飲まされたりもしたそうだ。ちょっとクセがあって飲みづらいらしい。けど、最近、またヤギの乳が見直されてきて、スーパーなどでも並ぶようになった。アレルギーが出にくかったり、牛乳を飲むとおなかゴロゴロの人もヤギなら大丈夫だったり、ビタミンが牛乳より多かったりで、実際なかなかいいみたいだ。味も売っているものはクセがないというし、私も今度買って飲んでみよう。 ヤギが家畜に向いていたのは、まず性格のおとなしさと従順さがあった。あとは何といっても粗食に耐える丈夫さを持ち合わせていることだ。力はないので農業には向かないし、ヒツジのように毛も取れない。その代わり、そのへんに放っておいても草や木などを食べて生きていける。遠洋航海などにも連れて行けたために、遠くのオーストラリアやニュージーランド、ハワイなどにも持ち込まれた。 肉や皮などももちろん利用された。 そんな貧しさにも世間にも負けないヤギは、ときとしてやっかいものになることがある。飼っていたものが放置されたりしても、そのまま野生として生きていける彼らは、世界中でちょっとした問題になっている。草だけでなく樹皮なども食い散らかしてしまうから、生態系を壊してしまうことになる。手加減なしで、繁殖力も強い。特に無人島で我が物顔で暮らしているという。日本でも、小笠原諸島や伊豆諸島の島などは大変なことになっているらしい。韓国とモメてる竹島も、ノヤギの天下なんだとか。 草を食べるというのを利用して、果樹園の草取りとして飼っているところもあるようだ。これは上手くいけば草取りの手間がはぶけていい。
ヤギというと、写真のような白くて角があってあごひげがあるのを思い浮かべる人が多いと思う。これはザーネン種というスイス原産のもので、日本にいるのはたいていがこいつだ。けど、ヤギの種類は216品種もある。白ヤギさんだけでなく、黒ヤギさんも、茶ヤギさんも、毛がもしゃもしゃのものも、角が立派なのもないのなどいろいろだ。高級繊維のモヘアはアンゴラ山羊から取れるものだし、カシミヤもカシミヤ山羊から取れる。その他、トッケンブルグ種、マンバー種、ジャムナバリ種、ヌビアン種などがいる。 所属としては牛の仲間ということになる。ヒツジとは近いようで遠く、遠いようで近い。ヒツジの毛を刈ってつけヒゲをつけるとヤギそっくりになるとか。 違いは、ヒツジが草食なのに対して、ヤギは草や木の芽を好んで食べるということと、定住タイプのヒツジに対して遊牧的なヤギといったようなことが挙げられる。ヤギの方が腹ぺこには強いのに対して、ヒツジの方が寒さに強い。 ヤギは紙を食べると思われているけど、それは昔の話で、現代のような工業製品としての紙を食べさせたらおなかを壊してしまう。へたすると死んでしまうので、書いたけど出せなかったラブレターをヤギさんに食べさせたりしてはいけない。それがたとえ黒ヤギさんでも白ヤギさんであってもだ。和紙とかならいいらしいけど、トイレットペーパーもティッシュペーパーもダメで、パンなどはカロリーが高すぎていけない。
ヤギといって思い出すのは中原中也の『山羊の歌』だ。例の「汚れつちまつた悲しみに」もこれに収録されている。中也はどんな思いでこのタイトルを付けたんだろう。 ある飲み屋で中原中也と太宰治、壇一雄が酒を飲みながら、 「おめぇは全体、何の花が好きなんだい?」と中也が太宰に訊ねる。中也のしゃべりはこういうべらんめえ調なのだ。 「桃の花……。」と消え入るような小さな声で答える太宰。ちびっこ中也に対して大男の太宰は背中を丸めて、いかにも居心地が悪そうに見える。 それを聞いて、「だから、おめえはダメなんだ!」と何故かキレて太宰につかみかかっていく中也。それを止める壇一雄。なおも暴れる中也。そして、最後は九州男児の壇一雄にボコボコにされて、「ああ、分かった、分かった、てめえがケンカが強いのは分かったよ」とふてくされる中也。 そういえば太宰はどこにいったんだと外を見てみると、遠くの方の曲がり角で顔だけ出して店を伺っている太宰の姿がそこにあった。 私はこのエピソードがとても好きだ。三者三様の人間性をよく表している。 スケープゴートという言葉がある。訳すと贖罪(しょくざい)の山羊。古くからユダヤ教などでは、ヤギを生け贄として捧げる伝統があった。そこから転じて、ある人物に責任を負わせて逃れることをスケープゴートと言うようになった。でも最近ちょっと聞かなくなった、秘書がやりました、というセリフ。 日本語のヤギの語源は野牛がなまったものだという説があるけど、実際のところはよく分かってない。山の羊と書くから、山の方にいる生き物というイメージが強かったのだろうか。
そろそろクリスマスが近づいてきた(唐突な話の転換は最後のネタへの序章)。また私は今年も、クリスマスイブの夜は、ヤギアナと明石家サンタのテレビを観ながら過ごすことになるのだろうか。 ……。 それが言いたかっただけか! ♪口笛はなぜ〜 遠くまで聞こえるの あの雲はなぜ〜 わたしを待ってるの〜 おし〜えて〜 おじいさん〜 おし〜えて〜 おじい〜さん〜 おしえて〜 アルムの〜も〜み〜の〜木〜よ〜♪ 「おしえて」の歌とともに今日はこのへんで、さようならー。
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| 紅葉料理失敗で自分の絵心を疑うことになったサンデー 2006年11月19日(日) |
 PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/40s(絞り優先)
今日のサンデーは最初から最後までイメージ不足が響いて納得のいくものができなかった。ちょっと悔しくて自ら補習しようと思ったけど、食べたらおなか一杯になって補習は無理だった。もうおかわりできません。 最初和風を考えていたらいつの間にかコースをそれて曲がって、洋食と和食の中間でエンストした。洋食と和食と片足ずつ突っ込んで股が裂けそう。ひとつにはゴボウとニンジンの紅葉料理に気を取られすぎていたというのがある。 そう、今日のメインは直前に思いついた紅葉記念サンデーだったのだ。ニンジンをモミジの型に切って、ゴボウを木に見立てたらモミジっぽくなるんじゃないかと考えた。しかし、そんなに簡単なものではなかった。ゴボウとニンジンだけで紅葉のモミジを描けるのは、尾形光琳くらいだ。裸の大将でも難しいだろう。 そこで、急遽、カボチャでイチョウを追加してみた。なのだけど、カボチャのように厚みのあるものでイチョウをかたどるのは難しい。薄く切って煮るとすぐに形が崩れてしまうし、厚いとイチョウっぽくならない。 結局、皿の上に並べてみたら、幼稚園生のラクガキのような料理になってしまった。がびーん。美術の成績はずっと5だったという心の支えを失いそう。いつの間に私は絵心をなくしてしまったんだろう? どこかそのへんに落ちてませんでしたか、私の名前がついた絵心。おかしい、こんなはずでは。頭の中では見事な紅葉が描かれていたのだが。 今日の教訓として、絵描き料理を作る場合は下書きが必要不可欠だ、ということだった。完全なるイメージ不足が失敗を招いた。最初に完成図があって、それに合わせて材料を切っていかないといけない。食材の場合はなかなか加工がままならないから。絵の具や粘土とは違う。 次こそはもっとちゃんとした絵料理を作り上げたい。最終的な目標はスーラだ(それは無理)。
紅葉崩れ料理は別にして、あとの洋食2品は上出来だった。 コロッケ風に見えているのは、クリームソースとツナのトマトソースがけで、このバリエーションはもはや定番となった。 クリームソースはいつものように小麦粉、バター、牛乳でレンジで作り、それに刻んだタマネギとツナ缶、小麦粉を混ぜ、パン粉でころもをつけて揚げ焼きにする。量が少ないときは油がもったいないし処理が面倒なので、揚げ焼きで充分だ。 トマトソースは、トマトの皮をむいて(湯むきが楽)、乱切りにして、赤ワイン、タマネギのすり下ろし、バター、鶏肉、塩、コショウ、砂糖、トマトジュース、コンソメの素で煮込む。 これは美味しいので問題ない。問題なさすぎて詰まらないくらいだ。
手前は白身とチーズのパン粉焼き。 白身魚は切り身に塩、コショウを振って、オリーブオイルで少し下焼きをする。具はいろいろ考えられる中、今回はあっさりアスパラと長ネギの白いところだけにした。白身の上にスライスチーズを載せ、アスパラ、長ネギを並べ、更にスライスチーズを載せ、その上からパン粉を振りかけてまぶす。その状態で皿に載せ、オーブンで7分くらい焼く(レンジではダメ)。 ソースはバターソース。オリーブオイルでタマネギのみじんを炒め、そこにバターのかたまりを入れて溶かし、白ワインで伸ばして、コンソメの素、塩、コショウで味付けをする。パセリのみじんなどを加えてもいい。 これはオススメできる。とても美味しい。白身のあっさり加減にチーズとバターの風味がマッチして、更にパン粉のパリパリ感がいい。
というわけで、今日のサンデー料理は、2勝1大敗となった。モミジさえ上手くいっていれば完勝だったのに、得失点差でマイナスになってしまった感じだ。それ以前に洋食2品との組み合わせが悪いだろう、という反省も残った。やっぱり料理の系統は揃えたいところだ。KAT-TUNの中にえなり君が入ったらおかしいものな。 ひとつのアイディアとして、一枚絵料理というのを考えている。一枚の大皿の上に、様々な色の食材を使って一枚の絵を描く料理だ。美味しさを度外視すればそれなりのものができそうだけど、一応料理として成立させつつ絵も描くとなると難しいかもしれない。近いうちに一度挑戦してみたい。そのときこそ、私に5をくれた美術の先生たちが間違っていなかったことを証明してみせたい。そして、その先生たちのところへお礼参りに出向こう。これ、作ったんですけど、よかったら食べてください、と無理矢理料理を押しつけて走り去る私の背中を見て、先生たちは私を思い出すだろうか。
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| 鳥の人のお仲間を増やしてカモ対決する夢を見る 2006年11月16日(木) |
 OLYMPUS E-1+SMC Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/200s(絞り優先)
渡り鳥になんで渡るのかと訊いても答えは返ってこないだろう。渡りに意味なんて必要なのかと逆に問い返されるかもしれない。渡り鳥が何故渡るのか? それは生きるために他ならない。命を繋ぐために、年に二度、自らの命をかけて彼らは渡る。別に旅が趣味というわけではない。 11月も半ばになって、ようやく近所の川にカモたちが戻ってきた。今年の秋は暖かくて到来が遅れていたけど、どうやら順調に戻り始めたらしい。年が明ければすっかり風景の一部となって興味もなくなるカモたちも、この季節だけはありがたくもあり、愛おしくもある。よく帰ってきたね、おかえりなさいと優しい気持ちになる。3月くらいに見かけると、まだいたのか、早く帰りなよとさえ思うのに。 まずはコガモとオナガガモたちが戻ってきていた。これからはどんどん数も種類も増えていくことだろう。紅葉の季節が終われば、カモや冬鳥たちが被写体の主役となる。日本の季節というのは本当に上手くできている。 この冬の私の目標は、ひとりでも多く野鳥野郎と野鳥ガールを増やすことだ。ひとりぼっちの野鳥初心者として去年一年を過ごし、今年はお仲間を増やしたい。お仲間じゃなくても、少しでも野鳥に興味を持ってもらえたら嬉しく思う。野鳥の世界は、踏み込んでみるととても魅力的な世界だから。ただし、探鳥会とかに私を誘わないでください。私が目指しているのはそういうことではないので。
今日はまったく野鳥のやの字も知らない人のために、野鳥の種類と渡りとはなんぞや、というところから書いてみたい。野鳥のやは野球の野という字を書きます(そこからかい!)。要するに自然に生きている鳥は基本的に野鳥となり、ハトもカラスもスズメも野鳥で、これらを捕まえることは法律で禁じられている。ハトの子供が落ちているのを見かけても、見て見ぬフリをしなくてはならない。とはいえ、それを見捨てるようでは人としてどうなんだと思う。私も子供の頃拾って育てて巣立ちさせたことがある。あれが法律違反だと言われてしまうと困る。なので、そのあたりは曖昧にしておきたい。 鳥は春に生まれて秋に死ぬ昆虫みたいに思ってる人はいないだろうか。もちろんそんなことはない。大きく分けると、夏鳥、冬鳥、旅鳥、留鳥、漂鳥、迷鳥などとなる。 カモなどは冬鳥で、春になるとシベリアなどの大陸に渡っていってあちらで子供を産んで育てて、寒い冬になると暖かい冬の日本へと渡ってくる。夏鳥は逆で、春に日本にやって来て子育てをして、寒くなる秋にはもっと暖かい南へと渡っていく。旅鳥は、渡りの途中で日本に立ち寄るやつらで、漂鳥は日本国内を渡る鳥をいう。迷鳥は本来来るはずのない日本に迷い込んでくるやつで、留鳥は一年中日本にいる鳥たちのことだ。 季節によって見かける鳥の顔ぶれが違うのはこんなことが起こってるからなのだ。私もおととしまではまったく知らない世界だった。 普通の人にもお馴染みのツバメなども、あんな小さな体で何千キロもの距離を飛んで渡りをする。冬になるとのんきな顔をして池や川で浮いてるカモたちも、実はみんな偉大なる旅人たちなのだ。パンの耳を投げてお世話をしてるような優越感に浸っている場合ではない。 カモの多くは冬鳥で、留鳥のカルガモをのぞいて大部分はシベリアやカムチャツカ半島などから飛んでくる。長く厳しい旅だ。途中で脱落するものも出る。だから、冬の間しっかり食べて、体に脂肪をたくわえなくてはならない。見ていると常に何か水中をさぐってる彼らは、必ずしもいつも腹ぺこというわけではなく、必要に迫られて食べているという面もある。すごく食い意地が張っているとかそういうことでもない。 カモとひとくちに言ってもその種類は多い。40種類ほどが日本で確認されていて、その中で毎年のようにやって来るのは20種類ほどだ。しかしこの区別が難しい。カモに限らず鳥の見分けが初心者にとって苦痛でもあり楽しみでもある。見分けられないともどかしく、分かるようになってくると楽しくなる。難しいのは、オスとメスで模様が違うのと、季節によって羽の色が変わったりするからということもある。ただ、ついうっかり日常会話の中でエクリプスなどという単語がポロリと出てしまうと鳥の人と分かってしまうので、そのへんは注意が必要だ。まだまだ世間の鳥の人に対する目は温かいとは言えないところがある。首から双眼鏡をさげて森を歩いてると小学生の群れが駆け寄ってきて、わー、お兄ちゃん、カッコいい双眼鏡持ってるね、ぼくにも鳥をのぞかせてよ、なんていう光景が展開されることはまずない。 最初の第一歩としては、マガモ、コガモ、オナガガモあたりを覚えて、次のステップとして、ホシハジロ、キンクロハジロ、ハシビロガモあたりに進んでいけばいいと思う。トモエガモとヨシガモを遠くから肉眼で区別できるようになってしまったら、それはむしろ進みすぎかもしれない。私もついていけない。
渡り鳥たちは、どうやって渡っていく場所を知るのだろう、ということは昔からいろんなことが言われてきた。太陽の位置で方角を知るのだとか、夜は北極星を見て決めるとか、風向きや地形、地磁気を感じるなどいろいろな説がある中、今のところ決定打はない。まだ誰も渡りのメカニズムを完全には解明できていない。 多くの渡り鳥が去年過ごした同じ池や川に戻るというデータもある。漠然と日本列島を目指してきていたらそんなことにはならない。やはり彼らの中には何らかの確信があって飛んできているのだろう。違うところに着いてしまうのは、偶然なのか意識的なのか、そのへんもよく分からない。鳥にもいろいろな性格のやつがいるだろうから、A型カモとO型カモとでは行動が違ってくるということもあるのだろうか。 本能と言ってしまえばそれまでだけど、これは本当に不思議だ。思考によるものなのか、記憶によるものなのか、もっと深いところで何かが見えているのだろうか。少し関係ない話として、近年伝書鳩が巣に帰る確率が極端に落ちているという話を「トリビア」でやっていた。あれは携帯電話などの電磁波の影響が大きいのではないかということだった。だとしたら、渡り鳥たちもそんな影響を受けている可能性はある。やはり目から入ってくる情報ではなく、体でダイレクトに感じる波動のようなものを鳥たちは受信してるのではないだろうかと私は思う。それは親から子へと、遺伝子を通じて伝えられているのかもしれない。
 ピンクの夕焼けの中を駆ける姉妹。私の隠し子、ではない。ちょっといい風景だったので撮らせてもらった。大きくなっても、こまどり姉妹のように仲良くするんだよ。決して叶姉妹やヒルトン姉妹のようになっちゃいけないよ。名古屋だから、浅田舞・真央姉妹を目指すのもいいかもしれない。更に目標は高く、きんさんぎんさんだ。 私はといえば、ギターならぬカメラを持った渡り鳥となり、いつの日か、マイトガイと呼ばれたい。そして、あなたはエースのジョーだ。カメラを持って川原で決闘しよう。カモ対決。どちらが連写でカモをたくさんブレずに撮れるか。ヒロイン由紀役の浅丘ルリ子も募集してます。 けど、そんな三人組ってどうなんだ? という素朴な疑問がわき起こる。大きなカメラを持ってはしゃぎながら川のカモを撮ってる男ふたりと女ひとり。対決はなるべくひと目のないところで行った方がよさそうだ。
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