現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
紅葉終盤戦の定光寺は何故かカップル確率高し 2006年11月29日(水)
2006年11月30日 (木) | 編集 |
定光寺の石段参道

PENTAX istDS+Super Takumar 28mm(f3.5), f3.5, 1/13s(絞り優先)



 紅葉も終盤を迎え、行く予定をしていたところは残り数ヶ所となった。今年は暖かい日が続いて、紅葉がかなり遅れたものの、その暖かさが幸いして長く楽しめている。今のところまとまった雨も降らないから落葉も少ない。愛知県内は今週一杯から来週前半くらいまでまだ持ちそうだ。落ち葉になれば、それもまたいい。
 今日向かったのは名古屋の隣にある瀬戸市の定光寺。おととしデジカメを買ってすぐに訪れて以来、何度か行っている場所なので馴染み深い。好きな場所のひとつだ。「じょーこーじ」という響きがいい。定光寺進とかいう名前に生まれてもよかったと思えるくらいだ。こんにちは、定光寺進です。ラジオのDJになれそうな名前だな(根拠はない)。

 参道入口には「尾藩祖廟」の石碑が建っている。尾張藩初代藩主の徳川義直(よしなお)は、かつてこのあたりによく鷹狩りに来ていて、そのとき立ち寄った定光寺が気に入って、自分の死後はここに自分を葬るようにと遺言を残した。代々の尾張徳川藩主は光友が建てた建中寺(けんちゅうじ)に墓があるのに、義直の墓だけはこんな瀬戸の山奥にある。
 二代藩主光友によって作られた石橋(直入橋)を渡ると、登りの石段が待っている。165段、徒歩10分という看板がある。この登りがけっこうきつい。けど、10分はかからない。それはお年寄り時間だ。私などはまだまだ若いので8分くらいで辿り着く。もちろん、息ひとつ、ハァハァ、あがってる、ハァハァ、わけないですってば。ふぅー。ヒィヒィフー、ヒィヒィフー。
 かつてこのあたり一帯は、名古屋の奥座敷とも、尾張の嵐山とも呼ばれていたんだとか。吉良ワイキキビーチ並みにたとえが大げさすぎると思うけど、そう呼んだ人がいるのだからしょうがない。ふと、三谷幸喜の名言を思い出した。「エビちゃん似の人と本物のエビちゃんはやっぱり全然違いますね」
 前の通りは、殿様街道と呼ばれていた。初代藩主の菩提寺ということで、歴代の尾張藩主もたびたび訪れていたことからそんなふうに言われるようになった。現在はほとんど面影は残っていない。
 それにしても、今日の定光寺は妙にカップル確率が高かった。見かけた人の3分の2は若い二人組で、こんな奥地の紅葉スポットでこういう客層は珍しい。私としては写真に彩りを添えてくれてありがたかった。

定光寺本殿前

 應夢山定光寺は、1336年、覚源禅師によって造られた臨済宗の古刹だ。どういういきさつでこの地に建てたのかなど、詳しいことは分からない(私が分かってないだけ)。本尊は地蔵菩薩で、御利益は延命長寿や安産など、やや漠然とした印象を受ける。ただ、全体的に中国の影響が強いのは感じる。定光寺をよく知っている人でも、どういうお寺なんだと訊かれると意外と答えに困るんじゃないだろうか。この地にまつわる伝承とかそういったたぐいの話も聞かない。覚源禅師は特別なお告げでも受けたのだろうか。
 1534年に再建された本堂「無為殿」は、唐様式の茅葺きの建物で、室町時代の特徴をよく残していて、国の重要文化財に指定されている。見た目も貫禄があって、やるなと思わせるものがある。
 拝観は自由で、徳川義直の廟所がある場所に入っていくときだけ拝観料100円がかかる。本堂の向かって右側に入口がある。私はまだ入ったことがない。なので、見てきたような嘘を書くと、「源敬公廟」と書かれた門をくぐると、石段に続いて獅子の門が現れる。そこには左甚五郎が彫った獅子の像があり、そう名づけられた。続く門は龍の門だ。天井には狩野元信が描いた龍の絵がある。ここでも左甚五郎の見事な彫り物を見ることができる。その先にはちょっと見慣れないような建物が建っている。焼香殿と呼ばれるそれは、帰化した中国人(明人)の陳元贇(チンゲンピン)が設計したとされている。義直は儒教に傾倒していたので、そこから来ているのだろう。そして、ようやく義直の廟に辿り着く。義直廟にある祠堂や門なども重要文化財に指定されている。
 以上、あたかも見てきたように書いてみました。
 徳川義直についても書こうと思ったけど、もうだいぶ長くなってきたので、またの機会にしよう。水戸黄門の師匠でもある義直に関しても、書くことはけっこうある。

定光寺展望スペース

 地元ローカルでは、定光寺の展望スペースは、ちょっとした夜景の名所として知られている。遠くに名古屋駅のタワーをはじめ、春日井や名古屋の街明かりが見渡せる。実は、石段を登らなくても、上まで車で直接登ることができるのだ。駐車場から徒歩1分ということで、ヒールを履いた女の子でも大丈夫なのが好評なのだろう。夜景自体はそんなにたいしたことないものの、スペースは広いし、ベンチもある。冬場は吹きさらしで寒そうだけど、ホットなふたりなら大丈夫なのか? どうしても寒いときは、自販機でおしるこを買えばいいと思う。コーンスープでもいい。って、そんな昔の缶ジュース、今でもあるんだろうか。

 定光寺をゆっくり楽しむなら、名古屋駅からJR中央線に乗って、定光寺駅で降りて歩くのがいい。ここは庄内川沿いの山の斜面に強引に作られた無人駅で、高所恐怖症の人は利用できないという恐ろしい駅だ。一見の価値がある。定光寺は、そこから橋を渡って20分ほど歩いたところにある。
 定光寺の南には正伝池を中心とした定光寺公園が整備されていて、散歩したり遊んだりのんびりしたりするのにいい。休みの日はボートも乗れるはずだ。池には六角堂が建っている。こちらは紅葉はちょっと寂しいけど、桜がなかなかいい。夏はハグロトンボがいたり、カワセミもいて、冬はカモがやって来る。
 定光寺の紅葉は、もうすっかり終盤戦で、ほぼ終わった感じだった。落ち葉を絡めて撮ってもいいけど、見頃は過ぎている。やはり名古屋市内よりも気温が低いようだ。もう少ししたら、また静かな定光寺が戻ってくる。人がいなくなったときにゆっくり訪れるのもいいだろう。私も、一度くらいは義直の廟へ行って挨拶してこないといけない。次は来年の春か。


あらためて光についてちょっと勉強してみた 2006年11月28日(火)
2006年11月29日 (水) | 編集 |
水面の光いろいろ

PENTAX istDS+Takumar 200mm(f3.5), f3.5, 0.3s(絞り優先)



 光は色であり、色は目である。光のないところに色は存在せず、色は私たちの脳の中にしか存在しない。
 光とは何かという問いに、そんなの簡単じゃん、とあっけなく答えられる人はどれくらいいるんだろう。昨日までの私は完全に答えに詰まっていた。どちて坊やに質問を投げかけられた新右衛門さんのように。けど、今日からの私は違う。一夜漬けで光について勉強したからだ。光のことなら何でも訊いて……もらっては困るが、ぼんやりと理解したような気がしないでもない。
 光は電磁波だと聞いて、ホントかよと思う。どうやら本当らしい。しかし、電磁波といえば、ラジオだって携帯電話だってそうだ。あれと光が同じものだとは最初は納得できなかった。ただ、波長の長いものや短いものは目に見えなくて、中間のいわゆる可視光線が光なんだという説明を読んで、なるほどそういうことかと納得した。波長が短いものにはガンマ線やエックス線、紫外線があり、波長の長いものに赤外線や電波などがある。動物には色が見えてないなどというのは、人間とは見える波長域が違うからだ。
 電磁波というのは、要するに波だ。電界と磁界が相互に作用して組み合わさったものが空気を伝って動くことで波となる。電磁波は光で光は電磁波なので、電磁波も光と同じく秒速30万kmのスピードで移動する。波が一往復する間に進む距離を波長といい、波が1秒間に往復する回数を周波数という。
 奥さん、嬢ちゃん、坊っちゃん、今日はちょっと難しいですよ。でも、なるべく簡単に書くから最後までおつき合いくださいね。

 光は波である、ということろまで分かった。けどこれは光の本質の半分でしかない。光は波であると同時に粒子でもある。光は波か粒子かどちらなんだという議論が長らく続いた中で、アインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論や、その後の量子力学によって、光は波であり粒子でもある量子だということが分かったのだった。さすが、先生、お見事です(アインシュタイン先生は私の心の師匠なのだ)。
 光は質量ゼロなのに存在していて、エネルギーも持っている。このへんのことは私にはよく分からない。分かっているのは、光というやつはどこまでも真っ直ぐなヤツだということだ。何にもぶつからなければひたすら直進するしか能がなく、曲がることは一切できない。自分では加速もできなければ減速もできない。こんな車はイヤだ。秒速30万kmで、1秒で地球を7周半できるというのはよく使われるたとえだけど、光クンは地球に沿って曲がるなんて器用なことができる子じゃないので、実際には地球の周りをぐるぐる回ったりはできない。ある意味では、地球2周目に突入したラブワゴンにも勝てない。ヒデは光より上ということか!?
 性質としては、ものにぶつかれば反射する。まっすぐぶつかればまっすぐはね返り、角度があればそのように反射する。透明なものに当たれば透過しつつ、減光したり屈折したりする性質も持っている。人の目で見える色というのは、このときの吸収や反射によって認識される。

 光については、まだ完全に解明されたというわけではないようだ。相対性理論からまだ100年しか経っていないのだから、当然といえば当然だろう。この世界には光の速度以上に早い物質は存在しないという定説も、いつかくつがえされる日が来るかもしれない。タキオンでヤマトの波動砲だって絶対に撃てないと決まったわけではない。
 ウラシマ効果というのは実際どうなのだろう。光の速度で移動すると時間の速度がゼロに近いくらい遅くなって、自分は歳を取らないというあれだ。高速で飛ぶ宇宙船で50年飛び続けて地球に返ってきたら、地球では50年経っているのに乗組員は数年も歳を取らないと理論上はなるらしい。浦島太郎の話からウラシマ効果と呼ばれるこの現象を、人類はいつか体験することになるのだろうか。歳は取りたくないけど、浦島太郎にはなりたくないと個人的には思う。

街灯りのいろいろ
PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4)

 今、街ではさまざまな光に満ちている。もはや暗い夜は失われてしまった。街灯、車のヘッドライト、信号機、店の蛍光灯、民家の窓からもれる明かり。様々な種類の光があることにも気づく。昔は、太陽の光や月明かり、火の明かりくらいしかなかった。オイルランプから石油ランプになり、人類が電気を手に入れたのはほんの120年ほど前に過ぎないのに。
 エジソンが白熱電球の開発に成功したのが1879年だった。このときエジソン32歳。フィラメントに日本の竹を使うなど、試行錯誤の末、苦労して完成させた。同じ年のエジソンより前にイギリスのスワンも白熱電球を作ったのに、これは寿命が短すぎて実用とならなかった。歴史に名を残す人間とそうじゃない人間の差は大きいようで小さいのかもしれない。
 エジソンが発熱電球を売るために作った会社がのちのGE(General Electric)社となり、のちに蛍光灯を売り出すことになる。
 蛍光灯の研究自体は古くから行われていて、1856年にドイツの物理学者(当時はガラス工)ハインリッヒ・ガイスラーが作ったガイスラー管が蛍光灯の起源とされている。それから70年後の1926年、ドイツの発明家エトムント・ゲルマーが考えたアイディアが蛍光灯の実用につながり、蛍光灯発明者となった。GEはその特許を買い取って、ジョージ・インマンが完成させて、1938年に発売することになる。
 蛍光灯の優れている点は、小さい電力で電球よりも強い光を出すことができるところだ。寿命も長い。その技術の先に、発光ダイオードLED(light Emitting Diode)がある。最近では街のイルミネーションもこれが増えてきた。半永久的とも言えるような長い寿命を持つLEDが今後の主流になっていくだろう。

 ドイツの文学者ゲーテの最期の言葉は、Mehr Licht! もっと光を! だったと言われている。象徴的な言葉として有名だ。実際は、部屋が暗いからブラインドを開けてくれって話だったそうだけど、そんなゲーテも今の時代に生まれていたら、明るすぎるから光を消せ、になっていたかもしれない。考えてみたら、部屋に100ワットなんていう光は必要ない。夜だって暗くてよかったのだ。
 地球の夜の衛星写真を見たことがあるだろうか。日本は恐ろしいほど明るいのに対して、北朝鮮だけは驚くほど真っ暗だ。それはもう見事なほどに夜ということを表している。暗さを貧しさゆえだと安易に判断するのは正しくない。むしろあれこそ正常な夜の姿だと言ってもいい。北朝鮮の子供たちはみんな、満点の星空を見ながら成長しているのだろう。国や政府がどうだからといって、星空の思い出が無駄になることはない。あの光を知らずに大人になる日本の子供たちの方が、何か大切なことを見失った人間となってしまいかねない。
 地球は青い星というだけでなく、光の満ちあふれる惑星でもある。宇宙からやって来た異星人たちは、地球の青さに胸を打たれ、この星の明るさに驚くだろう。こんな辺境にこんなにも豊かな惑星があったのかと。けれど、地球は必ずしも光の天国とは言えない。虚飾の明るさとも言える。
 光は確かに文明が繁栄している証だ。そのこと自体は間違いではない。ただ、私たちは明かりと引き替えに失ったものもあるということだけは知っておいた方がいい。その上で、もう一度光の大切さやありがたみを自覚したい。
 もはや光なしには通常の生活は不可能なまでになっている。スイッチを押せば部屋は光に満ちるけど、たまには部屋の蛍光灯にお礼を言っても罰は当たらない。わっ、また切れたのかよ! この前替えたばっかりじゃねぇか! などと怒鳴りつけたりすると、電球はすぐにキレるだろう。いつもご苦労さんと、トイレを出るときにひと声かけて出れば、電球もきっと1.2倍くらい長持ちしてくれるだろう。


アリゾナ生まれの弁慶柱は三本締めの待ち構え中 2006年11月27日(月)
2006年11月28日 (火) | 編集 |
巨大サボテン全景

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/30s(絞り優先)



 東山植物園の温室にある巨大サボテンを見ながら、これはどういうポーズだろうとしばし物思いにふける。ウルフルズ「バンザイ」を歌ってるところというには手が短すぎるし、もうお手上げさっていうのとはちょっと角度が違う。なんかこんな手の構えをすることあるよなぁと考えて、そうか、あれだ、と気づいた。みなさん、お手を拝借! よ〜っお、チャチャチャッ、チャチャチャッ、チャチャチャッチャッ、はいっ! のときの構えじゃないか。そう思ったら笑えてきた。でもひとりで巨大サボテンを見ながらニヤついてる人は自分でもイヤなので、笑いはこらえた。それにしても、アリゾナ育ちのくせに日本の三本締めの構えをマスターしてるとは、やるな、弁慶柱(べんけいちゅう)。

 アメリカの西部劇などでお馴染みのサボテンである弁慶柱のふるさとは、アリゾナ州からメキシコにまたがるソノラ砂漠だ。世界最大級のサボテンで、大きなものは12メートルを超えるという。東山にあるものも相当大きい。8メートルくらいはあるんじゃないだろうか。1987年にやって来たということは、日本での暮らしもそろそろ20年になる。倒れるといけないというので、背中をポールに支えられて、後ろから輪っかで羽交い締めにされている。ちょっと苦しそうだ。離せってば、と短い手を必死に伸ばして抵抗してるようにも見える。
 とにかく成長が遅く、毎年ちょびっとずつしか伸びない。手が出てくるまで70年以上、こんなに大きくなるには100年もかかってしまう。寿命は200年というから、誰も最初から最後まで成長を見守ることはできない。子供が産まれたときに、弁慶柱の種を庭にまくといいかもしれない。その子が100歳になる頃には立派なサボテンになっているだろう。
 英名はSaguaro。初夏になると枝先に白っぽい小さな花を咲かせる。咲くのは夜ということで受粉はコウモリが担当するんだとか。果実は食用になり、茎の芯は固いために昔はネイティブアメリカンがテントの材料に使ったそうだ。
 今でもアリゾナ州あたりの自然公園では野生のこいつが乱立してる姿を見ることができるという。やはり、こいつらには砂漠の砂と空と乾いた空気がよく似合う。

親子連れと弁慶柱

 比較対象として親子連れに入ってもらった。やっぱりデカいぞ、弁慶柱。そしてあらためて思うのは、こいつのチャームポイントは短い手だということだ。もしこれがなかったら、ずいぶん愛想のないサボテンになっていたと思う。ただ、人が見てないときはこっそりこの手を下ろしていそうではある。あー、手が疲れた、とか言いながら、ブルブル振ってるかもしれない。

 一般的なサボテンの原産地は、北米大陸と中米から南米にかけてだ。北はカナダ南部から南はチリまで、アメリカ大陸の広い地域に自生している。もちろん、コロンブスが新大陸発見するはるか以前から、サボテンはネイティブたちと共にそこにあった。世界に知られるようになったのは、やはり大航海時代の16世紀以降だ。過酷な環境に生きながらも、けっこう耐性が高かったサボテンたちは世界中に広まっていった。暑さだけでなく寒さにも強い。日本には江戸時代にオランダ船が持ち込んだと言われている。その前から入っていた可能性もある。
 いつ頃地球上に誕生したのか、はっきりしたことは分かってない。一番古い化石がユタ州で見つかった6,500万年前のもので、それ以外ではアリゾナ州の200万年前くらいしかなく、手がかりが掴めないようだ。恐竜時代にはおそらくあったのだろうけど。
 サボテンの種類は、8,000とも1万とも言う。生き延びるための必死の姿勢が様々な変化を生み出していったのだろう。形によって、木の葉、ウチワ、柱、球のなどに大別される。
 サボテンの特徴はなんといってもトゲトゲだ。ほとんど雨の降らない砂漠で生きるために、水分が逃げていきやすい葉っぱをトゲに変えた。外敵から身を守るためとかそういうことではない。刺座(アレオーレ)と呼ばれるものをサボテン、ないものを多肉植物として区別している。アロエなどがそうだ。刺座(とげざ)がなくても毛疣(けいぼ)が残っているサボテンもある。
 たいていのサボテンは花を咲かせる。サボテンの花なんて見たことないぞという人が多いかもしれない。それは、花が咲くのが数日から一週間くらいと短いのと、大量生産で作り出されたものは発育不良で花が咲く年齢になる前に枯れてしまうものが多いからというのがある。それゆえ、サボテン好きにとってみれば、花を咲かせることの喜びはひとしおなのだろう。奥さんが一所懸命育てたサボテンの花が咲いて、あなた見に来て! と大きな声で呼ばれたなら、面倒がらずにちゃんと見に行って一緒に喜んであげないといけない。
 サボテンが種から育つと聞いて意外に思った人も多いかもしれない。なんとなく分裂して増えていくようなイメージが私にもあった。サボテン農家が種から5年くらいかけて育てたものが店に並ぶことが多いそうだ。サボテンの苗生産の全国80パーセントが愛知の春日井というから驚く。隣町の春日井市がサボテン王国だなんて、まったく知らなかった。春日井の街にサボテンがあふれているというような印象は一切ないのだけど。
 サボテンは、日本に入ってきた当初は覇王樹という字が使われていたようだ。現在は仙人掌という字を当てることが多い。
 サボテンの語源にはいくつかの説があって、昔は茎で服の汚れを拭き取ったりしていたところから、ポルトガルの石けんを意味するシャボンに手を付けてシャボンテ、それがなまってサボテンになったというのがある。確かにサボテンはシャボテンとも言うから、この説はあり得るかもしれない。

 サボテンは観賞用だけでなく、昔からいろいろと利用されてきた。ネイティブアメリカンは食べられるサボテンを知っていて食べていただろうし、今でもサボテンステーキやサボテンサラダなんかがある。もしかしたら、私の知らないところでみんなこっそり食べているんだろうか。「ステーキハウスあさくま」(東海ローカル)のメニューにも入っているかもしれない。果実は美味しいものもあるようなので、それはちょっと食べてみたい気もする。
 これまでサボテンというのは見た目の変化が小さすぎて面白くない植物だと思っていた。もう少しなんか変わってみろよと指でつつくと痛い思いをするからイヤだとか。けど、勉強してみたら、なかなか興味深い植物だということが分かってきた。ここはやはり、実際に育ててみるのがサボテンと親しくなる最善の方法だろう。
 なんでも、電磁波を吸い取るサボテンがあるという。その名もセレウス・ペルヴィアナス。今ちょっとしたブームになってるようで、私も買いましたという報告がネットでたくさんなされている。むむむ、出遅れたか。電磁波といえば私もPCやテレビなんかで日常的にかなり浴びているから、実は心配していたところだ。NASAの研究でもその効果は実証済みなんだとか。そう聞くとかえって怪しいような気もしてくるけど、ちょっと本気で欲しくなってきた。近いうちに買いに行こう。
 よかったら、キミも買ってみないかい? そして私とサボテン・ブラザーズになろうではないか!


自分でも意外だった初の中華サンデーは中エプの出来 2006年11月26日(日)
2006年11月27日 (月) | 編集 |
中華サンデー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f3.5, 1/15s(絞り優先)



 私たちは日常的によく中華料理を食べている。一般庶民の場合は、ラーメンだったりギョウザだったりシュウマイや八宝菜などだろうし、私の場合なら、フカヒレ、アワビ、ツバメの巣、北京ダックなどだ。
 ……。
 書いていて虚しくなった。ウソはいけない、ウソは。そんなもの見たこともないではないか、私。
 それはともかくとして、日本人にとって中華料理というのは和食に次いで馴染み深い料理に違いない。にもかかわらず、私たちは中国の家庭でどんな料理が食べられているかを案外知らない。テレビのレポート番組などで垣間見る中国の料理は、お店の料理であって家庭の料理ではない。日本でも和食屋で出てくるものと家庭の食卓に並ぶものは違う。
 中国人のお母さんが、家で巨大な中華鍋を振り回して、顔の高さまで炎を燃え上がらせながら、玉で鍋を叩くようにガツンガツン、ジャージャーいわせて、子供たちにおまえたち、すぐできるアルよ、待つアルね! などと言ってるシーンを想像したら、それはきっと中国人に対して失礼に当たるのだと思う。北京の高級住宅街に住んでる中国人などは、たとえ中華でも、もっと上品に作り、上品に食べてるに違いない。鍋を振り回したりせず。
 中国に行ったことはないし、中国人の知り合いもいないので確かなことは言えないのだけど、たぶん、日本でいう中華料理と中国における中国料理は別物なのだろうと思う。よく知られているように、日本式のラーメンはあちらにはいないし、向こうでは焼きギョウザはほとんど食べられてなくてギョウザといえば水餃子だったりするそうだ。他にもいろいろ違いがたくさんあるのだろう。もちろん、共通のものもあれこれあるはずだけど。
 ひとつ意外だったのに、しゃぶしゃぶは元々中国料理だったというのがある。完全に日本オリジナルのような顔していて実は中国生まれだったのだ。中国人と思わせて東京生まれの日本人だった陳建一の逆パターンだ。

 日本における多くの中華料理は、広東料理なんだそうだ。長崎の中華街は例外的に福建系で、横浜をはじめ大部分が広東系だという。考えてみると、私たちは北京料理や四川料理、上海料理などいったものをあまり知らないことに気づく。
 何しろ中国は広いから、地方によってかなり違いがある。使っている食材も、調理方法も、調味料も。日本だって北と南ではかなり差があるのだから、中国では尚更だ。他にも山東料理、上海料理、湖南料理、潮州料理などがあり、台湾料理というジャンルもあるようだ。
 笑えない笑い話として、「中国人は四足(よつあし)なら机以外、空を飛ぶものなら飛行機以外は何でも食べる」というのがある。アグネス・チャンも、日本に初めてやって来てお寺の境内にたくさんハトがいるのを見て、美味しそう、と思ったという。
 食べる食材が多いということは料理も多くなる。更に地域による特色や、世界に広がった過程で取り込んでいったその国の要素も加えると、中国料理の種類というのはほとんど無数と言ってもいいのかもしれない。中華の料理人は、数万種類の料理を作れるという話もあるくらいだ。間違いなく、世界で最も種類の多い料理という言い方ができるだろう。
 中華料理の特徴といえば、なんといっても中華鍋と強い火力というのがある。これがあるから、家庭では店の味が出せず、中華料理屋が繁盛するというのもあるだろう。
 脂っこいというイメージも強い。どんな料理も油で炒めたりするから、すごく食べたくなるときと、中華はごめんだと思うときがある。風をひいたりしたときは、中華料理はちょっと食べたくない。
 イメージとして健康に悪そうというのもあるけど、特に中国人が不健康だとか早死にだとか聞かないから、そうでもないのだろう。ウーロン茶で油を打ち消してるという話もある。
 中華は基本的に暖かい料理がほとんどだ。火を通さないものは食べないという風習が昔からあったらしい。中華で冷たい料理というのも思いつかない。あんかけのあんも、料理が冷めないための工夫のひとつなんだとか。しかし、それも最近は変わりつつあって、一番の危機がマグロ問題だ。少し前に鳥インフルエンザがあって、鶏肉を食べられなくなったとき、彼らはマグロを発見してしまった。えらいものが見つかってしまったものだ。今では中国人はマグロを食べまくって、そのうち買い占めて日本に入ってこなくなるというウワサさえある。

 日本に初めて中華料理がやって来たときは、支那(シナ)料理だった。当時の日本人は中国人のことを支那人と呼んでいたから。
 そもそもは、明治に横浜港が開港して、そこに入ってきた中国人によって作られた南京町や唐人街(のちの中華街)で、中国料理の店ができたところから、日本における中華料理の歴史が始まった。
 本格的に中華料理の店が増えていったのは明治の中頃以降だった。ラーメン屋台は、大正11年の関東大震災で、家や商売をなくした中国人たちが生活のために引き始めたのが元祖なんだとか。
 中華料理が今のように一般にも浸透したのは、やはり戦後だろう。中国人だけでなく、戦争などで中国へ行っていた日本人が向こうで料理を覚えて帰ってきたことで、ますます中華は日本人好みに味を変え、広まっていった。

 長い前置きはこれくらいにして(もう充分だろう)、今日の本題に入ろう。今回のサンデー料理は、自分でも意外だったんだけど、初めての中華料理となった。これまでも単品としては何種類か作ってはいたものの、中華のテーマで統一して作ったことはなかった。
 左奥は、お馴染みのエビチリだ。多少工夫があるとすれば、エビと豆腐を一緒にしたことだろうか。エビは殻をむいて背わた腹わたを取って、酒と塩をまぶし、豆腐は水分を飛ばしてサイコロ切りにする。どちらもカタクリ粉をまぶして、油で軽く揚げたらいったん取り出す。
 チリは、豆板醤・小1、ケチャップ・大3、しょう油・大1、酒・大1、砂糖・小1、水・大2、ニンニクひとかけらで作る。豆板醤を炒めて、そこにケチャップなどを入れ、沸騰させたらエビと豆腐を入れて絡める。
 右奥は、魚介と野菜のとろみ牛乳スープがけだ。鶏肉、白身魚、イカ、アスパラ、白菜、ニンジン、ブロッコリー、タマネギなどを適当な大きさに切って、炒める。
 あんは、牛乳・大3、酒・大1、スープの素・1、水・1/2カップ、塩、コショウ、ごま油少々、唐辛子などを混ぜて、煮立たせる。最後に水溶きカタクリ粉を加えてとろみをつける。
 手前は形が崩れてしまったのだけど、卵シュウマイだった。溶き卵・2、カタクリ粉・大2、塩、コショウを混ぜて薄焼き卵を作って、それを四角形に切って皮にする。
 具は、タマネギのみじん、キャベツ、シーチキンで、塩、コショウ、しょう油、砂糖などで味を付けておく。あとは包んで蒸し器で蒸すだけ。なんだけど、形が保てないので爪楊枝を刺して形を整える。見た目を気にしなければ全体を包んでしまった方が早い。
 たれは、酢、しょう油、カラシ、酒、砂糖を混ぜて煮立たせ、水溶きカタクリ粉でとろみをつける。

 味の方はといえば、見慣れた周富徳を久しぶりに見ても特に新鮮な驚きがないような味だった。って、どんな味だ、それ。普通に美味しかったけど、面白みはなかったというか、インパクトに欠けた。中華料理店で出しても、大学生の兄ちゃんがジャンプなんかを読みながら顔も上げずに食べてしまえるような料理を作れるようになった自分が嬉しくもあり、残念でもある。愛のエプロンに出ると、一番中途半端でいろんな意味で美味しくないポジショニングだ。中エプでは笑いも感動も呼び込めない。
 味の安定感が出てきたのは、ある意味では停滞期と言えるだろう。ここから更に上に行くには何が足りないのだろう。工夫なのか、更なる経験なのか、それとももともとのセンスなのか。そのへんのことを追求しながら今後もサンデー料理は続いていく。
 まだ全然納得はしていない。料理の究極は、「鉄板少女アカネ!!」で語れるように、食べて泣けることだと思う。私もいつか、海原雄山を泣かせてみたい。ザ・シェフとなれなければ、クッキングパパとなって。
 明日からは、中華鍋に砂を入れて腱鞘炎になるまで振り続けるところから出直そう。泣ける料理を作る前に私が泣き出してしまうだろうか。


いつか白川郷へ行くときのために合掌造りの予習をした 2006年11月25日(土)
2006年11月26日 (日) | 編集 |
東山植物園の合掌造り

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/50s(絞り優先)



 合唱といえばウィーン少年合唱団、合掌造りといえば白川郷というのはおおむね異存のないところだと思う。更に言えば、少年といえば岸和田少年愚連隊、ウィーンといえばたこさんウィーンナーが好物の渡辺徹、白川といえば白川由美を連想するという人がいるに違いない。たぶん、きっといる。
 白川郷、その響きは果てしなく遠い異国の地を思わせる。愛知県のお隣岐阜県でありながら、その存在は遠いイスカンダル。京都や大阪よりもずっと遠く感じる。たぶん、高速を使っていけば名古屋から2時間半くらいなのだろうけど、むしろ自分の中では遠い憧れの地としてとどめておきたいような気持ちもある。行って見てしまえば、こんなものかと少しでも失望してしまうのが嫌で。現在、東海北陸自動車道が白川郷まで延長工事をしている。何年かしたら、もっと便利になって行きやすくなる。けれど、何か違うような気がする。世界遺産なんかにせずに、ずっと陸の孤島のようにしておいて欲しかったと思ってしまう。そんなものは部外者の勝手なセンチメンタリズムなのだろうけど。

 昔から白川郷の合掌造りといえば、古き良き日本の原風景をとどめた秘境として有名だった。私の子供の頃からすでに観光地になっていたはずだ。それが一躍全国区になったのは、やはり1995年に世界遺産に登録されてからだ。それまで年間の観光客が60万人ほどだったのが、翌年には100万人を超え、今では150万人以上の人が訪れるようになった。単純に割っても、1日に4,000人からの観光客がやって来るという計算になる。村人は2,000人ほどなのに。やっぱりみんな、権威のあるレッテルに弱い。国宝に極端に弱い私も例外ではないのだが。
 白川郷の合掌造りが広く知られるようになったのは、ドイツの建築学者ブルーノ・タウトが、昭和10年(1935年)にこの地を訪れて、『日本美の再発見』で世界に知らせたことが大きかった。それまでは、日本人でさえ一般的にはこの地のことを詳しくは知らなかったのではないかと思う。最も栄えていたとき1,800棟以上あったものが、急激に数を減らし始めている頃でもあった。地域の高齢化や、近代化、ダム建設などで、多くが取り壊されたり、売却されたりしたという。
 1971年(昭和46年)には保存会が発足。「売らない、貸さない、壊さない」を合い言葉に合掌造りの保存活動が本格的に始まった。先細りになる村を救うには、これを観光資源とするしかなかったという事情もあったのだろう。
 現在残ったのは110軒ほど。これでもよくぞ残ったと思う。
 写真のものは、東山植物園にある合掌造りだ。なんでこんなところにこんなものがあるのかと不思議に思った人も多いだろう。どういうツテかは知らないけど、1842年に白川郷で建てられたもので、ダムによって沈んでしまうものを、1956年にこの地に移築したものだ。作り物ではなく本物なので、ありがたみはある。内部もそのまま保存してあって、自由に見学することができる。

合掌造りの干し柿

 合掌造りという名前は、屋根の形が手を合わせて合掌してる様に似ているところから来ている。急勾配の茅葺(かやぶ)き屋根が特徴だ。白川郷のものは、「切妻合掌造り」と呼ばれていて、角度はほぼ60度で正三角形に近い形をしている。この地域は豪雪地帯なので、雪が落ちやすく、重みに耐えられるようにという知恵でこういう格好になった。とんがっているとかわいいから、とかそういう理由ではない。
 建築方法はかなり特殊で複雑だ。説明文を読んでも専門用語だらけでよく分からない。もちろん、手抜き工事など許されない。雪だけでなく強風にも耐えられる作りになっていて、ちょっとやそっとではビクともしない。
 それにしても大きい。近くで見るとその迫力に驚く。とても一軒家のスケール感ではない。ちょっとした3階建てのコーポくらいの大きさがある。写真の人間の小ささでも分かるだろうし、2階から吊してある干し柿がミニチュアサイズに見える。武蔵丸がお茶碗を持つとお猪口に見えるのと同じ現象だ。
 合掌造りのこのスタイルが完成したのは江戸時代中期だと言われている。豊かとは言えなかったこの地で、現金収入を得るためにお蚕(かいこ)さんを屋根裏に飼うスペースを確保するためということでこういう格好になったんだそうだ。白い障子窓はそのときの名残で、蚕たちのために明かり取りとして作られたものだ。2階が狭くなれば3階にも蚕を置かないといけないし、半年は雪だから馬は家の中に入れないといけないというんで、どんどん大きく広い家になっていった。そもそも一族郎党、使用人まで含めて10人20人が住むから、狭い家では暮らせやしないというのもある。
 囲炉裏のあるある大広間、居間、仏間、寝室、台所、馬小屋、稲部屋などが1階にあり、中2階以上は蚕用となる。夜中に大量の蚕たちが葉っぱを食べてるカサカサする音が上から降るように聞こえてくるシーンを想像するとちょっと怖い。蚕にかじられる夢を見そう。
 合掌造りの何が一番大変かといえば、それはもう茅葺き屋根の葺き替作業だ。かつてはカヤにコガヤというものを使っていて、これは80年ほど持ったそうなのだけど、今のススキは30年か40年に一度全面的に葺き替ないといけない。この費用が一番大きな家で2,000万円もするというのだ。これでは維持しきれずに壊したくなった人たちの気持ちも分かる。
 作業も、とてもじゃないけど家族なんかでできるものではない。専門の業者さんもいない。となると村人総出で行うことになる。「結(ゆい)」と呼ばれる協同作業で、一軒につき2日間で仕上げるそうだ。

 白川郷の特徴としては、景観保存地区でありながら生活の場でもあるということだ。自分の家なのに勝手にいじれないし、外を歩けばいつでも観光客が大勢いて、暮らしにくいったらない。もちろん、24時間営業のコンビニやファミレスなどあるはずもない。行儀のいい観光客ばかりじゃないだろうし、外国人もいる。ちゃんと観光用になっている有料の和田家などだけでなく、一般の家屋にまで当然人は入っていくことになる。ここからは入ってはいけないという明確な区分はないだろうから。元々の村の人たちは世界遺産になったことを必ずしも喜んではいないかもしれない。ただ、世界的な保存地区ということで大きな援助が出ているには違いないだろう。そのあたりはいろいろと難しい問題をはらんでいる。
 ところで私は一体行くのかい、行かないのかい、どっちなんだい、と自分の筋肉に訊いてみる。いや、筋肉はあまりないんだけど。行きたい思いは十二分にある。行かないままそっとしておきたい思いもないではない。いつか行くかもしれないし、行かないかもしれない。
 もうあちらではそろそろ雪が降っている頃なんだろう。白い冬の白川郷も見てみたいし、田んぼが青くなった初夏もいい。秋は村全体が秋色に染まって素敵だろうな。
 行くときは、シルクのパジャマに身を包んで、ススキを口にくわえていこうと思う。もしかして、不審者として捕まってしまうだろうか。でも、合掌造りといえば絹糸とススキじゃないですかぁー、と言い訳しながら引きずられている男を白川郷で見かけたら、それはズバリ、私です。


小原の四季桜ベストビューポイントは薬師寺前と見た 2006年11月24日(金)
2006年11月25日 (土) | 編集 |
小原薬師寺前

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/50s(絞り優先)



 みなさんは、yahoo!のブログ検索というのをご存じだろうか。存じておるという人もいるだろうし、それはなんじゃらほいというとぼけた方もいるだろう。yahoo!のトップページから検索窓に、たとえば近々行こうと思っている紅葉スポットの地名などを打ち込んで、「検索」ボタンではなく、窓の上中央あたりにある「ブログ」をクリックすると、その情報が載っているブログ記事が検索できるというシステムだ。これのどこがいいかというと、新たに更新されたページが上の方に来るという点だ。通常の検索だと人気のあるサイトやヒット数の多いところが上位に来て、最新の情報に辿り着くのに苦労することが多々あるけど、ブログ検索ならほとんどリアルタイムで情報を得ることができる。特に紅葉情報などは当時か前日の様子を写真で確認できるから、これほど確かなものはない。大手のサイトがやっている紅葉情報よりもよほど鮮度が高い。
 そうやってあちこちの紅葉具合を調べている中、ふと小原村のことを思い出した。そして見つけたのがこの角度からの写真だった。うひゅーっと奇声を上げた私は(心の中で)、次の瞬間にはカメラをバッグに入れていた。やるっきゃない! と90年代のようなかけ声と共に、家を飛び出す。いや、その前にトイレに行って、忘れ物がないか確認だ。やるなら今しかねぇ〜、やるから今しかねぇ〜、とナガブチの歌を歌う田中邦衛のモノマネをしつつ(心の中で)、車に乗り込み発進だ。待っていておくれよ、小原村。豊田市に編入されて小原町になっても私の中では小原村だ。瀬戸を抜け、33号線のくねくね峠道を、山を越え谷を越えぼくらの町にやってきたハットリくんがやって来たの歌のごとくに走り抜け、辿り着いた小原村。ああ、なつかしや、2年ぶり。でも、景観が変わっている様子もなくて安心した。

 写真の場所は、薬師寺前。たいていの人は小原支所あたりを見て回ると思うのだけど、実はこっちの方が写真としては絵になるところが多い。2回の小原行きであちこち回って、ここがベストビューポイントと決定した。黙ってここへ行って、ここで写真を撮るべし、と言いたい。
 小原支所を右手に見つつ通過して、そのまま419号線をキープして北に向かう。けっこう距離はある。2キロか3キロか。車で10分はかからないまでも5分じゃ着かないくらい。3つ目の信号を越えて左側に薬師寺と駐車場がある。しかし、ちょっと待った。この時期、ここに駐車すると500円取られてしまうという海の家状態なので、私としては少し手前の右側にある川沿いのスペースに停めることをおすすめしたい。ちょっとした桜並木があって、そのすぐ前に10台くらい停められるところがある。そこから歩いても5分もかからない。外から写真を撮るだけなら薬師寺に入る必要もない。道路の反対側が撮影ポイントだ。車には気をつけてください。
 真言宗瑠璃光山薬師寺は、地元民に川見の薬師さんと呼ばれて親しまれている古刹で、本堂や彫り物などなかなか味があるので、100段の階段を登ってでも見る価値はある。創建は室町時代だとか。

川沿いの桜並木

 ここの桜は四季桜といって、春と秋の2回咲く。四季のくせに4回じゃないのかよなどといちゃもんを付けてはいけない。一年中「キャッツ」の公演をしてる劇団四季とは違う。
 品種としては、豆桜(マメザクラ)と江戸彼岸(エドヒガン)を掛け合わせたものだと言われている。江戸時代の後期に、藤本玄碩(ふじもとげんせき)という漢方医が名古屋で買ってきて植えた一本の桜が始まりだそうだ。前洞には樹齢100年以上の古木が大事に育てられていて、愛知県の天然記念物となっている。年々本数を増やしていって、現在は地区全体で8,000本となった。普段は何もないひっそりとした小原も、この時期だけは大勢の人で賑わいを見せる。近隣だけではなく、遠くから観光バスで大勢やってくるから驚く。やはり秋に咲く桜は珍しく、紅葉とのコントラストとなると全国でも数ヶ所しか見られない光景なのだろう。
 春に咲くときはもっと華やかにたくさん花を付ける四季桜も、秋は地味目だ。花も小さく、量も少ない。その分、繊細な感じがあって、これはこれでいい。木もソメイヨシノのように大きくならないようで、なんとなく箱庭的な風情がある。エドヒガンは大きくなって長寿なのに、マメザクラの方の遺伝子を受け継いだようだ。秋は開花時期が長く、11月から咲き始め、12月まで咲いている。

 その他の桜スポットとしては、メイン会場となる小原支所をはじめ、「和紙のふるさと」、「北部生活改善センター」、「緑の公園」、「市場城址」、料亭「大福魚苑」などがある。
 市場城跡は、鈴木氏によって室町時代に建てられた城で、戦国時代は徳川家康の支配下にあった。最後は豊臣秀吉の転封命令に従わなかったために、城を取りつぶされて、最後の城主鈴木重愛は追放されてしまったのだった。現在は櫓石垣などが残るのみとなっているものの、戦国好きなら訪れておきたいところだ。
 小原村は、室町時代から和紙の産地として有名なところで、その伝統は今も続いている。「和紙工芸館(和紙展示館は350円)」などもあり、紙すき体験(電話予約して1,000円から2,000円くらい)もできる。
 和紙の原料は「コウゾ」というクワ科の木だ。これを蒸して皮をはいで、水で晒してソーダで煮る。それをよくかき混ぜて、テレビでよく見るような木の板にすくってゆさゆさ揺らして、乾燥させれば出来上がりだ。

四季桜公園

 日が落ちて暗くなったらもう桜は撮れない。特にここは山間なので、日没が街中よりも早い。最後の締めくくりは、前回同様、「四季桜公園」とした。ここは小原のマイナースポットで、カメラを持ってるような人とは会ったことがない。これぞ穴場、と言いたいところなんだけど、行ってみるとがっかりするのでおすすめはできない。申し訳程度に桜とモミジなどが植えられているだけの何もない普通の公園なんで。ただし、夕焼け空が見られる。眼下には小原の町並みと見上げれば夕暮れの空。これがなかなか悪くないのだ。
 場所は小原支所から北に走ってすぐの左側。坂道を上がっていくと駐車場がある。トイレもあるし、人もいないので、ゆっくりトイレに行きたい人はここがいい。

 小原の四季桜と紅葉の組み合わせは、実は私はあまりピンと来てないところがある。確かに秋に咲く桜は珍しいし、紅葉とのコントラストもめったに見られるものではない。にもかかわらず、第一印象が意外と薄かったのだ。ああ、こういうことかと。想像してた以上に違和感がないというか、そんなにびっくりするほどでもないなというのが感想だった。二度目に訪れた今回もそれは変わらなかった。写真に撮ると案外面白くないというのもある。
 ただ、魅力がないかといえばもちろんそんなことはない。ただ、なんというか自分の中で釈然としないのだ。これは見慣れているものに今更驚かないよという感覚に似ている。考えてみると、桜も紅葉も、それぞれ単独では何度も見てるものなのだ。両方とも珍しいものでも何でもない。だから、当たり前と思う私の感覚はきっと間違ってないんじゃないだろうか。たとえばそれは、秋に竹の子を食べても何か違うような気がするのと同じ種類の不調和感なのかもしれない。季節はずれというのは、良くもあり悪くもあるということだろうか。
 もし私に小原町プロデュースを任せてくれるなら(そんな日は来ないけど)、断然モミジとイチョウをたくさん植樹する。四季桜の本数を増やすよりも、むしろもっと町中を真っ赤に染め上げて、桜を脇役にした方が視覚効果として、うわっ、すごいってことになるはずだから。まず赤を前面に出して、桜で二度目の驚きを与え、更に第三の色としてイチョウを配色する。この三色が目に飛び込んできたとき、人はもう圧倒的な色彩に打たれるに違いない。それをやれば必ず全国区になれる。ホントに私にやらせてくれないかな、紅葉プロデュース。こうなったら、小原町の町長選挙に打って出てみるか!?


勤労感謝の日に本当の11月23日らしさを考えてみた 2006年11月23日(木)
2006年11月24日 (金) | 編集 |
春日井工場煙突煙もくもく

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/4s(絞り優先)



 小学生のとき、風邪やハライタで学校を休んで、NHK教育テレビの「はたらくおじさん」を観るのが好きだった。
 ♪はったらくおじさん〜 はったらくおじさん〜 こ〜んに〜ち〜は〜〜♪
 どんな内容の番組だったのか、なんで好きだったのかは、今となっては思い出せない。ただ、確かに好きだったという記憶だけが残っている。体が丈夫で休まず学校に行っていた人には、あまり馴染みのある番組ではなかったかもしれない。確か、午前中の時間帯にやっていた記憶がある。学校を休むことが決まって間もなくだから、9時とか10時とかだったろうか。しかし、あれはどういう視聴者層に向けての番組だったのだろう。平日のそんな時間帯に、働くおじさんをテーマにした子供向け番組を観てる人はそうはいない。当時はまだ家庭用のビデオなんてのもなかったし、おじいちゃんおばあちゃんが観て楽しい番組でもない。お母さん向けでもなかった。だとすると、あれは学校を休んだ子供に対する遠回しのメッセージだったんだろうか。おじさんは働いてるのだから、キミもしっかり学校へ行って勉強するんだよ、という。
 当時の私の中で働くおじさんというのは、たとえば重機を運転してるおじさんとか、工場で労働してるおじさんとか、大工さんとか、そういうイメージだった。汗を流して力仕事をしてるおじさんこそが働くおじさんであって、公務員とか教師なんかは働くおじさんではなかった。だからといって、そういうおじさんに憧れを抱いていたかといえば決してそんなことはなかった。小学校の卒業文集で将来なりたい職業には、「きこり」と書いた。当時からどこか浮世離れしたところがあったチビの私であった。

 何故唐突にはたらくおじさんなんかを持ち出しかといえば、それはもちろん、今日が勤労感謝の日だからだ。しかし、間違えてはいけない、感謝するのは勤労者ではなく勤労だ。働く人に感謝する日なら勤労者感謝の日となっていなければおかしい。なので、この日はお父さんやお母さんに対して子供が感謝する日などではない。そのあたりのことを、親によく言い聞かせたい。働くことに対して自らが感謝する日なのだ。つまり、この日ばかりは労働を休むのではなく、むしろいつも以上に労働しなければいけない。勤労に感謝するのだから。一体、いつから勤労感謝の日はこんなふうに変わっていってしまったのだろう。
 11月23日を勤労感謝の日として祝日に定めたのは、1948年のことだった。戦後になってからと、かなり新しい祝日なのだ。「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」という建前で作られた。
 どうして11月23日なのかといえば、この日は元々、古来から続く日本国の重大な行事である「新嘗祭(にいなめさい)」の日で、大王(天皇)が農作物の恵みに感謝する儀式が執り行われていた日に当たるからだ。昔から新嘗の日として祝日だった。旧暦の頃は、11月の2回目の卯の日だったのだけど、太陽暦に切り替わった明治6年(1873年)は11月23日でよいものの、次の年が新暦では1月になってしまってまずいということで、11月23日に固定してしまったというわけだ。だから11月23日という日付そのものに意味はないとはいえ、ハッピーマンデーごときで簡単に動かせる日にちではない。
 戦後になって新嘗祭の日から広く一般国民を対象とした勤労感謝の日と名前を変えたことで、この日の性格も大きく変わってしまった。現在では、収穫された五穀に感謝するイベントをしてる家庭はまずないだろうと思う。神社の関係者はともかく、農家でも少ないんじゃないだろうか。戦後になって、本来の趣旨はほとんど忘れ去られてしまった。アメリカやカナダなんかのThanksgiving Dayにならって、収穫感謝の日とでもしておけばよかったのに。勤労感謝なんてするからおかしなことになってしまったのだ。

収穫された作物
OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6)

 新嘗祭(にいなめさい、または、しんじょうさい、古くはにいなえ)がいつ頃から始まったのかははっきりしない。皇極天皇元年(642年)に行われたというのが「日本書紀」に出てくる最初の記述ということになってはいるけど、さらに起源は古そうだ。
 春に五穀豊穣を祈って行われるのが「祈年祭(きねんさい)」で、秋のはじめ9月に収穫を感謝して神様に作物を捧げるのが「神嘗祭(かんなめさい)」。11月の相嘗祭(あいなめさい)を経て、新嘗祭となる。このとき初めて、その年に収穫された新穀や新酒を天照大神や天地の神に捧げて、天皇は国民の代表として新穀を食べて収穫に感謝する儀式を行う。つまり、この日まで国民はその年に穫れた新米はまだ食べてはいけなかったのだ。
 天皇が即位して最初に行う新嘗祭を大嘗祭(おおなめさい)といい、これは天皇一世一代の大規模な祭典となる。現在の今上天皇も、1990年(平成2年)に執り行っている。新嘗祭は、戦後になって皇室典範から儀式として除外されたものの、今でも完全非公開で行われているという。中でどういう儀式をしているのか、普通の人は誰も知らない。そんなことがなされているという報道さえない。
 伊勢神宮は天照大神の正宮ということで、新嘗祭も神嘗祭も大々的に儀式が行われている。こちらは一般でも見物することができる。
 勤労感謝の日というのは、実はこんな裏事情や歴史があったのだ。古代から続く日本の重大な儀式が行われていた日だとは、知らなかった人も多いんじゃないだろうか。私も今日勉強して初めて知ったのだった。こんなことも知らず、新米が穫れると真っ先に親戚から送ってもらって、たいして感謝もせずにパクパク食べていた。来年からはこの日まで新米を我慢……できないだろうけど、せめて感謝する気持ちだけは忘れないようにしようと思った。勤労に感謝するのは難しくても、毎日食べてるお米に感謝するのは難しくない。お米ひと粒には七人の神様がいるという教えが昔あったけど、あれは今思えばいい教えだった。

 11月23日は語呂がいいということでいろんな日になっている。いい夫婦の日や、いいふみの日、いい兄さんの日など。その他、手袋の日、外食の日、ゲームの日だったりもする。
 出来事としては、Jリーグ発足、角川書店設立、通信衛星による日米のテレビ中継成功、たまごっち発売、ジュークボックス設置、女性の大相撲見物が可能になる、なんてことがあった。
 樋口一葉が死に、白井義男が亡くなり、風船おじさんはゴンドラでアメリカを目指してどこかへ消え、たこ八郎は神奈川の海で溺れ死んだ。たこ八郎の座右の銘は「迷惑かけてありがとう」だった。
 感謝は強要したり義理で嫌々差し出すようなものじゃない。押しつけたり、無理矢理引き出したりするものでもない。心の奥から自然に生まれてくるものだ。感謝しなさないなんて言われて嬉しい人はいない。たとえそれが親子の間柄であったとしてもだ。本当に自分の中から感謝の思いがわき出してきたのなら、そのときは言葉と態度でそれを表現すればいい。勤労感謝の日だからといって形だけで感謝してもあまり意味がない。
 11月23日はどうやって過ごせばいいのか? それはもう、11月23日らしく過ごすに限る。奥さんやだんなさんは互いに相手に対して手紙を書き、テレビの衛星放送でJリーグと大相撲を観つつ、引き出しの奥にしまったたまごっちを出してきて遊び、樋口一葉を読んで、いい時間になったところで手袋をして外食に出かける。ライスの皿についた米粒も残さず食べなくてはならない。帰りにゲーセンに寄って軽くゲームをして、ジュークボックスで思い出の曲をかけ、海へ行って砂浜でシャドーボクシングをしつつ、たこ八郎のモノマネをして、最後は風船に乗って海の彼方に消えるのだ。はたらくおじさんのテーマソングを歌いながら。うーん、完璧だ。これぞ11月23日の過ごし方の見本と言えよう。最後がちょっとイヤな場合は、風船を海に飛ばすだけでも可とする。来年はぜひ、実践してみてください。私に成り代わって。


東山植物園の紅葉トンネルで勝者と敗者がすれ違う 2006年11月22日(水)
2006年11月23日 (木) | 編集 |
東山植物園紅葉トンネル

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/25s(絞り優先)



 神社仏閣巡りばかりしていると、ジジむさくなりそうなので、生態エネルギーを補給するために植物園に行ってきた。紅葉を見て元気いっぱい……って、紅葉って枯れ葉じゃん!? 逆に私の生命エネルギーを吸い取られたかもしれない。東山の紅葉トンネルがきれいなのは、私の精気を奪ったからということがないとも限らない。
 写真は一番きれいなところを写してるから、これを見て、うわっ、早く行かなくちゃと焦ったあなた、ちっちっちっ、早まっちゃあいけないよ。まだちと早い。完全に染まるまでは、あと一週間やそこらはかかりそうだった。明日、あさってが雨模様で週末が晴れ、来週前半はまた雨ということで、早く行くならこの週末、ゆっくり見るなら来週の雨開けといったところだろうか。気温が高い日が続くようだから、一気に進むことはないと思う。
 なんにしても、鮮やかな色彩は目が覚める思いだった。これでまたエネルギーが補充されて、神社仏閣巡りができるというものだ。結局、そっち巡りたいのか、私。いや、そうではなくて紅葉の名所の多くが寺院関係なんで、否が応でもそうなってしまうのだ。別に根っからの神社野郎とかそういうことではないので、私にジンジャーオーターなどとあだ名を付けるのはやめてください。

 東山に行ったことがない人は、動物園と植物園と公園と遊園地の関係性が今ひとつ掴めてないところがあるかもしれない。単純に言ってしまえば、全部あわさって一体となった複合施設ということになる。入場料は動物園、植物園、遊園地共通で大人は500円だ。区域は一応分かれているものの、橋でつながっていて(ただし、いったん外に出ると再入園は不可となるはずなので注意)、東山スカイタワーも動物園の中にある。
 つながっているとはいえ、どちらも広い。動物園は32ヘクタール、植物園は27ヘクタールもあり、一日で全部回ろうとすると、日頃運動不足のおとーさんはヘトヘトのくたくたになって、月曜日の朝起きあがれなくなる恐れがあるほどだ。半日くらいでどちらか一方に絞った方がいいと思う。どちらも、ざっと歩いて一周するだけなら2時間くらいなのだけど。

 昭和12年、東山の雑木林の中に作られた植物園には、木や花や温室の植物などをあわせて5,500種類以上あるそうだ。デジカメで一種類につき一枚RAWで撮影したとして、1GBのコンパクトフラッシュが550枚くらい必要になる。フィルムで全部撮影したら破産しそうだ。
 熱帯地方の花や水生植物などを集めた「温室」、睡蓮池やプランターの花で彩られる「洋風庭園」、尾張藩の俳人横井也有にちなんで作られた庭園「也有園(やゆうえん)」、岐阜県白川村から移築した「合掌造りの家」、湿地植物を集めた「湿地園」、万葉集に詠まれた植物を配した「万葉の散歩道」、東海地方特有の木などを植えた「東海の森」、300種類の薬草を植えた「薬草の道」、名古屋市内最高峰にある「お花畑」、椿園、バラ園、アメリカ産植物見本園、中国産植物園林、梅林、桜並木、竹林などがある。
 いろいろ取り揃えてあって花に興味がない人でも楽しめるようになっているので、動物園しか行ったことがない人にもオススメできる。動物園と比べて人気がない分、のんびりゆったりできるのもいい。
 野鳥も多く、人の少ない午前中などは街中では珍しいもの見られるようだ。動物園の方の池などは、飼われてるわけでもないのに飼育動物たちと一緒になって暮らしていたりする。特に冬場はカモたちが多くなって、どれがどれやらよく分からないようなことになっている。すごい珍しいのがいるなと思ったら、動物園のアメリカオシだったり。
 日本庭園はたくさんの野鳥のさえずりが聞こえるということで、日本の音風景100選にも選ばれているのだった。

東山植物園の温室

 昭和12年(1937年)の開園と同時に作られた温室が、今度国の重要文化財に指定されることが決まった。こんなものがと言っては失礼だけど、神社仏閣や歴史的建造物以外でも重要文化財になるのは知らなかった。名古屋市内では10件目になるらしい。植物園の温室としては日本初となる。
 ロンドン植物園のキューガーデンの温室を模して作られ、完成当時「東洋一の水晶宮」と称されたのだとか。昭和12年としては、このデザインはかなり新しかったのだろう。今見てもさほど古めかしさは感じない。
 重文指定の決め手は、当時の最新技術が使われていて、建築技術史上重要な建造物という点だったそうだ。鉄骨の継ぎ目にはリベットを使わずに電気溶接されてるなどが高く評価されたらしい。
 東邦ガスがポンと出した25万円の中から、6万2,500円を使って建設されたという話だ。安っ! それくらいなら私でも出せるぞ。けど、現在同じ物を作ろうとしたら10億円かかるらしい。それは金輪際出せっこない。しかし、70年でそんなに物価って上がっただろうか。昭和12年の大卒初任給を調べてみたら75円だった。なんだか単位が小さすぎて上手くイメージできない。75円で一体何ができるというのか。もらっても途方に暮れてしまう金額だ。この調子でいくと、私がじじいになる頃は、大卒の初任給が2,000万円とかになるのか!?
 幅66メートル、高さ13メートル、総面積は596平方メートルあり、現存する植物園の温室としては日本最古となる。老朽化が言われて久しい東山動植物園だけど、古いまま残しておいていいこともあった。
 内部はブロック分けされていて、水生植物室、中南米植物室、サガロ温室、ハワイアンハウス、食虫植物室、多肉植物室、シダ室、中央ヤシ室などがある。一番の見どころは巨大サボテンだろうか。

 東山動植物園は、月曜定休で、開園は9時から4時半まで。入園は大人500円、中学生以下は無料。スカイタワー単独は500円で、動植物園との共通券だと800円になる。名古屋市内の65歳以上は100円なので、年食ったら行き放題だ。なんならここに住んでもいい(それは無理)。一年間のパスポートが以前は1万2,000円という無茶な値段だったのだけど、大きく反省してこの4月から2,000円になった。どんだけ反省したんだ、値下げしすぎだろう。近所なら4回行けば元が取れるので、持っていて損はない。
 駐車場が一回(一日)800円というのは高く感じる。丸一日停めるなら安いかもしれないけど、2時間やそこらで800円というのはイヤだ。そんな人のためには、遠くに無料駐車場がある。ありがてえことでごぜえます、と何故か卑屈になる私。南側の植物園(左手)と動物園(右手)の入園ゲートを超えて、左右に有料駐車場を見つつ、赤い大きな橋を過ぎて少し行った左手がそうだ。余分に歩く時間は5分くらいなので、800円と天秤にかけたら私は迷うことなくこちらに停める。ただし、無料は平日だけで週末はここも有料になってしまうので、そのときは路上駐車することになる(週末だけ駐禁じゃなくなるので)。

 秋は野草が少なくなるだけに植物園の花が貴重となる。なのだけど、やっぱり植物園の花にはトキメキを感じない。たくさん咲いているのを見ても、わぁーっと思わないし、あまり写真を撮る気にもなれない。野に咲く花と植物園に咲く花の決定的な違いって何なんだろう? その問いの答えは分かるようで分からない。たとえば温室の花だって、現地に行けば野に咲いているやつなのに、温室で見るとありがたみがない。外国で咲いているのを見たら心が動くはずなのに。天然鮎と養殖鮎の違いのようなものなのだろうか。
 それにしても、この時期の植物園はさすがに寂しい。お花畑も、ぬっくんの頭のようにめっきり寂しいものとなっていた。物足りない要因のひとつに虫たちの姿がまったくなったということもあった。さすがにこの時期はもう、生き残りの蝶もトンボも飛んでなかった。
 植物園のベストシーズンは、5月から6月くらいにかけてだろうか。一斉に花が咲き乱れ、虫たちが元気に飛び回り、歩き回っても暑すぎない。この時期は撮るものも多くて、気分も高揚する。紅葉が終われば、私の中でも植物園はオフシーズンということになる。また来年の春だ。
 今日感じたことは、動物園は親子連れや若いカップルが似合うのに対して、植物園は老夫婦がよく似合うということだった。ふたりで一日のんびり過ごして200円。それもまた、勝者の姿だと思う。閉園1時間前に500円払って駆け回りながら写真を撮ってる私は、もちろん敗者だ。植物園のコントラストは、赤と黄色の紅葉だけでなく、勝者と敗者のコントラストでもある。


五重塔マニア予備軍に贈る興正寺の五重塔話 2006年11月21日(火)
2006年11月22日 (水) | 編集 |
興正寺の五重塔

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/50s(絞り優先)



 世の中には五重塔マニアという人たちがいる。わずかだが確かにいる。まだ会ったことはないが。
 五重塔と聞いてまず思い浮かべるのが奈良法隆寺という人も多いだろう。日本最古のもので680年頃建てられたものだと言われている。もちろん、国宝中の国宝だ。あるいは、京都最古(952年)の醍醐寺を思い出す人もいるかもしれない。華やかだった平安時代を象徴するように美しい五重塔だ。五重塔マニアなら屋根をはい登って上から落ちたくくらいだろう。もちろん、国宝なのでそんなことはできない。あらかじめ断っておくと、私は特に五重塔に思い入れがあるわけではない。見れば、わー、立派だなぁと人並みの感想を持つくらいのものだ。ただし、国宝となると突然態度が豹変する。押切もえを見ても別にどうということもないけど、エビちゃんはかわいすぎる〜、と思ってしまうようなものだ(そのたとえはどうなんだ)。
 名古屋にも正真正銘ホンモノの五重塔があるのを知っているだろうか。おそらく全国的な知名度はかなり低いと思われる。私自身、おととし初めて知ったくらいだ。名古屋人でも案外知らない人が多いんじゃないだろうか。学校の社会見学や遠足で行くようなところではないから、名古屋に生まれて名古屋に育っても存在自体知らないままで終わってしまうということも充分考えられる。
 それは、昭和区八事(やごと)の興正寺(こうしょうじ)にある。名城大学や中京大学があるあたりと言えば、名古屋の人には分かりやすいだろうか。
 日泰寺(にったいじ)にも五重塔はあるけど、あれは新しくもあり木造ではない。興正寺のは、市内はもちろん、東海地方で唯一の木造の五重塔だ。なんで名古屋人はもっとこれを自慢しないのだろう。この地方の人間は、京都や東京のものをありたがるように自分のところのものを大事にしようとしないところがある。それはある意味では日本人と外国の関係に似ている。
 今回で見るのは3回目ということでやや感動は薄れたものの、やはり明らかな非日常性な存在感に圧倒される。こんなものが名古屋市内の街中にあるというのは不思議だ。近場で修学旅行気分が味わえるシリーズ第3弾は、ホントに近い、名古屋の興正寺を紹介したい。

 尾張高野とも呼ばれ、江戸時代には修行と信仰の場となり、明治から大正にかけては行楽地として大変賑わったという。名古屋で「山行き」といえば、それは八事山興正寺へ行くことを指したくらいだった。いち早く鉄道馬車が通り、大勢の人がそれに乗ってこの地に参拝と遊山に訪れたそうだ。現在は、学生街の中に埋もれるような格好となり、往事のような行楽地としての賑わいはない。ただ、毎月5日と13日の縁日にはたくさんの露店が並び、この日ばかりは数万人の人が集まってくるという。
 1686年、高野山で修行をした天瑞和尚という僧侶が、親族の勧めでこの地に草庵をたてたのが興正寺の始まりとされている。それから2年後、評判を聞きつけた尾張藩2代目藩主の徳川光友から寺院を建立してよろしいという許可が出たことで、本格的な興正寺建立が始まった。その後、代々の尾張藩に手厚く保護され、次々に伽藍が建ち、大きく広がっていった。その関係で扉などあちこちに葵の御紋が彫られている。

五重塔シルエット

 五重塔が建てられたのは120年も後になってからの1808年だった。第七世真隆和尚が突然思いついたのか、それまでそういう話があって悲願だったのか、そのへんはよく分からない。1800年代といえば江戸時代も後期で、尾張藩にしてもそんなに裕福でなかっただろう。和尚はかなり頑張ってお金を集めたものだ。相当かかったに違いない。
 3年がかりで高さ30メートルの立派な五重塔を建てた。華麗さはないものの、江戸時代らしい素木造り(しらきづくり)の味があり、彫刻なども凝っている。
 塔の中心柱には大日如来を置き、四方に阿如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来が配置されている。

 ここは西山(普門院)と東山(遍照院)とに分かれていて、尾張高野というように、かつて東山は修行の場として女人禁制だった。今の能満堂がある裏手あたりに女人門があり、その先は男の園となっていた。それは明治まで続いた。
 その一番奥には高さ3.6メートルの大仏(名古屋三大仏の一つ)の大日堂がある。嘘か誠か、大日堂は地下通路で名古屋城とつながっているという話がある。名古屋城は家康が西日本に対する備えとして建てたものだ。興正寺は、名古屋の東南の入口にあたり、軍事的な砦としての役割を担っていたというのだ。昔から名古屋人は地下街が好きだったのかもしれない。
 実際、飯田街道との間には堀が掘られ、名古屋城から移築した東山門(黒門)は鉄砲などが撃てるような格子作りになっていたりするから、本気で戦を想定していたフシがある。江戸時代の初期というのは、私たちが思っているほど平和で落ち着いた世の中じゃなかったのだろう。少なくとも、尾張などでは。

中門と五重塔

 女人禁制廃止後、女人門は五重塔の前に移され、中門となっている。
 その他、七観音、観音堂、能満堂などがあり、もちろん、立派な本堂もあるのだけど、ここの場合、完全に主役の座を五重塔に奪われ、本堂の存在感は薄い。

 ここのお寺は、すべての宗派を受け入れる総宗派となっている。なんでもありのなんでも来い。
 別名、ぽっくり寺。7回お参りすると(?)、ぽっくりいけるらしい。私、もう3回行ってしまったから、あと3回しか行けないということなのか? まだぽっくりいきたくないぞ。
 大晦日の除夜の鐘は、先着1,080人がつくことができるそうだ。10人ついて一回とカウントするとか。それは1,080回鐘が鳴るということだろうか。だとしたら、近所の人はおちおち大晦日には寝てられない。それとも、10人が一度につくということなのか。
 ここは一応紅葉の名所ということになっている。といっても、塔の周りにモミジが集まっているというわけではないので、紅葉と塔の組み合わせはあまり期待できない。個人的なオススメとしては、空がオレンジや赤に染まったときのシルエットだ。今回は残念ながら染まりが足りなかった。

 世の中のたいていのものは新しければ新しいほどありがたいものだけど、神社仏閣に関しては古ければ古いほどありがたみが増す。そういう意味では、ここの五重塔はまだまだ新しい。江戸後期で200年はまだ熟し足りない。本当の風格が出てくるまでにはまだ300年、500年とかかるだろう。
 とはいうものの、なんてったって五重塔。奈良や京都まで行かず名古屋で見られるというところに価値がある。まだ見たことのない近所の人はぜひ一度見に行ってみてください。紅葉はもうしばらく先になりそうなので、11月の終わりから12月にかけてがオススメ。
 これをきっかけに、世の中にひとりでも五重塔マニアが誕生したら嬉しく思う。全国には思ってる以上にたくさんの五重塔があるから、全国制覇するのも楽しそうだ。古いものだけで22もある。更に1990年代に建てられてるものもあるというから、実は私の知らないところでひそかに五重塔ブームが起こっているのかもしれない。もしかして、五重塔に住んでる人さえもいる? 不便そうだなぁ、五階建ての家。上下の移動が面倒だ。でも楽しそう。5階の屋根の上で、ギターを弾きながら浅田美代子の「赤い風船」を歌いたい。


山羊のネタは在りし日のうなずきトリオとおじいさんの歌 2006年11月20日(月)
2006年11月21日 (火) | 編集 |
ヤギさんと一緒

OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f5.6, 1/200s(絞り優先)



 ヤギを見ると頭の中でメロディーが流れ出す。ヤーギさんのヒツジ〜、ヒツジ ヒツジ〜 ヤーギさんのヒツジ〜 かわいいなぁ〜。
 あれ? ヤギさんじゃなくて、メリーさんだ。ヤギさんがヒツジではどう考えてもおかしいだろう。
 もうひとつ思い出すのが、アルプスの少女ハイジ。同世代の人は、うん、うんと大きくうなずくんじゃないだろうか。キミはうなずきトリオか! と突っ込んでみる。
 ハイジにアルムおじいさん、山羊飼いのペーターにクララ。何故かヤギの名前だけユキ。どうしてそこだけ日本風だったんだろう。アルプス地方にもユキという名前はあるんだろうか。

 日本ではすっかりマイナーな家畜になってしまったヤギも、世界で見ると約7億頭が飼育されている現役メジャー家畜だ。中国、インドをはじめとしたアジアが全体の60パーセント以上を占め、アフリカの25パーセントが続く。世界的には現在でも増加傾向にあるそうだ。日本ではかつて、乳牛ほど場所も取らずエサ代もかからないということで、一般家庭でも乳搾り用としてよく飼われていた。貧乏人はヤギを飼え。うちの田舎でも飼っていたそうだ。今ではヤギを飼っている家庭は圧倒的少数となった。といか、一般家庭で飼われているヤギなど金輪際見たことがない。ヤギの散歩してる人とかも見かけない。
 野生のヤギを最初に飼い慣らしたのは、今から1万年ほど前の西アジアの山岳地帯の人たちではないかと言われている。ただ、その年代の遺跡でヤギの骨が見つかっているというだけなので、本当に家畜だったのかどうか、もっと前から飼われていたのではないかなど、詳しいところまでは分かってないようだ。品種も、ノヤギやヨーロッパノヤギ、ベゾアール、マーコールなど、どれが最初のヤギだったのかもはっきりしていない。いずれにしても、そこから東西と南へヤギの飼育が広まっていったようだ。
 日本にやって来たのはずっと後になってからで、江戸時代に朝鮮半島あたりから持ち込まれたのが最初だろうということになっている。ただ、琉球ではもっと昔に入っていたという話だ。
 ヤギは当初、乳目的で飼われるようになった。世界で最初のチーズやバターは、ヤギから撮られた乳で作られたと思われている。ヤギの乳は人間の母乳に最も近いとされ、昔は体にいいからといって無理矢理飲まされたりもしたそうだ。ちょっとクセがあって飲みづらいらしい。けど、最近、またヤギの乳が見直されてきて、スーパーなどでも並ぶようになった。アレルギーが出にくかったり、牛乳を飲むとおなかゴロゴロの人もヤギなら大丈夫だったり、ビタミンが牛乳より多かったりで、実際なかなかいいみたいだ。味も売っているものはクセがないというし、私も今度買って飲んでみよう。
 ヤギが家畜に向いていたのは、まず性格のおとなしさと従順さがあった。あとは何といっても粗食に耐える丈夫さを持ち合わせていることだ。力はないので農業には向かないし、ヒツジのように毛も取れない。その代わり、そのへんに放っておいても草や木などを食べて生きていける。遠洋航海などにも連れて行けたために、遠くのオーストラリアやニュージーランド、ハワイなどにも持ち込まれた。
 肉や皮などももちろん利用された。
 そんな貧しさにも世間にも負けないヤギは、ときとしてやっかいものになることがある。飼っていたものが放置されたりしても、そのまま野生として生きていける彼らは、世界中でちょっとした問題になっている。草だけでなく樹皮なども食い散らかしてしまうから、生態系を壊してしまうことになる。手加減なしで、繁殖力も強い。特に無人島で我が物顔で暮らしているという。日本でも、小笠原諸島や伊豆諸島の島などは大変なことになっているらしい。韓国とモメてる竹島も、ノヤギの天下なんだとか。
 草を食べるというのを利用して、果樹園の草取りとして飼っているところもあるようだ。これは上手くいけば草取りの手間がはぶけていい。

 ヤギというと、写真のような白くて角があってあごひげがあるのを思い浮かべる人が多いと思う。これはザーネン種というスイス原産のもので、日本にいるのはたいていがこいつだ。けど、ヤギの種類は216品種もある。白ヤギさんだけでなく、黒ヤギさんも、茶ヤギさんも、毛がもしゃもしゃのものも、角が立派なのもないのなどいろいろだ。高級繊維のモヘアはアンゴラ山羊から取れるものだし、カシミヤもカシミヤ山羊から取れる。その他、トッケンブルグ種、マンバー種、ジャムナバリ種、ヌビアン種などがいる。
 所属としては牛の仲間ということになる。ヒツジとは近いようで遠く、遠いようで近い。ヒツジの毛を刈ってつけヒゲをつけるとヤギそっくりになるとか。
 違いは、ヒツジが草食なのに対して、ヤギは草や木の芽を好んで食べるということと、定住タイプのヒツジに対して遊牧的なヤギといったようなことが挙げられる。ヤギの方が腹ぺこには強いのに対して、ヒツジの方が寒さに強い。
 ヤギは紙を食べると思われているけど、それは昔の話で、現代のような工業製品としての紙を食べさせたらおなかを壊してしまう。へたすると死んでしまうので、書いたけど出せなかったラブレターをヤギさんに食べさせたりしてはいけない。それがたとえ黒ヤギさんでも白ヤギさんであってもだ。和紙とかならいいらしいけど、トイレットペーパーもティッシュペーパーもダメで、パンなどはカロリーが高すぎていけない。

 ヤギといって思い出すのは中原中也の『山羊の歌』だ。例の「汚れつちまつた悲しみに」もこれに収録されている。中也はどんな思いでこのタイトルを付けたんだろう。
 ある飲み屋で中原中也と太宰治、壇一雄が酒を飲みながら、
「おめぇは全体、何の花が好きなんだい?」と中也が太宰に訊ねる。中也のしゃべりはこういうべらんめえ調なのだ。
「桃の花……。」と消え入るような小さな声で答える太宰。ちびっこ中也に対して大男の太宰は背中を丸めて、いかにも居心地が悪そうに見える。
 それを聞いて、「だから、おめえはダメなんだ!」と何故かキレて太宰につかみかかっていく中也。それを止める壇一雄。なおも暴れる中也。そして、最後は九州男児の壇一雄にボコボコにされて、「ああ、分かった、分かった、てめえがケンカが強いのは分かったよ」とふてくされる中也。
 そういえば太宰はどこにいったんだと外を見てみると、遠くの方の曲がり角で顔だけ出して店を伺っている太宰の姿がそこにあった。
 私はこのエピソードがとても好きだ。三者三様の人間性をよく表している。
 スケープゴートという言葉がある。訳すと贖罪(しょくざい)の山羊。古くからユダヤ教などでは、ヤギを生け贄として捧げる伝統があった。そこから転じて、ある人物に責任を負わせて逃れることをスケープゴートと言うようになった。でも最近ちょっと聞かなくなった、秘書がやりました、というセリフ。
 日本語のヤギの語源は野牛がなまったものだという説があるけど、実際のところはよく分かってない。山の羊と書くから、山の方にいる生き物というイメージが強かったのだろうか。

 そろそろクリスマスが近づいてきた(唐突な話の転換は最後のネタへの序章)。また私は今年も、クリスマスイブの夜は、ヤギアナと明石家サンタのテレビを観ながら過ごすことになるのだろうか。
 ……。
 それが言いたかっただけか!
 ♪口笛はなぜ〜 遠くまで聞こえるの
  あの雲はなぜ〜 わたしを待ってるの〜
  おし〜えて〜 おじいさん〜
  おし〜えて〜 おじい〜さん〜
  おしえて〜 アルムの〜も〜み〜の〜木〜よ〜♪
「おしえて」の歌とともに今日はこのへんで、さようならー。


紅葉料理失敗で自分の絵心を疑うことになったサンデー 2006年11月19日(日)
2006年11月20日 (月) | 編集 |
紅葉サンデーはイメージ不足

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/40s(絞り優先)



 今日のサンデーは最初から最後までイメージ不足が響いて納得のいくものができなかった。ちょっと悔しくて自ら補習しようと思ったけど、食べたらおなか一杯になって補習は無理だった。もうおかわりできません。
 最初和風を考えていたらいつの間にかコースをそれて曲がって、洋食と和食の中間でエンストした。洋食と和食と片足ずつ突っ込んで股が裂けそう。ひとつにはゴボウとニンジンの紅葉料理に気を取られすぎていたというのがある。
 そう、今日のメインは直前に思いついた紅葉記念サンデーだったのだ。ニンジンをモミジの型に切って、ゴボウを木に見立てたらモミジっぽくなるんじゃないかと考えた。しかし、そんなに簡単なものではなかった。ゴボウとニンジンだけで紅葉のモミジを描けるのは、尾形光琳くらいだ。裸の大将でも難しいだろう。
 そこで、急遽、カボチャでイチョウを追加してみた。なのだけど、カボチャのように厚みのあるものでイチョウをかたどるのは難しい。薄く切って煮るとすぐに形が崩れてしまうし、厚いとイチョウっぽくならない。
 結局、皿の上に並べてみたら、幼稚園生のラクガキのような料理になってしまった。がびーん。美術の成績はずっと5だったという心の支えを失いそう。いつの間に私は絵心をなくしてしまったんだろう? どこかそのへんに落ちてませんでしたか、私の名前がついた絵心。おかしい、こんなはずでは。頭の中では見事な紅葉が描かれていたのだが。
 今日の教訓として、絵描き料理を作る場合は下書きが必要不可欠だ、ということだった。完全なるイメージ不足が失敗を招いた。最初に完成図があって、それに合わせて材料を切っていかないといけない。食材の場合はなかなか加工がままならないから。絵の具や粘土とは違う。
 次こそはもっとちゃんとした絵料理を作り上げたい。最終的な目標はスーラだ(それは無理)。

 紅葉崩れ料理は別にして、あとの洋食2品は上出来だった。
 コロッケ風に見えているのは、クリームソースとツナのトマトソースがけで、このバリエーションはもはや定番となった。
 クリームソースはいつものように小麦粉、バター、牛乳でレンジで作り、それに刻んだタマネギとツナ缶、小麦粉を混ぜ、パン粉でころもをつけて揚げ焼きにする。量が少ないときは油がもったいないし処理が面倒なので、揚げ焼きで充分だ。
 トマトソースは、トマトの皮をむいて(湯むきが楽)、乱切りにして、赤ワイン、タマネギのすり下ろし、バター、鶏肉、塩、コショウ、砂糖、トマトジュース、コンソメの素で煮込む。
 これは美味しいので問題ない。問題なさすぎて詰まらないくらいだ。

 手前は白身とチーズのパン粉焼き。
 白身魚は切り身に塩、コショウを振って、オリーブオイルで少し下焼きをする。具はいろいろ考えられる中、今回はあっさりアスパラと長ネギの白いところだけにした。白身の上にスライスチーズを載せ、アスパラ、長ネギを並べ、更にスライスチーズを載せ、その上からパン粉を振りかけてまぶす。その状態で皿に載せ、オーブンで7分くらい焼く(レンジではダメ)。
 ソースはバターソース。オリーブオイルでタマネギのみじんを炒め、そこにバターのかたまりを入れて溶かし、白ワインで伸ばして、コンソメの素、塩、コショウで味付けをする。パセリのみじんなどを加えてもいい。
 これはオススメできる。とても美味しい。白身のあっさり加減にチーズとバターの風味がマッチして、更にパン粉のパリパリ感がいい。

 というわけで、今日のサンデー料理は、2勝1大敗となった。モミジさえ上手くいっていれば完勝だったのに、得失点差でマイナスになってしまった感じだ。それ以前に洋食2品との組み合わせが悪いだろう、という反省も残った。やっぱり料理の系統は揃えたいところだ。KAT-TUNの中にえなり君が入ったらおかしいものな。
 ひとつのアイディアとして、一枚絵料理というのを考えている。一枚の大皿の上に、様々な色の食材を使って一枚の絵を描く料理だ。美味しさを度外視すればそれなりのものができそうだけど、一応料理として成立させつつ絵も描くとなると難しいかもしれない。近いうちに一度挑戦してみたい。そのときこそ、私に5をくれた美術の先生たちが間違っていなかったことを証明してみせたい。そして、その先生たちのところへお礼参りに出向こう。これ、作ったんですけど、よかったら食べてください、と無理矢理料理を押しつけて走り去る私の背中を見て、先生たちは私を思い出すだろうか。


名古屋城の鬼門龍泉寺に浮き沈みの歴史あり 2006年11月18日(土)
2006年11月19日 (日) | 編集 |
龍泉寺正面

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/60s(絞り優先)



 名古屋市の東北のはずれ守山区に龍泉寺という寺がある。正式名称は、松洞山(しょうとうざん)大行院龍泉寺。ここにはいくつかの異なった年代の歴史が重なり埋もれているので、説明すると少しややこしい。現在は、甚目寺、荒子、笠寺とともに尾張四観音のひとつとされ、節分祭りの賑わいが特に有名となっている。尾張四観音というのは、名古屋城を築城した際、家康がそれぞれの方角を守る守護神として定めたもので、龍泉寺は東北の鬼門に当たる。
 時代を遙かにさかのぼると、守山や春日井のこのあたりは古墳がたくさん残っていることから、早くから人が住んでいた場所だと分かる。壬申の乱のときには、この地を支配していた尾張氏も関わったりしている。
 龍泉寺は奈良時代の780年頃、最澄が熱田神宮にお参りしたとき、龍神のお告げを受けて龍がすむ多々羅池のほとりでお経を唱えると、龍が天に昇り、そこに馬頭観音が現れたので、これを本尊としてこの地に祀ったのがはじまりとされている。また、弘法大師も熱田神宮を訪れたとき受け取った八剣のうちの三剣を龍泉寺に納めたという伝説もある。そのために、昔から熱田の奥の院とも呼ばれてきた。
 平安時代になると、このあたり一体は天台宗が栄えるようになり、龍泉寺は春日井の密蔵院の末寺ということになる。密蔵院全盛期はものすごい広さと信者を誇っていたそうだけど、今はすたれ、本寺はぐぐっと規模が縮小されマイナーとなり、末寺も龍泉寺と石山寺しか残っていない。
 戦国時代は織田家の領地となる。最初ここに砦が作られ、1566年、信長の弟の信行(信勝とも名乗る)によって龍泉寺城が築城された(はっきりとした場所は分かってない)。城跡に寺が作られるというのが多い中、寺のあるところに城が築かれるというのはちょっと珍しい。しかし、信行が信長との後継者争いに敗れて清洲城で暗殺されると、龍泉寺城はすぐに廃城となってしまう。
 まだまだ龍泉寺の紆余曲折は終わらない。1584年の小牧長久手の戦いのとき、岡崎城急襲作戦に失敗した豊臣秀吉軍は、犬山城からこの龍泉寺城跡へと移ってくる。2キロ先の小幡城にいる徳川家康との戦いに備えるためだ。けど家康が夜の内に小牧山城へと退いてしまったため、秀吉軍はここを引き払い楽田城に再び移動した。その際に秀吉軍の池田勝入隊によって火をつけられ消失の憂き目に遭う。400年後の未来の人たちのことまで考えろと言うのも無理な話だろうけど、せっかく建てた城を燃やすことないだろうに。
 燃やされたら建て直す、これもまた人の道。1598年に天台宗の秀純大和尚が堂塔を再興。がしかし、明治39年にはまたもや放火され、今度は本堂などことごとくが燃え落ち、仁王門と多宝塔、鐘楼だけがなんとか残る。それでもめげなかったのは偉かった。悪いことの後にはいいことがある。焼け跡からなんと小判がざっくざく、という嘘のようなホントの話。慶長小判100枚が出てきて、それを元手に信者の寄付を集めて本堂などが再建され、現在に至っている。
 このように龍泉寺というのは、歴史の波にもまれて浮き沈みの激しいところなのだ。この土地には良くも悪くも強いパワーがあるのかもしれない。

 仁王門には重要文化財の仁王像があり、入って左には朱色の多宝塔が建っている。仁王門は、1602年頃に再建されたもののようだ。多宝塔にかつてあった大日如来像は小牧長久手の合戦のときに燃えてしまったので、現在は釈迦如来像が置かれている。普段は非公開で、ときどき一般公開もある。
 その他、地蔵菩薩立像や円空一刀彫などを所蔵しているそうだ。
 右奥には、模擬天主と展望台、日本庭園などがある。天主は昭和39年(1964年)に建てられたもので、今は宝物館となっている。入場料は100円と安いのだけど、日曜祝日しか開いていないという狭き門。時間も9時から3時半までと、やる気があまり感じられない。そのわりには、小学生以下からも30円を取る。普段めったに人が訪れないから、人件費を考えると開けてられないというのは分かるけど、もう少しなんとかならないだろうか。おかげで私はまだ一度も入ったことがない。
 入口の手書き板にはこう書かれている。
「百万ドルの絶景」
 お寺と百万ドルっていう取り合わせがチャーミングだ。心惹かれる。しかし、午後3時半ではどう考えても夜景にはならず、昼間の風景で百万ドルに値する絶景が世界でどれくらいあるだろうかと考えると、夢は夢のままそっとしておいた方がいいのかもしれないなと思う私であった。

龍泉寺本堂

 ここの本堂は好きだ。大きな朱色の大提灯や、すべて木で作られた感じがいい。舞台裏を見ると安っぽく感じてしまうようなところも中にはある。
 ところで、お寺と神社での参拝作法の違いってみんな知ってるんだろうか。私はつい最近まであやふやなままオレ流で拝んでいた。あんまりきちんとしすぎているのも照れくさいような気がして。けど、一応正式な作法を知っておくだけ知っておいても損はないだろうということで調べてみた。いろいろ宗派や神社仏閣によって独自のものがあるから絶対というわけではないものの、基本はある。
 神社の場合は、二礼二拍手一礼だ。鈴があれば鳴らして、賽銭を入れて、2回お辞儀をして、2回拍手を打って、お願い事をして、最後に1回お辞儀をする。このとき気をつけたいのが、賽銭は投げるものではなくそっと手から放すものだということだ。神様に向かって銭を投げつけてはいけない。銭形平次じゃないんだから。あと、拝むときにてを合わせたままはよくないという話もある。柏手は、両手を合わせた状態から右手を下げてずらし、打ってからまた手の位置を戻す。
 お寺の場合は、柏手は打たない。賽銭を入れて、手を合わせてお願い事をする。そのときは、住所、氏名、年齢、職業、希望の商品名を明記の上ご覧の宛先までお送りください。発送をもって発表にかえさせていただきます、という感じになる。半分冗談で半分ホント。お願いの前に住所と名前を言うのは、そうしないとどこの誰やら向こうも分からないからという理由らしい。
 龍泉寺の場合は、神社形式のようで、柏手を打ってくださいという説明書きがあった。天台宗だからなのか、弘法大師と関係があるのか、ここの流儀なのか、そのへんはよく分からない。

龍泉寺裏からの夜景
PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4)

 展望台からの百万ドルの絶景が見られなかったので、仁王門から左に行った墓地から夜景を眺めることにした。車で坂道を降りていく途中でこの光景が広がっている。ただし、どんどん先へ行っても行き止まりになるので、途中広いところでUターンしないといけない。
 すぐ手前はたくさんの墓石なので、のんきにデートしたり夜景写真を撮ったりするにはあまり向かないけど、少し眺めるくらいならいい場所だ。遠くに名古屋駅のタワー群を中心とした街灯りを見ることができる。
 竜泉寺街道を少し北へ行ったところにスーパー銭湯「竜泉寺の湯」がある。ここの露天風呂からきれいな夜景が見られるそうだから、それもコースに組み込むといいかもしれない。ただし、混浴で彼女と一緒に夜景というわにはいかないし、女風呂ものぞくことはできない(たぶん)。

 人に歴史あり。神社仏閣お城にはもっと歴史あり。普段何も思わず走ってる道も、無数の人々の足跡が踏み固めたものだ。数百年、数千年の歳月に思いを馳せて歩いてみれば、遠くから馬が駆ける蹄の音が聞こえてくるかもしれない。あるいは、人々の叫びや笑い声なども。
 自分が住む街の神社やお寺も、調べてみると様々な歴史があったことを知る。お願い事をする場所としてだけでなく、日常的にふらっと訪れてみると何かいいことがあるかもしれない。身を祓い清めるという意味でも。
 私は尾張四観音も全部回って、恋の三社めぐり(城山八幡宮、高牟神社、晴明神社)も巡り、その他様々なところを訪れているから、それはもう穢れもすっかり落ちて清らかな人となっている。
 ……。
 誰ですか、今ヤジを飛ばしたのは?
 まだまだ巡り足りないということか。こうなったら、巡って巡って巡るしかない。ついでに飛んで飛んで飛んで回って回って回っておこう。神社の境内で昇竜拳をしてる男がいたら、それは私か猫ひろしかどちらかです。


多治見修道院はとっておきの大事な場所だけどオススメ 2006年11月17日(金)
2006年11月18日 (土) | 編集 |
多治見修道院-1

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/250s(絞り優先)



 国道19号線を東に向かって走り、「上山町2」の交差点を左に曲がると、突然目の前に中世ヨーロッパが現出して驚く。おおっ! と小さく叫び声ももれるかもしれない。多治見修道院との初めての対面は、食パンをくわえて走りながら角を曲がったらいきなり美少女とぶつかったときのような思いがけない出会いだった。
 それまで教会やキリスト教には一切無縁だった私に、教会の魅力と親しみやすさを教えてくれたのが、ここ多治見修道院だった。その存在を初めて知ったのが去年の2月。一度どんなところか遠巻きに見てみようとおそるおそる出向いてみた私は、修道院の建物に圧倒されつつ、導かれるように大聖堂にふらふらと入り込んでしまった。そして、その空気に触れたとたん、私はかつて味わったことのない厳粛さに打ちのめされ、と同時に心地よさに包み込まれてしばらく動けずに立ち尽くことになる。

 多治見にあるカトリック神言修道院は、1930年(昭和5年)に神言会の宣教師モール神父によって、修道生活と修道士育成のために建てられた。最初の30年は神言会の日本本部として機能していた伝統のあるところで、男子日本三大修道院のひとつとされている。ただし、残りふたつがどこかは定かでない? 調べても、多治見の修道院が三大修道院のひとつという情報しか出てこないのだ。北海道の聖ベネディクト女子修道会・札幌修道院と長崎のフランシスコ会・長崎修道院が日本三大修道院というのはあったけど、これが本当かどうかもよく分からない。
 神言会(しんげんかい)というのは、1875年にドイツのアーノルド・ヤンセンによって作られたカトリックの修道会で、日本には1907年に入ってきた。名古屋や秋田、長崎などで活動が行われ、名古屋の南山大学もこの系列になる。多治見修道院も南山大学のものという一面(全面的に?)もあるようだ。
 修道院の建物は、地上3階、地下1階の木造建築(石造ではないのはちょっと残念)で、建坪1,000坪、ぶどう畑は3,000坪という、かなり広い敷地を持っている。建物を正面から見ると細長いかまぼこ型のように見えるけど、実際はコの字をしている。白い壁に赤い屋根、尖塔に鐘楼、アーチ窓と、どこをとっても本物感満点だ(そりゃ本物だから)。
 裏手に回ると、南山の関係者が研修や合宿などに使うログハウスや、広い畑、修道士や神父の墓やマリア像などがあり、こちらの空間はより俗世との隔絶感がある。
 大聖堂内部は、白と青を基調とした涼やかな色合いで、窓にはステンドグラスが入り、壁には宗教画などが描かれている。基本的には撮影禁止なのだけど、人が少ないときに頼めば撮らせてくれるようだ。

 ここの空気感が、他の教会よりも更に濃密なのは、かつては修道院でもあった歴史とも無関係ではないだろう。ドイツなどからやって来た多くの修道士たちが、ここで日々祈りの生活していたそうだ。世間とは断絶した中での彼らの思いや息づかいが、今でもこの場所につなぎ止められているように感じる。
 ドイツ人宣教師たちによってもたらされたものは、キリスト教だけではなかった。何しろ酒好きの彼らだ。でも修道院でビールというわけもいかない。やはり修道院といえばワインだろう。そのワイン作りは今でも受け継がれ、修道院ワインとして地元ではちょっとした名物となっている。
 前の畑で作っているブドウから作った自家製ワインは、一般にも販売されていて、大聖堂入口を入ってすぐの売店で買うことができる。赤、白、ロゼとそれぞれ1,500円ほどのようだ。ただ、少人数の手作りのため、年間で5,000本ほどしか作れないというからなかなか貴重と言えるだろう。私は酒類は一切ダメなので買ったことも飲んだこともないのだけど、飲んだ人によると、やや渋めでこびない味らしい。今度、川島なお美に飲んでもらおう。
 ちょうど11月23日は、多治見ワインフェスタが開催される。前売りチケットが2,000円で、コンサートやパフォーマンスなどが行われ、ワインも飲み放題だとか。しかもなんと、俳優の天野鎮雄さんと女優の山田昌さんもやって来ます! って、どなたでしょう、その人たち……。手品もあるというから、まさか超天才マジシャン山田奈緒子じゃないだろうな。それなら私も見たいぞ。まるっとお見通しなのか?

多治見修道院-2

 この多治見修道院は非常に素晴らしいところなのだけど、残念なところもいくつかある。たとえばこの写真に写ってるように、エアコンの室外機がむき出しになっていたり、建物正面に関係者の車が置かれていたりして、中世の雰囲気に浸りきれなかったりする。進入禁止の黄色いやつ(あれ何て名前だろう)や赤いコーンが無造作に置かれていて、それが写真に写ってしまったり。作られた観光施設ではないだけに、そのへんの徹底さがなくて、逆にムードを壊してしまっている。うるさい監督さんなら、美術さんや大道具さんが怒鳴りつけられていることだろう。時代考証が間違っとる! とか。
 勝手な願望だとは思いつつ、そのあたりの演出をもう少し考えもらえると更に素晴らしいところになるに違いない。ちょっともったいない感じがある。

 月曜定休で、大聖堂に入れるのは、9時から4時まで。外は半開放状態なので、外観の写真を撮るだけなら夕焼けでも夜でもいい。無料駐車場もある。
 ログハウスは一般でも、1棟1泊10人で25,000円で借りられるようだ。大聖堂では結婚式もできる。
 日曜日には当然ミサも行われている。ただし、このときはさすがに一般の見学は無理だろう。
 日本でも屈指の大きなパイプオルガンがあるので、機会があれば一度は聴いてみたいと思う。

多治見修道院-3

 教会や修道院なんて一般人は近寄りがたい場所と思っている人も多いと思う。私も去年まではそう思い込んでいた。へたに入っていったら信者にされてしまうんじゃないかとさえ思っていたくらいだ。でも実際はまったくそんなことはなく、ひとりでふらりと訪れて、大聖堂の中にひょいっと入っていっても全然平気な場所なのだ。もちろん、誰かが話しかけてくるとかそんなこともない。神社やお寺と同じようなものと思って間違いない。
 大聖堂や礼拝堂の空気感というのは、日常の生活空間とはまったく異質のもので、その場にいかなければ決して味わうことができないものだ。そしてそれは、驚くほど心地がいい。10分も坐っていると、心が落ち着いてふっと気持ちが軽くなる。出てきた後は、自分が浄化されていることがはっきり分かるほどだ。番組で訪れた坂東英二でさえ無口になっていた。
 この多治見修道院は、私がこれまで散策した中で一番のお気に入りの場所であり、オススメの場所だ。ぜひ機会があったら訪れてみてください。デートにもいいし、親子で行くのも悪くない。もちろん、ひとりでも。
 もし、私が多治見修道院へ行こうと誘ったとしたら、それは私があなたを好きということだ。誘われないように気をつけてください。


鳥の人のお仲間を増やしてカモ対決する夢を見る 2006年11月16日(木)
2006年11月17日 (金) | 編集 |
カモのいる川風景

OLYMPUS E-1+SMC Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/200s(絞り優先)



 渡り鳥になんで渡るのかと訊いても答えは返ってこないだろう。渡りに意味なんて必要なのかと逆に問い返されるかもしれない。渡り鳥が何故渡るのか? それは生きるために他ならない。命を繋ぐために、年に二度、自らの命をかけて彼らは渡る。別に旅が趣味というわけではない。
 11月も半ばになって、ようやく近所の川にカモたちが戻ってきた。今年の秋は暖かくて到来が遅れていたけど、どうやら順調に戻り始めたらしい。年が明ければすっかり風景の一部となって興味もなくなるカモたちも、この季節だけはありがたくもあり、愛おしくもある。よく帰ってきたね、おかえりなさいと優しい気持ちになる。3月くらいに見かけると、まだいたのか、早く帰りなよとさえ思うのに。
 まずはコガモとオナガガモたちが戻ってきていた。これからはどんどん数も種類も増えていくことだろう。紅葉の季節が終われば、カモや冬鳥たちが被写体の主役となる。日本の季節というのは本当に上手くできている。
 この冬の私の目標は、ひとりでも多く野鳥野郎と野鳥ガールを増やすことだ。ひとりぼっちの野鳥初心者として去年一年を過ごし、今年はお仲間を増やしたい。お仲間じゃなくても、少しでも野鳥に興味を持ってもらえたら嬉しく思う。野鳥の世界は、踏み込んでみるととても魅力的な世界だから。ただし、探鳥会とかに私を誘わないでください。私が目指しているのはそういうことではないので。

 今日はまったく野鳥のやの字も知らない人のために、野鳥の種類と渡りとはなんぞや、というところから書いてみたい。野鳥のやは野球の野という字を書きます(そこからかい!)。要するに自然に生きている鳥は基本的に野鳥となり、ハトもカラスもスズメも野鳥で、これらを捕まえることは法律で禁じられている。ハトの子供が落ちているのを見かけても、見て見ぬフリをしなくてはならない。とはいえ、それを見捨てるようでは人としてどうなんだと思う。私も子供の頃拾って育てて巣立ちさせたことがある。あれが法律違反だと言われてしまうと困る。なので、そのあたりは曖昧にしておきたい。
 鳥は春に生まれて秋に死ぬ昆虫みたいに思ってる人はいないだろうか。もちろんそんなことはない。大きく分けると、夏鳥、冬鳥、旅鳥、留鳥、漂鳥、迷鳥などとなる。
 カモなどは冬鳥で、春になるとシベリアなどの大陸に渡っていってあちらで子供を産んで育てて、寒い冬になると暖かい冬の日本へと渡ってくる。夏鳥は逆で、春に日本にやって来て子育てをして、寒くなる秋にはもっと暖かい南へと渡っていく。旅鳥は、渡りの途中で日本に立ち寄るやつらで、漂鳥は日本国内を渡る鳥をいう。迷鳥は本来来るはずのない日本に迷い込んでくるやつで、留鳥は一年中日本にいる鳥たちのことだ。
 季節によって見かける鳥の顔ぶれが違うのはこんなことが起こってるからなのだ。私もおととしまではまったく知らない世界だった。
 普通の人にもお馴染みのツバメなども、あんな小さな体で何千キロもの距離を飛んで渡りをする。冬になるとのんきな顔をして池や川で浮いてるカモたちも、実はみんな偉大なる旅人たちなのだ。パンの耳を投げてお世話をしてるような優越感に浸っている場合ではない。
 カモの多くは冬鳥で、留鳥のカルガモをのぞいて大部分はシベリアやカムチャツカ半島などから飛んでくる。長く厳しい旅だ。途中で脱落するものも出る。だから、冬の間しっかり食べて、体に脂肪をたくわえなくてはならない。見ていると常に何か水中をさぐってる彼らは、必ずしもいつも腹ぺこというわけではなく、必要に迫られて食べているという面もある。すごく食い意地が張っているとかそういうことでもない。
 カモとひとくちに言ってもその種類は多い。40種類ほどが日本で確認されていて、その中で毎年のようにやって来るのは20種類ほどだ。しかしこの区別が難しい。カモに限らず鳥の見分けが初心者にとって苦痛でもあり楽しみでもある。見分けられないともどかしく、分かるようになってくると楽しくなる。難しいのは、オスとメスで模様が違うのと、季節によって羽の色が変わったりするからということもある。ただ、ついうっかり日常会話の中でエクリプスなどという単語がポロリと出てしまうと鳥の人と分かってしまうので、そのへんは注意が必要だ。まだまだ世間の鳥の人に対する目は温かいとは言えないところがある。首から双眼鏡をさげて森を歩いてると小学生の群れが駆け寄ってきて、わー、お兄ちゃん、カッコいい双眼鏡持ってるね、ぼくにも鳥をのぞかせてよ、なんていう光景が展開されることはまずない。
 最初の第一歩としては、マガモ、コガモ、オナガガモあたりを覚えて、次のステップとして、ホシハジロ、キンクロハジロ、ハシビロガモあたりに進んでいけばいいと思う。トモエガモとヨシガモを遠くから肉眼で区別できるようになってしまったら、それはむしろ進みすぎかもしれない。私もついていけない。

 渡り鳥たちは、どうやって渡っていく場所を知るのだろう、ということは昔からいろんなことが言われてきた。太陽の位置で方角を知るのだとか、夜は北極星を見て決めるとか、風向きや地形、地磁気を感じるなどいろいろな説がある中、今のところ決定打はない。まだ誰も渡りのメカニズムを完全には解明できていない。
 多くの渡り鳥が去年過ごした同じ池や川に戻るというデータもある。漠然と日本列島を目指してきていたらそんなことにはならない。やはり彼らの中には何らかの確信があって飛んできているのだろう。違うところに着いてしまうのは、偶然なのか意識的なのか、そのへんもよく分からない。鳥にもいろいろな性格のやつがいるだろうから、A型カモとO型カモとでは行動が違ってくるということもあるのだろうか。
 本能と言ってしまえばそれまでだけど、これは本当に不思議だ。思考によるものなのか、記憶によるものなのか、もっと深いところで何かが見えているのだろうか。少し関係ない話として、近年伝書鳩が巣に帰る確率が極端に落ちているという話を「トリビア」でやっていた。あれは携帯電話などの電磁波の影響が大きいのではないかということだった。だとしたら、渡り鳥たちもそんな影響を受けている可能性はある。やはり目から入ってくる情報ではなく、体でダイレクトに感じる波動のようなものを鳥たちは受信してるのではないだろうかと私は思う。それは親から子へと、遺伝子を通じて伝えられているのかもしれない。

夕暮れの中の姉妹

 ピンクの夕焼けの中を駆ける姉妹。私の隠し子、ではない。ちょっといい風景だったので撮らせてもらった。大きくなっても、こまどり姉妹のように仲良くするんだよ。決して叶姉妹やヒルトン姉妹のようになっちゃいけないよ。名古屋だから、浅田舞・真央姉妹を目指すのもいいかもしれない。更に目標は高く、きんさんぎんさんだ。
 私はといえば、ギターならぬカメラを持った渡り鳥となり、いつの日か、マイトガイと呼ばれたい。そして、あなたはエースのジョーだ。カメラを持って川原で決闘しよう。カモ対決。どちらが連写でカモをたくさんブレずに撮れるか。ヒロイン由紀役の浅丘ルリ子も募集してます。
 けど、そんな三人組ってどうなんだ? という素朴な疑問がわき起こる。大きなカメラを持ってはしゃぎながら川のカモを撮ってる男ふたりと女ひとり。対決はなるべくひと目のないところで行った方がよさそうだ。


近場で修学旅行気分が味わえる第2弾は永保寺 2006年11月15日(水)
2006年11月16日 (木) | 編集 |
虎渓山永保寺1

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/20s(絞り優先)



 一宮の妙興寺に続いて、近場で修学旅行気分を味わおうシリーズ第2弾。今日は岐阜県多治見市の永保寺(えいほうじ)を紹介したいと思う。
 去年初めて訪れたときは、先に行った多治見修道院の圧倒的な厳粛さに打ちのめされた後だったので、やや印象が薄いものになってしまったのだけど、今回はこちらを目当てに訪ねてみた。そしてやっぱり国宝が持つ強烈なオーラに無口になってしまう私なのだった。いや、ひとりなのでもともと無口には違いないのだけど。道を歩きながら独り言をつぶやく人にだけはなりたくないと日頃から思っているので。
 権威や肩書きには無頓着で、誰に対してもへぇこらすることはない私も、国宝と聞いたとたんに平民に成り下がる。だって国の宝ですぜ、ダンナ、と何故か岡っ引きのような口調になってしまう。顔の前で手をこすり合わせて、ありがてぇことです、これで冥土のみやげができました、と拝み出しそうな勢いを自分自身に感じる。もちろん、人前でそんなことはしないけど。国宝に極端に弱いこの体質は、前世で何かあったのだろうか。重要文化財に対しては何ともならないのに。
 そんな国宝コンプレックスの私がお送りする永保寺紹介は、やや賛美過剰になるかもしれない。

 臨済宗南禅寺派虎渓山永保寺。鎌倉時代の末期(1313年)、土岐氏の招きを受けた夢窓国師(夢窓疎石)と弟子たちがこの地を訪れ、観音堂を建てたことが永保寺の始まりとされている。夢窓疎石は伊勢生まれの禅僧であり庭園作りの名人としても有名な人物だ。京都の天龍寺や鎌倉の瑞泉寺など、日本全国にたくさんの庭園を残している。
 この地をたいそう気に入った夢窓疎石は、3年ほど滞在して観音堂や1万3,000坪の庭園を作り上げた。夢窓40歳のときだ。池泉舟遊式禅境の庭園は、臥竜池(がりょうち)や断崖(梵音巌)など自然の地形を生かしつつ、観音堂や六角堂、切妻屋根の橋殿がある無際橋などが巧みに配置されている。この景観は、鎌倉時代からほとんど変わってないのではないだろうか。
 虎渓山という山号は、中国江西省九江廬山の虎渓に似ているところから夢窓国師が名づけたとされる。永保寺は長瀬山のふもとにあり、すぐ横には土岐川が流れていて、なるほどちょっと中国っぽい。ただ、このあたりは1億年ほど前まで海だったようで、そのときの岩も庭園の中に残っていたりする。

紅葉の間から観音堂

 今回、急に永保寺に行こうと思い立ったのは、ネットでこの構図の写真を見たからだった。うわー、私もここから撮りてぇ、と思ったら居ても立ってもいられなくなった。完全に構図、パクリました。おまえはマッキーか、と自分で突っ込んでおこう。松本零士も怒っているぞ。ねえ、メーテル。
 しかしこれは、いいところを見つけたなぁ、ネットの見知らぬ人。どうもありがとう。そして、これから永保寺を訪れる人は、ぜひこの場所から写真を撮って欲しい。みんなの構図にすればパクリ疑惑も払拭できるはず。
 紅葉に関してはまだ早い。あと一週間くらい成熟させるとちょうどいいんじゃないかと思う。ここには名物となっている樹齢680年の大イチョウもあって、それの色づき具合もまだ不完全だったから、もしかしたらあと2週間くらい待った方がいいかもしれない。紅葉のピーク時はそれなりの人出になりそうだけど。

 国宝の観音堂は、鎌倉末期の禅宗様式と中国の建築が融合したような少し変わった姿をしている。四方に跳ね上がった屋根が特徴で、このあたりは平安時代の様式に近い。重厚さと華麗さを併せ持っていて、これが実に美しいフォルムをしているのだ。建物が放っているオーラも、こいつ、ただものじゃないなと思わせる。桧皮葺も渋くしていい。
 年に一度くらいは一般開放もあるのだろうけど、普段は入ることも近づくこともできない。それがちょっと残念なところだ。
 ここから左に行ったところに、もうひとつの国宝、開山堂がある。これは見た目が地味でそれほどすごいと感じないのだけど、足利尊氏が建立したもので、のちの神社建築の原型となった権現造りとなっている。こちらは遠くに柵があってまったく近づけない。昔は普通に開放されていたらしいけど、近年は年に一度しか公開してないようだ。
 祠堂の中には夢窓国師と仏徳禅師の塑像や宝筺印塔などが安置されてるそうだ。
 本堂はどこかといえば、実はあろう事か2003年に火事で全焼してしまったのだった。これは地元では大きなニュースとなり、地元民は大いに嘆いた。3年経った今も、まだ再建工事中で、本来の永保寺の静けさは戻ってない。国宝が燃えなかったのは幸いだった。

夕景に沈む永保寺

 山に囲まれた永保寺の日暮れは早い。平地よりも30分くらい早く暗くなってしまう。位置の関係で、夕陽が差さないのが残念だ。夕焼けに染まる永保寺の庭園を見ることができたらさそがしきれいだったろうに。
 夕方は5時に閉まるので注意。その分朝は5時から開いている。禅寺の朝は超早い。
 駐車場の場所を私はよく分かってない。県外からバスでやって来る観光客がいるくらいだから、それなりに広い場所があるのだろう。私は多治見修道院から山道を登っていった、虎渓公園の駐車場にとめてそこから歩いている。しかしこの道、けっこうな坂道で日頃運動不足の人や年輩の人にはちょっときついかもしれない。行きは急な下り坂で、帰りは厳しい登り。距離的には下りでゆっくり歩いて5分くらい、登りで10分くらいだろうか。普段歩き慣れている私は、跳ねるように3分で下り、駆けるように5分で登ったけど。
 なにはともあれ、永保寺は一見の価値ありだ。特に愛知、岐阜県民にオススメしたい。地元にこんな立派なものがあることを知ればきっと嬉しくなるだろう。京都や奈良に行かなくても近くにこんなところもある。
 コースとしては、虎渓山永保寺、多治見修道院、春日井の内々神社(うつつじんじゃ)がこのあたりの名所3点セットとなる。残り2つにつていは、あらためて紹介したい。
 というわけで、近場で修学旅行気分を味わおうシリーズ第3弾でまたお会いしましょう。さよなら三角また来て四角。