現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
泉岳寺訪問と赤穂事件に関する個人的総まとめ 2006年12月14日(木)
2006年12月15日 (金) | 編集 |
泉岳寺中門

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.0, 1/50s(絞り優先)



 今日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日だ。それは旧暦で新暦に直したら1月30日ではないかという意見はもっともだし、日付で言えば15日未明なのだけど、一応12月14日は討ち入りの日だということになっているからそういうことにしておこう。泉岳寺での赤穂義士祭も、毎年12月14日に行われている。
 ときは元禄15年、1703年だから江戸時代が始まって100年後のことだ。ある意味では江戸時代の一番いいときだったと言えるかもしれない。そろそろ世の中も落ち着いてきて、戦の気配もなくなり、幕府は金があって、庶民もようやく平和な暮らしに慣れてきた頃だったろう。関ヶ原の合戦を知ってる人間ももはや生存しておらず、戦後は遠くなりにけりといったところだ。庶民は大きな戦も事件もなく退屈していたときだったと言えるかもしれない。そこで降ってわいたように起きた討ち入りという大事件は、江戸だけでなく日本中上から下まで大変な話題になったことは間違いない。もし別の騒がしい時代に同じことが起こっていたら、いや、歴史にもしはないか。すべては必然だったのだろう。

 泉岳寺駅を降りてふらふらと歩いていくと、前方にそれらしい門が見えてくる。ゴミの収集所となっている泉岳寺中門だ。こんなところに置かなくてもと思うけど、現代に神社仏閣が生き残っていればこういうこともある。
 この中門は、1836年に再建されたもので、昭和7年に大修理がほどこされている。なかなか風合いが出てきていて、いい感じだ。
 この門をくぐった右側にみやげ物屋が並んでいて、ちょっと笑ってしまった。やっぱりここは観光地なんだ。中学の修学旅行で変えなかった木刀を大人買いしようと思ったけど、そんなもの持って東京の電車に乗っていたら捕まりそうだったので思いとどまった。

泉岳寺山門

 次に現れるのが泉岳寺名物の山門だ。1832年に再建されたもので、江戸時代にすでにその立派さが評判だったという。戦災を逃れて昔の姿をとどめている。
 中に入っていくと、大石内蔵助の銅像が建っていたり、討ち入り300年を記念して(?)あらたに建てられた「赤穂義士記念館」などがある。赤穂義士のお墓は、左奥に入っていったところだ。

泉岳寺本堂

 本堂のあたりの境内はちょっと洗練されすぎている感もありつつ、空気感はちょっとしたものがある。厳かとまではいかないまでも静かで濃密な空気に包まれていて、大きな声でしゃべるのがはばかられる感じだから、出川哲朗と一緒に訪れるのは避けたいところだ。
 まずは本堂で縁結びのお願いなどをする(ここはそういうところか?)。それから、いよいよ赤穂浪士のお墓へ向かう。

 泉岳寺は曹洞宗の寺院で、1612年に門庵宗関和尚(今川義元の孫)を招いて徳川家康が建てたものだ。当初はホテルオークラがあるあたりの外桜田にあったものが1641年の寛永の大火で焼け落ちてしまったために、三代家光が高輪に移転して浅野、毛利、朽木、丹羽、水谷の五大名に命じて再建させたという経緯がある。その関係で浅野内匠頭の墓はここに建てられた。
 現在は、大石内蔵助をはじめとした四十七士の墓が並んで建っている。訪れたときは14日が近いということもあってか、途切れなく人がお参りにきていて、絶えることのない線香の香りがあたりを包んでた。そのときの写真はない。なんとなく撮らない方がいいような気がして。その分、しっかりと目に焼き付けておいた。赤穂浪士にすごく思い入れがあるとかそういうことではないのだけど。
 思い入れがないのは当時の住職もだったようで、討ち入りのあと、住職は赤穂浪士たちの持ち物を、こりゃいいもんが手に入ったと売りさばいてしまったのだという。話題のお宝グッズということで高く売れたんだろうか。しかし、すぐにそれが発覚して問題になり、あわてて買い戻しに走ったという微笑ましいエピソードも残っている。

 赤穂浪士や討ち入りまでの経緯については、多くの人が忠臣蔵をテレビや映画で観たり小説で読んだりして知っていることだろう。近年、様々な異説や新説も登場したりして、いろんな意味で語り尽くされている。ただ、私自身、今回あらめて勉強してみたら知らなかったことがたくさんあったので、そのあたりのことについて少しだけ書いてみたいと思う。少しだけで済めばいいのだけど。
 まずざっと復習すると、ことの顛末はこうだ。
 1701年(元禄14)3月14日、江戸城で天皇の勅使を迎えるという幕府にとって大変重要な儀式があった。この日、御馳走人だった浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのりが、突然松の廊下でその指導役だった吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に背中から斬りかかった。「この間の遺恨おぼえたか」と叫びながら、肩から背中にかけて浅い一太刀、振り向いた吉良に対して正面から額にこれも浅く。続いてもう一太刀というところで、近くにいた大奥留守居番役(おおおくるすいばんやく)の梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)たちに取り押さえられてしまう。午前11時頃のことだ。ときに浅野内匠頭35歳、吉良上野介61歳。
 そのまま目付部屋に連行されて尋問開始。しかし、「遺恨が」と言うだけでそれ以上語らず、ラチの開かない内匠頭。「乱心か?」と問われて、「乱心ではない」と答えている。実はこの受け答えもまずかった。もし乱心だったと答えていたら、もしかしたら内匠頭ひとり切腹で浅野家まで取りつぶしにならなくて済んだ可能性がわずかにあったかもしれないからだ。ないとは思うけど、それにしても精神錯乱での犯行としらふの犯行では罪の重さが違うのは昔も今も変わらないと思うけどどうだろう。
 そんな半落ち状態のまま浅野内匠頭は即日切腹を言い渡される。城内で刀を抜いただけで大変な罪なのに、よりによってこんな大事な日に流血騒動を起こしたのでは徳川綱吉が怒り狂ったのも無理はない。赤穂浅野家はお家断絶の上、領地没収。藩士の俸禄も剥奪され、弟の浅野大学長広は閉門となった。
 刃傷沙汰のとき、内匠頭は冷静だったかそうじゃなかったか、というのはさんざん議論もされてきたし、いろんな人がいろんなことを言っている。元々短気な性格だったのは間違いなさそうで、精神病(失調症)とまではいかないまでも、その瞬間は完全にキレてたのだろう。ただ、イってしまっていたとしたら、その後の尋問の様子が不自然だし、完全に冷静だったとしても逆に腑に落ちないなところが多い。吉良を討てなかったのはどうしてだったのかとか、冷静というには怒りにまかせた感じだし、興奮していたにしてはあっさり取り押さえられてそれ以上暴れた様子もない。
 風さそふ 花よりもなほ われはまた 春のなごりを いかにとかせん
 この有名な辞世の句は、後世の作り物ではないかという説がある。それは私も充分あり得る話だと思う。突然斬りかかって失敗して、そのすぐあとに出てくるような句じゃない気がする。吉良を討ち果たせなかった悔しさの表れといえばそうなのかもしれないけど。
 実はこの殿様、実際の評判はすこぶる悪い。若い頃から政治は家老に任せっきりで無類の女好きで放蕩三昧。赤穂でとれた塩の権利は自分で独占して、領民には重い税を課す。内匠頭切腹の知らせを聞いた地元の人たちは赤飯を炊いて喜んだという。
 一方の吉良上野介はどうかというと、こっちはこっちでまた問題が多い。故郷の愛知県吉良ではいい殿様で通ってはいるけど、旗本なので江戸生まれで故郷になどほとんど帰ったことがないから、いいも悪いもない。吉良もまたひどい女好きで、贅沢三昧の暮らしをして、借金は全部養子に出した米沢藩主の上杉綱憲(うえすぎつなのり)に肩代わりさせて、綱憲もほとほと困り果てていた。
 高家肝煎(こうけきもいろ)という名門の重要ポストについていたから能力としてはあったにしても、威張りん坊で、実際に内匠頭だけじゃなく目下のものをいじめていたという話も残っている。タチの悪い部長みたいなタイプだ。
 そんな傲慢な者同士が違う立場でぶつかったことで、起こるべくしてあの事件が起こってしまった。どっちもどっちと言えばそうだった。吉良にしてみればいじめっ子の理屈でなんで自分がうらまれるんだと思っただろうし、上野介としては恨みに思う充分な理由があったのだろう。
 ただし、事件はセンセーショナルなものとして世間に伝わったものの、処分に関しては特に異論は出なかったようだ。吉良は被害者としておとがめなしで、内匠頭は当然切腹でお家取りつぶしだろうとみんな納得したのだと思う。浅野家が主張した喧嘩両成敗に当たると思った人は少なかったのではないだろうか。

 ここから先の討ち入りまでの流れは忠臣蔵で詳しく描かれているので省略したい。大石内蔵助たちは何をどうしたかったのかということを少しだけ。
 急進派の堀部安兵衛たちとの対立や、130人くらいの同士が次々に脱落したり、京都で内蔵助が遊びほうけていたり、そんな紆余曲折を経ながら、最初から最後まで変わらなかった思いというのは、主君の仇討ちではなかったのだと思う。少なくとも大石内蔵助の中では違っていたはずだ。
 内蔵助は当初、弟浅野大学によるお家復興を目指していた。それさえ叶えば討ち入りなんてことは決してしなかったはずだ。もはや問題は主君の仇を取ることでも、吉良上野介を打ち倒すことでもなく、浅野家の再興だけが悲願だった。しかし、その思いがどうにも果たされないと分かったとき、内蔵助にできることは、主君浅野内匠頭に成り代わって吉良を討つことと(その理由が何であれ)、幕府に対して喧嘩両成敗を示すことしかなかったに違いない。あるいは、それを完結すれば、おとがめなしとまではいかなくても、自分たちの罪も軽く済むのではないかという思いもどこかにあったのかもしれない。討ち入る前は全員切腹になるとは考えてなかったんじゃないだろうか。
 元禄15年12月15日未明。松の廊下事件から1年9ヶ月が経っていた。
 寺坂吉右衛門をのぞく大石内蔵助以下46人は(寺坂は報告係として残されたとも、逃亡したとも言われる)、当時は新興住宅地でひとけも少なかった本所の吉良邸に討ち入り、約2時間の戦闘ののち、吉良上野介の首を討ち取った。赤穂浪士たちはそのまま泉岳寺まで歩き、主君浅野内匠頭の墓前に首を高く掲げて報告した。
 このあと吉良の首がどうなったかというと、箱に納められて泉岳寺に預けられ、それを僧が吉良邸に届けて胴体とくっつけて吉良家菩提寺の万昌院に葬ったそうだ。これは一般にはあまり知られてない赤穂事件のヒトコマだろう。
 浪士たちはその後、自首するために大目付の仙石伯耆守の屋敷に出頭して、そのまま各地に一時身柄預かりとなる。浪士たちの処分を巡っては幕府でもさんざん議論され、結論が出るまでには時間がかかっている。最終的には切腹させることで英雄にしてやろうということになり、翌元禄16年の2月4日、浪士たちは預けられたそれぞれの屋敷で全員切腹した。墓も主君と同じ泉岳寺に作ることを許されたあたりに、世論に対する幕府の気遣いが感じられる。
 あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
 大石内蔵助の辞世の句だ。
 内蔵助45歳。浪士たちの平均年齢は40歳。彼らの人生を不幸とするか幸福とするかは、私たちが決めることではない。ただ、最初は130人いた同士が最終的には47人(46人)なったことを思うと、信じるものが何であったにせよ、最後まで信念に殉じることができたのは間違いでなかったように思う。

 赤穂事件とは一体何であったのか?
 いくつもの偶然と必然が絡み合い積み重なって生まれた、奇跡としか呼べないようなドラマだった。あそこに「神の部分」がないとは絶対に言えない。傑作と呼ばれる作品が生み出されるとき、そこには作者の思惑を超えた大いなる力が働く。赤穂事件は紛れもなくそういうたぐいのものだった。大石内蔵助だけでなく、浅野内匠頭も吉良上野介も、自分の意志以外のところで動かされ、ドラマを演じさせられたようなところがある。
 これは忠義の美徳とか勧善懲悪とかそんな単純な話ではなく、日本という国の精神性の中でしか生まれ得なかった、裏表のある教訓話だ。私たちはここから何を学ぶべきなのか? 私はそれぞれの立場によってひとつの出来事にはいろんな側面があることを知るための手本のようなものだと思っている。四十七士それぞれにドラマがあり、吉良の側から見る違った側面があり、大石内蔵助はヒーローなんかじゃなくダメオヤジだったりする。誰も彼もみんな、愛すべき登場人物たちだ。
 私にとっての赤穂事件は、ちょっと切なくて愛おしい思い出話みたいな感じがしている。あんな時代があって、あんな人たちがいて、あんなことがあったよね、と。もしかしたら、天国江戸城の松の廊下では、内匠頭と吉良が仲良く刃傷沙汰ごっこをやって笑いあってるかもしれない。殿中でござる、殿中でござるぞ、などとふざけながら。女と酒を飲みながらそんな光景を見ているご機嫌な大石内蔵助がいたらいいなと思う。




プロフィール

オオタ(マサユキ)

Author:オオタ(マサユキ)
ブログランキング・バナー(FC2)
ブログランキングに参加してます
Dry&Wet(ホーム)



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する