 PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f3.8, 1/8s(絞り優先)
重い扉を静かに開いて、おそるおそる中をのぞき込む。大聖堂の内部は静まりかえり、木の椅子に腰を下ろしている人の姿が数人確認できた。どうやら入っても大丈夫そうだ。ちょっとおじゃまします。 クリスマスイブの日曜午後、ミサを終えた礼拝堂は夜のクリスマスキャンドルまでの間、しばしの休息に入っていたらしい。私たちも椅子に座ってしばらくの間、そこで過ごすことにした。クリスチャンでも仏教徒でもないけれど。もちろん、ヒンズー教でもゾロアスター教でもない。 見上げるとアーチ型を描く天井が高い。正面上部にはイエス・キリスト十字架のステンドグラスがはめられ、光を通して鮮やかな色彩を放っている。振り向くと二階には大きなパイプオルガンがあるのが見える。以前訪れたとき、その音色を聞いた。それは遠い記憶を呼び覚ますような懐かしい音だった。 大聖堂の中の空気感をどう表現すればいいだろう。神聖という言葉は逆に安っぽく、厳かというほど重たく暗いものではない。ひんやりしているけど暖かくて、硬質だけど堅苦しくはない。濃密な空気に全身が包まれて守られているような安心感を覚える。とても居心地がいい。一度坐ったらもう動き出せないような気さえしてくる。たった壁一枚でこれだけの空気を閉じこめることができるのはどういうことだろう。外界とは明らかに異質の空気が支配する、まさにここは異空間なのだ。 ひとつには人間の善良な部分だけで成立しているということがあるだろう。悪い人間はほとんど入ってこない場所だし、少しくらいの悪い想念もここでは簡単に浄化されてしまう。あるいは、祈りの念が空気に重みを与えているのだろうか。ここは芸人殺しだ。この空間ではダウンタウンでもスベってしまうに違いない。 大聖堂というのは、他のどの場所の空気感にも似ていない特別なところだ。特にここ布池教会はそれが色濃い。ここを訪れて心地いいと感じれば、それは善良な側に属している証拠と言っていい。人が人を選ぶように、場所もまた人を選ぶ。
 5階建ての鐘楼は地上50メートル。遠くからでも2本のとんがりがよく目立つ。東区の自慢のひとつだ。名古屋市の都市景観重要建築物にもなっている。 ゴシック様式の建物は鉄骨鉄筋コンクリート造りで、1962年(昭和37年)に建てられた。聖ペトロ・聖パウロ司教座教会とも呼ばれるカトリックの教会だ。 司教座聖堂はカテドラル(Cathedral=大聖堂)とも呼ばれ、カトリック教会の中心を意味している。この布池教会は愛知、岐阜、石川、富山、福井県の名古屋教区の中心となっている。司教座のことをカテドラともいうので、なんとなくややこしい。 日本のカトリック教会は16の教区があって、東京、大阪、長崎の三つの教会管区に分けられる。一般人は覚える必要のない知識だけど、自分の住んでる街のカテドラルくらいは知っておいてもいいかもしれない。 場所は、東区の桜通と錦通に挟まれたやや奥まったところにある。近い駅は、地下鉄東山線の新栄町駅か、地下鉄桜通線の車道駅で、それぞれ歩いて5分くらいだろう。高い尖塔が見えるはずなので迷うことはない。車の場合は、少しとめられる無料駐車場か、近くのパーキング利用になる。
 教会前の人々。若いカップル、写真を撮る人、塔を見上げる人、結婚式の説明を受ける二人。ここは名古屋で一番大規模なカトリック教会結婚式を挙げることができるところでもある。最大参列者数は700人とかだったか。それだけいっぱいにするには芸能人か財界人でもないと難しいかもしれない。 ちらっと調べたら、平日20名で54万円とか。高いのか安いのか、まったく見当がつかない。これがどこまでのコースなのかもよく分からない。もしかしたら、披露宴まで含めての金額なのだろうか。結婚式の終わりには白い鳩が飛ぶらしいから、鳩代ってことも考えられる。その鳩たちはちゃんと家に戻ってくるんだろうかなんてことが気になったりならなかったり。 値段はともかく、本物の教会で結婚式を挙げたいカップルには断然おすすめできる。結婚式場の教会とは全然違うはずだ。もう少し規模が小さくてもいいなら南山教会もあるけど、名古屋で一番といえばやはりここだ。神前で名古屋一となると熱田神宮会館ということになるのだろう。 日本の場合はカトリック教徒でなくても教会で結婚式はできる。ただ、結婚準備講座というものに参加しなくてはならないようだ。
大聖堂の中で30分ほど過ごしていたら、少し人が増えてきてザワザワしだした。夕方からのクリスマスキャンドルの準備も始まったので、出ることにする。非日常的空間から日常へ。扉を開けた向こうには、いつものざわついた街の音がして、私たちは一瞬にして夢から覚めた。けど、やはり私たちが生きるのはこちら側だ。あちら側ではない。教会へはときどき行くくらいがちょうどいい。ひと月に一度かそれくらいで。あちらが日常空間になってしまったら、ありがたみがなくなってしまう。 今年最後の絶好の懺悔機会だったけど、私は何も思うところはなかった。反省からは何も生まれないと思ってるから。自分がしてしまったことを悪びれてもしょうがない。反省するようなことは最初からしなければいい。失敗も間違いもすべてこの先でいかせばいいだけだ。無駄なことは何もない。懺悔して許してもらって何もなかったことにしてもらおうだなんて思ってはいけない。起こったことはすべて積み重なっていく。日々感謝の気持ちを忘れず、自分が幸せになることで恩返ししたい。それが自分を支えてくれている人たちに対してできる唯一のことだと私は思っている。 とにかく前へ進むこと、少しでも遠くまで行って、見たことがない景色を見たい。その思いは今年一年を通して変わることがなかった。このブログも、ほぼ休むことなく一年書き続けて、日々新たな発見があった。今年は今日で最後になるけど、来年も今年以上に書きたいと思っている。私にとっても読んでくれている人たちにとっても、毎日が今日という日を生きた証になればいい。昨日まで知らなかったことを知ること、それが書き続ける意味だ。 今年一年、どうもありがとうございました。来年もまたよろしくお願いします。さよなら2006年、こんにちは2007年。
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