現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
タダより好きなものはない名古屋人は東京都庁へ登る
2007年01月31日 (水) | 編集 |
東京都庁外観見上げる

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f7.1, 1/400s(絞り優先)



 タダより高いものはないと世間では言う。名古屋人はタダより好きなものはない。大阪人が安いという言葉に反応するより激しく、名古屋の人間はタダということに異常な反応を示す。オマケやお買い得といううたい文句にも弱い。東京都庁の展望室で、おい、そこの名古屋人! と大きな声で叫べば、たぶん10人に1人は振り返るだろう。そう、東京都庁の展望室はタダスポットなのだ。

 バブル経済全盛期に建てられることが決まって、バブルが弾ける前の1990年に完成したこの巨大建造物は、当時バベルの塔ならぬバブルの塔と呼ばれた。建築費用は1,600億円。年間で維持費に40億円かかるという。石原慎太郎め、と思ったらもっと前の鈴木俊一だった。青島幸夫じゃなかったか。
 設計者は旧東京都庁舎も手がけた丹下健三(東京カテドラル聖マリア大聖堂、フジテレビ本社ビル、新宿パークタワーなどもこの人だ)。高さは243メートルで、完成時はサンシャイン60を抜いて日本一の超高層ビルだった。現在は横浜ランドマークタワーに抜かれ、東京一の地位もNTTドコモ代々木ビルに追い落とされ、名古屋のセントラルタワーズよりも低い全国7位となっている。それでもまだ六本木ヒルズより高い。真下から見上げると首を痛めそうになると同時に田舎者だということがバレてしまうので気をつけたい。写真なんか撮ってたら完全にアウトだ。
 デザインはパリのノートルダム大聖堂などのゴシック教会を模したという言われ方をすることがあるけどどうやらそれは違って、下部と同じ体積でこの高さにするとあまりにも容積が大きくて威圧感がありすぎるということで、上部の間を空けて重くなりすぎないようにした結果が大聖堂風になったというのが実際のところらしい。この奇抜な設計があとあと大きな問題になるということを丹下健三は少しでも考えていただろうか。

展望室の様子

 行ったのは土曜日の夕方で、まずまずそれなりに賑わっていた。昼間のもっと早い時間か、夜景時間はもっと人が多いのだろう。外国人率も高い。
 入口で荷物検査を受けたのも、場所が場所だけにそれはそうだなと思う。タダの場所はある意味危険な場所でもある。
 展望室はツインの南と北の両方にあって、それぞれ別の直通エレベーターで登るようになっている。エレベーターは超高速で耳がキーンとなる。202メートルの45階展望室まで55秒。横から見たら相当速いと思う。
 開館時間が少しややこしいことになっている。北展望室が9時半から23時までで、南展望室が9時半から17時半までなのだけど、北が第2、第4月曜日の定休日のときは南が23時まで開くことなる。南は第1、第3火曜日が定休日なので、行くときはあらかじめ調べておいた方がよさそうだ。
 出来た当時は両方ともぐるり360度見渡せたのが、2003-2004年のリニューアルによってカフェやみやげ物売り場が登場して制約が増えた。デートスポットとしてはよくなった半面、見えない方向も多くなったので、残念と言えば残念だ。
 いろいろ条件を考え合わせると、北が休みの日に南展望室へ行くのがオススメということになるだろうか。北は東側が完全にレストランに占領されて見ることができない。南は北がさえぎられるだけでその他は見ることができる。特に夜景の場合は夜の南がいい。
 北には「博品館 TOY PARK」があり、東京みやげなどを売っている。東京限定のキティちゃんや、懐かしのモンチッチなどもあった。昔のガチャガチャなどもお父さん世代にはたまらない。東京みやげは、やはり日本人よりも外国人が好んで買っていくようだ。あと、「東京水(とうきょうすい)」というのが売られていてちょっと興味を惹かれた。東京のおいしい水ではなく、ただの水道水なのだけど、何故か買ってしまう人がたくさんいるそうだ。値段の100円はネタとしてのお土産としては安いけど、水道代と思えば高い。
 32階には食堂職員があって、一般人でも食べられるようになっている。職員用ということで値段も安くてそれなりに美味しいらしい。昼はここで食べて展望台へ行けばかなり安上がりなデートになる。

都庁展望室からの眺め

 こうして見ると六本木ヒルズの圧倒的なボリューム感がよく分かる。ビルの大きさは高さがすべてじゃない。それにしてもこの太っちょぶりはただごとじゃない。周囲の中くらいの高さのビルだって、地方へ持っていけばどれも高層ビルとしての存在感を充分発揮できるものばかりなのに、ここでは小さくさえ見える。5階建て程度のビルは、1億円の前の100円のように存在感が弱い。ヒルズ族への道のりは果てしなく遠い。
 六本木ヒルズの左に遠くフジテレビの丸い銀色展望台が見えている。あの方角がお台場だ。
 その他の目立つ建物としては、東京タワー、新宿パークタワー、東京オペラシティ、NTTドコモ代々木ビルなどがあり、晴れた日には東京湾のレインボーブリッジ、横浜ランドマークタワー、富士山まで見えるという。下へ目を移せば、新宿中央公園、明治神宮、新宿御苑なども見ることができる。東京はまとまった緑が多い。

眺めるカップル

 こんな東京都庁も、デザイン最優先で建てられた結果、築15年にしてかなりのガタガタぶりを発揮し始めた。天井は至る所で雨漏りして、電気はつきっぱなしになり、空調もおかしく、いろんなところでトラブルが続出してるという。もし全面的にリニューアルするとしたら1,000億円からかかってしまうんだとか。しかも、10年計画で直していたら、直し終えたとたんに最初に直したところのガタがきてそれを直して、と永遠に直し続けることになる。いっそのこと車を乗りつぶして買い換えるように、ガタボロまで使ってから新しく建てた方がいいという話も出ているらしい。石原慎太郎のまばたきがますます増えそうな話だ。
 超高層ビルでバケツを置いて雨漏りを受けているという図は個人的には嫌いじゃない。それはそれで日本らしい風情があっていいではないか。受けるのが金だらいなら尚いい。

 東京都庁のビルは、敵が攻めてきたとき、巨大ロボットに変身して帝都を守るという。たぶん、中心部分の胴体と両サイドのタワーが切り離されて、ガッシャンガッシャン歩行しつつ展望室あたりから折れ曲がってロケットでも発射するのだと思う。そういえばこのデザイン、マクロスに見えてきた。やはり艦長は石原慎太郎で、ダイダロス・アタックを撃つ号令をかけるのだろうか。
 でもやっぱり平和が一番。都庁は変身しないままがいい。年間170万人の観光客が来るというし、オンボロになってもこのままであって欲しい。
 ここに登れば、1,500円の六本木ヒルズ展望台も、サンシャイン60も、テレコムセンターも、東京タワーも行く必要はないかもしれない。東京タダ・スポットは探せば意外と多い。都庁は思ったよりよかった。今後とも、名古屋人代表として東京お上りさんツアーに行くときは積極的にタダのところを見つけていきたい。タダより安いものはない、そう信じて。


短い滞在で目にした東京の断景と断想を少し
2007年01月29日 (月) | 編集 |
東京中央郵便局

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f4.0, 1/15s(絞り優先)



 今回の東京行きは、半分以上栃木での葬儀となって、予定していた場所をほとんど回れず、ほんのわずかな見物で終わった。今日はその断片的な風景を少しだけ紹介したいと思う。
 行くつもりだった、湯島聖堂、ニコライ堂、鬼子母神、根津神社、水天宮、東京庭園美術館、台場一丁目商店街などが頭の中でぐるぐる回って、それらはいまだ私の空想の中にしか存在しない。

 東京駅丸の内出口から出て左へ向かうと古めかしい建物が目の前に現れておっと思う。周囲を高いビルに囲まれながらも堂々としたその風格は、ひと目見ただけで存在感の違いに気づく。
「東京中央郵便局」
 昔懸賞などでよく出てきた東京中央郵便局私書箱何号などのあの東京中央郵便局だ。こんなところでこんな風に建っていたのか。もっと無機質で小さな四角に区切れた無数の小部屋のようなものを想像していた。まさかこんな昔の建物に送っているとは思ってもみない。
 立てられたは1931年(昭和6年)、設計は逓信省(ていしんしょう)の吉田鉄郎。日本の伝統的なデザインの建物ということで、『日本美の再発見』などで知られるドイツの建築家ブルーノ・タウトも賞賛したという。
 これだけ近代化、高層化が進む東京のど真ん中にこういう建物を残せるところに東京のすごさというか懐の深さを感じさせる。名古屋駅前の大名古屋ビルヂングも、あと50年くらいしたら、もう少し風格が出てくるだろうか。

東京駅構内の日曜日

 東京はいつどこへ行っても人があふれているイメージがあるけど、もちろんそんなことはない。場所によって、時間帯によって、人が全然いなかったり少なくなることもある。
 これは日曜夕方の東京駅構内。普段は通勤、通学などで大勢がひっきりなしに行き交う場所も、日曜の夕方には不自然なほど人が少なくなって、ガランとした印象となる。最大通行者数を想定して作られているだけに余計人の少なさと広さが際立つ。

東京手ぶれ夜景

 シビックセンターの25階展望室は無料で登れるというので行ってみると、そこは文京区の区役所だった。他にもいくつかの施設が同居しているとはいえ、区役所にしてこの建物というのは東京ならではだ。役所として機能させるために人が働き、同時に観光スポットとして見学者を受け入れるというのは、東京では当たり前でも地方都市にその感覚はない。
 ここの場所で最も印象に残ったのは「三脚厳禁」の注意書きだった。禁止というのはよく見かけるけど厳禁とまで言い切ってるのは初めて見た。確かにここは三脚を使って夜景を撮りたくなるところだ。新宿や池袋方面の高層ビル群の夜景が美しい。手持ちではこの写真のようにブレてしまう。タダで場所は提供するけど何でも自由にしてもらっては困るということだろう。一番いい東京ドームやラクーア方向はレストランがしっかり陣取っていて無料で見ることはできないのも、なるほどと思わせる。東京は甘い顔してそんなに甘くない。

朝の東京駅

 月曜朝の東京駅は、慌ただしさとけだるさが入り交じる。冷たい風が仕事場へ向かう人々の足を速めさせ、居残った観光客を乗せて長距離バスが次々に東京を出て行く。私も、さよなら東京、また来ますと心の中でつぶやいて、東京駅を後にした。
 今回の東京行きは思いがけず予定が大幅に違ってしまったけど、それで得られたこともあった。失うものがあればその代わりに手に入れられるものもある。だから、いつだって嘆く必要はないのだ。明日という日がある限りは。
 次の東京行きは2月後半の予定となっている。東京よ、待っていておくれ。そして私を呼び寄せてくれ。いつか、片道切符で東京へ行ける日が来るだろうか。


河原視点で見える世界とそこに集う人々を望遠で撮る
2007年01月26日 (金) | 編集 |
河原の中学生

OLYMPUS E-1+Super Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/200s(絞り優先)



 生まれ育った街の中で変わらないものはないけれど、その中で河原風景というのはあまり変わってない気がする。土手がコンクリートになったり、河原が芝になったりはしたけれど、街中ほど大きくは変わっていない。
 河原というのは一番手軽に自然に近づける場所だ。水があり、流れがあり、生き物がいて、空が広い。ビルにさえぎられて狭くなった空も、河原に行けばまだ残っている。だから私は、どこか行きたいと思って時間が少ししかないときはよく河原へ行く。そこには誰かしらいて、何かしら撮るものがあり、少しだけ心がクリアになる。冬の川風は冷たいけど、渡ってきたカモたちが出迎えてくれる。
 川は中学生の遊び場でもあった。釣りをしたり、石を投げたり、ただ意味もなく集まったり。最近はそういう光景もあまり見かけなくなってちょっと寂しい思いをしていたら、久しぶりに写真の風景に出会えた。なんだか懐かしい。80年代の青春ドラマの一場面のようだった。今の彼らが自分たちが風景の一部としてどういう役割を演じているかの自覚はないだろうけど、10年、20年経って同じような光景を見たとき、きっと私と同じようなことを感じるのだと思う。

カップルもいる河原

 河原で一番多いのがカモで、二番目が犬の散歩の人、三番目が散歩やジョガーで、カップルもわずかにいる。写真を撮ってる人間はまずいない。かつて一度だけ一眼を持った女の人を見たことがあったけど、後にも先にもその人ひとりしか私は出会ってない。彼女は何を撮っていたのだろう。
 河原へカメラを持っていくときは、望遠がはずせない。空を撮るための広角と望遠がいい。遠くの人たちを撮るために。鳥以外にも河原にはいい被写体が多いのだ。カップルや親子連れの自然な姿は絵になる。
 個人的な希望としては、夕陽に向かって三味線をかき鳴らしてる人を撮りたいと思っている。もし、河原で三味線を弾くときは私に知らせてください。遠くから望遠で撮りますから。

河原風景その3

 高校の頃、河原で友達とよくゴルフをしていた。日曜日や夏休みなどに。今ではゴルフ禁止の看板も目にするようになったけど、当時はもっと大らかだった。友達がドライバーでフルスイングしたら大きく右にカーブして民家の窓に消えたもの今となってはいい思い出だ(思い出にしていいのか?)。
 思えば私はよく河原で過ごしていたことに気づく。大学生になってからすっかり行かなくなって、忘れかけていた。ここ数年、写真を撮りに行くまでは。また最近河原のよさを見直している。

ベルベットの空

 ベルベットの夕焼け空。太陽が沈んで、空がオレンジに染まったあと日が暮れると、河原で撮るべきものはなくなる。もう帰ろう。また来るよと約束を残して。
 河原には何かがあるというわけではない。何もないと言えば何もない。でも、だからいいとも言える。日常から半歩のところに川は流れていて、大きく踏み出すまでもなくすぐそこにある。普段目にしていて実はちゃんと見てないのが街の川だ。上から見下ろすだけでは見えないものもある。河原まで降りていって初めて見える世界が。
 ちょっと降りてきて、一緒に川の冷たい風に吹かれてみませんか? 望遠レンズで一緒に河原世界を撮りましょう。


ひつまぶしは名古屋人が安心しておすすめできる名古屋名物
2007年01月26日 (金) | 編集 |
しら河ひつまぶし

SH505iS(携帯カメラ)



 名古屋人のくせに私という人間は、ちゃんとした店のひつまぶしをこれまで一度した食べたことがなかった。それも他県から遊びに来たゲストにつき合う形で一回行っただけというていたらく。それも5年くらい前のことになる。これでは名古屋人失格の烙印を押されても文句は言えまい。けど、いつも心の片隅にひつまぶしの存在はあった。いつかもう一度自分の意志でひつまぶしを食べなくちゃなという思いがくすぶり続けていた。
 しかし、よほど私とひつまぶしは縁がないのか、行こうと決めて2度食べられずに終わることになる。一度は行こうとしたら閉店時間を過ぎていて、次は正月休みだった。なんてこった。まるでうなぎの呪いにでもかかったようにひつまぶしにありつけない私。もう駄目なのかと思った三回目、うなぎは私を見捨ててはいなかった。捨てるうなぎあれば拾ういなぎあり。ようやく私とツレは「しら河」ののれんをくぐることになった。

 名古屋でひつまぶしといえば、「あつたの蓬莱軒(ほうらいけん)」と相場が決まっている。ひつまぶし発祥となった店であり、ひつまぶしという商標登録を持つ、江戸時代から続く老舗だ。私が前回食べたのがこの店で、値段は2,500円くらいだった(現在は2,520円らしい)。値段も名古屋で一番高い。
 もう一軒、うちこそがひつまぶしを発案したのだと主張する店がある。中区錦3(いわゆるキンサン)にある、これまた古い「いば昇(いばしょう)」というところだ。
 ひつまぶしの起源には二つの説がある。ひとつは「いば昇」で冬にうなぎの皮が固くなるからそれを小さく切ってご飯に混ぜて、まかない料理として食べていたのが始まりというものと、「蓬莱軒」でお座敷に出すとき大きな櫃(ひつ)からご飯を小分けしてうなぎを乗せて出したのが最初だというものと。
「いば昇」のひつまぶしは2,100円と、やや抑えられている。
 今回我々が出向いた「しら河」は、お手頃価格で美味しいひつまぶしを食べさせると評判の店で、「蓬莱軒」よりこちらの方が好きだというファンも多い。私の舌は5年間のブランクがあるのでなんとも比較のしようがないのだけど、「蓬莱軒」はさすがの老舗の貫禄というオーラがあったのに対して、「しら河」の方は親しみが持てるものという違いは感じた。値段の差は約1,000円。うな丼の価格としては1,500円くらいが妥当な線なんじゃないかとは思う。
「しら河」のは、表面パリパリ、中ふんわりの仕上げになっているので、うなぎの皮のぬめっとした感じが苦手という人に向いている。うなぎ嫌いの人は、あきらめる前にここのものを試してみるといいかもしれない。
 上ひつまぶしが1,470 円で、ミニひつまぶしが1,155 円。手前にあるのがミニの方で、奥が通常のサイズだ。中身は同じで、量だけが違う。私は少食なのでミニでも持て余すくらいだった。割高になるけど、普通の食欲の人では上ひつまぶしは多すぎる。茶碗4杯分のご飯って、体育会系の学生じゃないんだから。

 ひつまぶしの基本的な食べ方の作法はこうだ。しゃもじでまず十文字に切り込みを入れて、4分の1を茶碗によそってそのまま食べる。まずはうなぎの味そのものを味わうわけだ。次に刻み海苔やネギなどの薬味を加えて4分の1を食べる。これだけでかなり味わいが変わるから不思議だ。個人的にはこの食べ方が一番美味しいと思う。三膳目はお茶漬けにして食べる。この場合のお茶は店によってもいろいろ特色があって、ただの日本茶ではない。ダシをベースにしたお茶で、これがうなぎと薬味によく合うようになっている。最後に残った4杯目は、自分の好きなようにして食べる。別に最初からうなぎを一気に混ぜてかき込んでもかまわないのけど、一応作法だけは知っておいて損はない。
 櫃(ひつ)に入れて、うなぎを塗(まぶ)して食べるから、櫃塗し。でもこんな漢字ではみんな読めないから、ひらがなで表記するようになった。昔は、暇つぶしと思っていた人も多かったけど、最近はそういう人も少なくなった。いや、いまだにそう信じ込んでいる日本人が1万人やそこらはいるだろうけど。
 どうしてうなぎ料理が名古屋名物になったかというと、実は愛知県の一色町(いっしきちょう)というところは日本のうなぎ生産高日本一で、愛知県は全国の全体の4分の1を占めるうなぎ王国だというのがある。浜名湖がうなぎの養殖では有名であるけど、静岡は4位でしかない。そのうなぎの多くは「うなぎパイ」に回ってしまうということもあるとかないとか。「あつた蓬莱軒」も、一色町のうなぎを使っているそうだ。
 うなぎは、関東では背開き、関西では腹開きと言う。関東は背から開いて白焼きにして蒸してから焼くのに対して、関西は腹から裂いて蒸さずに金串に差して直接焼くという違いがある。名古屋は関西と同じく腹から開いて、頭と尾を落としてから焼く。たれを二度付けしたり、みりんをつけたりするというのも名古屋の特徴だ。
 焼きはたいていどこでも備長炭を使っている。これによって香りも違ってくるので、店によってそれぞれこわだわりがあるのだろう。

 日本でうなぎがいつ頃から食べられていたかははっきりしていない。縄文時代の遺跡から見つかっているというから、うなぎそのものは大昔から食べられていたようだ。
 ある程度一般に食べられるようになったのは奈良や平安時代あたりからと言われている。「夏やせに 良しと言うものぞ うなぎ取り召せ」という大伴家持の句もある。
 今のような形で庶民もうなぎを食べるようになったのは、江戸時代の中期、元禄以降のことだ。江戸時代もこの頃になるとすっかり平和を持て余していて、文化、芸能、芸術だけでなく食も多種多様になっていった。鮨や天ぷらなどもこの同じ時期に料理として確立していった。調味料としてのみりんが発明されたこともあって、うなぎもさかんに食べられるようになる。当時はうな丼ではなく蒲焼きが主流だった。
 更にうなぎ人気が高まったのは江戸後期で、平賀源内の有名なキャッチコピー「土用の丑」の影響も大きかった。この本来根拠のない習慣が今になってもまだ続いているというのも面白い。

 名古屋名物といえばすぐに赤味噌を思い浮かべる人も多いと思うけど、名古屋にはひつまぶしがあるということを覚えておいて欲しい。味噌カツ、味噌煮込み、味噌おでんなどは好みが分かれるところにしても、うなぎが嫌いじゃなければ、ひつまぶしにハズレはない。
 名古屋に遊びに来て、最初で最後のつもりで食べるなら、やはり「あつた蓬莱軒」がいいと思う。格も値段も味も文句ない。一回きりなら2,500円も悔いなしとなるはずだ。「しら河」も安くて美味しいので、気軽に行ける店としておすすめしたい。浄心本店の他、今池ガスビル店、栄ガスビル店があり、JR名古屋タカシマヤにはお持ち帰り用ひつまぶし弁当がある。食べ比べるなら、この2軒と「いば昇」へ行けば、もう名古屋のひつまぶしはほぼ制覇したと言ってもいいだろう。
 私はこれでまた5年くらい休みを取ろうと思う。次は5年後くらいに「いば昇」へ行く予定だ。ひつまぶしなんてのは日常的に食べるもんじゃないから。貧乏で5年間貯金をしなければ食べられないとかそういうことでは決してない。ただ、おごってくれるというのなら、明日にでも行きましょう。中川区にある「鰻の魚勇」がなかなか美味しいらしいから、そこへ案内しますよ。どうも、ゴチになります。


飛ぶ鳥撮りを趣味として定着させよう会発足でただいま会員募集中
2007年01月25日 (木) | 編集 |
コサギ飛び姿-1

OLYMPUS E-1+Super Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/640s(絞り優先)



 飛ぶ鳥をカメラで追って連写すると、大量の手ぶれピンぼけ没写真が生産される。下手なシャッターは数を押しても当たらないものだ。しかもマニュアルフォーカスレンズとなると、当たり確率はお年玉付き年賀ハガキの当選確率よりも低くなる。このときもさんざんシャッターを切りまくったのに、まともだったのはこれを含めて数枚だけだった。いつになったら私は年賀状のお年玉クジで一等が当たるんだろう。郵政民営化までになんとか当てたい。
 それにしてもコサギなんて、ゆっくり直線的に飛ぶ鳥なのにこの調子ということは、私が真の鳥の人ではないということを如実に物語っている。ちょっと安心した(安心するなよ)。

コサギ飛び姿-2

 背景はともかく、これはけっこうまともに撮れている。それでもまだ少しピントが合ってない。飛んでる鳥を普通にバッチリピントで撮ってる人がいるけど、自分で撮ってみて分かるその難しさ。もう少し明るいときに撮るとシャッタースピードが上がって撮りやすくなるのだけど。

 こうして横から見ると、飛んでいる鳥の姿勢がとても美しいことが分かる。背筋をまっすぐ伸ばして、首をすっこめて、足までピンとしてお行儀がいい。羽で空気を掴まえつつ、体はしっかり流線形を作っている。なんでこんな姿勢を空中で保てるのか不思議なくらいだ。
 ひとつには鳥の体は非常に軽いということがある。骨の内側が骨粗鬆症(こつそそうしょう)のようにスカスカのスポンジみたいになっていて、その分筋肉がすごく発達している。人間でいうと、一般人の胸の筋肉が今の20倍くらいという比率の体をしていることになる。骨皮筋右衛門(なつかしい表現だ)のじいさんが、怒ったケンシロウのように服の前がはじけ飛ぶくらいの筋肉を付けたとしてもまだ全然足りない。
 あとは腸を短くして早く消化してフンを体にためないとか、肺の周りに気のうという空気袋をたくさん持っていて、これで体をふくらませているというような工夫もある。すべては空を飛ぶために、余分なものは捨てていった。進化というものは、何か決定的な能力を得るために何かの能力をなくすことという言い方もできるだろう。
 翼は、一枚いちまい分かれていて、それぞれ違う役割をしている。飛ぶのに大事な羽は風切り羽だ。これを動かして調整することで浮いたり進んだりできるようになっている。だから、人間が一枚の大きな翼を作ったとしても、そう簡単に空を飛べるものではないのだ。そもそも、人間の今の体のまま飛ぼうとしたら翼は全長30メートル以上必要ということになるから、実質的に無理だ。いくら折りたたんだといっても、みんなが翼を持っていたら満員電車とか困ってしまう。それじゃあ、新聞も読めない。

 鳥の羽は、空を飛ぶためだけではなく体温を一定に保つ働きもしている。羽毛に覆われていることで外から体を遮断して、体温を維持する。鳥の体温は40-42度くらいと他の動物に比べてかなり高い。こんなに高熱だったら毎日学校を休めてしまう。でも鳥にとってはこれが平熱なので、熱があるとは感じてないはずだ。むしろ基本的に寒さが苦手で、体温が下がってくると羽をふくらませて羽毛の間に空気を入れて体温調節をする。毛が毛羽立っていかにも寒そうにしてる姿を見ることがあるけど、あれは本当に寒がっているのだ。鳥は寒さを感じない鈍感な生き物なんかではない。
 尾羽の付け根の上にある脂腺から脂を出して、クチバシでそこをコチョコチョコチョっとやって羽にこすりつけているところを見ることがある。あれは単なる毛づくろいではなく、ああやって防水加工をしているのだ。水が体に染み込んでくるのを防ぎつつ体温調整にもなっている。
 体温は逆に高すぎてもいけない。44度を超えると心臓に負担がかかって死んでしまう。人間のように汗をかくことができない鳥は、気のうに外気を送って体温を下げる。あと、羽毛が生えてない足からも熱を逃がしている。
 鳥の体温が高いのは、なんといっても飛ぶために大量のエネルギーを必要とするからだ。新陳代謝を早めて、常にエネルギーを作らないと生活できない。いつもハイテンションな鳥さんなのだ。そのためには、体に似合わないほどたくさんの食べ物をとらないといけない。食べないと大きくなれないだけじゃなく飛ぶことさえできなくなる。スズメにしても鳩にしても、いつも地面をつついてるのは食い意地が張ってるわけじゃなく生きるためにしなければならない行動なのだ。鳥の仕事は飛ぶことだけじゃない。

コサギとコガモたち

 コサギさんの群れに混ぜてもらってるのか、コサギのテリトリーにコサギさんたちが勝手に入ってきてるのか。それでもエサが違うから、もめることはない。
 コサギも一日中狩りをしている。これだけ大きな体を維持するためには、小魚を2、3匹でいいというわけにはいかない。こんな川にそんなに魚がいるんだろかと思うけど、生きていけてるということは食べ物があるのだろう。昔はよくテレビに出てたのに最近すっかり見かけなくなってたまに見かけると、この人どうやって食べてるんだろうと疑問に思うのと同じような思いをコサギに抱く。
 エサは、ドジョウ、フナ、ウグイ、カエル、ザリガニなどというのだけど、ドジョウなんて今どきいないぞ。子供の頃田舎で見て以来、名古屋の郊外でもドジョウはもういないだろう。それとも、いるんだろうか。
 じっとして魚が通るのを待つだけでなく、歩きながら水中の足をブルブルっとふるわせて(パドリング)驚いた水中生物を獲るなんてこともする。

 コサギは基本的に留鳥で、一年中日本にいて、日本で子育てをする。ただ、北の方にいるやつは寒くなると南の方に少しだけ移動するから、漂鳥(ひょうちょう)とも言えるかもしれない。
 世界では、ユーラシア大陸からアフリカ、オーストラリアまで広く分布している。
 一般的にシラサギという言い方をする中で、コサギが名前の通り一番小さい。60センチくらいで、カラスより一回り大きい感じだ。その他、チュウサギ(68センチくらい)とダイサギ(90センチくらい)がいる。
 ダイサギとチュウサギは遠目で見ると似てるのでちょっと区別が難しい。コサギを見分けるのは簡単で、足先を見ればいい。黄色い足をしていればコサギだ。チュウサギとダイサギは黒い足をしている。
 その他のサギとしては、アマサギ、ゴイサギ、ヘラサギ、アオサギ、ミゾゴイ、ササゴイ、ヨシゴイ、カラシラサギ、クロサギなどがいる。本家はコウノトリだ。
 ちょっとした雑学として覚えておきたいのは、白サギというのは金品を人からだまし取るサギで、赤サギは結婚詐欺などで異性をだますことで、青サギは会社や不動産などをだます知能犯のことをいう。更に、詐欺師をだます黒サギもいるよ、アミーゴ、セニョリータ。

 飛ぶ鳥撮りは難しいけど楽しいから、ぜひやってみてくださいとおすすめしたい。釣りと同じくらい趣味としても成り立つほどだ。あなたの趣味はなんですかと問われたら、飛んでる鳥を撮ることですとお見合いの席で答えて欲しい。それは素敵な趣味ですね、と言ってくれる女の人なら結婚してもまず間違いないでしょう。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの趣味をお持ちですね、なんて答えてくれた日には何が何でも結婚すべきだろう。そんなふうに気の利いたことを言ってくれる心の優しい人は、美人よりもずっと希少価値が高い。
 週末は望遠レンズを抱えて川や池や森へと繰り出そう。大容量メモリをカバンに入れて。現地では人目も気にせずシャッターを切って切って切りまくるのだ。飛び鳥を追いかけて西東。飛んでイスタンブール。その晩は、カシャカシャカシャカシャというシャッター音が夢にまで出てきて、いい夢が見られるに違いない。指に心地よい疲れを感じながら。
 趣味としての飛ぶ鳥撮りをいつか日本でもメジャーなスポーツとして定着させようではないですか。目指せカバディ。追いつけ追い越せセパタクロー。


手作りケーキの変遷を辿りながらハッピーバースデー、私
2007年01月24日 (水) | 編集 |
初めてのチョコレートケーキ

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f20., 1/100s(絞り優先)



 去年のクリスマスから今日の自分の誕生日まで、あれこれとイベント事が続いて、その間4度、手作りケーキを焼いた。何作ってるんだよ、私。というツッコミを入れつつ、その変遷について今日は紹介したいと思う。そんなものは、だいたひかるの離婚よりど〜でもいいですよ、と思われる方もいるだろうけど、乗りかかった船ということでおつき合いください。
 生まれて初めて作ったケーキはチョコレートケーキだった。なーんじゃこりゃー。自分でも驚き、あきれ、笑えたこの一品。何もかもが手探りで、暗闇の中で手を前にしてよろめきながら歩いていたら買ってきたケーキに手を突っ込んでしまったような完成度。自分の才能のなさが怖い。
 お手軽ケーキということで、炊飯器ケーキに挑戦してみたのが無謀だったかもしれない。今振り返ってみると最初から最後まで間違いだらけだった。
 卵3個を黄身と白身に分けて、それぞれに砂糖を20グラムずつ加えながらかき混ぜる。ふわふわトロトロになるまで徹底的にかき混ぜる。のだけど、このときは途中でけんしょう炎になりそうになって適当なところで切り上げた。かき混ぜ方も弱すぎた。ボールを叩くように混ぜないといけないのに、かき回してただけなので永遠に固くならなかったのだった。
 黒豆ココアと薄力粉を半々で60グラムくらい、ふるいでふるって黄身の方に混ぜる。黒豆ココアを使ったのはいつも飲んでいて家にあったからで、特に深い意味はない。そこに白身から作ったメレンゲ半分を混ぜていくのだけど、ここにコツがあるらしい。どうもこのときはしつこいくらいに混ぜすぎたようだ。それで空気が抜けてしまって、結果的にまったく膨らまなかったのだと思う。
 カカオ85%チョコレート一枚を適当な大きさに砕いてレンジで温めて溶かす。バターも50グラムくらい溶かして、それを加えて混ぜる。
 最後に残りのメレンゲをざっくり混ぜて、あとは炊飯器で普通に炊くだけ。フタを開けたら、あらびっくり、ふかふかで美味しそうなチョコレートケーキが出来て……ない! どろっとしてペシャンコじゃん? ものの本によると、一度で焼けないときはひっくり返してもう一度焼けとある。そうか、それじゃあ、と炊飯器の釜をひっくり返してみると、あら? くっついて落ちてきませんよ。こいつめぇ〜、えい! えい! と降ったら、ボトッと落ちてきた! わー! ケーキが砕けたぁ〜。なんてこった。まさかの展開。そういえば釜にバターを塗るのを忘れてた。なんとうかつな。
 とりあえず残った破片をかき集めて、もう一度焼いて出てきたのがこいつというわけだ。なんとかごまかせないかと、ホワイトチョコを溶かして上に縫ってみたものの、よけいヘンテコリンになってしまって、もはや取り返しがつかなかった。材料もないし、作り直す時間もない。自分ひとりで食べるならまったく問題ないけど、作っていくと約束したやつだからまずかった。
 当日は笑い話で済んだからよかったものの、完全なる安請け合いだったと反省しきりの私であった。味は濃厚なチョコココア味で美味しかったのだけど。

セカンドチャンス・チョコケーキ

 恋も二度目なら少しは上手に愛のメッセージ伝えたい、と中森明菜ちゃんも歌っていた。私もセカンド・チョコの歌を歌いたい。チョコケーキも二度目なら、少しは上手に美味しく膨らませたい、と。
 もう一度チャンスを得て作ったチョコレートケーキ。微妙な出来ではあったのだけど、初回のに比べたらずいぶんましなものが出来た。
 炊飯器はもう懲りて、今度は電子レンジで焼いた。10年も使っている電子レンジをよくよく観察してみたら「ケーキ」というボタンが付いてるのを発見して驚く。おまえはケーキも焼けたのか!? と。今まで牛乳や弁当を温めるための「温め」ボタンしか押したことがなかったから、まさかケーキが焼けるなんて思いもよらなかった。
 材料は基本的に前回と同じで、今回は頑張ってメレンゲを作って、無闇にかき混ぜなかったのがよかったようだ。牛乳パックで作った型に流し込んでそのままレンジで40分ほど焼いたら、けっこう膨らんだ。ただ、やっぱりちょっと固くて、その点に不満が残った。よく言えばしっとりなのだけど、もう少しふんわりしてる方がいい。何かいい方法があるんだろうか。
 今回は笑いも起こらず、けっこう和やかな雰囲気となってよかった。二度続けて失敗したのを持ってきたら、ケーキ作り担当の座を取り上げられてしまうところだった。一応これで首がつながった。

初ショートケーキ

 ケーキの王道といえばやはりなんといってもショートケーキだろう。一度作ってみたいと思っていたところへ、家族の誕生日という絶好の機会が巡ってきた。実験台にするならここしかない。スポンジが難しいことは作る前から分かっていた。多分失敗するだろうなという予感もあった。結果は、思った以上の大失敗でまたまた自分に驚くこととなる。いやはや、まったく。
 何しろスポンジが固い。文字通り食器を洗うスポンジが放置されてそのまま固まってしまったような固さ。総入れ歯のおじいちゃんなら歯が立たないほど頑丈なスポンジに匙を投げそうになる。なんだよその強情な態度は、とスポンジに向かって説教したくなったほどだ。なんでこんなことになってしまったんだろう。
 卵3個の全卵に砂糖やや控え目の60グラムを混ぜて、またひたすらかき混ぜる。もちろん、手動だ。しかし、今回もどうもトロトロ加減が弱いような気がする。やはり電動かき混ぜマシーンを買うべきか?
 ふるった薄力粉を混ぜ合わせて、溶かしたバター40グラムを加える。
 あとはレンジで30分焼いて、取り出してみると、がっちりと堅太りのスポンジがそこにいた。すごい筋肉質だ。ケビン山崎氏によって肉体改造されてしまったようなスポンジであった。
 ホイップクリームは、生クリーム200mlに対して砂糖20グラムを混ぜて、こいつもまたひたすらかき混ぜる。ただ、このときようやくかき混ぜのコツを掴んだ。泡立てるようにバシバシ叩けばいいのだ。ぐるぐる回していてもいっこうにラチが開かない。
 飾り付けもたどたどしく、なんとか完成した。この時期のイチゴは高いしケーキのイチゴは酸っぱくて好きじゃないので、家にあったフルーツの缶詰を使った。フルーツとの相性はよくて、生クリームが乗った上の部分だけは美味しかった。スポンジは冷蔵庫に入れたまま忘れてしまって一週間後に取り出したときのカステラみたいだった。

誕生日ショート

 自分の誕生日に自分で手作りケーキを焼いてる男というのもそうはいないと思うけど、そんなことを恥ずかしがってはいられない。私はもっと美味しいケーキが作りたいんだ。何かこんなイベントでもないとケーキ作りに気持ちが向かわないということもあって、2日がかりで自分のためにケーキを作った。
 そして今回の出来は、惜しい! 残念! あと一歩というものだった。
 やっぱりどうしてもスポンジがふわっとならずに固くなってしまう。今日は奥の手としてベーキングパウダーを使ってみたのだけど、それでも満足する膨らみにはならなかった。何がいけないんだろう。今回は黄身と白身を分けて作ったのに。メレンゲの混ぜ方なんだろうか。
 ただ、スポンジの固さは前回よりはずいぶんましになっていて、固いには固いにしてもびっくりするほどではなかった。これなら恋人になって間もない彼女が彼氏に作って持っていっても彼氏の顔が引きつることはないだろう。今回は生クリームの飾りつけがやや失敗だった。これは前回の方がよかった。クリームを先にしてフルーツは後にした方が上手くいくかもしれない。
 味に関してはオーソドックスな材料しか使ってないので、普通の味だった。これでスポンジさえもっと柔らかく出来たらかなり美味しくなると思う。
 買ってきたケーキの場合は、クリームの甘さや美味しさで味が決まると思っていたけど、実はスポンジがこんなにも大事なものだったのか。私はショートケーキのことが分かってなかった。

 以上が私のケーキ作りの変遷だ。まともなケーキを作れるようになるまでの道のりは長い。みんなもこんなに失敗を繰り返して大きくなっているのだろうか? 最初から上手に出来る人は出来るんだろうな。どうやら私は、料理以上にケーキ作りの才能に恵まれてないらしい。
 ただ、ケーキ作りの面白さには完全に目覚めた。下手の横好きとしてこれからも機会を見つけてケーキ作りに挑戦していきたいと思っている。自信作が出来たら、そのときはこの続きの変遷と共に紹介しよう。
 ケーキ作りは楽しいので、男の人にもぜひチャレンジして欲しいと思う。もちろん、女の人にも。子供と一緒に作れば尚楽しいはず。誕生日にお店で完璧に作られた美味しいケーキを買ってきて食べるのもいいけど、家族でわいわいやりながら分担して作って、台所がぐちゃぐちゃになって、スポンジが膨らまなくて誰が悪いとか言い合いになったりしても、それはきっと家族の思い出になるだろう。子供も学校で、うちのお父さんはケーキ作りが上手いだぜなんて自慢できたら素敵だ。
 私のように誕生日に自分のために自分で作ったケーキを食べるというのもオツなものです。シャンパングラスを片手にガウンなど羽織って、ハッピーバースデー、オレ、とか言いながら食べる手作りケーキはきっと一生忘れがたい思い出となるでしょう。


南極観測船ふじとタロとジロとサブロとタケシの話
2007年01月23日 (火) | 編集 |
タロとジロとふじ

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/13s(絞り優先)



 名古屋港にあるタロとジロの銅像と、南極観測船ふじ。オマケとして、ゴミをゴミ箱に捨てている男の人。右側にちょこっとスクリューも顔だけ参加してる。何故か、名古屋港には南極観測にまつわる品々がある。
 国内2代目の極観測船ふじは、昭和60年(1985年)の引退後どういういきさつがあったのか、名古屋港のガーデンふ頭に永久係留されることになった。当時の姿そのままに、南極観測船博物館として一般公開されている。
 入船料大人300円で、船内で各所で働く姿のまま固まったろう人形たちを見ることができる。艦内放送から聖飢魔IIの「ろう人形の館」が流れているとかいないとか(流れてない)。船員あり、観測員あり、床屋あり、歯医者ありと、観測船での生活ぶりがうかがえる作りとなっている。南極観測船好きな人にはたまらない。
 初代観測船「宗谷」はお台場の「船の科学館」に、3代目「しらせ」は現役で活躍中で、4代目は現在建造中という。南極観測船好きならぜひとも全部押さえておきたいところだ。

 敗戦から10年後の1955年(昭和30年)、日本は南極へ行くと決めた。主導は文部省(当時)で、お金も文部省が出すことに決まる。しかし、専用の船はないしお金もない。なんとか見つけてきた船は、建造されてから18年も経ったロートル巡視船「宗谷」だった。海上保安庁所属の灯台補給船を改造して南極へ行くという無茶な計画だった。
 それでも1956年、ど根性で宗谷は南極に辿り着き、以降1962年まで6回も南極へと物資や人を運び続けることになる。
 とはいえ、いい加減老朽化も限界に達し、能力的にも不足すぎるということで、新たに専門の南極観測船を造ることとなった。それが、ふじだ。このときも文部省の予算で造られている。輸送と所属はそれまでの海上保安庁から海上自衛隊に変わった。
 1964年(昭和40年)、南極観測船ふじは完成した。正確には、砕氷艦「ふじ」(AGB-5001)というらしい。全長100メートル、排水量5,250トンは自衛艦の当時最大だった。12,000馬力で最高速度17ノット、厚さ80センチまでの氷を砕きながら進むことができた。その能力は、宗谷の倍だった。船体は一般のものよりも横幅が広く、先端は氷に乗り上げ荒れるように30度の角度がつけてある。定員245人で、輸送ヘリを3機搭載可能とした。
 最初に出発したのは名古屋港かと思いきや東京湾の晴海ふ頭だった。じゃあ、東京湾へお帰りよと言いたいところなのだけど、東京湾にこんなものをつないでおく余裕はないということか。縁もゆかりもない名古屋港につなぎ止められたふじは何を思ってるだろう。
 ふじは1983年までの18年、7次から24次隊まで活躍したあと引退。現在はふじに代わる「しらせ」がせっせと南極へ行ったり来たり行ったり来たりしている。
 名古屋とは縁もゆかりもないと書いたけど、おそらく、近くにあるポートビルの中の「名古屋海洋博物館」と連動した形での展示ということで誘致したのだろうと思う。南極観測船というものの内部を見る機会は一般人にはまずないから、これはなかなかいい試みだと思う。ただし、世の中に南極観測船好きな人は思いのほか少ない。

 そもそもなんで南極なんて行くんだ? と思った人もいるだろう。私もふとそんな疑問が頭に浮かんだ。ロマンと冒険の旅ならそんなにたびたび行く必要もないし、長く滞在する意味もない。南極の土地でも調べてるんだろうか、いいもんが埋まってるとか? なんてとぼけたことを考えた人がいたとしたら、それは私のお仲間だ。けど、南極ってそんなに簡単な場所じゃない。
 一番最初は、国際地球観測年というものに参加する12ヶ国のうちのひとつということで、2次で終了するはずだった。しかもそれは南極ではなく赤道だったのが、予定していた場所がアメリカの持ち物で許可が下りなくて、仕方なく南極となったのだった。だから、船も間に合わせの改造船しか準備できなかったのだ。
 観測する場所も決まらないまま出発して、とりあえず行ってみてよさそうなところで基地を造ろうやってことで造られたのが昭和基地だった。命がけなのに意外と計画は大雑把。ただ、南極でも敗戦国日本の肩身は狭く、南極本土ではなく海岸から5キロ離れた東オングル島になった。ここは強風からは逃れられるものの、本土へ行くにはいちいちヘリを飛ばさなくてはいけないから面倒だ。本土に基地を造ったら駄目と言われたのだろうか。
 1月29日、日本で最初のプレハブ建築が南極に建つ。プレハブっていいねと君が言うから1月29日は南極「昭和基地」設営記念日。
 現在は、管理棟の他、住居棟、発電棟、観測棟、衛星受信棟、焼却炉棟など53もの棟ができている。生活も長期に渡るため、医務棟や食堂、図書館、娯楽施設、郵便局など、ひととおりの設備が整っていて、日本の田舎よりも便利な暮らしができる。寒いのを我慢すれば。
 で、結局南極で何してるのという問いに対する答えは、ごくシンプルに言うなら、観測をしている、だ。気象はもちろん、天体や生物学、地球のことなどいろんなことを観察しているのだった。南極でないと見られないものもいろいろある。
 人員は越冬組と帰国組がいて入れ替わり立ち替わりしていて、合計すると60人ほどが観測隊員ということになるそうだ。想像してたより多い。もっとこぢんまりした施設だと思ってた。

 南極といえばやはりタロとジロのことに触れないわけにはいかない。
 極寒の地で物資を運ぶために犬ぞりが必要とのことで、樺太犬(からふといぬ)が選ばれた。体力があって、寒さに強く、少ない食事にも耐えて、指の間の毛が雪の上での行動に適しているからというのがその理由だった。
 1次隊と一緒に22頭の樺太犬が南極へと渡った。この中にまだ子犬だったタロとジロがいた。実はサブロという兄弟がいたのだけど、こいつは訓練中に腸を痛めて死んでしまったのだった。もし生きていたら、団子三兄弟よりも亀田三兄弟よりも早い樺太犬三兄弟として話題になっていたかもしれない。
 結果的に犬を置いてくることになってものすごい非難を浴びることになるのだけど、犬は道具としてではなく最初から家族同然の隊員として扱われていた。赤道を超えるときに暑さに弱い樺太犬のために冷房装備まで取り付けていったのだから。
 あまり知られてないネタとして、このときオスの三毛猫タケシくんも南極観測隊に参加している。オスの三毛猫はとても珍しくもあり、昔から船の守り神とされていることから一緒に連れていかれたようだ。彼は基地の中で働きもせずぬくぬくと過ごして、無事帰国している。
 越冬隊員と犬15頭を残し、いったん1次隊の半分は日本に帰っていき、その後2次隊を乗せてやてきた宗谷は、昭和基地の手前140キロで厚い氷に行く手をさえぎられて身動きが取れなくなってしまう。スクリューも破損し、天気は荒れて、ついに上陸を断念。1次隊のメンバーはどうにか救出したものの、15頭の犬たちを乗せる余裕はなかった。隊員たちを責めるのは簡単だけど、彼らの思いを想像するとなんとも切ない。
 一ヶ月後に自分たちが戻ってくると信じて、ひと月分の食料を置いて鎖に繋いで南極を後にする。しかし、戻ってこられたのはそれから一年後のことだった。
 タロとジロはどんなに飢えても仲間を食べたりはしなかった。ペンギンやアザラシのフンを食べたり、ときには兄弟でペンギンなどを狩っていたのではないかと言われている。実際、3次越冬隊によってその様子が目撃されている。
 タロジロ生存のニュースは日本国内にいち早く伝えられ、明るい話題として大変な評判となった。高倉健さん主演の『南極物語』は、ある一定の年齢以上の人なら一度くらいは観てるだろう。最近アメリカでリメイクもされた。
 生き残ったタロとジロは、再び南極へ行っている。もうこりごりと断らなかったのだろうか。ジロは1960年に南極で病気のため死に、帰国後はく製になった。タロは帰国してから北海道大学植物園で余生を過ごし15歳まで生きた。こちらもはく製になっている。タロとジロの子孫が今日本全国にいるという。
 現在の南極は生き物持ち込み禁止となっているので、もうタロとジロのようなことは起こらない。

 あなたは南極へ行ってみたいと思うだろうか? 私は少しだけ思う。マイナス40度の世界はバナナでクギが打てるから楽しそうだとかいう理由ではなく、あまり人が行ったことのない土地だからという理由で。
 ただ、宇宙ほど一般人お断りではないにしても、思い立ったらふらっと旅行に行けるような場所ではない。JTBの代理店へ行って、ちょっと南極まで2泊3日で行きたいんですけど、いいツアーないですか? などと訊ねたらこいつふざけてるなと思われて相手にしてもらえない。稀に日本の旅行会社でツアーを組むことがあるようだけど、やはり人数も集まらない分、めったになくてなおかつ高い。100万くらいするという話だ。もうひとつは、アルゼンチンまで飛行機で飛んで、そこから船で行くというツアーがあるようだ。それでも50万やそこらはかかるだろうけど、南極行きはそれほど非現実的な旅行ではないのかもしれない。
 南極観測隊の一員になるにはどうすればいいか? それは私には分からない。何か特別な育成コースとかがあるんだろうか。それとも一般公募したりするのか。
 かつて、まだ誰も日本人が南極へ行ったことがなかった時代、南極大陸冒険者募集で新聞にこんな広告が載った。その応募資格がこうだ。
 マイナス40度の寒さに耐えられること。
 堅忍不抜の精神を持っていて、多量の飲酒をせず、歯の力が強くて梅干しのタネをかみ砕くことが出来る者。
 家族のしがらみがなく、後顧の患いがない者。

 とりあえず私は梅干しのところで駄目だと思う。南極への道のりは遠い。
 遠い将来、地球温暖化が進むと、人類は南極や北極にしか住めなくなるという話がある。そのときは普通に行ける場所になっているのだろうか。けど、そこもオゾン層の破壊でやっぱり住めなくて、人類は寒さというものを忘れてしまう時代が来るかもしれない。そんなときはもう誰もタロとジロの話をしなくなるだろう。だからせめて私たちが彼らのことを覚えていよう。高倉健さんの名演技と共に。


今食べたいサンデー料理、ついに「突撃!私の晩ごはん」が始まる!?
2007年01月22日 (月) | 編集 |
食べたいサンデー

PENTAX istDS+SMC Takumar 55mm(f1.8), f2.8, 1/60s(絞り優先)



 今回のサンデー料理のテーマは、今日食べたいものを作って食べるだった。新しい料理への挑戦というサンデー料理の基本テーマからはややはずれるものの、食べたいものを作るというのが料理の基本であることは間違いない。今年になってからはまだおせちもどきしか作ってなかった。去年の暮れからも休みがちになってしまっていたし、ここらで一度リセットして、去年作ったものの集大成として自分の好きなものを作ることにした。バランスがあるから、必ずしもこの3品が自分のベスト3というわけではないのだけど。

 最初にコロッケが食べたいと思った。普段あまり揚げ物は食べない私も、ときどき無性に油ものが食べたくなることがある。最近の研究で、油を摂取した直後に脳の中でモルヒネと同じような脳内麻薬ベータ・エンドルフィンが分泌されることが分かったそうだ。1.5倍くらいになるらしい。私の脳も麻薬を必要としたということか。
 ノーマルコロッケよりもクリームコロッケが好きなのだけど、今日は新たな試みとして、ハーフクリームコロッケにしてみた。
 小麦粉、バター、牛乳からホワイトクリームを作って、ジャガイモはレンジで加熱してからつぶして、刻んだタマネギと混ぜる。揚げ方としては、最初に高温でさっと揚げた後、もう一度低温でじっくり二度揚げすると更に美味しくなる。普通面倒だからそこまではしないけど。
 ソースは手作りトマトソース。タマネギの刻みをオリーブオイルで炒めて、皮をむいて乱切りしたトマト、トマトジュース、ケチャップ、砂糖、塩、コショウ、赤ワイン、コンソメの素を煮込む。お好みでニンニクや牛乳を入れてもいい。
 クリームコロッケほどドロッとせず、ジャガイモほどパサパサしないしっとりまろやかなハーフクリームコロッケはオススメだ。トマトソースとの相性もよく、油によって脳内麻薬も分泌されて幸せな気持ちになれる。これは私の料理の中でも安心して人に出せる1品として定着しそうだ。

 右のはカニ玉あんかけ。
 溶き卵、レンジで水切りしてつぶした豆腐、だし汁、カニ缶、シイタケ、鶏肉を混ぜ合わせ、茶碗の中に入れてラップをかぶしてレンジで5分ほど加熱する。
 たれは、しょう油、みりん、酒、めんつゆに豆板醤を入れて辛みを効かせる。ひと煮立ちさせて、水溶きカタクリ粉でとろみをつけたものを上からかければ出来上がりだ。
 和風なんだけどピリ辛であっさり味なので、子供も大人もいける。中華風にしたければごま油を入れればいい。蒸しものは面倒というイメージがあるけど、電子レンジで応用が効くものが多く、レンジでやると一気に簡単料理になる。料理は焼くか煮るかだけじゃない。

 左上のは写真で見るとコンニャクっぽいけど、実はマグロステーキだ。
 マグロの切り身を薄くスライスして、塩コショウした後、たっぷりのオリーブオイルで軽く焼く。
 ソースは、卵(卵黄だけでもいい)、白味噌、マヨネーズ、酒、みりん、レモン汁(または酢)、塩、コショウ、マスタード、しょう油を混ぜて作った。少し温めて卵が固くなりすぎない程度にとろりとさせる。味が濃いと思ったらだし汁などで薄めればいい。
 これは魚嫌いの人でも美味しく食べられると思うから、一度試してみてほしい。魚が苦手という人の心理としては、骨が邪魔くさいというのと、塩焼きや煮付けなどのいかにも魚っぽいのがイヤだというのがあると思う。魚の身そのものが嫌いという人は少ないんじゃないだろうか。だから、身を肉のように調理すれば、魚嫌いの人もきっと魚を食べられるはずだ。私自身がそうだから。

 今日は自分が食べたいものを作ったということもあって、自画自賛の出来となった。こりゃ美味しいなと普通に思ったから、サンデー料理史上かなり上位に位置するだろう。去年一年、週に一度作り続けて、ようやく家庭料理のレベルにはなった。小中学生の子供を持つバツイチの人の主夫に明日からなれる即戦力として私を誰か採用しませんか? いらない? そうですか、それは残念です。
 今年はいよいよ、「突撃!私の晩ごはん」が始まる。まずは私に対して好意的な人のところから始めて、最終的には道で会ったら挨拶くらいはするという人のところにも無理矢理私の料理をお届けするというあたりまでいきたいと思っている。ただ、町内会で苦情が出ないように気をつけたい。オオタさんが無理矢理うちに夕飯を押しつけてくるので困ります! とか言われないようにしよう。鍵っ子の子供を捕まえて、無理矢理食わせてみるか。
 私がどこへ行こうとしているのかを訪ねることはない。あなたの家に行こうとしているのだから。電話一本で料理ではなく私をお届けします。食材を用意して待っていてください。ただし、調理時間は2時間かかるので、気長な人限定です。


忘れちゃいけない名古屋人のひとり加藤清正をよろしく
2007年01月21日 (日) | 編集 |
加藤清正像

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/200s(絞り優先)



 名古屋生まれで大成した人を見ると、ほとんど例外なくよその土地に移った先で成功している。特に戦国時代がそうだ。豊臣秀吉といえば大阪、前田利家といえば金沢、山内一豊といえば土佐というように、名古屋を捨てて名をなした人が多い。織田信長はそうそうに岐阜に移り、愛知県岡崎市出身の徳川家康も江戸に行ってしまった。江戸時代、尾張徳川家はついにひとりの将軍も出すことなく終わってしまったのも、地元にいては駄目だということを表している。
 今日紹介する加藤清正もそういうひとりだ。清正といえば熊本城に虎退治というイメージが強く、名古屋色は薄い。秀吉と同じ名古屋市中村区(名古屋駅の裏)生まれということを知っている人は少ないかもしれない。名古屋人も清正のことをあまり郷土の英雄として祭り上げてない。最後の領地となった熊本では今でもみんなに慕われているというのに。
 そういう私も、清正について詳しいのかと問われると口ごもってしまう。清正を主人公にした小説も読んだことがないから、表面的な知識しかない。これじゃあいけないと思い、今日は清正について勉強してみた。その成果をここに惜しみなく披露したい。拾った知識はみんなに配らないとバチが当たるから(そうなのか?)。

 1562年に尾張の土豪の息子として生まれた清正は、早くに父親を亡くして、近所でもあり、母親同士が遠い親戚ということもあって、9歳のときに豊臣秀吉に仕えることになる。そんな清正を秀吉とねねは我が子のようにかわいがったという。同じような境遇に福島正則がいて、のちに二人は大の親友となる。
 初陣は14歳、長篠の合戦だった。翌年に元服して、170石を与えられて秀吉の正式な配下となった。
 清正の名が知られるようになるのは、1583年の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)からだ。のちに賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになる七人のうちのひとりに入る活躍を見せた。二十歳そこそこでかなりの武勇伝をあげたことになる。これで所領は一気に3,000石となる。オリラジ並みのスピード出世だ。
 本能寺の変で信長がいなくなり、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家(名古屋市名東区生まれ)との後継者争いに勝った秀吉と共に、清正は数々の武勲をあげていくことになる。織田信長などと違って秀吉は代々の家臣などひとりもいないので、このように子飼いの武将や仲間に引き入れた武将などを集めて家臣団を作っていった。
 1585年に秀吉が関白に就任。勢いは完全に秀吉のものとなり、屈強だった島津家もついに降伏。その後肥後(熊本)を任されていた佐々成政が秀吉の怒りを買ってしまった代わりに、清正は肥後を与えられることになる。小西行長との分割統治とはいえ、いきなり25万石の城持ち大名となった。このとき清正26歳。異例の大抜擢であった。
 ただ問題は、清正と小西行長があまりにもそりが合わなかったことだ。キリシタン大名として有名な小西行長に対して日蓮宗信者の熱心な信者だった清正は、キリシタンを弾圧した。そのことでますます二人の中はこじれることになる。関ヶ原の合戦で清正は家康側の東軍につくことになるのだが、このときここぞとばかりに小西行長をやっつけまくった。関ヶ原とは遠く離れた九州で違うケンカが起こっていたのだ。

 清正といえば朝鮮出兵も重要な要素のひとつとなる。福島正則たちと共に秀吉の命で朝鮮に渡り、長く無益な戦いを強いられた。清正が何を思っていたかは分からない。本気で朝鮮を領土にできると思って戦っていたのだろうか。向こうでは大暴れしてたくさんの戦功を立て、朝鮮の民からは鬼将軍として恐れられたという。そのことがあって、韓国や朝鮮の人たちは今でもあまり熊本へ行きたがらないらしい。
 ただ、向こうで悪いことをしていたわけではなく、現地の人が困っているということで虎退治をしたり、捕虜に対して人間的に接したということで慕われたりもしている。清正はただの暴れん坊ではないのだ。
 そんな清正を妬んだのが石田三成だった。清正もインテリの石田三成を嫌っていて、ふたりはしだいに犬猿の仲となっていく。朝鮮出兵中に、三成は清正がこっちで悪いことをしてると秀吉に言いつけたことで清正は日本に呼び戻されて謹慎になってしまう。
 秀吉の死によって朝鮮戦争はうやむやのうちに終結となり、石田三成と清正のいがみ合いはますます強くなっていく。1599年に前田利家が死ぬと歯止めがきかなくなり、福島正則や浅野幸長ら6将と一緒に石田三成を暗殺しようとまでしている。これは家康になだめられて未遂に終わるものの、三成は謹慎となり、このことが関ヶ原の合戦へとつながっていくこととなる。
 関ヶ原の合戦は、もともと豊臣秀吉恩顧の西軍対それに取って代わろうとする東軍徳川家康軍との天下分け目の決戦だった。だから、秀吉に最も近い清正は本来なら当然西軍についてないとおかしい。しかし、西軍の大将は大嫌いな石田三成で、仲間にはこれまたいがみあってる小西行長がいる。清正としては秀吉に対する忠誠心がありつつ、時代の趨勢からも家康の方につくことを選んだ。
 結果は東軍勝利で、九州での活躍が認められて、清正は小西行長の所領ももらって肥後全州52万石の大名となった。清正としては、にっくき二人をやっつけて、領地も倍増してよかった。内心は複雑だっただろうけど。

清正石

 写真の石垣の巨大石は、通称「清正石」と呼ばれているものだ。幅6メートル、高さ2.5メートル、畳にすると十畳ほどの石が石垣の中にしっかり組み込まれている。こんなことができるのは清正しかないだろうということで清正石と名づけられた。実際は、この場所は黒田長政の担当だったので長政の仕事であろうということになっている。
 清正が担当した名古屋城天守台の石垣は、とても美しい。なだらかなカーブを描く石垣は、「清正三日月石垣」と呼ばれている。

 これだけ勇猛な武将でありながら、清正は城造りの名人でもあった。家康に許されて、熊本城築城に取りかかる。1608年、地方の大名にはふさわしくないほど立派な熊本城が完成した。各地から最高の技術者を集め、海外貿易で稼いだ資金を使い、領民には休みもしっかり与えたので、働き手は皆、喜んで仕事に従事したと伝えられている。
 その他、治水や土木でも当代一流だった清正は、領地の暴れ川を治めたりもしている。このあたりでも、いまだに熊本では「清正公(せいしょこさん)」と称されて慕われている要因なのだろう。
 熊本城は、明治10年、西南戦争のとき意外な形で名城ぶりを世に示すことになる。西郷隆盛軍が勢いに乗って北上する途中、熊本城にろう城した政府軍に思いがけず足止めを食ってしまう。少数の守備隊しかいないにもかからず熊本城は落ちない。そうこうしてるうちに政府軍の援軍が到着してしまい、西郷軍はそこから敗走を始めることになる。もし熊本城を落としていれば、西郷軍のその後は違ったものとなっていたかもしれない。しかし、この戦の際に強い風にあおられた飛び火によって大小天守閣など多くが焼け落ちてしまった。

 名古屋城天守の石垣を組み終わった清正は、やれやれとほっと一息ついたことだろう。家康に押しつけられた無理な築城仕事もやり終えて、しばらくのんびりできると喜んだかもしれない。それでも隠居するにはまだ早い49歳。
 二条城で家康と豊臣秀頼との会見が行われることになり、清正はそれを取り持つ役割を果たすことになる。形の上では家康の側についていた清正も、気持ちの中ではいまだ徳川家の家臣という思いが強かったのだろう。豊臣家を残すよう家康に訴えるつもりがあった。何かあったら家康と差し違えるつもりで懐に短刀を隠し持っていたという。
 家康もまた、清正の思いに気づいていなかったはずがない。武将としても一目置いていた清正を家康は恐れた。
 帰りの船の中で清正は突然発病し、帰国後熊本で急死してしまう。死因は心筋梗塞だとか脳出血だとかライ病だとかいろいろ言われいてはっきりしない。まことしやかに家康によって毒まんじゅうを食べさせられたというウワサも流れた。
 4年後、大阪夏の陣により豊臣家は滅亡する。清正が生きていれば大阪城が落ちるはずはなかったと言われる。
 21年後には嫡男の忠弘が改易され、肥後は以降細川家のものとなる。ただ、細川家の偉かったのは、清正人気を妬まずに自分たちも敬愛したことだ。熊本では今でも清正のことを悪く言う人はほとんどいないという。

 戦に強い武将ということで大男のイメージがある清正は、実は背は高くなかった。シークレットブーツではなく、長い帽子で大きく見せてはいたものの、実際は160センチそこそこだったと伝えられている。
 相当な潔癖性だったというのは意外だ。痔ということもあってか、便所でしゃがむときは30センチの高さの下駄をはいてしていたらしい。昔はくみ取りだから、はね返ってくるのを嫌ったのだろう。
 口の中に握り拳を入れることができたというのはちょっと有名な話だ。清正が好きだった新選組の近藤勇もマネしてやっていた。その近藤勇のマネをしてSMAPの香取慎吾も拳を口に入れるのをよくやっている。それを見た私も挑戦してみたけど、まったく入りそうになかった。こんなものが入る口はどうかしてる。
 結局、加藤清正というのはどんな人だったのか? いくつかの顔を持ちながら、そんなに複雑な人物ではない。強い武将でありながら城造りの名人で、インテリではないけど愚直でもなく、善人ではないにしても悪人でもなく、好き嫌いがはっきりした正直な人だった。忠義心は強く、野心はさほど強くなく、ある意味では普通の人間だったと言えるだろう。魅力的で愛すべき人だ。私の中では、理想の上司像みたいなイメージが出来上がった。戦しか能がないような武人でもなく、権謀術策の政治家でもない。現代に生きていたとしても何か立派な仕事を成し遂げることができる人だ。
 加藤清正って、こんな素敵な人だったんだと、これを読んで思ってもらえたら嬉しく思う。私自身、今日勉強して初めて知ったことばかりだったから、今日からもっと清正さんのことを敬愛したいと思う。熊本の人たちを見習って。


120歳の半田赤レンガ工場は眠りの中で100年前の夢を見る
2007年01月20日 (土) | 編集 |
半田の赤レンガ-1

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.6, 1/100s(絞り優先)



 半田名所巡り4部作の最後は赤レンガ工場。明治にカブトビールの工場として建てられたこの建物は、歴史の紆余曲折と共に歩み、今は静かな眠りについている。老いた紳士のように。120歳の赤レンガ工場は、威厳と風格をたたえ、現代に生きる私たちを見下ろす。
 道を一本隔てた反対側にはナゴヤハウジングセンターがあり、小さな子供を連れたたくさんの親子連れが戦隊ショーに歓声をあげていた。赤レンガは薄目を開けてその様子をちらりと見た後、また目を閉じて眠りに戻る。森の主のフクロウみたいに。

 ミツカン酢(中埜家)4代目の又左衛門と、のちに敷島パンを創設することになる盛田善平らによってビール会社・丸三麦酒醸造所が作られたのは1887年(明治20年)のことだった。2年後の明治22年、ビールは完成し、丸三ビールの名前で売り出されることになる。明治29年に会社名を丸三麦酒株式会社とし、明治31年この地に赤レンガの工場を建設した。ビールの銘柄もこのときカブトビールと改名される。
 工場の設計は明治建築界の三大巨匠と言われた妻木頼黄(つまきよりなか)が担当した。横浜の赤レンガ倉庫を設計したのもこの人だ(あとの二人は、東京駅や日本銀行本店を建てた辰野金吾と、赤坂迎賓館や京都博物館を設計した片山東熊)。
 赤レンガ造りにしては珍しく5階建ての高層建築で、のちの三度の増築も含めると、赤レンガの数は240万個になるという。現存する赤レンガ建築としては、東京駅、横浜赤レンガ倉庫、北海道庁に次いで全国4位だそうだ。
 ビール工場としては、北海道のサッポロビール工場もアサヒビール吹田工場も建て替えられ、東京の恵比寿ビール工場も取り壊されてしまった今、初期のビール醸造所の姿をとどめるのはここだけとなった。
 一部5階建てで全体には2階建ての鉄板葺。創建当時の主棟の他、ハーフティンバー棟、貯蔵庫棟によって構成されている。東側の部分は取り壊されて現在は残っていない。

赤レンガ貯蔵庫

 北側の重厚なレンガ造りと比べると、南側は軽やかな印象の赤レンガ造りとなっている。このように柱や梁(はり)、筋違(すじかい)などの骨組みを外にむき出しにして、煉瓦や土などで壁を作る様式をハーフティンバーという。イギリス、フランス、ドイツなどによく見られるもので、明治時代の日本人がそちらの方を向いていたのを示している。かつての日本人の憧れの対象は、アメリカではなくヨーロッパだった。だから、明治の建物は美しい。
 こちら側の建物は明治末期と大正時代に増築された部分で、貯蔵庫などに使われていたようだ。
 赤レンガというと、横浜の赤レンガ倉庫をまず思い浮かべる人が多いと思う。小樽運河も有名だ。その他、各地に少しだけ残っている。金沢や福井、京都の舞鶴や神戸、姫路、広島、長崎などに。
 倉庫ではなく建物としては、名古屋ではノリタケの工場がそうだ。もちろん、東京駅も。明治から大正にかけて、日本人はいい建築物をたくさん作っていた。明治村へ行くとそのことがよく分かる。あの頃の美意識はどこへ行ってしまったのだろう。

 第二次大戦の末期、この赤レンガ工場は中島飛行機半田製作所の衣糧倉庫として使われていた。それを知ったアメリカ軍によって、ここは攻撃目標とされてしまう。B29が爆弾をばらまき、その後にやって来た小型戦闘機P51によって工場は機銃掃射を浴びせられた。今でも赤レンガの外壁にはそのときの無数の弾痕がはっきりと残っている。それでも尚、赤レンガ工場は倒れずに建ち続けてきた。
 終戦後、1949年(昭和24年)から1996年(平成8年)まで、この建物は日本食品化工株式会社のコーンスターチ加工工場となっていた。しかし老朽化も進み、工場は閉鎖。取り壊す方向で話が進んでいた。
 そのとき飛んできたのが日本中の赤レンガ野郎たちだった。取り壊し、ちょっと待ったとあちこちから声がかかり、学術調査が入り、こんな貴重な建物を壊すなんてもってのほか、断固保存すべしということになり、平成8年に半田市が土地ごと買い取ることで話がまとまった。平成16年には国の登録有形文化財となり、現在は半田観光の目玉のひとつとなっている。
 残念ながら、普段は非公開で建物の外側からしか見ることができない。年に数回一般公開をしているものの、いついっても見られないというのでは観光としては弱い。建物が常時公開に耐えられないほど老朽化してるのだろうか。次の公開日は3月の3日、4日だそうだ。

赤レンガ北側

 オリジナルのカブトビールを飲んだことがあるという人ももうほとんどいなくなった。1933年、サッポロやアサヒの前身である大日本ビールに合併吸収されてカブトビールは消えた。けど、かつて一地方都市のローカルビールが、大手4大ビールメーカーと互角に競っていた時代があったのだ。それがこの赤レンガ工場で作られたカブトビールだった。
 漢字で書くと、加武登麦酒。日本酒を喉を鳴らして飲むことをカブルというところから名づけられたという。商標は、日清戦争に勝って兜の緒を締めよから兜マークとした。
 酒造りで培った技術と経験、そして中埜家の財力を費やし、満を持して出品した1900年(明治33年)のパリ万国博でカブトビールは金牌を受賞する。その後全国で売れに売れたそうだ。
 2005年、かねてより続いていた研究が実り、明治のカブトビール復刻版が完成した。330ml650円で、半田のいくつかの場所で販売している(寿司料亭魚福、黒牛の里、半田ステーションホテル、山田屋ベル、花まんま、ビアシティ南知多など)。一般公開日に買うこともできる。

 何も知らなければほとんど廃墟のようにしか見えない赤レンガ工場には、多くの夢や思いや歴史が刻まれていた。たった120年、でもそれは軽くない120年だ。
 今ではたまに揺り起こされる以外は眠りについた赤レンガは、未来にどんな夢を見ているのだろうか。ときどき訪れる私たちのような人間をどう思っているのだろう。かつての活気と情熱に満ちていたときの思い出に浸っているのか。
 朽ちそうな赤レンガの建物を見上げながら私が思うのは、何があろうと、どんな姿になろうと、建ち続けることの意義だ。人が死ぬより生き続けることの方が難しいように、建物もまた壊されるより建っていることの方がずっと難しい。ただ生きればいいってもんじゃないと言うけれど、ただ建っていればいいということもある。
 私たちも120年生きて、昭和のことを語ろう。120年後には消えてなくなってしまったあれこれのことを。


酒も飲めないくせに酒の文化館に迷い込んで逃げ出す二人
2007年01月19日 (金) | 編集 |
國盛酒の文化館

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.0, 1/200s(絞り優先)



 ミツカンの「酢の里」を訪れたならば、セットで行っておきたいのが「國盛 酒の文化館」だ。別にどちらから先に行ってもいいし、片方しか行かなくてもいいのだけど、せっかく半田まで足を伸ばしたならついでに寄っていこうかとなるのが人情というものだろう。私もツレも酒を一切飲まない人間だけど少しだけ入ってきた。本来なら事前に電話予約が必要らしいけど、このときはそのことを知らずに普通に入れてもらえた。駐車場は酢の里と共通になるようで、歩いて5分もかからない。
 國盛(クニザカリ)という酒がどの程度有名なものなのか、酒に縁のない私にはさっぱり分からない。酒といえば、「信長 清洲城鬼ころし」くらいしか知らない私。ワンカップ大関は酒の種類なのか商品名なのかもあやふやなくらいだ。もしかしたら國盛というのは酒好きなら知らない人はいないってくらい有名なのかもしれない。
 酒の博物館である「酒の文化館」は、中埜酒造株式会社がやっている。中埜といえばミツカンだから中埜家の兄弟会社なのかと思いきや、少し事情が違った。

 江戸時代、半田は酒造りが盛んな土地だった。最盛期には227軒の酒蔵があって灘に次ぐ全国で2番目の大生産地だったそうだ(現在は7軒ほどしか残ってない)。温暖な気候ときれいなわき水に恵まれ、運河が発達していたことで江戸と上方の両方に酒を運ぶのに都合がいいという地の利もあった。半田の酒を上方との中間に位置しているということから「中国銘酒」と呼ばれていたという。
 江戸時代末期の1844年、小栗富治郎がこの地で酒造りを始める。酒の名前は、この国と共に盛んになるという願いを込めて「國盛」とした。江戸ではペリーが来航して大騒ぎになり、ミツカン酢によって江戸前鮨が大流行している時代だ。この時期は酒も盛んに飲まれていた。
 明治になり、二代目、三代目と移り、時代も変わっていった。昔からの伝統的な製法を残しつつ最新の技術も導入されていくことになる。
 その後明治42年に、ミツカンの中埜家に経営が移り、会社の名前も丸中酒造合資会社となった。中埜家との関わりはそういうことだったのだ。出発点が同じだったわけではない。
 第二次大戦、オイルショックという苦しい時代を乗り越え、現在はミツカングループの一角として、中埜酒造株式会社となっている(平成2年まではマルナカ株式会社だった)。
 前置きが長くなった。それでは、「酒の文化館」へと踏み込んでみよう。

酒の文化館の見学者たち

 入口の受け付けで名前とどこから来たかを告げる。見学コースを希望しますかと訊かれて、自分たちで回りますと断った。そんなに本腰を入れて見学するつもりはなかったから。酒に興味がない身で1時間近いコースはきつい。大学の講義じゃないんだから。
 二階へ上がると思った以上に狭くて逃げ場ない。ガイドのお姉さんと見学客とのやりとりが妙に盛り上がっていて熱気に圧倒される我々。完全に場違いなところに迷い込んでしまったことを悟るのに時間はかからなかった。入って2分で逃げ腰になる。
 それでも多少は興味があるフリをして写真などを撮りつつ見て回る。しかし見て回るといっても一周5分もかからない。二周してみたけどそれ以上どうすることもできず、お邪魔しましたーとこっそり入口から帰ろうとする私たちは呼び止められてしまう。ちょっとお待ちください、と。万引きが見つかった中学生のようにひるむ二人。いや、何も盗んでません! と言おうと思ったら、出口はそっちじゃありませんと注意されてしまった。どうやら見学コースを逆走していたらしい。あ、いや、すみませんと恐縮しつつ、コースに復帰する。けど、コース上には販売コーナーがあり、店員さんがニコやかな顔で待ち構えている。否が応でもそこを通らずには外へと出られない仕組みになっているのだ。思わず目が合ってしまって固まること3秒。3秒が永遠に思えた。けど、酒を飲まない我々に買いたいものなどあるはずもなく、どうもありがとうございましたー、と愛想笑いを浮かべながら逃げるように出口から飛び出したのであった。
 完全に入る場所を間違えたようだ。「酢の里」だったら酢でもおみやげに買ったかもしれないけど、酒はいらなかった。他にも食べ物とかのおみやげもあったのだろうけど、そこまでじっくり見る余裕はなかった。ここは酒を飲む人が入るところだ。もしくは、酒造りに興味津々の人か。高校生のとき、間違えてパンクの洋服店に入ってしまったときの遠い記憶がよみがえった。あのときは怖かったな、トゲつきの革ジャンとか買わされそうになって。

酒の文化館の道具たち

 マジメに酒造りのことを勉強して知りたいという人にとって、ここはとてもいいところなのだと思う。ガイドさんの説明もおざなりではなく熱心で、見学者との掛け合いも楽しげだった。試飲などが入って酒場っぽい雰囲気も漂いつつ。
 1986年に中埜酒造が新工場を完成したのをきっかけに、日本酒の知識と理解を深めてもらうと、酒の博物館としてここは作られた。かつて使われた伝統の道具が並び、パネルの説明書きやミニシアターコーナー、人形による酒造りの様子紹介などがある。
 酒好きの人にとっての楽しみはやはり試飲だろう。8種類ほどの酒を飲み比べることができるそうだ。おみやげコーナーもたぶん充実していることだろう。私は目を合わせられなかったのでよく見えなかったけど。
 電話による事前予約が必要で(飛び込みでも入れるけど試飲はできない)、入場は無料。10時から4時で、第3木曜日が定休日。

 帰ってきてから少しだけ日本酒について勉強してみた。
 原材料は米と水と麹(こうじ)。それに酵母や乳酸菌なども使われる。原材料の80パーセントが水なので、水選びによって味は大きく違ってくる。
 蒸した米に麹菌というカビの胞子をかけて育てるところから始まる。これが米のデンプンをブドウ糖に変えて酒の母(もと)となり、水などを加えてもろみとなる。こいつを圧搾機で搾ると、酒と酒粕に分けられる。この酒粕が粕酢になるというわけだ。
 搾った酒は、ろ過と加熱をして、しばらく置いておく。そんなこんなで約60日、こうして日本酒が出来上がる。本当はもっと複雑な工程を経ているけど、詳しくは知らないので省略してしまう。
 いつ頃から日本で酒造りが始まったのかはよく分かっていない。米を発酵させた酒の原形みたいなものはかなり古くからあったのだろう。米作りが始まったと同時くらいにはもうあったかもしれない。清酒となるとずっとあとの時代のことだ。
 吟醸酒や大吟醸というのも今までどういう違いがあるのか知らなかった。米は中心の部分が酒造りには向いていて、まわりを50パーセント以上削ったものを大吟醸、40パーセント以上を吟醸酒といったように区別するそうだ。本醸造酒が30パーセント以上で、一般的な普通種はそこまで精米してないものを指す。
 純米酒というのは、白米、米麹、水だけを原料として造った清酒のことをいう。
 大吟醸の方が高級にしても、それぞれ好みがあるから高価なほど美味しく感じるというわけではないのだろう。昔、うちの死んだじいさんは、特級など持っていくと喜ばずに、いつも二級の日本酒を飲んでコタツで寝ていた。ただ、この一級、二級という呼び方は1992年に廃止されたらしい。

酒の文化館の裏

 出口からの脱出に成功した私たちはほっと一息ついた。まいったというより申し訳なかった。あれじゃあ完全に冷やかしだ。けど、きっと私たちみたいな人が他にもいるだろうから、向こうも慣れたものだろう。どこの世界にも迷子というのはいるものだ。
 運河沿いの裏側も風情があっていい。ツアーだと表しか見ないだろうけど、ちょっと自由行動で裏まで回ってみると蔵の違う顔が見られる。

 酒を飲めないと言うと、損をしていてかわいそうみたいな言われ方をすることがある。人生の喜びを知らなくてもったいない、と。けど、酒の席での失敗と酒が飲めないことの損失を天秤にかけたとき、酒で得られるものよりも酒で失うことの方が多いようにも思う。少なくとも可能性の問題として、酒によって大事なものをなくしてしまうことがあり得る。
 それに損得というのは酒を飲む側から見た論理であって、飲めない方からすると特に損をしたという感じはない。大麻を吸わなくても普通に生きていけるように、酒を飲まなくても他で充分幸福感は味わえている。飲まなくちゃやってられないような強いストレスも抱えてない。体にいいといっても、他にも体にいい飲み物や食べ物があたくさんあって、酒に代わるものがないというわけではない。
 おそらくこの先も、私の場合酒を飲まない人生が続くことになると思う。それでいい、たとえ損をしていたとしても。飲むのも人生、飲まないのも人生。どちらにも幸せと不幸がある。自分の意志でどちらにするか決めればいい。
 酒が飲めない人生に乾杯。


ハロー・グッバイ、旧中埜家住宅紅茶のおいしいT's Cafe
2007年01月18日 (木) | 編集 |
旧中埜家住宅

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.0, 1/160s(絞り優先)



 半田へ行こうと思ったきっかけは、ネットで知ったこの建物だった。国の重要文化財に指定されている旧中埜家住宅。「明治村(明治時代の建物を移築展示してある野外博物館)」が大好きな私だから、明治の建物には目がないのだ。ミツカン酢や赤レンガが見たくて半田へ行ったのではなかった。これが見たかったのだ。
 ひと目見て、お、いいねぇと思う。これだけ古いと住むのは大変だけど、見て回るだけなら無責任に楽しめる。更にここのいいところは、紅茶専門店「T's Cafe」として現役で使われているところだ。もちろん、一般客として中に入ることができて、室内を見学することもできる。重要文化財といっても保存しておくだけでは能がない。こうして違う形で活用して一般に公開するのは私も大賛成だ。貴重なものほど実際に見て触れて初めてその価値が分かるものだから。

 ミツカン酢の第十代当主中埜半六がイギリス留学中に見たヨーロッパの住宅の美しさに感動して、帰国後の明治44年に別荘としてこれを建てた。
 設計は東海地方建築界の権威だった名古屋高等工業学校教授の鈴木禎次。アールヌーヴォーを取り入れたイギリスチューダー様式住宅は、木造二階建てで、壁にはレンガを使用し、屋根はスレート葺きとなっている。飾り窓やバルコニーなどが明治時代の優雅な感覚を今に伝える。イギリスチューダー様式の建物が残っているのは全国でも珍しいそうで、1976年(昭和51年)に国の重要文化財に指定された。
 敷地は丘の上にあって、当時は三河湾まで見えたという。現在はここだけが時間に取り残された異空間となっている。
 1950年(昭和25年)にいったん洋裁専門学校の桐華学園として使われた後、しばらく放置された。けど、せっかくこんないい建物が残っているんだから何かに使えないかとみんなで相談して、喫茶店にすることに決まった。なんだか、文化祭で何をするか意見がまとまらずに喫茶室になってしまったというのにちょっと似てるけど、重要文化財の明治の建築物でお茶できるというのはありがたいことだ。資料館とかよりはずっと気が利いている。
 ひととおり周囲を見て回った我々は、いよいよ紅茶専門店「T's CAFE」に潜入することにする。やや及び腰で入口の扉を静かに開けた。

T’s Cafe店内

 店内は、できる限り古い内装を残しつつ、喫茶店として機能させていくための近代的な設備がチラホラ顔をのぞかせている。暖炉の中にファンヒーターが置かれていたのはちょっと笑えた。これはどうなんだろうと。コンセントなどもむき出しになっていたりして、あちこちで時代考証が間違っているのがやや残念だった。もう少し演出に気を遣うと、もっと気分に浸れるはずだ。
 それでも店内はさすがに普通の喫茶店とは違う雰囲気を醸しだしていて趣がある。華麗なる一族の邸宅のように豪華絢爛すぎないのがいい。これくらいなら庶民がちょっと背伸びをすれば場に馴染むことができる。むしろ、意外と質素な別荘と言った方がいいのかもしれない。このあたりにも、ミツカン酢が浮ついてなくて地に足がついているのを感じさせる。
 ただ、内装に関しては、ここを喫茶店にしたときにかなり改造されただろうから、当時の姿そのままというわけではないだろう。改築する前はかなり老朽化が進んでいただろうし。

T’s Cafe二階

 お店の人にひと声かけると、室内に入らないという約束で二階も見て回ることができる。といっても、こちらは完全に楽屋裏というか、見学用に改築されていない。昭和に洋裁専門学校として使われた当時のまま時が止まっている。畳がむき出しの和室があり、布が簡単にかぶせられただけの機織り機が長い眠りについている。見どころといえば、古さと時間が停止している様くらいで他にはこれといったものはない。まるで使われなくなった田舎の家のようだ。人によっては、こちらの方が身近な懐かしさを感じられて嬉しいということがあるかもしれない。

T’s Cafe紅茶とケーキ

 紅茶専門店だけに、たくさんの種類の紅茶がメニューに並んでいて、何を頼んでよいものやら悩む。ダージリンやアッサムあたりは聞き覚えがあったものの、中国茶まで取り揃えてあって大部分が知らない名前の紅茶だった。それでも、紅茶も飲んだことがないような下級庶民と思われてはいけないと思い、さりげなく写真の紅茶を注文してみた。えーと、なんて名前だったかな。すっかり忘れてしまった。自分が思う以上に舞い上がっていたのだろうか。
 味はかなり酸っぱかった。レモンの酸味だけではない、かつて味わったことがない甘酸っぱさは、次はこれを頼むのはやめようと思わせるものだった。ただ、何を頼んだか覚えていないだけに、それを避けようにも避けきれない恐れはある。全部で30種類以上あったから、紅茶に詳しい人ならきっと楽しめることだろう。紅茶にまったく詳しくない人は、とりあえず午後の紅茶とでも頼んでおけば大丈夫でしょう。それは置いてないと言われたら、じゃあリプトンで、と答えてください。
 700円のケーキセットや、780円のランチセットもあったりするので、紅茶専門店という看板に恐れをなすことはない。コーヒーだってちゃんとある。
 私はケーキセットを頼んでみた。ケーキは4種類くらいから選べるようになっている。どれにしますかと訊ねられて、何気なく手を伸ばして取ろうとしたらそれは見本のケーキで、取っちゃダメ! と、ツレとウエイトレスの両方から同時ツッコミを入れられたお茶目な私であった。ケーキの見本は指差すだけにしなくちゃいけないぞ、庶民の諸君。

 営業は、10:00-18:00で、水曜定休。専用駐車場がないので、店の北にあるトーカヒルズ駐車場に入れる。50分100円だったか。店で1枚駐車チケットをくれるので、50分以内なら無料になる。
 毎月、紅茶教室というのも開かれているそうだ。紅茶の基礎から応用まで、ティーインストラクターの人がいろいろ教えてくれるらしい。値段は1,500円で定員は8名。私も参加したら、紅茶にはちょっとうるさい男になれるだろうか。うーむ、これはダージリンに似てるけどインド北部のシッキムだねとか、お、こいつはフラワリー・オレンジ・ペコーじゃないかとか。
 そんな男ってカッコイイのか? なんか、紅茶版川島なお美みたいでちょっとイヤかも。

 建物をぐるりと見て回って、写真も撮って、紅茶とケーキも味わって、すっかり満足した私であった。これだけでも半田に行ったかいがあった。半田へ行った際はぜひ旧中埜家住宅「T's Cafe」に寄ってみてください。紅茶のおいしい喫茶店ですから。白いお皿にグッバイとつぶやいて、銀のスプーンでくるくるかきまわせばカップにはハローの文字が浮かぶでしょう。
 ハロー・グッバイ、T's Cafe。いつの日か、紅茶に詳しい男になったら再び訪ねます。


半田はミツカン酢の中埜家が作った酢の香りに包まれた町だった
2007年01月17日 (水) | 編集 |
半田運河

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f7.1, 1/800s(絞り優先)



 知多半島のほぼ中央東海岸沿いに半田市がある。西海岸には常滑市があり、その沖合には中部国際空港セントレアができた。しかし、半田と聞いて何か具体的なイメージを思い浮かべることができる人はさほど多くないだろう。名古屋市民の私でも今回初めて訪れてみるまでは何ひとつ知らないも同然だった。県外の人の多くは半田市の存在そのものを知らないかもしれない。
 半田へ行ってみて今の私が言えることは、半田は中埜(なかの)家のミツカン酢のものだ、ということだ。豊田市がトヨタのものであるのと同じように。
 中部国際空港ができて以来、常滑と共に半田も注目されるようになった。知多の海以外の観光を担う二大拠点として。しかし、観光地としての歴史が浅い半田市は、実際に訪ねてみると観光客を迎えるムードは希薄だった。半田運河にしてもミツカン酢にしても赤レンガにしても、直前まで行ってみないと案内看板さえ見当たらず、あたり一帯はごくごく普通の住宅地が続く。本当にここらなんだろうかと不安になるほどだ。
 地図を調べ、いくらか道に迷いながらなんとか「酢の里」に辿り着いた。半田観光はここから始まる。

 半田運河沿いにはミツカン酢の蔵が並び、古い時代の面影を色濃く残す。これはいい。映画のセットみたいだなと思ったら、1940年に黒澤明監督の『姿三四郎』の撮影がここで行われたそうだ。
 しかし、ここは単なる観光地ではなく、現役の施設でもある。外観は古い時代のものを保ちつつ、内部は最新の設備が整った酢の醸造蔵なのだ。景観を損なわないために、電柱や電線を地下に埋めるところまで徹底している。
 ここまでこだわっているのだから、もっと観光地として宣伝すればいいのにと思うけど、ミツカン酢という企業は地元では古くからの名士ということで、そういうあざといことはあまりしたくないのかもしれない。黒板塀に描かれたミツカン酢のマークもさりげない。
 運河沿いには散策路が整備されていて、ぶらぶら散歩するのは気持ちがいい。ただし、周囲一帯は強烈な酢の香りに満ちているので、酢が苦手な人はつらい。一日ここで過ごしたら、白米を食べても酢飯を食べてるような感じになるかもしれない。逆に、酢が大好きという人には、とても魅力的な場所だ。酢の匂いだけでご飯三杯はいける。環境省の「かおり風景100選」にも選ばれている。

酢の里

 「酢の里」前で団体の見学者ご一行様と一緒になった。歩いていたら、いつの間にか団体さんに飲み込まれていて少し驚く。
 ここは江戸時代から続く酢づくりを見学できる、日本で唯一の酢の総合博物館だ。事前に予約すれば無料でガイドさんが案内をしてくれる。コースは2時間ほどで、酢の試飲などもできるそうだ。
 ここは全国的にもなかなか有名なようで、年間8万人ほどが訪れるという。セントレアができて以来、各地から人がやってくるようになったんだとか。近年はお酢が体にいいということで見直されているということもあるのだろう。いつか機会があれば私も見学してみたい。お酢を試飲しまくって血液サラサラになるのだ。

 江戸時代から半田は良質なわき水が出る土地で、酒やしょう油などの醸造が盛んなところだった。更に海運業の発達と共に発展していくことになる。
 1804年、この地で酒づりをしていた中野又左衛門が、酒をつくると大量にできる酒粕を何とか利用できないだろうかと考えて作ったのが粕酢だ。それまで捨てるしかなかった酒粕をいかした見事なアイディア。それを運河から江戸や大坂に運んで売るようになり、ちょうど江戸で始まっていたにぎり鮨ブームに上手く乗った。
 それまで長い時間をかけて自然発酵させていた鮨に、酢で味を付けることで即座にできることが受けて、たちまちミツカン酢は評判になる。その後、にぎり鮨は全国に広まっていった。

中埜酒店

「酢の里」の左側にも目立つ建物がある。旧・東海銀行半田支店、現・中埜酢店中央研究所ビルだ。大正13年に建てられたネオルネッサンス様式のビルの中では、最先端のバイオテクノロジー研究が行われているという。
 ミツカン酢という企業は、いろんな意味で他の企業とは違うところがある。古き良き伝統と最先端という両方の顔を持ち合わせているのが、黒板の蔵やこういうビルからも見て取れる。酢メーカーとしては国内シェア70パーセントのトップ企業でありながら(世界では2位)、借金なしという昔気質の一面もあり、社長は世襲制で代々又左衛門を名乗っていたりもする。
 現在は大きなグループ企業に成長して、調味料としての酢だけでなく様々な製品を出している。味ぽん、ゆずぽんや、飲むための純玄米黒酢、最近では金のつぶなどの納豆も売っている。
 おなじみのミツカンマークには意味があった。酢の命である味、きき、香りの3つの要素を丸くおさめるという意味で、明治20年に四代目又左衛門が考案したそうだ。

 今までほとんど何も知らなかった半田市とミツカン酢が、私の中で一気に身近なものとなった。半田にはこの他にも、中埜兄弟の酒店やカブトビールの赤レンガ工場、中埜家住宅、紺屋海道などの見どころがある。それらと知多の海、セントレアをセットで見て回れば、一日充分楽しめる場所だ。「ごんぎつね」で有名な新美南吉のふるさともある。そのあたりについても、またこのブログで紹介していきたい。半田といえば半田ごてが思い浮かんでいた人にも、半田といえば半田市を連想してもらえるように。
 愛知県の人でも、半田観光へ行ったことがない人が多いと思うから、これを機にぜひ一度出かけてみてください。お弁当は、ちらし寿司がいいでしょう。運河沿いで食べるちらし寿司は、周囲の酢の香りと相まって、かつて味わったことのないような強烈なちらし寿司となるでしょう。ち〜らし〜寿司〜な〜ら、この〜す〜し〜太〜郎〜 あった〜かご飯に混ぜるだけ〜 ちょいとす〜し〜太郎〜♪ と北島のサブちゃんのモノマネもお忘れなく。


野間灯台で願掛けして軟禁状態にされるのが嬉しわずらわし
2007年01月16日 (火) | 編集 |
野間灯台を遠くから

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f8, 1/400s(絞り優先)



 南知多の海岸線を走っているとまず「灯台ラーメン」の店があって、そこからしばらく行くと白亜の野間灯台が見えてくる。たいてい灯台は白いので白亜とことわる必要もないのだけど。
 知多半島唯一の灯台は、伊吹降しで強風にもよく耐え、伊勢湾をゆく船の安全を見守り続けている。これほど海に近い場所に立っている灯台はちょっと珍しいかもしれない。灯台というと、海沿いの小高い場所から海を見下ろしているというイメージが強い。
 地上17.9メートルの野間灯台は、大正10年(1921年)に設置された。
 光度は1万5千カンデラ、光達距離は13.5海里(約25キロ)らしい。と言われても、灯台野郎でも何でもない私としては、はぁ、と気のない返事しかできない。その数値がすごいんだかすごくないんだか、さっぱり見当がつかない。おいら岬の〜灯台守は〜という歌は歌えるのだが。
 周囲は三河湾国定公園に指定されていて、ちょっとした観光スポットになっている。灯台の見学も自由にできる。ただし、中に入ったり、登ったりはできないので、周囲から見るだけだ。
 夏場はこのあたりも海水浴客で賑わうのだろうか。シーズン中に訪れたことがない私にはそのあたりの状況がよく分からない。駐車場は有料で1回1,000円というのだけど、私が行くようなシーズンオフは管理人らしき人の姿も見当たらず、ポツポツやってくるカップルなどは普通にとめていたので、私もそれに習った。トイレもある。
 灯台の前には「TERRACE NOANOA」というカフェがあるので、そこに入って海を眺めるというのもいい。お客になれば、少しくらいの間は車もとめさせてもらえるんじゃないだろうか。

野間灯台と南京錠

 灯台を囲むフェンスには数え切れないくらいの南京錠がかけられている。ここの灯台管理人が超用心深い人で南京錠を数百もかけておかないと夜も眠れないから、ではない。野間灯台は別名「恋人灯台」といい、ちょっとした都市伝説があるのだ。
 それをいつ誰が始めたのか、今となってはよく分からない。ひとつのブームのきっかけとなったのが1997年の「週間新潮」だった。1996年あたりからカップルが訪れて、このフェンスに願いを書いた南京錠をかけていく姿が目撃されるようになった、という記事が出て以来、大勢のカップルがやってくるようになったという。1996年といえば、まだ携帯メールもPCのメールも普及していない時代だ。誰がどうやってこのウワサを広めたのだろうか。昔からある言い伝えではない以上、最初のカップルがいたに違いない。おそらくブームを作ろうだなどという考えはなくて、たまたま思いついたことを実行して、それを見たカップルが真似て、といったように伝染していったのかもしれない。あるいは、他の灯台の同じような都市伝説を知って、この場所でもやってみたという可能性もある。湘南平や神戸のヴィーナスブリッジなどにも同様の都市伝説があるそうだ。
 町の観光協会が仕掛けたとかいうことではないらしい。後追いで近所の店が便乗して南京錠を売り出したということはあったようだけど。
 ピーク時は、あまりの南京錠の量に重みでフェンスが倒れたそうから、本格的なブームだったのだろう。現在のフェンスは南京錠の重みに耐えられるがっちりしたやつになっている。それまで南京錠を細々と売ってた鍵屋さんなどは突然の売れ行きに驚き戸惑ったに違いない。町の治安が悪くなってみんな突然用心深くなったんじゃろうか、などと最初は店のおじいちゃんも思ったかもしれない。
 南京錠ということに特別な意味合いがあるのかどうかは分からない。写真にも写ってるように、自転車の盗難防止用のチェーンなどもかかっていた。それはどうなんだろう。
 御利益というか効用としては、カップルで願いを書いてかけると叶うとか、いいことがあるとか、永遠の愛が約束されるとか、今ひとつはっきりしない。ウワサの出所がはっきりしない以上、これは仕方がないところだ。カップルになる前の段階で願掛けをして、叶ったら鍵をはずして、近くに設置されてる鍵塚に置くという説もある。
 ただ、いずれにしても鍵というのはあまり良くないイメージのような気がする。鍵をすることは外部から自分たちを遮断するということと同時に、自分たちが外へ飛び出せないということも意味するから。男は一般的に縛られることを嫌いがちだから(私がそうだというわけではない)、これを思いついて始めたのは女性だろうか。南京錠の語源が、中国の南京ではなく、軟禁から来ているのも象徴的だ。

野間灯台と夕陽

 灯台周辺の強風で人も木も斜めに傾きそうになる。台風中継でカッパを着て体が斜めになっていたレポーターを思い出させるほどに。灯台を眺めるにしても、灯台そのものに強い思い入れがなければそんなに長時間見ていられるものではない。ぐるりと一周すれば充分だ。それ以上は特にやることもない。写真を撮ることくらいだ。ここは西向きの夕焼けスポットなので、その時間帯が一番いい。夕焼け色の空を背景にした灯台のシルエットは絵になる。

 色気よりも眠気。今日の私は眠たい。眠たすぎる。
 記事も読み返さず、ここで撤収。お疲れっしたー。
 眠たい。

真冬の海との寒風対決は1勝1敗1分けで勝負は持ち越し
2007年01月15日 (月) | 編集 |
知多の海-1

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f8, 1/160s(絞り優先)



 海へ行こうと思った。年に何度かそういうことがある。今回は私には珍しく、ひとりではなくふたりで。
 名古屋駅から名古屋高速に乗って、知多半島道路に乗り継ぎ、辿り着いたのは知多半島の海。ここは野間灯台の北側の名もなき海岸。砂浜ではなくこの岩場が私のいつもの海だ。知多で一番有名な海水浴場、内海(うつみ)海岸はここからまだずっと南にある。岩場の海岸に訪れる人は少ない。冬の海に訪れる人自体が少ないということもある。
 この日は風が強くて波が荒かった。そのせいなのか、海はやけに青くて、知多から見る伊勢湾とは思えないほど荒っぽかった。福井の日本海の風景に似てるなと思う。
 そして、言うまでもなく寒風が吹き荒れて、ものすごい寒さであった。

知多の海-2

 少し南に下って、小野浦海水浴場へと移動した。ここにはきれいな砂浜がある。冬の夕暮れ海岸は私たちの貸し切りかと思いきや、すでに先客のカップルがいた。寒さをものともせず波打ち際でたわむれるふたり。すごいぞ。寒くないのか。
 こちらは寒さに完敗して、岩陰に逃げ込んで夕焼けを待つ。

知多の海-3

 やがて太陽が水平線に近づき、空が少しずつイエローオレンジに染まり始めた。やはり海と言えば夕焼けだ。これを見ないことには、連ドラの最終回を見逃したみたいなもやもや感が残る。最後に夕焼けに染まる海を見ると、海行きが自分の中で完結する。超寒風に我々はついに勝利したのであった。
 残念ながら水平線近くに雲がたれ込めて、海に沈む夕陽を見ることはできなかった。赤い太陽が海に着く瞬間、ジュッと音がするようなシーンを満たなかったのだけど。
 ただ、その頃には再び寒風野郎が私たちを激しく攻め立て、ついに車の中へ逃げ込むこととなった。1勝1敗1引き分けのドローということにしてやろう。それにしても、真冬の海は強敵だった。冬の水辺の冷たさは鳥撮りで知っていたつもりの私も、強風というのはちょっと計算外だった。これから海に行こうという方は、自分が持っている最大限の防寒対策で臨んでください。そして、私たちが必ずしも軟弱者ではなかったということを身をもって知って欲しい。うううっ、写真を見て思いだしただけで寒くなってきた。

 寒さはともかく、海はやっぱりいいものだ。波の音と潮風と、広い空と海。鳥が舞い、遠くには様々な船が行き交い、恋人たちがはしゃぐ。非日常としての海は、いつ行っても心のホコリと汚れを吹き飛ばしてすっきりときれいにしてくれる。部屋の掃除なら松居一代にお任せしたいけど、心の掃除なら海が一番だ。
 みなさんもぜひ、真冬の海へ行ってみてください。私は海の町に住んでるぞという方は、山登りがおすすめです。裏が山で前は海なんですけどという人は、森がいいでしょう。山と海と森に囲まれてるという場合は、とりあえずどこへも行く必要はありません。


風の強い天白公園大根池で遠すぎるカモたちに届かない300mm
2007年01月13日 (土) | 編集 |
天白公園の大根池

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f6.3, 1/100s(絞り優先)



 ここは天白公園の中にある大根池。個人的にはカモスポットとして認識されている場所だ。去年初めて訪れたとき、数百羽のカモが浮かんでいて感動した。うわー、カモだらけじゃん、と。けど、今年行ってみると妙に数が少ない。ざっと見た感じ百羽いるかどうか。50羽くらいだったかもしれない。たまたまタイミングが悪かったのか、それとも今年は飛来数が少なかったのか。大がかりな改修工事をして、一度水を抜いて底をすくったそうだから、その影響も少なからずあるのだろう。いずれにしてもちょっと寂しかった。
 ここは確かにカモがたくさんいていいところなのだけど、岸辺からカモまでが遠いという致命的な欠点がある。E-1に300mmのTakumarを付けて600mm換算で迫ってみても、カモまでの距離はあまりにも遠かった。昔、中日球場のさだまさしコンサートで見たまっさんと同じくらいに。
 この日は風が強くて野鳥撮りには向かない条件だった。水面が波立っているのが写真でも分かると思う。この場にぬっくんがいたら、残った髪の毛を全部持っていかれたことだろう。池で野鳥を撮るときは、風も強敵になるということもあらためて知ったのだった。それにしても冬の水辺は寒い。

 天白公園は天白区の中央に位置している。広い芝生広場と雑木林の散策路と大根池があって、遊具も充実しているから、デートには向かないけど、子供が遊ぶのにもいいし、大人が散歩をするのにもいろんなコースが選べる。犬の散歩の人も多く、私のように池のカモ写真を撮ったり、たくさんいる野良猫にエサをあげるといった楽しみもある。バーベキュー場もあるようだ。駐車場も100台以上のスペースがあって、当然無料。夜まで開いてるというのもいい。
 公園に隣接する形で、てんぱくプレーパークというものもある。これは全国でも珍しい地域住民が作った子供の遊び場で、昭和の頃にあった遊び場としての空き地のようなものだ。そんなものを大人が作ったら空き地ではないじゃないかと思うかもしれないけど、今は子供が自由に入って遊べる空き地なんてものはほとんどなくなってしまったから、こういうものを大人が提供するのはある意味では仕方がないことなのかもしれない。

オナガ三潜隊
OLYMPUS E-1+Super Takumar 300mm(f4.0)

 変わった鳥だなぁと思った人もいるだろうか。これはオナガガモの食事風景で、見えてるのは尻の方で頭じゃない。水中で逆立ちをしたような格好になっているところだ。ちょっとタケノコっぽい。淡水ガモは潜水できないので、こんなふうに顔から水中に突っ込んで、水草や植物の種なんかを食べる。ただ、このあたりは水深があるところなので、もっと別のものを食べていたのかもしれない。
 こういう池で彼らの食べるものはたくさんあるんだろうか。いつもどれくらいおなかを減らしているのだろう。人からもらう食パンは旨いなぁとか思ってるのかな。鳥の人ではない私には、まだまだ彼らの心の内はうかがい知れないのであった。

ホシハジロのメス

 なんとなく見慣れないやつがいて気になった。メスだとは思うんだけど、きみは誰ですか? マガモのオスにくっついて泳いでたけど、明らかにマガモではない。体のサイズも小さい。家に帰って調べてみたら、ホシハジロのメスだった。カモ検定3級の私にとって、単独でいるメスを見分けるのはとても難しい。もっと勉強して、早くカモ検定1級を取りたいと思っている(カモ検定は実在しません)。

 ホシハジロのオスは、ヒドリガモとよく似ていて、遠くにいるところを肉眼で見るとどっちか分からないことが多い。どちらも頭から首にかけては赤褐色をしているのだけど、ホシハジロの方は胸は黒くて背中は灰白色をしている。
 名前を漢字で書くと星羽白となる。これは背中に星のような黒い斑点があるところから来ているというのだけど、そんなものちっとも見えやしない。これはネーミング失敗だと思う。三色ガモとでもした方がよほど分かりやすい。
 メスは焦げ茶っぽい頭と、目の周りの白いふちどりが特徴だ。オスの目が赤く血走ってるのに対して、メスは優しい黒い目をしている。
 体長は45センチくらいで、カモの中では中間的な大きさだ。
 こいつは海ガモで潜水が得意なので、潜ってエサをとる。ただ、海にはほとんど行かず、池などで植物性のものや、小魚や甲殻類などの動物系のものを両方食べる。3メートルほど潜れるらしい。
 夏場はユーラシア大陸で過ごし、冬になると南の日本になどに渡ってくる。
 あまり大きな群れは作らず、他の群れに混ぜてもらっていることが多い。いる場所に偏りがあって、たくさんいるところとほとんどいないところに分かれる。

 大根池周辺は他にも、バン、カワセミ、ヨシゴイ、サギ類、キビタキ、センダイムシクイなどがいるそうだ。オオルリもいるらしいから、ぜひ一度見てみたい。
 しかし、ここへ鳥撮りに訪れるなら、かなりの装備が必要となる。カモたちは池の中央付近に固まっていて距離が遠いから、300mm望遠レンズの450mm換算程度ではさっぱり届かない。岸辺にいる連中も近づくと逃げていくから、人にも慣れていないらしい。天白区の鳥撮りなら、天白川がいいと思う。川の方がカモとの距離がぐぐっと近いから。
 私もそろそろ2007年鳥撮りを本格的に始動しようと思う。この冬シーズンの目標は、まだ撮ったことがないカモを3種類撮ること、というのにしよう。あと、図鑑を見なくてもだいたいのものは区別できるようにもなりたい。それから、毎日出かけるときは首から双眼鏡をぶら下げるスタイルができるようになるかどうかの模索、というのもひとつのテーマとなる。森や公園で首から双眼鏡というスタイルは、言うなればアキバで紙袋を下げたりリュックを背負ってるのと同じような意味を持つ。ひと目でソレと知れてしまう格好。鳥の人となるには、乗り越えなくてはならない試練がたくさんある。最終的には、親子連れで賑わう日曜日の公園で、ほふく前進ができるようになるところまでいけば本物だ。果たしてそこまでいってしまっていいのかどうかは私自身大いに疑問だけど。
 まずは自衛隊パブへ行って鍛え直すか。