
| ひつまぶしは名古屋人が安心しておすすめできる名古屋名物 |
 SH505iS(携帯カメラ)
名古屋人のくせに私という人間は、ちゃんとした店のひつまぶしをこれまで一度した食べたことがなかった。それも他県から遊びに来たゲストにつき合う形で一回行っただけというていたらく。それも5年くらい前のことになる。これでは名古屋人失格の烙印を押されても文句は言えまい。けど、いつも心の片隅にひつまぶしの存在はあった。いつかもう一度自分の意志でひつまぶしを食べなくちゃなという思いがくすぶり続けていた。 しかし、よほど私とひつまぶしは縁がないのか、行こうと決めて2度食べられずに終わることになる。一度は行こうとしたら閉店時間を過ぎていて、次は正月休みだった。なんてこった。まるでうなぎの呪いにでもかかったようにひつまぶしにありつけない私。もう駄目なのかと思った三回目、うなぎは私を見捨ててはいなかった。捨てるうなぎあれば拾ういなぎあり。ようやく私とツレは「しら河」ののれんをくぐることになった。
名古屋でひつまぶしといえば、「あつたの蓬莱軒(ほうらいけん)」と相場が決まっている。ひつまぶし発祥となった店であり、ひつまぶしという商標登録を持つ、江戸時代から続く老舗だ。私が前回食べたのがこの店で、値段は2,500円くらいだった(現在は2,520円らしい)。値段も名古屋で一番高い。 もう一軒、うちこそがひつまぶしを発案したのだと主張する店がある。中区錦3(いわゆるキンサン)にある、これまた古い「いば昇(いばしょう)」というところだ。 ひつまぶしの起源には二つの説がある。ひとつは「いば昇」で冬にうなぎの皮が固くなるからそれを小さく切ってご飯に混ぜて、まかない料理として食べていたのが始まりというものと、「蓬莱軒」でお座敷に出すとき大きな櫃(ひつ)からご飯を小分けしてうなぎを乗せて出したのが最初だというものと。 「いば昇」のひつまぶしは2,100円と、やや抑えられている。 今回我々が出向いた「しら河」は、お手頃価格で美味しいひつまぶしを食べさせると評判の店で、「蓬莱軒」よりこちらの方が好きだというファンも多い。私の舌は5年間のブランクがあるのでなんとも比較のしようがないのだけど、「蓬莱軒」はさすがの老舗の貫禄というオーラがあったのに対して、「しら河」の方は親しみが持てるものという違いは感じた。値段の差は約1,000円。うな丼の価格としては1,500円くらいが妥当な線なんじゃないかとは思う。 「しら河」のは、表面パリパリ、中ふんわりの仕上げになっているので、うなぎの皮のぬめっとした感じが苦手という人に向いている。うなぎ嫌いの人は、あきらめる前にここのものを試してみるといいかもしれない。 上ひつまぶしが1,470 円で、ミニひつまぶしが1,155 円。手前にあるのがミニの方で、奥が通常のサイズだ。中身は同じで、量だけが違う。私は少食なのでミニでも持て余すくらいだった。割高になるけど、普通の食欲の人では上ひつまぶしは多すぎる。茶碗4杯分のご飯って、体育会系の学生じゃないんだから。
ひつまぶしの基本的な食べ方の作法はこうだ。しゃもじでまず十文字に切り込みを入れて、4分の1を茶碗によそってそのまま食べる。まずはうなぎの味そのものを味わうわけだ。次に刻み海苔やネギなどの薬味を加えて4分の1を食べる。これだけでかなり味わいが変わるから不思議だ。個人的にはこの食べ方が一番美味しいと思う。三膳目はお茶漬けにして食べる。この場合のお茶は店によってもいろいろ特色があって、ただの日本茶ではない。ダシをベースにしたお茶で、これがうなぎと薬味によく合うようになっている。最後に残った4杯目は、自分の好きなようにして食べる。別に最初からうなぎを一気に混ぜてかき込んでもかまわないのけど、一応作法だけは知っておいて損はない。 櫃(ひつ)に入れて、うなぎを塗(まぶ)して食べるから、櫃塗し。でもこんな漢字ではみんな読めないから、ひらがなで表記するようになった。昔は、暇つぶしと思っていた人も多かったけど、最近はそういう人も少なくなった。いや、いまだにそう信じ込んでいる日本人が1万人やそこらはいるだろうけど。 どうしてうなぎ料理が名古屋名物になったかというと、実は愛知県の一色町(いっしきちょう)というところは日本のうなぎ生産高日本一で、愛知県は全国の全体の4分の1を占めるうなぎ王国だというのがある。浜名湖がうなぎの養殖では有名であるけど、静岡は4位でしかない。そのうなぎの多くは「うなぎパイ」に回ってしまうということもあるとかないとか。「あつた蓬莱軒」も、一色町のうなぎを使っているそうだ。 うなぎは、関東では背開き、関西では腹開きと言う。関東は背から開いて白焼きにして蒸してから焼くのに対して、関西は腹から裂いて蒸さずに金串に差して直接焼くという違いがある。名古屋は関西と同じく腹から開いて、頭と尾を落としてから焼く。たれを二度付けしたり、みりんをつけたりするというのも名古屋の特徴だ。 焼きはたいていどこでも備長炭を使っている。これによって香りも違ってくるので、店によってそれぞれこわだわりがあるのだろう。
日本でうなぎがいつ頃から食べられていたかははっきりしていない。縄文時代の遺跡から見つかっているというから、うなぎそのものは大昔から食べられていたようだ。 ある程度一般に食べられるようになったのは奈良や平安時代あたりからと言われている。「夏やせに 良しと言うものぞ うなぎ取り召せ」という大伴家持の句もある。 今のような形で庶民もうなぎを食べるようになったのは、江戸時代の中期、元禄以降のことだ。江戸時代もこの頃になるとすっかり平和を持て余していて、文化、芸能、芸術だけでなく食も多種多様になっていった。鮨や天ぷらなどもこの同じ時期に料理として確立していった。調味料としてのみりんが発明されたこともあって、うなぎもさかんに食べられるようになる。当時はうな丼ではなく蒲焼きが主流だった。 更にうなぎ人気が高まったのは江戸後期で、平賀源内の有名なキャッチコピー「土用の丑」の影響も大きかった。この本来根拠のない習慣が今になってもまだ続いているというのも面白い。
名古屋名物といえばすぐに赤味噌を思い浮かべる人も多いと思うけど、名古屋にはひつまぶしがあるということを覚えておいて欲しい。味噌カツ、味噌煮込み、味噌おでんなどは好みが分かれるところにしても、うなぎが嫌いじゃなければ、ひつまぶしにハズレはない。 名古屋に遊びに来て、最初で最後のつもりで食べるなら、やはり「あつた蓬莱軒」がいいと思う。格も値段も味も文句ない。一回きりなら2,500円も悔いなしとなるはずだ。「しら河」も安くて美味しいので、気軽に行ける店としておすすめしたい。浄心本店の他、今池ガスビル店、栄ガスビル店があり、JR名古屋タカシマヤにはお持ち帰り用ひつまぶし弁当がある。食べ比べるなら、この2軒と「いば昇」へ行けば、もう名古屋のひつまぶしはほぼ制覇したと言ってもいいだろう。 私はこれでまた5年くらい休みを取ろうと思う。次は5年後くらいに「いば昇」へ行く予定だ。ひつまぶしなんてのは日常的に食べるもんじゃないから。貧乏で5年間貯金をしなければ食べられないとかそういうことでは決してない。ただ、おごってくれるというのなら、明日にでも行きましょう。中川区にある「鰻の魚勇」がなかなか美味しいらしいから、そこへ案内しますよ。どうも、ゴチになります。
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| 南極観測船ふじとタロとジロとサブロとタケシの話 |
 PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/13s(絞り優先)
名古屋港にあるタロとジロの銅像と、南極観測船ふじ。オマケとして、ゴミをゴミ箱に捨てている男の人。右側にちょこっとスクリューも顔だけ参加してる。何故か、名古屋港には南極観測にまつわる品々がある。 国内2代目の極観測船ふじは、昭和60年(1985年)の引退後どういういきさつがあったのか、名古屋港のガーデンふ頭に永久係留されることになった。当時の姿そのままに、南極観測船博物館として一般公開されている。 入船料大人300円で、船内で各所で働く姿のまま固まったろう人形たちを見ることができる。艦内放送から聖飢魔IIの「ろう人形の館」が流れているとかいないとか(流れてない)。船員あり、観測員あり、床屋あり、歯医者ありと、観測船での生活ぶりがうかがえる作りとなっている。南極観測船好きな人にはたまらない。 初代観測船「宗谷」はお台場の「船の科学館」に、3代目「しらせ」は現役で活躍中で、4代目は現在建造中という。南極観測船好きならぜひとも全部押さえておきたいところだ。
敗戦から10年後の1955年(昭和30年)、日本は南極へ行くと決めた。主導は文部省(当時)で、お金も文部省が出すことに決まる。しかし、専用の船はないしお金もない。なんとか見つけてきた船は、建造されてから18年も経ったロートル巡視船「宗谷」だった。海上保安庁所属の灯台補給船を改造して南極へ行くという無茶な計画だった。 それでも1956年、ど根性で宗谷は南極に辿り着き、以降1962年まで6回も南極へと物資や人を運び続けることになる。 とはいえ、いい加減老朽化も限界に達し、能力的にも不足すぎるということで、新たに専門の南極観測船を造ることとなった。それが、ふじだ。このときも文部省の予算で造られている。輸送と所属はそれまでの海上保安庁から海上自衛隊に変わった。 1964年(昭和40年)、南極観測船ふじは完成した。正確には、砕氷艦「ふじ」(AGB-5001)というらしい。全長100メートル、排水量5,250トンは自衛艦の当時最大だった。12,000馬力で最高速度17ノット、厚さ80センチまでの氷を砕きながら進むことができた。その能力は、宗谷の倍だった。船体は一般のものよりも横幅が広く、先端は氷に乗り上げ荒れるように30度の角度がつけてある。定員245人で、輸送ヘリを3機搭載可能とした。 最初に出発したのは名古屋港かと思いきや東京湾の晴海ふ頭だった。じゃあ、東京湾へお帰りよと言いたいところなのだけど、東京湾にこんなものをつないでおく余裕はないということか。縁もゆかりもない名古屋港につなぎ止められたふじは何を思ってるだろう。 ふじは1983年までの18年、7次から24次隊まで活躍したあと引退。現在はふじに代わる「しらせ」がせっせと南極へ行ったり来たり行ったり来たりしている。 名古屋とは縁もゆかりもないと書いたけど、おそらく、近くにあるポートビルの中の「名古屋海洋博物館」と連動した形での展示ということで誘致したのだろうと思う。南極観測船というものの内部を見る機会は一般人にはまずないから、これはなかなかいい試みだと思う。ただし、世の中に南極観測船好きな人は思いのほか少ない。
そもそもなんで南極なんて行くんだ? と思った人もいるだろう。私もふとそんな疑問が頭に浮かんだ。ロマンと冒険の旅ならそんなにたびたび行く必要もないし、長く滞在する意味もない。南極の土地でも調べてるんだろうか、いいもんが埋まってるとか? なんてとぼけたことを考えた人がいたとしたら、それは私のお仲間だ。けど、南極ってそんなに簡単な場所じゃない。 一番最初は、国際地球観測年というものに参加する12ヶ国のうちのひとつということで、2次で終了するはずだった。しかもそれは南極ではなく赤道だったのが、予定していた場所がアメリカの持ち物で許可が下りなくて、仕方なく南極となったのだった。だから、船も間に合わせの改造船しか準備できなかったのだ。 観測する場所も決まらないまま出発して、とりあえず行ってみてよさそうなところで基地を造ろうやってことで造られたのが昭和基地だった。命がけなのに意外と計画は大雑把。ただ、南極でも敗戦国日本の肩身は狭く、南極本土ではなく海岸から5キロ離れた東オングル島になった。ここは強風からは逃れられるものの、本土へ行くにはいちいちヘリを飛ばさなくてはいけないから面倒だ。本土に基地を造ったら駄目と言われたのだろうか。 1月29日、日本で最初のプレハブ建築が南極に建つ。プレハブっていいねと君が言うから1月29日は南極「昭和基地」設営記念日。 現在は、管理棟の他、住居棟、発電棟、観測棟、衛星受信棟、焼却炉棟など53もの棟ができている。生活も長期に渡るため、医務棟や食堂、図書館、娯楽施設、郵便局など、ひととおりの設備が整っていて、日本の田舎よりも便利な暮らしができる。寒いのを我慢すれば。 で、結局南極で何してるのという問いに対する答えは、ごくシンプルに言うなら、観測をしている、だ。気象はもちろん、天体や生物学、地球のことなどいろんなことを観察しているのだった。南極でないと見られないものもいろいろある。 人員は越冬組と帰国組がいて入れ替わり立ち替わりしていて、合計すると60人ほどが観測隊員ということになるそうだ。想像してたより多い。もっとこぢんまりした施設だと思ってた。
南極といえばやはりタロとジロのことに触れないわけにはいかない。 極寒の地で物資を運ぶために犬ぞりが必要とのことで、樺太犬(からふといぬ)が選ばれた。体力があって、寒さに強く、少ない食事にも耐えて、指の間の毛が雪の上での行動に適しているからというのがその理由だった。 1次隊と一緒に22頭の樺太犬が南極へと渡った。この中にまだ子犬だったタロとジロがいた。実はサブロという兄弟がいたのだけど、こいつは訓練中に腸を痛めて死んでしまったのだった。もし生きていたら、団子三兄弟よりも亀田三兄弟よりも早い樺太犬三兄弟として話題になっていたかもしれない。 結果的に犬を置いてくることになってものすごい非難を浴びることになるのだけど、犬は道具としてではなく最初から家族同然の隊員として扱われていた。赤道を超えるときに暑さに弱い樺太犬のために冷房装備まで取り付けていったのだから。 あまり知られてないネタとして、このときオスの三毛猫タケシくんも南極観測隊に参加している。オスの三毛猫はとても珍しくもあり、昔から船の守り神とされていることから一緒に連れていかれたようだ。彼は基地の中で働きもせずぬくぬくと過ごして、無事帰国している。 越冬隊員と犬15頭を残し、いったん1次隊の半分は日本に帰っていき、その後2次隊を乗せてやてきた宗谷は、昭和基地の手前140キロで厚い氷に行く手をさえぎられて身動きが取れなくなってしまう。スクリューも破損し、天気は荒れて、ついに上陸を断念。1次隊のメンバーはどうにか救出したものの、15頭の犬たちを乗せる余裕はなかった。隊員たちを責めるのは簡単だけど、彼らの思いを想像するとなんとも切ない。 一ヶ月後に自分たちが戻ってくると信じて、ひと月分の食料を置いて鎖に繋いで南極を後にする。しかし、戻ってこられたのはそれから一年後のことだった。 タロとジロはどんなに飢えても仲間を食べたりはしなかった。ペンギンやアザラシのフンを食べたり、ときには兄弟でペンギンなどを狩っていたのではないかと言われている。実際、3次越冬隊によってその様子が目撃されている。 タロジロ生存のニュースは日本国内にいち早く伝えられ、明るい話題として大変な評判となった。高倉健さん主演の『南極物語』は、ある一定の年齢以上の人なら一度くらいは観てるだろう。最近アメリカでリメイクもされた。 生き残ったタロとジロは、再び南極へ行っている。もうこりごりと断らなかったのだろうか。ジロは1960年に南極で病気のため死に、帰国後はく製になった。タロは帰国してから北海道大学植物園で余生を過ごし15歳まで生きた。こちらもはく製になっている。タロとジロの子孫が今日本全国にいるという。 現在の南極は生き物持ち込み禁止となっているので、もうタロとジロのようなことは起こらない。
あなたは南極へ行ってみたいと思うだろうか? 私は少しだけ思う。マイナス40度の世界はバナナでクギが打てるから楽しそうだとかいう理由ではなく、あまり人が行ったことのない土地だからという理由で。 ただ、宇宙ほど一般人お断りではないにしても、思い立ったらふらっと旅行に行けるような場所ではない。JTBの代理店へ行って、ちょっと南極まで2泊3日で行きたいんですけど、いいツアーないですか? などと訊ねたらこいつふざけてるなと思われて相手にしてもらえない。稀に日本の旅行会社でツアーを組むことがあるようだけど、やはり人数も集まらない分、めったになくてなおかつ高い。100万くらいするという話だ。もうひとつは、アルゼンチンまで飛行機で飛んで、そこから船で行くというツアーがあるようだ。それでも50万やそこらはかかるだろうけど、南極行きはそれほど非現実的な旅行ではないのかもしれない。 南極観測隊の一員になるにはどうすればいいか? それは私には分からない。何か特別な育成コースとかがあるんだろうか。それとも一般公募したりするのか。 かつて、まだ誰も日本人が南極へ行ったことがなかった時代、南極大陸冒険者募集で新聞にこんな広告が載った。その応募資格がこうだ。 マイナス40度の寒さに耐えられること。 堅忍不抜の精神を持っていて、多量の飲酒をせず、歯の力が強くて梅干しのタネをかみ砕くことが出来る者。 家族のしがらみがなく、後顧の患いがない者。 とりあえず私は梅干しのところで駄目だと思う。南極への道のりは遠い。 遠い将来、地球温暖化が進むと、人類は南極や北極にしか住めなくなるという話がある。そのときは普通に行ける場所になっているのだろうか。けど、そこもオゾン層の破壊でやっぱり住めなくて、人類は寒さというものを忘れてしまう時代が来るかもしれない。そんなときはもう誰もタロとジロの話をしなくなるだろう。だからせめて私たちが彼らのことを覚えていよう。高倉健さんの名演技と共に。
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| 今食べたいサンデー料理、ついに「突撃!私の晩ごはん」が始まる!? |
 PENTAX istDS+SMC Takumar 55mm(f1.8), f2.8, 1/60s(絞り優先)
今回のサンデー料理のテーマは、今日食べたいものを作って食べるだった。新しい料理への挑戦というサンデー料理の基本テーマからはややはずれるものの、食べたいものを作るというのが料理の基本であることは間違いない。今年になってからはまだおせちもどきしか作ってなかった。去年の暮れからも休みがちになってしまっていたし、ここらで一度リセットして、去年作ったものの集大成として自分の好きなものを作ることにした。バランスがあるから、必ずしもこの3品が自分のベスト3というわけではないのだけど。
最初にコロッケが食べたいと思った。普段あまり揚げ物は食べない私も、ときどき無性に油ものが食べたくなることがある。最近の研究で、油を摂取した直後に脳の中でモルヒネと同じような脳内麻薬ベータ・エンドルフィンが分泌されることが分かったそうだ。1.5倍くらいになるらしい。私の脳も麻薬を必要としたということか。 ノーマルコロッケよりもクリームコロッケが好きなのだけど、今日は新たな試みとして、ハーフクリームコロッケにしてみた。 小麦粉、バター、牛乳からホワイトクリームを作って、ジャガイモはレンジで加熱してからつぶして、刻んだタマネギと混ぜる。揚げ方としては、最初に高温でさっと揚げた後、もう一度低温でじっくり二度揚げすると更に美味しくなる。普通面倒だからそこまではしないけど。 ソースは手作りトマトソース。タマネギの刻みをオリーブオイルで炒めて、皮をむいて乱切りしたトマト、トマトジュース、ケチャップ、砂糖、塩、コショウ、赤ワイン、コンソメの素を煮込む。お好みでニンニクや牛乳を入れてもいい。 クリームコロッケほどドロッとせず、ジャガイモほどパサパサしないしっとりまろやかなハーフクリームコロッケはオススメだ。トマトソースとの相性もよく、油によって脳内麻薬も分泌されて幸せな気持ちになれる。これは私の料理の中でも安心して人に出せる1品として定着しそうだ。
右のはカニ玉あんかけ。 溶き卵、レンジで水切りしてつぶした豆腐、だし汁、カニ缶、シイタケ、鶏肉を混ぜ合わせ、茶碗の中に入れてラップをかぶしてレンジで5分ほど加熱する。 たれは、しょう油、みりん、酒、めんつゆに豆板醤を入れて辛みを効かせる。ひと煮立ちさせて、水溶きカタクリ粉でとろみをつけたものを上からかければ出来上がりだ。 和風なんだけどピリ辛であっさり味なので、子供も大人もいける。中華風にしたければごま油を入れればいい。蒸しものは面倒というイメージがあるけど、電子レンジで応用が効くものが多く、レンジでやると一気に簡単料理になる。料理は焼くか煮るかだけじゃない。
左上のは写真で見るとコンニャクっぽいけど、実はマグロステーキだ。 マグロの切り身を薄くスライスして、塩コショウした後、たっぷりのオリーブオイルで軽く焼く。 ソースは、卵(卵黄だけでもいい)、白味噌、マヨネーズ、酒、みりん、レモン汁(または酢)、塩、コショウ、マスタード、しょう油を混ぜて作った。少し温めて卵が固くなりすぎない程度にとろりとさせる。味が濃いと思ったらだし汁などで薄めればいい。 これは魚嫌いの人でも美味しく食べられると思うから、一度試してみてほしい。魚が苦手という人の心理としては、骨が邪魔くさいというのと、塩焼きや煮付けなどのいかにも魚っぽいのがイヤだというのがあると思う。魚の身そのものが嫌いという人は少ないんじゃないだろうか。だから、身を肉のように調理すれば、魚嫌いの人もきっと魚を食べられるはずだ。私自身がそうだから。
今日は自分が食べたいものを作ったということもあって、自画自賛の出来となった。こりゃ美味しいなと普通に思ったから、サンデー料理史上かなり上位に位置するだろう。去年一年、週に一度作り続けて、ようやく家庭料理のレベルにはなった。小中学生の子供を持つバツイチの人の主夫に明日からなれる即戦力として私を誰か採用しませんか? いらない? そうですか、それは残念です。 今年はいよいよ、「突撃!私の晩ごはん」が始まる。まずは私に対して好意的な人のところから始めて、最終的には道で会ったら挨拶くらいはするという人のところにも無理矢理私の料理をお届けするというあたりまでいきたいと思っている。ただ、町内会で苦情が出ないように気をつけたい。オオタさんが無理矢理うちに夕飯を押しつけてくるので困ります! とか言われないようにしよう。鍵っ子の子供を捕まえて、無理矢理食わせてみるか。 私がどこへ行こうとしているのかを訪ねることはない。あなたの家に行こうとしているのだから。電話一本で料理ではなく私をお届けします。食材を用意して待っていてください。ただし、調理時間は2時間かかるので、気長な人限定です。
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| 忘れちゃいけない名古屋人のひとり加藤清正をよろしく |
 PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/200s(絞り優先)
名古屋生まれで大成した人を見ると、ほとんど例外なくよその土地に移った先で成功している。特に戦国時代がそうだ。豊臣秀吉といえば大阪、前田利家といえば金沢、山内一豊といえば土佐というように、名古屋を捨てて名をなした人が多い。織田信長はそうそうに岐阜に移り、愛知県岡崎市出身の徳川家康も江戸に行ってしまった。江戸時代、尾張徳川家はついにひとりの将軍も出すことなく終わってしまったのも、地元にいては駄目だということを表している。 今日紹介する加藤清正もそういうひとりだ。清正といえば熊本城に虎退治というイメージが強く、名古屋色は薄い。秀吉と同じ名古屋市中村区(名古屋駅の裏)生まれということを知っている人は少ないかもしれない。名古屋人も清正のことをあまり郷土の英雄として祭り上げてない。最後の領地となった熊本では今でもみんなに慕われているというのに。 そういう私も、清正について詳しいのかと問われると口ごもってしまう。清正を主人公にした小説も読んだことがないから、表面的な知識しかない。これじゃあいけないと思い、今日は清正について勉強してみた。その成果をここに惜しみなく披露したい。拾った知識はみんなに配らないとバチが当たるから(そうなのか?)。
1562年に尾張の土豪の息子として生まれた清正は、早くに父親を亡くして、近所でもあり、母親同士が遠い親戚ということもあって、9歳のときに豊臣秀吉に仕えることになる。そんな清正を秀吉とねねは我が子のようにかわいがったという。同じような境遇に福島正則がいて、のちに二人は大の親友となる。 初陣は14歳、長篠の合戦だった。翌年に元服して、170石を与えられて秀吉の正式な配下となった。 清正の名が知られるようになるのは、1583年の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)からだ。のちに賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになる七人のうちのひとりに入る活躍を見せた。二十歳そこそこでかなりの武勇伝をあげたことになる。これで所領は一気に3,000石となる。オリラジ並みのスピード出世だ。 本能寺の変で信長がいなくなり、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家(名古屋市名東区生まれ)との後継者争いに勝った秀吉と共に、清正は数々の武勲をあげていくことになる。織田信長などと違って秀吉は代々の家臣などひとりもいないので、このように子飼いの武将や仲間に引き入れた武将などを集めて家臣団を作っていった。 1585年に秀吉が関白に就任。勢いは完全に秀吉のものとなり、屈強だった島津家もついに降伏。その後肥後(熊本)を任されていた佐々成政が秀吉の怒りを買ってしまった代わりに、清正は肥後を与えられることになる。小西行長との分割統治とはいえ、いきなり25万石の城持ち大名となった。このとき清正26歳。異例の大抜擢であった。 ただ問題は、清正と小西行長があまりにもそりが合わなかったことだ。キリシタン大名として有名な小西行長に対して日蓮宗信者の熱心な信者だった清正は、キリシタンを弾圧した。そのことでますます二人の中はこじれることになる。関ヶ原の合戦で清正は家康側の東軍につくことになるのだが、このときここぞとばかりに小西行長をやっつけまくった。関ヶ原とは遠く離れた九州で違うケンカが起こっていたのだ。
清正といえば朝鮮出兵も重要な要素のひとつとなる。福島正則たちと共に秀吉の命で朝鮮に渡り、長く無益な戦いを強いられた。清正が何を思っていたかは分からない。本気で朝鮮を領土にできると思って戦っていたのだろうか。向こうでは大暴れしてたくさんの戦功を立て、朝鮮の民からは鬼将軍として恐れられたという。そのことがあって、韓国や朝鮮の人たちは今でもあまり熊本へ行きたがらないらしい。 ただ、向こうで悪いことをしていたわけではなく、現地の人が困っているということで虎退治をしたり、捕虜に対して人間的に接したということで慕われたりもしている。清正はただの暴れん坊ではないのだ。 そんな清正を妬んだのが石田三成だった。清正もインテリの石田三成を嫌っていて、ふたりはしだいに犬猿の仲となっていく。朝鮮出兵中に、三成は清正がこっちで悪いことをしてると秀吉に言いつけたことで清正は日本に呼び戻されて謹慎になってしまう。 秀吉の死によって朝鮮戦争はうやむやのうちに終結となり、石田三成と清正のいがみ合いはますます強くなっていく。1599年に前田利家が死ぬと歯止めがきかなくなり、福島正則や浅野幸長ら6将と一緒に石田三成を暗殺しようとまでしている。これは家康になだめられて未遂に終わるものの、三成は謹慎となり、このことが関ヶ原の合戦へとつながっていくこととなる。 関ヶ原の合戦は、もともと豊臣秀吉恩顧の西軍対それに取って代わろうとする東軍徳川家康軍との天下分け目の決戦だった。だから、秀吉に最も近い清正は本来なら当然西軍についてないとおかしい。しかし、西軍の大将は大嫌いな石田三成で、仲間にはこれまたいがみあってる小西行長がいる。清正としては秀吉に対する忠誠心がありつつ、時代の趨勢からも家康の方につくことを選んだ。 結果は東軍勝利で、九州での活躍が認められて、清正は小西行長の所領ももらって肥後全州52万石の大名となった。清正としては、にっくき二人をやっつけて、領地も倍増してよかった。内心は複雑だっただろうけど。
 写真の石垣の巨大石は、通称「清正石」と呼ばれているものだ。幅6メートル、高さ2.5メートル、畳にすると十畳ほどの石が石垣の中にしっかり組み込まれている。こんなことができるのは清正しかないだろうということで清正石と名づけられた。実際は、この場所は黒田長政の担当だったので長政の仕事であろうということになっている。 清正が担当した名古屋城天守台の石垣は、とても美しい。なだらかなカーブを描く石垣は、「清正三日月石垣」と呼ばれている。
これだけ勇猛な武将でありながら、清正は城造りの名人でもあった。家康に許されて、熊本城築城に取りかかる。1608年、地方の大名にはふさわしくないほど立派な熊本城が完成した。各地から最高の技術者を集め、海外貿易で稼いだ資金を使い、領民には休みもしっかり与えたので、働き手は皆、喜んで仕事に従事したと伝えられている。 その他、治水や土木でも当代一流だった清正は、領地の暴れ川を治めたりもしている。このあたりでも、いまだに熊本では「清正公(せいしょこさん)」と称されて慕われている要因なのだろう。 熊本城は、明治10年、西南戦争のとき意外な形で名城ぶりを世に示すことになる。西郷隆盛軍が勢いに乗って北上する途中、熊本城にろう城した政府軍に思いがけず足止めを食ってしまう。少数の守備隊しかいないにもかからず熊本城は落ちない。そうこうしてるうちに政府軍の援軍が到着してしまい、西郷軍はそこから敗走を始めることになる。もし熊本城を落としていれば、西郷軍のその後は違ったものとなっていたかもしれない。しかし、この戦の際に強い風にあおられた飛び火によって大小天守閣など多くが焼け落ちてしまった。
名古屋城天守の石垣を組み終わった清正は、やれやれとほっと一息ついたことだろう。家康に押しつけられた無理な築城仕事もやり終えて、しばらくのんびりできると喜んだかもしれない。それでも隠居するにはまだ早い49歳。 二条城で家康と豊臣秀頼との会見が行われることになり、清正はそれを取り持つ役割を果たすことになる。形の上では家康の側についていた清正も、気持ちの中ではいまだ徳川家の家臣という思いが強かったのだろう。豊臣家を残すよう家康に訴えるつもりがあった。何かあったら家康と差し違えるつもりで懐に短刀を隠し持っていたという。 家康もまた、清正の思いに気づいていなかったはずがない。武将としても一目置いていた清正を家康は恐れた。 帰りの船の中で清正は突然発病し、帰国後熊本で急死してしまう。死因は心筋梗塞だとか脳出血だとかライ病だとかいろいろ言われいてはっきりしない。まことしやかに家康によって毒まんじゅうを食べさせられたというウワサも流れた。 4年後、大阪夏の陣により豊臣家は滅亡する。清正が生きていれば大阪城が落ちるはずはなかったと言われる。 21年後には嫡男の忠弘が改易され、肥後は以降細川家のものとなる。ただ、細川家の偉かったのは、清正人気を妬まずに自分たちも敬愛したことだ。熊本では今でも清正のことを悪く言う人はほとんどいないという。
戦に強い武将ということで大男のイメージがある清正は、実は背は高くなかった。シークレットブーツではなく、長い帽子で大きく見せてはいたものの、実際は160センチそこそこだったと伝えられている。 相当な潔癖性だったというのは意外だ。痔ということもあってか、便所でしゃがむときは30センチの高さの下駄をはいてしていたらしい。昔はくみ取りだから、はね返ってくるのを嫌ったのだろう。 口の中に握り拳を入れることができたというのはちょっと有名な話だ。清正が好きだった新選組の近藤勇もマネしてやっていた。その近藤勇のマネをしてSMAPの香取慎吾も拳を口に入れるのをよくやっている。それを見た私も挑戦してみたけど、まったく入りそうになかった。こんなものが入る口はどうかしてる。 結局、加藤清正というのはどんな人だったのか? いくつかの顔を持ちながら、そんなに複雑な人物ではない。強い武将でありながら城造りの名人で、インテリではないけど愚直でもなく、善人ではないにしても悪人でもなく、好き嫌いがはっきりした正直な人だった。忠義心は強く、野心はさほど強くなく、ある意味では普通の人間だったと言えるだろう。魅力的で愛すべき人だ。私の中では、理想の上司像みたいなイメージが出来上がった。戦しか能がないような武人でもなく、権謀術策の政治家でもない。現代に生きていたとしても何か立派な仕事を成し遂げることができる人だ。 加藤清正って、こんな素敵な人だったんだと、これを読んで思ってもらえたら嬉しく思う。私自身、今日勉強して初めて知ったことばかりだったから、今日からもっと清正さんのことを敬愛したいと思う。熊本の人たちを見習って。
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