現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
何もない長久手古戦場を歩きながら平和のありがたみを思う
2007年02月07日 (水) | 編集 |
長久手古戦場

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f6.3, 1/250s(絞り優先)



 もしあなたが戦国野郎で、家康と秀吉が唯一直接戦った長久手の合戦跡地を熱い思いを抱いて訪ねたとしたら、あなたはあまりの手ごたえのなさにしばし立ち尽くした後、こうつぶやくだろう。なんじゃこりゃ、と。
 なーんもなーい、のである。長久手古戦場公園と名づけられてはいるものの、写真のように小高い丘の上に石碑がポツンと建つばかり。周囲を住宅地に囲まれて、中途半端な雑木林を含む空き地地帯となっている。わずかに、池田恒興や池田之助、森長可が戦死したとされる場所に勝入塚、庄九郎塚、武蔵塚があるくらいで、見どころも写真の撮りどころもほとんど何もない。長久手町郷土資料室という建物があるものの、これは長久手の合戦400年を記念して昭和60年に作られた新しいものなのでありがたみは薄い。
 考えてみれば戦場の跡地に何が残るというものでもない。野戦場だから城もなければ砦もない。それこそ当時の鎧や武具などが残っていればそれを展示する資料館を作るくらいしか思いつかないというものだ。石碑が建っているだけというのも当たり前といえば当たり前、むしろこれだけの空間を宅地にせず残しただけでもよくやったと言うべきか。ただ、合戦の様子を説明した案内板とか、布陣の地図なんかがあってもいいのではないか。秀吉と家康の銅像を建てるとか。もう少し宣伝して人を呼ぶ工夫をした方がいい。愛知県はせっかくの観光資源をいかすのが本当に下手だ。
 それにしても、あまりにも戦国の息吹が抜けきってしまっているのは残念だ。3万人の兵がこの場所で戦ったという感じがまるでしない。それとも、霊感のある人がこの地を訪れたら、甲冑の音や馬のいななきが聞こえたりするのだろうか。だとしたら、そう言う人たちにとってこの場所は特別な場所ということになるのだろう。
 とりあえず遠くからわざわざ訪れた人は、資料館の喫茶室「足軽」で気持ちを静めるといいだろう。もしくは、自ら甲冑に身を包んで戦場跡を駆け回ってみるという手もある。ガシャガシャ言わせながら。散歩中の犬とおばさまが逃げまどうことになるだろうか。
 確か何年かに一度、春の桜祭りのときか秋かに火縄銃の実演などがあるはずだ。今度はいつかなのかは知らないけど、そのときはけっこうおすすめだ。種子島の音は近くで聞くとかなりすさまじいらしい。一緒に棒の手の演技なども行われる。
 せっかくここまで来たのなら、家康が本陣を置いた御旗山や軍議を開いた「色金山(いろがねやま)」なども寄りたい。塚と共にこのあたりは昭和14年に国の史跡に指定されている。近くには、家康隊が武具や鎧などを洗って池が真っ赤になったという血の池公園というものもある。ただ、現在すでに池はなく、ちびっこたちが普通に遊んでいる公園なので、それほど恐れることはない。たぶん。

 小牧長久手の合戦がどんな戦いだったかは戦国野郎や戦国少女なら知っていて当たり前にしても、普通の人は詳しく知らないと思う。簡単に説明するのが難しい合戦で、話すと長くなる。以前、岩崎城を紹介するとき前半戦について書いた。今回は後半について簡単に書きたい。
 織田信長が明智光秀の謀反によって本能寺で討たれたのが1582年。関ヶ原の合戦の18年前だ。小牧長久手の合戦が始まったのが1584年。その間、秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち、後継者争いのライバルだった柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破って一躍天下を狙う立場に立った。あと残すは、信長の次男の信雄(のぶかつ)と、実力者の家康だった。
 一方の信雄にしてみたらオヤジの家臣だった秀吉が大きな顔で天下を取ろうとしてることを黙ってみてるわけにはいかない。長男信忠が本能寺の変で死んだ今、正統な後継者は自分だという思いも当然ある。そこで家康に応援を頼んで、一緒に秀吉を討とうということになった。家康にとっても秀吉さえ破れば自分が天下人になる道がひらけるという思惑があったためにそれを快諾。こうして1584年の春まだ早い3月、後に小牧長久手の合戦と呼ばれることになる戦いは始まった。
 前半はそれぞれが城に陣取ってのにらみ合いとなった。大阪を出た秀吉は犬山城に、浜松を出た家康は小牧城にそれぞれ入り、こうちゃく状態が続く。この前半部分がいわゆる小牧の合戦で、後半とは別の戦いと言った方がいい。地理的にも小牧と長久手はかなり離れている。
 その後、しびれを切らした秀吉軍が先に動き、結果的にそれが秀吉軍の敗北を招くことになる。その動きを見切った家康軍が兵の少なさにもかかわらず勝ち戦に持ち込むことができた。
 長久手の合戦は、4月9日の早朝に起こり、午前中には決着がついた。秀吉軍は有力武将を何人も失って敗走することになる。あとには死屍累々、辺り一帯に戦死者の山ができたという。それを見かねた安昌寺の雲山和尚は村人たちとともに屍を集めて埋葬した。首塚として今もそれが残っている。
 けれど、これで小牧長久手の合戦が終わったわけではない。その後も場所を移して小競り合いや駆け引きが続き、最終的に家康が浜松に帰り着いたのが11月21日のことだから、8ヶ月以上も続いたということになる。
 信雄が秀吉に説得される形で和睦を結ぶことになり、家康は戦いの大義名分を失って帰るより仕方がなくなったことで戦は終わった。更に家康が秀吉の配下になる形で収まるまでには2年の月日を要している。
 結果的に小牧長久手の合戦は、戦いとしては家康が勝ちを収め、情勢としては秀吉にとって都合のいいものとなった合戦だった。痛み分けというのではなく、両者が勝ったと言っていい。信雄の独り負けだった。秀吉にとってはこの戦で天下人となることになり、家康にとってもここで全国に力に示したことでのちの関ヶ原の合戦へとつながっていった。ただ、もしこの戦で秀吉が勝っていれば、家康を完全に配下に収めて征夷大将軍となって大阪幕府が開かれていただろうから、やはり実質的にも家康の勝利ということになるのだろう。

 江戸時代になると、大御所様が秀吉に勝った戦の跡地ということで、徳川家の家臣たちも大勢がこの地を訪れたという。彼らは何を思ってこの地に立ったのだろう。戦がなくなって平和な世の中が訪れて、自分たちはもう戦えないのかという絶望感のようなものも少しはあったんじゃないだろうか。武士として生まれ、戦うべき場所がないというのはある意味では悲劇だ。命を賭けるものがないということは熱く燃えられる場所がないことだから。平和を愛するようになるためには100年、200年かかったかもしれない。

リニモ長久手古戦場駅

 愛・地球博会場へ向かうために作られたリニモには、長久手古戦場駅というのがある。他に駅名はなかったのかと思うけど、これでもっと古戦場に人を呼びたいという狙いがあったのだろうか。ここで乗り降りしてる人はあまり見かけないけど。ただ、県外から古戦場へ行きたいと思っていた人にとっては便利になった。名古屋駅から地下鉄東山線で藤が丘まで行って、そこからリニモに乗ればいい。
 そういえば、このとき私は初めてリニモに乗ったのだった。思ったほど浮かび上がってるという感じはなく、まったく揺れないというほどでもない。ただ、やっぱり普通の電車とは挙動が違って快適ではあった。ちょっと近未来っぽくていい。
 秀吉も家康も、自分たちが命がけで戦った場所で、400年後にこんな乗り物が走るとは想像できなかっただろう。この先の400年後、ここはどんな風景になってるんだろう。今の私たちもそれは想像もつかない。

愛・地球博観覧車の親子

 時は流れて、世界は一応の平和を手に入れ、国内での大きな戦はなくなって久しい。もはや平和は当たり前のものとなった。天下統一のために親子、兄弟が殺し合っていた時代の上に今の暮らしがあることも忘れがちだ。
 戦国の人々は争いのない世の中を作ろうとして戦っていた。戦いを賛美するのではないけれど、彼らの願いや思いを忘れないようにしたい。
 何もない古戦場の跡地を歩いて、私たちは言った。平和でよかったね、と。




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