現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
タダを求めて東奔西走、タダ見シリーズ4弾は聖路加タワー
2007年03月08日 (木) | 編集 |
聖路加タワーから勝鬨橋方面

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f5.6, 1/2.0s(絞り優先)



 東京タダ見スポットシリーズ第4弾は、聖路加タワー展望室。無料展望スポットとしては、東京都庁に続いて2ヶ所目となる。東京は世知辛い一方で太っ腹な面も見せてくれる。
 聖路加というと聖路加国際病院がすぐに連想される。聖路加タワーというから、病院の屋上に展望室がついているのか、そんなところにのんきに観光気分で行っていいものなんだろうかと心配したけど、そういうことではなかった。聖路加国際病院とももちろん関係があるものの、病院棟とはまったく別のものだった。聖路加ライフサイエンスセンター構想を基に、病院との提携で高度な医療、介護サービスを受けることができるオフィス、マンションが主体となっている。
 高さ220メートルのツインタワーで、オフィス棟とレジデンス棟は超高層ブリッジで接続されている。高所恐怖症の人はきっと渡れない。レジデンス棟は聖路加国際病院との連携による高級ケア付住宅というから、相当高いのだろう。
 地上47階で、ホテル、郵便局、書店、コンビニ、スポーツクラブ、銀行、各種ショップなども入っていて、最上階にはレストラン「ルーク」もある。もしかしたら、この棟の中だけで一生生活できるかもしれない。屋上には日本テレビとフジテレビのお天気カメラが設置されている。着工が1990年で、完成が1994年。
 ところでちょっとややこしいのが聖路加の読み方だ。普通に読むと「せいるか」なのだけど、もともとは聖ルカからきているので「せいるか」が正しい。だから病院は「せいるかびょういん」となる。一方で、「せいろか」という間違った読みが一般化してしまっているので、聖路加ガーデンは「せいるかがーでん」が正式名となっている。正しく言おうとすると、せいるかびょういんの近くのせいろかがーでんへ行こうぜ、と言わなければならず面倒だ。

聖路加タワー内部

 展望室内部の様子。一部ではなく、これでほぼ全景。かなりこぢんまりしている。窓としても4ヶ所くらいで、10カップルも来たらいっぱいになってしまう。この場所にひとりで訪れるのはかなり勇気がいりそうなのだけど、三脚を持ったカメラ人もいたので、棲み分けはできているのかもしれない。マイナースポットゆえの人の少なさから、かえって写真は撮りやすいとも言える。ツワモノは窓の反射写りをふせぐために黒い布を持ってきていた。
 私は根性で手持ちの2秒露出。普通じゃ絶対無理だけど、窓枠に肘をついてレンズを軽く窓に押し当てればなんとかなる。三脚野郎への道のりは遠い。
 ちょっと面白かったのは、「喫煙、飲食、望遠付きカメラでの撮影は禁止」という注意書きだ。望遠レンズは何がいけないんだろう? のぞきでもするやつがいたというのか? もしくはスナイパーお断りってことか!? 望遠レンズは何mmからダメなのか、そのあたりに詳しいところを聞いてみたい気がした。300mm望遠レンズのデジカメ450mm換算とかは不可なのかどうなのかとか。

聖路加タワーから東京タワー方面

 下に見えている広い川が隅田川で、右に東京タワーが見えている。ライトアップされているきれいな橋が勝鬨橋(かちどきばし)。近くには築地市場や浜離宮があり、遠くには六本木ヒルズやレインボーブリッジ、パレットタウンが見える。晴れた日には富士山が見えることもあるそうだ。更に、夜8時からの東京ディズニーリゾートの花火がある日はそれも見えるというから、なかなか贅沢だ。
 窓の方向が限られていて306度ぐるりというわけにはいかないけど、タダでこれだけ見えれば上等。昼間、夕暮れ、夜と、それぞれ楽しめる。夜は8時半までと閉まるのが早いので、その点は注意が必要だ。
 最寄り駅は、日比谷線築地駅か、有楽町線新富町駅で、それぞれ徒歩8分ほどと少し距離がある。月島もんじゃからもそれほど遠くないので、そちらとセットでもいいと思う(私たちがそのコースだった)。

 勝鬨橋は、隅田川の最も下流に架かる橋で、跳ね上がって開く仕組みになっている。私は知らなかったけど、東京人にとってそんなの常識? 1940(昭和15)年に架けられて以来、一日5回、20分間、真ん中でパカリと分かれて「ハ」の字になって大型船を通していたそうだ。当時はまだ車の交通量も少なく、船の方が優先順位が高かったのだろう。
 その後、車と船の立場が逆転して、だんだん開かれる回数が少なくなり、1964年以降は3日に1度ほどとなって、1967年にはとうとう開くのをやめてしまったのだった。それから年に一度、試験のために開いていたのもついには1970年を最後に開かずの橋となって今に至っている。最近、もう一度開いて欲しいという声が高まって開こう会も作られているようだ。
 交通渋滞の問題があるから無闇には開けないとしても、年に一回くらいはイベントとして開いてもいいんじゃないか。以前の調査では修繕費に数億円かかると言われたらしいけど、2006年の再調査では問題なしという報告が出たようなので、近い将来あるかもしれない。東京マラソンができてこれくらいできないはずがない。次の都知事選の公約に誰か盛り込んでくれ。
 1947年から1968年までは橋の上を都電が走っていたんだとか。
 橋の名前は、日露戦争に勝利したことを記念して付けられた。勝ち鬨を上げるのあの勝ち鬨だ。そういえば最近、エイエイ、オーって聞かないな。
 長さは246メートル、幅は22メートル。橋を造ることになったときはちょうど東京オリンピックが予定されていたときで(戦争で実現せず)、世界に向けて立派な橋を造ろうということで力が入った。完成したときは東洋一の橋と言われたそうだ。。
 それにしても、このあたりもずいぶん様変わりしたのだろう。見渡す限りのビル群で、ウォーターフロントという言葉がぴったりの大都会だ。
 水上バスや屋形船もたくさん行き来していて、観光地としても発展しているのが感じられた。隅田川沿いも整備されて、これからの季節散策するにはよさそうだ。

 東京はどこも大都会化してしまって面白くなくなったと思っている東京人も多いのかもしれないけど、よそ者がこういう夜景を見るとやっぱり東京はすごいなと単純に感心してしまう。ビルの数や明かりの量が度を超えている。こんなにも大勢の人がいて、それぞれの暮らしがあって、大量のエネルギーが必要なんだと思うと、ちょっとぞっとするくらいだ。こんな中では頭ひとつ出すどころか、埋もれて暮らすことさえ困難に思えてくる。渦巻く想念なんてことを考え始めたら、その場にいて呼吸することさえ苦しくなってきそうだ。しかも、まだまだ発展し続けている最中だから驚く。
 けれどもしかしたら、私たちは東京のいい時期の一番最後を目にしているのかもしれない。地震だっていつ起きるか分からないし、世界が明日も変わらず平和だという保証はどこにもない。街はどんどん姿を変え、成熟の次には爛熟が訪れ、やがて必然的に崩壊していく。それは誰にも止められない。今はまだ夜景を見てきれいだなぁと感心していられる。それはとても幸せなことだと思っていい。夜の中でどんなことが起きていても、それが高い場所から見えなければまだ決定的に壊れてはいない。
 東京タダ見スポット巡りはこれからも続く予定。タダを求めて西東。東に無料タワーがあれば登って見てやり、西にタダ見スポットがあれば行ってタダ見し、南に期間限定のタダがあれば何を置いても駆けつけありがとうと言い、北にもうすぐ有料になるタダスポットがあればそんなつまらないことはやめろと言い、暑いときも寒いときもおろおろ歩き、みんなにデクノボーと呼ばれ誉められもしなくても、私はタダ見野郎になりたい。


江戸のヒーロー将門さんに挨拶して味方に付けよう神田明神
2007年03月08日 (木) | 編集 |
神田明神鳥居

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f5.6, 1/100s(絞り優先)



 神田の生まれといえば江戸っ子、子供の頃の私は鍵っ子。
 ……。
 久々にくだらない出だしでずっこけただろうか。それはともかくとして、神田といえば神田明神とすぐに思い浮かぶ人も多いと思う。もともと江戸っ子というのは江戸城に入城して将軍様を見ることができる「神田祭」と「山王権現」の氏子を指す言葉だった。江戸で生まれて三代続けば江戸っ子というわけではない。「江戸っ子だってねぇ」、「おうさ、神田の生まれよ」というやりとりでもお馴染みだ。
 その神田明神にちょっとお邪魔してきた。実は神田明神というとどうしても平将門の怨霊という連想で、ちょっと及び腰だったところもあった。ただ、実際に行ってみたらまるでそんなおどろおどろしい雰囲気はなくて、ちょうど結婚式も思われていたこともあって、境内はカラリと明るい空気感に満たされていてホッとした。むしろ庶民的空間とでも言えるような居心地のよさを感じた。平将門さんとケンカして勝てる自信はまったくない。できることなら味方にしておきたい人だ。
 写真や映像で見てできた頭の中のイメージと実際に行って見た印象がずいぶん違うのが東京という街で、神田明神も入口は思っていたのとはかなり違っていた。東京は性質上どうしてもそうなってしまうのだけど、それは唐突に現れるのだ。普通の街中に突如として異空間の入口があって驚く。歩いていっても前置きがない。歴史的建造物と現代の街並みが強引にくっついて隣り合わせになっている。このへんの感覚は名古屋とはまったく違っていて、まだ慣れることができない。ただ逆に言えば、神社仏閣を21世紀の街の中にそっくり残しているのもすごいと思う。東京というのは、外から見ているよりも近づいてみると意外に懐の深い街だということに気づく。

神田明神の隨神門

 鳥居をくぐって最初に出迎えてくれるのがこの隨神門(ずいしんもん)。おっ、こりゃあいいねぇと思う。この感じ、とても好きだ。将来大金持ちになったら、家の門はこんな感じにしたいと思う(本気か)。
 関東大震災のときに燃え落ちてしまって以来、50年間失われたままだったのを、昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念として再建されたのだった。総檜の入母屋造で、四方には青龍、白虎、朱雀、玄武が彫られ、中央には御祭神である大国主之命の神話が描かれている。

 神田明神の興りは古く、社伝によると730年に出雲出身の真神田臣(まかんだおみ)が、現在将門塚がある千代田区大手町あたりに、大国主之命(大己貴命)を祀るために建てたのが始まりとなっている。当時あのあたりは海岸沿いで森に囲まれた鬱蒼とした土地だったそうだ。
 940年、反乱に破れた将門を神田明神近くに埋葬したことから、一緒に平将門を祀るようになった。伝説によれば、関東で討ち取られた将門の首は京都で晒されたものの、首だけ飛んでこの地まで戻ってきたといわれている。そして次々に起こる怪奇現象。いわゆる怨霊というやつだ。しかし日本人の面白いところは、こうなってしまってはもうどうすることもできないので神として祀ってしまえという奥の手を使う。こうして日本二大怨霊、菅原道真と平将門は神様となった。その後は関東を守る太田道灌や北条氏綱などの武将たちによって守られた。
 現在も将門の首塚は大手町で高いビル群に囲まれながらもそこだけ違う空気感が満たされているという。うっかり軽い気持ちでは近づけない。
 この強烈なパワーを味方に付けようとしたのが徳川家康だ。関ヶ原の合戦の前、神田明神に戦勝祈願をして見事勝利を収めた家康は、江戸幕府を開く際に神田明神を江戸城の表鬼門の守護するため神田山(駿河台鈴木町)へと移転させた。更に二代将軍秀忠が現在の湯島に移し、江戸の総鎮守とした(1616年)。そのときの建物は総鎮守の名にふさわしい壮麗な桃山風の社殿だったという(1923年の関東大震災で焼失)。

 神田明神が江戸庶民に愛されたのは、なんといっても神田祭の存在が大きい。日本三大祭りのひとつでもある神田祭は、関ヶ原の合戦の9月15日にちょうど開かれていて、これは縁起がいいということで家康が続けるようにと言ったことで盛大な祭りとなった。
 赤坂山王権現の山王祭とともに天下祭と呼ばれ、交互に豪華な祭りが行われ、現代へと続いている。
 江戸時代は江戸中あげての大騒ぎで、36台からの華麗な山車が江戸市中を練り歩き、そのまま江戸城まで入って将軍や大奥の人々が楽しんだそうだ。今年2007年はちょうど神田祭が行われる年に当たる。5月の10日から14日まで、現在は神輿にかわったものの、大変な賑わいを見せるはずだ。山車は関東大震災でほとんど燃えてしまって残っていない。

神田明神の拝殿

 神田明神といえば平将門だけど、じゃあ御利益は何だろうと考えるとパッと出てこない。しかし実はここ、第一の神様は平将門ではなく大己貴命(大国主命)、いわゆる大黒様なのだ。そう考えるとなんだか肩の力が抜ける。大黒様は様々な縁を結ぶ神様だ。男女の縁結びだけでなく、人と仕事や人と人の縁を取り持つ神様と言われている。そのあたりからもここで結婚式を挙げる人が多いのだろう。『ロングバケーション』で山口智子が結婚式を挙げるはずだったのがこの神田明神だった。もうずいぶん古い話になってしまったけど。
 第二の神様が平将門かというとそうではない。二番目は少彦名命(すくなひこなのみこと)、恵比寿様だ。これは言わずと知れた商売繁昌の神様とされている。健康や開運の御利益も言われる。
 どうして平将門が三番目になってしまったかといえば、江戸幕府が倒れて明治の世の中になったとき、突然、平将門は朝廷に逆らった逆臣ではないかということになったからだった。江戸のヒーローが一気に悪役になってしまって江戸っ子も驚いただろう。明治7年、明治天皇がここにお参りにくることになり、将門が神様ではまずいだろうということになって急きょ神様の座からはずされてしまう。二軍落ちで末社に格下げ処分。そのピンチヒッターとして呼ばれたのが大洗磯前神社から助っ人として来た恵比寿様だったというわけだ。
 しかし、この扱いには江戸っ子も怒り心頭。その後10年間も神田祭をボイコットしてやらなかったのだから、相当頭に来たのだろう。平将門が神田明神の神様として復帰するまでそれから110年を要した(1984年)。

神田明神の社殿

 江戸時代を壊した三大元凶は、明治新政府と関東大震災と東京大空襲だった。地震は倒壊だけでなく家事の被害が大きかったから、ずいぶん多くの貴重なものが焼けてしまった。
 神田明神も江戸時代の社殿が関東大震災で焼け落ちた。現在のものは昭和9年に再建されたものだ。ただ、この建物は日本初の鉄筋コンクリート製で防火対策が施されていたため、空襲で焼け残ったのは幸いだった。これ以外の建物はことごとく燃えてしまったそうだ。
 戦後は結婚式場や資料館を増築した他、大がかりな塗り直しなどされて、江戸時代の絢爛さに近づいたと言われている。現在でも神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場など108町会の総氏神様として東京都民を守っている。このあたりに住んでいる人は、一度くらい足を運んで将門さんに挨拶しておいた方がいいかもしれない。味方にすればこれ以上強力な人はいない。
 ただし、都市伝説的な言い伝えとして、神田明神側についたなら、成田山新勝寺を参拝してはいけないとされている。これは、平将門の乱を鎮圧するために新勝寺で護摩祈祷の儀式がなされたせいで、あちらに詣ると将門さんが苦しむからだそうだ。その逆のことも言われていたりする。触らぬ神に祟りなしとするなら、両方近づかない方が身のためとも言えるだろうか。
 とはいうものの、平将門さんは決して理不尽な暴れん坊とかそういう人ではない。京都の平安貴族の横暴的な支配に対抗するために関東に武士による新しい理想国家を作ろうとした人だった。個人の反乱から始まった天慶の乱は関東武士たちの支持と尊敬を集めて、関東対朝廷の戦いとして5年続いている。将門は何も朝廷に楯突こうとか乗っ取ろうとしたわけではない。良く言えば、弱きを助け強きをくじくヒーローだったのだ。だからこそ、江戸庶民に支持されたのだろう。
 神田明神といえば「銭形平次」を思い出す人も多いかもしれない。野村胡堂が書いた『銭形平次捕物控』の主人公銭形平次は、神田明神下の長屋に住んでいるという設定だった(敷地内に銭形平次の碑がある)。あれも庶民のための正義の味方だった。

 東京の神社仏閣巡りをしていると、この街が間違いなく江戸の上に作られた街だということがよく分かる。それ以前の痕跡がほとんどなくて、江戸時代だけが色濃く残っている。こういう二重構造は他の都市にはない独特のものだ。
 そして今回、神田明神のことを書いたことで、江戸っ子というものの正体が少しだけ分かったような気がした。それはつまり、自分たちは江戸の町の発展を見届けながら江戸という町を守ってきたという自負心から来るものなのだろう。昔から東京に住んでいる人は、町との関わりがとても深いように感じられる。たとえば神社仏閣にしても、地方都市に住んでいる人の多くは自分の町内の神社仏閣にほとんど関心さえ示さないのに対して、古くからの東京人と寺社との関わりが深く見える。信仰心とは別の部分で日々の暮らしの中に寺社が近くにあるのではないだろうか。ある意味では歴史の浅い土地でこれだけ多くの寺社があるというのも不自然だし、これだけ発展した大都市で残っているというのも不思議な話だ。それだけ地元民が守る意識が強いということだろう。埋もれてはいるけど、まだまだ江戸っ子の心意気は東京に息づいている。それは、京都あたりの古い伝統を守ろうというのとはまた違ったものだ。
 江戸幕府が開かれてわずか400年。それでもこの400年は濃厚だ。巡り歩く場所には事欠かない。私の東京江戸巡りはまだまだ続く。




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