 PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6),f7.1, 1/160s(絞り優先)
御茶ノ水駅を降りて本郷通りの坂道を歩き出す。ほどなくして丸い屋根の不思議な建物が目に入る。ああ、あれか、ニコライ堂。緑色のタマネギのてっぺんに十字架が載っているロシア教会。正式名称を「日本ハリストス正教会教団復活大聖堂」という。その長すぎる名称から建てた司祭の名前を取って、もっぱらニコライ堂と呼ばれている。「あ、にほんはりすとすせいきょうかいきょうだんふっかつだいせいどうだ!」なんていちいち言ってられない。 7年の歳月をかけて1891年(明治24年)に完成したニコライ堂は、駿河台の高台にあって東京中のどこからでもその姿が見えたそうだ。もともと江戸の火消屋敷の跡地に建てたということで偉ぶるつもりはなくてもそんな格好になってしまった。皇居を見下ろすとはけしからんなんていう批判もあったそうだ。夏目漱石の『それから』にも登場する。漱石はこの教会を仰ぎ見て何を思ったのだろう。 今では周りを高い建物に取り囲まれてしまっているものの、それでもその存在感はあたりを圧倒して威風堂々としている。唐突な存在なのに不思議と違和感はない。
 ロシア領事館付の司祭としてニコライ(本名イワン・デミトロヴィチ・カサーツキン)が日本にやって来たのは江戸末期の1861年のことだった。最初に函館にある救主復活聖堂で布教活動を始たとき、ニコライはまだ25歳。けど、そのときにはもう、日本での活動を自分の一生の仕事にしようと決めたという。何か使命感を感じたのだろう。 いったん帰国して準備を整えたあと、本腰を入れて布教活動をするために1871年(明治4年)に再来日を果たす。35歳になっていたニコライは拠点を東京に移し活動を始めた。ニコライ堂が建つまでにここから20年かかっている。その間、明治12年には主教、明治39年には大主教となり、1970年には聖亜使徒となった。1912年に死ぬまで生涯日本を愛し、日本を学び、苦しみ、布教活動にささげた一生だった。 このニコライの活動もあり、日本にハリストス正教会が根付くことになり、ニコライ堂はロシア正教(ギリシャ正教)の日本における総本山であり続けている。明治時代後半には信者は25,000人まで増えて、カトリックに次ぐ信者数となっていたそうだ。現在でも8,000人ほどのロシア正教会信者の人たちがいるという。
ところで正教会って何だろうと思った人も多いかもしれない。現在、世界のキリスト教は大きく分けて3つの宗派に分かれている。ふたつはお馴染みのカトリックとプロテスタントなのだけど、日本においては正教会というのはマイナーな存在であまり知られていない。正教会という名前通り、いうなればこれがキリスト教の本家にもかかわらず。 キリスト教の流れをなるべく簡単に説明するとこうだ。キリストが生まれたのがパレスチナで、今で言うイスラエルだった。だからキリストはユダヤ人になる。当時のユダヤにはユダヤ教があった。と同時に、パレスチナはローマ帝国の支配下にあった。そのローマにはたくさんの神様がいて、けっこういい加減だったというのがある。自分たちもそれぞれの信じる神様がいて、他の宗教は尊重して弾圧することはなかった。キリストの死後、復活を果たした救世主イエスを信仰する宗教が、ローマ支配下のユダヤ人たちによって生まれ広がっていったというのがまず始まりとしてあった。 やがてキリスト教は、古代ギリシャにおいてキリストの思想や教えが哲学や芸術などと融合していき、世界の人々に大きな影響を与えるようになる。ビザンチン帝国の国教となり、392年にはローマ帝国の国教にもなった。それはロシアにも広がり、ロシア正教と呼ばれるようになる。東方正教会と呼ばれるのは東洋で浸透したからというのがある。 この後、1054年にローマ教区が本家と意見の対立から分離独立する格好で西方教会となってヨーロッパに広がり、更にルターの宗教改革によって西方教会は現在のカトリック系とプロテスタント系に分裂することとなったのだった。 キリスト教というと西洋のものと私たちは思いがちだけど、実は中東生まれでロシア正教が主流だったのだ。ただ、ギリシャは世界の表舞台から退き、ロシアは社会主義のソ連になって宗教を失うことになったりして、正教会はいつしかメインストリームではなくなっていった。 ニコライ堂のハリストスというのは、クライストのギリシャ語読みで、ギリシャ語でイエス・キリストはイイスス=ハリストスとなる。 以上、ちょっと長くなったけどキリスト教スタディでした。
 私たちが出向いたときは日曜の午前中で、公奉神礼(礼拝)が行われているときだった。かなりおごそかな雰囲気で入口にも関係者の人がいたりして、観光気分で写真をパシャパシャ撮っていられるような感じではなかった。悪いことしているわけでもないのに、普通の会話がひそひそ話になってしまう我々。それが逆に怪しさを醸し出していたかもしれない。入口のおじさんに若干マークされ気味だった。 見物のために行くなら土日は避けた方がいい。月曜も休みで、中を見学できるのは火曜から金曜の午後1時から3時半の間だけだ。献金という名目で300円かかるのがちょっと難点だ。払いたくないなら払わなくてもいいらしいのだけど、払わずに中に入るのはちょっと勇気がいる。それなら最初から見学料として徴収してもらった方がすっきりする。なんか試されてるような気分になる。 内部は当然のように撮影禁止となっている。これはまあ仕方がないところだろう。
教会の設計はジョサイア・コンドルと言われることが多いけど、実際はニコライがロシアの建築家ミハイル・シチュールポフ(ロシアエ科大学教授)に依頼して基本設計をしたあと、コンドルが手直しと現地の総監督をしたという形で建てられた。 東ローマ帝国スタイルである中央にドームを持つビザンティン様式の建物に、明治の人たちはきっと驚いたことだろう。これが東京中から見られたというのだから、今でいう東京タワーのようなものだったのだろうか。 しかし、1923年(大正12年)の関東大震災で大聖堂の鐘楼とドーム屋根が崩壊。内部も焼失してしまう。コンドルを尊敬する建築家岡田信一郎によって改修されたものの、耐震構造上などの理由からオリジナルとは少し違う外観になってしまったのは残念なところだ。それでも、昭和37年に国の重要文化財に指定されている。石造りの重要文化財では最古のものとなるそうだ。 1992年から9年かけて修復が行なわれ、外観だけでなく内部の壁面などもきれいになったようだ。
 神田名物ニコライ堂から鳴り響く鐘の音を今回は聞くことができなかった。鐘楼には大小6つの鐘があって、昔からこのあたりで暮らしたり働いてる人たちにとってはお馴染みのものなんだろう。近くで聞くとうるさいくらいだという鐘の音色をいつか聞きたいと思う。目を閉じれば遠くの異国にいる気分になれるだろうか。 私はなんとなくだけど、ニコライという名前に聞き覚えがあるような気がする。だからニコライ堂という存在を初めて知ったときにも妙に親近感を覚えた。前世で私はニコライという名前だったかもしれない。ニコライ! と突然後ろから呼びかけてみてください。もしかしたら反射的に振り返ってダァーと答えるかもしれない。ロシア皇帝だったニコライ1世と何か関係があるのだろうか。ニコライ1世の家来だったとか。 それにしてもニコライ堂って何かに似てるよなぁ、なんだっけなぁと考えていて、ハッと気づいた。そうだ、ニコちゃん大王に響きが似てるんだ! 『Dr.スランプ アラレちゃん』で名古屋弁をしゃべる宇宙人。え? 似てないって? 今ごろあの世でニコライさんはずっこけてるかもしれない。ニコちゃん大王と一緒にするなよぅと言いながら。 個人手にはこれからニコライ堂のことを、ニコちゃん大聖堂と呼ぶことにしよう。すごく親しみが持てる。
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