 PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f4.5, 1/125s(絞り優先)
南池袋の住宅地の中に都営雑司ヶ谷霊園はある。都電荒川線の雑司ヶ谷駅から歩いて5分ほどの距離だ。 10ヘクタールの広い霊園は、欅(ケヤキ)の古木に囲まれ、東京の都心近くとは思えないほどひっそりとしている。静かという形容詞が良くも悪くも使えるこの場所は、夜になって耳をすませば9,000人のささやき声が聞こえてくるのかもしれない。 江戸時代、この地は将軍が鷹狩りをするための居留地や屋敷があった場所で、明治になってから新政府が自葬を禁止するとともに(明治5年)、ここを墓所のない市民のために共同墓地と定めた(明治7年)。明治9年には東京会議所から東京府が管理を引き継ぎ、明治22年に東京市の管轄となったあと、昭和10年に雑司ヶ谷霊園に名称が変更されて今に至っている。現在は空き地の募集はしてないそうなので、入りたくても入れない。 ここには数多くの著名人の墓がある。泉鏡花、小泉八雲、竹久夢二、永井荷風、金田一京助、島村抱月、ジョン万次郎、サトウハチロー、大川橋蔵、小栗上野介、東條英機などなど。おかげでここはちょっとした散策地となっている。有名人お墓マップのようなものも売られているし、管理事務所では100円で霊園内の案内図を売ってくれるそうだ。私たちは、その前に寄った宣教師館で親切な管理人さんに霊園マップのコピーをもらうことができたのでそれを片手に散策をした。 見てみたいお墓を探しながらうろつき、こっちでもないあっちでもない、ああここにあったと喜びながら思う、お墓巡り巡礼って趣味になるかも、と。楽しいなどというと罰当たりだけど、実際けっこう面白いのだ、これが。 写真の墓は、泉鏡花こと泉鏡太郎のものだ。妖しく幻想的な小説を書いた鏡花の戒名は、幽幻院鏡花日彩居士。鏡花の墓の背景となるとサンシャイン60も現代の巨大な墓石のように見える。
 雑司ヶ谷霊園を訪ねる多くの人と同じく、私の目的もまた夏目漱石のお墓参りだった。この日はちょうど3月21日のお彼岸、訪ねるにはちょうどいい日だ。 漱石の墓は大きくて変わった形をしていて墓地の真ん中あたりにあるからすぐ分かるはず、というネットの情報を頼りに手ぶらで探そうとすると、見つけるには少し苦労する。私たちはマップを持っていても探してしまった。その理由のひとつが、四つ角近くにありながら墓石が背中を向いているというのがありそうだ。ネットに出ている正面からの写真を頭に入れていても、裏側から見るとかなり印象が違っている。 夏目漱石の弟子だった芥川龍之介も、大正14年に発表した「年末の一日」という随筆の中で、迷って自力で辿り着けなかったと書いている。 命日の12月9日に友人の新聞記者が墓参りに行きたいというので芥川龍之介は案内することになる。護国寺行きの市電に乗って(今はない)、終点で電車を降りて雑司ヶ谷の墓地へと歩いていったふたり。何度か来ているからすぐに見つかるだろうという思いとは裏腹になかなか見つからず、道を何度も行ったり来たり。 「もう一つ先の道じゃありませんか?」 「そうだったかも知れませんね。」 だんだんイライラしてきて、とうとう墓地の掃除をしていた女の人に訊ねて墓地の場所を教えてもらうことになった。芥川龍之介にしてみれば、先生のお墓の位置も分からないとはという格好の悪さが自分で許せない気持ちだっただろう。 「もう何年になりますかね」 「ちょうど9年になるわけです。」 芥川龍之介が自殺したのはこの2年後のことだ。自殺する数日前、ひとりでもう一度最後にこのお墓を訪れたという。 夏目漱石自身も、作品『こころ』の中で雑司ヶ谷墓地を登場させている。私(漱石)が先生と呼んで敬愛する人が毎月決まった日に友人の墓参りにここを訪ね、私もそれに付いていこうとするのだけど、先生はそれを拒み、理由を明かさない。ネタばらしはよくないので、続きは小説で。 今では漱石の弟子たちに続き、小説を読んだ多くの人々が墓参りに訪れる。間違いなくこの墓が雑司ヶ谷霊園の中では一番人気だ。短時間の間にも3組のグループが墓の前で手を合わせているのを見かけた。
この墓石は、漱石の死後、一周忌のときに造られたもので、当時からあまり評判はよくなかったらしい。建築士の妹婿が設計したもので、安楽椅子に腰掛けたような形をイメージしてデザインされたそうだ。天下の文豪とはいえ、漱石の墓石はもっと素朴であってもよかったかもしれない。奇をてらう必要はなかった。
 漱石が生まれたのは、現在の新宿区喜久井町だった。本名は夏目金之助。生まれてすぐ養子に出されたり、別に移されたり、戻されたりと、やや複雑な幼少期を送り、20年後に夏目家に復籍した。 学校もあちこちに移り、紆余曲折を経て帝国大学(のちの東京大学)に入り、イギリスへの留学生となり、向こうで神経衰弱になって本国に連れ戻され、小説を書き、教授となり、新聞社に入って職業作家になったものの、後半生は胃潰瘍などの病気との闘いだった。 43歳のとき大吐血をして一時危篤となる。その後持ち直し、48歳頃に芥川龍之介が弟子となる。漱石が芥川の書いた「鼻」を絶賛したことから、芥川が漱石の元をしばしば訪ねるようになった。漱石は娘の婿に芥川を考えていたほど小説だけでなく人物としても買っていたという。 49歳。病気をおして友人の結婚披露宴に出席した翌日から死の床につく。臨終間際、寝巻きの胸をはだけて「ここに水をかけてくれ。死ぬと困るから」と言った。それが最期の言葉になったとも、ありがとうと言ったとも伝えられている。12月の9日のことだった。 死後、遺体は東大医学部の解剖室で解剖が行われた。そのとき取り出された脳と胃は現在でも当該医学部に保存されているという。脳の重量は1,425gで平均よりやや重く、前頭葉が人よりも発達しているとか。 12月12日。葬儀は青山斎場にて行われ、受付には芥川龍之介らが座り、森鴎外なども弔問に訪れたという。戒名は「文献院古道漱石居士」。 落合火葬場にて荼毘に付されたあと、12月13日骨拾い。雑司ヶ谷墓地での埋骨式は12月28日だった。 漱石晩年の弟子で、漱石をとても敬慕していた芥川龍之介の墓は、ここではなく染井霊園近くの慈眼寺にある。そちらの檀家だったという理由によるのだけど、できることなら芥川も先生と同じ墓地に入りたかったんじゃないだろうか。自殺の前、墓の前で何を話したのだろう。それに対して漱石は何と答えたのか。49歳の漱石と35歳の芥川。思えばまだまだ若いふたりだった。
漱石は宗教を信じていないのに、晩年は道ということをしきりに考えていた。人生についてであり、死についてであり、それはやはり神についてでもあっただろう。弟子のひとりだった松岡譲に死んだあとどうなると思うかと訊かれて、深くは考えてないけど死んで肉体は滅びるにしても自分の精神までなくなってしまうことは感情的に考えにくいと答えている。 今は輪廻転生ということがわりと当たり前の概念として存在する世の中になった。それは気分の問題として、今を生きる我々にとってある程度共通の意識なのだと思う。信じるとか信じないとか以前に、そうであっても不思議でないという思いがどこかにあるようだ。 死んでから90年以上経った今、夏目漱石はまたこちらに戻ってきているかもしれない。相変わらずの神経衰弱なのか、またつまらなそうな顔をして小説を書いているのか、今度はもっと陽気に生きることを楽しんでいるのか。仲間や弟子たちとは再会できただろうか。 私の夏目漱石に対する心情は、どういうわけか知らないけど、面白くて笑える夏目の金ちゃんなのだ。文豪夏目漱石でもなく、敬愛すべき先生でもなく、漱石を思うとき失礼千万ながらバカだねぇこいつはと寅を叱るおいちゃんのような気持ちになる。金之助は実際、愛すべき駄目人間だった。なんて悪口を言ってると、化けて出てくるかもしれないな。
お墓というのは、本人の骨が墓石の下に確かに埋まっているということを思うと、亡くなった人に最も近づける場所と言っていい。特に過去に生きて会うことが叶わなかった有名人などは、お墓参りが一番接近できる方法だ。たとえ魂はここにとどまっていなくても、直接的なつながりを持てる唯一の方法かもしれない。本を読んだり思いを馳せるだけではつながらない縁が墓地で生まれる。 墓地は決しておどろおどろしいような、近づきがたいようなところではない。誰かにとっての愛おしい人がいる場所だ。死や死者を恐れてはいけない。 墓参りは死者のためにするものではない。自分のためにするものだ。何故なら墓はこちら側の世界にあって、生者のために存在するものだから。墓地へ行き、死んだ人たちのことを思うとき、自分自身もまた死へと近づく。死を思い、この先の生き方を考え直すきっかけにもなる。 生まれてから死ぬまでに起きるすべてはこの世の出来事。死ぬまでの辛抱であり、死までの夢物語でもある。生という祭りを喜びとするか、幻として儚むかは、本人の気持ち次第だ。 人は誰も等しく死ぬ。惜しまれつつ、あるいは恨まれつつ、もしくは忘れ去られつつ。死は平等であっても死後は平等ではない。同じ墓地に建てられた墓でも、訪れる人の数には明らかな差がある。大勢の人に参ってもらいたければ、人の心に残る立派な仕事をするしかない。家族や子孫も必要だ。死んで忘れられるということは、せいせいするとかそんな簡単なことじゃない。死によってこの世界とのつながりを失ってしまうということだ。 夏目漱石の墓には今日もまたぽつりぽつりと人がやって来て、手を合わせていく。献花も絶えることがないという。こんなに愛されている漱石は幸せ者だ。そして、そんな夏目漱石という人を得ることができた私たちもまた幸せなのだった。
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