 PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f6.3, 1/13s(絞り優先)
巣鴨の染井霊園から歩いて駒込の六義園(りくぎえん)を目指す。右手に北島康介を育てた東京スイミングセンターを見つつ、テクテク歩く。テクテクだった足取りがトボトボに変わった頃、左前方に駒込駅が見えてくる。ここまで来れば六義園はもうすぐそこだ。 私たちが行ったのは3月22日だから、一週間前になる。この頃はまだしだれ桜の満開には早くて、人出はそれほどでもなかった。そこそこのにぎわいで、ほどよい活気があっていい感じ。話によると満開の現在、とんでもないことになっているらしい。駒込駅を出たところからすでに行列が始まり、入場券を買うまでに30分も並ばなければいけないとか。どんだけヒートアップしてるんだ、しだれ桜のライトアップ。風邪気味のサラリーマンが会社帰りにちょっと寄って見ていこうかななんて軽い気持ちで行くとひどい目に遭う。出てきた頃には息も絶え絶えで次の日仕事を休まなければいけなくなりかねない。ここの夜桜ピーク時は充分に体調を整えてから行かねばなるまい。 通常は17時までの開園時間も、夜桜期間だけは夜の21時まで(入園は20時30分まで)延長している。今年は4月1日までということだから、今週一杯だ。桜のライトアップは、平成13年に築庭300年記念で始められた新しい企画で、今年は7回目となる。東京に住んでいても意外と知らない人もいるかもしれない。ニュースなどでさんざんやって知れ渡っているだろうか。入園は300円。
入ったのは5時すぎでまだ明るさが残っていた。まずは庭園をゆっくり一周することにした。ショートカットコースで30分、通常コースで1時間というのが標準タイムとして設定されている。ちょっとあっけないなと思うかもしれないけど考えて欲しい、東京の都心で一周歩くのに1時間かかる庭というのは尋常じゃない。個人所有だったのによくぞこれだけ広い庭園がそのまま残ったものだ。 写真の場所は庭園内最高峰であると同時に文京区最高峰でもある「藤代峠」からの眺めだ。海抜35メートルで、庭園を一望できる。名前は紀州にある同名の峠からとって付けられた。 よき眺めじゃのぉと、庭を作った柳沢吉安もこの場所に立って悦に入っていたのだろう。どうだ、参ったか、という気持ちだったかもしれない。
時は元禄8年(1695年)、五代将軍綱吉の時代。関ヶ原の合戦から100年近くの月日が流れ、江戸の町もすっかり平和になった頃、ここ駒込の地に側用人(そばようにん)の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が下屋敷(本宅以外の別宅)のための2万7千坪の敷地を与えられた。 もらってから思いついたのか、もらう前から空想していのか、吉保はここに巨大庭園を作ってやろうと思った。一から十まですべて自分の思い描く理想の庭園を。それは情熱を超えて狂気じみていたかもしれない。まったく平で何もなかったこの地に穴を掘って池を作り、35メートルの小山を築き、季節の木々を植え、7年の歳月をかけて自ら設計、造園指揮をして完成させたのが回遊式築山泉水庭園「六義園」だ。その7年の間には松の廊下事件があり、完成の2ヶ月後には赤穂浪士の討ち入り事件が起きている。そんなときに将軍の側近は庭づくりに熱中してたのだ。やるな、吉保。浅野内匠頭に即日切腹を言い渡した綱吉に何も意見をせずにさっさと処理してしまったのも、早く家に帰って庭づくりの続きがしたかったからかもしれない。 和歌に造詣が深かった吉保らしく、庭にはいくつもの和歌がモチーフとして取り入れられている。景勝八十八箇所を模して、各所にちなんだ名前がつけられた。「玉藻の磯」や「渡月橋」、「出汐の湊」、「妹山・背山」など。吉保の側室で公家の娘だった町子の影響も大きいと言われている。 六義というのは、中国の古い書物である『詩経』における詩の分類法で、賦・比・興・風・雅・頌の六義を指す。これを紀貫之が『古今和歌集』の序文で和歌に適用させて「むくさ」と読ませた。和歌では、そえ歌・数え歌・なずらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・祝い歌の六体となる。なので、吉保の頃は六義園を「むくさのその」と呼んでいた。今は「りくぎえん」が正しいことになっている。 完成当時は、小石川後楽園と並んで二大庭園と称されたというから、吉保も自慢だっただろう。だてに7年もかけてないぜと思ったに違いない。 将軍綱吉も何度か訪れ、その母親の桂昌院も王子稲荷参拝の帰りによく立ち寄ったそうだ。
吉保もたいがい趣味人だったけど、その孫の信鴻(のぶとき)はそれ以上だった。園芸趣味に走り、庭はあらたな展開を迎える。その頃には時間も経って、当初は人工的な庭だったものがだんだん自然化していった。その結果、生き物の楽園となっていく。池にはこうのとりが飛んできて雛を育て、今は特別天然記念物となった朱鷺(とき)も、この頃はまだ普通に見られたという。山にはキツネもタヌキもいただろう。 四季を通して山で山菜採りをしたり、キノコを集めたり、秋には栗拾いもしたそうだ。庭の方には桜を植え、菊作りをし、花壇や菜園も作った。すべて信鴻自らが率先してやっていたというから、きっと楽しかったのだろう。 せっかくのこんな素敵な庭だから自分ひとりで楽しむだけではもったないないということで、しばしば客人を招いて庭見学もさせている。それが評判になってツアー化していった。六義園見学はもう江戸時代に始まっていたのだ。 しかし、あとが続かなかった。次の代以降は徐々に情熱を失っていったようで、だんだん荒れていったという。 世は明治に移り、これに目を付けたのが成り上がりで庭園好きの岩崎弥太郎だった。以前に旧岩崎邸庭園を紹介したけど、弥太郎はここも買い取り、紀伊国屋文左衛門の屋敷だった清澄庭園も買っている。そのおかげで今まで残ったから感謝しなくてはいけないのだけど、金に任せて買い漁るという感じがちょっとなと思う。 昭和13年に岩崎家から東京市に寄贈されて、その後一般公開されることになった。昭和28年には国の特別名勝に指定されている。
 行ったときひとあし先に咲いていた、脇役の方のしだれ桜。これでも充分立派な木なのだけど、この姿では主役にはなれない。木にもそういう宿命というのがある。 あれから一週間経っているから、こちらはもうかなり散ってしまっただろう。でも、主役が遅れた分、前座としては立派に役割を果たしていた。それもまたひとつの生き方。
 しだれ桜は、ソメイヨシノに比べて花のピンク色が強くて、華やかさと可憐さがある。流れ咲く滝の風情と、ピンクの鮮やかさが人気の要因だろう。ソメイヨシノは男っぽくて、しだれ桜は女っぽいとも言えるかもしれない。 これ以外にももう一本、脇役しだれ桜があった。ここは桜の本数としてはごく少ない。みんなメインのしだれ桜を目当てにやってくる。 桜以外では、大きなこぶしの木も目立った。真っ白に咲き誇ったこぶしの白もなかなか見応えがある。 ここは全部で6,000本以上の木があるそうで、ちょっとした林のようになっている。モミジなども600本以上あって、紅葉の名所としても有名だ。
 ライトアップは日没後となっていて、はっきりとした時間は決まってないようだ。暗くなるまでにはまだ少し時間があったので、お茶屋さんで抹茶をいただきながら待つことにする。 茶屋は5軒ほどある。ただ、全部は開いてないのかもしれない。我々が入ったのは、「心泉亭」というところだった。店の入り口には園内で一番眺めのいいところと書かれていたけど、自己申告なので100パーセント信じていいかは分からない。でもいいところだった。普段は集会所にも使われているらしい。抹茶と饅頭で500円。 大名が心静かに庭を眺めたという視線を意識して建てられそうなので、私もそんな気分に浸りながらしばし時を過ごす。
 これが主役のしだれ桜。姿が抜群。これぞ真打ち。このときはまだ1分咲き程度だったのだけど、満開になったらさぞや見事に違いない。人混みにもみくちゃにされてでも見に行く価値がある。 今同じ場所から撮ったら、写真の下半分に数百の人の頭が写るだろう。初詣の参拝待ちの列に並んでるときのように。なんでもツワモノは昼過ぎから行って、三脚の場所取りをしてるんだとか。すごい気合いだ。私にはちょっとできない。でも、ちゃんと撮るなら当然、三脚は必要不可欠となり、でもライトアップが始まってからのんびり行っていたのでは三脚を立てる場所など確保できるはずもなく、やはりその日は会社を休んででも三脚の場所取りが必要なのだった。 こんなに立派なのにまだ30年そこそこというから驚く。3本の木が合体して、こんなふうに見かけ上大きくなったそうだ。高さ13メートルで、幅は17メートル。しだれ桜はソメイヨシノと違って長生きで、数百年は平気で生きるから、まだまだこれからが楽しみだ。あと50年、自分もじじいになるまで生きてまた見に行ったらどれほど大きく成長してるだろう。そんなことを楽しみにしながら、22世紀まで生き延びたいと思っている。
 ライトアップが始まると、庭園内は行ける場所が制限されて、出口まで一方通行のコースが設定される。暗くなってから庭園のあちこちに勝手に行かれたら困るというのもあるだろうし、混雑時の対策でもあるのだろう。 写真は千里場と名づけられた馬場だ。けっこう幅があって長い。柳沢吉保はここで馬に乗って疾走したりもしたのだろうか。 ここも両脇から道をライトが照らして、ちょっといい雰囲気だった。 結局、3時間くらいいただろうか。庭園も、しだれ桜も、夜桜も堪能して、満足したところで帰ることにした。考えたらこれで300円は安い。 次は紅葉の季節だ。庭園として楽しむなら、桜よりも紅葉の方がいい。ライトアップもあるから、タイミングが合えばまた訪れることにしよう。いつか、満開のしだれ夜桜も見てみたい。
綱吉が亡くなると吉保は六義園に隠居して、ここで生涯を閉じた。57歳。長子吉里に家督を譲って5年後のことだった。人生50年の時代ではまずまず寿命を全うしたと言っていいだろうか。 終わってみれば、立身出世も、生類憐れみの令も、赤穂浪士事件も、六義園の庭づくりも、過ぎ去った幻のよう。名前と丹誠込めて作った庭だけでも残ってよしとしよう。 300年先の未来から、吉保さん、ありがとう、という私たちの声は届いているだろうか。
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