 OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm(f3.5-5.6 DC), f6.3, 1/60s(絞り優先)
カタクリ群生地から離れて巴川沿いを少し歩いたところに香積寺(こうじゃくじ)がある。紅葉の季節は、ここももみじ寺となって大勢の人で賑わうのだけど、それ以外は訪れる人も少なく、ひっそりとしている。この寺と紅葉の関係は深く、ここの住職が香嵐渓の名付け親、ゴッドファーザーであり、はじめの一歩ならぬはじめの一本を植えたのもここの住職だった。ヒザに猫を乗せながらぼそぼそと、香嵐渓、と小さな声でつぶやいた……という言い伝えは特に残っていない。 1930年(昭和5年)に、大阪毎日新聞社の社長がこの地を訪れたときにここの名前を何かつけてくれないかというリクエストに対して、「飯盛山から香積寺に向かって爽やかな嵐気(湿りけを含んだ山の空気)が吹き降りてくる場所」ということで香嵐渓と名づけたのだそうだ。和尚の横にいた町長が、そりゃあいいですなぁとかなんとか言った図が目に浮かぶ。 春先の香積寺は、まだ渋枯風情で春本番はまだ遠いのを感じさせる。新緑はもう少し先になる。枯れ木と緑が濃くなり始めた苔の組み合わせも、これはこれで悪くない。秋は様相が一変して、この場所も真っ赤に染まる。 室町時代の1427年、足助氏の居城があった場所に香積寺は創建された。その頃はまだこのあたりも深い山の中で、もちろん観光名所などではなかった。 時は流れて江戸時代の1634年、11世の三栄和尚がこの地をもっと美しくしようと思いついて、般若心経を1巻詠むごとに巴川河畔からカエデを引っこ抜いてきて参道に植え始めた。今ならそんな勝手なことをしたらちょっと問題になりそうだけど、当時は全然問題ない。それは一本、二本と増えていき、その後、大正から昭和のはじめにかけてその趣旨に賛同した住人たちが境内や川沿いにカエデを移植して、それが今日の紅葉名所につながった。 東海一の紅葉名所となった香嵐渓は、秋になると4,000本を超えるカエデが赤く色づいて、大勢の人を呼び寄せる。ひとりの思いつきがこんな大ごとになってしまうこともある。千里の道も一歩から。4,000本のカエデも1本から。ひとりの力は微力でも、次の世代につなげていくことで大きな力になる。三栄和尚も紅葉の季節にはこの世界に戻ってきて、あれオレが植えたんだぜ、巴川から引っこ抜いてきて、どうだ、すごいだろう、と霊仲間に自慢しているかもしれない。
 参道の石段に咲いていたスミレ。タチツボスミレだろうか。違うだろうか。 人は生まれる場所を選べないように、花もまた咲く場所を選ぶことができない。けど、こういうところでもしっかり咲いている野の花を見ると、生まれ落ちた場所に精一杯生きていくことの大切さを教えられる。いい条件で咲くことが幸せなのではない。与えられた場所で生きられることが幸せなのだ。 スミレからすれば、どうせならもうちょっといい場所で咲きたかったなと思っているかもしれないけど。それとも、風流好みの性格のやつで自分はここで充分満足ですと思っているだろうか。幸せも不幸も、大部分は主観の問題だ。
 三州足助屋敷の外に咲いていたミツマタの花。枯れて葉の落ちた枝の先に白っぽいもの付いていて、花の枯れあとかなと思うけど、近づいてよく見てみると外が白で先が黄色の花が咲いていることが分かる。これは枯れたあとじゃない、今まさに咲いているところだ。 春先にいち早く咲き始めるということで、昔はサキサクと呼ばれ、三枝という性はこの花が語源とされている。 三州足助屋敷は紙すきで和紙を作っているから、これはその材料として植えられているのだろう。コウゾとともに和紙を作るための原料として今でも岡山県を中心に栽培されている。現在の一万円札の主な原料もこのミツマタだそうだ。 原産地は中国南部からヒマラヤにかけてで、日本には室町時代に中国から入ってきたと言われている。和紙の原料となるのは戦国時代以降で、本格的に使われるようになったのは江戸時代からとされる。初めて文献に登場したのは、徳川家康が公用紙を作る製紙工にミツマタの使用を許可した黒印状だそうだ。ただ、万葉集に登場したりもしていることから(ガンピとミツマタを混同しているという説も)、もっと早くから渡ってきて使われていたのではないかという話もある。 名前は文字通り枝から三つに分かれるところからきている。漢字では三叉、三又、三椏、三枝などと表記する。中国語では結香(ジエシアン)、英名はペーパーブッシュと呼ばれる。 園芸種では花がオレンジや赤のものもある。
 三州足助屋敷外から見た桜。どうして外からの写真しかないかというと、中に入るのに500円もかかるから入ってないのだ。どういうところか今ひとつ分からないまま入るのはためらわれた。帰ってきてから調べたところ、江戸から昭和にかけての手仕事を今に伝える伝統工芸館みたいなところらしい。昔の農家を再現して作って、その中で実際に人が傘や桶を作ったり、機織りをしたり、紙すきやわら細工、炭焼き、鍛冶屋仕事などをしているんだそうだ。入ってないから500円の価値があるのかどうかは分からないのだけど、なかなか面白そうなところではある。300円なら入りたい。 ここの桜はほぼ満開で散り始めていた。桜の花びらがハラハラと舞い落ちる様は、少しセンチメンタルだ。てのひらじゃつかめない風に踊る花びらを立ち止まって肩に上手に乗せて笑って見せたかったのだけど、それをやろうとすると不幸侵入になって捕まってしまうので思いとどまった。
 巴川の流れは、故郷の櫛田川に似ていた。子供の頃は、こんな川で釣りをしたり、泳いだりしたものだ。大人になって川遊びはまったくしなくなった。釣りももうしない。でも、こういう自然の川の流れを見るが好きなのは昔も今も変わってない。街の改造工事をほどこされた無惨な人工の川とは全然違う。川には音があるのだ。耳をすますと、ゴォーっという低い音が耳だけでなく体に伝わってくる。 巴川は矢作川の支流で、巴橋から1.2キロ上流の一の谷までの渓谷を香嵐渓と呼んでいる。ここにカエデが集中して植えられていて、紅葉の季節はこの河原も人がぞろぞろ歩く。 そして、一番の見どころが赤い山を背景にした赤い待月橋だ。って、橋がない!? あれ、本当にないぞ。架かってる橋は、あれは待月橋じゃない。川は何台も重機が入って大工事中。何事かと思ったら、橋を架け替えているところだった。そういえばそんなニュースを聞いた。川の風景で何か足りないなと思ったら、巴川のシンボルの待月橋が消えていたのだ。ちょっとびっくり。 昭和36年に架けられて以来、老朽化が進んで、橋の幅の狭さも見物客渋滞の原因になっていた。架け替えは仕方ないところだろう。新しい橋は幅が2倍になって、今年の9月完成予定だそうだ。もし紅葉の時期に間に合わなかったら大変だから、最後は突貫工事をしてでも完成させることになるだろう。 今年の秋は新しい待月橋を見るためにも香嵐渓の紅葉を見に行きたい。
 中馬街道に咲いていた紅白の花。最初、正体が分からなかった。梅にしては遅すぎるし、こんな桜は見たことがない。どうやら源平桃という桃のようだ。一本の木から赤い花と白いというかピンクの花を咲かせているのは珍しい。源氏の赤と平家の白で、源平桃か。なるほど。 これは面白くて美しい桃の木だ。気に入った。こういうのならうちの庭にも一本欲しい。って、庭なんてないじゃん! ベランダでは育たないだろう。いや、植木という手があるか。
今回、カタクリ絡みで足助の町をいろいろ紹介できてよかった。私自身、これだけしっかり見て回ったのは初めてだったから楽しかった。見どころも多いし、季節を変えればまた違った顔も見ることができる。他にも足助城があるし、飯盛山の低山登山もオススメだ。 名古屋の中心から車で1時間ちょっとなので、この地方の人はあえて紅葉とカタクリをはずすのもいい。普段はひっそりとした山間の町だから、ゆっくり堪能できる。シーズンオフは少し離れた落部駐車場などは無料になる。野鳥や野草も豊富なところなので、散策も写真も楽しめる。 足助観光協会の人に成り代わって、ぜひ美し国、伊達な旅、足助をよろしくお願いします(三重県知事と宮城県知事の両方からクレームがつきそう)。
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