現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
明治の雑司ヶ谷にマッケなんとかいう偉い宣教師の人がいたんだってね
2007年04月08日 (日) | 編集 |
宣教師館表から

PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f4.5, 1/640s(絞り優先)


 護国寺からのんびり歩いて雑司ヶ谷へとやってきた。静かな住宅街の道を進むと、道が突然赤煉瓦敷きになる。その先に目指す旧宣教師館はある。このときはツレが場所を知っていたから迷うことはなかったけど、初めて行く人は見つけるのに苦労しそうだ。道ばたを歩いている人に訊けばたいてい分かると思うけど。
 交通機関としては、どこから歩いても少し遠い。目白からでも歩けない距離ではないけど、もう少し近いところとしては、地下鉄有楽町線の東池袋駅か護国寺駅ということになる。どちらから歩いても10分くらいかかるだろうか。都電荒川線の雑司ヶ谷駅からなら7分くらいだ。
 9時から午後4時半まで開いていて見学自由となっている(月曜、第3日曜定休、祝日の翌日も休み)。無料なので思い切って入っていけば大丈夫だ。ただし、内部の写真を撮る場合は、別棟にいる管理人さんに申し出る必要がある。ノートに代表者の住所と名前を書くシステムだ。私が住所を書いていたら、わー、名古屋からみえたんですかと驚いていた。ここだけを目指して行ったわけではないけど。
 それではさっそく、及び腰でお邪魔します。

宣教師館外観

 ネットで宣教師館を紹介している写真はたいていこの角度からの写真と相場が決まっている。十中八九そうだ。現地に行ってみれば分かるけど、ここしか撮る場所がないのだ。これ以上近づくと全体が入らなかったり邪魔なものがあったりで、後ろはこれ以上下がれない。なので必然的にこの場所からとなってしまう。うーむ、家の前の木、ちょっとどいてくれないかな。

 旧宣教師館の名前の通り、かつてここにはある宣教師が住んでいた。
 ジョン・ムーディー・マッケーレブ。1861年、アメリカ・テネシー州ナッシュビル郊外生まれ。
 父親を南北戦争で失ったのが生後6ヶ月のとき。少年時代から苦労を重ね、勉強して、クリスチャンとなる。27歳のとき、ケンタッキー州のカレッジ・オブ・ザ・バイブルに入学にして、先輩宣教師アズビルの勧めで日本での伝道を決意する。
 1892年(明治25年)、新婚の妻デラを伴い、来日。築地、神田、小石川で伝道活動を行い、1907年(明治40年)に雑司ヶ谷のこの家に移り住んだ。以降はこの地を拠点として、太平洋戦争開戦直前の昭和16年まで、伝道活動に力を尽くした。
 それだけでなく、現在雑司ヶ谷幼稚園のある場所に雑司が谷学院を開校して、青少年教育や慈善事業などの活動も積極に行い、多くの日本人に感銘を与えた。日本での伝道活動は50年に及び、この家にも34年間暮らした。戦争がなければ日本に骨を埋めることになっただろう。
 マッケーレブが帰国したあと、家は売却され、音響機器メーカー(スタックス)の本社ビルとして使われたりしながら、最後は建築会社のものとなり解体されることになった。しかしここで住民や建築家などの保存運動が起こり、昭和57年に豊島区が買い取って保存されることが決まる。
 その後、調査、修理などをしたのち、平成1年から館内が一般公開されるようになった。平成11年には東京都有形文化財にも指定されている。
 豊島区内ではもっとも古い洋館で、都内でも明治の純木造建築はほとんど残ってないので、これは貴重なものとなっている。

 建物は二階建ての木造建築で、シングル様式とカーペンターゴシック様式を組み合わせた19世紀末アメリカの典型的な郊外型邸宅のスタイルをしている。屋根は寄棟造りで一部切妻。
 洋館といっても宣教師館ということで豪華さや派手さはなく、むしろ質素なくらいだ。それでもこの外観は当時の日本人の目には相当ハイカラに映ったことだろう。出窓や大きなガラス張りなど、今見ても洒落た印象を受ける。

宣教師館内観

 内部はさすがに歳月感じさせる古さだ。走ったりしたら床が抜けそうで、そっと忍び足で歩いてしまう。
 家具などは当時のものはあまり残ってないのだろう。持ち主を変えていなければもっと残っていたかもしれない。部屋の様子は当時の面影をほとんど残していないのかもしれない。
 ほとんどの部屋は展示室になっていて、マッケーレブの活動や生活の様子紹介、児童書コーナー、雑司ヶ谷の紹介などがある。ミニチュア模型やビデオなどもあった。
 目を引いた物としては、石炭の暖炉や、竹張りの天井などだ。それと、二階に浴室があったのもちょっと驚いた。どうしてあえて二階だったのだろう。

宣教師館の廊下

 きしむ廊下に味がある。広い窓から光がたくさん差し込んで気持ちがいい。家の裏側は特に大きな窓になっていて、採光という点に関して外国人の方がずっと進んだ考えを持っていたことを知る。日本家屋の場合、畳やふすまなので、あまり光が入るとすぐに日焼けしてしまうというのがあって、必要以上に窓は大きくしなかったというのもあるのだろう。
 出窓というのも、ちょっとした工夫なのに効果は大きい。これがあるだけで部屋は明るく広く感じられる。
 間取りとしては広くないのに、近くに階段が二つあるのも面白かった。これも日本人にはない発想だ。普通、家族が暮らす二階建ての家に階段は一つでいい。二つあって、別々の部屋につながれば便利といえば便利だけど。
 家の裏には芝生と花壇があって、金髪の親子が座ってまったりしていた。あまりにも絵になる光景だったので写真に撮れなかった。表側ではブルーベリーがたくさん花をつけていた。きっと奥さんのデラは花壇で季節の花をいっぱい育てていたのだろう。

大門ケヤキ並木

 旧宣教師館をあとにした私たちは、雑司ヶ谷散策のゴール地点である鬼子母神へ向かった。ここはその手前にある有名な大門ケヤキ並木だ。
 信長、秀吉の時代に雑司ヶ谷村の長島内匠が鬼子母神へ奉納の為に植えたのが始まりとも、旧鎌倉街道の並木が残存したものともいわれ、いずれにしてもかなり歴史のあるケヤキ並木だ。
 昭和12年頃までは樹齢400年のケヤキが18本残っていたそうだ。今は古いものは4本だけになってしまった。それでも4本は戦国から江戸時代、明治、大正、昭和、平成と、ここで人々の暮らしと鬼子母神に参拝する人たちを見守ってきたということになる。

並木ハウス

 ケヤキ並木の中ほどに、手塚治虫ファンにはお馴染みの並木ハウスがある。このアパートの201号室に、昭和29年から34年までの5年間を過ごし、「鉄腕アトム」や「リボンの騎士」を書いた。
 現在はちょっとした観光地になりつつ、まだ住んでいる人がいるそうだ。築50年を超えるアパートなので住み心地よりも手塚治虫が住んでいた部屋ということ優先なのかもしれない。人がうろちょろするのも我慢しているのだろう。
 手塚治虫はここでテレビを買ってはしゃぎ、近所の人みんなを誘って嬉しそうに観ていたそうだ。そうかと思うと突然夜中にピアノを弾き始めて住人は頭を痛めたというエピソードも残っている。

 今でこそ日本で暮らす外国人は増えたものの、かつて外国人が日本で生活するというのは大変なことだっただろう。良くも悪くも注目の的となって好奇の目に晒され、必ずしも暮らしやすい国ではなかったはずだ。
 宣教師として日本で50年も生きたマッケーレブはどんな思いで過ごしていたのだろう。伝道活動は決して楽なものではなかったと言われている。最後にアメリカへ帰ることになったときは何を感じたのか。
 もし、この旧宣教師館が残されていなければ、私たちはおそらくマッケーレブのことを知らなかった。私たちが知る外国人宣教師は少ない。知ってるのはフランシスコ・ザビエルくらいのものだ。あとは、ルイス・フロイスやニコライ堂のニコライとか。マッケーレブもこれを機に覚えておこうと思う。けど、ちょっと覚えにくいのが難点だ。マッケンローだったら忘れないのに。
 自分の足跡を残すには本を書くという方法と、教科書に載ることと、あとは建物を残すという手があることをマッケーレブは教えてくれる。結果として、それが立派な宣教師がかつて日本にいたことを知るきっかけになるのだから、マッケーレブにとっても私たちにとっても幸せなことだ。
 問題はしばらくして思い出そうとしたとき、マッケ、マッケ、マッケなんだっけ? となるに違いないことだ。マッケンレーだっけ? マケレレじゃないよね。それでも旧宣教師館を見れば私たちの脳裏にはマッケなんとかという偉い宣教師のことが浮かぶからそれでよしとしてくださいね、マッケーレブさん。




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