 OLYMPUS E-1+Super Takumar 135mm(f3.5), f3.5,1/20s(絞り優先)
かつて、日本中に当たり前に咲いていたサクラソウ(桜草)も、今は野生のものを目にする機会はほとんどなくなってしまった。普通の生活をしていたらまずお目にかかることなく一生を終えることになるだろう。私もまだ見たことがない。一度だけ、愛知だったか岐阜だったかのマイナーな山へ行ったとき、サクラソウの自生地という看板を見たことがある。あれは犬山だったか、多治見だったか。 パッと見は芝桜と大して違わないからそんなに貴重なものだとは思えないのだけど、今や野生のサクラソウは非常に希少価値の高いものとなった。芝桜とでは、養殖のうなぎと天然うなぎくらい価値が違う。 この花を最も愛したのは江戸時代の武士たちだった。荒川の原野にたくさん咲いていたものを持ち帰って庭で育てているうちに、いろいろな花色が出てくるようになり、そこからだんだん品種改良が進んでいった。やがてサクラソウ・ブームが起こる。もともと桜色だったものから白や紅色、絞りや珍しい花の形をしたものなど、様々なものが作り出されるようになり、ついには品評会まで開かれるまでになった。サクラソウの品種番付まで発行されたというか、かなり大きな大会だったようだ。当時は、わざわざサクラソウ用のひな壇と小屋のようなものを作り、そこに5段のサクラソウの鉢を置いて、坐って目の高さで観賞するという作法だったという。 最も盛んだったのが天保年間というから、1800年の初頭から中頃にかけてだ。ペリーの黒船がやって来たのが1853年、明治元年が1868年。武士たちがサクラソウを育てて喜んでいたようでは、幕府が倒れるのも時間の問題だったと言わざるを得ない。江戸270年の平和はいかにも長すぎたようだ。 明治に入ると、さすがにのんきにサクラソウの品種改良にうつつを抜かしてるわけにもいかず、いったん栽培は下火に向かった。しかし、女性層や一部一般の愛好家によってサクラソウは守られ続け、少しずつ新種も増えていった。 第二次大戦でまたもやサクラソウ危機に陥ったものの、戦後再び機運は盛り上がり、昭和31年(1956年)に愛好家グループ「さくらそう会」の発足を機に、サクラソウは多くの人たちに守り育てられて今に至っている。サクラソウをこよなく愛す日本人は、たとえ自分の身のまわりに一人もいなくても、日本全国に大勢いるのだ。あなたの知らない裏社会。 現在では300種ほどの品種があるそうだ。その中の半分は江戸時代に作り出されたものだという。 しかし、サクラソウの栽培が盛んになる一方で、自生地のサクラソウは宅地開発などによって生息地を奪われ、戦後になって急激に自生地を減らしていった。 桜草はもともと、湿った原野や林の草の間に咲く花で、明るい場所を好む性質がある。人が山や里に入らなくなって草刈りなどの手が入らなくなったことで育成条件が悪くなり、数を減らしていったという面もあると言われている。里山というのは、人間が入っていって、ある程度歩いたり、果実を取ったり、木を切ったりしないと荒れる一方になる。必ずしも手つかずの自然のままがいいというわけではない。昔は人と自然の調和が上手く取れていたのが、今はバランスが崩れてしまった。 日本最大の自生地である、さいたま市桜区(田島ヶ原)は、国の特別天然記念物として保護されている。ただの天然記念物ではなく特別天然記念物というのはトキやオオサンショウウオや屋久杉なんかと同じ扱いということになる。いかに貴重で大事に守られているかが分かる。 4月の中旬から終わりにかけて、4万平方メートルに150万株のサクラソウが花を咲かせるそうだ。毎年、サクラソウ祭りも行われて、この時期10万人の人が訪れるという。ただ、ここも近年は種の付きが悪くなって衰退に向かっているそうだから、今後は少し心配だ。摘み放題だった江戸時代のような自生地はもう戻らない。
 サクラソウの原産地は、日本から朝鮮半島、中国にかけてで、日本では北海道南部から本州、九州に分布している。 サクラソウ属の植物は世界で400種類ほどあって、花の形はよく似ているそうだ。外国でもサクラソウの愛好家がけっこういるという。花の様子は日本的情緒だと思うけど、外国人にも繊細さや可憐さを好む人たちもいるということだろう。ここ10年、20年くらいで知られるようになって、アメリカでも愛好会が作られているんだとか。 園芸店では、西洋サクラソウやプリムラ・マラコイデスなどがサクラソウという名で売られることが多く、本物の日本サクラソウは稀らしい。本物を見ようと思えば、植物園へ行くくらいしかないかもしれない。花の色と形だけで品種まで見分けられるのは専門家と愛好家くらいだろう。 英名のprimroseは最初に咲く花(primerole)の変形で、バラ属などではない。ギリシャ神話では、パラリソスが許婚を失った悲しみで死んでサクラソウになったというエピソードが出てくる。そこから、ヨーロッパでは早死になどのイメージなのだそうだ。イギリスでは棺を飾る花として使われるとか。イギリスもサクラソウは昔から品種改良が盛んで、向こうではオーリキュラと呼ばれている。
サクラソウは、園芸品種として見ると、わりと平凡というか地味な印象を受ける。この程度のきれいな花なら他にもいくらでもある。パンジーやビオラでもサクラソウには勝てそうだ。 やっぱりサクラソウは、野生にあってこそ映える花だと思う。河原の原野で、緑の草の中に点在する濃いピンクは、まさに春の訪れを告げるのにふさわしい光景だろう。自然の美しい風景を自分の家の庭にも再現したいという人情は理解できるけど、やっぱりそれは無理がある。鉢植えの上のサクラソウ姿も本来の姿ではない。サクラソウはだだっ広い野原がよく似合う。 春の日差しに照らされて、柔らかい風に吹かれているサクラソウの群生を見てみたい。できれば、カメラ片手の観光客としてではなく、散歩の途中でふらりと立ち寄るような感じで。好きな人と隣り合わせに座って、春ねぇ、うん、春だね、なんて言いながら。
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