 PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f8 1/50s(絞り優先)
北鎌倉駅に降り立つと、すでにそこは円覚寺である。明治22年に横須賀線が開通したとき、円覚寺の中を思い切り線路を横断させてしまったからそうなった。北鎌倉駅ができたのは昭和2年のことで、当初は住民の要望による夏限定の仮駅だった。線路脇にある白鷺池(びゃくろち)の唐突さを見ても、そこが境内だったことを示している。そんなわけで、円覚寺は北鎌倉駅から徒歩0分というわけだ。 踏切を渡って石段を登ると、すぐに総門へと至る。 門には御土御門天皇の字で「瑞鹿山(ずいろくさん)」と書かれた額がかかっている。円覚寺の山号で、開山の際に白い鹿が突如現れたという伝説からそう名づけられたという。正式名は、瑞鹿山大円覚興聖禅寺(ずいろくさんだいえんがくこうしょうぜんじ)。白い鹿が出てきたという洞窟も残っていて、みんな並んでいたので私ものぞいてみたら、暗い穴しか見えなかった。 円覚寺の読み方は、「えんがくじ」と濁るのが正式だそうだ。「えんかくじ」で漢字変換してもできないからおかしいなと思った。 名前の由来は、建立のときに大乗経典の「円覚経(えんがくきょう)」が出土したことから来ている。
鎌倉五山の第二位となる円覚寺は、1282年、鎌倉幕府八代執権・北条時宗によって建てられた。蒙古襲来の文永・弘安の役で戦死した兵たちの弔いと、自らの祈祷所として、中国から無学祖元(むがくそげん)を呼び寄せて建立した。 臨済宗の寺で、時宗は禅を精神的な拠り所としていて、民衆にも広めたいと考えていたようだ。現在でも毎週末に一般参加の座禅会が開かれている。 鎌倉五山というのは、中国の慣習にならった寺の格付け制度のことで、円覚寺は二位というから文字通り2番だ。鎌倉時代以降も幕府によって手厚く保護され、最盛期には42の塔頭寺院があったという。現在でも18の塔頭があり、これは鎌倉で一番多い。 五山の第一位は、時宗のオヤジさんである北条時頼が建てた建長寺で、こちらは幕府の寺だ。それに対して、円覚寺は時宗の個人的な寺という色合いが強い。そのあたりも両方を訪れてみるとはっきりと感じることができる。 総門まではタダで、その先は有料となる。300円。ちょっと古い情報では200円になっている。最近になって値上げしたようだ。そもそも拝観料を取るようになったのは戦後もだいぶ経ってかららしい。いつ誰が思いついて始めたのだろう。 前置きはこれくらいにして、そろそろ中に入ることにしよう。
 総門をくぐって杉木立の間を進むと、石段の上に立派な門が見えてくる。夏目漱石の『門』のモデルともなった三門だ。大迫力。こりゃすごいもんだと圧倒される。 漱石は27歳のとき、好きだった女の人を親友に取られたショックを癒すために、ここの帰源院(一般拝観不可)で10日間、座禅を組んだ。『門』が書かれたのが漱石43歳のときなので、それだけ傷は深かったのかもしれない(『吾輩は猫である』を書いてデビューしたのは38歳)。 室町から江戸時代にかけて、戦災や地震などで何度か焼けて、現在の三門は、江戸末期の1783年に誠拙周樗(大用国師)が再建したものだ。額は伏見上皇の字で、「円覚寺興聖禅寺」となっている。 上層には十六羅漢像や観音像が安置されている(外からは見えない)。 それにしてもこの三門は、鎌倉のファーストコンタクトとしては貫禄充分で、いきなりガツンとやられる感じだ。みんな写真を撮っていたけど、写真には収まりきらないスケール感があった。
 仏殿もまた立派なものだけど、三門の迫力には遠く及ばない。オーラが違う。それもそのはずで、こちらは1964年に鉄筋コンクリートで再建されたものだからだ。同じ建物を同じ材料で作っても、築50年と200年ではまったく違った印象を受ける。歳月というのは伊達でも無駄でもない。 堂内には本尊の宝冠釈迦如来像や梵天・帝釈天像などが安置されている。 額は後光厳天皇の字で「大光明宝殿」。 境内には、国宝の舎利殿(最古の禅宗様建築)の他、選仏場(座禅道場)、居士林、方丈、妙香池(夢窓疎石作の庭園)、開山堂、松嶺庵、仏日庵、黄梅院、帰源院、弁天堂など多くの伽藍がある。ただし、一般公開されているものは少ない。 近年に目を向けると、有島武郎もここによくこもって『或る女』などを書いたり、あとはなんといっても映画監督小津安二郎ゆかりの地でもある。監督のファンにとっては馴染み深い場所だろう。小津監督は晩年を北鎌倉で過ごし、『晩春』や『麦秋』は北鎌倉が舞台となった。1963年に60歳で死んだ。墓地は円覚寺にあって、墓石には「無」の一文字が刻まれている。 木下恵介監督や、田中絹代や佐田啓二の墓もある(非公開の松嶺院内)。開高健もこの地に眠る。
 円覚寺を建てた北条時宗は、自らここを墓所として選んだ。仏日庵は最初、時宗の廟所(びょうしょ)として建立され、のちに北条家の祖廟となった。貞時や高時の木像も祀られている。 拝観料は100円。迷ってやめた。このときはまだ時宗に思い入れがなかったから、まあいいやと思って。帰ってきて時宗について勉強してみたら、やっぱり入っておけばよかったと悔やんだ。1991年のNHK大河ドラマ「北条時宗」の主役が和泉元彌でなければ、大河も観て、時宗に関してももっと早くから興味を抱いていただろうに。そういえばあの親子、最近見かけないな。
五代執権北条時頼と正室の間に生まれた時宗は、生まれながら執権を約束されていた。 ときは鎌倉中期、モンゴル帝国がユーラシア大陸全域に勢力を伸ばして、いよいよ次は日本を狙おうかという時代、時宗は18歳にして執権の座につくこととなる。今で言えば、18歳の総理大臣だ。本人も不安だろうけど、国民はもっと心配だっただろう。 22歳のとき、側室の息子である兄時輔が謀反を起こす。苦悩の末、兄を討った時宗は、心に深い傷を負う。 その2年後、最初の蒙古襲来。軍船に乗った蒙古軍の兵4万。九州上陸は時間の問題とあきらめたとき、神風が吹いて蒙古軍壊滅。季節はずれの暴風雨だった。 29歳、無学祖元と出会う。その教えは、「莫煩悩」の三文字だった。思い煩うことなかれ。 31歳のとき、二度目のモンゴル軍襲来。今度は14万の大兵力だった。迎え撃つ幕府軍は4万。普通なら勝ち目はない。しかし、九州に準備した防塁のおかげで2ヶ月間上陸を許さずに持ちこたえた。そして、二度目の神風が吹く。大嵐で蒙古軍の船は散りぢりとなり、一夜にして4,000艘の船は姿を消していたのだった。 それから3年後の34歳で時宗はこの世を去る。もう役目は終えたかのように。枕元に無学祖元を呼んで出家の義を済ませたあと、静かに去っていった。 円覚寺とは、そういう男の寺なのだ。
 三門の右側に少し険しくて長い石段があって、そこをふうふういいながら登っていくと、もうひとつの国宝である洪鐘(おおがね)がある。1301年に北条貞時が物部国光に作らせたもので、高さは約2.6メートル。見るからに巨大だ。建長寺、常楽寺のものとあわせて鎌倉三名鐘といわれている。 鐘楼も、ものすごく古くて年季が入っている。鐘が重いから、その重みに耐えるのが大変だ。 この場所には他に弁天堂や茶店があって、展望も開けている。
 ここからは北鎌倉を一望できていい眺めだ。風も気持ちがいい。目の前には、次の目的地である東慶寺の屋根も見えている。 円覚寺は思った以上に広くて、見どころも多くて、更にペース配分もまだ掴めないものだから、ぐるっと一周するのに1時間近くも要してしまった。これはいけない。一ヶ所でこんなに時間を費やしていたのでは、とても全部まわりきれない。一日で鎌倉の主要な名所をまわるつもりなら、ここに時間をかけすぎないことだ。仏日庵もじっくり見て、小津監督たちのお墓も探して、茶屋で一服してなんてしてたら2時間くらいかかってしまいかねない。 それにしても円覚寺というのはなかなかに興味深くもあり、実際いいお寺さんだった。神社仏閣の空気感という点では、今回まわった中で最もよかった。静けさをたたえつつ、濃密な空気感を閉じ込めている。鎌倉観光の玄関口として申し分ない。途中の中だるみを建長寺で引き締めて、中間の鶴岡八幡宮でひとつのクライマックスを迎え、最後は鎌倉大仏で締めくくるというコースは、まるでツアーに合わせたように上手く配置されている。800年後の未来人のために頼朝がそこまで計算して鎌倉幕府を作ったわけではないだろうけど。
しかし、日本人ってこんなにも神社仏閣好きだっただろうかと、鎌倉を歩いていると思う。日常的に寺社巡りをしている人間は鉄道ファンより少ないと思うんだけど、鎌倉や京都、奈良では老いも若きもみんな喜んで神社仏閣巡りをしている。やっぱり日本人はそうなのか。まあでも、それは喜ぶべきことだろう。誰も寺社を訪れなくなったら、日本という国もこれまでとは別物となってしまう。 故きを温ねて新しきを知るというのは、いつの時代も大切なことだ。遠い過去に思いを馳せることで、自分が今しなければいけないことに気づいたりもする。歴史の都を訪ねるということは、彼らの願いや希望を受け取ることでもある。 時宗さんは今頃どこで何をしていることか。思い煩うことの少ない世界で平和に暮らしているだろうか。みんな時宗さんの思いなんか忘れて、観光で円覚寺を訪れているけど、それでも喜んでくれているかな。次に行ったときは、100円をけちったりせずにちゃんと会いに行きますから。しかし、和泉元彌はないですよね。
|