 PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/100s(絞り優先)
よくばり鎌倉巡り標準コースの中間に建長寺がある。貧乏性の人間が初めて鎌倉を訪れたとき、せっかくだから主なやつは全部見ておこうという貧乏性丸出しにするとたいていここが中間地点となるはずだ。北鎌倉のクライマックスという言い方もできるだろう。北鎌倉のはずれで、この先は鎌倉駅ゾーンとなる。 鎌倉五山の第一位ということでいやが上にも期待は高まる。どんなに立派なんだろうと。しかし、結果的にその期待は肩すかしというかイメージのズレを上手く修正できないまま終わることになる。何か物足りない。何が足りないのか、どこに違和感の要因があるのかは帰ってきて少し時間が経ってぼんやり分かってきた。まだこの時点では分からない。
ときは1253年、五代執権北条時頼の時代。承久の乱(1221年)の後、最大の敵対勢力だった三浦氏を打ち破った北条家は、鎌倉の地で盤石の体制が整った。時頼は幕府の威光を示すためにも巨大な寺院を造ろうと思い立つ。後深草天皇の勅命を受ける形で、南宋の禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう・大覚禅師)を開山として、4年がかりで建長寺を建立する。これが日本で最初の禅寺となった。 本尊は臨済宗のスタンダード釈迦牟尼(しゃかむに)ではなく、地蔵菩薩となっている。これは、建長寺が建つ前、この地が罪人の処刑場で地獄谷と呼ばれていたことに関係がある。そこには心平寺があって、地蔵菩薩を祀った地蔵堂があった。その縁起で建長寺は地蔵菩薩を本尊とすることになったという。心平寺の地蔵仏は現在、建長寺に本尊と共に祀られている。 山号は巨福山(こふくさん)、寺号は建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。建長寺の建長は当時の年号で、年号を寺の名前にしているのは、ここと延暦寺の二つしかない。今でいえば平成寺みたいなものだから、そう簡単に名乗れないだろうし、同じ名前が二つあってもまずい感じだ。 北条氏以降も幕府によって保護されて発展していき、ついには鎌倉五山の第一位にまでなった。最盛期には塔頭が49院にまで巨大化して、修行僧(雲水)は1,000人を超えたという。ただし、残念ながら度重なる火災や地震によって規模はだんだん縮小し、当時の建物の多くが失われてしまった。今残っているものは、江戸時代以降に再建されたり移築されたりしたものがほとんどだ。関東大震災でも大きなダメージを受けた。 このあたりにも私の感じた物足りなさの原因になっていたようだ。
 総門の向こうに大きな三門が見える。その向こうには仏殿、更には法堂(はっとう)と続く。このように伽藍が一直線に並ぶのが中国の禅宗様式の基本形で、建長寺もそのスタイルをしっかりと踏襲している(地形の関係で参道は少し斜めになっているけど)。真横から見るとそれがよく分かる。周囲には10の塔頭寺院が取り囲んでいて、規模は縮小したとはいえ、今でも充分広い境内だ。 総門は、1783年に建立されたといわれるもので、1943年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から移築されてきた。 「巨福山」の額は建長寺10世一山一寧(いっさんいちねい)の字で、「巨」の下に「点」が書かれている。中国人なので漢字を間違えたとかではない。ここに点があることで字に安定感が生まれるということで加えたんだそうだ。漢字テストなら×でも、ここならOK。
 総門の次は大変立派な山門が待ち構えている。創建時のものは失われて、現在のものは江戸時代の1775年に万拙碩誼和尚の尽力で建てられたものだ。高さ30メートルの重層門は、偉容を持って訪れる人々を出迎える。額の大きさだけで畳4畳分というから、そこで暮らせるくらいだ。お決まりの仁王像はない。 昭和29年に修理がなされ、最近も平成8年の大修理によって化粧直しをされた。その際に屋根は茅葺から銅葺になった。 楼上には釈迦如来像などの他、五百羅漢像が祀られている。昔は自由に上がれたようで、そのために五百あった羅漢像が気がつけば三百体ほどになっていたという。五百もあるから一体くらい持っていっても分からないだろうと思って持っていったんだろう。このままではいつかなくなってしまうということで、今は上がることができなくなっている。特別公開日のみ、見学できるようだ。
 三門をくぐれば次は本堂である仏殿だ。禅寺は本殿を仏殿と呼ぶのが正式なんだそうだ。 これは1647年に、芝の増上寺にあった徳川2代将軍秀忠の夫人崇源院(お江与の方)の霊廟を建て替える際に移築したものなので、本来の禅宗の仏殿とは違うスタイルになっている。しかし、こんな巨大なものを分解したとはいえ、江戸から鎌倉までよく運んできたなと感心する。当時は道だって狭かっただろうに。分解と再建築の技術もすごい。
 仏殿には本尊である地蔵菩薩坐像の他、千体地蔵菩薩立像、千手観音坐像、伽藍神像などを安置してある。 この古めかしさは素晴らしい。古ければ古いほどありがたみがある。地蔵菩薩は室町時代作だし、建物も江戸初期のものだ。天井絵も凝っている。 こういうものには素直に手を合わせて頭を下げたいと思う。神様抜きにしても。
 仏殿裏には龍王殿と呼ばれる法堂(はっとう)がある。通常の寺院の講堂に当たる建物で、これは1814年建立と古くて立派なものだった。その前の1275年創建のものも見てみたかった。 この日は、春の特別公開とかで開放されていた(5月7日まで)。 平成14年に、創建750年記念ということで、かなり大がかりな解体修理が行われたそうだ。 私たちはようやくここで遅いランチタイムとなる。数少ないベンチは占領されて座れそうもないのであきらめて、土台の石の上で手作りケーキを広げて食べた。写真でみんなが座っているところだ。そんなやつらは他にいなかったけど、この際ひと目なんか気にしちゃいられない。とにもかくにも久しぶりに座ってホッとする。吹き抜ける5月の風が気持ちいい。
 奥には千手観音坐像が、手前にはパキスタンから贈られた釈迦像が安置されていて、天井では巨大な龍がにらみをきかせている。補修工事をした祭に、鎌倉在住の日本画家小泉淳作によって描かれたもので、「雲龍図」という名前だそうだ。縦10メートル、横12メートルで、足かけ3年がかりだったという。 どこへいっても龍の視線から逃れられない。やましいところがなければ逃げ隠れする必要はないのだけど。
 法堂の次は唐門、龍王殿と呼ばれる方丈が続く。唐門は芝増上寺の崇源院霊屋から、方丈は京都般舟三昧院からそれぞれ移築されたものだ。。ここはなんだか寄せ集め所帯のようなことになっている。建物自体はどれも古くて立派なものなのだけど、他から移されたきたものだと聞くと少し複雑な気分になる。何百年もこの地に建ち続けてきたものと、よそから引っ越してきたものとでは意味が違う。 方丈は毎年11月に寺のお宝を虫干しするのを兼ねて一般公開されている(有料)。普段は靴を脱いで廊下づたいに裏にまわって庭園を眺めることができるようになっている。こちらは無料。特に素晴らしく凝った庭というわけではないけれど、これを見ながらしばしぼぉーっとするのも悪くない。 夢想国師作という説もあるようだけど、建長寺では開山の蘭渓道隆が作ったと説明している。夢想国師というにはちょっとシンプルすぎて違う気がする。 右に写っているのは紫雲閣で、創建750年記念で最近建てられた。みんなの拝観料はこういうところへいくのねと思う。 この他、禅道場(現在でも10数人の若い僧侶が修行しているそうで一般は立ち入り禁止)、国宝の梵鐘がかかる鐘楼、織田有楽斉(信長の弟)の墓などがある。元気な人は、ここから10分ほど奥へ行ったところにある半僧坊まで歩いていく。途中では大天狗、小天狗の像が出迎えてくれるそうだ。毎週金曜土曜に無料の座禅会も開かれているという。今の時期はボタンもたくさん咲いている。
さて、建長寺だ。おそらく、ここを訪れた多くの人が立派だったとか、建物がよかったとか、広かったといった感想を口にするだろう。けど、人にはそう言いながら、どこか満たされない思いでここを後にしたという人も少なくないんじゃないだろうか。特に鎌倉五山の第一位とはどんなところだろうと大いなる期待を胸に訪ねた人は余計そう感じたと思う。 個人的な感想としては、ちょっと観光地化されすぎているのかなというのがあった。京都の有名寺院みたいで、悪く言えば俗っぽくなってしまっている。あるいは、歴史の濃密な空気感が足りないというのも感じた。当初の建造物の大部分を失ってしまったこともあるだろう。建築物を他から持ってきたことも影響してるかもしれない。ひと言で言えば、ここは鎌倉らしくないのだ。ここだけ他の鎌倉寺院の中で雰囲気が違っている。円覚寺とも明月院とも違って、北条色がない。鎌倉特有のしっとりとした静寂さがここにはない。それは訪れる人数とは関係ない。 もう一つ言えば、建長寺にはドラマがない。失った大切な人を弔うためとか、そういった誰かを思いやる気持ちで作られた寺ではないから、人の感情に訴える部分が足りなくなってしまっているのではないかと私は感じた。人を思いやる強い気持ちは、人々の共感を呼び、共鳴してその地に波動として定着する。人はそれを言葉で説明できなくても確かに感じるものだ。共感すべき思いの核がなければ、共振は起こらない。 神社仏閣にも相性というのがあるから、私がたまたまそうだっただけかもしれない。人によってはここで大いにシンクロする人もいるだろう。誰がいいとか間違ってるかの問題ではない。立派なのは間違いなく立派なのだから、それでいいといえばいい。 そんな思いを抱きつつ、鎌倉紀行は更に続いていく。急げ、貧乏性、まだ半分だぞ。
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