 PENTAX istDS+smc PENTAX-DA 18-50mm(f3.5-5.6 AL), f7.1 1/100s(絞り優先)
北鎌倉駅から建長寺まで歩いていったなら、そのままもう鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)まで歩いて向かうしかない。帰還不能点は過ぎてしまっている。今さら引き返しても、かえって余計に歩くことになる。 せっかくだからということで、亀ケ谷坂切通しを通って、寿福寺にちらっと寄りつつ、やっとの思いで鶴岡八幡宮にたどり着いた。その頃にはもう、だいぶ日も傾き始めていて少し焦る。 夕方近くにもかかわらず鶴岡八幡宮は満載の人を飲み込んで全体がうごめいているようだった。胎動という言葉が思い浮かぶ。三が日の初詣客が200万人、年間で900万人を迎え入れている鶴岡八幡宮にとっては、これくらいは慣れたものなのだろうか。腹六分目くらいかもしれない。しかし、慣れてない我々は、この光景を見てかなりひるんだ。ほとんど度肝を抜かれたと言ってもいい。思わず、なんだこりゃ、と口走ってしまった。広い境内が祭りだわっしょい状態。本気で何かのお祭りかと思った。地方から出てきて初めて渋谷の街に迷い込んだ田舎者のようになってしまった私たちであった。 人混みはともかく、この雰囲気はお馴染みのものだ。いつも行ってる神社仏閣と同じ匂いがする。鎌倉に降り立ってから久々に拝観料を取られなかったのも気分をすがすがしくさせてくれた。こういうところでは素直な気持ちで賽銭に100円入れることができる。私は寺よりも神社が好きだ。ホームグランドに帰ってきたようでホッとする。
本来の落ち着いた気持ちを取り戻すことができたのは、ここが北条ではなく源氏ゆかりの場所だったというのもあったかもしれない。北鎌倉があまりにも北条色の強いところで、なんとなくお邪魔しているような、よそ行きの自分だった。やっぱり私の中の鎌倉は鎌倉殿の都なんだということを再認識する。北条の鎌倉というのは、好きだった作品の主人公が続編から変わってしまった外伝的な印象が強かった。戦国時代の主役が信長、秀吉、家康に変わっていったのとは違う。 もともとは、大阪の河内出身の河内源氏2代目源頼義が、前九年の役での戦勝祈願をするため、京都の石清水八幡宮護国寺を鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として勧請したのが始まりだった(1063年)。 それから100年余り経った1180年、源頼朝が鎌倉入りしたとき、さびれていた鶴岡若宮を現在の地に移しして建て直した。 頼朝は平家に続いて奥州の藤原氏も討伐して、事実上全国を平定した1191年、近くで出た火災によって鶴岡若宮は大部分が燃え落ちてしまう。頼朝は焼け跡を見て泣いた。 翌1192年、征夷大将軍になり、鎌倉幕府が成立する。これを機に、ここを幕府の中心と決めた頼朝は大造営をして、ほぼ現在の形に近いものを作り上げた。以降、鶴岡八幡宮は鎌倉幕府の象徴であり続け、幕府の儀式や行事はすべてここで執りおこなわれることになる。 北条執権時代から足利、徳川まで、変わることなく手厚く保護され、特に江戸時代前半は更に大規模化して、現在を超える伽藍が境内いっぱいに広がっていた。仁王門、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、薬師堂、などが次々に建てられ、大塔まであった。ここは神仏習合で、神様と仏がくっついたところだったから、いろんな建物がごた混ぜになっていたのだ。 しかし、敵は身内にあり。明治新政府が出した神仏分離令によって仏教関係のものはことごとく壊されてしまう。仁王門も薬師堂も護摩堂も大塔も、今はもうない。仏像や社宝も一部を除いて破棄された。幕末に優秀な大物がことごとく死んで、残った小物だけで作られた明治政府のやったことなんて所詮こんなこと。明治政府によって取り壊された城の数を思うだけで悲しくなる。なんでも古いものを壊せばいいってもんじゃない。 日本古来の神と仏が融合した八百万の神という思想を否定して、国の体制を神道一本にしたことで、結果的に狂信的な太平洋戦争に突入していく流れを作ってしまったということもある。昔の日本はよかったという懐古趣味的なことが言われたりもするけど、たとえば日本軍を描いた戦争映画などを観ると、今の日本の方がよっぽどいいと私は思う。
 参道の途中にある「舞殿(まいでん)」で人だかりができていた。何事だろうとのぞいていて見ると、ちょうど結婚式が行われているところだった。おお、すごい、この時期にここでやるかと思う。大勢の観光客に取り囲まれ、ひっきになりしに通り過ぎる参拝客の中央での神前結婚式。本人たちは緊張もしてるだろうし、神聖な気持ちになってるから周りのことは気にならないだろうけど、参列してる親族の人たちがとても居心地悪そうだった。頼んでもないのに写真も撮られまくり。このロケーションとシチュエーションはかなり厳しいものがある。逆に言えば、注目されるのが好きな人は、これ以上ない好条件だ。 ちょっといいなと思ったのは、「幸あかり」挙式というもので、これは一日ひと組限定で、日没から夜にかけて、かがり火の中で執りおこなう神前結婚式だ。参拝客もほとんどいなくなった日暮れ、静けさを取り戻した鶴岡八幡宮の舞殿というのは、古来の儀式のようで厳かで昔に戻ったような雰囲気に包まれるんじゃなだろうか。ここの結婚式は、巫女さんや古典楽器など、本格嗜好が強い。 ここは、義経と逃げた静御前が吉野山で捕らえられて、鎌倉の頼朝の前で舞いを踊るのを命ぜられたときに舞ったという伝説の場所だ。実際は、当時まだこの舞殿は作られる前だったから若宮社殿の回廊だったというのだけど、伝説としてはここで舞ったという方がドラマチックでいい。細かい場所はともかく、800年前にこの地で実際にそんなことがあったんだと想像すると、切ないような優しいような気持ちになる。 「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」 「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」 こう詠んだ静御前は頼朝の怒りを買って、義経の息子と共に命を落とすことになる。
 樹齢千年以上ともいわれる大イチョウ。高さ30メートル、周囲7メートル。 1219年1月27日。夕方から降り出した雪はたちまち積もった。夜になって、三代将軍源実朝が右大臣昇進の儀式のため鶴岡八幡宮を訪れる。その帰り、ほろ酔い加減でお供とともに石段を降りてきたとき、イチョウの影から覆面の男が飛び出してきた。親のカタキ! と叫びながら飛びかかってくる男に抵抗するすべもなく、一刀両断、切り落とされた実朝の首は石段を転げ落ちる。将軍暗殺。犯人は、実朝を親の仇と勘違いした二代将軍源頼家の二男・公暁だった。その公暁も同日、幕府の刺客によって討ち取られてしまう。享年20歳。一夜にして源氏の正当後継者は絶え、ここに源直系は断絶となったのだった。 以降、政治の実権は執権北条が握ることとなり、将軍職はよそから連れてこられたお飾りとなっていく。源頼朝が作り上げた鎌倉幕府の中心である鶴岡八幡宮で源氏の直系が途絶えてしまうというのは、なんとも皮肉な話だった。
 最近、全体的に塗り直されたようで、色鮮やかさが増した総朱塗りの大きな楼門。本宮の入口にあたる。 本宮はどういうわけか撮影禁止となっていた。ケチだからというより、人が多くて写真を撮られていたんでは人の流れが悪くなるからかもしれない。私はそれに気づかず一枚撮ってしまって警備のおやじさんに注意された。言われてみれば、本殿の向こうに撮影禁止という貼り紙があった。人波の頭で見えなかった。 本宮は1828年に、11代将軍徳川家斉が造営したもので、応神天皇、比売神、神宮皇后が祀られている。応神天皇は神話の時代の天皇で、三韓征伐の伝説があって、そこから戦の神様の性格を持っている。そのために、八幡宮というのは武士が信仰したイメージが強い。 階段の下には2代将軍秀忠が修造した若宮があり、こちらは仁徳天皇、履中天皇、仲姫命、磐之姫命などが祀ってあり、頼朝ゆかりの熱田神社の他、三島神社、祖霊神、武内社などがある。 知っている人は知っている、知らない人は知らない、鎌倉と鶴岡八幡宮と鳩の関係。楼門の額の「八」の字は、鳩の形をしている。鳩は八幡信仰の中では神聖な生き物とされていて、ここのシンボルとなっている。だから、鎌倉名物・鳩サブレーは鳩の形をしているのだ。知ってたかな。私は昨日まで知らなかったけど、明日からはずっと昔から知ってたかのように、鳩サブレーを食べている人を見かけるたびにこの雑学を披露するだろう。
 脇にあるこの神社は、これまで見たものとはずいぶん趣が違っていて惹かれるものがあった。源頼朝と源実朝を祀る白旗神社なのだけど、イメージカラーが黒というのは珍しい。源氏のシンボルカラーは白だし、名前も白旗神社なのに、なんで黒? 黒といったら豊臣家側の城くらいではないか。 と思ったら、豊臣秀吉が小田原攻めのあとにこの神社を訪れて、頼朝像に向かって、あなたと私は身一つで天下を治めた友達だね、と語りかけたというエピソードが残っているそうだ。それで黒になったというわけではないだろうけど、意外な共通点が面白かった。 1200年に源頼家が父頼朝を祀るために建立。車寄せ風の唐破風造りで、明治20年の改修で現在の黒漆塗りになったそうだ。
 源平池と名づけられた池のこちらは源氏池。参道を隔てた反対側に平家池もある。源氏池には島が三つ、平家家には島が四つ浮かんでいる。その心は、三は産まれるという意味を、四は死を意味するんだとか。えげつないというか子供っぽいというか。こんなことは頼朝が思いつくことじゃないだろうと思ったら案の定、妻の北条政子の立案だったようだ。 少し前までは平家に在らずんば人に在らずとまで詠われるほど繁栄を極めた平家が、驕れるものは久しからずのたとえ通りに滅び、それにとって代わった源氏は、拠り所としたここ鶴岡八幡宮でわずか三代で直系が途絶えることになった。やがて北条も打ち倒され、時代は移り変わっていく。それが世の常といえばそれまでだけど、人の願いというのはいつの時代も儚いものだ。永遠の繁栄などあろうはずもない。 源氏池の島には旗上弁天社が置かれている。社殿の後方には政子石と呼ばれる祈願石があって、頼朝はその石に政子の安産を祈願したといわれている。その石に触ると立派な赤ん坊が産まれるというのではなく、夫婦円満、縁結びの石となっているんだとか。 平治の乱に破れた源氏の嫡男だった頼朝は、流された先で政子と出会い恋に落ちる。しかし、平家を恐れた父時政は二人を引き離そうと、政子を無理矢理山木兼隆に嫁がせようとした。その結婚の儀の前夜、政子は屋敷を抜け出して駆け出した。大雨の中、伊豆で待つ頼朝の元へ。
鶴岡八幡宮を訪れて、ようやく私の描いていた鎌倉のイメージに行き当たった気がした。北鎌倉の寺はどこも素晴らしかったし立派だったのだけど、私の中の源氏鎌倉イメージとは違うものだった。やっと再会がかなったような気がして嬉しかった。 けど、ここで満腹になっている場合ではない。残り少ない時間で、まだ長谷ゾーンが残っている。ここからは江ノ電に乗って長谷へ移動することになる。その江ノ電が大変なことになっていたのだけど、とにもかくにも長谷へと我々は向かった。 長かったこの鎌倉紀行も、後半少し駆け足になって、あとは長谷編と番外編を残すのみとなった。そうこうしてるうちに横浜行きの日時が迫っている。さあ、先を急ぐのだ。歳月は人を待ってくれないから、過去への旅も急がなければならない。
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