 PENTAX K100D+Super Takumar 300mm(f4), f5.6 1/200s(絞り優先)
名古屋の夏は蒸し暑くて嫌になってしまうのは人間だけでない。動物園の動物たちも同じだ。暑い国から来たといっても向こうはカラッとしていて日本のムシムシとは違う。暑さにやられた彼らはみんなどこかけだるげでしょんぼりしてるように見えた。仕事終わりのサラリーマンのように。 今日の写真は、動物園の中でメジャーなメンバーを揃えてみた。それぞれが暑さに負けている様子は、ちょっと気の毒だけど微笑ましくもあった。まったく覇気というものがない。連日の35度オーバーでは元気を出せという方が無理な話か。 夏の動物園は動物が動かないからつまらないとよく言われるけど、クタッとしてる動物たちの表情もそれはそれで味があっていいもんだ。
 キリンはその目の表情から感情を読み取るのが難しい生き物だ。伏し目がちでいつもマイペースだから、暑さもこたえてるんだか平気なのか分からない。この日も動きは普段と変わらなかったから、暑さは気にならないのだろうか。 動物にももちろん感情はある。猫でも犬でも喜怒哀楽はある。キリンの感情も、一般人には分からなくても毎日世話をしている飼育員さんには分かるのだろうか。笑ったり、興奮したり、喜んだりしてるキリンというのは想像ができないけど、いっぺん見てみたい。
 シマウマというとサバンナでライオンに襲われて食べられる代表のようなイメージがあるけど、それはテレビの動物番組によって作られたものに過ぎない。シマウマは本気を出すとすごく足も速いし、気も強い。そう簡単にやられてしまう弱い生き物ではない。馬でありながら人間に飼い慣らされなかったのが何よりの証拠だ。 もしシマウマが素直な性格で人間に慣れていたら、彼らの運命は大きく変わっていただろう。走るスピードはサラブレッドよりも速いし、何よりも美しい。改良されてレース用にされたか、馬車用になっていたかもしれない。 野生を捨てて生き延びるか、野生を保ち続けて滅びへの道を進むか、それは難しい選択だ。会社に飼い慣らされるか、自由を選んで自滅するかという選択に似ている。
 サイについては、まだ個別ネタとしてブログに書いたことがない。これまで動物についてはたくさん書いてきたのに、そういえばサイはまだだった。だから私はサイについての知識がほとんどない。ブログに書くと一夜漬け的な知識を獲得することになる。 また別の機会にサイについては調べて書きたいと思っている。
 カバは皮膚の乾燥にすごく弱いから、暑い昼間はたいてい水の中で過ごす。皮膚が乾くと大変なことになってしまうから。 東山動物園には重吉という名物カバがいてかつては一番の人気者だった。2001年に長寿記録を更新して死んでしまって以来、現在は三代目重吉が跡を継いで、二代目福子と子供の小福とともに一家で暮らしている。
 ライオンは猫以上に毛むくじゃらだから、夏はたまらんなぁと思っていることだろう。気候がいいときでさえほとんど動かない彼らだから、暑いときに動くはずもない。最近になって運動場の近くまで行けるワ〜オチューブというものができて、ますます隅っこの方で座り込んでいることが多くなった。たまにはチューブの方まで来て、人間を襲うマネでもしてくれれれば来園者はもっと喜ぶのに。 野生のライオンは狩りが下手で、他の動物が襲った動物の残りをちょうだいすることが多いというのが最近の定説になっている。百獣の王という称号は返上しなくてはいけないかもしれない。それでもやっぱり貫禄はナンバーワンだ。座って何もしなくても大御所の存在感がある。
 ヒョウはすごく美しい生き物だ。猫科の中では一番と言ってもいい。でもヒョウ柄を身にまとう女の人とは友達になる自信がない。それとこれとは話が別だ。私がもし女だったとしてもヒョウ柄は着られないと思う。世の中のヒョウ柄好きの女性は、ヒョウが好きなのか、柄が好きなのか、ヒョウ柄が持つイメージが好きなのか、どれなんだろう。
 これはペルシャヒョウだったと思う。違ったか。上の写真のやつもヒョウだったかどうだか自信がなくなってきた。ジャガーだったかもしれないし、ピューマだったかもしれない。模様が微妙に違うから知識さえあれば簡単に見分けられるのだろうけど、今はまだ分かってない。これもいずれ書かなければならないネタの一つだ。今度行ったら、ちゃんと全員撮って比べてみよう。確か、東山には珍しいユキヒョウもいたはずだ。
動物園でお馴染みの動物たちも、実は自然界では全然お馴染みなんかではないものばかりだということに今更ながら気づく。ゾウもキリンもライオンも近所をうろついたりしていないし、もともと日本にいた動物でもない。でも、外国には自然の中で当たり前に暮らしている。そのあたりの現実感と非現実感のズレのようなものが動物園の動物にはある。物語がフィクションなのかノンフィクションなのか分からなくなってしまうような感覚に近い。動物園という場所自体、日常なのか非日常なのか、ときどき曖昧になる。 それは動物たちにとってもそうで、彼らにしてみても自分の置かれた状況を現実的な日常とみるか、特殊な非日常とするかで戸惑っていることだろう。動物園生まれなら疑問も抱かないかもしれないけど、それにしても野生の血が完全に眠ってしまうことはないはずだ。 囚われの身であることを受け入れきれず、流れる日常の中で表情がだんだん曖昧なものとなっていってしまうのかもしれない。受け入れても受け入れきれないわだかまりのようなものもあるだろう。人間も動物も、厳しい生存競争の中でしか輝けないということがある。平和は心を穏やかにもするけど、鈍くもさせる。 彼らが垣間見せる表情の中に何を読み取るかは私たちの側の問題だ。それは往々にして自分自身の心理の反映でもある。動物を見て悲しげだと思うのならそれは、自分もまた見えない檻の中に入れられていることを嘆いているのだろう。瞳の中に美しさと気高さを見る人は、自分の望まない状況でも精一杯生きようとする前向きな人に違いない。 動物園の中には生きるためのヒントがたくさん見え隠れしている。彼らが教えてくれるサインを見落とさずにしっかり受け止めることができれば、動物園はもっと幸せな場所となるだろう。
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