 PENTAX K100D+RICHO XR RIKENON 50mm f2
ちゃんとした写真を撮ろうと初めて思ったのは、2004年の7月だった。2002年、2003年というのが私にとってかなり低調な2年間で、2004年の半ばを過ぎた頃、そろそろ何か新しいことを始めようかなと思って思いついたのが写真を撮ることだった。その少し前にネットで見つけたある人の写真が気に入って、それが直接のきっかけとなったということもあった。 それまでもデジカメは持っていたし、自分のHPでも撮った写真を載せていた。SANYOのDSC-SX150という150万画素のコンパクトデジを使って日常のヒトコマを切り取っていた。けどそれは、HPで使う素材としての写真を撮るということで、趣味としてカメラを使うということではなかった。 そして選んだのがそのMさんという人が使っていたNikonのCOOLPIX 950というデジカメだった。これはかなり変わったデザインのデジで、200万画素クラスながら1999年発売当時の定価が12万オーバーというけっこう本格的なものだった。そこから私とカメラとの本格的な付き合いが始まることとなる。と同時に、写真を撮るための散策が日常的なものとなったのもこのときからだった。
その後は、オークションの一般化という流れも手伝って、デジを何度も買い換えていくことになる。中古で買ってしばらく使ったら売って、また別のものを買うというサイクルは、非常にありがたいものだった。新品で次々に買うなんてことは非現実的だし、いまだに私は新品のデジというものを買ったことがない。中古相場は半年やそこらで急激に下がるということがないから、趣味としてはむしろ金がかからないものだった。 CASIO QV-3000EX、OLYMPUS C-2020ZOOM、OLYMPUS C-3030ZOOM、TOSHIBA Allegretto M70、MINOLTA DiMAGE S304、Kodak DC4800、OLYMPUS C-2100UZ、MINOLTA DiMAGE7 UG。数えたら2004年だけで8台買っている。この中では鮮やかコダカラーで広角のDC4800と、手ぶれ補正10倍ズームのC-2100UZがお気に入りだった。DC4800は今でも欲しいくらいだ。 こうなってくるとだんだん欲が出て物足りなくなってくるのは当然の流れだった。一眼が欲しいと思い、でもまだ早いと思いとどまり、とうとうこらえきれずにレンズ一体型のOLYMPUS E-10を買ったのが、2005年3月のことだった。ちょうど愛・地球博が開催されるときで、愛知万博記念だと自分の中で強引な理屈をつけて買ったのを覚えている。それにE-10は目標とするMさんもCOOLPIX 950の次に選んだ機種だった。ここまで来たら、もう後戻りはできない。行くところまで行くしかない。
E-10はとてもいいデジだったと思う。400万画素ながら35-140mmでF2-2.4という明るいレンズは今考えても魅力的だ。テレコンを使うと200mmでF2.4のレンズとなる。こんなもの、交換式のレンズで買おうと思ったらいくらになるか。 それから半年の間、E-10はどこへ行くにも連れて行くよき相棒となった。思えば2005年のこの半年ほどいろんなところへ散策へ行ったことはなかった。春の桜から季節の花々、神社仏閣に森や公園巡り、愛地球博にも行ったし、海にも山にも一緒に行った。とても思い出深いデジだ。 最終的にはレンズ一体式ゆえの不自由さがどうしても物足りなくなって、初めての本格デジイチCanon EOS D30をその年の10月の終わりに買うことになるのだけど、何故かそこから急激に私の散策熱は冷めていってしまう。愛地球博で燃え尽きたような妙な脱力感に襲われて、2006年は散策冬の年となる。月に一度も散策に出かけないような一年だった。デジタル一眼にステップアップしたことがどの程度散策行きに影響を与えたのか、自分でもよく分からない。
デジイチになっても買い換えグセはいっこうに直っていない。一番よく使って気に入っていたEOS 10Dでもメインとして半年使ってない。その間にもちょくちょく買ってはちょこっと使って売り、また他の機種を買っては売りということをしていた。キスデジは旧もNewも使ったし、NikonのD70なんかは散策では2回か3回しか使わないまま手放してしまった。PENTAXのistDも何回使ったか。 そんな中で感覚的にぴたりときたのがistDSだった。istDはしっくりこなかったのに、その後継機でほとんど変わってないistDSがはまったというのも不思議なことだった。デジはスペックだけでは語れないところがあって、実際に使ってみないと相性の良し悪しは分からない。何がどうよくてどこが気に入らないのかを言葉で説明するのは難しいのだけど。 OLYMPUSのE-1も独特のよさがあるいいデジだった。持ってよし、シャッター切ってよし、画質もよし、と一時はこれ以上のデジはないかもしれないと思うほどだった。これまたMさんがE-10のあとに使った機種ということで、私の追っかけぶりもかなりのものだ。ただE-1はフォーサーズという規格がどうも納得いかず、最近は出番も減ってきている。これさえ普通だったら、私はOLYMPUS党になってもよかったのに。そろそろ売りに出す時期に来た。 istDSを買ったのは2006年10月の終わりで、これはこれまでの最長記録となっている。K100Dへの買い換えが2007年の8月だから10ヶ月もメインとして使い続けた。東京通いが始まったのが2006年の12月だから、これもまたいろんなところへお供したデジとなった。K100Dは手ぶれ補正という決定的な利点を持ったデジだけど、どちらが好きかといえば間違いなくistDSの方が好きだ。画質もだし、使っているときの感覚がistDSの方が楽しい。istDSのグリップは最高だったのに、K100Dはミシミシきしむようなヤワさで、なんだか持っていて頼りない。カメラのグリップというのは車でいうハンドルのようなもので、握り心地はけっこう重要なのだ。
さて、非常に長い前置きとなったけど、今日の本題はここからだ。前置きが長すぎるだろうというツッコミは置いておいて、話はいきなりフォトコン、写真コンテストの話題に飛ぶ。 写真をちゃんと撮ろうと思ったのが2005年の7月で、せっかく趣味として撮ってるんだから何か目標を持とうと思って始めたのがフォトコンへの挑戦だった。それが2006年春のことだ。最初に自信を持って送った桜の写真が選ばれなかったときのがっかりさは忘れられない。 あれから目標を達成できないまま1年半の歳月が流れ、この夏ようやく最初の一歩が実現したのだった。1年半の間にたくさん写真も撮って、少しずつ写真というものがわかりかけてきたところで、でもまだまだと思っているところに一つ結果が出たというのはいいタイミングだった。 フォトコン狙いのアマチュアカメラマンなんて、ミスコン荒らしの高慢ちきな女みたいなものだと、以前の私は思っていた。人に誉められたり選ばれたりするような写真を必死に撮ってるなんて、ケッと正直思っていた部分もある。半分以上はやっかみと自覚しながら。でも、フォトコンなんてと言うなら一度くらいはフォトコンに選ばれてみなければ言う資格がないんじゃないかと思い直した。フォトコンを非難するならそれからでもできるだろう、と。 自分の気に入った写真を数枚、月に一度雑誌に送るというのは、結果はともかく一つの目標にはなる。それ用に意識して撮ったものじゃなくても、送るときにひと月分の自分の写真を見返すというのも意味があることだ。けど、何度送っても通らないというのは、やはりそれなりにへこむものだ。選者と自分の写真の相性が悪いんじゃないかと人のせいにしてみたり。 そんなふうにして半ばあきらめていたところで今回初めて選ばれたのは、嬉しいというより意外さが先立った。自分の写真が急に上手くなったわけでもないのに、なんで今までダメだったのに今回だけよかったのだろうという戸惑いが大きくて。 けど、選ばれた写真を見て、なるほどそういうことだったのかと納得もした。今までは上手く撮ろうとして自分なりに上手く撮れたものがいい写真なんだと思っていたけど、そうじゃなかったのだ。その人なりの独自の視点から撮られた写真がフォトコンでは選ばれやすいということに気づいた。テクニックは選考の上位項目ではない。プロのように撮ってもプロのようには撮れないのだから、アマチュアとしてユニークな写真を撮ってくださいというメッセージなのだろう。選者によってもいろいろ基準や好みがあることは間違いないにしても、選ぶ方向性というのはある程度一致してるのだと思う。 初めて選ばれたのが、江ノ電とそれを撮る人たちだったというのは、偶然なのか必然なのか、私にはとてもラッキーなことだった。きれいな風景写真で入っていたら、自分の向かうべき方向を見失っていたかもしれない。結果が出てみれば、これこそ私の理想とする一枚ではないか。撮りたい被写体があって、季節があって、人がいる写真だから。 佳作に一回入ったくらいでどうこうということはないのだけど、ここは素直に喜んでおこう。むしろ、突然入選なんてしてしまったらどうしていいのか舞い上がって自分を見失ってしまいそうだから、これくらいでちょうどよかったのだ。自分自身、まだまだ下手だと思ってるし、自分の撮りたい写真を撮れているわけではないから、これからももっと上手くなりたいと思って撮っていく姿勢に変わりはない。 私が撮りたいのはやはり、人がいる風景や光景だ。人物像でもなく、風景写真でもなく、花のアップや生き物だけでもなく、人がいる写真が撮りたい。それはおそらく、私の世界との関わり方にも深くつながっているのだと思う。私は世界の参加者としてではなく傍観者として世界を見ているところがあって、でもそれは世界や人間と関わり合うのを嫌っているというではなく、人が生きているこの世界を愛しているから、この場所から世界を見ていたいというのがある。人間がいるからこそ、この世界は美しく、愛おしい。だから、そういう写真を撮りたいと願うのだろう。
たかがフォトコンというなかれ。写真を撮るすべての人々に、私はフォトコン参加をすすめたい。人に評価されるために頑張るというのは悪いことではないし、どんな結果でも努力は無駄にならない。向上心を持たずにどれだけ続けても上手くならないのは写真も同じだ。選ばれないことで謙虚にもなれるし、選ばれれば嬉しくもあり、励みにもなる。 写真というのは、自分のためだけではなく、誰かのためにあるものだ。自分のためだけのものなら、人に見せなくてもいいし、ましてやネット上に公開する必要もない。写真もまた、人を幸せにするためのものだとするならば、見てくれる人のために撮るという発想も必要となるだろう。自分がどこかへ行ってきれいなものを見て、これをあの人にも見せてあげたいと思って撮るのが写真の基本だ。視点や記憶の共有と言ってもいい。これ見よがしにテクニックを駆使して奇をてらった写真を撮るのは自己満足のためだ。人のためにはならない。 見た人が感動したり笑顔になるような写真が撮れたら、それは誰が何と言おうといい写真なのだ。技術やカメラやレンズなんて関係ない。そんな写真が撮れたら、迷わずフォトコンに応募したらいい。それがフォトコンと趣味として写真を撮ることとの幸せな関係性だと私は思う。
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