 PENTAX K100D+smc PENTAX-DA 18-55mm f3.5-5.6 AL
伊勢神宮ではたくさん写真を撮った。本編では使いきれなかったので、今日は伊勢神宮風景の写真を紹介しようと思う。建物以外に撮るものといえば、やはり人と生き物ということになる。それが好きだから。 その人が普段、何に興味を持って、どれくらいの距離感で関係性を築こうとしているかは、その人が撮った写真を見ればよく分かる。写真というのは、ある意味では告白のようなものとも言える。
 伊勢神宮に隣接するように流れる五十鈴川の御手洗場(みたらしば)は、多くの人を惹きつける。初めて伊勢神宮に参拝に来たなら、ここも当然寄っておくべき大事な場所と言えるだろう。かつてはここで禊(みそ)ぎをしてからお参りするのが作法だった。昔はかなりの清流だったようで、口濯(くちすす)ぎも行われていたものの、現在は禁止されている。見るからにそれほどの清流ではないから、感覚的にもためらわれる。飲まなければ大丈夫だろうけど。 自動車メーカーの「いすず」はこの五十鈴川から名前をとって付けられたそうだ。 御手洗という名字はかなり珍しいけどいることはいる。「みたらし」や「みたらい」と読む場合が多いようだけど、学校ではいじられそうだ。島田荘司作品の探偵御手洗潔は、「みたらい」と読ませている。 みたらしだんごも漢字で書くと御手洗団子となる。これは、京都の下鴨神社にある御手洗川の近くで売っていた団子がみたらし団子と呼ばれたのが始まりだった。串には5つの団子が刺してあって、1つめが少し大きくてこれを頭に見立てて、2番目との間を少し空けてある。そして2番目以降の4つを体として、これを神前に供えてお参りをしてから家に持ち帰って、しょう油を塗って火であぶってから食べると厄除けになる、というのが元々のみたらし団子だった。だんごの輪島の輪島功一はたぶんそのことは知らないまま今日も嬉しそうに団子を焼いてることだろう。
 樹齢数百年の木々が参道に光と影のコントラストを作る。普通ならこれでずいぶん涼しく感じるはずなのに、伊勢神宮は暑かった。風がなかったということがあるにしても、伊勢神宮ということろはひんやりした神々しさよりもむしろ包み込む暖かさの気に満ちたところと言えそうだ。いい意味で緊張感がない。老舗なのに気取ってなくて居心地がいい店のように。日本で最高位の神社というと大上段に構えて居丈高なイメージがあるけど、そんなことは決してなくて、庶民のための神社と言ってもいいくらいの気安さがある。これもやはりアマテラスが女神だからだろうか。 参拝者の若年齢ぶりにはとにかく驚いた。おばあちゃんの原宿巣鴨なんかと比べると差は歴然で、平均年齢は半分以下だろう。東京の観光地になってる神社仏閣よりも顔ぶれが若い。じいさまやばあさまがほとんどいないのはどうしたことか。たまたまそういうタイミングだったということもあるにしても、こんなに若いというのは意外だった。若者を呼び寄せる力があるということだろう。
 さすがに神官や巫女さんは本物感がある。茶髪のバイト学生風情が巫女さんコスプレをしてるのとはわけが違う。 この写真の画面からだけでも客層の若さが分かると思う。お馴染みの神社仏閣とは明らかにメンバー構成が違うから私としては戸惑った。そして、なるほどそうかと思ったのは、これは初詣客と同じなんだということに気づいてからだ。それで得心がいった。そういう意味でも、日本人にとって伊勢神宮というのは別格の存在と言えるのだろう。近所の神社に行くのはカッコ悪くても、伊勢神宮に行くのはカッコ悪くないということかもしれない。
 夏休みは少年がよく似合う。でも少女も夏休み風景には欠かせない。日焼けした腕と帽子がよく似合っていた。 女の子は鯉にエサをあげたいと言い、お父さんに止められていた。これは神様の鯉やから変なものをあげちゃあかんのやと。そしてこう付け加えていた。これめっちゃ高そうな鯉やなぁ、と。確かにまるまると太った金色の鯉なんかは、私の持っているデジが何台も買えるくらいの値段がしそうだ。
ツレが見たいと言っていた神馬(しんめ)は残念ながら姿がなかった。暑かったから休憩所にでも避難させていたのだろう。 伊勢神宮の神馬は皇室が奉納したもので、神様の乗り物とされている。奈良時代から祈願のために馬を奉納する習わしがあり、それがのちに絵馬となった。むやみに馬を贈られてても神社としても困ってしまうから、本物の馬の代わりに馬の絵を描いたものを納めたのが絵馬の始まりだ。
 鯉に興味を失った女の子が何かを見つけて走っていって、そちらを見るとニワトリがいた。これも神のニワトリということで神鶏(しんけい)と呼ばれている。 天の岩屋に隠れた天照大神に夜明けを告げたことから、ニワトリは神の使いということになった。時々神社にいるのを見かける。特に伊勢神宮ではアマテラスが祀られてることで縁が深い。かつてはたくさんのニワトリが境内に放し飼いされたいたのが、イタチなんかに襲われて近年はほとんどいなくなっていそうだ。それでは寂しいということで、ニワトリ愛好家が小国鶏という白いニワトリを寄贈したのだという。
 すっかり環境にも馴染んだようで、ある程度人が近づいても逃げないくらいに慣れていた。それでもちびっ子は苦手なようで、触ろうとするチビからは逃げ回っていた。生き物にとって子供は敵だ。 神のニワトリだから、卵を産むのに飼育されているレグホーンなんかではまずい。あれではありがたみがない。やはり日本鶏ではないと。特に白いのが神聖ということで小国鶏が選ばれたようだ。尾っぽがヒラヒラしていて品がある。同じニワトリでも育ちと環境が違えば姿も違ってくるものだ。
 神の川五十鈴川で川遊びをしている集団がいた。おいおいと思ったけど、これは神のものではなくみんなのものだからいいのか。御手洗場より下流だし。これが上流ならちょっと問題となる。
伊勢神宮というと襟を正して身を清めて、ビシッとした気持ちで行かなければいけないような気がしていたけど、案外そうでもなかった。非常におおらかで懐が深い。早朝なんかに行くと人も少なくてもピンと空気が張り詰めてるのだろうけど、昼の賑わい時なら適度な活気があって陽気とも言える空気に包まれている。 神道というものは考えてみれば、信者を持つわけでもなく、人を選ぶわけでも、裁くわけでもない。神社へ行かない人間に罰を与えるなんてこともないし、悪いことをしたら地獄行きだなんていう教えでもない。すごくゆるやかなものだ。 神社の存在意義というのは、人間を超えた存在に対して敬いの気持ちを持つことを思い出させるための道具立てとしてだ。それは必ずしも支配者としての神がすむ場所などではない。自然の力や、この世界そのものすべてが神という発想から生まれている。上に対して敬意を払うことで自分自身が謙虚になるし、人にも優しくなれる。 そんな神社の頂点に立つ伊勢神宮が、一番大きくておおらかなのは、当然といえば当然のことだ。作法や態度がなってないからといっていちいち腹を立てたりはしない。来る者はどんな者でも受け入れて拒まない。 伊勢神宮は願い事を叶えてもらうために行くところじゃない。おかげさまという言葉があるように、伊勢神宮へ行けること自体がすでにおかげさまで来ることができましたという感謝の気持ちにつながるものだ。私たちもおかげでお伊勢参りをすることができた。その喜びの気持ちをおみやげにもらって伊勢神宮をあとにしたのだった。 このあと、我々はおはらい町へと向かった。そのときの話はまた次回ということで。
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