 Nikon D50+SIGMA 17-70mm F2.8-4
姫路城へ行って感銘を受けて、家に戻ってきて勉強して、いざ姫路城について書こうとしたら言葉に詰まった。たくさん写真を撮ってきて、書くべき事もいろいろあるのに、何からどう書いていいのか分からない。まだ自分の中で姫路城を消化しきれていないらしい。どの写真を使ってどれを不採用とすればいいのかの判断もつかない。こうなったら私が見たものを見た順番で並べて、その都度簡単な説明を付けていくというスタイルしかなさそうだ。姫路城訪問記ということで、今回はそのスタイルにしよう。それが一番分かりやすいし書きやすそうだ。1回か2回で姫路城についてコンパクトにまとめるなんてことはできそうにない。 ということで、歴史やエピソードについては後回しにして、まずは城外から天守閣に向かうまでの道のりを紹介していこう。これを見て、多少なりとも自分も行ったような気分になってもらえれば成功だ。私自身の記憶を整理することにもなるだろう。 まずは堀からだ。江戸城周辺ほど広くはないけど、堀はかなり残っている。風景としては現在の皇居周辺に少し似ていた。城造りの発想として江戸城と姫路城は相通ずるものがある。名古屋城の堀なんかとは構造が違う。 かつては内堀、中堀、外堀と三重に城を取り囲んでいたそうだ。外堀は11キロ以上、城下町は187ヘクタールの広大さだったという。今でもかなり残っているけど、それでも23ヘクタールと8分の1でしかない。江戸時代の姫路がそれほど発達した城下町だったとは知らなかった。京都、大阪から西への備えであり、交通の要所でもあったからからなのだろう。
 入り口では立派な橋が出迎えてくれる。やけにピカピカだなと思ったら、平成19年の今年できたばかりだった。どうりで新しいはずだ。 桜門橋と呼ばれるこの橋は、江戸時代から明治初期まで大手門の内堀に架かる木の橋だった。それを再現するにあたって、市民側は木の橋を希望し、姫路市は安全のために鉄筋の橋を造るといってしばらくモメていたらしい。結果的には間を取って、中身は鉄筋、外側が木製ということで決着がついた。木造もどきというのはちょっと残念だけど、手すりなどは純木製で雰囲気はある。ある程度歳月が経てばいい感じになっていくだろう。今はまだ新しすぎて違和感がある。
 橋を渡ればすぐに大手門前だ。でも、まだ本物は始まっていない。この大手門は昭和13年に再建されたもので、かつてのものとは大きさも位置も違っている。防御重視ということで、江戸時代の大手門は三重構造になっていた。かつては桜門という名前で、その後ろには桐一の門、桐二の門が並んでいた。 だから、ここからしてすでにありがたがってしまうのは間違いということになる。それは焦りすぎの勇み足というものだ。
 大手門をくぐると、遠く高いところに天守閣が姿を現す。おおー、これは、としばし立ち尽くす。その手前の三の丸広場では、なんの感慨も持たないちびっ子どもが城には目もくれずに走り回っていた。姫路っ子にとってみれば、姫路城なんてものは物心ついた頃から見慣れていてありがたくもなんともないのだろう。遠足でもちょくちょく連れてこられたりしてもう飽きてるのかもしれない。近くにある偉大なものの価値というのは分かりづらいものだ。 ここまではまだタダゾーンなので人も多い。市民の憩いの場となっているようだ。この広場ではいろいろなイベントやライブなども行われている。周囲には桜が植えられていたから、花見シーズンは花見客で賑わうのだろう。 かつては池田輝政の御殿など、様々な建物があったのだけど、明治時代に兵舎を作るために全部取り壊されてしまった。明治政府はろくなもんじゃない。 姫路城そのものも明治に消滅の危機に瀕している。明治4年の廃藩置県で城が不要のものとなり次々に取り壊されていく中、姫路城はなんとか取り壊しを逃れたものの老朽化が激しくガタガタのボロボロとなっていた。それで競売の結果、神戸清一郎という人が23円50銭で落札する。これは現在の貨幣価値に換算すると120万円ほどだというから安い。いかに引き取り手がなかったかということだ。結局その人も持て余してしまって手放すこととなる。 その危機を救ったのが中村重遠大佐で、こんな偉大なものを壊してしまうなんてもったいなすぎると陸軍卿だった山県有朋を説得して、陸軍の費用で修繕して保存することになったのだった。中村大佐は名古屋城も救っている。今の姫路城と名古屋城があるのは中村大佐のおかげと言っても言い過ぎではないかもしれない。 なんか、すでに話が長くなってきた。まだ有料の門も入ってないのに。先を急ごう。
 入り口で600円を払って城内へ入るとすぐに見えてくるのが、二の丸の入り口の大手口にある菱の門だ。いよいよここからが姫路城の本物が始まる。 櫓門(やぐらもん)と呼ばれる形式のこの門は、攻めてきた敵に対する備えとして作られている。伏見城から移築したといわれる上層部には多数の兵がたまるスペースが作られていて、ここから弓を射ったり、石を投げたり、熱湯をかけたりなどして敵兵を攻撃できるようになっている。 しかしながら同時に安土桃山時代の様式を残した美しい門でもある。この攻撃性と優美さの同居こそが姫路城の本質だ。 21ある門の中でこの門が一番大きな門ということになる。 両柱の冠木には木彫りの菱の紋があって、そこから菱の門と名づけられた。
 天守に向かう近道としては、菱の門をくぐって三国濠の前を通って右に行くのが順路のようだけど、ここはあえて左の西の丸から行きたい。ここの櫓(やぐら)を通って天守に向かうのがオススメだ。 ワの櫓、レの渡櫓、ヲの櫓、タの渡櫓、ルの櫓、ヨの渡櫓(西の丸百間廊下)、ヌの櫓、カの渡櫓と続く背隠曲輪があり、そこから千姫のいた化粧櫓へと至る。 西の丸では、「大奥」の撮影が行われた。もちろん、姫路城に大奥のたぐいはなかった。姫路城は外観が江戸城に少し似ているということで、テレビや映画で江戸城としてよく登場している。
 櫓の内部はこんな感じになっている。古いということを差し引いても薄暗い。ここはただの廊下ではなく、右側にスペースがあって、奥女中たちの住み込み部屋になっていたようだ。当時は女性たちの話し声や笑い声で賑やかだったのだろうか。今は壁も床も柱も扉も古びていて、けっこう恐ろしげだ。夜はとてもじゃないけど歩けない。
 一部だけ妙に新しかった。最近修繕されたらしい。 中を歩いているとくねくねと曲がっていて方向感覚を失う。これはどのあたりだったのだろう。百聞廊下あたりだったのだろうか。 外では足場が組まれていて今現在も補修工事中だった。年中どこかしら直しているのかもしれない。維持費はとんでもなく高そうだ。
 化粧櫓を外から見たところだ。ここも外壁は最近塗り直されたようで、白く輝いていた。 千姫が実際にここで暮らしていたと聞いてもなんだかちょっと信じられない。訪れたときの化粧櫓はなんとも暗かった。当時はもっと明るい住まいだったと信じたい。 二代将軍徳川秀忠と、浅井長政と信長の妹お市の娘である崇源院の間に生まれ、7歳のときに政略結婚で豊臣秀吉の子秀頼のもとに嫁ぐことになる(1603年)。 しかし、1615年の大坂夏の陣で、祖父である家康と父秀忠によって豊臣家は滅亡に追いやられてしまう。焼け落ちる大阪城から救出された千姫は、江戸に帰る途中、伊勢桑名の城主本多忠政の嫡男忠刻(ただとき)を見て一目惚れ。どうしてもあの人と結婚するんだと言って聞かず、父の秀忠も自分が豊臣家を滅ぼしてしまったという負い目から結婚を認めざるを得なかった。 本多家が姫路に移封になったとき、千姫が将軍家から10万石の化粧料をもらって作ったのがこの化粧櫓だった。10万石というと現在の貨幣に換算するとざっと7億5,000万円くらいになる。お小遣いというにはすごい金額だ。将軍の娘となればそれくらいは当然なのか。
 化粧櫓の一室には、千姫の人形がいる。前触れもなく突然現れるからちょっと驚く。ここだけ急にこんなものがあるなんて。隣に座った猫もポイントだ。 千姫は相当な美人でもあり、温厚な性格でもあったという。波瀾万丈の前半生にしてはやさぐれたところがない。それも育ちの良さだろうか。秀頼との夫婦仲もよかったというし、忠刻とも幸せな生活を送ったとされている。ただ、長男が三歳で病死したあとは子供に恵まれず(娘の勝姫はのちに池田光政と結婚)夫の忠刻、母の崇源院などを次々に亡くし、それは秀頼のたたりだなどとも言われた。ときに千姫まだ30歳。 いたたまれなくなった千姫は娘と共に江戸城に戻り、出家してその後再婚することはなかった。1643年には、縁切り寺で有名な鎌倉東慶寺の伽藍を再建したりもしている。 その後は三代将軍家光の側室お夏の方や、家光の次男綱重たちの世話をして暮らし、70歳まで生きた。姫路や本多家に戻ることなく、徳川家の姫として葬られた。
さらっと書くはずの姫路城訪問記は、一回目から長くなった。こんなはずではなかったのに。筆が滑ったな。 二回目からはもっと短くトントン拍子で進めたいと思っている。ハイドロプレーニング現象的姫路城紹介で姫路城の中を滑るように駆け抜けたい。たぶん無理だと思うけど。 次回は天守閣の内部に入れるといいな。もし入れないようなことになると、訪問記は5回シリーズくらいの長期連載となってしまう。なんとか3回くらいにまとめたい。難しいなぁ。頑張ろう。 第二回につづく。
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