 Nikon D50+SIGMA 17-70mm F2.8-4
姫路城訪問記第二回目は、いよいよというかようやく天守閣に入っていくことになる。あんまりのんびりしていたのではいつになったら終わるか分からない。ちょっとだけ足取りを早めよう。 前を行くのは、ちびっことカメラを持ったお父さんだ。大股で歩く父親と、そのあとを駆け足で追う少年と、城にはそんな男たちの小さなロマンもあったりする。ちびはこの日のことを大人になっても覚えているだろうか。
 次に現れたのは若いカップルだ。なるほど、お城デートというのもありだろう。姫路の少年少女と姫路城の親密度はどの程度なのだろう。名古屋の中高生は名古屋城でデートしたりはしない。名古屋人にとっての名古屋城は、県外の人たちが思っているよりも近くて遠い存在なのだ。日常の中でたびたび行くようなところではない。行くとしてもそれはかなり非日常的なものだ。姫路城は姫路市民と近しい関係にあるのだろうか。 「はの門」から「にの門」にかけては、時代劇でよく登場する場所だ。このあたりは視界の中に近代的な建築物などが入ってこないから使いやすいのだろう。このへんの風景は江戸時代とほとんど変わってないんじゃないだろうか。 姫路城は、駅前にありながら周りに高い建物がないというよさもある。
 天守閣の内部に入った。おお、これが姫路城の天守かと、しばし感慨にふける。素晴らしい古めかしさだ。人は新しいものに惹かれるだけでなく、ときに古さに感銘を受ける。城や神社仏閣などは古ければ古いほどありがたいと感じるものだ。 木の傷み具合や床のきしむ音がたまらない。人波がふっと途絶えたとき耳を澄ますと、ドンドンドンという足音と共に甲冑がガシャンガシャンとこすれる音が聞こえてくるような気さえする。 それにしても天守の内部は暗い。この日は曇りがちだったということがあるにしても、暮らしを考えると昼間でも灯りが必要なほどだ。昔はどうしていたんだろう。これくらいでも充分だったんだろうか。戦もない毎日の生活の中で、ここに住んでいた人たちは日々何をしていたのか。娯楽も少ないし、仕事もあるようなないようなだ。特に江戸時代の最初の頃は、急に戦がなくなって武士たちは途方に暮れたことだろう。それとも、平和になって案外みんな楽しく暮らしていたのかな。
 姫路城は戦を強く意識して造られた城だから、武器などの備えも万全だったに違いない。特に守りを重視した城だから、仕掛けも抜かりがない。構造で守り、守りながら攻撃するという想定があちらこちらで見られる。けれど、とうとうこの城では一度も戦が行われなかった。敵が攻めてくることもなく、この城から戦に出たこともなかった。備えあれば憂いなしということだ。 敵が攻め込んできたことを第一に考えられているから、暮らすにはすごく不便な作りになっている。階段の配置が複雑で、傾斜は直角に近いくらい急角度で登るのも降りるのも一苦労だ。あまりにも不便だから、しまいには誰も天守まで登らなくなったという話も納得がいく。戦でもなければ天守に用はない。それぞれが下の屋敷で暮らしていたのだろう。仕事場も天守ではなかっただろうし。 あまりにも人が出入りしなくなり、そのうち妖怪が出るというウワサが立ち始めた。その妖怪を退治したのが、名前を隠して足軽奉公をしていた宮本武蔵だったという逸話は有名だ。諸国放浪をしていた武蔵は、何年間か姫路城にこもって修行をしている。妖怪退治の話はともかくとして、宮本武蔵がこの城にいたことは間違いなさそうだ。武蔵がいたという部屋は、開かずの間として限られた期間だけ一般公開される。
 千姫のものとされる豪華版羽子板が飾られていた。実際に羽子板で遊んだりしたんだろうか。勝った負けたで互いの顔に墨で○や×やヒゲを書いたりしてたら笑えるんだけど、そんな昭和のバラエティー番組のようなことはしなかったのだろうな。 姫路城の裏の千姫が毎日通ったという男山千姫天満宮は、千姫が奉納した羽子板にちなんで絵馬が羽子板の形をしている。姫路城に展示されているものは、この天満宮に千姫が奉納したものとされるものだ。
 天守閣の構造が木組みで再現されているものがあった。ものすごい木の量だ。これはお金がかかるはずだ。鉄筋コンクリートで再建したくなる気持ちが分かる。これだけの木を集めてこようと思ったら、どれくらいの金額と労苦が必要になるのだろう。昭和31年から始まった昭和の大修理は、中心となる柱選びから始まって、大変な苦労だったようだ。のべ25万人が従事して、8年かかっている。 木造の建物は確かに長持ちするのだけど、これだけの規模の建築物となると、この先永久に保っていくのはだんだん難しくなっていく。地階から最上階までを貫く極太の柱もすごいものだった。
 姫路城の全体的な様子は、姫路駅にあったこの模型が一番分かりやすい。天守閣だけでなく、周囲の建築物がほぼそのままの形で残っているところに姫路城の貴重さがある。 姫山に初めて城と呼べるものを築いたのは、南北朝時代(1346年)の赤松則村とその子である赤松貞範だとされている。その後、この地方の豪族だった小野田氏が治め、その重臣だった黒田孝高(のちの黒田官兵衛)が城主となっているところに、中国遠征で豊臣秀吉がやって来た。そこで官兵衛はあっさり城を秀吉に譲り渡して信長の配下に入ってしまう。先を見抜く力があったのだろう。官兵衛自身ものちに秀吉の側近となり大いに活躍することとなる。 信長の命を受けた秀吉は、1580年から一年がかりで姫路城を三層の本格的な天守閣に改築する。ここが西国を攻めるための拠点となった。それから3年間は秀吉が城主をつとめた。 毛利攻略に手間取っていた1582年、本能寺の変が起きる。知らせを聞いた秀吉は、大急ぎで引き返して、いったん姫路城で休息を取っている。 1584年、小牧長久手の合戦で秀吉は徳川家康に敗れ、木下兄弟と池田恒興を失う。いったんは城主に弟の秀長を置いたものの、秀長は多忙すぎて、木下家定がそれから16年間つとめることになる。 時は流れて関ヶ原の合戦の翌1601年、戦での活躍を認められた池田輝政が家康の娘婿となって姫路城に入ることになる。神君家康の婿殿となった輝政へのプレッシャーは大きかった。西国の大名ににらみを効かせるためということで姫路城を一大要塞へと大改築させることを余儀なくされる。本来ケチんぼであったとされる輝政も、このときばかりは舞い上がって力の限りを尽くした。莫大な費用と人員を動員して、8年がかりで江戸城にも匹敵する大城郭を作り上げたのだった。のちに千姫が作った西の丸の化粧櫓とあわせて、現在の姫路城の姿はこのとき完成をみた。 しかし、時代はもう大きな城を必要としなくなっていた。戦もなくなり、姫路城は無用の長物となっていく。城主もめまぐるしく交代した。池田氏の時代も3代16年で終わり、本多氏、松平氏、榊原氏、酒井氏などが入れ替わり、だんだん荒れ果てていき、明治維新を迎えることとなる。
 五層六階の最上階は意外と狭い。その中央にお社がある。姫路城の守り神とも妖怪ともいわれる刑部大神(刑部姫)が祀られている。 さすがに世界遺産、異人さんが多い。欧米よりも中国人がやたら多くて韓国人は見かけなかった。中国側へ宣伝されているのだろうか。
 大天守閣からの眺めがまたいい。姫山の上に建つ姫路城は海抜92メートル。石垣だけで約15メートル、建物が30メートルちょっと、なかなかの見晴らしだ。 これだけ目立つ大きな建物なのに、第二次大戦の空襲でも焼けなかったのは奇跡か偶然か守り神の力か。姫路の街が壊滅的に焼けたのに姫路城だけは無事だった。アメリカ空軍もこの城の美しさを見てこれは爆弾を落としてはいけないと思ったのだろうか。 現在では年間80万人以上が姫路城を訪れる。城マニアでなくてもこの城の美しさは分かる。外国人だってそうだろう。よくぞ残ったと喜びたい。 あれから400年以上が経った。ずっと昔のようでもあり、けっこう最近のことのようにも思う。ぼんやりとした伝説のお話ではなく、ちょっと前にあった歴史がここにある。お城を外から眺めて、天守の中に入って歩いてみれば、歴史の息づかいが確かに感じられる。自分とは無関係の時代にあった他人事なんかじゃない。ここには人生があり、暮らしがあり、喜怒哀楽があった。恋愛も別れも死も。泣いて笑って戦った、私たちと同じ人間たちがここで生きていた。その延長線上に今私たちは生きている。そのことを忘れてはいけない。私たちは彼らの夢の具現者なのだから。 姫路城訪問記はあと一回、番外編へとつづく。
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