現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
静かなる壮麗建築物の前でしばし立ち尽くし、円教寺の歴史を思う<後編>
2007年10月21日 (日) | 編集 |
円教寺2-1

Nikon D50+SIGMA 17-70mm F2.8-4



 摩尼殿から10分ほど歩いて、最後の急な坂を登り切ると、目の前に広がる光景に不意打ちを食らう。おおぉー、これは……。小さくため息のような感嘆の声が漏れる。
 静かなる荘厳。そこは本当に静かな空間だった。こんなに広い場所なのに、自分自身も声をひそめてしまうような雰囲気に包まれている。これは、やるね。まいりましたと言うしかなかった。

円教寺2-2

 3つの大きな堂はコの字型に建っている。真ん中が食堂(じきどう)、右が円教寺の本堂である大講堂、左が常行堂と呼ばれる建物だ。
 どこから見ていこうか迷うところだけど、実際のところ左右は中に入れないので、正面へ行くしかない。立ち入り禁止の札があったけど、ネットの写真を見ると人があがっているのもあるから、時期によってなのか時間なのか、ちょっと分からなかった。
 食堂は有料(200円)で、中に上がって展示物などを見ることができるようになっている。マイクロバスに乗ってくると、1,000円の中にその代金は含まれている。
 食堂(じきどう)といっても文字通り食堂ではない。かつて僧侶たちが寝食をした場所ということでその名が付けられただけど、ここも学問や生活のための修行場という意味合いが強い。パンフレットを見て、奥に食堂があるみたいだからお昼はそこでおそばでも食べようかなんて言ってると、行ってみてがっかりということになるので気をつけなくてはいけない。
 1174年、後白河法皇の勅願で創建された。現在の建物は室町時代に再建されたもので、未完部分は500年間そのままにされたあと、昭和34年の修理の時にようやく完成を見たのだった。

円教寺2-3

 常行堂の創建は不明で、何度か焼けて現在のものは室町時代中期(1463年)に再建されたものだ。昭和38年の解体修理のさい明らかとなった。最初のものは性空上人が生きているときに建てられたとされている。
 ここは僧侶が修行をするための道場として使われていたそうだ。常行というのは仏教用語で常に怠りなく修行するということを表す言葉だ。
 向かい側の大講堂の釈迦三尊像に舞楽を奉納するための舞台ともなっている。
『ラストサムライ』では、この中に渡辺謙がいて、そこへトム・クルーズが訪ねてくるといったシーンがあったような気がするのだけど、間違ってるかもしれない。あれを観たときは舞台がどこかだなんて意識してなかった。今度テレビでやったら録画してじっくり見てみよう。

円教寺2-4

 立派な二階建ての大講堂は、本堂でもあり、学問所でもあった。修行僧たちは、日々学問に励み、修行にいそしんでいたのだろう。ここは禅寺ではないけど禅寺っぽい雰囲気がするのは、そういう修行僧たちの気が濃密だからに違いない。観光地でありながら浮ついたところがない。姫路城にあれほどいた外国人たちもここまでは来ないようだ。『ラストサムライ』は外国では受けが悪かったのか。
 986年に花山法皇の勅願によって建てられたのが始まりだった。そこ後ここも焼け、1440年から50年ほどかけて再建されて、全体が整備された。途中で未完のまま放置していた期間があり、現在も未完部分が残っているという。
 本尊は釈迦三尊象。桧の一木造りで、性空上人の弟子感阿(かんな)の作と伝えられている。
 
円教寺2-5

 二階部分が展示コーナーとなっていて、この寺ゆかりの品々が保存展示されている。じっくり見て回っている時間がなかったので、ざっと流し見る。
 室内の古い空気感と静けさがまたいい。

円教寺2-6

 仏像もいつくかあって、どれがどんなものなのかよく分からなかったというか確認しなかった。もしかしたら、これが食堂の本尊である金剛薩捶座像(こんごうさったざぞう)だろうか。ちょっと違うかもしれない。こんなふうに仕舞われているところをみると、これは展示物のような気もする。

円教寺2-7

 傷みが激しい状態で発掘された木仏らしい。みんなやせ細ってしまって気の毒なようだった。気休めに10円寄付してみた。ここで100円を置いても事態は変わらない。こういうのは気持ちの問題だ。10円分の気持ちしかないのかおまえはと仏さんたちからのツッコミが入りそう。そんな仏には10円で怒るやつは10円に泣くぞと言い返そう。

円教寺2-8

 大きくて重そうな天然木の机があって、なんだろうこれと思ってみてみると、武蔵坊弁慶愛用の机と説明書きにある。弁慶の机がなんでここに? なんでも、義経と会う前に弁慶は円教寺でしばらく修行をしていたという言い伝えが残っているそうなのだ。ただし、弁慶の存在そのものが実在の人物かどうか怪しいから、その話をそのまま真に受けない方がいいかもしれない。
 伝説によると、比叡山での修行を怠けて武道ばかりしていたので叱られて嫌になって比叡山を下りたあとしばらくさまよっているうちにこの山寺にたどり着いたというのだ。飛び込みで強引に修行の仲間入りをした弁慶はしばらく真面目にやっていたのだけど、ある日寝ていたところ仲間の僧が弁慶の顔に墨で「足駄」と書いて(高下駄のこと)みんなで笑い転げていたのを知って激怒(そのとき自分の顔を確認したとされる弁慶の鏡井戸というのもある)。暴れん坊の弁慶が大暴れして、ケンカの途中で火事になってたちまち建物が燃え落ちたという。
 話としては面白い。今で言えば寝てるところを顔にナイキのマークと「エアジョーダン」などと書かれてしまうようなものだ。そりゃあ弁慶じゃなくても怒る。私たちの頃は、額に肉と書くのが流行っていた。

円教寺2-10

 平安の女流歌人、和泉式部も円教寺との縁が深い人の一人だ。
 仕えていた一条天皇の皇后である上東門院彰子のお供で円教寺を訪れたのがきっかけで、性空上人の弟子となっている。恋に生き、男から男へ渡り歩きながら愛の歌を歌った和泉式部は仏の道に何を求めたのか。
 暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月
 暗い道をさまよい歩いている私に月の明かりで道を照らして欲しいという意味の歌だ。それに対して性空上人はこう返している。
 日は入りて月まだ出でぬたそがれに かかげて照らす法のともしび
 自分はまだ人に教えられるほどの人間ではないけど仏の道なら示すことができると。 
 多くの人がこの山に惹かれ、性空上人を求めて書写山に登った。ロープウェイもなく、道も整備されてない山道をみんなどんな気持ちで歩いたのだろう。生きることの悩みや迷いは昔も今も変わらない。

円教寺2-11

 食堂の右脇から更に進むと、奥の院である開山堂の前に出る。性空上人が祀られているお堂だ。
 性空上人亡き後、千年以上に渡って燈明が燃え続け、朝夕には勤行が行われているそうだ。
 現在の建物は、江戸時代初期1671年に再建された。屋根の下にはこの建物を支えるという意味で左甚五郎作とされる力士の彫刻が四隅のうちの三ヶ所にある。一体は重さに耐えられずに逃げたという伝説がある。
 開山堂の左右には護法堂拝殿と本殿(護法堂)が向かい合って建っている。このスタイルは珍しいそうだ。護法堂拝殿は別名「弁慶の学問所」と呼ばれている。ここで弁慶は修行したのだとか。護法堂の隣には和泉式部の歌碑も建っている。
 ここから少し戻って右手の方にいくと金剛堂や鐘楼などがあるのだけど、もう省略させてもらった。帰りの時間が迫ってきていた。摩尼殿と三つのお堂でおなかいっぱい胸いっぱいだ。

 この山寺はいろいろと面白い歴史があって、ある程度予備知識を持って行った方が楽しめると思う。雰囲気だけでも充分堪能できるけど、関わった人物や歴史のことを思い浮かべながら見て回れば、また違った感慨も湧いてくるだろう。
 性空上人と花山法皇、後白河天皇、後醍醐天皇、一遍、和泉式部と彰子と武蔵坊弁慶が一堂に会したところを想像したら、なんだかちょっとクラクラしそうだ。もちろんそんなことはあり得ないのだけど、それだけの人たちがここに関わったと思うと嬉しいような気持ちにもなる。
 円教寺は前編と後編で終わるつもりが、写真が余ったのであと一回番外編が増えることになった。感想の総まとめはそのときにしよう。
 つづく。




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