現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
サンデー料理も気づけばかれこれもう2年だから多少は上手くなって当然
2007年10月22日 (月) | 編集 |
思いつきサンデー

Nikon D100+AF Nikkor 35mm f2D



 今日は出かける予定をしていたのでサンデー料理の準備をしてなかった。それが延期になって、急にサンデーが降って湧いてきた。出かけないなら料理しなくちゃダメじゃんってことで、急きょメニューを考えて作ったのがこの3品だった。いつもの応用で、あまり目新しさはない。短時間の思いつきとあり合わせの食材を使って作った。

 左手前は例によって豆腐料理。以前はそうでもなかったけど、料理を作るようになって自分は豆腐が好きらしいということを発見した。豆腐はいろんな応用が利くし、合う調味料の幅が広い。和食だけでなく洋食にも使える。自分好みの味付けにすれば当然美味しい。やわらかモノも好物だから食材としては申し分ない。
 今回はいつもとちょっと味付けを変えてみた。マヨネーズベースにしょう油、からし、酒、みりん、塩、コショウを混ぜたものをタレとして、あとはタマネギ、鶏肉、トマトに絡めて焼いていく。豆腐は食感重視で絹ごしを使った。
 写真に撮るときは忘れていたけど、パセリだけでなく、青のりとかつお節も振りかける。これもポイントとして忘れてはいけない。
 豆腐とからししょう油マヨネーズは合う。間違いない。今まで作った豆腐料理の中でベスト3に入る。卵をからめてもよさそうだ。これはオススメできる。

 右は白身魚とジャガイモのミルフィーユ。
 重ねモノは見た目はいいけど、面倒だし、食べづらい。でもときどき妙に作りたくなることがある。それが今日だった。
 ジャガイモをスライスして、ラップしてレンジで加熱する。
 白身魚は塩コショウしたあとオリーブオイルで両面を軽く焼く。
 キャベツを炒める。
 ここまで作ったものを重ねて、その上にとろけるチーズを乗せる。
 あとは溶き卵をまぶしかけて、フライパンで蒸し焼きにしていく。
 スープは別に作る。タマネギを刻んで炒めて、そこへ白ワインを加え、更に水を入れる。コンソメの素で味付けをして、エビの刻みも入れる。最後にミルフィーユの上にエビスープをかければ完成だ。
 これは完全に見た目重視の趣味の料理だ。家庭料理としては手が込んでいるわりに美味しさと食べやすさが置いてけぼりになっている。重ねなくてもジャガイモと白身を一緒に焼いて、そこからスープをかけた方が簡単だ。

 奥のものは今回の中で一番変わった料理だ。なんと名づけていいのか分からない。いなり寿司のご飯が入ってない変形のものといったらいいのか。
 里芋の皮をむいて塩水にさらす。それを適当な大きさに切ってレンジで加熱して、つぶす。
 そこへダイコン、ニンジン、長ネギの刻み、卵、カタクリ粉を混ぜ合わせる。味付けもこのときにしてしまう。酒、しょう油、めんつゆ、塩、コショウ、みりん、七味を加える。
 あとは油揚げの端を切って、具を詰めて、蒸し焼きにしていく。口はつまようじで留めた方がいい。
 油揚げ包みは、中身がなんでもいける。肉でもいいし、ギョーザにもなる。袋としてもけっこう耐性があるから、煮ても焼いても大丈夫だ。

 今回は完成のイメージがあやふやなまま作り始めたサンデーだったけど、結果的にはまずまずだった。斬新さはなくても安心感はあった。
 マンネリの中にも成長はある。同じ料理を作り続けていてもだんだん上手くなっていくものだし、失敗を重ねながら見えてくるものもある。続けることでどこかに飛躍が生まれる。怠けながらやっていては、その都度やり直しとなって進歩がない。向上心を持って回数を重ねていくことが大切だ。
 料理もなんだかんだで始めて2年になる。週に一度にしても、けっこう作った。多少は上達して当然だ。そういえばブログもいつの間にか2周年を過ぎていた。これほど毎日続くとは思わなかったけど、これからも続くだけ続けようと思っている。料理もまだまだこれからだ。


円教寺番外編 ---そこはまるでサイレント映画の世界だ
2007年10月22日 (月) | 編集 |
円教寺3-1

Nikon D50+SIGMA 17-70mm F2.8-4



 円教寺の前後編では仕えなかった写真がけっこうあるので、今日はそれらを載せるだけ載せておくことにする。貧乏性だからせっかく撮った写真を捨て置くのがもったいない。実際は一ヶ所で何十枚も撮っているのだけど、全部仕える写真というわけではない。
 円教寺はとにかく静かなお寺だった。それは単に人が少なくて話し声や物音が聞こえないとかそういうことではない。静謐が存在するという表現がぴったりの空間だった。まるで音という音が境内の周囲に吸い込まれてしまうようにさえ感じられた。
 今日並べた写真から、そんな無音な様子が伝わればいいと思っている。

円教寺3-2

 ここへ行ったのが平日の夕方というのはいいタイミングだった。もし、休日の昼間だったら、もっと人も多くて雰囲気も違っていただろう。私が受けた印象もまったく別のものとなっていたかもしれない。
 木々の間から漏れる夕方の斜めの光は、いつも見慣れた近しいものだ。

円教寺3-3

 別の種類のクモの巣が途中で合体して同居状態になっていた。暗黙の了解でお互いに納得しているのだろうか。
 ちょっと面白かったのは、それぞれが裏表別の面にいたことだ。こっち側にかかった獲物は自分のものなんていう取り決めがあったりするかもしれない。

円教寺3-4

 お寺に絵馬というのは少し違和感がある。そもそもお寺に願い事をする習慣が私にはないからだろうか。願い事は神様にするもので、その場合は神社へ行く。お寺でも手を合わせるけど、いつも挨拶をするだけだ。神社と寺は、はっきり別のものという意識が私の中にある。
 それでも、手を合わせて頭を下げることができるようになった自分の成長を喜びたい。若い頃はそんなことは屈辱的なことだと思っていた。人は成長できるものだ。成長すれば謙虚になれる。頭を下げることは決して卑屈なことなんかじゃない。

円教寺3-5

 お堂の裏手は深い山になっている。山には多くの生き物たちが生息しているそうだ。
 心静かにしていると、自分も自然の一部として同化していくのが分かる。現代の日常生活は、音と光と映像の刺激が強すぎて、人間の感覚が鈍くなっている。静かな山寺は、人間の本来持っている感覚を取り戻すことができる場所でもある。

円教寺3-6

 堂の中はひときわ静かだった。扉は開け放たれているのに、この中は日常と隔絶しているように感じられる。

円教寺3-7

 ここへ来て見かけた数少ない人たち。写真を撮るだんなさんとそれを見守る奥さん。それもまた無言劇に見えた。そう、ここはサイレントの世界だ。

円教寺3-8

 まるで絵のようなというのもありふれた比喩だけど、紅葉の季節はもっといいのだろう。
 円教寺は紅葉の寺としても知られていて、シーズンになると大勢の人が訪れるという。そのときはそのときで華やいだ雰囲気が楽しそうだ。

円教寺3-8.5

 仏像がおさめられたガラスケースに窓の外の景色が反射して、不思議な光景となった。プロジェクターで映した映像のようだ。光と角度と映る景色によってはもっと面白くなりそうだ。

円教寺3-9

 そろそろ日没が近づいて帰る時間となった。バス停でバスを待ちながらふと空を見上げると、秋らしいうろこ雲が空を覆っていた。うろこやイワシというよりも、私は流氷を連想する。北海道ではそろそろ雪が降って、オホーツクから流氷が流れてくる季節になった。本州でも山の紅葉が始まっている。秋の日暮れは早く、秋の深まりもまた早足だ。

円教寺3-10

 帰りのひかりで止まった岐阜羽島駅。めったに止まらないので記念写真を撮っておいた。静かさの写真の締めくくりは、帰りの静かなる新幹線駅となった。

 人と場所の関係は一方的なものではない。人がどんなにその場所へ行きたいと思っても、その場所から呼ばれなければ行くことはできない。特に神社仏閣や名所旧跡などの特別な場所はそうだ。簡単に言えば縁ということになるのだけど、縁のない人と場所が出会うことはない。
 だから、行けた場所に関しては、着いたらまず感謝の言葉を言いたい。呼んでくれてありがとうと。タイミングも多くの場合、そのときでなければならなかった必然性がある。今回の私の姫路行きもそれを感じた。去年でもなく、来年でもなく、今年のこの時期だったのだろう。どういう理由だったのかは、だいぶあとになって分かることだ。
 姫路は魅力的なところだった。いい印象だけを私の中に残した。また行けるか、もう二度と行けないか。もう一度行ける日を期待しながら、今回の姫路編はこれにて終了となる。
 おしまい。




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