 Canon EOS 20D+SIGMA 18-50mm f3.5-5.6
豊橋名物3つめは、豊橋市公会堂だ。市電が走る国道1号線沿いにあって、ハリストス教会とも近いからセットで回るのにもちょうどいい。豊橋を代表する古い建築物として、市のシンボルの一つとなっている。 完成は昭和6年(1931)。大正デモクラシー以降、市民の集会が盛んになるも集まる場所がないことに困った豊橋市民が市をつついて作らせたのがこの公会堂だ。市政施行25周年ということもあって、3年をかけて完成させた。総工事費は当時の金額で17万円だったという。公務員の初任給が75円くらいだった時代だから、現在の価値に換算すると4億円くらいだろうか。 設計は浜松市出身で辰野金吾に学んだ中村與資平が担当した。大陸に渡って朝鮮銀行本店(現在の韓国銀行)などを手がけたあと帰国し、豊橋、浜松、静岡で公会堂などを設計した建築家だ。現在残っているのは豊橋のものだけとなった。 ロマネスク様式を基本として、様々な意匠が盛り込まれていて、ヨーロッパ風でもあり、半球ドームなどは中近東を思わせたりもする。 豊橋という街は、明治以降、軍都として発展した歴史があり、正面の大階段は軍の式典なども想定されていたと言われている。 高さ16メートルの鉄筋造りで、柱の模様なども凝っている。ドームの四隅には威嚇するように大鷲が羽を広げてにらみを効かせる。 平成10年(1998年)に国の登録文化財建造物に指定され、平成12年(2000年)には修復工事が行われた。なので外観はけっこう新しい印象を受ける。
 修復工事の際に大鷲も新しいものと取り替えられ、元々乗っていたやつのうちの2羽が下で展示されている。どうして豊橋市公会堂に大鷲だったのかは分からない。設計者の中村與資平の趣味だったのだろうか。ヨーロッパではローマ皇帝以来、鷲をシンボルとして使っていたところが多いから、そのあたりの影響だったのかもしれない。 現在の公会堂は、イベント、講演会、式典などに使われている。
 公会堂の裏に回って右に曲がり、右手にハリストス教会を見ながら進むと、豊橋公園の入り口に着く。そこからずんずん奥に歩いていくと現れるのが吉田城跡だ。かつてはこれが豊橋のランドマークだった。 広大な城内の大部分は公園や各種施設として再利用されていて、当時の面影をところどろこに残している。 上の写真は昭和になってから復元された隅櫓(すみやぐら)で、かつての建物はほとんど残っていない。これは本丸の鉄櫓(くろがねやぐら)跡に入道櫓を模して作られたもので、昭和29年に豊橋で産業文化大博覧会が開かれたときにその記念として建設された。ちょっとした天守閣くらい立派なもので、思いがけず感心した。
 この日はたまたま無料開放日に当たっていて運が良かった。普段はずっと閉まっていて、不定期に内部公開しているらしい。せっかくなのであがらせてもらうことにする。 池に見えるけどこれは豊川だ。背後は川によって守られていて安心だ。 見えている中之島は人工のものなのか自然にできたものなのか。なかなか眺めはよかった。北西に位置しているから夕焼けの時間がよさそうだ。 櫓を撮るには、この川を渡った反対側がベストポジションだ。
 内部はすごいことになっている。鉄筋コンクリートは当然にしても、城としての造りは完全に無視されて、展望タワーみたいだ。 普段公開してないからか、妙に新しくてピカピカなのもなんだか笑えた。できてからそこそこ年数は経っているから、最近修繕したりしたのだろうか。
 最初に吉田城が建てられたのが1505年。築城は今川方の配下だった豪族の牧野古白とされている。当時はまだ今橋城と呼ばれていた。 豪族同士の小競り合いが続き、それを押さえるために今川義元が城代を置いたのが1546年。 しかし、1560年に桶狭間で義元が織田信長に討たれてしまうと、それを機に独立した松平元康(のちの徳川家康)がこの城を奪い、重臣のひとりだった酒井忠次をこの城の城主とした。三河の国の東に位置するこの城は、軍事的にも重要な拠点だった。一時は武田軍に迫られるも酒井忠次は返り討ちに遭わせている。 1590年、豊臣秀吉によって家康が関東に移封されると、池田輝政が代わりに入ることになった。輝政は15万2千石という禄高に見合う立派な城にしようと、城下町を含めて大がかりな拡張工事を始める。本丸を中心に二の丸、三の丸と整備し、そのぐるりを堀で囲んだ。 しかし、1600年に関ヶ原の合戦が起こってそれどころではなくなり、翌年には姫路城へ移封になったため(52万石)、工事は途中で中断となってしまった。その後に入った城主は誰も石高が高くなかったために輝政の計画を引き継ぐことができず、吉田城は未完のまま明治を迎えることとなる。輝政は姫路城に移って、あの姫路城を完成させている。 もともと吉田城には天守閣はなく、本丸御殿を中心として四隅の櫓を置く形だった。当時の櫓はもう残っておらず、本丸御殿も宝永の大地震で倒壊してしまった。 吉田城の城下町は、江戸時代は宿場町として栄え、明治2年に豊橋と改名された。
 現在でも石垣や堀などがけっこう残っている。鉄櫓の下の石垣は池田輝政の時代のものだそうだ。その他は江戸時代のものとされている。 その他、公園内にはテニスコートや文化会館などがある。
 昭和54年に建てられたこの建物は、美術博物館だ。 郷土にゆかりのある画家の作品や、吉田城に関する文書や絵図など、5万点以上を所蔵してるというから本格的だ。
 オマケ画像は、近くにあった民家の写真。 うわっ、すごっ、と思わず小さく叫んでしまった。直線と曲線のコラボレーションが素敵だ。屋根がうねってるし、扉もあちこちに傾いている。熱で溶けてゆがんだチョコレートの家みたい。これはこれでバランスが取れていて大丈夫なのかもしれない。頑張れと応援したくなる家だ。
今回の豊橋シリーズはこれでおしまいとなる。路面電車、ハリストス教会、公会堂、吉田城と、ここまで回れば基本的なところはほぼ押さえたと言っていいと思う。ハリストス教会に入れなかったのと市電に乗れなかったのが少し心残りではなるけど、その代わり吉田城の中に入れたのは収穫だった。 次の機会があれば、二川宿や葦毛湿原まで足を伸ばしてみたい。豊橋総合動植物公園も一度行ってみたいし、掛川花鳥園ファンとしては、加茂さんが最初に作った賀茂しょうぶ園にも表敬訪問せずばなるまい。そう思うと、豊橋はまだ半分だ。もう半分残っている。 来年また行こう。行けるとしたら、伊良湖帰りについでに寄るという感じになってしまいそうだけど。
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