 PENTAX K100D+SIGMA 17-35mm f2.8-4 / TAMRON 70-300mm Di
鶴岡八幡宮を出たあと、住宅街をテクテク歩いて最初にたどり着いたのが鎌倉宮(かまくらぐう)だった。こちらは金沢街道から外れた北側のルートにある神社で、お宮通りと呼ばれている道の先にある。金沢街道は「岐れ路」を下(南)へ進んだ方の道だ。 一つ失敗したのは、鎌倉宮の手前左側にあった荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)に寄らなかったことだ。大した神社じゃないだろうと飛ばしたのだけど、帰ってきてから調べたら、九州の大宰府天満宮、京都の北野天満宮とともに日本三大天神とされているところというではないか。しまったにもほどがある。そんな大事なところをスルーしてしまったとは痛恨のミスだった。また行く機会があるといいんだけど。 なにはともあれ、金沢街道方面巡りはここ鎌倉宮がスタート地点となった。 入り口では紅白の鳥居が出迎えてくれる。ちょっと珍しいカラーリングだ。源氏の赤と平家の白というそれぞれのシンボルカラーを組み合わせることで仲良くいこうというメッセージだろうか。単におめでたい色だからか。 入り口付近から人も多く、車の出入りなどもあって雑然とした雰囲気にちょっとたじろぐ。一般的な観光コースからははずれたところだから、もっと深閑としたところをイメージしていた。朝市の旗も立っている。 ここを訪れたのは、この神社の由来や歴史に興味を持ったからというのではなく、紅葉が目当てだった。予習はまったくしてなかったので、行ったときはここがどういう神社なのかはまったく知らない状態だった。だから荏柄天神社も逃してしまうのだ。
 入り口は狭かったものの、境内はわりと広く、奥行きもある。左側では朝市なのか骨董市なのか、価値があるのかないのかまったく分からないようなブツがたくさん並んでいた。お宝が埋もれていたとしても、私には判断できない。 右手は駐車スペースになっている。狭い鎌倉だからしょうがないのだけど、神社仏閣の境内に車がたくさん入っていると景観を損ねる。人が入った写真は好きだけど、神社に車の入った写真は好きじゃない。
 二の鳥居も白と赤だ。昔からこの色だったのか、最近塗り直したのか、どちらだろう。 建物の規模としては決して大きくない。どちらかといえばこぢんまりしてるといった方がいい。
 拝殿の前には大きな獅子の顔がでんと置かれている。なんだこりゃと思う。こんなのは初めて見た。 帰ってきてから調べたところ、ここの祭神である護良親王(もりながしんのう)が戦のとき兜の中に獅子頭の小さなお守りを入れていたところから来ているんだとか。獅子頭守というらしい。由来も分からず頭をなでておいたけど、それは失礼だったのかもしれない。たむけんはぜひここにお参りに来るべきだ。
1308年、後醍醐天皇の皇子として生まれた護良親王は、6歳のときに京都の三千院に預けられ、11歳で延暦寺に入って、大塔宮(おおとうのみや)と称されるようになる。現在鎌倉宮が別名大塔宮と呼ばれているのはここから来ている。一般的には「おおとうのみや」、地元の人は「だいとうのみや」というそうだ。バス停も大塔宮となっている。 20歳で早くも天台座主(てんだいざす)となるも、23歳のとき父親の後醍醐天皇が北条氏の鎌倉幕府倒幕に立ち上がり、還俗して参戦することになる。子供の頃からずっと僧侶として育った天皇の息子が、20歳をすぎてからいきなり戦に参加して戦うというのだから驚く。我々が現在抱いている皇室のイメージとはずいぶんかけ離れている。 その後2年間にわたり、赤松則祐や村上義光たちと十津川、吉野、高野山などを転々として戦った。足利尊氏は京都の六波羅探題を滅ぼし、一方では新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府はついに滅亡することとなる。 倒幕計画が発覚してすぐに捕まって隠岐(おき)に配流されていた後醍醐天皇は京都に戻り、護良親王は兵部卿・征夷大将軍に、足利尊氏は鎮守府将軍に任命される。 しかし、この人事に納得がいなかったのは足利尊氏で、自分こそが征夷大将軍だと言い張ってややこしいことになる。こののち二人は対立し、先制攻撃を仕掛けた護良親王が逆に尊氏の策略によって捕まってしまい、鎌倉の東光寺(とうこうじ)に幽閉の身となってしまう。その際、寺の裏の土牢(つちろう)に9ヶ月間入れられていたという伝説があり、今でもその跡地が残っている。神社は拝観料はいらないけど、そこに入るには300円が必要になる。私はいったときは知らなかったけど、知っていてもたぶん入ることはなかっただろう。 護良親王幽閉後も争いは続き、1335年7月、残党を集めて鎌倉に攻め入った北条時行の軍に、尊氏の弟である足利直義が破れることとなる。このとき、時行に親王を奪還されることを恐れた直義は、家臣の淵辺義博に護良親王暗殺を命じる。暗くて狭い中に9ヶ月も閉じこめられていた護良はまともに戦うこともできず、28歳で波乱の人生を終えることとなる。 時は流れて明治2年。護良親王の霊を慰めるため、明治天皇が自ら東光寺跡に神社を造ることを思い立ち、名前を鎌倉宮と名づけた。鎌倉の中ではずいぶん新しい神社だったのだ。明治6年には明治天皇もこの地を訪れている。
 社務所前にある「もみじの天井」は、なかなかのものだった。ここは色づきが遅いところで、このときもまだ完全には染まりきってない部分もあった。 これだけを見に行くほどのものではないけど、この時期に金沢街道へ行くなら寄っていって損はない。
 出口付近にあるもみじの木で、鳥の鳴き声がして、人が上を見上げて何かを撮っていた。紅葉でも撮っているのかなと思ったら、ビクセンのケースを持っていた。あ、鳥の人だ。 あわてて上を見上げると何かがチョロチョロ動いている。あ、メジロ。紅葉にメジロとはチャンス到来。この組み合わせは撮ったことがない。慌てて望遠レンズに交換したものの、なかなかいいポジションに止まってくれない。枝や葉が重なり合ってオートフォーカスも迷いっぱなしだ。 なんとか粘ったものの、これで精一杯だった。葉っぱの影に下半身しか写ってない。でも紅葉写真としてはきれいだから、これはこれでよしとしよう。
 葉っぱの少ないところに移動したところでどうにか撮れたのがこの一枚だ。これでもいい鳥写真とはいえない。少なくとも目はしっかり捉えないと。メジロといえどもちょこまかするから、なかなか手強い。 TAMRONの70-300mm Diはけっこう優秀だ。期待以上に写りがよくて驚いた。デジタルコーティングが効いているのか。これくらい写れば必要充分だろう。ミニバズーカのTakumar 300mmを持ち出せないような旅行のときはこいつを持っていこう。コンパクトで軽いから助かる。
 鎌倉宮を出てすぐのところが一番よく染まっていた。 このあと我々は、瑞泉寺へ向かうことになる。お宮通りの突き当たりにそれはある。
 向かう途中、テニスコートの横に永福寺跡(ようふくじあと)の石碑が建っていた。永福寺といえば、かつて大きな寺だったというのをどこかでちらっと見た記憶がある。念のため撮っておいた方がいいかなと思って撮っておいて正解だった。ここは頼朝の鎌倉幕府にとって重要な場所の一つだったのだ。それも帰ってきてから知ったことだった。 源頼朝が建てた寺院といえば、なんといっても鶴岡八幡宮が有名だ。けど、それ以外に頼朝ゆかりの寺社は思いつかない。頼朝はあれしか建てなかったかといえばそうではなく、今はもうなくなってしまった二つの大きな寺院を建立している。一つが勝長寿院で、もう一つがここにあった永福寺だった。 奥州平泉を制圧したとき目にした中尊寺の豪華絢爛さに衝撃を受けた頼朝は、鎌倉の地にあれを超える寺院を建てたいと考える。奥州攻めで命を落とした源義経や藤原泰衡ら武将の鎮魂をするという名目で、中尊寺大長寿院二階大堂や毛越寺などを模した壮大な寺院を建築したのだった。 二階堂、阿弥陀堂、薬師堂の三堂を中心とした壮大な伽藍が建ち並び、その前には南北200メートルの池と、京都から庭師を呼んで造らせた広大な庭園を持っていたという。研究者によって再現されたCGを見たけど、これはもう素晴らしく立派なものだ。もし今も残っていたら、鎌倉観光の中心となっていたに違いない。 鎌倉期に何度か燃えてその都度再建され、室町期には足利氏に保護されたものの、1405年に火事で焼け落ちたあとはついに再建されることがなかった。江戸時代のはじめには廃寺となってしまったそうだ。 昭和に入って発掘調査が行われたそうだけど、現在は草ぼうぼうの空き地となり果てている。枯れすすき、兵どもが夢のあとといった風情だ。かつての面影は一切残っていない。完全復元は資金的に不可能だろう。
 落ち葉に埋め尽くされた水路。このあたりは日が当たらず空気がひんやりしている。ここから先は少し山の方に入っていく。といっても、まだ観光コースから外れているわけではないから、人通りはそれなりにあって絶えることはない。思っていた以上にこちらも人気のコースのようだ。鎌倉観光中級者向けといったところだろうか。 この先は瑞泉寺だ。そのときの話はまたあらためてということで。 つづく。
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