 PENTAX K100D+SIGMA 17-35mm f2.8-4
覚王山に松坂屋の創始者が別邸として使っていた古い屋敷が一般公開されていると知ったのは、去年の12月のことだった。名古屋市に寄贈されて、無料で公開されていると新聞に載っていた(名古屋で新聞といえば中日新聞と決まっている)。ただし、いつでも見られるのは庭と建物の外観だけで、内部を見るには往復ハガキで応募して当選しなければいけないらしい。12月のはじめに応募してみたところ(ひと月先しか応募できない)、当たったというハガキが来たので行ってきた。 内部公開は、毎週土曜日と第2・第4水曜日に限られている。一日4回の時間制で、定員は64名。多いのか少ないのかよく分からない。でも今日あたりでも定員いっぱいだったから、やはり応募数はそれなりにあるのだろう。 駐車場はないので、すぐ近くの日泰寺の境内にとめさせてもらう。帰りに参拝していけば1時間や2時間くらいは仏心で許してくれるだろう。ちゃんと賽銭も入れてきた。 日泰寺からは歩いてほんの2、3分だ。表通りからは見えない裏手にあるから、一般にはあまり知られてないところだと思う。 その邸宅を揚輝荘(ようきそう)という。正確には揚荘と表記するらしい。かつてこのあたりは月見の名所として知られていた場所だったそうで、そこからこの名前が付けられたのだとか。ただし、揚輝荘という建物は存在せず、この敷地にある屋敷や庭園などの総称として揚輝荘と呼ばれているだけだ。ネットで調べると、伴華楼やら聴松閣やらという名前が出てきて混乱しがちだけど、行ってみればなるほどそういうことかと納得した。
 少し離れてみると、門はこの広さ。これだけでもお屋敷ぶりがうかがえるというものだ。ただ、現在ここはマンションの入り口も兼ねているので、昔の姿とは違っているのだと思う。こんな開放的な屋敷はめったにない。 かつては1万坪の敷地を誇っていた揚輝荘も、3分の2の土地は売ってしまって、現在は3,000坪に縮小されている。縮小されてこの広さだから庶民感覚とはかけ離れているのだけど、北と南を分断して中央に建っているマンションがまたすごい。外観からして高級そうで、一階にはロビーまである。分譲の部屋がすべて1億円以上だったそうだ。なので、ここの門をくぐれば庶民でも邸宅と億ション両方の気分をちょっぴり味わうことができるのだった。
 入り口から入って左手に進むとテントがあって、係の人たちが待っている。所有としては名古屋市のものとなっていて(一時、住友不動産が所有したあと名古屋市に寄贈された)、管理はNPO法人揚輝荘の会が行っている。 今日見た印象ではまだまだ整備はこれからで、広く一般に開放して自由に見てもらうという状態ではない。暫定的な公開は2006年あたりから始まっていたようだけど、まだかなりの時間がかかりそうだ。入場も無料なので厳しいところ。名古屋市がどれくらい予算を出してくれるか。
 応募見学者だけが入れる伴華楼(別荘ということでバンガローとかけてそう呼ばれた)の中で受付をして、首から札をぶらさげて見て回ることになる。一般の訪問者とごっちゃにならないためだ。 いわゆる洋館というのとはちょっと違って、和洋折衷のような内装になっている。建物が建てられたのが大正から昭和初期にかけてで、多くが空襲で焼けてしまったので、戦後に立て直されたものが多い。ただ、一部は戦前のものも残っているようで、どこからどこまでが古いものなのかがよく分からなかった。全体に古めかしくなっていることは確かなのだけど。生活感もたっぷり出ている。
 見学はガイドさんが説明してくれるのを聞きながら集団行動となる。あまり自分勝手な行動は許されない。ときどきどこかへいってしまってるおじさんとかいつつ。 内装は派手に飾るではなく、細部へのこだわりをみせている。天井にしても床にしても壁にしても扉にしても、ひとつとして手のかかってないものはないくらいで、説明されないと気づかないくらい芸が細かい。模様を刻んだり、彫りを入れたり、編み込んだり。使われている木材も堅いものが多く、そのあたりの材料選びから手を抜いてない。妙なこだわりといえばこだわりだ。
 誰の趣味だったのか、市松模様がやたら多い。床も壁も天井も、いろいろなところで市松模様の意匠を施している。 各部屋に暖炉があるのも特徴の一つで、薪代も大変だっただろうと思わせる。華美な装飾は嫌っていたようだけど、お金がかかっている屋敷であることは間違いない。これは維持費も大変だ。お金持ちの個人所有でも支えていくのはしんどい。それで松坂屋も手放してしまったのだろう。
 伴華楼は地上三階、地下一階建てで、三階以外は見学コースに入っている。二階も主な部分は見て回ることができる。 昔の家特有の急角度の階段を登って二階に上がる。歳を取るとこういう階段の上り下りは大変になる。けっこう滑り落ちたりもしてたんじゃないか。私も子供の頃、田舎の家の階段から何度か落ちたことがあった。
 二階は和室になっている。 昔の家特有の廊下の狭さだ。廊下は人一人が通れる幅があれば充分という考えがあったのだろう。
 今はもちろん使えないけど、かつて使っていたそのままの姿で暖炉も残されている。 貼り付けてあるのは古い瓦で、どこから手に入れてきたのか、豊臣家の紋が入ってるものや、飛鳥、平安時代のものなどがある。
 内装の凝り方は、ほとんど遊び心に近い。実用とはまったく関係ないところもいちいち手が入っている。これは主の指示だったのか、設計者のこだわりだったのか。 欄間は千年杉を張り合わせて彫られている。 この揚輝荘は、尾張徳川家(現在の徳川園)にあった茶室付き座敷を昭和4年に移築したもので(明治33年築)、その際に地階と洋室が増設された。 洋間部分を設計したのは鈴木禎次だ。どこかで聞いた名前だなと思ったら、私はあちこちで縁がある建築家だった。たとえば、鶴舞公園の噴水塔と奏楽堂がそうだし、半田の中埜家別邸では紅茶を飲んだ(紅茶専門店T’s CAFEとして営業している)。夏目漱石の義理の弟にもあたる人で(奥さんと漱石の奥さんとが姉妹)、雑司ヶ谷にある夏目漱石の墓石を設計したのがこの鈴木禎次だった。 内装は徳川家時代のものだと思うから、そのあたりの経緯はよく分からない。
 内部をどこまで修繕するかは難しいところだけど、かなりガタが来ていて手入れが行き届いてないのは確かだ。それはそれでかつての面影を知るにはいいものの、もう少し体裁だけでも整える必要がありそうだ。ただ、そこまでやるとなると相当な費用がかかるから、すぐには無理だろう。 このあたりの壁紙やふすまは珍しく金ピカ趣味だ。お客を招くところだったようだから、それで見栄えを重視したようだ。
 生活感溢れる台所などもところどころで見て取れる。どこまで今現在使っているものなんだろう。放置されたままというところもあるし、まだ使っていそうなところもある。全部を見学できるわけではないし、説明があるわけでもない。ちらりとのぞくそういうところも興味深い部分ではある。
このあと見学コースは、外に移り、庭園や別の屋敷を見て回ることになる。ということで、揚輝荘はシリーズ化が決定した。3回でおさまるかどうか。ここぞとばかりにたくさん写真を撮ってきたから、明日以降、少し揚輝荘ネタが続きそうだ。 今日のところはいったんここまでとしたい。 つづく。
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