 PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 Di
揚輝荘シリーズ第3回は、南庭園にある聴松閣(ちょうしょうかく)へと舞台を移す。 前回も書いたように、こちらへは往復ハガキの抽選で当たらないと入ることも外観を見ることもできないので、なかなか貴重な体験になる。北庭園と南庭園を分断しているマンションの問題があるから、今後とも自由な一般の出入りは難しいんじゃないだろうか。南庭園全体の整備が進んでいないという事情もある。 この建物が建てられたのは1937年(昭和12年)というから、日中戦争が起こった年だ。そんな時期に新たにこんな趣味的な建物を建ててる場合かと思うのは、のちの時代から見てるからだろう。このときはまだ誰も戦争が長く続くなんて思ってなかったはずだ。他の多くの建物が空襲で燃えた中、これは一部が焼けただけで生き残った。 外観は山荘風で、軽井沢だかどこかのホテルを参考にして設計されたとのことだった。上高地の帝国ホテルだったか違ったか(説明を聞いたのに忘れてしまった)。 地上3階建てで、地下もある。内装は中国、インドなどのアジアのテイストと和洋が入り交じったちょっと変わった趣になっていた。揚輝荘の主である伊藤次郎左衛門祐民がインドやタイなどを旅して回ったときに受けた影響が建物に反映されているとのことだ。 見学できるのは、1階、2階と地下で、3階へは行けなかった。それでもなかなか見所があったので、そのあたりを写真で紹介したいと思う。
 すでに記憶があやふやになりつつあるのだけど、確か1階はそれほど見るところがなくて、見学は2階と地下に集中していたような気がする。見学コースとしては1時間の予定なのでそれほどじっくり見て回っていられないというのもある(結局1時間半近くかかることになるのだけど)。 玄関の説明が済むと、一行はすぐに2階に上がることになった(はず)。 このあたりの吹き抜けというのも、一般家庭にはないものだ。普通はこんな贅沢な空間の使い方はできない。ふと、一作目のバイオハザードを思い出した。
 たくさんある暖炉の中でも二階の暖炉は特に凝っていて、珍しい瓦が埋め込まれている。どういうつてで手に入れたのか、古い東寺のものや、飛鳥時代のものまで使われている。 ちょっとすごいなと感心しつつ、そもそもなんで暖炉に瓦を埋め込む必要があったんだろうと思わないでもない。単なる遊び心といえばそうなのだろう。珍しい瓦を手に入れたものの、他に使い道を思いつかなかったのかもしれない。
 確かここは書斎のような感じだったと思う。書棚が壁に並んでいたからそうだろうとは思うけど(本は入っていなかった)、部屋の作りは書斎風ではない。中央にテーブルと椅子が置かれている様子は、食堂のようでもある。 ここは北向きの部屋だったか。日が差してなくて暗くて寒い印象を受ける。光の大切さとありがたみをあらためて感じる。
 こちらは西向きのようで光があって明るい部屋だった。居間か何かだったのだろう。 使われなくなって久しいこの建物だけど、当時の内装がどこまで残っているのかはよく分からない。あとから演出のように手を加えた部分は少ないにしても、上の写真のような乱雑な椅子の配置などはどう解釈していいのか迷う。生活感があるようでない。
 こういう使い道のよく分からない部屋もいくつかある。もしくは、私が説明を聞いてなかっただけかもしれない。 別宅としての建物で家族が毎日生活していた建物ではないので、全部が使われていたわけではないのだろう。 それでも床は凝っている。自分の思い描く建物を建てることそのものが目的だったとも言えるだろうか。
 高そうな籐椅子だ。狭い部屋に置いたら邪魔そうでもある。 左の方で壁がむき出しになっているのは、内部の調査をするためにはがしたもののようだ。他にもあちこちでこんなふうになっていて、整備の途中だということが分かる。
 天井もなにやらすごいことになっている。元々こんなふうだったわけはなく、ここも設計を調べるためにはがしたのだろう。それ以前に痛んでいて自分で落ちてきていた可能性もある。 木造建築に興味がある人にとっては面白い教材になりそうだ。
 当時の生活が想像できるような部分で、ここはよかった。一度に何人も使える洗面所なんていうのも普通の家にはない。昔の小学校みたいだ。 タイル貼りの流し台に庶民と同じような昭和を見た。
聴松閣の内部に関しては、実はあまり書くことはない。見て回ってる分には、へぇーとか、ふーんとかいろいろ感じたり思ったりはするし、写真も撮るところは多いのだけど、言葉で説明するといっても特に何かあるわけではない。写真を並べて、まあ、こういうところですと、そういうことだ。 まだ写真が残っているから、後編につづくということにしよう。余力があれば今日中に。なければまた明日。
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