現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
名古屋人はどうして日泰寺のことをもっと全国に自慢しないのだろう
2008年02月01日 (金) | 編集 |
日泰寺-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 Di



 ♪死んだはずだよ お富さん〜 生きていたとは〜 お釈迦様でも〜 知らぬ仏の お富さん〜♪
 そんな歌を口ずさみながら、私は日泰寺を目指す。
 名古屋に日本で唯一、タイ王国から贈られたお釈迦様の骨が安置されている超宗派のお寺があることを、あなたはご存じだろうか。千種区の覚王山にある日泰寺(にったいじ)がそうだ。
 しかし、この日泰寺、全国的な知名度はかなり低い。名古屋人でさえ、どういういきさつで建てられたか知らない人が多いんじゃないだろうか。本来なら名古屋人が全国の人々に大いに自慢していいお寺なのに、名古屋名所にさえ入っていない。日本全国どころか、全世界の仏教徒がこぞって参拝に訪れてもいいところだというのに。
 そんな日泰寺について、お釈迦様とも絡めて今日は書きたいと思う。神社仏閣ファンのみなさん、おまっとさんでした。

日泰寺-2

 紀元前5世紀から4世紀頃、釈迦ことゴータマ・シッダールタは、インドとネパールの国境近くにある小さく国の王子として生まれた。生年については記録が残っておらず、はっきりしない。キリストが生まれる500年も前のことだから、かなりの昔のことだ。誕生日は一応、4月8日ということになっている。
 生まれてすぐに七歩歩いて、右手で天を、左手で地を指して、「天上天下唯我独尊」と言ったという逸話がある。もちろん、本当だとは思えないけど、自分の子供が急にそんなことを言い出したら困る。
 王子として大切に育てられ、16歳で従姉妹のヤショーダラーと結婚して、ほどなく男の子(ラーフラ)が生まれた。他にも愛人の子供が数人いたという話もある。
 何不自由なく暮らしていた29歳のシッダールタは、ある日突然、カミさんと息子を残して出家してしまう。よほど思うところがあったのだろう。
 各地をさまよい、人々に教えを乞い、修行や苦行を重ね、35歳のとき、菩提樹(ピッパラの樹)の下で悟りを開いたとされている。そしてシッダールタは、仏陀(ブッダ)となった。これは、サンスクリット語で「目覚めた人」を意味する言葉だ。
 釈迦というのは、釈迦牟尼(しゃかむに)の略で、釈迦族の聖者といった呼び名だ。釈迦はいろいろ呼び名がたくさんあるから混乱する。このあたりの地名の覚王山も、釈迦の別名である「覚王」からきている。
 悟りを開いたのちの釈迦は、各地で人々に教えを説いてまわり、80歳のとき入滅(死去)した。旅先で食中毒になったというのは本当だろうか。お釈迦様といえば聖者の中の聖者というイメージがあるけど、キリスト同様実際はとても人間らしい人だった。もうダメでいけねぇと悟った釈迦は、娑羅双樹(さらそうじゅ)の下で横になって、弟子たちに見守られながら死んだという。
 このとき、頭を北に向けていたことが仏教と共に日本に伝わって、死者の頭を北向きにする習慣となっていった。いつから北枕が不吉なものとなったのかはよく分からないけど、もともとは縁起が悪いということではなかったのだ。地球の磁場を考えると、北枕はエネルギーの流れがスムーズになって科学的には体にいい寝方だという説もある。むしろ、南枕ではお釈迦さんに足を向けることになるから失礼とも言える。

日泰寺-3

 インドがまだイギリスの植民地だった1898年(明治31年)、地方行政官だったイギリス人のウイリアム・C・ペッペは、ネパール国境沿いのピプラハワ村にあった自分の荘園で、大きな石製の櫃(ひつ)を発掘した。
 開けてみると、中からは金銀財宝や装身具などと共に人骨の入った一つの水晶製の壷が出てきた。そこには古代文字が刻まれており、解読してみると、それは釈迦の骨だということが分かった。
 このニュースが伝わると、仏教界や学界は大騒ぎとなった。というのも、その頃、釈迦の存在は伝説上のものでしかなく、その実在は疑わしいという考えが主流だったからだ。最終的には本物だということになって、そこでようやく釈迦の実在は証明されることになったのだった。
 この骨はいったんイギリス本国に持ち帰られたあと、話し合いがもたれ、仏教国のシャム(現在のタイ)の王室に寄贈されることとなった。
 その話を伝え聞いた仏教国は、うちにも分けて欲しいと名乗り出て、ビルマ(現在のミャンマー)、セイロン(現在のスリランカ)、そして日本などに分骨されることが決まった。釈迦の生まれ故郷だったインドやネパールへ行かなかったのは、両国の主な宗教がヒンドゥー教になっていて、仏教徒は少数派だったからだ。
 ついでに言えば、仏教の本場が中国だという思い込みも正しくない。仏教のルーツはインドだから。それが中国を伝わって日本に入ってきたということだ。その中国も仏教国ではなくなっていった。

日泰寺-4

 日本への分骨が決まったあとが大変だった。誰がどこに寺院を建てるかでモメにモメて、しまいには宗教闘争にまで発展することとなる。いったんは京都の妙法院へ仮に安置したものの、話し合いでは決着がつかず、2年の歳月が流れてしまう。その間も裏では宗派間の激しい駆け引きがあった。権謀術策、買収、怪文章などが飛び交ったという。
 そうこうしてるうちに、明治35年、シャム国の皇太子が日本にやって来ることになり、さあ、困った。せめて建設地だけでも決めなければまずい。最終的に京都と名古屋の一騎打ちで決選投票となり、そこでも大混乱が起こり、最後は官民一体で招致に熱心だった名古屋が勝ちを収めることとなる。
 こうして翌明治36年、覚王山日暹寺(かくのうざんにっせんじ)の建造が始まり、37年には仮本堂が建った。
 釈尊の遺骨を安置するための奉安塔は、東京大学の伊東忠太設計で1918年(大正7年)に完成した。これは本堂がある境内から離れたところに建っていて、非公開で見ることができない。、
 その後も伽藍の増築が続き、昭和7年(1932年)にシャムの国名がタイに変わったことを受けて、昭和16年に日泰寺と改称されて現在に至っている(泰はタイ国のこと)。
 こうして日泰寺は、どの宗派にも属さない日本で唯一の寺となっている。19宗派が持ち回りで三年ごとに住職を務めている。だから檀家もない。

日泰寺-5

 お寺としての歴史は浅く、建物も明治から昭和にかけてのもので、しかもそれらは空襲で大部分が焼けてしまったので、更に新しい寺院の印象を受ける。三門も本堂も五重塔も、すべて鉄筋コンクリート造りで情緒がない。
 もし、京都にこの規模の寺院が建てられていたらどうだったろう。空襲がなかった京都だから、今頃は修学旅行のコースに入って、外国人が大勢やって来る観光名所になっていたかもしれない。名古屋が勝ったことがよかったのかどうなのか。
 敷地は現在でも10万坪と広大さを保っている。
 三門は昭和61年建立、五重塔は平成9年と、どちらも新しい。現在の本堂も、昭和59年に建てられたものだ。
 釈迦の遺骨を納めた奉安塔は先ほども書いたように非公開となっている。境内の北東の丘の上にあって、わずかに土台の部分だけ垣間見ることができるのみだ。この建物には扉のたぐいがなく、遺骨を取り出すには塔自体を壊すしかないそうだ。
 鳳凰台、八相苑、草結庵、同夢軒なども非公開で一般が立ち入ることはできない。

日泰寺-6

 本堂では去年、雅楽師の東儀秀樹がコンサートをしている。父親が商社マンだった関係で、小さい頃をバンコクで過ごしたとのことで、日タイ修好120周年の親善大使を務めているんだとか。
 普段は参拝客がポツリポツリと訪れる程度で、いたってのんびりした空気感に支配されている。境内の大部分が無料駐車場なので、ドライバーや営業マンの憩いの場所となっていたりもする。無断駐車1万円とは書かれているけれど。
 初詣客もそれなりにいるのだろうけど、あまり話題にならないところをみると、人気スポットではなさそうだ。
 ここが賑わうのが毎月21日で、そのときは縁日が開かれて様相が一変する。参道には店が建ち並び、押すなおすなの大盛況となるそうだ。実際に自分で見たわけではないのでちょっと信じられないのだけど、見るとかなり驚きの光景らしい。私も一度くらいは見にいった方がよさそうだ。

日泰寺-7

 こういうところに線香の煙が出ていると、訳も分からず煙を頭にかけたりする。頭が良くなりますようにとか言いながら。でも、そういうこととは違うと思う。
 これはどんな名前のもので、どんな意味を持つものなんだろう。ただの線香立てで、供養とかお参りとかそういうことなんだろうか。

日泰寺-8

 読めない額ふたつ。手前はなんとか法輪。奥はタイ語で読めっこない。
 法輪ってのは釈迦の教えの一つで、受けた教えを回すように人に伝えることとかなんとか。輪は、古代インドの投てき武器チャクラムのことで、煩悩を破壊するように打ち消すことのたとえらしい。今ひとつ分からないような分かったような。悟りへの道のりは遠い。
 本尊は、明治33年に釈迦の遺骨とともにタイ政府から贈られた釈迦金銅仏で、中央に安置されている。両脇には高山辰雄の絵画がかかる。

日泰寺-9

 おみくじガチャガチャ。ちょっと笑えた。
 子供は喜ぶかもしれないけど、大人はちょっとありがたみがないか。二段というのがまたどうなんだと思う。

日泰寺-10

 本堂がある境内はだいたいこれが全景となる。
 敷地は飛び地になっていて、道路を挟んで北東にも広がっている。奉安塔もそちらで、更に東には墓地がある。あちら側には行ったことがないので、様子はよく知らない。こっちも機会があれば行ってみよう。
 この前紹介した揚輝荘は、境内のすぐ東側で、表通りに出たところにある「うめだ」で手のべトンカツを食べたことがある。
 公共交通機関は、地下鉄東山線の覚王山から徒歩10分弱だろうか。

 こんな貴重で価値のある日泰寺を名古屋はもっと積極的に宣伝していったらどうだろう。仏教の寺は無数にあるけど、釈迦の骨があるのは日本にここだけなのだ。アピール材料としてはこれ以上のものはない。こんなことでは、京都の人たちに、だからうちにしておけばよかったんだと言われてしまう。
 とりあえずタイ人にそっくりのネプチューンの名倉潤に親善大使になってもらおう。たぶん、訪れたタイの皇太子も、名倉潤が日本人だとは気づくまい。日本とタイの架け橋は彼にお任せだ。タイからの観光客も増やしたいところだ。
 もちろん、日本人の人もぜひ行ってみてください。超宗派だけに、突き抜けたような無味無臭の寺院で、軽やかな感じがオススメなのです。




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