現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
ハード&タイトスケジュールで富士山方面へ行く前に更新と留守のお知らせ
2008年04月28日 (月) | 編集 |
明治村残り-1

PENTAX K100D+smc Takumar 50mm f1.4



 今日これから出かけて、帰ってくるのはあさってなので、明日は更新を休んで、今日は写真を並べて行ってきます。
 明治村へ行ったのは去年のいつだったか覚えていないくらい前のことになってしまったけど、一回分写真が残っていたので、こういうときのために取っておいた。
 時間がないのでコメントなしで写真だけ。

明治村残り-2



明治村残り-3



明治村残り-4



明治村残り-5



明治村残り-6



明治村残り-7



明治村残り-8



明治村残り-9


 そんなわけで、ちょっと富士山方面に行ってきます。おみやげ写真をたくさん撮ってくるので、帰ってきたら嫌ってほど紹介します。


狙ったところにはいってないけど一応ストライクのサンデー料理
2008年04月28日 (月) | 編集 |
変わり洋食風サンデー

Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II



 最初、チベット料理を作ろうとして頓挫した。チベットを代表するモモやツァンバなどを作ろうとすると、大麦や麦こがし粉なんてものが必要となって、一歩目から前のめりにつんのめる。そんなもの、このへんのスーパーではたぶん売ってない。肉も生で食べたりするそうだから、ついていけない。検討を始めて15分で早々にあきらめた。チョモランマはそう簡単には越えられない。
 それに続くアイディアが浮かばず、なんとなく頭に思い浮かんだ料理を3品揃えることになった。当初は和食のイメージで作り始めたのだけど、いつものように途中から料理が蛇行を始めて、気づけば洋食になりきれない洋食のようになっていた。今日もまたノーコン料理人ぶりを遺憾なく発揮した。作ってみなければ何ができるか分からない。どんな料理になるかは料理に聞いてくれ。

 右手前は、エビと白身魚の岩石揚げ・カレー風味タルタルソースかげだ。
 エビの背わたとはらわたを取って、白身魚は砕いて、タマネギを刻んで混ぜる。塩、コショウ、白ワイン、しょう油少々で下味をつけて、カタクリ粉、卵をまぶしたあと、小さい四角に切った食パンをまぶして揚げる。油の温度は低めで、じっくり時間をかけた方がいい。衣の食パンが焦げやすいので。
 普通の唐揚げよりも更にさくさく感が強まって、独特の食感になる。中はぷりぷりで外がカリカリ、とっても美味しいのでおすすめだ。
 中身はいろいろ応用が利く。肉団子でもいいし、普通にジャガイモをつぶしてコロッケのようにしてもいい。
 タルタルソースは、ゆで卵、タマネギ、パセリ、塩、コショウ、からし、カレー粉、マヨネーズを混ぜて作る。
 写真では後ろに隠れいているけどアスパラも衣をつけて揚げている。

 左奥は、ほくほくジャガイモボールと野菜のコンソメスープだ。今回の中ではこれが一番美味しい自信作となった。
 まずジャガイモボールを作る。刻んだジャガイモをレンジで5分加熱して、多少形が残る程度につぶす。これにパセリの刻み、塩、黒コショウ、コンソメの素、カタクリ粉を混ぜて団子にする。表面にカタクリ粉をまぶしてから、たっぷりのオリーブオイルを入れたフライパンで転がしながら焼いていく。崩れないように表面を固めるためだ。
 スープは、タマネギ、鶏肉を炒めて、水とコンソメの素を加えて、下茹でしたニンジンと、白菜を入れて煮込んで作る。最後にジャガイモボールを加えてしばらく煮たら完成だ。
 普通に煮込んだものとはジャガイモの食感が全然違う。ほくほくで少しもちっとした食感とコンソメスープがよく合う。
 ジャガイモメインなので、スープにしないでソースをかけて食べてもよさそうだ。トマトソースやホワイトソースにも合うと思う。

 右奥は、写真ではハンバーグ風に見えるだろうけど、実際は豆腐蒸しの八丁味噌ソースになっている。ここに和食が混ざっていた。
 木綿豆腐をレンジで水切りしたあとくだいて、卵、酒、みりん、しょう油、塩、コショウ、刻み長ネギ、小麦粉を混ぜる。それをラップでくるんで口を止めて3分から5分ほど加熱する。茶碗蒸しのようにしてもよかったかもしれない。
 八丁味噌ソースは、味噌にだし汁、酒、みりん、砂糖、七味を加えて作った。
 この前買ったカクキューの八丁味噌を使おうということで強引にねじ込んだ一品で、これが全体のバランスをやや壊すこととなった。単品として見れば美味しかったのだけど。

 私の料理の欠点は、結果オーライ的な部分が多々あって、行き当たりばったりなところだ。失敗を次に活かしづらく、再現性にも難点がある。同じものを作りたくないという思いが、成長を遅らせている。美味しいものができたとしても、偶然によるところが大きいから、成功の根拠が乏しい。スポーツにおける弱いチームのようなものだ。やるべきことをきっちりやらず、勝ち負けに一喜一憂していてはいいチームになれない。料理にも同じことが言える。性格的には料理人には向いていない。
 今年の目標は、基本の料理を基本通りに作れることというものだったはずだけど、すっかり忘れている。今年ももう、3分の1も終わってしまった。残り3分の2で、料理はけっこう得意ですよと言えるところまでいきたいと思っている。今の状態は、一応それなりのものは作れるけど得意と言うほどではない。
 写真も料理も今ちょっと頭打ちのような感じだから、なんとかもう一段上にいきたいところだ。そのためには、試行錯誤をして撮り続け、作り続けるしかないのだろう。投げ出さずに続けよう。


思い出の長浜城で秀吉もみんなと花見で騒いでいたかもね
2008年04月27日 (日) | 編集 |
長浜城-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 長浜駅を出たところに、秀吉と三成の像がある。戦国野郎やお嬢なら、なるほどあのエピソードねとピンと来るだろう。三成三献茶をモチーフにした像だ。
 秀吉が長浜城主だったとき、鷹狩りの途中に寺を訪ねて、そこの坊主に茶を入れてくれと頼んだ。すると坊主は、大きめの茶碗いっぱいにぬるめの茶が入ったものを持ってきた。喉が渇いていた秀吉はそれを一気に飲み干すともう一杯とおかわりをした。二杯目は、やや小振りの茶碗に半分ほど入った熱めのお茶だった。ゆっくり飲み干した秀吉は更にもう一杯と言う。少年が三杯目に持ってきたのは小さな茶碗に入った熱々のお茶だった。
 こいつは気が利くと喜んだ秀吉は、その小坊主を長浜城に連れ帰って小姓とした。それがのちの石田三成という話だ。
 エピソードとしては面白く、三成の人となりを伝える話ではあるのだけど、これは江戸時代に入ってから作られた創作だと言われている。いずれにしても、天下を取った徳川家に敵対した総大将が後の世でいいように語られるはずもない。この話も機転が利くというよりも小賢しさを強調する話として作られたのかもしれない。
 石田三成の人となりについては、実はあまり知らない人が多いんじゃないだろうか。明智光秀についてはいろんなところでたくさん語れているのに、三成は作品の主人公になることが少ない。関ヶ原の合戦シーンにおいてはよく描かれているものの、西軍の総大将になるまでの経緯などは知らない人も多いんじゃないだろうか。私もあまり詳しいとは言えない。もしまた近江方面へ行くようなことがあれば、そのときは佐和山城跡へも行くことにしよう。そのときは石田三成について書きたいと思う。

長浜城-2

 長浜といえば秀吉が作った町だから、まずは秀吉に挨拶に行くことにした。駅近くにある豊国神社(ほうこくじんじゃ)を訪れた。
 秀吉の三回忌に当たる1600年、長浜町民が秀吉を偲んで建立したのが始まりだった。
 しかし、江戸時代に入ると徳川家は秀吉を神として祀ることを禁止した。社殿も取り壊されてしまう。それでも祭神だけは町民が守り、表向きは恵比須神を祀る神社として生まれ変わり、その奥で密かに秀吉を祀っていた。隠れキリシタンならぬ隠れ秀吉というのが江戸時代には存在したのだ。
 時代は明治に移り、豊国神社の名前が復帰して、晴れて秀吉を祀る神社に戻った。三百回忌に当たる1898年(明治31年)には拝殿も再建された。
 秀吉だけでなく、事代主大神、加藤清正、木村重成も祀られている。家臣も一緒に祀られている豊国神社は全国でここだけだという。

長浜城-3

 さほど大きくはないものの、小綺麗で気持ちのいい神社だった。生まれ故郷の名古屋市中村区にある豊国神社よりも手入れが行き届いている。
 神殿は江戸時代中期に建てられた神明造で、境内には出世稲荷神社などもある。
 それにしても、先に勝った者より後から勝った者の方が得というかなんというか、信長や秀吉の名残は家康が残したものと比べてあまりにも少なく、ちょっと露骨に打ち消しすぎだろうと思ってしまう。特に信長に関しては、偉業の割に残ったものが全然ない。普通なら信長の生まれ故郷である清洲や秀吉が生まれた名古屋の中村なんかは、日光東照宮のように全国的な観光名所になっていてもおかしくないところだ。英雄といえども最後に負けてしまえばあっけないものだ。

長浜城-4

 長浜城が遠くに見えたときには、もう完全な日没だった。当然、長浜城も開いてなくて中にはいることはできなかった。
 いい加減歩き疲れてはいたのだけど、これで最後と思うとちょっと元気が出てきた。とりあえず近くまで行ってみよう。

長浜城-5

 こんな時間に長浜城を訪れる物好きはいないだろうから静まりかえっているだろうと思いきや、ちょうど桜が満開のときで予想以上の賑わいを見せていて驚く。桜の下でみんなジャージャー肉や野菜を焼いていて、煙があたりに立ちこめているではないか。なんだこりゃと思う。酔って騒いでるし。
 長浜城を見に来た私の方が場違いな感じになってしまった。誰も長浜城なんて見てやしない。
 でも、ここは秀吉が作った長浜城。醍醐の花見を催した秀吉のことだ、このどんちゃん騒ぎを見て喜んでいたことだろう。自分も降りてきて、一緒になって騒いでいたかもしれない。

長浜城-6

 長浜城は秀吉が初めて一国一城の主となった城だ。
 1573年、浅井長政攻めで軍功をあげた秀吉は、信長から浅井家の所領12万石を与えられてこの地に移ってきた。当初、浅井家の居城だった小谷城(おだにじょう)に入城したものの、そこは交通の便が悪いということで、琵琶湖畔に新たな城を築くことにした。そこは、バサラ大名として知られた京極道誉(佐々木高氏)が室町時代に建てた出城があったところで、地名を今浜といった。
 小谷城などの資材を使って1年がかりで城を築き、名前を長浜と改名する。信長の長の字をもらったのだ。若い頃の秀吉はこうやって人に取り入るのが上手かった。この頃はまだ羽柴秀吉と名乗っていたときで、羽柴も信長の有力家臣だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらったものだ。もとは木下藤吉郎だった。
 城作りと平行して城下街作りも積極的に行った。小谷城下や周辺から商人や住人を集め、楽市楽座を設けるなどして商業都市としての基礎を作り、それが現在にまでつながっている。
 長浜城主だった時代はほんの数年に過ぎなかったものの、秀吉はここで三成や大谷吉継などの有能な家臣を発掘し、一男一女にも恵まれている。思えば秀吉にとってこの頃が一番よかった時代かもしれない。
 その後秀吉は信長の命を受け中国地方に向かい、本能寺の変のあと、清洲会議で長浜城は柴田勝家の甥の勝豊に与えられることとなった。しかし、隙を見て秀吉はこの城を奪還。柴田勝家との賎ヶ岳の戦いではここを拠点として大勝を収めている。
 1585年から5年間、山内一豊が城主となっている。
 その後城は荒れ、いったん石田三成の支配下となり、江戸時代に入ると家康の異母弟の内藤重成が城主となって大改修を行った。
 1615年、一国一城令で内藤信正が摂津高槻城への移封になったのを機に廃城となり、城の役割は彦根城へと移った。大半の資材は彦根城の築城のときに使われたとされている。

 現在、長浜城の遺構は、わずかな石垣と秀吉が作ったという太閤井戸の跡が残るのみとなっている。井戸は琵琶湖の底だ。
 江戸時代の絵図によると、2重の堀に囲まれた水城で、南北1.2キロ、東西07キロの規模だったのではないかと考えられている。きちんとした資料が残っていないことから、天守などがどうなっていたかは分かっていない。
 現在の天守は1983年(昭和58年)に、同時代の犬山城や伏見城を参考にして復元された模擬天守だ。どれくらい実物と似ているのも分からない。建っている場所もここではなかった。
 復元天守閣とは名乗らず、長浜城歴史博物館としている。平成4年に内部がリニューアルされた。

長浜城-7

 琵琶湖は海みたいだけど、やっぱり湖だ。暗くて水の状態はよく見えなかった。前に一度訪れたときは、かなり汚れている感じだった。あれから少しはきれいになっただろうか。

長浜城-8

 琵琶湖を眺めるカップルたち。この日は夕焼けが見られなかったのが残念だった。前に見た琵琶湖の夕焼けがとても印象的でよく覚えている。

長浜城-9

 こうして私の滋賀巡りは終わった。近江八幡、安土、彦根、長浜。これだけ距離が近いと、関係性も深い。琵琶湖畔を巡る歴史の流れを多少なりとも理解できたのも、今回の大きな収穫だった。
 振り返ってみればいろいろと心残りもある。もう一度訪れる機会があるかどうか、今はまだ分からない。呼ばれたら行くことになるだろうし、もう充分というなら行きたくても行けないだろう。
 滋賀シリーズということではもう一回だけ最後に思い出編として、本編に入れられなかった写真を集めて紹介したいと思っている。なので、滋賀巡りの総括は最終でやることにしよう。


レトロモダンな観光地として生まれ変わった長浜の町をぼんやり歩いてきた
2008年04月26日 (土) | 編集 |
長浜の町-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 彦根を出て長浜に着いたときはすでに夕方の5時を回っていた。まずは豊国神社に挨拶に行ったあと、黒壁スクエアへと向かった。ただ、漠然とこのあたりというのは分かっていたのだけど、しっかりと下調べをしていかなかったので、どこが主要ポイントなのか分からないまま当てのない散策となった。そもそも黒壁って何って話で、それが特定の建物を指すのか、このあたり全体の町並を指すのかさえ分かっていなかった。
 上の写真はどのあたりだったんだろう。帰ってきて調べてみても思い出せない。それっぽい雰囲気の建物ではあったのだけど、まだ黒壁スクエアの外だったのだろうか。確か、最初に1号館になっている黒壁ガラス館というのを目指したはずだ。もう、それさえも記憶があやふやになってきている。一昨日食べた夕飯のおかずも思い出せない。

 長浜の町も昭和40年代以降はさびれる一方で商店街もずいぶん寂しいことになっていたという。
 1988年(昭和63年)に旧第百三十銀行の建物(1899年築)の取り壊しが決まって、地元住民が立ち上がった。黒壁銀行の愛称で親しまれたこの建物をなんとか保存できないかということになり、長浜市と地元企業が第三セクター「株式会社黒壁」を設立。ここから長浜は観光都市へと生まれ変わることになる。
 翌1989年、銀行の建物を黒壁1号館「黒壁ガラス館」としてオープンさせた。周囲の古建築をギャラリーやショップ、カフェなどとして再利用することで店舗も賛同して、黒壁館は30号まで増えていった。
 それ以前は人っ子一人観光客が訪れなかったような町が、今や年間300万人もの観光客が押し寄せる人気観光スポットとなっている。町おこしの貴重な成功例として、全国から視察に訪れているという。
 もともと、長浜の城下町は秀吉が作った町で、楽市楽座で栄えた自由な商業都市だったという歴史があった。その下地というのも成功の大きな要因だったのだろう。本物のレトロ感というのは数年で作れるようなものではない。長浜には400年の歴史がある。
 といったようなことをちゃんと予習していけば、見るポイントがもっと分かっただろうに。行き当たりばったりだから、大事なところを見逃す。まあ、行ってみないと分からない部分も多々あるのだけど。

長浜の町-2

 さて、これはどこだっけな。全然思い出せないぞ。どっちの方角を向いているのかもよく分からない。
 駅の北にある豊国神社へ行って、そこを出て東に向かったと思うんだけど、じゃあ大手門通りかというとちょっと違う気がする。北国街道は歩いたんだっけな。
 もうこの頃は7時間くらい歩き続けたあとだから意識がもうろうとしていたかもしれない。ウォーキングハイを通り越して、ウォーキングドランカー状態になっていた。

長浜の町-3

 この左に写ってるのがガラス館か。右手には大手門通りのアーケードの入り口があるから、位置関係としてはここじゃないかと思う。それにしてはガラス館そのものを撮った写真がないのはどうしたことか。ああ、ここがガラス館かと思った記憶はあるのだが。
 夕方の時間だからもう店は閉まっていたようだ。世界中から仕入れたガラス製品がたくさん売られているらしい。
 斜め前だったか横だったかに2号館としてガラス工房があったはずだ。そこではガラス製品作りができるそうだ。
 少し離れた場所に10号館の黒壁美術館もある。そちらは行っていないのでどんな感じかは知らない。世界のガラスアート作品が展示されているようだ。

長浜の町-4

 これはスタジオクロカベとかいうところだったと思う。作家のギャラリーのようになっているみたいだ。
 観光客というよりもはや通りすがりのようになっている私。一応、メインの目的地は長浜城だったので、このあたりはさらりと流してしまった。真っ暗になる前にお城に行きたいというのもあって、ちょっと急いでいた。

長浜の町-5

 いきなり場違いな感じの建物が建っていてちょっと驚く。「海洋堂フィギュアミュージアム」とあって、とりあえず撮っておいた。帰ってきてネットで調べたら、けっこう有名なところのようだ。
 フィギュアに対して思い入れがない私としては、開いていても素通りしていた。入館料300円取られるし。

長浜の町-6

 秀吉が始めた曳山まつりで使われる2基の曳山などを展示している曳山博物館(4基所蔵で2基展示)。
 様々な展示物や体感シアターで曳山まつりを紹介するところらしい。ここも入館するのに600円かかる。長浜を満喫しようとすると、けっこう小銭が飛んでいく。黒壁美術館は600円だし、吹きガラス体験は3,675円する。町を歩くだけならお金はかからない。

長浜の町-7

 アーケードの中を川が横切っていて、そこに大手橋という橋が架かっている。けっこう斬新だ。
 大手門見返り橋とも言うらしいけど、理由は知らない。

長浜の町-8

 長浜の町を東西南北に流れる米川。緑の水草が流れに揺らめいていて、水もきれいだった。
 水の流れというのは町にとって大事なもので、それを大切にしてきれいにできればいい町になる。簡単に埋めたりしてまうのはよくない。水の流れというのは気の流れでもあるから、住人の心に大きな影響を与えるものだ。
 実用面だけでなく、川の大切さというのは昔の人も感覚的に分かっていたことだろう。

長浜の町-9

 書道や俳句などの書物を扱う文泉堂というのはここだろうか。文という字が見えているからたぶんそうだと思う。
 普通の本も売っているのかいないのか。うっかり入りづらい店ではある。でもこういう店があるというところにこの町の懐の深さを感じる。
 黒壁散策マップみたいなものがどこかに置いてないのだろうか。ガラス館あたりにあるのかもしれない。漠然と歩くだけではどこに何があるか分からないので、もったいない。

長浜の町-10

 突き当たりに見えているのが、おそらく大通寺だと思う。
 NHK大河ドラマ「巧妙が辻」でおなじみの山内一豊・千代ゆかりの寺で、長浜城の追手門を移築したとされる薬医門をはじめ、多くの重要文化財を持つ寺だ。でも、あそこまで歩く気力がなくて省略してしまった。今となってはちょこっとでも寄ってくればよかったと、少し後悔している。
 アーケードも終わったところで、長浜の町の散策はここまでとして、再び駅へと向かった。長浜城はこちらとは反対側の駅向こうになる。

長浜の町-11

 現在の長浜駅舎。米原で乗り換えなくても、長浜行きという電車がけっこうある。新快速が止まるようになったことも観光客が増えた理由の一つと言われている。
 あたりはかなり暗くなってきた。最後に長浜城を見てから帰ることにしよう。

長浜の町-12

 閉まっていることは分かっていたけど、せっかくなので前だけでも通ることにした、長浜鉄道スクエア。
 見えているのが明治15年に建てられた現存する日本で一番古い駅舎の旧長浜駅だ。それをそのまま移築して資料館にしている。
 敷地内には、長浜鉄道文化館と北陸線電化記念館が併設されていて、これらをあわせて鉄道スクエアとなっている。
 車両としては、ED701(国鉄ED70形電気機関車)と、D51793(国鉄D51形蒸気機関車)が保存展示されている。デゴイチはちょっと見たかった。
 入場料は300円。この300円なら払ってもいい。

 このあと行った長浜城についてはあらためて書きたいと思う。もう写真も多くなったし、長くなった。
 帰る前、長浜といえばラーメンだろう! と思ってラーメン屋を探したのに見つからない。なんだよ、長浜ラーメン、本場じゃないのかよと帰ってきて調べたら、ええー、長浜ラーメンって九州だったの!? 知らなかった……。長浜ラーメンというから、てっきり滋賀の長浜だと信じて疑ってなかった。どうりでラーメン屋がないはずだ。
 それはともかくとして、長浜の町は魅力的なところだと思った。どこも開いてなくて店に入ることはなかったけど、町歩きだけでも魅力は分かった。写真では伝えきれない町が持っている空気感というのがあって、それがいい。
 私のように近江八幡から4ヶ所を一日で回るというのは無茶だから、彦根と長浜でセットにして一日回るとちょうどよさそうだ。午前と午後で4時間ずつあれば、それなりにゆっくり見て回ることができると思う。
 物好きな人は、私が回ったのと同じコースを歩いて回ってみてください。安土城の山登りを含めて8時間も歩くと、意識がもうろうとしてきて気持ちいいですよ。


自己再生を果たした彦根の町は、ひこにゃん人気で更に元気になった
2008年04月25日 (金) | 編集 |
彦根の町-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 だいぶ昔の記憶になりつつある滋賀巡りだけど、まだ完結していない。近江八幡、安土、彦根と来て、彦根第3弾は彦根の町紹介となる。
 昔の彦根しか知らない人は、彦根の町の印象を訊かれても普通の町だったという記憶しか残っていないかもしれない。しかし、昭和の終わりから平成にかけて、彦根の城下町は大きく変貌を遂げた。
 江戸時代の町並みを再現した夢京橋キャッスルロードに続いて、大正時代をモチーフにした四番町スクエアという商店街もできて、町は活気を取り戻した。
 夢京橋キャッスルロードに並ぶ店舗も民家もすべて、切妻屋根の町屋風に統一され、白壁、格子戸など、江戸時代の映画セットみたいだ。再現度としてはそれほどでもないけど、みんなで意思を統一して頑張っている感じが伝わって好感が持てる。お役所仕事ではなく、住民が自主的に運動して生まれ変わったというから、そのあたりが表れているのだろう。
 長さ350メートル続く道の両側には、食事処やみやげ物屋などが並ぶ。彦根城を訪れた人がこちらにも流れてくるだろうから、これは成功だった。

彦根の町-2

 建物はこんな感じで統一感を持たせている。時代劇のロケに使えるほどの本物感はない。まだ古めかしさが出てないし、時代考証が間違ったものが多数ある。それでも、電柱と電線がないのは気持ちいい。

彦根の町-3

 ペット屋さんまでこの通り。ちょっと笑った。商売と店構えがまったくマッチしてない。
 昔ながらのペット屋で、表ではカゴに入ったセキセイインコなどが売られていた。昭和だ。最近はこういう店はめっきり見なくなったけど、私たちが子供の頃は、まだ金魚屋さんとかもあった。そこでインコも一緒に売っていたものだ。

彦根の町-4

 びわこ銀行まで老舗の和菓子屋さんみたいなたたずまいになっている。ここまでやるなら、行員も番頭さんとかに扮していて欲しいと思ったりもする。お金の計算はもちろん、そろばんだ。

彦根の町-5

 大正ロマンという感じではないけど、雰囲気のある商店街となっていた四番町スクエア。
 かつては市場商店街という名のアーケード街だったそうだ。昭和には賑わった商店街も、さびれる一方になっていき、なんとなしなければということで生まれ変わったのがこの地区だ。現在も市場の流れをくんで、食料品の商店が中心になっている。
 大正ロマン漂うというよりモデルハウスの町みたいだなと思った。

彦根の町-6

 この「四番町ダイニング・ひこね食賓館」というのが中心になるのだろう。
 歩道橋には、ひこにゃんたちのイラストが描かれている。なんで、ゲゲゲの鬼太郎やキティちゃなんだ。便乗して何か売ろうという魂胆か。
 2007年に誕生したひこにゃんは、大人の事情でその存続が危ぶまれながら、一般には人気者であり続けている。その使用を巡って作者と市がもめたというニュースを覚えている人もいるだろう。その後話し合いで一応の解決はしたようだけど、ひこにゃんはこれからも存続できるのだろうか。
 ひこにゃんの住まいは、彦根城の天守ということになっている。誕生日は4月13日というから、今は1歳になったところということか。
 どうして猫なのかというのは理由がある。彦根藩2代目藩主の井伊直孝が江戸にいるとき、突然の雨に降られて大きな木の下で雨宿りをしていると白い猫が手招きをする。なんだろうと近寄ってみると、直後にその木に雷が落ちた。そこは豪徳寺の境内で、感謝した直孝は当時貧乏寺だった豪徳寺を井伊家の菩提所にして、それ以来寺は栄えることとなった。和尚はこの猫の姿を人形で作って、そこから幸運を呼び込む招き猫が生まれたという話だ。
 というエピソードを踏まえて、ひこにゃんは白猫になったのだった。
 その後、ライバルキャラとして、しまさこにゃん、いしだみつにゃんが生まれ、更にさばにゃん、やちにゃんなど増殖中だ。とりあえず何でもにゃんをつければキャラクターになる。

彦根の町-7

 ひこにゃんの顔出し記念撮影スポット発見。これ以上近づくとひこにゃん大好き人間と思われてしまうので、遠巻きに撮った。一人で三脚を立てて、ここから顔を出してセルフタイマーで撮っている大人は嫌だ。
 着ぐるみひこにゃんは見かけなかった。毎日彦根城や街中をうろついているわけではないらしい。あちこちのイベントに担ぎ出されているのだろうけど。

彦根の町-9

 町の喫茶店もひこにゃん人気にあやかろうとしている。
 彦根城といえば井伊直政の赤備えだけど、それはあまり一般受けするようなものじゃない。ようやく彦根城といえばこれというものができて、彦根の人たちはみんな喜んでいることだろう。使用権などでもめてる部分もあるようだけど、今後とも育てていったらいいと思う。
 愛・地球博のモリゾーとキッコロは、今での県外人の心に残っているのだろうか。愛知県民はまだけっこう大事にしてるんだけど。

彦根の町-8

 駅に戻る途中で見た本屋。これぞ町の本屋さんというたたずまいだ。よく生き残ってると感心する。最近は個人の書店経営はすごく厳しいから、続けていくだけでも大変なのだ。チェーン店や大型書店でさえ閉鎖してしまう時代になった。
 うちの近所にもこんな本屋があって、恐い店のおやじと立ち読み勝負を挑んでよく負けていた。ちょっとでも立ち読みしようものなら怒ってくるからたまらない。はたきではたかれたりもした。今では信じられないけど、昔は店主があくまでも主人で、お客は買わせてもらうという立場だった。それでも心の交流みたいなものがあったから、いい思い出になっている。

彦根の町-10

 建物の下の方を見て、これは何の店だろうと思って上を見ると、おっと、パチンコ屋か。ちょっと驚いた。
 ここらは町並保存の地区ではないのに、協力する気満々だ。近くの他の店も、看板をみんな木製にしたりもしていた。これで売り上げが上がるとは思えないし、むしろ下がりそうでもあるのに、それでもあえてやるところがいい。
 でもこの店、向こう側の歩道を歩いてたらパチンコ屋だとは気づかないんじゃないか。

彦根の町-11

 ホビー屋さんの自動車というのか、何というのか。確か後ろにナンバーがついていた気がする。だとすれば公道を走れるのだろう。原付扱いかもしれない。
 町並とは関係ないけど、面白かったので載せてみた。

彦根の町-12

 駅近くは、昔ながらの駅前商店街風景だ。うちの田舎の松阪駅もこんなふうだし、ずっと昔の京都もこんな感じだった。観光客としては無責任に懐かしい光景だなんて思うけど、ここで暮らす人たちにとっては存続の危機だ。夢京橋キャッスルロードの方が活気を取り戻してるようだから、うちらもと思っているかもしれない。
 彦根の町は再生に成功した町と言っていいんじゃないかと思う。昔からの変遷を知ってるわけではないけど、ひなびた観光地という風情ではない。住人の団結で盛り返したのだろう。
 なんといっても国宝を持っているという強みがあった。それに加えてひこにゃん人気というのも侮れない。
 もう一つ、二つ、目玉になるような観光スポットがあればもっと訪れる人が増えるだろうけど、そこまで望むのは欲張りか。個人的には見所となる神社仏閣がないのが残念なところだ。

 私はこのあと長浜へと移動する。滋賀巡りシリーズもようやく終わりが見えてきた。長浜城について書いて、長浜の町を独立させることになっても、あと2回か3回だろう。そろそろゴールデンウィークだから、その前に終わらせて、新しいシリーズを始めたいと思っている。


4月の海上の森写真の残り物には福があるかないか
2008年04月24日 (木) | 編集 |
海上の森4月2-1

FUJIFILM FinePix S2 pro+TAMRON SP 90mm f2.8 / PENTAX K100D+TAMRON 70-300mm f4-5.6



 今日は昨日の続きで4月の海上の森第二弾をお送りします。
 ちょっと残り物写真のようになってしまうのだけど、今回は花を中心に。

 森の緑の美しさというのは、なかなか写真では伝えきれない。わぁーっと心を動かされて撮るんだけど、写真を見るとそれほど感動的でもない。もっとよかったのにというもどかしさが残る。
 普通に撮っただけでは伝わらないなら、もっと工夫して撮らないといけない。写真では伝えきれないから現地へ行って見てくださいでは写真を載せる意味がない。
 でも、新緑の5月というのは森歩きには最適なシーズンなので、写真は別にしても森歩きはオススメしたい。

海上の森4月2-2

 おっとびっくり。いつの間にこんなものが立ったんだ。初めて見た。
 愛地球博前後から海上の森もだいぶ人の手が入った。よくなった部分もあるし、余計なお世話と思うところもある。この注意書き以外にも、あちこちに道しるべを立てていた。おそらく、地図も持たずに気軽に入っていく人のためなんだろうけど、どうせやるなら要所に略地図くらい置いたらどうだろう。どこどこ方面と書くだけではあまり意味がない。分かってる人には役に立たないし、まったく地図が頭に入ってない人にとっては大した手がかりにはならないだろう。何もしないよりはましといえばそうだけど、せめて距離と徒歩何分くらいの案内があってもいい。
 それにしても、イノシシ注意って、何を注意すればいいのか。森の中を歩いていたら向こうからイノシシが突進してくるとでもいうのか。未だかつてあの森でイノシシなんて影も見たことないぞ。いるにはいるだろうけど、具体的な注意をうながすほど危険とは思えない。逆にいるなら出てきて欲しい。見たら絶対に撮りたい。タヌキとかもいるんだろうけど、昼間にのこのこ人前に出てくるようなことはない。

海上の森4月2-3

 赤池の奥はけっこうなワイルドコースとなっていた。湿地に靴が埋まったり、ちょっとした小川を飛び越えないと進めない。
 ウォーキングシューズくらいでは不足する部分も出てくるから、軽めのトレッキングシューズを履いていった方が無難だ。ヒールの女の子をデートに誘うには向かない。

海上の森4月2-4

 ウラシマソウかと思ったら、たぶん違う。これはマムシグサだろう。ウラシマとマムシとでは全然違う。ウラシマならちょっと嬉しい気がするのに、マムシでは嬉しくない。
 名前は茎に見える部分がマムシの模様みたいだからのようだ。まあ似てなくもないか。
 マムシに注意は海上の森だけでなく緑地などでもよく見られる注意書きだ。マムシに噛まれた場合は慌ててはいけない。即死するような毒ではないから、落ち着いて救急車を呼ぶ。6時間以内に血清を打てば大丈夫と言われている。下手に騒いで暴れると毒が前身に回ってしまうからよくない。
 マムシグサの球根にも毒があるらしいので気をつけないといけない。森でマムシグサを見つけたとたんに引っこ抜いて球根をかじるやつはいないと思うけど。

海上の森4月2-5

 ハルジオンかヒメジョオンかで迷うのはもう少し先だ。4月に咲くのはハルジオンで、ヒメジョオンが出てくるのは夏になってからだ。
 つぼみがうなだれているのがハルジオンで上を向いているのがヒメジョオンという区別の仕方をするけど、これは分かりづらいこともある。葉っぱの感じがだいぶ違うから、見慣れてくると分かるようになる。
 ハルジオンはピンク色ぽいのと白があるけど、ヒメジョオンは白だ。

海上の森4月2-6

 これはヤマフジだと思うんだけど、ふいに自信がなくなった。もう少し花が開いてくると分かりやすくなるはずだ。
 ヤマフジとノダフジが左巻きだ右巻きだという話を思い出した。どっちがどっちだかが思い出せない。
 今年は藤をどこに見に行こう。去年はことごとく遅刻だったから、今年はいいタイミングで見たい。津島の天王川公園は混むからゴールデンウィーク前期間中は避けたい。でも終わってからでも遅すぎる。小牧の清流亭の藤というのはどうなんだろう。一度見に行ってもいい。

海上の森4月2-7

 これは花なのか何なのか。面白い姿をしてたから撮ってみた。
 実物はすごく小さい花で、1センチもなかった。
 ちょっと保留。分かったら追記しよう。

海上の森4月2-9

 これはこの前森林公園で撮ったコバノガマズミと同じものだろうか。ミヤマザクラだったり、他のものだったりしないよね? と、誰にともなく問いかけてみる。
 ミヤマザクラやコバノガマズミとはちょっと葉のギザギザが違うような気がするんだけどどうだろう。
 カマツカとかそんな可能性もあり?
 ちょっと分からないのでこれも置いておく。

海上の森4月2-8

 こいつは知ってるぞ、カキドオシだだろうとパシャリと一枚撮って、家に帰ってきてから写真をよく見たら確信が持てなくなった。もしかして違うかも。似たやつが他にあったかもと調べて思い出した。そうだ、これはキランソウだ。
 キランソウ、カキドオシ、ムラサキサギゴケ、トキワハゼ。なんだかややこしいものが多い。
 別名、ジゴクノカマノフタ。民間療法で薬として使われていて、地獄の釜の蓋を開けて死者をよみがえらせることができるというところから来ているんだとか。
 もう一つの別名、弘法草は、弘法大師がこの草が薬草になることを教えたところから来ているという。

海上の森4月2-10

 たくさん咲いているスミレは見て見ぬふりをした。一枚くらい撮らないとなと思って撮ったのがこれだ。
 タチツボスミレということにしておいていいかな。

海上の森4月2-11

 これはツボスミレだと思う。白くて小さなスミレで、花びらに紫の筋が入る。スミレの中では咲いてくる時期は遅い方だ。
 考えてみると4月の終わりというのはもうスミレシーズンの終盤だ。スミレのピークは3月4月だから。ということは、今年も勉強が進まないままスミレをやり過ごしてしまったということになる。もうちょっと撮っておくべきだったかなという気持ちと、やれやれという安堵感が入り交じる。いずれスミレとは向き合わなくてはいけないときが来るのだろうけど、できるだけ先送りにしたいと思ってしまう。

 今回の海上の森写真はこれでおしまいとなる。思ったより枚数が少なかった。目的がギフチョウだったから、花やその他は二の次になった。
 次の花目標としては、まずは藤だ。ゴールデンウィークに人混みの中へ突撃していくかどうかで今後の展開も変わってくる。連休が明ければカキツバタ、バラと続いていく。
 写真に関しては、ここ最近ちょっと自分の中で停滞感があるから、それを打開するためにもこれまであまり撮らなかった被写体を撮ってみたいと思っている。新しいレンズを買うという手もあるのだけど、フィルムでもう一度一枚の大切さを思い出すというのもいいかもしれない。
 もっといい写真を撮りたいという思いと、写真を撮ることの楽しさということのバランスが、少し崩れているみたいだ。


ギフチョウを追いかけて追いつけなかった4月終わりの海上の森は初夏
2008年04月23日 (水) | 編集 |
海上の森4月-1

FUJIFILM FinePix S2 pro+TAMRON SP 90mm f2.8 / PENTAX K100D+TAMRON 70-300mm f4-5.6



 追いかけてギフチョウ、今年こそという3年越しの悲願も、遅刻と寝過ごしであっけなく打ち砕かれた。一週間前の午前中に行かなければいけなかった。春の女神と呼ばれるギフチョウが飛ぶのは、春先のわずか2週間ほど。それを見逃すともう来年まで会うことはできない。
 今年はギフチョウも早かったのだろうか。エサにしているコバノミツバツツジもほとんど終わっていたから、季節の進み具合は私が思っている以上に先へ行っていたらしい。4月の中旬に行こうと決めていて、先週行くつもりが雨に降られて行けなかったのが痛かった。一年なんて過ぎてしまえばすぐだけど、待ちわびる一年はけっこう長い。
 岐阜で見つかったギフチョウだけに、岐阜へ見に行けってことか。岐阜の山ならまだ早春をやっているところもあるだろうし、ギフチョウもこれからかもしれない。ちょっと調べてみよう。

 海上の森の4月後半は、すっかり初夏の風景だった。緑が生い茂る半ジャングル状態のようになっていた。気温も25度で、坂道を歩くと汗が出る季節になった。
 今回は赤池から物見山方面に向かって(途中で通行止めになっていて引き返した)、湿地帯を通って三角点まで歩いた。往復で約3時間コースだ。こちらは花が多いポイントではないので、野草の収穫は少なかった。虫にはまだ早い。鳥は鳴き声は盛んにするものの生い茂る葉に隠れて姿は見えない。全体的に時期的がやや中途半端だった。もう少し早いか、5月に入ってからの方がよかった。
 そんなわけで、ギフチョウは撮れなかったけど、海上の森で撮ってきた写真を紹介したい。

 一枚目のクモは何クモだろう。かなり小さめで、1センチもなかった。クモを見分けることは最初からあきらめているから、勉強がちっとも進んでいない。世界では3万種、日本でも千種類以上いるというからお手上げだ。
 それでも、近くで見るときれいなものが多いから、被写体としてはなかなかフォトジェニックなやつなのだ。

海上の森4月-2

 この時期になるとこいつらの登場だ。森の中を歩いていると、脇でガサガサっと音がして、何かが逃げていく。ヘビかと一瞬焦って、たいていはトカゲだ。
 上の写真は体にツヤがあるからニホントカゲだと分かる。ツヤ消しはニホンカナヘビという違う種類なので一緒にしてはいけない。どっちもトカゲじゃんと言われればその通りなのだけど。
 子供の頃は通学路の途中でも普通にいたからよく捕まえた。最近は街中を歩いていてトカゲを見るなんてことはなくなった。彼らにとってみれば生息地が減ったことが不幸なのか、安全な野山で暮らすようになったことが幸せなのかはよく分からない。

海上の森4月-3

 このまま虫写真が続くと虫嫌いの人が逃げていきそうだから、ここで爽やか画像を挟んでおこう。暑いときに水が流れる写真を見ると、ほんのちょっと涼しくなるような気がする。気のせいでも気がすることが大事だ。
 森は木々と清らかな水が流れていてマイナスイオンに満ちている。

海上の森4月-4

 ふた月くらい前までは、森を支配する色は茶色だった。今は緑色が圧倒的に森を支配している。絶対君主のように。
 この増殖ぶりは恐怖を感じるほどで、地球も人間がちょっと隙を見せたらあっという間に緑に支配された星になる。人間が絶滅したら、緑の星になるのに100年もかからないだろう。

海上の森4月-5

 わー、この季節かと思って少しうんざりしてしまう。森歩き最大の敵は、疲れでも迷子でも怪我でもなく、このクモの巣なのだ。歩いていて10回も顔にクモの巣がかかると気が滅入ってくる。大きなものなら見えるからよけられるのだけど、1本、2本の線で張ってある場合は見えない。顔の前で手を左右にヒラヒラ振りながら、ずっと歩かなければいけなくなる。その姿は客観的に見ると、誰もいないのにいえいえそんなことありませんよと一人芝居をしているように見えることだろう。あいつ、どんだけ謙遜してるんだよと思われてしまう。
 このクモの巣の主は留守なのか不在なのか、たくさんの虫がかかってそのままになっていた。散った桜の花びらも。

海上の森4月-6

 トンボもそろそろ出始めた。このトンボはまだふ化してあまり日数が経っていないようだ。たぶん、シオヤトンボの若だと思う。カラーリングはメスだけど、成熟してみないと分からない。オスも若い頃はメスと同じような体色をしているから。成長すると灰色になっていく。
 今日見かけたトンボはこの1匹だけだった。仲間がいなくて寂しかったのか、私の体に二度もとまってきた。

海上の森4月-7

 チゴユリを海上の森で見つけたのは初めてだ。これまで豊田市自然観察の森などで何度か見ているけど、純野生のものを自分で発見すると、また喜びが違う。
 相変わらずうつむきがちなやつで、撮るのが大変だ。下からのぞき込むようにして撮らないと花の中が見えない。
 並んで咲いている様子が稚児行列のようだということで、稚児百合と名づけられた。

海上の森4月-8

 湿地帯ではハルリンドウがびっくりするくらいたくさん咲いていた。ほとんど毎年見に行ってるけど、あんなに咲いていたのは初めてだ。金属の道を作って湿地帯の中に入れないようにしたのが功を奏したようだ。
 つぼみもたくさんあって、あわせれば100以上だっただろう。あれだけ咲いていると壮観ではあるけど、ちょっとありがたみがないようにも思えた。
 ピンクのハルリンドウはあの場所じゃないのかもしれない。奥にある湿地帯なんだろうか。

海上の森4月-9

 春を過ぎると、声はすれども姿は見えずの野鳥たち。ホトトギスが盛んにさえずり、オオルリらしき鳴き声が聞こえたものの、撮る以前に姿を見つけることさえできない。
 そんな中、最後の最後にキビタキが近くにとまってサービスしてくれた。偉いぞ、ありがとう。前の木が邪魔だったけど下手に動くと飛ばれそうだから、この場所から撮らせてもらった。
 キビタキもいい声で鳴く。高く澄んだ鳴き声が初夏の森に響き渡っていた。
 夏鳥シーズンも、もう始まっているのだ。

海上の森4月-10

 誰が立てたのか、三角点で鯉のぼりが泳いでいて驚いた。でも、森に鯉のぼりって、意外と違和感がない。

海上の森4月-11

 見晴らしのいい場所が少ない海上の森の中で、おそらく三角点が最も視界が開けている場所だろう。物見山は木の障害物が多い。
 望遠レンズでのぞいたら、遠くに愛知環状鉄道の線路と山口駅が見えた。ちょうど電車が両方からやって来て、一緒に駅に止まって、一緒に出て行くところを見ることができた。本数の少ない路線だけに、貴重なシーンを撮ることができた。
 西向きだから、夕焼けと絡めれば面白い写真が撮れるかもしれない。

 ギフチョウは残念だったけど、その他のものがそこそこ撮れたから収穫はあった。写真はもう一回分残っている。
 今回は初めて赤池から奥に向かって歩いた。途中で通行止めになっていて物見山まで行けなかったものの、コースの新規開拓も今後のテーマだ。特に北部分をあまり歩いていないから、あちらも行かないと。
 海上の森はまだまだ奥が深い。今年もワンシーズンに1回くらいの間隔で通いたいと思っている。次は夏か。また蝉時雨を聞きに行こう。


一歩進んで二歩下がる更新は今更の感もある彦根城の桜風景
2008年04月22日 (火) | 編集 |
彦根城桜-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 ここのところ、更新内容が行きつ戻りつして飛びまくっているけど、今日はまた彦根城だ。松本城でさえすでに季節外れとなった桜なのに、写真では今頃彦根城の桜を出している。完全に季節感が狂っている。彦根に住んでいる人にとっても、桜はもうそそろ昔話になりつつある頃だろう。でも、せっかく撮ってきたから、やっぱり載せておきたい。
 残念ながら滋賀巡りは、彦根城あたりから曇り空になって光がなくなってしまった。写真も少しどんよりと暗く、桜の華やぎが足りない。もっと日差しがあれば、堀の映り込みもきれいだったろうに。
 けど、桜の色は名古屋と比べるとくすんでいるように見えた。それは必ずしも光の加減というだけではなく、白っぽい感じなのだ。土壌の性質の関係で関西のソメイヨシノは中部や関東よりも色が薄いという話を聞いたことがある。どの程度本当なんだろう。関西といってもその地域によって土壌は違うわけだから、一概には言えないと思うのだけど。
 そんなわけで今日は、彦根城周辺の桜風景を中心に、その他本編に入りきらなかった写真を集めて並べてみたい。

彦根城桜-2

 佐和口多聞櫓へ向かう堀沿いに大きな松の並木がある。彦根城名物の一つとなっている「いろは松」だ。
 2代藩主の井伊直孝が土佐から取り寄せて植えたと伝えられる松は、最初は47株あったので、いろは松と呼ばれている。土佐松が選ばれたのは、根が地上に出ない性質の松なので、人馬の往来の妨げにならないからということらしい。
 枯れたものや植え継ぎしたものが何本かあって、現在は34本になっている。

彦根城桜-3

 彦根城の隣に建っている神社は護国神社(滋賀県護國神社)で、彦根城とは関係ない。素通りするのも何だからということで一応寄って挨拶だけしてきた。みんなほとんど寄りつかず、しんとしていた。
 明治9年創建で、戊辰戦争から第二次大戦までの滋賀県出身の戦没者の霊(3万4千余)を祭神としている。

彦根城桜-4

 彦根駅前には馬に乗った彦根城初代藩主・井伊直政の像が建っている。井伊直政といえば徳川四天王の一人で、赤備えで有名だったのだから、像も朱塗りにしてしまったらよかったのに。その方が本物感も強まるし、よく目立っていい。
 足下には彦根城のミニチュア模型が。これはお菓子で作ってあるわけではない。

彦根城桜-5

 さすがに国宝だけあって、全国からバスに乗って団体さんがやって来る。シルバー世代が多いからバスガイドさんも大変だ。
 バスガイドというと、すごく昭和的なイメージがあるけど、昔も今も需要は変わっていないのかもしれない。ガイドさんなしという観光バスが増えたのにしても、観光名所でもまだまだたくさん見かける。修学旅行ではなくてはならない存在だろうし。
 町の路線バスでも昔はガイドさんというか車掌さんがいた。私の子供の頃はもういなくなっていたと思うけど、当時のバスはたいてい「ワンマンバス」と書かれていた。これは運転手一人のバスですよという意味だ。ワンマンプレーみたいなわがままな運転をするぞ宣言ではない。今の若い人は、ワンマンバスなんて言われても意味が分からないんじゃないだろうか。

彦根城桜-6

 城に桜に和服というのは最強の組み合わせだ。
 でも、いいポジションでは撮れなかった。何しろこの日は人が多かった。

彦根城桜-7

 天守閣よりの風景。連なる屋根瓦の感じにぐっとくる。こういう屋根を見ると駆け回りたくなるのは私だけではないだろう。天守閣の上を忍びの者が音もなく走り回るなんてことがかつては実際にあったのだろうか。

彦根城桜-8

 桜と彦根城天守閣。彦根城を格好良く撮るのは難しい。

彦根城桜-9

 西の丸の広場では桜がよく咲いていた。花見スポットとしては最適の場所だろうに、このときはそういう見物客はいなかった。みんなこちらまで回らずに、来た道を引き返してしまうのだろうか。

彦根城桜-10

 そういえば、西の丸の三重櫓を見逃した。浅井長政(あざい、と読んで欲しい)の小谷城の天守を移築したと言われている櫓だ。
 裏手から階段を下りて、楽々園と玄宮園の入り口だけ見て帰った。大名屋敷と庭園があるのだけど、今回は時間がなかった。日没前に長浜へ行かなくてはならなかったから。

彦根城桜-11

 梅は完全に終わっていたけど、この梅林はきれいだった。梅が満開のときはよさそうだ。昭和25年に植えられた紅白の梅600本が咲き誇るらしい。
 昔は、米を貯蔵しておくための蔵が17棟建っていた場所だ。

彦根城桜-12

 こちらの登城口・大手坂も雰囲気があっていい。
 大手橋から入った場合は、こちらから登っていくことになる。

彦根城桜-13

 大手橋と桜。
 彦根城には表門と大手門があって、普段は表門を表として、戦に備えるときは大手門を表としていたのではないかと考えられているそうだ。大手門は、かつて追手門と表記していたらしい。

 彦根城絡みの写真はこんなものだ。ようやく自分の中で一つ完結した。ただ、まだ彦根の町散策で撮った写真が残っているから、もう一回彦根編が続く。ここまで遅れてしまったら今更焦ってもしょうがないから、ゆっくり紹介していくことにしよう。他のネタを挟みつつ、まあぼちぼちと。


八丁味噌煮込みおでんを美味しいと思える愛知県民の幸せサンデー
2008年04月21日 (月) | 編集 |
カクキュー八丁味噌

Canon EOS 20D+EF 50mm f1.8 II



 この前、岡崎の八丁味噌蔵を見に行って以来、八丁味噌のことが気になっていた。味噌について調べて、ここに書いて、ますます思いが強くなり、とうとう入手してしまった、カクキューの八丁味噌。
 純豆味噌は上級者向けすぎるので、軟弱者と言われるかもしれないけど、赤出し味噌にしておいた。赤出しというのは、豆味噌に米味噌を加えてまろやかな味にした調合味噌のことで、これでずいぶん食べやすくなる。豆味噌はかなり渋みというか苦みが強いので、八丁味噌初心者向けではない。いきなりこれに挑んで八丁味噌が苦手になるのはもったいないので、最初は赤出しにしておくことをおすすめしたい。もしくは、手持ちの米味噌と合わせて使った方がいいと思う。
 今日はサンデー料理の日。ということは、当然の流れとして八丁味噌を使った料理になる。最初は基本の味噌汁と味噌田楽か味噌カツなんかにしようと思っていたのだけど、せっかくなのでもっとインパクトのある料理にした。それが下のものだ。

八丁味噌煮込みおでん

 決して泥水の中に浸かったおでんなどではない。これが八丁味噌の色だ。
 おそらく、赤味噌を使った名古屋メシの中で、県外人が最も拒絶反応を起こすのが、この味噌煮込みおでんなんじゃないだろうか。見た目がすごいことになっているから。
 けど、これが美味しいのだ。想像するような濃い味ではなく、コクがあるのに意外とあっさりしている。辛いのではなく、旨みが濃いのだ。美味しいというよりも旨いという字が当てはまる。
 味噌煮込みおでんは、あまり家庭では作らないので名古屋人でも食べる機会がめったにない人が多いと思う。私は、もう何年も前にどこかの店で一度食べただけだ。家で作ったことはない。名古屋のおでんが全部これなわけではなく、家庭では普通のおでんを作る。味噌はたれとして付けて食べるくらいだ。
 それでも、味噌煮込みおでんは名古屋名物の一つになっている。尾張地方よりも三河地方の方が一般的だろうか。あちらでは普通に家庭で作っているのかもしれない。
 京都人は見ただけで逃げていきそうだ。

 作り方としては特に変わった点はない。昆布とかつおだしをとって、そこに八丁味噌、みりん、酒、砂糖を加えて味噌ベースを作って、あとは下茹でした大根、ゆで卵、こんにゃく、はんぺん、ちくわ、焼き豆腐などを入れて煮込むだけだ。本来は牛すじを入れたかったところだけど、今の時期は売ってなかったので豚バラ肉で代用した。これでも充分美味しい。
 煮込み時間はじっくり2時間。時間に余裕があれば、だいたい出来上がったところでいったん火を止めて冷ましてからもう一度煮込むと更に美味しくなる。味は冷めていく過程で具に染みこむから。
 仕上げに七味唐辛子を加えると味のアクセントになる。

 これは後を引く味だ。写真を見てるとまた食べたくなる。やっぱり八丁味噌は美味しい。赤味噌でも他のものとは全然違う。味が深い。
 この味噌はこのまま他の料理にも応用できる。ダシで伸ばして味噌汁にしてもいいし、味噌を足してカツのたれを作ってもいい。うどんを入れればそのまま味噌煮込みうどんになる。料理屋でも、ベースの味噌に継ぎ足し、継ぎ足しでたれにしている。
 八丁味噌が手に入る人は、ぜひ作ってみて欲しい一品だ。

 残りの二品は付け足しだ。右奥が竹の子の唐揚げで、左がアメリカンドッグだ。
 ん? 夕飯にアメリカンドッグ? そう、ふいに食べたくなって作ってみた。
 アメリカンドッグというのは普段その存在をすっかり忘れていて、祭りの屋台や高速のサービスエリアで見かけるとふいに思い出すような食べ物だ。反射的に、あ、食べたい、と思う。
 今回急に食べたくなったのは、テレビに登場したからだった。それを買うためだけに高速を飛ばしてサービスエリアまで行くわけにはいかないから、いや、行ってもいいけどすごく高くつくから、家で作ることにした。そして、サンデー料理の一品にねじ込んだ。
 作り方は意外と簡単だ。ホットケーキミックスがあれば、牛乳で溶いてソーセージに絡めてあげるだけでできる。なければ、小麦粉でもできる。
 溶かしバターと薄力粉、砂糖、卵、牛乳で生地を作って、ソーセージを浸して揚げる。ベーキングパウダーやバニラエッセンスを加えてもいい。
 衣がすごく不格好になってしまったのは、分量を適当にしてしまって、牛乳を多くしすぎたからだ。けっこう固めの生地で作った方がいい。一度揚げでは衣が薄すぎたので、三度揚げにした。もっと上手にやればもっと美味しそうに見えたはずだ。
 アメリカンドッグは、ケチャップとマスタードがよく合う。味はソーセージで決まると言ってしまえばそれまでだけど、自分ちで作っても美味しいことが分かった。高速に乗って買いに行くまでもない。
 ただ、味噌煮込みおでんとは合わなかった。自己主張の強い日米が正面からぶつかって、大げんかになってしまった。竹の子が間を取りなそうとしたけど、そんなものはあっけなくはじき飛ばした。
 料理は組み合わせが大事だとあらためて思い知る。ステーキとラーメンと寿司を一度に食べたら美味しくない。

 今日のサンデー料理は特別編ということで、出来不出来という問題ではなかった。満足度は、八丁味噌の美味しさで満点だ。まだ残ってるから、別の料理にも使っていろいろ食べてみよう。一度は味噌汁を飲まないと。
 そうやって慣れたところで中上級者向けの純豆味噌にも挑戦してみたい。にぎりめしに味噌を塗って焼いたものを常時携帯するようになれば、私も八丁味噌上級者と認められるだろう。三河武士の心意気を見習いたい。


ほどよいことの居心地のよさを教えてくれた松本の街
2008年04月20日 (日) | 編集 |
松本街巡り-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 松本の観光名所といえば松本城、でももちろんそれが松本のすべてではない。松本城周辺を歩いて巡れば、松本の魅力と出会うことができる。
 今回は短時間の滞在ということで表面をなぞっただけになってしまったけど、私が見てきた松本の街を少し紹介したいと思う。

 まずは開智学校(かいちがっこう)から。
 松本市内の二大観光名所として、松本城とセットで見に行くという人も多いと思う。松本城からはゆっくり歩いて10分くらいだったか。駅からは少し遠いので、タウンスニーカーという巡回100円バスで松本城までは行った方がいいかもしれない。帰りは歩きで駅まで行ったらけっこう距離を感じた。車で訪れた場合は、開智学校の無料駐車場に車をとめて、松本城と両方見学するという手もある。
 開智学校は、日本における最初期の小学校の一つで、明治6年(1873年)に第一中学区第一番小学開智学校 として開校した。
 廃仏毀釈で廃寺となった全久院の建物を仮の校舎として始まり、明治9年に現在の新校舎が建てられた。
 建築費用は1万1,000円という当時では莫大な金額だったにもかかわらず、7割を松本町の住民の寄付金でまかなったという。それだけこの地方は教育に力を入れていたということであり、この学校は町の人の誇りでもあったろう。残りの3割は寺の古材などを売ったり、別のところの寄付に頼ったりして調達したそうだ。
 設計を担当したのは、松本の大工棟梁、立石清重だった。しかし、松本には西洋建築はなく、東京まで行って東京大学の前身である開成学校を参考に見よう見まねで設計したという。そのため、和洋折衷でちょっとへんてこりんな感じに仕上がった。自称日本通の外国人が自分の家に造った和風庭園みたいに。
 こういう建物を、擬洋風と呼んでいる。
 もともとはこの場所ではなく、市街地の女鳥羽川(めとばがわ)沿いに建っていた。
 明治、大正、昭和と、学校として使われ、昭和36年(1961年)には国の重要文化財にも指定された。
 昭和38年に河川改修のために校舎が現在の地に移され、昭和40年からは教育博物館として保存公開されている。
 入場料310円で校舎の中に入ることもできる。当時の教室がそのまま保存されていたり、筆記具や資料などが展示されているそうだ。
 我々は、松本城同様、ここにも遅刻して入れてもらえなかった。
 この学校には明治天皇も訪れているそうだ。

松本街巡り-2

 この角度の写真を見て、あれ、最近、これどこかで見たことあるぞと思った人は、ドラマ「有閑倶楽部」を観ていた人かもしれない。
 現在は玄関部分が大がかりな工事中で、これはちょっとがっかりだった。ここまで派手に足場を組まれてネットをかけられてしまうと、そこを外して写真を撮るなんてこともできない。趣も何もあったもんじゃない。
 2004年から2005年にかけて閉鎖して大がかりな改修工事をしていたはずで、もうすっかり大丈夫かと思ったら、また3年で問題が出てきたのだろうか。直したところとは別のところかもしれない。
 内部は通常通り公開されているはずなので、見学は問題ない。

 この建物の一番の特徴は、屋根の上に乗った八角形の塔だ。洋館といえば塔だと思ったのだろう。外国人が和式庭園といえば太鼓橋を思いつくようなものだ。でもこれ、ちょっと唐突な印象を受ける。
 塔の下には一転して和風の唐破風屋根が乗る。そこには飛んでいるエンゼルの姿が描かれ、その下には龍の彫刻が施されている。かなり思い切った組み合わせのデザインだ。
 唐破風屋根の露台は一見するとバルコニーのようでありながら人が立つスペースはない。ただの飾りだ。なんとなくそれっぽいから付けてみたのか、外に出られてしまうと子供が面白半分に出て危険だからあえて出られないようにしたのか。
 窓には輸入した高価な色ガラスなどが使われ、かつてはギヤマン校舎とも呼ばれていたそうだ。当時の人たちにとってはこの校舎は、なんとなくすごくモダンな感じがしたんじゃないだろうか。
 内部も様々な装飾や彫刻などがあって凝っているらしい。松本城の天守内部よりもこちらの方が面白そうだ。
 現存する古い校舎としては、佐久市の中込学校や伊豆松崎の岩科学校、愛媛の開明学校などがある。犬山の明治村には、明治16年に建てられた三重県蔵持小学校の古い校舎が移築展示されている。

松本街巡り-3

 開智学校と道一本隔てた左手には、旧司祭館が建っている。これも別の場所から移築してきたものだ。もともとは三の丸の大名屋敷跡の地蔵清水にあったもので、平成3年(1991年)の拡張工事のとき、ここに移されてきた。
 こちらは無料で内部を見学できる。ただし、時間は他と同じく4時半までだ。
 明治22年にフランス人のクレマン神父が、住居として自ら設計して地元大工によって建てられた西洋館で、長野県に現存する最古の西洋建築だ。移築されるまでは、松本カトリック教会司祭館として使われていた。
 西部開拓時代のアーリーアメリカン様式の建物で、基礎にレンガを積んで、外壁はペンキを塗った下見板張になっている。
 ほぼ正方形のような形で、どこが入り口なのかよく分からない。たぶん、写真の角度がそうなのだろうけど、短い階段があって、踊り場もなくいきなりドアというのも不思議な感じがする。窓も大きくて多い。明治の大工さんにしてみたら、異人さんは変わった家に住むもんだと思ったかもしれない。
 各部屋には暖炉があるという。フランス人には松本の冬の寒さはこたえたのだろう。

松本街巡り-4

 松本はやはり空気が澄んでいるのか、CanonのEOS 20Dとは思えないほど深い青が出た。順光で、光の加減が最高だった。

松本街巡り-5

 こちらは現在の開智小学校。旧開智学校をかなり意識しているのが分かる。
 なかなかしゃれたデザインの校舎だけど、50年後、100年後に今の開智学校ほどの価値を持つようになるとは思えない。
 今私たちが感じる明治の建物に対する独特のノスタルジーというのは何なんだろう。日本人の建築デザインセンスは、この100年で退化してしまっている部分があるような気がしてならない。

松本街巡り-6

 松本でも安曇野でも丸ポストを見た。このあたりの風景にはよく似合う。
 となりの煙草屋も昭和の風情だ。こんなところにタスポなんていう無粋なものが似合うはずもない。

松本街巡り-7

 松本城の北に松本神社というのがあったので寄っていくことにした。どこへ行ってもその土地の神社に挨拶をしておくことは大切なことだ。せっかく縁あってその土地を訪れているのだから、そこの神様と縁を結んでおかない手はない。素通りしてしまうのはもったいない話だ。
 前身は郷土の発展と縁結びの神様の暘谷大神社(ようこくだいじんじゃ)で、松本城主・松平康長と松姫の子虎松を祀った神社だった(1636年)。
 その後、松本城主・一色義遠を祀った片宮八幡宮、戸田宗光の今宮八幡宮、松平康長の共武大神社、松姫の淑慎大神社、島立貞永の若宮八幡宮を合祀して、松本神社となった(1953年)。
 地元では五社(ごしゃ)さんと呼ばれているそうだけど、合体しているのは6社だ。本体プラス5社ということか。
 いずれにしても、祀られているのは、神様というより松本城絡みの人間様だ。松本城内にあってもいいような神社だ。

松本街巡り-8

 松本神社の御神木である三本の欅(ケヤキ)が境内の外に出ている。歩道と中央分離帯を作って、なんとか残した姿勢をたたえたい。昔はここも境内の中だったのだろう。

松本街巡り-9

 これもたまたま前を通りかかった四柱神社(よはしらじんじゃ)だ。どういう由緒の神社か知らず、外から挨拶するだけにとどめてしまった。祭神が天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、天照大神(あまてらすおおかみ)と知っていれば、中まで行っていたのに。神様とも一期一会を大切にしなければいけないとあらためて思った。
 明治政府の神仏分離令を受けて、明治7年に神道を広めるために建てた神道中教院が前身だった。地元の人は「しんとう(神道)さん」と呼ぶらしい。
 明治12年に現在の位置に四柱神社として社殿が建てられ、明治天皇も訪れてたそうだ。
 明治21年に松本大火で社殿を焼失。現在のものは大正13年に再建されたものだ。

松本街巡り-10

 松本市街地観光としては、二つの特徴的な通りがある。一つが上の写真の縄手通りで、もう一つが中町通りだ。
 女鳥羽川沿いに並ぶ露天街は、常設の露店としては長さ日本一なんだとか。
 縄手(なわて)の名前の由来は、松本城の外堀と女鳥羽川に挟まれた真っ直ぐの細い道だったからとか、お縄になった罪人が通る道だったからとか、いろいろな説があってはっきりしていない。
 露店街として発展していったのは戦後で、大陸からの引揚者がここで露店を並べていたことが始まりだそうだ。
 2001年に全面改装されて、現在は昔の風情を残した観光地となっている。
 この通りのシンボルはカエルで、入り口にはカエル侍の像があった。中程にはカエル大名神が祀られている。
 昔から歩行者天国で、無事に帰るところからカエルの街になったんだとか。かえる祭りというのも行われていて、全国からカエル好きが集まってくるらしい。カエル好きって、そんなにいたんだ。

松本街巡り-11

 縄手通りのすぐ裏手に女鳥羽川が流れている。市の中心を流れているこの川は、松本っ子には馴染み深い川なんだそうだ。
 ドラマ「白線流し」も、このあたりがよくロケ地として使われていた。実際に白線流しをしたのは、少し離れた薄川(すすきがわ)だったのだけど。
 なかなかきれいな川で、上流にはイワナがいて、中流ではヤマメやホタルもいるらしい。
 市街地はやや汚れているようだけど、これでも最近ずいぶんきれいになったんだとか。

松本街巡り-12

 川を越えて、中町通りへと入ってきた。
 なまこ壁と呼ばれる白と黒の壁が特徴的な土蔵造りの町並が残っている。
 写真の中町・蔵シック館は、蔵の街の拠点として、平成8年にの場所に移築されてきた。もともとは宮村町にあった大禮酒造(たいれいしゅぞう)で、母屋と蔵と離れの3棟を改修して移築したものだ。建てられたのは明治21年、土蔵造りとしては初期のものとされている。
 現在は一階は喫茶や休憩室になっていて、二階は展覧会や公演などに使われている。

 中町は、かつての旧善光寺街道沿いで、本町・東町と共に商店街として賑わったところだった。
 しかし、明治21年に極楽寺から出た大火によって1,500戸もの民家が焼けてしまう。その後、家を火災から守るために、火に強いなまこ壁の土蔵に建て替えられることとなり、その名残が現在へと続いている。
 本町通りや大名町通りが開発でかつての面影を失う中、中町ははずれだったために昔の姿をとどめることになった。当時の蔵は90棟ほど残っているそうだ。
 中町がいいのは、電柱を地下に埋めているところだ。これでずいぶん印象が違ってくる。

松本街巡り-13

 これまた古いたたずまいの店だ。伊原漆器専門店。明治40年の創業以来、漆一筋100年。商売にブレがない。

松本街巡り-14

 わっ、なんだあれ、と人目を引く天守の姿をしている店舗。どうやら古本屋らしい。
 看板の名前が読めなくて、帰ってきてから調べたら、青翰堂(せいかんどう)という有名な古書店だったらしい。
 なんでも、昭和の大改修のとき、松本城が見られない観光客が気の毒だということで、松本城の天守を模して改築したんだそうだ。なかなかやる。城型のレストランみたいな安っぽさがなくて、けっこう本物感がある。

 松本の街のよさは、ほどよい加減にあると見た。威張るでもなく、必死すぎず、わざとらしくなくて、さりげない。古くてよいものは残し、かといって過去の遺産にしがみついているわけでもなく、観光地と暮らすための街とのバランスが上手く取れているように見える。駅前にはちゃんとパルコだってある。ひなびていないし、うるさすぎることもなく、なんというかちょうど心地いい感じなのだ。街に落ち着きと品がある。松本城を世界遺産なんかにしたら一気にバランスが崩れてしまうから、松本は今くらいでちょうどいいんじゃないかと思うけどどうだろう。
 松本なんて松本城くらいしか見るものがないじゃないかなんて言わず、ぜひ一度松本を訪れてみて欲しい。街を歩いてみれば、魅力をたくさん発見することになるから。私もいくつか忘れ物をしてきたから、もう一度訪れる機会があることを願っている。


家康と秀吉の間で揺れる想いの数正が建てた松本城は傾いて戻った
2008年04月19日 (土) | 編集 |
松本城-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 昨日の彦根城に続いて、国宝つながりで今日は松本城について書きたい。
 松本・安曇野へ行ったのは4月の6日で、先に安曇野へ行ったら松本城に登城する時間がなくなって、天守には登っていない。めったに行ける場所ではないので残念ではあったのだけど、安曇野を堪能できたからよしとする。外からの写真はたくさん撮ったので、いろんな角度の写真を並べつつ、松本城について書いていこうと思う。
 昨日も書いたように、国宝に指定されている4つの天守のうちの一つで、その中でも最も古いのがこの松本城の天守だ。1594年というから、まだ豊臣秀吉政権の時代で、家康が江戸幕府を開く以前のことだ。

 話は戦国時代はじめにさかのぼる。信濃の守護・小笠原氏の居城である林城を囲むようにいくつかの支城が建てられ、その中の一つで前面を固めるために造られたのが深志城だった。松本城の始まりは、地方の小さな支城にすぎなかった。
 その後、甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い落として、この地を治めることになる。その際、信玄は林城ではなく、深志城を信濃攻略の拠点に選んだ。信玄特有の勘が働いたのだろうか。
 1573年、信玄死去に続き、1575年の長篠の戦いで勝頼率いる武田軍が敗北。1582年、織田信長の侵攻により武田家滅亡。
 同じく1582年、本能寺の変。武田家なきあと家康の配下となった小笠原長時の嫡男・小笠原貞慶が混乱に乗じて深志城を奪還。城は再び小笠原氏の居城となり、名前を松本城とあらためた。
 1590年、小田原の北条氏直を破った秀吉が天下統一。家康を関東に移封。このときの城主・小笠原秀政が家康に従って下総へ移ると、代わって石川数正が10万石で移ってきた。

 さて、ここからが松本城物語本編の始まりだ。
 石川数正といえば、代々松平家(のちの徳川家)に仕えた有力家臣で、家康が幼少時代に今川家に人質になっていたときも一緒だった側近中の側近だ。戦でも数々の戦功をたて、文官としても有能で、家康と秀吉の外交担当でもあった。酒井忠次と共に家康の右腕だった石川数正が突如裏切って秀吉の元に走ったのだから、家康の驚きは大変なものだっただろう。
 数正が家康を裏切った理由はよく分かっていない。家康の命で秀吉と交渉するうちに秀吉の魅力に取り込まれたとか、家康の嫡男・信康の後見人を務めていて信長の命令で家康が信康を切腹させたことで不仲になったなど、いろいろなことが言われている。秀吉の力量を認めた数正が家康にあまりにもしつこく和睦をすすめるものだから、秀吉のスパイと疑われてだんだん立場が悪くなり、秀吉側につかざるを得なくなったという説もある。
 頑なに秀吉の配下となることを拒んでいた家康にとって、精神的なショックよりも現実的な痛手が大きかった。徳川家の軍事に関しても数正は内情をすべて知っているので、軍備を一から再編成しなくてはならなくなった。ただ、このとき採用したのが当時最強といわれた武田軍のものだったから、徳川軍団は更に強くなった可能性がある。もし、数正の出奔がなければ関ヶ原の合戦にも何らかの影響が出ていたかもしれないというのは考えすぎだろうか。
 こうして秀吉の家臣として取り立てられた数正は松本城に入り、小さな支城に過ぎなかった松本城を家康に対する備えとして、戦うための城に建て替えることになる。戦国時代としては珍しく平城なのは、鉄砲戦を想定したものだった。秀吉の後ろ盾を得て、数正は家康を迎える気満々だっただろう。
 しかし、家康も黙ってはいなかった。数正は裏切ったのではなく、自分が秀吉の元に送って内通させているのだという噂を流した。秀吉がどの程度真に受けたかは分からないけど、その後数正は徐々に豊臣家でも発言権を失っていき、しまいには邸に閉じこもって出てこなくなってしまった。
 結局、2年後の1592年に、秀吉の朝鮮出兵命令に従って出陣した先の肥前名護屋城で失意の内に死去してしまう。新生松本城の完成をついに見ることはなかった。
 その後松本城は、嫡男康長が父の遺志を受け継ぎ、1594年に完成させた。最終的な天守の完成は1597年頃と言われている。

松本城-2

 どの角度から見ても松本城の天守は美しい。端正で、ほどよい重量感があって、凛としている。優美で華麗な姫路城もよかったけど、松本城も双璧だ。
 白鷺城(はくろじょう)と呼ばれた姫路城に対して、黒い松本城は烏城(からすじょう)と称されている。
 ところで、黒い天守と白い天守は、豊臣方と徳川方だと思っていたら、そんな単純な話ではなかった。
 白壁は漆喰なわけだけど、主な理由として、維持費の問題だったようなのだ。お金をかける城は漆喰で白壁にして、お金をかけないときは黒板にしたというのが現実的な事情だったらしい。漆喰は10年ほどしか持たないため、お金も手間もかかった。
 徳川家の居城である江戸城も、建てられたときは漆喰で白壁だったものが、10年もしないうちに漆喰がはがれてきて、塗り直すことなく黒壁になっていたというし、逆に豊臣方の聚楽第や伏見城は白壁だった。家康が隠居後にすんでいた駿府城も黒板の天守だったというから、黒城イコール豊臣方というわけではないことになる。
 大阪城が黒板と黒漆喰だったので、豊臣は黒城というイメージが定着したのだろう。たまたま、豊臣方の松本城や熊本城も黒城だったということもある。
 黒板の外壁は、下見板張りと呼ばれるもので、当時は板に炭と渋柿を混ぜた塗料を塗って黒くしていたそうだ。この板張りなら60年持つという。
 戦国時代は城を華麗に飾っている余裕もなく、江戸時代に入ってからの城は見た目の美しさも重視して白漆喰の城が多く建てられたということだろう。

松本城-4

 西日を浴びて金黒色に光る松本城。黒城自体見るのが初めてだったから、こういう風情も新鮮に映った。
 大天守は5重6階で、乾小天守を渡櫓で連結して、辰巳附櫓、月見櫓を持つ連結複合式天守となっている。
 戦があった時代に造られた城ということで、窓が少なく、鉄砲を撃つ穴や石落としのための穴が多数開けられている。
 ただ、現在のスタイルは江戸時代になってから改築されたもので、創建当時は少し違っていたらしい。月見櫓などを増築した松平氏によって今のような姿になったようだ。

松本城-5

 平城ながら高さ30メートル近くある松本城は、離れたところからもよく見える。
 松本市はこの周辺のビルに高さ規制をかけているようで、周りに高い建物がないのもいい。北アルプスを背に悠然と建つ天守閣というのも、松本城ならではだ。
 しかしこの松本城、明治時代になると大きく傾いた。明治に撮られた古い写真を見ると笑える。ピサの斜塔もびっくりというくらい傾いていて、今にも倒れてきそうなのだ。
 もともとこのあたりは沼地で、地中に埋め込まれた柱が老朽化して沈み込むという欠陥住宅のようなことになって傾いてしまった。
 このままでは本当に倒れてしまうんじゃないかと心配した市民が立ち上がり、明治36年から大正2年までの10年間をかけて大修理が行われた。
 傾いた城といえば、姫路城を思い出す。大工の責任者だった源兵衛は、天守がどうにも少し傾いている気がして妻に傾いてるように見えないかと訊ねる。確かに傾いているような気がすると言われて、自分の設計が間違っていたと思ってノミをくわえたまま天守から飛び降りたのだった。実際は、土台の石が重みで沈んでしまって傾いただけだということがあとになって分かった。
 城というのは、いろんなところで人の人生を大きく左右させ、ときに狂わせる。

松本城-7

 戦国時代の城らしく、石垣は野面石による空積みで、直線的だ。この方が頑丈だから。優美な曲線を持った城が誕生するのは、平和な江戸時代に入ってからのことだ。
 考えてみると、戦国時代まっただ中に建てられた城というのは、見せるためのものではなく、実用本位なわけで、見た目よりも守りの堅さ重視だった。安土城にしても、私たちが思っているほど優雅なものではなく、実はけっこう無骨な城だったのかもしれない。
 天守は籠城戦のときに使われるもので、普段使いではない。結果的に美しいと感じさせるのは、機能美が持つ美しさなのだろう。そこに日本人の美意識が共感するのだ。

松本城-9

 黒門が有料ゾーンへの入り口になる。夕方の4時半が入城の最終だったので、間に合わなかった。
 この枡形の黒門は、昭和35年(1960年)に復元されたものだ。
 松本城は残念ながら、天守以外の本丸御殿や二の丸御殿などは残っていない。本丸御殿は、1727年に火事で焼けて、お金がなくて再建されなかった。
 堀も内堀と外堀の一部が残るだけで、敷地としてはかなり縮小されている。このあたりが姫路城との決定的な差で、あちらは世界遺産になってここはなっていない要因だ。
 国宝の松本城と彦根城を回ってみて、あらためて姫路城の素晴らしさを再認識した。あそこは奇跡的な残り方をしている。

松本城-10

 太鼓門は、言っちゃなんだけどピカピカでなんとも軽い印象だった。平成11年(1999年)に復元されたものだから、まだまだ新しすぎる。
 でも、これは石垣から組み直して苦労して再現したもののようなので、悪く言っては申し訳ない。できたての城なんて、昔もこんなふうだったかもしれないのだ。あと30年くらいすればそれなりに貫禄も出てくるだろう。

松本城-8

 数正の嫡男・石川康長以降の松本城の歴史について少し書き加えておこう。
 1613年、康長は大久保長安の事件(幕府の金を使い込んだ疑惑)に連座した疑いを持たれて、九州豊後に流されてしまう。
 かわって小笠原秀政が再び松本城主に戻るものの大阪夏の陣で戦死。二代の忠真は播磨明石へ移封。
 その後、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏とめまぐるしく交替したのち、水野忠恒が江戸城内で刃傷事件を起こして改易。松本城はしばらく幕府直轄となった。
 ようやく落ち着いたのは、1725年に戸田光慈が志摩鳥羽から6万石で入城してからだ。以降、戸田氏9代が城を守り、明治維新を迎える。
 廃藩置県で廃城の危機を迎えるも、地元の有力者が買い上げてなんとか難を逃れる。
 昭和11年(1936年)、国宝指定。現在は、世界遺産登録に向けての活動が続けられている。

 天守に登らなかったのに、松本城については書ききってしまった感がある。書くまではちょっと悔いも残っていたのだけど、書いたらすっきりしてしまって、もう行かなくてもいいかという気になった。もう一度行って天守まで登ってもこれ以上書くことがあまりない。何かのついでがあって近くを通りかかったら寄ってもいいかなくらいの気持ちだ。雷鳥の里を買いに行くためだけにはちょっと遠すぎる。
 これで国宝4天守はすべて行って、書いた。天守はないものの二の丸御殿が国宝になっている京都の二条城もあるけど、あそこは3度行っている。次なる目標は、現存12天守の制覇ということになるだろう。中国、四国地方に集中しているから、行くならまとめて行くしかない。1泊2日の強行軍で回りきれるものなんだろうか。せめて2泊はしないと無理か。もう一つ離れたところにある弘前城は、ぜひ桜の季節に訪れたい。
 城とは別に、国宝建築物シリーズというのも継続中だ。最近では、愛知県吉良町の金蓮寺を紹介した。岐阜県多治見の虎渓山永保寺もそうだ。近場でいくと、長野の善光寺をはじめとして数ヶ所、滋賀県もたくさんあるので、そのあたりも機会があれば行きたいと思っている。
 今年の一つの目標として、京都行きがある。東京、鎌倉、奈良、滋賀と来たら、次は本命の京の都だろう。以前に何度か行っているけど、このブログではまだ一度も登場していない。一日回ればネタもしっかり集まるだろうから、ネタ切れになったら行こう。たぶん、秋くらいに。


寄せて集めて20年、彦根城って一体なんだったんだろうとちょっと思う
2008年04月18日 (金) | 編集 |
彦根城-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 今日ふと桜並木を見たら、若葉を青々と茂らせるまったく別の木のようになっていた。ついこの間まで満開の花をつけていた桜の木は、10日もしたらもう次の季節に移行している。なんて変わり身の早さ。季節の移ろいの速度にあらためて驚かされる。
 季節は前へ進んでいるけど、話は少し前に戻したい。今日は滋賀巡りの3番目に行った彦根城について書きたいと思う。
 現存する12天守のうち、国宝に指定されているのは4つ。姫路城、松本城、犬山城、そして彦根城だ。このブログでは、姫路城と犬山城についてはすでに書いた。松本城もこの前外観だけは撮ってきたから、近いうちに書くつもりでいる。
 現存12天守は、北から弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知となる。明治維新で多くが取り壊されて、第二次大戦の空襲が追い打ちをかけた。
 個人的には彦根城の訪問はこれが二度目となる。小学生のとき両親に連れて行ってもらったことをうっすらと覚えている。ただ、城少年ではなかった小学生の私にとっては決して楽しい思い出の場所というのではなく、むしろ一緒の日に回った近くの醒ヶ井のマス釣りの方が印象深い。
 今でも城野郎になったとは思ってないけど、このブログの城コレクションがだんだん充実していっているのは確かだ。今日の彦根城で国宝コンプリートに近づくことになる。

 JR彦根駅から彦根城まではのんびり歩いて10分くらいだから、歩いている人がけっこういた。この日は桜がほぼ見頃ということで、平日にもかかわらず大勢の観光客が訪れていた。
 彦根城は去年、築城400年祭で、史上2番目の入場者数だったそうだ。話題になったマスコットキャラクターのひこにゃんが集客に一役買ったとか買わなかったとか。城に興味のないちびっ子もひこにゃん見たさに彦根城へ行ったとしたら、ひこにゃん大活躍ということになる。この日は姿を見せなかった。ひこにゃん、見たかったのに。バイトの学生でいいんだから、毎日城の中をうろつかせておかないと。
 入り口はいくつかある。駅から普通に行くと、自然と二の丸佐和口多聞櫓に着く。上の写真がそうで、堀はかつての中堀で現在は外堀ということになる。このあたりも当時の姿をかなり残している。
 佐和口門という櫓門はすでにないものの、佐和口多聞櫓が現存しており、国の重要文化財に指定されている。
 堀には水戸市から贈られたというコクチョウが泳いでいた。そういえば姫路城もコクチョウだった。名古屋城などはハクチョウだ。
 彦根城といえばこの地方の桜の名所としても知られている。昔から城と桜はセットだったわけではなく、たいていは戦後だったり昭和のはじめ頃に植えられたものだ。戦国時代にのんきに桜を植えて花見をしてる余裕はなかっただろうし、江戸時代にしてもお殿様のお城に庶民が入れるはずもなく、大名の間でもそういう発想はなかったらしい。
 彦根城の場合は、昭和のはじめに市民運動で桜が植えられた。今では城内に1,200本まで増えて、城内のあちこちがピンクの彩りを添える。

彦根城-2

 彦根城は琵琶湖にほど近い彦根山の上に建っている。当時はもっと近くまで琵琶湖の湖岸が来ていたようだ。
 彦根城の別名「金亀城(こんきじょう)」は、平安時代にあった彦根寺に金の亀に乗った観音様が祀られていて、金亀山と呼ばれていたところから来ている。
 標高136メートルだからそんなに高い山ではないとはいえ、天守閣へは登りの道を歩くことになる。年配の方はちょっと大変だ。私も安土城のダメージを引きずっていたので、けっこうしんどく感じた。この頃になるとだいぶ疲れの感覚が麻痺していた頃ではあるのだけど。
 現在でもかなりの部分の遺構が残されているとはいえ、かつては全体の規模が姫路城くらいあったそうだ。今でもそれくらい残っていたら間違いなく世界遺産になっていただろう。1992年(平成4年)に暫定リストに載ったとはいえ、やや決定打に欠けるか。世界遺産になるとたちまち外国人観光客が押し寄せるから、必ずしもいいことばかりではないようにも思う。世界遺産というのは絶対的なお墨付きだけに、国外にも強い影響力を持つ。

彦根城-3

 ここはテレビでもよく見かける場所だ。自分が訪れたときの遠い記憶が、ここへ来てようやくよみがえった。そうそう、ここ来た、来たと思う。時代劇でもお馴染みだ。
 廊下橋と天秤櫓があるこの場所が、彦根城の最初のクライマックスと言える。

彦根城-4

 ぐるりと回り込んで廊下橋の手前にやって来た。奥に見ているのが天秤櫓だ。
 天秤櫓は長浜城の大手門を移築したものだと言われている。これも重要文化財。
 多聞の左右に2層2階の隅櫓があって、天秤ばかりのような格好をしてるところから名づけられた。

彦根城-5

 まだそう簡単に天守には辿り着けない。次に出迎えるのは、佐和山城の城門を移築したとされる太鼓門櫓だ。これも重文指定。

彦根城-6

 ああ、来たなここと、鮮やかに記憶がよみがえる。運動場の隅にポツンと建つようなこの感じが彦根城だ。思い出した、思い出した。この前で家族写真も撮ったんだった。

 徳川四天王と呼ばれた猛将の一人、井伊直政は、関ヶ原の合戦ののち、家康に18万石を与えられて西軍大将・石田三成の居城だった佐和山城に入城した。1601年のことだ。
 佐和山城は、彦根城から見て1キロちょっと東にいった山の中にあった。本来ならここの城主におさまるはずだった井伊直政は、この城を嫌い、琵琶湖に近い西側に新しい城を築くことにする。佐和山城は交通の要所からはずれているからとか、敗北の敵大将の城で荒れ果てていたからとか、敵勢力の痕跡を消すためだったとか、いろいろな理由があった。いまだ大阪に健在の豊臣方に対する備えと威圧という意味からも、あたらな城を築く必要があったとも言われている。
 佐和山城自体は名城として名が通った城だったから、壊す必要はなかった。「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われていたくらいだ。
 当初、井伊直政は湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に新しい城を築くことを計画していた。しかし、関ヶ原で受けた鉄砲傷が治らず、計画が進まないまま1602年に死去してしまう。41歳だった。
 家督を継いだ直継(のちの直勝)がまだ幼かったため、家臣たちが遺志をついで城が建てられることになる。再検討した結果、場所は彦根山が最適だろうということになった。
 翌1603年に築城が始まり、天守は大津城から移築してきたため2年ほどで完成した。移築の際に、もともと4層だったものを3層に縮小したため、下半身の優美なラインが失われてずんどうな格好になってしまった。
 その後も造営は続き、彦根藩のみならず、家康の命令で全国12の大名も手伝わされることとなり、天下普請となっていった。大阪城に対する重要防衛拠点という位置づけだったのだろう。
 1606年までに二期の工事が終わり、天守に直継が入城したあとは彦根藩単独となりなりながら、最終的には20年の歳月をかけて1622年にようやく完成をみたのだった。藩主は三代目の直孝に代替わりし、気づけば大阪夏の陣も1615年に終わって、豊臣家は滅びたあとだった。当初の目的はどこかへいってしまっていた。
 井伊家は加増を重ね、1633年には譜代大名では筆頭の35万石となった。
 彦根城のユニークなところは、初代藩主から明治維新の14代藩主まで、一度の領主替えもなかったという点だ。こういうことはめったにない。
 13代藩主があの桜田門外の変で討たれた大老・井伊直弼だ。井伊直弼が藩主になるまでの不遇の時代を過ごした屋敷が埋木舎(うもれぎのや)として今も残っている。
 彦根城のもう一つの特徴として、リサイクルの城だったということもある。いろんな櫓をあちこちから持ってきて、天守まで他の城から移してしまうなんてのも珍しい。西ノ丸三重櫓は小谷城の天守だし、石垣は安土城の石垣から持ってきた。だから、寄せ集めの城なんて言われ方もする。
 明治維新の際にこの城が取り壊されなかったのは、明治天皇が彦根を通ったときにその姿を見て保存するように命じたからとか、大隈重信の助言によるものなどとされている。第二次大戦でも焼けなかったのは幸いだった。

彦根城-7

 天守に入るのに入城制限がかかって、まさかの20分待ちとなった。そんなこともあるんだ。桜の季節の週末は1、2時間待ちということもあるらしい。
 やることがないので桜と天守の写真でも撮ってみる。右後方のはるか遠くに佐和山城が建っていた山も見えた。敗軍の将の城が残っているはずもなく、現在はわずかに遺構が残るのみで、訪れる人も少ない。勝てば官軍負ければ賊軍というのが歴史だ。

彦根城-8

 懐かしい昭和ムードたっぷりのおみやげ物屋さんもあった。
 昔、ここでペナントを買ったかもしれない。ミニチュアの城は持っていた記憶がないから、買ったとすればキーホルダーかペナントだっただろう。

彦根城-9

 戦に備えての城とはいえ、関ヶ原以降に立てられた城だから、当然戦の舞台にはなっていない。籠城戦などはあまり想定していなかったんじゃないか。
 天守はどこのものも一番上は狭くて、生活するような空間ではない。実際、政務などは下の御殿で行われていたようだ。
 天守に登って何があるというわけではないけど、せっかく来たらここまで見ておかないと行った気になれないというのが人情だ。行って何もないことを確認すればそれで気が済む。
 それにしても階段が恐ろしく急だ。ほとんど垂直に近い。

彦根城-10

 これまでに何度か修理や改装はあったのだろうけど、天守の内部などはほとんど当時の姿そのままなんじゃないだろうか。
 金網などという無粋なものも一部付けられているものの、純木製の造りは歴史の重みを感じさせる。
 人が多くてざわめきに空気は乱されていたけど、ひとけのない夜に一人でここに登ったらさぞかし恐そうだ。
 ここは城主の多くが若死にしている城でもある。

彦根城-11

 天守からの眺めは花盛りだった。向こうに見えているのが琵琶湖だ。昔はもっと近かったのだろう。

彦根城-12

 彦根城の天守は、あまりフォトジェニックとは言えない。姫路城のような優美さがなく、本丸に行ったときに真正面から見ることになるので損をしているところがある。城はやはり、斜めからの角度が美しい。

彦根城-13

 帰りは裏の黒門から庭園の玄宮園・楽々園を通って帰った。かなり大回りで相当歩くことになった。
 写真は大手橋で、こちらも桜がよく咲いていてなかなかよかった。

 彦根城とその周辺の写真がまだだいぶ残っているので、近いうちに彦根第二弾として紹介する予定だ。彦根城の総括もそのときでいいだろう。
 ひこにゃんのライバル、しまさこにゃんと、いしだみつにゃんについてもそのとき書こう。


自分がすっきりするために花の勉強をして覚えて軽く受け流したいのだ
2008年04月17日 (木) | 編集 |
森林公園の花2-1

PENTAX K100D+smc Takumar 50mm f1.4 + Close-up No.5 /smc Takumar 135mm f2.5



 今日は昨日の続きで、森林公園の花アップ写真第二弾になる。今回は木に咲く花を中心に集めてみた。木の花は地面の野草以上に手強いので、最初から半分あきらめている。木の花まで全部覚えようとすると収拾がつかなくなる。似たものもけっこうあって、数が多い。野草の場合は同じものをあちこちで見る機会があるのに対して、木の花は単発だから反復記憶ができない苦しさがある。一度読んだ本の内容を全部覚えられる人の脳ならいざ知らず、私の脳はそんなふうにはできていない。
 最初から言い訳がましくなったけど、とにかく見切り発車で出発して、分かる範囲で書いていこうと思う。私が分からないものに関しては各自の宿題とします。明日までに調べてくるよーに。

 一枚目は、たぶん、コバノガマズミでいいんじゃないかと思う。これより葉が大きいガマズミという可能性がなくはないけど、一応コバノガマズミということにしておく。コバノガマズミは春の花で、ガマズミは初夏の花という違いがあるから、4月に見たらたぶんコバノガマズミだろう。
 花と葉っぱだけを見るとアズキナシにも似ているものの、あれは高い木だから違う。他にもこういう白くてコチョコチョっとした花はたくさんあるから、花の姿だけで覚えていると見分けがつかなくなる。
 コバノガマズミの分布は関東より西というから、東北地方の人には馴染みがないのかもしれない。狭い日本でも、気候が違えば咲く時期だけでなく花の種類そのものが違ってくる。当たり前だけど、考えると不思議な気もする。ガマズミは日本全国に分布するというから、面白い。
 ガマズミは莢迷という字を当てるのだけど、名前の由来はよく分かっていないらしい。赤い実を神棚や仏壇への供え物にしたから神つ実でそれがなまったものとか、赤編に赤という字で「かが」と読んでかが之実でガマズミになったとか、いろいろな説がある。

森林公園の花2-2

 ツツジもまた頭が痛い花だ。ツツジはツツジだろうと普通の人は言うだろうけど、ツツジを甘く見てはいけない。日本には50種類からのツツジがあって、園芸種は2,000種類以上もある奥深い花なのだ。
 シャクナゲもツツジの一種だし、サツキもツツジだ。もうその時点で逃げ出したくなる。まずはヤマツツジとミツバツツジとに分かれ、サツキはヤマツツジの中の一種になる。ヤマツツジにはモチツツジ、コメツツジがあって、さらにその先に種類が分かれている。ね、絶望的でしょ?
 とりあえず覚えておくこととしては、落葉樹がツツジで、常緑樹がシャクナゲということだ。あとは、ヤマツツジとミツバツツジとに大きく分けられるということくらいまでは押さえておきたい。その先はマニアの世界だ。踏み込むなら覚悟がいる。
 園芸種の代表的なものとしては、キリシマツツジとか曙とかがあって、知らない間にどこかで見ている人も多いと思う。
 上の写真はコバノミツバツツジだ。小さい葉っぱのミツバツツジということで、当然のことながら普通のミツバツツジもある。違いは葉の大きさというか小ささだ。並べてもらえば分かるけど、それぞれ単独だとよく分からない。
 山や雑木林のようなところでたくさん咲いているのは、たいていコバノミツバツツジだ。
 分布は静岡より西ということだから関東ではまったく見かけないのだろうか。

森林公園の花2-3

 レンギョウは丈夫で育てやすいので、街路樹として植えられていることが多い。この時期鮮やかなこの黄色をよく目にする。公園や民家の庭先にも植えられている。
 一般的には鮮やかな黄色のチョウセンレンギョウが多い。レモンイエローのようなレンギョウは、シナレンギョウだ。他にも数種類ある。
 原産は中国で、日本には平安時代にはもう来ていたという。
 漢字で書くと連翹で、これを音読みしてレンギョウとしたのだけど、本来この字はトモエソウやオトギリソウのことを指す言葉だった。日本で間違われて使われて、以来そのままになってしまった。
 高村光太郎がこの花が好きだったというのはちょっと意外だ。光太郎の命日を連翹忌というのはそのためだ。太宰治は桃の花が好きだったから桜桃忌というのも有名な話。夏目漱石は木瓜(ボケ)が好きだった。

森林公園の花2-4

 なんだか知らないけど、その年最初にヤマブキを見ると焦る。わっ、もうヤマブキの季節になってしまったんだ、と。春に咲く花で季語も春なのに、私の中では初夏をイメージさせる花だから。
 八重のヤマブキを詠った太田道灌の歌はよく知られている(七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき)。日本人に昔から愛された花で、万葉集などでも詠まれている。
 高校のとき、友達のてっちゃんが1万円もするデザイナーズブランドのトレーナーを買うのを見て、そんなもの買うなら清水屋でトレーナー10枚買えるからやめた方がいいと言って止めたのを覚えている。あれはメンズバツかどこかの山吹色のトレーナーだった。ヤマブキはそのときの記憶とも結びついている。

森林公園の花2-5

 この時期になる赤い実は珍しい。秋はこんな赤い実ばっかりで区別する気力も湧かないけど、春の赤い実はちょっと気になる存在だ。これは何の実だろう。
 今のところ分からないので保留にする。

森林公園の花2-6

 こういう黄色い花を見ると、反射的にヘビイチゴだろうと決めつけてそれ以上深く追求しないことにしている。もしかしたらミツバツチグリかもしれないし、キジムシロだったりするのかもしれないけど、深く考えてはいけない。まさか、オヘビイチゴじゃないよね? と、誰にともなく訊ねてみる。
 これはたぶん、ヤブヘビイチゴでもなく、普通のヘビイチゴでいいと思うんだけど、どうだろう。
 見分けるポイントは葉っぱだったりすることが多いから、スミレに限らず自信のないものは葉っぱまで含めて記録しておく必要がある。

森林公園の花2-7

 ド近眼的な写真ばかり続いて疲れたので、たまには遠くを見たくなった。近くを見て遠くを見て、また近くを見て遠くを見て、視力回復トレーニングみたいに。
 しかし、遠くを見てもまた分からない花が目に飛び込んでくる。近くを見ても分からず、遠くを見ても分からず、じっと目を閉じるとスミレが思い浮かぶなんて、花ノイローゼか。
 湿地帯に咲いていたこの花は何だろう。初めて見る花だ。花じゃない? 遠くてよく見えなかった。写真でも分からない。ほかっておこう。
 って、もしかして、ほかっておくって名古屋弁? そんなもん、ほかっとけ、みたいな使い方をする。ゴミを捨てるとかではなく、放り出しておくみたいな意味だ。放置する、無視するというニュアンスも含んでいる。

森林公園の花2-8

 知ってる花に出会うとホッとする。高校に入学して同じ中学だったやつに会ったみたいに。
 これはコバノミツバツツジ。アップ写真とはずいぶん印象が違う。街路樹に植えられているツツジとも感じが違うことが分かると思う。

森林公園の花2-9

 ヤグルマギクの青は、自然が生み出したとは思えないような青色だ。人工的に作り出された色みたいに見える。
 この花の青は奇跡的な青で、バラと同じアントシアニン色素を持ちながら、鉄とマグネシウムとカルシウム、そしてフラボンという有機物が結びついて青になっているという。青いバラが作り出せないのは、バラはこの結合ができないからだそうだ。ただ、このヤグルマギクの構造が解明されたことが青いバラのヒントとなって、それに近いものが近年作り出されつつある。サントリーが作った青いバラは、まだまだうっすら青い灰色という程度だったけど、もしかしたら近い将来、このヤグルマギクと同じくらい青いバラが登場するかもしれない。ちょっと楽しみなような、青いバラは不可能のままであって欲しいようなだ。
 ヨーロッパの麦畑で当たり前に咲く雑草だったものが、あまりにもきれいな青なのでやがて園芸種として育てられるようになった。今はピンクや白など、様々なヤグルマギクがある。
 ノヴァーリスの小説『青い花』はこの花がモデルだったようだ。ドイツの国花にもなっている。
 日本に入ってきたのは江戸時代の末で、矢車というのは鯉のぼりの上で回っているあれのことだ。
 矢車草とも呼ばれることがあるけど、ヤグルマソウという別の花があるので、間違えないようにしたい。

森林公園の花2-10

 大阪造幣局の通り抜けの桜がそろそろ満開を迎えたとのことだ。あれはサトザクラだからこんなに遅い。森林公園の中や外でもサトザクラがよく咲いていた。
 ソメイヨシノの魅力には遠く及ばないものの、アップにしたときの写真写りはいい。濃いめのピンクのヒラヒラが華やかだ。
 サトザクラは交配によって作り出された桜の総称で、たくさんの品種がある。でも今日のところはそういう話はもうやめておこう。読むのも疲れてしまっただろうし、私もくたびれた。

森林公園の花2-11

 遠くの月でも見て目と心を休めよう。
 手前は散った桜だ。ソメイヨシノじゃない。ヤマザクラだろうか。まだ少し花がついていた。

森林公園の花2-12

 今回は135mmとC-PLフィルターの組み合わせの試し撮りというテーマもあったのだけど、それはあまり撮れなかった。最後に一枚だけ載せておこう。場所を選べば水面の映り込み写真として面白いものが撮れるかもしれない。

 花の名前や区別ばかり気にしていると花の美しさの本質を見落とすことになる。それでは本末転倒だ。とはいえ、気になり出すと気になるもので、分からないと胸のモヤモヤが消えずに残って気持ち悪い。分かるようになったからといって誰に自慢できるというわけでもないけど、自分自身のためにすっきりしたい。パッと見て、スッと分かって、ササッと流せるようになればどんなにいいか。分かるようで分からなくて思い煩うのが嫌だ。だから、もっと勉強して分かるようになりたい。
 野草に興味を持って撮るようになって、今年で5シーズン目ということになるだろうか。そう考えるとあまり勉強が進んでいるとは言えない。毎年しっかり覚えていっていれば、今頃はスミレでもある程度の区別くらいはつていたはずだ。
 ただ、一足飛びにはいかないから、毎年少しずつ知識を積み重ねていくしかない。季節が春から初夏に変わる頃までには、少なくとも去年の自分を上回っていたい。
 図鑑を見ているだけではなかなか覚えられるものではないから、やっぱり写真に撮るのが一番だ。たくさん撮って、帰ってきて調べて、一つずつ覚えていこう。私のザル記憶ではたくさんこぼれてしまうだろうけど、こうしてブログに書いておけばデータベースになる。
 次の花目標は藤だ。4月の終わりにはもう咲き始める。油断しているとゴールデンウィークのうやむやに飲み込まれてしまう。5月になればカキツバタ、バラと続いていく。あらためて今自分が春の中にいることを実感するここ最近なのであった。


探し物は何ですかと訊ねられたら足下の春ですと答えよう
2008年04月16日 (水) | 編集 |
森林公園花アップ-1

PENTAX K100D+smc Takumar 50mm f1.4 + Close-up No.5



 カメラ関係の小物類を放り込んである棚の中を探っていたら、Close-up No.5レンズが出てきた。そういえばだいぶ前に買ったんだったな。全然使わなかったからすっかり忘れていた。寄れないTakumar 50mm f1.4