現身日和【うつせみびより】
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家康と秀吉の間で揺れる想いの数正が建てた松本城は傾いて戻った
2008年04月19日 (土) | 編集 |
松本城-1

Canon EOS 20D+EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 昨日の彦根城に続いて、国宝つながりで今日は松本城について書きたい。
 松本・安曇野へ行ったのは4月の6日で、先に安曇野へ行ったら松本城に登城する時間がなくなって、天守には登っていない。めったに行ける場所ではないので残念ではあったのだけど、安曇野を堪能できたからよしとする。外からの写真はたくさん撮ったので、いろんな角度の写真を並べつつ、松本城について書いていこうと思う。
 昨日も書いたように、国宝に指定されている4つの天守のうちの一つで、その中でも最も古いのがこの松本城の天守だ。1594年というから、まだ豊臣秀吉政権の時代で、家康が江戸幕府を開く以前のことだ。

 話は戦国時代はじめにさかのぼる。信濃の守護・小笠原氏の居城である林城を囲むようにいくつかの支城が建てられ、その中の一つで前面を固めるために造られたのが深志城だった。松本城の始まりは、地方の小さな支城にすぎなかった。
 その後、甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い落として、この地を治めることになる。その際、信玄は林城ではなく、深志城を信濃攻略の拠点に選んだ。信玄特有の勘が働いたのだろうか。
 1573年、信玄死去に続き、1575年の長篠の戦いで勝頼率いる武田軍が敗北。1582年、織田信長の侵攻により武田家滅亡。
 同じく1582年、本能寺の変。武田家なきあと家康の配下となった小笠原長時の嫡男・小笠原貞慶が混乱に乗じて深志城を奪還。城は再び小笠原氏の居城となり、名前を松本城とあらためた。
 1590年、小田原の北条氏直を破った秀吉が天下統一。家康を関東に移封。このときの城主・小笠原秀政が家康に従って下総へ移ると、代わって石川数正が10万石で移ってきた。

 さて、ここからが松本城物語本編の始まりだ。
 石川数正といえば、代々松平家(のちの徳川家)に仕えた有力家臣で、家康が幼少時代に今川家に人質になっていたときも一緒だった側近中の側近だ。戦でも数々の戦功をたて、文官としても有能で、家康と秀吉の外交担当でもあった。酒井忠次と共に家康の右腕だった石川数正が突如裏切って秀吉の元に走ったのだから、家康の驚きは大変なものだっただろう。
 数正が家康を裏切った理由はよく分かっていない。家康の命で秀吉と交渉するうちに秀吉の魅力に取り込まれたとか、家康の嫡男・信康の後見人を務めていて信長の命令で家康が信康を切腹させたことで不仲になったなど、いろいろなことが言われている。秀吉の力量を認めた数正が家康にあまりにもしつこく和睦をすすめるものだから、秀吉のスパイと疑われてだんだん立場が悪くなり、秀吉側につかざるを得なくなったという説もある。
 頑なに秀吉の配下となることを拒んでいた家康にとって、精神的なショックよりも現実的な痛手が大きかった。徳川家の軍事に関しても数正は内情をすべて知っているので、軍備を一から再編成しなくてはならなくなった。ただ、このとき採用したのが当時最強といわれた武田軍のものだったから、徳川軍団は更に強くなった可能性がある。もし、数正の出奔がなければ関ヶ原の合戦にも何らかの影響が出ていたかもしれないというのは考えすぎだろうか。
 こうして秀吉の家臣として取り立てられた数正は松本城に入り、小さな支城に過ぎなかった松本城を家康に対する備えとして、戦うための城に建て替えることになる。戦国時代としては珍しく平城なのは、鉄砲戦を想定したものだった。秀吉の後ろ盾を得て、数正は家康を迎える気満々だっただろう。
 しかし、家康も黙ってはいなかった。数正は裏切ったのではなく、自分が秀吉の元に送って内通させているのだという噂を流した。秀吉がどの程度真に受けたかは分からないけど、その後数正は徐々に豊臣家でも発言権を失っていき、しまいには邸に閉じこもって出てこなくなってしまった。
 結局、2年後の1592年に、秀吉の朝鮮出兵命令に従って出陣した先の肥前名護屋城で失意の内に死去してしまう。新生松本城の完成をついに見ることはなかった。
 その後松本城は、嫡男康長が父の遺志を受け継ぎ、1594年に完成させた。最終的な天守の完成は1597年頃と言われている。

松本城-2

 どの角度から見ても松本城の天守は美しい。端正で、ほどよい重量感があって、凛としている。優美で華麗な姫路城もよかったけど、松本城も双璧だ。
 白鷺城(はくろじょう)と呼ばれた姫路城に対して、黒い松本城は烏城(からすじょう)と称されている。
 ところで、黒い天守と白い天守は、豊臣方と徳川方だと思っていたら、そんな単純な話ではなかった。
 白壁は漆喰なわけだけど、主な理由として、維持費の問題だったようなのだ。お金をかける城は漆喰で白壁にして、お金をかけないときは黒板にしたというのが現実的な事情だったらしい。漆喰は10年ほどしか持たないため、お金も手間もかかった。
 徳川家の居城である江戸城も、建てられたときは漆喰で白壁だったものが、10年もしないうちに漆喰がはがれてきて、塗り直すことなく黒壁になっていたというし、逆に豊臣方の聚楽第や伏見城は白壁だった。家康が隠居後にすんでいた駿府城も黒板の天守だったというから、黒城イコール豊臣方というわけではないことになる。
 大阪城が黒板と黒漆喰だったので、豊臣は黒城というイメージが定着したのだろう。たまたま、豊臣方の松本城や熊本城も黒城だったということもある。
 黒板の外壁は、下見板張りと呼ばれるもので、当時は板に炭と渋柿を混ぜた塗料を塗って黒くしていたそうだ。この板張りなら60年持つという。
 戦国時代は城を華麗に飾っている余裕もなく、江戸時代に入ってからの城は見た目の美しさも重視して白漆喰の城が多く建てられたということだろう。

松本城-4

 西日を浴びて金黒色に光る松本城。黒城自体見るのが初めてだったから、こういう風情も新鮮に映った。
 大天守は5重6階で、乾小天守を渡櫓で連結して、辰巳附櫓、月見櫓を持つ連結複合式天守となっている。
 戦があった時代に造られた城ということで、窓が少なく、鉄砲を撃つ穴や石落としのための穴が多数開けられている。
 ただ、現在のスタイルは江戸時代になってから改築されたもので、創建当時は少し違っていたらしい。月見櫓などを増築した松平氏によって今のような姿になったようだ。

松本城-5

 平城ながら高さ30メートル近くある松本城は、離れたところからもよく見える。
 松本市はこの周辺のビルに高さ規制をかけているようで、周りに高い建物がないのもいい。北アルプスを背に悠然と建つ天守閣というのも、松本城ならではだ。
 しかしこの松本城、明治時代になると大きく傾いた。明治に撮られた古い写真を見ると笑える。ピサの斜塔もびっくりというくらい傾いていて、今にも倒れてきそうなのだ。
 もともとこのあたりは沼地で、地中に埋め込まれた柱が老朽化して沈み込むという欠陥住宅のようなことになって傾いてしまった。
 このままでは本当に倒れてしまうんじゃないかと心配した市民が立ち上がり、明治36年から大正2年までの10年間をかけて大修理が行われた。
 傾いた城といえば、姫路城を思い出す。大工の責任者だった源兵衛は、天守がどうにも少し傾いている気がして妻に傾いてるように見えないかと訊ねる。確かに傾いているような気がすると言われて、自分の設計が間違っていたと思ってノミをくわえたまま天守から飛び降りたのだった。実際は、土台の石が重みで沈んでしまって傾いただけだということがあとになって分かった。
 城というのは、いろんなところで人の人生を大きく左右させ、ときに狂わせる。

松本城-7

 戦国時代の城らしく、石垣は野面石による空積みで、直線的だ。この方が頑丈だから。優美な曲線を持った城が誕生するのは、平和な江戸時代に入ってからのことだ。
 考えてみると、戦国時代まっただ中に建てられた城というのは、見せるためのものではなく、実用本位なわけで、見た目よりも守りの堅さ重視だった。安土城にしても、私たちが思っているほど優雅なものではなく、実はけっこう無骨な城だったのかもしれない。
 天守は籠城戦のときに使われるもので、普段使いではない。結果的に美しいと感じさせるのは、機能美が持つ美しさなのだろう。そこに日本人の美意識が共感するのだ。

松本城-9

 黒門が有料ゾーンへの入り口になる。夕方の4時半が入城の最終だったので、間に合わなかった。
 この枡形の黒門は、昭和35年(1960年)に復元されたものだ。
 松本城は残念ながら、天守以外の本丸御殿や二の丸御殿などは残っていない。本丸御殿は、1727年に火事で焼けて、お金がなくて再建されなかった。
 堀も内堀と外堀の一部が残るだけで、敷地としてはかなり縮小されている。このあたりが姫路城との決定的な差で、あちらは世界遺産になってここはなっていない要因だ。
 国宝の松本城と彦根城を回ってみて、あらためて姫路城の素晴らしさを再認識した。あそこは奇跡的な残り方をしている。

松本城-10

 太鼓門は、言っちゃなんだけどピカピカでなんとも軽い印象だった。平成11年(1999年)に復元されたものだから、まだまだ新しすぎる。
 でも、これは石垣から組み直して苦労して再現したもののようなので、悪く言っては申し訳ない。できたての城なんて、昔もこんなふうだったかもしれないのだ。あと30年くらいすればそれなりに貫禄も出てくるだろう。

松本城-8

 数正の嫡男・石川康長以降の松本城の歴史について少し書き加えておこう。
 1613年、康長は大久保長安の事件(幕府の金を使い込んだ疑惑)に連座した疑いを持たれて、九州豊後に流されてしまう。
 かわって小笠原秀政が再び松本城主に戻るものの大阪夏の陣で戦死。二代の忠真は播磨明石へ移封。
 その後、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏とめまぐるしく交替したのち、水野忠恒が江戸城内で刃傷事件を起こして改易。松本城はしばらく幕府直轄となった。
 ようやく落ち着いたのは、1725年に戸田光慈が志摩鳥羽から6万石で入城してからだ。以降、戸田氏9代が城を守り、明治維新を迎える。
 廃藩置県で廃城の危機を迎えるも、地元の有力者が買い上げてなんとか難を逃れる。
 昭和11年(1936年)、国宝指定。現在は、世界遺産登録に向けての活動が続けられている。

 天守に登らなかったのに、松本城については書ききってしまった感がある。書くまではちょっと悔いも残っていたのだけど、書いたらすっきりしてしまって、もう行かなくてもいいかという気になった。もう一度行って天守まで登ってもこれ以上書くことがあまりない。何かのついでがあって近くを通りかかったら寄ってもいいかなくらいの気持ちだ。雷鳥の里を買いに行くためだけにはちょっと遠すぎる。
 これで国宝4天守はすべて行って、書いた。天守はないものの二の丸御殿が国宝になっている京都の二条城もあるけど、あそこは3度行っている。次なる目標は、現存12天守の制覇ということになるだろう。中国、四国地方に集中しているから、行くならまとめて行くしかない。1泊2日の強行軍で回りきれるものなんだろうか。せめて2泊はしないと無理か。もう一つ離れたところにある弘前城は、ぜひ桜の季節に訪れたい。
 城とは別に、国宝建築物シリーズというのも継続中だ。最近では、愛知県吉良町の金蓮寺を紹介した。岐阜県多治見の虎渓山永保寺もそうだ。近場でいくと、長野の善光寺をはじめとして数ヶ所、滋賀県もたくさんあるので、そのあたりも機会があれば行きたいと思っている。
 今年の一つの目標として、京都行きがある。東京、鎌倉、奈良、滋賀と来たら、次は本命の京の都だろう。以前に何度か行っているけど、このブログではまだ一度も登場していない。一日回ればネタもしっかり集まるだろうから、ネタ切れになったら行こう。たぶん、秋くらいに。




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