 PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4
ブログが散策に追いついたと思ったら、まだ岡崎城が残っていた。ネタ切れで過去の在庫写真を漁っていたら出てきた。行ったのは桜の季節だから、もうひと月半も前のことになる。書くのをすっかり忘れていた。 岡崎城へ行ったのはこのときが二度目で、最初にしっかり見て回ったからほとんど新鮮さはなかった。桜見物のついでということで、今回は天守閣にも登らず、周囲を歩いただけだった。けど、ブログのネタにするのは初めてなので、まとめとして一応ちゃんと書いておこうと思う。 岡崎城というのは家康が生まれた城のわりには全国的な知名度が低い。岡崎城自体を知らない人もたくさんいることだろう。歴史の表舞台に登場するのは、小牧長久手の戦いのときや長篠の戦いのときくらいで、それも名前が出るというだけで、ここが主戦場になったわけではない。だから、印象としては弱い。 今日は岡崎城とその時代の家康について書いて、岡崎城をもっとよく知ってもらおうというのが狙いだ。
1452年頃、三河国守護仁木氏の守護代だった西郷稠頼(つぎより又はちかより)とその子頼嗣(よりつぐ)が北方に対する守りを固めるために簡単な砦を築いたのが始まりとされている。 1531年に徳川家康の祖父である松平清康が西郷信貞から奪い取って拡張工事を行い、岡崎城と名づけた。 三河を平定して勢いづいた松平清康は、尾張に攻め込んだとき、守山城で家臣の謀反によって殺害されてしまう。いわゆる森山崩れ(1535年)というやつで、これはうちの近所で起こっている。 跡を継いだ息子の松平広忠(家康の父)はまだ若く、力もなかったので、三河の地は再び乱れることになる。いったんは言うことを聞かせた豪族たちが次々に離れて国は弱体化し、東の今川、西の織田に挟まれてにっちもさっちもいかなくなっていく。 1543年に岡崎城で生まれた竹千代(のちの家康)は、こんな情勢の中、今川家に人質として差し出されることになる。1547年、広忠は織田家に対抗するために今川家に従属を決め、竹千代は今川の駿河へ送られることとなった。数えで6歳のときだ。 しかしここで一つの事件が起きる。売られたか、策略か、渥美半島の田原城主だった戸田康光に途中で奪還され、織田家に送られることになってしまったのだ。当時の織田家は信長の父、織田信秀の時代で、信長は13歳だった。運命というのはこんなもんで、ここで家康と信長は出会うこととなる。もしこの出会いがなければ、のちの歴史は大きく変わっていただろう。桶狭間のあと、家康は世に出ないまま埋もれていたかもしれない。信長に攻め入られて家臣になっていた可能性もある。 竹千代は、大須にある万松寺(ばんしょうじ)という寺に預けられて、2年を過ごすことになる。ここは、信長が父親の葬儀にとんでもない格好で現れて、仏前に向かって抹香を投げたという有名な事件があった寺だ。 1549年、松平広忠は父親と同じく家臣の謀反によって殺害されてしまう(病死という説もあり)。岡崎城は今川家の属城として城代が置かれることになった。 この後、今川義元は織田家を攻めて、信長の兄信広を生け捕りに成功し、竹千代はその人質交換によって今度こそ今川家に人質として行くことになる。駿府で元服して、義元から一字をもらって元信と名乗るようになり、更に祖父の清康からももらって松平元康と改めた。 桶狭間の合戦があったのが1560年、元康19歳のときだ。大将の今川義元の首を取られたことで岡崎城にいた今川軍が城を放り出して逃げてしまったので、その隙を突いて元康は岡崎城を奪還した。元康も桶狭間の戦いでは今川義元に従って参戦していたことはあまり語られない。 1562年には信長と同盟を結び独立。翌年、初めて家康を名乗る。 1570年に本拠地を浜松城に移すまでの10年間、家康は岡崎城を居城とした。それなりの改築はしたようだけど、現在のような城郭になるのはもっとあとのことだ。 浜松に移ったあとは、嫡男の信康が入城した。 しかし、その信康は織田信長に対する謀反の疑いをかけられ、結局切腹に追い込まれることとなる。家康の正室であり、信康の母親である築山殿とともに武田家に内通していたという理由だった。それによって築山殿も殺害されることとなる。 けど、これもいろいろと不自然な点があり、謎とされている事件だ。どうしてそれだけのことで信長は激怒し、家康に嫡男を殺すことを命じたのか、何故家康はあっさり承諾してしまったのか。信康は信長に匹敵するほどの武将で信長が恐れたからだとか、気性が荒くてたびたび問題を起こしていたから家康が自ら行ったのだとか、あれこれ説はあるもののはっきりしない。 それに続いて重臣だった石川数正が秀吉の元に走った事件もあり、このあたりから徳川家康は二人いて、途中で入れ替わったのだという説へとつながっていくこととなる。もともとの家康は桶狭間の数年後に病死して、家がつぶれることを懸念した家臣たちが画策して影武者を仕立てて、それが二代目の家康におさまったという説だ。石川数正の突然の不可解な出奔や、嫡男と正室の墓を信長の死後も捨て置いたままだったとか、いろいろともっともらしい話があって面白い。ただ、それをここで書くと長くなるのでやめておく。 一時は石川数正も城代を勤めるも、秀吉に寝返ったことで岡崎城は即刻改修を余儀なくされる。数正に全部知られてしまっているからまずい。このあたりのことは以前に松本城のときにも少し書いた。 1590年に家康が関東に移封されると、豊臣家家臣の田中吉政が入城してきた。このときに大改築が行われて、のちの城郭の基礎ができあがる。城下町を整備し、東海道を城下に引き込んで、岡崎の町は大いに賑わいをみせるようになる。 現在の復元天守は、1617年に本多康紀が改築ものを再現している。 江戸時代は、徳川譜代大名の本多、水野、松平などが5万石で城主を務めて、明治を迎えた。禄高は少ないものの、家康の生まれた城ということで特別な城という認識があったようだ。
 大きくて立派な大手門だけど、いかにも最近作りましたという感じがありありだ。平成になってから復元されたものだから、風格を持つようになるには少なくともあと100年はかかる。 国道1号線沿いから少し入った公園の入り口にある。といっても、ここを通らないと中に入れないというわけではなく、横が大きな出入り口になっているから、わざわざ門をくぐる必要はない。あくまでも気分の問題だけだ。 当時はここから北東に200メートルほどいった浄瑠璃寺の南にあったとされている。 江戸時代のものは十間(18メートル)あったというけど、復元はどうなんだろう。完全再現されているのか、想像で作られているのか。 最盛期の岡崎城は、江戸城、豊臣時代の大阪城、幕末の姫路城に次いで日本で四番目に大きな城郭だったことが最近の発掘調査で分かった。天守閣から500メートル離れた大林寺郭堀跡で石垣が見つかったのだ。皇居や姫路城と同規模だったとは、今の岡崎城からは想像がつかない。天守閣を中心にわりと広い範囲が公園として整備されているものの(全体では10ヘクタール)、名古屋城なんかと同じくらいのものを想像して行くと拍子抜けする。
 岡崎城名物からくり時計。9時から夕方5時までの0分と30分に時計の扉が開いて、中から家康のからくり人形が出てきて能を舞う。私はまだ見たことがない。 奥に見えているのは「三河武士のやかた家康館」という有料の歴史資料館で、私は入ったことがない。話によると、それなりに見所があるそうだ。350円。
 徳川家康の像が建っている。それはいいとして、何故老年期の家康像なんだ。岡崎城にいたのは19歳から10年余りだから、ここくらいは若者の家康像にすべきだったんじゃないのか。家康というと老成したイメージが強いけど、当然若い頃もあったわけで、そのときはそれなりに颯爽とした若武者だったろうに。背は150センチそこそこしかなかったというし、若い頃から恰幅のいい体つきだったのかもしれないけど。 馬に乗った武者がいたけど、あれも家康像らしい。そちらは若い感じだ。 資料館の前には徳川四天王の一人、本多忠勝像もあって、そちらの方が格好良く作られている。兜に鹿の角をつけて、凛々しい武者姿をしている。
 このあたりの石垣などは、当時のものなのかどうなのかよく分からない。 明治4年(1871年)の廃藩置県のときはまだ城郭は壊されず、城内に額田県庁が置かれた。明治6年から7年にかけて城郭の取り壊しは行われたものの、翌8年には旧本丸跡が城跡公園として残ることが決まっているから、ある程度は残されたのだろう。公園として整備されたのは大正8年で、そのときに二の丸跡まで含めた岡崎公園の基礎が作られた。 そういうことを考えると、現在あrる堀や石垣などは当時のものと考えていいのかもしれない。 昭和34年には鉄筋コンクリートながらも、かつての姿の天守閣が復元された。古い写真が残っているので、見た目の再現性は高い。 北曲輪門や二の門、念沸堂赤門などは愛知県内の寺や民家に移築されて残っている。 城内にある遺構としては、産湯の井戸くらいで、あまりない。
 堀にかかる朱塗りの神橋。堀は噴水が吹きだしてしまっている。なんてことをするんだ。 アヒルはつきものだ。これはいないと寂しいくらいに感じる。昔はどうだったんだろう。渡り鳥くらいは飛んできて堀に浮かんでいたんだろうか。鯉なんかも飼っていたのかどうか。
 城内にある龍城神社(たつきじんじゃ)。この地は昔から龍に縁のあるところで、城の建っているところがそもそも龍頭山という丘の上で、岡崎城は別名、龍城とも呼ばれていた。 西郷稠頼が城主だった頃、天女が現れ、自分はこの地にすむ龍神であるからして、私を神として祀れば城を守ってやるぞというものだから、急いで天守に龍神を祀ったというのが龍城神社の始まりとされている。 のちに本多忠勝を合祀して、昭和37年に現在の社殿が建った。
 岡崎城はフォトジェニックな城じゃない。どの角度に回り込んでも障害物だらけで、まともに撮れない。特に正面がいただけない。誰ですか、こんなところに松を2本植えたのは。記念写真で松の木を前にして写真を撮る人はない。一番いいところを邪魔されてしまっている。 天守閣に限って言えば、東南に位置する岡崎グランドホテル9階のスカイレストラン「パリ」がいいらしい。そこからなら天守閣の上半分がしっかり見える。 天守閣の中は、資料館と展望室になっている。値段は200円。
 普段もライトアップしてるのかどうか知らないけど、このときは桜祭りということで夜の中、天守が白く浮かび上がっていた。
家康は当時としては長生きといえる75歳(満年齢73歳)まで生きた。健康オタクとも言えるほど体には気を遣っていたという。八丁味噌ばかり食べていたから長生きだったんだという話もある。 家康を天下人にしたのは、さまざまな要素が絡んでいて何が要因だったかは一概には言えない。ただ一つ言えることは、絶妙な位置取りをしたということだ。信長が生きていたときはつかず離れずで弟格ながら従属はせず、秀吉との対立の中でもぎりぎりまで家臣にならずに粘って力をためた。一転好機到来となっても、勢いに任せず用意周到に周りとの連帯を深めて千載一遇の機会をものにした。天下統一を果たしたのちも、油断怠りなくのちのちの制度を作り上げた。 信長、秀吉、家康の中で、自分がその立場の人生を送るとなったとき、もっともなぞるのが難しいのが家康だろう。信長の才気とカリスマ性、秀吉の知略と魅力が備わっていたら、あれらの人生に似たものは実現できるかもしれないけど、家康の能力はどう分類していいのか分からないようなものだ。家康自身ももう一回やり直してみろと言われても二度はできないんじゃないか。 それがもし、後半は影武者がやり遂げたことだとしたら、こんな愉快痛快なことはない。 人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし。家康の有名な言葉だ。自分も歳を取るとこの言葉が染みる。若い頃は何を辛気くさいことを言ってるんだと反発した。今はもっと家康のことが知りたくなっている。
歴史シリーズは必ずといっていいほど長くなる。自分が書いていて楽しいというのがあって止まらなくなるのだけど、読まされる方は大変だ。でも、今後も折に触れて書いていきたい。誰に頼まれなくても書いてしまう。 城はまだまだいろいろ回りたいし、家康の足跡は静岡県にたくさんあるから、そのうちツアーを組んでまとめて巡ろう。 近々、岐阜・関ヶ原巡りに行く予定もある。戦国野郎・戦国お嬢の方はお楽しみに。
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