現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
3色ソースサンデーでソースの可能性を再認識する
2008年06月30日 (月) | 編集 |
通常3色サンデー

KONICA MINOLTA α-7 DIGITAL+MINOLTA 50mm Macro f2.8



 今日のサンデーはソースサンデーだった。まずソースがあって、食材は後追いの脇役だったと言っていいかもしれない。
 そもそもは、少し前に生チョコを作ったときに生クリームが余って、これを使い切らなくてはいけないという使命があった。となると、一つはホワイトクリームで決まりだ。ここからの出発だった。
 次にふとしたきっかけでフリッターというものの存在を知って、これを作ってみようということになった。フリッターというのは、天ぷらとは似て非なるもので、卵黄と小麦粉と牛乳を混ぜたものに卵白を泡立ててメレンゲにしたものを合わせて衣にするという調理法だ。ふんわりとした柔らかい食感で、天ぷらとは違う料理になる。
 具は白身魚にした。ここの選択肢はいろいろあるのだけど、他との兼ね合いでそうなった。ソースについては後ほど。
 2品決まって残りの1品が決まらないというのが常で、いつもこれを決めるのに時間がかかる。メインの肉魚系があって、サブの野菜ものがあって、もう一つは何にしようかと考えると、なかなかいいものが思い浮かばない。食材なんてだいたい決まってしまうし、変わり種は買う買わない以前に食べたくないというのもある。
 結局、今回も無難な豆腐にした。他にあったとすれば、ダイコンとかナスくらいのものだ。
 ソースをトマト系にしたら、期せずして赤白黄色の3色ソースになった。計算ではなく、偶然見た目もきれいになった。
 今日はこの3品を紹介しようと思う。

 まずは左手前の豆腐トマトソースから。
 今回は通常のトマトではなくトマトピューレから作ったので、普段とは少し味が違った。
 刻んだタマネギをオリーブオイルで炒めて、白ワイン、トマトピューレ、ケチャップ、しょう油、ウスターソース、コンソメの素、塩、コショウ、唐辛子、水を混ぜて煮立たせる。
 豆腐は薄めに切って、あえて水切りをしない。カタクリ粉をまぶして、フライパンでじっくり焼いていく。これで外はとろっとして、中身はふんわりの食感になる。よりふんわり感が欲しい場合は、絹ごし豆腐を使ってもいい。そのときは豆腐が崩れやすくなるから、小さく切り分けた方がよさそうだ。

 右の白身魚フリッカーが今回一番のヒットだった。
 メレンゲ作りはケーキを作るのと同じ要領で、少し砂糖を加えた方が固く泡立つ。
 具は白身魚でもいいし、鶏肉やソーセージなんかも美味しそうだ。メレンゲの衣にくぐらせて揚げていくだけだから、簡単だ。今回はアスパラも付け合わせにした。
 お菓子っぽい食感と思うかもしれないけど、決してそんなことはなく、これでもちゃんとおかずとして成立する。子供も喜びそうだ。
 油は2センチくらいで、温度はやや低めにしてじっくり揚げる。温度が高いとすぐに焦げてしまうから注意が必要だ。
 ソースはちょっと冒険的なソースになっている。基本はマヨネーズとしょう油で、そこに和洋折衷様々な調味料を入れてみた。豆板醤、わさび、唐辛子、はちみつ、砂糖、牛乳、白ワイン、コンソメの素、塩、黒コショウ、水と。
 かなり無茶な取り合わせのようだけど、これが美味しいからソースは面白い。辛くて甘くて深くて旨みのあるソースに仕上がった。
 フリッカーともども、ぜひ一度作ってみて欲しい。

 一番奥は最初に決まったホワイトソースの山海煮込みで、結局これが一番地味で目立たない存在になってしまった。
 タマネギ、エビ、鶏肉、ジャガイモをオリーブオイルで炒めて、そこに白ワインを振りかけたあと、水とコンソメの素を加えて煮込んでいく。最後にしめじも入れる。
 ある程度煮込んだところで、生クリーム、牛乳、小麦粉、塩、コショウで作ったホワイトソースを入れて、更に少し煮込めば完成だ。
 結果的にシチューに近いのだけど、少し違っている。生クリームを入れると、やっぱり美味しさが増す。

 日本食と洋食の最大の違いは、食材が先かソースが先か、という点かもしれない。和食の場合は食材の美味しさを引き出すための味付けという考えに対して、洋食はソースを味わうための食材選びといったところがある。それだけ洋食はソースのバリエーションが多いということだし、逆に言えば日本には美味しい食材がたくさんあるということでもある。
 現在の日本は、和洋折衷でいろんな美味しい料理が存在している。和食、洋食にこだわる必要もない。そのときの気分で何を食べたいか、たくさんの選択肢の中から選ぶことができる。それはとても幸せなことだし、現代はもう極まったと言ってもいいかもしれない。まだまだ見知らぬ国の料理がたくさんあるにしても、100年後に今より10倍も料理が美味しくなっているとは思えない。
 とはいえ、私はまだまだ食べたことがない料理がたくさんあって、その中にはびっくりするくらい美味しいものもあるに違いない。自分が作る料理も、もっと進歩させていきたいし、可能性はまだたくさんあるはずだ。
 ソースに関しても、もっと追求していきたいという思いが強まった。そのためにはミキサーみたいなものもあるに越したことはない。買ってもどうせすぐに使わなくなることは目に見えているけど、ミキサーがあればもっといろんなソースが作れるようになる。買ってしまおうかな。砕き料理は私の得意とするところだし。
 来週あたり、ミキサーサンデーがあるかもしれない。


タコとスクーターとノーヘルの島 ---日間賀島本編<第一回>
2008年06月29日 (日) | 編集 |
日間賀島本編1-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 離島というと遠く離れた別世界と思いがちだけど、愛知から一番近い島・日間賀島へは名古屋駅から1時間半ちょっとで行くことができるお手軽な観光地だ。いつか行きたいと思っていて、今回ようやく実現することができた。
 車で行く場合は、知多半島の先端の師崎まで行く方が早い。そこから高速船でわずか10分しかかからない。電車の場合は南知多の河和(こうわ)まで行って、そこから高速船に乗って20分だ。河和駅から高速船乗り場までは、無料の送迎バスが出ていて、それなら3分ほど、歩いても7、8分でいける。
 上の写真は、河和駅に着いた名鉄電車の面々。左端が私たちが乗ってきたパノラマSuperの特急だ。先頭車両は見晴らしのいいパノラマ席になっている。私たちは普通に一般車両に乗車したので、パノラマ気分は味わえなかった。古い7000系のパノラマカーは2009年までに廃止が決まっているから、今後は鉄の人たちが遠くから乗りに来たり写真を撮ったりするのだろう。

日間賀島本編1-2

 島まで運んでくれる船は高速船のイーグル号。1号から3号まであるようだ。
 全長21メートル、45トンの船で、定員は86名。
 海が穏やかなときならさほど揺れることはないけど、乗り物酔いする人はやや危険かもしれない。乗り物酔いはほとんどしたことがない私でも、酔いの初期症状である生あくびが出たくらいだから、普通の人でも海が荒れているときに出港するとアウトの可能性がある。窓ははめ殺しで開かないようになってるし、表のデッキにも出られないのが厳しい。
 私もツレも、どうにか無事に日間賀島まで無事だった。帰りの船では疲れもあって途中から寝てしまって、酔いも何もなかったのだけど。
 日間賀島と篠島の二島を回る場合は、二島めぐりチケットというのが500円くらい得になる。

日間賀島本編1-3

 ようこそ日間賀島へ。はじめまして、日間賀島。
 このとき一緒の船に乗っていたのは、20人弱くらいだったろうか。平日の昼前としては、まずまずの観光客だ。あとの便では団体さんも降り立っていたし、けっこうメジャーな観光地なんだと再認識する。週末はもっと賑わいを見せるのだろうし、夏になれば大勢の海水浴客が訪れるに違いない。
 島の人口は約2,200人。男女比はほぼ半々で、世帯数は約630だから、お年寄りばかりの過疎の島とは違う。半数が漁業関係で、もう半分がサービス業というから、半漁半観光の島というのが数字からも分かる。
 面積は約0.73平方キロで、周囲は約5.5キロ。一周をゆっくり歩いて2時間、スタコラ歩けば1時間ちょっとの島だ。
 この規模の島に、観光ホテルと民宿をあわせて100軒近くもあるというから驚く。それがどこもそれほどひなびた感じがないからたいしたものだ。それだけ訪れる人が多いということだろう。
 愛知県には日間賀島の他に篠島と佐久島という3つの有人島があって、日間賀島は一番面積は小さいものの、最も多くの観光客が訪れるところだそうだ。このあと篠島へ行って、両島の違いを目の当たりにして、なるほどと納得した。日間賀島は自分たちの生活を守りながらも、観光客の方をしっかり向いている。

日間賀島本編1-4

 この島の売りはなんといってもタコだ。タコを全面的に押し出してきていて、島の至る所でいろいろなタコを目にする。歓迎のモニュメントも、タコがハチマキをして扇子を振っている。
 もう一つの名物は、フグだ。下関で食べられているフグの一部は、この日間賀島で獲れたものだったりもするらしい。ここで獲れるものはそれだけ美味しいということだろう。トラフグのシーズンは10月から3月までなので、夏場に行っても食べることはできない。
 タコ漁のシーズンはよく分からない。秋くらいに解禁になるんだろうか。風物詩である干しダコ風景は、12月のものだ。寒風に2週間さらして干しダコができあがる。それを縁起物として神棚に供えられたりするそうだ。普通のタコは一年中食べられるものなんだろうか。

日間賀島本編1-5

 タイルでツボに入ったタコの絵が描かれている。日間賀島の島民がどの程度タコを好きなのはかよく分からないけど、島としてはタコをぜひよろしくお願いしますと強く推してきているのは感じられる。せっかくだからタコ関係のものを何か食べようかとも思ったのだけど、気軽に食べられるようなものは売ってなかった。タコせんべいのおみやげくらいだ。島で唯一のたこ焼き屋の店は閉まっていた。めったに開いてないらしい。
 道ばたでおばちゃんがタコを売ったり、学校帰りの中学生がタコの足をかじっていたり、女子高生がタコのストラップをじゃらじゃら付けた携帯でメールをしているというような光景も目にしなかった。今はタコのシーズンオフなのかもしれない。
 日間賀島の名前の由来は、日本の間ん中で貝が獲れる島、というところから来ているらしい。

日間賀島本編1-6

 昼食は例によって持ち込み。私が焼いたマカロンという焼き菓子と、ツレが買ってきたたまごプリンでランチとなった。
 マカロンはまずまずの成功で、美味しく食べられた。1個しか持っていなかったわけではなくて、もう食べ終わって、次にたまごプリンにかかるところだ。
 後ろに写っているは、島の外から遠足に来た小学生たちだ。民宿のおばさまたちに作ってもらったカレーを食べていた。あまりにも何杯もおかわりをする男子は、そんなに食べたらおなかこわしてまうでもうあかんてと止められていた。いくらかは島特有の言い回しもあるのだろうけど、基本は名古屋弁だ。それも、ちょっと古くて強めの名古屋弁だった。

日間賀島本編1-7

 ランチのあと、イルカのタッチ体験というのをしたのだけど、それはまた別の機会に紹介したい。
 午後からはレンタサイクルで島の散策に出た。喫茶いこいが1時間500円で自転車をレンタルできる。
 ぐるりと一周するだけなら30分くらいだけど、島の内部にまで行こうとすると自転車はむしろ足手まといになる。歩きと自転車と、どっちで回った方がいいのかはなんとも言えない。私たちの散策は主に神社仏閣巡りだったから、時間に余裕があれば歩きでもよかったかもしれない。電動機付き自転車があれば最高だけど、そんなに気の利いたものはない。1時間1,000円でもいいから、ぜひ電動付き自転車を導入して欲しいところだ。あれがあれば散策はぐっと楽になる。

日間賀島本編1-8

 島民の主な移動手段はスクーターだ。人口2,200に対してスクーター台数が1,200というから、島の人口の半数以上はスクーターを持っていることになる。子供やお年寄りは持ってないから、大人の大多数が所有しているということになるのだろう。
 ノーヘル率は90パーセント以上。シートベルト率はほぼゼロ。後部座席のシートベルト着用義務など永久に定着しないであろう、ここは無法地帯だ。それでもめったに事故が起きないというからすごい。
 道が狭いので、車は少ない。一家に一台までで3ナンバーは不可という制約もあるそうだ。
 坂道が多いから自転車は流行らない。路線バスもなく、タクシー会社もないから、みんな自力で移動するしかない。

日間賀島本編1-9

 狭い路地はアップダウンがあって入り組んでいる。それなりに詳しい地図も持っていったのに、神社仏閣探しの途中で道に迷ってしまった。狭い島だから迷ったところで迷子になる心配はないにしても、目的地にたどり着けないのは困る。それさえも楽しめる心と時間の余裕が欲しい。
 私たちは二島を巡るための時間が6時間ほどだったので、ややゆとりが足りなかった。なかなか行けないところだから、どうせなら二島回りたいと思うのは人情だけど、日間賀島でゆっくり散策をして一泊して、翌日篠島へ行くというのが理想的だろう。実際、そういう人が多いんじゃないかと思う。島へ行って美味しい海の幸を食べないのももったいない。

日間賀島本編1-10

 島には唯一のものがいくつもある。信号機、診療所、派出所、小中学校など。
 公衆電話ボックスはどうだろう。私が回った範囲ではこれ一つしか見なかった。
 携帯電話は圏内だ。ネットのLAN回線とかはどうなんだろう。光は来てないか。
 電気はもちろん完全に来ていて、水道は愛知用水から海底の水道管によって送られてきている。
 離島とはいっても、知多半島から近いところに位置しているから、沖合の島とはいろんな部分で感覚的な違いはあるだろう。いざとなればすぐ本州にも行けるし、向こうから人も来てくれる。

日間賀島本編1-11

 港がいくつかあって、漁船がやたらめったらたくさんある。島には570隻からの漁船があるというから、この所有率もすごい。就労者の半数を超えている。漁師なら船を持っているのは当たり前と思うかもしれないけど、一人一隻というのは普通じゃない。
 島の男はほとんどが船とスクーターを持っていて、ヘルメットを持っていないということになる。

日間賀島本編1-12

 南の高台に小学校と中学校が並んでいる。生徒数はどれくらいなのだろう。校庭にいる生徒や下校の様子を見ると、それなりの人数はいそうだ。最近は少子化だから以前に比べたらずっと減っただろうけど、それでも子供が少ない島という印象ではない。
 高校はないから、みんな船で本州に通っている。高速船でも何人か見かけた。1980年に内海高校の日間賀島分校ができたことがあったものの、生徒数が減って2001年に閉校となってしまった。

日間賀島本編1-13

 小学校近くに見晴らしのいい場所がある。インドハマユウ越しに篠島を眺めた。
 離島といっても南国ではなく年間平均気温も15.6度と名古屋よりもわずかに低いくらいだ。だから、基本的に咲く花は同じということだろう。ただ、海辺の潮風ということで咲く花の種類はある程度違うかもしれない。

 日間賀島本編の第一回はこれくらいにしておこう。島の話だから、そんなに焦らず、ゆっくりといきたい。来週は梅雨の終盤ということで雨も多そうだし、ちょうどいい。
 神社仏閣編は後回しにして、次回も本編の続きを紹介したいと思っている。明日はサンデーだから、また来週。


愛知の離島を巡る二島物語 ---予告編
2008年06月28日 (土) | 編集 |
二島物語予告編-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 離島へ行こうシリーズ第二弾は、愛知県南知多の日間賀島(ひまかじま)と篠島(しのじま)の二島物語。
 去年の暮れに行った三重県の賢島は、近鉄電車での乗り入れだったから、島という感覚がなかった。今回は船での上陸だったから、島に降り立ったなという感じがした。高速船は揺れて弾んで、出だしから島気分を満喫させてくれる。
 早速撮ってきた写真をお届けしたいところなのだけど、今日はもう余力が残ってない。まずは予告編ということで、本編は明日以降になる。
 梅雨の時期で心配だった天気は、ときどき曇りながらも最後まで青空と日差しがあって、またもや真っ赤に日焼けしてしまった私であった。

二島物語予告編-2

 そんなわけで、今日はここまで。また明日。


花鳥園フクロウのゴッドファーザーになった報告と早寝で簡単更新
2008年06月26日 (木) | 編集 |
花鳥園-1

KONICA MINOLTA α-7 DIGITAL+MINOLTA 50mm Macro f2.8 / FUJIFILM FinePix S2pro



 掛川花鳥園でフクロウの名前を募集していたので、ものは試しと応募してみたら採用されてしまった。アフリカワシミミズクのミコトちゃんがショーに出ていたら、その子のゴッドファーザーは私です。
 採用されたといっても、最終的には多数決で決まったので、私のセンスが冴えていたとかそういうことではない。みんな考えることはけっこう一緒だ。その前にいるアフリカワシミミズクの兄弟がヤマトとタケルだったから、それに続くのはミコトしかないだろうという安易な発想だった。
 まあでも、これでまた花鳥園へ行く理由もできたし、選ばれたことは嬉しいことだった。いただいた記念品が上の写真のフクロウの置物と、ポポちゃん写真集のメモ帳だ。いい記念になった。フクロウは、自分で作った招き猫の土鈴の横に並べてみた。メモ帳はもったいないとかいわずに使っていこう。

 明日は遠出で、早起きなので、ゆっくりブログを書いている時間がない。ということで、花鳥園で撮った写真を並べて、今日は終わりとしたい。
 この写真はこの前行ったときではなく、その前に行ったときのものだ。そのうち使おうと思って忘れていた。このまま眠らせておいても仕方がないし、9月にはまた花鳥園へ行きたいと思ってるので、ここで出しておこう。
 明日のブログは撮りたての写真になると思う。ここしばらく神社仏閣ネタの比率が高くなっていたから、久しぶりに違う空気の写真をお届けできそうだ。ただし、明日行くところもある意味神社仏閣しか見所がないところだから、結局それかよってことになりかねない。
 行き先を書くと限定されすぎて誰かに見つかってしまうおそれがあるから、書かないでおこう。めったに人に会うようなところではないから、誰かに会ったとしたらその方が驚く。

花鳥園-2

 クラハシコウと仲間たち。
 この前行ったら、セイタカシギの数が減っていた。このときはこんなにもたくさんいたのに。

花鳥園-5

 翼を広げてクラハシコウ。メシをよこせとアピールをする。この状態でエサの魚を放り投げてやると、器用にクチバシでキャッチする。

花鳥園-3

 水が描き出す絵も撮りどころのひとつ。フラミンゴは自分の顔が映ってるのが分かっているのかな。

花鳥園-6

 突然、翼をばたつかせて走り出すフラミンゴたち。彼らには彼らの気分があり、彼らのタイミングがある。人には分からない呼吸のようなものが。

花鳥園-4

 たたずむセイタカシギ。光と影の中で何を思う。

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 鳥の脳がどれくらいなのかは知らないけど、一日何を考えてるんだろう。
 賢いインコなどは人の言葉も覚えるし、何か考えていそうな雰囲気もある。感情もありそうだ。小型インコと大型インコの差はどれくらいなんだろう。

花鳥園-8

 クジャクのメス3羽に同時アタックを仕掛けるオスのクジャク。しかし、メスの反応は鈍い。ほとんど無視に近い。見ていると気の毒になるほど相手にされていない。オスのクジャクは他のどんな鳥よりも派手で美しいのに、人間が思うほどメスに対してはアピールになっていないようだ。オスにしてみたら、ここまでやっても駄目なのかと、悔しさで一杯だろう。

花鳥園-9

 これは確かオウギバトだったと思う。カンムリバトじゃなかったはず。
 オウギバトの飾りは実際どれくらい役に立っているのか。頭の後ろだから、自分では見えない。
 地上をトコトコ歩いている鳩で、あまり飛ばない。飛ぶのは夜寝るとき木の上に登るためくらいだ。

花鳥園-10

 浮き草の上を走るレンカク。翼を広げてバタバタさせているから飛べないのかと思いきや、その気になればけっこう飛べるらしい。
 チビの頃は足が先に発達して、翼は最後に生えそろうから、水に落ちると助からない。親にもどうにもできないのだろう。
 ここのところ立て続けにヒナが孵って無事に成長しているようだから、レンカク大ファミリーになる日は近そうだ。

花鳥園-11

 おとぼけアンソニー。そっけないフリをしても実は寂しがり屋さん。こっちを見ていないようでいてよく見ている。
 アンソニーはまだ4歳。50歳まで生きるとしたら、長生き勝負に勝てない可能性が高い。40年後くらいに花鳥園へ行って、まだアンソニーがいたら嬉しい。

花鳥園-12

 花鳥園の中では人気薄のエミューだけど、私たちはいつも会うのを楽しみにしている。コワモテだけど、心優しき鳥なのだ。
 エミューにかかればエサは一撃で持っていかれて、50円など瞬間的になくなってしまう。もう食べたくないってくらい食べさせてやろうと思ったらいくらくらいかかるんだろう。

花鳥園-13

 恐竜の足。これを見れば、鳥は恐竜が進化した生物だという説は納得できる。

 そんなわけで、今日はここまで。
 ちょっといってきます。


水屋を発見できなかった瀬古散策の路地裏で昭和の面影を見た
2008年06月26日 (木) | 編集 |
瀬古散策2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 縄文時代の日本は、今よりも気温が1〜2度高く、海面は4〜5メートル高かったと考えられている。なので、現在の名古屋市はほぼ全域が海の底で、一番北にある守山区に海岸線があった。それゆえ、このあたりは早くから人が住み始めた場所で、古墳なども多く残されている。
 平安から室町時代になると海岸線はぐっと南に下がり、名古屋の北側は奥地となった。その頃は、善光寺街道と瀬戸街道沿いにポツリ、ポツリと集落があるような農村だったという。守山区も森山と表記されることが多かったようだ。
 昨日から紹介している瀬古地区がちょうどそういう地域に当たり、せこの郷と呼ばれていた。せは背中、こは場所を表し、裏手といった感じだろうか。
 善光寺街道というのは、その名の通り、長野の善光寺へ行くための道だ。京都や大阪、江戸など、それぞれの国にある脇道で、東海道のような公式の一本道とは違う。尾張の場合は、東海道と中山道を結ぶ近道として発展したという歴史がある。江戸時代に入ってからは藩によって整備され、ますます重要な道となっていった。
 瀬古にはその名残がわずかにあって、現在の天神橋から瀬古商店街を北上し、瀬古小学校の東から勝川橋までつながっている。当時は矢田川、庄内川ともに橋がかかっておらず、渡し船でいくか、水が少ないときは歩いて渡ったそうだ。国道19号線が開通してからは、旧道もすっかりすたれて忘れられてしまった。
 上の写真は、瀬古東一丁目あたりの善光寺街道で、朱塗りの祠(ほこら)がある。これと似たものがあちこちにあるから、街道と関係があるものなんだろう。旅人の安全を守るためなのか、子供を守るためという話もある。
 今日は瀬古散策の本編となる。目的の水屋は発見できなかったけど、水屋とは何かというあたりも書いていきたい。

瀬古散策2-2

 道ばたの石仏がお寺に属するものなら、祠は神社の小型版のようなものだ。中に仏像が入っていたりすることもあるそうだから、ミニ神社と言い切ってしまうのは問題があるのだろうけど、町や村の素朴な信仰の表れには違いない。
 祠は、ほくら(神庫または宝倉)から転じたものだと言われている。

瀬古散策2-3

 瀬古地区の祠がいつからあるものなのかは知らない。見た感じそれほど古いものではなさそうだから、江戸時代とかではなく、昭和に入ってからのものかもしれない。
 古くなったら作り直しているとすれば、元々あったものは江戸とかもっと古いという可能性もある。
 手間の花は、アガパンサスだと思う。南アフリカ原産のユリの仲間だ。明治になって日本に入ってきたものだから、江戸時代の風景には似合わない。

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 これは鳥居を持っているから、ちょっと本格的な祠だ。ここまでくると、神社の小型版と言って差し支えないと思う。
 こういうものが町の風景に溶け込んで点在しているというのも、このあたりのいいところだ。

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 水屋を探して歩き回っているときは、どの道が善光寺街道か分かっていなかったから、とにかく細い道があったら入り込んでみた。路地裏フリークかというほどの路地裏歩きを見せる私。

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 わ、懐かしいと思った。昭和40年代、50年代の長屋風景だ。久しくこんな風景は見てなかった。小学生くらいまではまだこういう家がけっこう残っていたけど、気がついたらいつの間にかなくなっていた。ずっと忘れていた小学生のときの感覚がよみがえった。

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 おおお、これまたすごい。まだこんなアパートが残っていたか。表にも生活感があふれ出していて、すごいことになっている。純昭和アパートとでも呼びたくなるようなものだ。
 昭和40年代に見たとしても、このアパート年季が入ってるなと思っただろう。

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 水屋探しから、だんだん昭和の路地裏探しに目的が変わっていった。このあたりもなかなかのものだ。車はすれ違えないどころか、入っていくのもためらわれる細さだ。
 名の知れた観光地でなくても、日本のいたるところにまだまだ昭和の面影というのはたくさん残っているのだろう。車を降りて、一本、二本、奥へ入っていけば、こんな光景と出会うことができる。

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 水屋探しはいっこうに進展を見せず、疲労だけがたまる。
 外から見たら石垣が見えたから、もしかしたらこんな森の中にも水屋は埋もれているのかもしれない。どこかでそんな情報も見たのだけど、それがここかどうかは分からない。

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 小学校の西側に細くくねった道があって、そのあたりが怪しいとにらんで何度も行き来した。この家もそれっぽさを漂わせるのだけど、水屋とは違うようだ。
 ただ、いかにも昔のお金持ちの家といった趣で、当然ここも水屋を持っていたに違いない。
 帰ってきてから、ここがかつての庄屋さんだった家だということが分かって、なるほどと納得した。

瀬古散策2-10

 庄屋さんの家の敷地内にあって、一段高くなっているこの建物がどうやら水屋っぽい。生け垣と木々に遮られて、下の方が見えないので確信は持てないのだけど。
 このあたりは庄内川と矢田川がたびたび氾濫して水浸しになって、その自衛策として高く土を持って垣を築き、食料貯蔵庫兼避難住居として建てた建物を水屋(みずや)という。一般には蔵式と住居式があって、ここは両方を兼ねた住居倉庫式と呼ばれる形式のものが多かったようだ。
 ただし、こういうものを持っているのは中流以上の家で、持てない家は洪水のたびに大被害をこうむっていた。もともと低湿地帯で、窪地のようになっていたことから、一度水に浸かるとなかなか水が引かずに、引くまでに数週間からひと月以上もかかったという。だから、水屋は住居としての機能も持っていなければいけなかったというわけだ。その間は、備え付けの舟で行き来をしていたそうだ。
 かつてたくさんあった水屋も、現在は3つほどが残るだけとなった。その中の一番水屋らしい水屋が、私の探していた東龍(あずまりゅう)という酒屋さんのものだった。結局どこにあったかというと、小学校の東の路地を北へ進んだ先だった。近くまで行けば案内標識が出てるそうだ。

 そんなわけで、私の水屋探し瀬古散策は、メインディッシュ抜きで終わりを迎えることになってしまった。昭和の路地やアパートなどの収穫はあったものの、肝心のものが発見できずに消化不良の気分が残った。
 このままでは終われないから、もう一度出直そうと思っている。少し離れたところには、守山城跡の宝勝寺や、大永寺などもあるから、そちらとからめて巡っていこう。大永寺地区や、庄内川を渡った勝川地区にも水屋があるようだから、余裕があればそちらも回りたい。
 守山区も、大森、小幡よりも北西の地域はほとんど馴染みがないから、もう少しあちこち行って詳しくなっておきたい。
 瀬古シリーズとしては、神社仏閣編がまだ残っている。あさっては遠出で、明日は早寝なので、ちょっと間が空きそうだ。神社仏閣は生ものではないから、またそのうちゆっくり書こうと思っている。


水屋を探して瀬古を3時間歩き回ってついに発見できず
2008年06月25日 (水) | 編集 |
瀬古散策1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 名古屋市守山区の瀬古というところに、古い水屋が残っているというのを知って、見に行ってきた。しかし、結論からいうと、水屋を発見することはできなかった。3時間も歩き回って探したのに。下調べが不充分だった。帰ってきてからもう一度よく調べてみたら、一本手前まで行って引き返していたことが分かった。残念というか、悔しいというか、間抜けというか。
 今日はすっかりくたびれてしまって、写真を現像するだけで精一杯で、しっかり復習するところまでいけなかった。だから、瀬古散策編のプロローグとして写真を並べて、お茶を濁すことにする。本編は明日以降ということで。
 上の写真に写ってるのは中央線の電車。東に中央線、真ん中に国道19号線、西に名鉄小牧線がそれぞれ縦に町を貫いている。交通の便がいいようなよくないような微妙な感じだ。中央線を利用する人はいいとしても、名鉄は味鋺へ行くにしても上飯田へ行くにしても遠い。地理的には名東区などよりも栄や名駅に近いし、大曽根もすぐだから、車なら便利そうだ。
 水屋や善光寺街道なんかについては、次回にゆっくり書きたいと思う。今日はとりあえず写真だけ。

瀬古散策1-2

 東邦ガスの大きなタンクがあるのは、住所としては新守山になる。遠くから見えている大きなガスタンクはこれだったのか。
 左側を向くと、名古屋駅のタワー群の一部が頭をのぞかせている。はっきり全景は見えないものの、けっこう大きく見える。距離が近いことが分かる。

瀬古散策1-3

 たぶん、古川だと思う。絞りのオシロイバナが咲いていた。
 この土地は北の庄内川と南の矢田川に挟まれて、昔からたびたび水害にあってきた。水は恵みにもなれば敵にもなる。

瀬古散策1-4

 こちらは矢田川の河川敷。天神橋緑地と名づけられているけど、特に何があるというわけではない。犬の散歩をしたり、ジョギングや散歩をしたり、子供たちが遊んだり、みんな思いおもいに過ごしている。
 町の中にこういう場所があるというのはいいことだ。ここに来れば広い空もある。

瀬古散策1-5

 今日は梅雨の間の晴れ間で暑い一日だった。紫外線対策の日傘も必要というのもだ。

瀬古散策1-6

 このあたりもすっかり住宅地となって、農地はごく一部になっている。昔は農村だったろうに。
 小さな畑の脇でタチアオイが咲いていた。

瀬古散策1-7

 建て売り住宅なんだろうけど、左右対称のようでいてよく見ると違っている。窓の配置や大きさなどに個性を示そうとしたのか。家の大きさも微妙に違う。

瀬古散策1-8

 庄内用水元杁近くの黒川。もう少し先へ行くと、庄内用水元杁樋門があるはずだ。時間切れでここも見に行けなかった。

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 小牧空港が近いから、上空を頻繁に飛行機が飛んでいく。うちの近所でもたまに見かけるこのローカルなやつと、あとは自衛隊機だ。

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 水屋を探して何度もうろつきまわった道。でも、この先へ行ったところにも一つあって、それは外からはっきり見えないだけだったのだ。だから、水屋の一部は見ている。

瀬古散策1-11

 唐突にテニスコート。一面だけどクレーコートの本格的なものだ。一般に貸し出してるようなものではなさそうで、隣が元庄屋さんの屋敷だから、そこの家の専属コートかもしれない。
 高校、大学までは日が暮れてボールが見えなくなるまで、よくテニスをしていた。やらなくなってから久しい。

 今日はここまでとする。明日はたぶん、この続きになると思う。瀬古の歴史や善光寺街道なんかについても書きたいし、神社仏閣巡りもしてきたから、瀬古シリーズは全部で3回か4回になりそうだ。


密蔵院には多宝塔があるというべきか多宝塔しかないというべきか
2008年06月24日 (火) | 編集 |
密蔵院-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 春日井の外れに密蔵院(みつぞういん)という寺がある。神社仏閣好きの間では、重要文化財の多宝塔がある寺としてちょっとは知られた存在なのだろうけど、一般的な知名度は高くない。かつてこの寺が尾張地方における天台宗の中心地だったと知る人もさほど多くないだろう。
 最盛期には境内に36の建物が建ち並び、尾張・美濃を中心に全国11の国に700以上の末寺を有し、修行僧が3,000人もいたという。この前出てきた竜泉寺も、この密蔵院の末寺の一つだった。
 それ以前、この地方の天台宗の中心は、小牧にあった大山峰正福寺(通称大山寺)だった。現在、大山寺は跡地として残るばかりで、かつての栄華の面影は何も残っていないという。当時は比叡山延暦寺、姫路の書写山円教寺(このブログで以前登場した)と並んで天台宗三大道場といわれていたというのに、寺の浮き沈みというのも激しいものがある。
 天台宗は法蓮華経を教典として中国で生まれた宗派で、初め鑑真和上が来日した際に典籍が持ち込まれ、平安時代のはじめに向こうで修行した最澄が帰国(806年)して伝えたのが、日本における始まりだった。
 総本山は言わずとしれた比叡山延暦寺だ。ここから円仁、円珍など多くの高僧が育っていった。
 最澄の一年後に唐から帰国したのが弘法大師空海で、最澄は一時空海に弟子入りして密教の本流を学ぼうとしている。しかし、両者は考えの違いから別れ、空海は真言宗の祖となり、最澄も独自の密教を深めていくことになる。
 比叡山延暦寺というと、織田信長を思い出す人も多いかもしれない。延暦寺焼き討ちによって信長の残虐性が際立つことになってしまったのだけど、延暦寺にも大いに問題があった。
 室町時代になると延暦寺は武装化を強め、独立国家のようになっていた。時の権力者にも平気でたてつき、強大な権力と武力と資金を抱えて、好き放題にやっていた。奈良の興福寺もそうだったという。
 このまま放置しておくわけにはいかないと最初に立ち上がったのが室町幕府六代将軍の足利義教(くじ引きで選ばれた将軍)で、曲がりなりも制圧に成功したものの、義教が死去すると再び武装化に走り、戦国時代には織田信長に対して徹底抗戦の姿勢を見せる。山にこもった僧兵4千人に何度となく武装解除するように通達するもまったく聞き入れず、ついには焼き討ちという事態にまで発展してしまった。
 この信長と延暦寺との対立が全国の天台宗に与えた影響は大きく、これをきっかけに密蔵院初め、多くの天台宗の寺は衰退していくことになる。たくさんあったこの地方の天台宗の寺も、現在は竜泉寺と守山区瀬古東の石山寺しか残っていない。
 信長の死後の延暦寺がどうなったかというと、秀頼、家康、家光らによって僧坊は再建され、さすがに懲りたのかその後はおとなしくなった。家康の死後は、天海僧正によって江戸の鬼門の守りとして建てられた上野東叡山寛永寺に実権が移った。
 1994年には世界遺産に登録されている。
 天台宗のその他の大本山としては、日光の日光山輪王寺、岩手県平泉の関山中尊寺、長野の定額山善光寺大勧進がある。
 以上が、長い前置きとなった天台宗スタディだ。本編の密蔵院については、実はあまり書くことがないので、前置きに力を入れてみた。見所としても多宝塔しかないから、写真もほとんどそればっかりだ。かつての繁栄の面影は、多宝塔にわずかに残るばかりなのだった。

密蔵院-2

 多宝塔を見に来たのは、これで3回目か4回目になる。最初は2005年の1月で、その後1回か2回、桜を見るために訪れている。だから新鮮味はないけど、それでも何度見ても立派なものだと感心する。
 正式名称を二重塔婆(にじゅうとうば)という。といっても実際には二重ではなく一重の造りになっている。円形の本体の上に正方形の屋根を持ち、胴のまわりに裳階(もこし)をつけているから二重に見えるだけだ。
 高さ約16.5メートル。
 室町時代初期に建立されたもので、禅宗様式が取り入れられた珍しいスタイルをしているのだという。どのあたりが禅宗スタイルなのかはよく分からないけど、言われてみると他の多宝塔とは印象が違うようだ。
 これまでに何度も修理が行われながら、建てられた当時の原形を保っているといわれている。
 屋根はこけら葺きで、一番最近では平成14年に葺き替えが行われたようだ。まだ6年しか経っていなくても、しっかり古い感じが出ていて違和感はない。

密蔵院-3

 正面下から。あらためて見ると、この多宝塔は大きさに気づく。胴回りが立派でどっしりしている。知立神社や稲沢で見た多宝塔よりも一回りか二回り大きい感じだ。

密蔵院-4

 見るべきものは多宝塔しかないから、いろんな角度から見て、撮ってみる。一番格好いいのはこのあたりからだろうか。
 午後はまともな逆光になってしまうから、青空バックに撮りたければ午前中に行かないといけない。この裏側からは撮るスペースがない。

密蔵院-5

 こちらが本堂なのだろうか。なんだか民家っぽくて、うかつに入っていけない雰囲気がある。賽銭箱が置かれている様子もない。
 私が行くのはいつも夕方だから、昼間に行けばもっと開放されているのかもしれない。

密蔵院-6

 江戸末期の1844年に刊行された尾張名所図会では、こんな伽藍配置になっている。江戸時代でさえすでに古い建物は多宝塔だけになっていたことが分かる。
 鎌倉時代の1328年、密蔵院は慈妙上人(じみょうしょうにん)によって開山された。正式名称を、医王山薬師寺密蔵院 (いおうざんやくしじみつぞういん)という。
 慈妙上人については、密蔵院を開いたという以外に情報がなくて、どんな人物だったのかはよく分からない。美濃の御嵩(みたけ)からやって来たらしい。どういう経緯で密蔵院が尾張の大本山になっていったのかというのも、調べがつかなかった。慈妙上人によるところが大きかったのか、それ以外に要因があったのか。
 戦国時代に衰退したときは、末寺が700から100に、塔頭も36から16になったというから、半減どころか激減だ。
 江戸時代初期の1615年に珍祐が七堂を再興したものの、再び力を失っていき、1891年の濃尾平野で本堂、仁王門、灌頂堂が倒壊すると、建て直す財力も残っていなかった。

密蔵院-7

 境内には、開山堂や観音堂、山王社などがある。

密蔵院-8

 本尊の薬師如来は非公開で、蔵にしまい込まれている。
 毎年10月の第一日曜日に所蔵の文化財を一般公開しているそうだ。このときばかりは近隣の神社仏閣ファンが一堂に会するのだろうと思う。きっと写真は撮らせてくれないから私は行かない。撮らせてくれるなら喜んで行くけど。

密蔵院-9

 最後にもう一度、多宝塔を撮って帰ることにする。夕焼けバックのシルエットなんかもよさそうだ。夜間はライトアップもしてるというからちょっと驚く。確かに、離れたところにライトが設置されていた。夜あのあたりを通ることがあったら、見に行こう。
 愛知県の多宝塔コレクションも、一歩ずつ着実に進んでいる。けど、ここで一段落。残りの岡崎大樹寺と豊橋の東観音寺は遠いから、しばらく行けそうにない。荒子観音は一度行っているけど、ブログでは紹介してないから、そのうち行って写真を撮ってこよう。八事興正寺の五重塔についても未紹介になったままだ。
 全国には170基以上の多宝塔があって、国宝や重要文化財になっているのはわずかに39。そのうちの7基が愛知県にあるというのは、なかなかのものだ。多宝塔は東日本に少なく、多くは関西に集中している。全制覇というのは無理だろうけど、国宝になっている滋賀県大津の石山寺、大阪泉佐野市の慈眼院、和歌山伊都郡の金剛三味院、海草郡の長保寺、那賀郡の根来寺大塔、広島県尾道市の浄土寺の6つは見てみたい。
 だんだん神社仏閣ブログのようになってきているけど、これは流行ものだから、そのうちブームは終わります。などといいながら、明日も神社仏閣ネタの予感がする。


郷土料理サンデーで全国47都道府県を制覇しようシリーズ第一弾
2008年06月23日 (月) | 編集 |
ご当地グルメサンデー

KONICA MINOLTA α-7 DIGITAL+MINOLTA 50mm Macro f2.8



 先週の沖縄料理からスピンオフした企画、郷土料理サンデーが今日から始まった。ご当地グルメさん、いらっしゃいということで、県特有の料理を作っていこうというものだ。
 最初は、一回に一県の料理を三品作って47都道府県を制覇していこうと考えたのだけど、そんなことをやっていたのではそれだけで丸一年かかってしまうことに気づいて思い直した。一県一品で一度に三品作れば、4ヶ月でできる。
 まずは全国各地にどんな郷土料理があるのかを知ることから始めた。すると、たくさんあるようで意外とない。特殊な食材を使うものは作れないし、その土地でとれたものを使う料理となると再現は難しい。食べたくないものは作りたくないなんてことになると、選択肢は限られてくる。全国制覇への道のりは思った以上に厳しそうだ。
 今回はまず最初ということで、食べたいもので、作りやすそうなものを選んだ。地方別に揃えようとも考えたのだけど、そうするといろいろ難しいこともでてくるので、とりあえず縛りは取り払った。そうやって選んで作ったのが上の三品だ。

 まず手前の左側は、北海道の「いもだんご」と呼ばれる料理だ。
 どの程度一般的なものなのかは知らない。単純に言ってしまえばジャガイモハンバーグのようなものだから、北海道の郷土料理と呼んでいいのかどうかも微妙だ。
 ところで、郷土料理とご当地グルメの線引きというのも曖昧で、どういう扱いにしたらいいのか迷った。昔から食べられていてその土地に根付いている料理が郷土料理で、新興勢力的にあらたにその土地の名物となった料理をご当地グルメと呼ぶというのが一般的な区別のようだ。名古屋でいえば、あんかけスパは郷土料理じゃない。でも、味噌カツはどうなんだというと悩む。
 今回のこの企画としては、なるべく郷土料理寄りでいきたいとは思っているけど、場合によってはご当地グルメとなってしまう場合もある。北海道のいもだんごというのも、どっちに属するものなのか、私には判断が難しい。
 それはさておき、いもだんごだ。これまでに似たようなものを何回か作ってるから、新鮮味はなかった。どのあたりに北海道のオリジナリティを出せばいいものなんだろうか。
 料理としては単純で、ジャガイモ(北海道だから男爵いも)をレンジで加熱するか茹でるかしてつぶして、カタクリ粉を混ぜてハンバーグ状にして焼くというのが基本だ。味付けはバターしょう油が一般的のようだ。ジャガイモに対してカタクリ粉を4分の1ほど混ぜるというあたりが、北海道のいもだんごの特徴と言えるかもしれない。これでかなりもっちりした食感になる。
 私の場合は、自分好みに多少アレンジを加えた。刻みタマネギととろけるチーズを加えて、カタクリ粉は少なめにした。上にかかっているのは、青のりとゆで卵の黄身の裏ごしだ。白身はいもだんご本体に混ぜ込んだ。
 これは誰が作ってもまずくなりようがない料理で、私としてはお馴染み感が強かった。普通に美味しい。いもだんごを北海道代表にしてくれるなという意見もあるだろう。北海道には美味しい料理が他にもいくらでもあるじゃないかと。私もそう思う。だから、一県一品にこだわらないでいこう。

 右手前は、徳島のフィッシュカツというものだ。
 徳島ではかなり一般的に認知された料理のようで、一般家庭で作られるだけでなく、スーパーやコンビニでも普通に売ってるらしい。徳島でカツといえばフィッシュカツのことで、豚カツはトンカツというのが常識なんだとか。なんだか、お母さんにだまされてハムステーキをステーキと思い込まされたまま大人になって初めて違うことを知るみたいな話だ。徳島の人たちは本当にフィッシュカツこそ普通のカツと思い込んでいるんだろうか。
 これも料理としては非常にシンプルなもので、特徴らしい特徴があまりない一品だ。白身魚をすり身にして、そこにカレー粉で味付けをして、パン粉をつけて揚げるだけだ。
 カツというとトンカツを連想するから、なんとなく豚肉を指すような言葉と思いがちだけど、実際はカツレツの略で、それは小麦粉やパン粉などの衣をつけて揚げる料理のことをいうから、フィッシュカツという名前はまったく不自然ではない。フィッシュのカツレツだから、そのままで正しい。
 家庭で作る場合は、白身魚をすり身にして粘りを出させるのが難しいところだ。つなぎがないから、白身をつぶしただけでは衣がつきづらくて、揚げるときにバラバラになってしまう。多少はカタクリ粉などでつないで、なるべくこねた方がよさそうだ。
 カレー風味というのがありそうでなかったフライと言えるだろうか。更なる味付けとしては、マヨネーズしょう油にしてみた。
 付け合わせは、カレー粉と塩コショウで味付けしながら炒めたキャベツだ。これは郷土料理とは関係ない。

 一番奥は、宮城県のはっと汁なるものだ。
 ある意味、戦時中の料理の豪華版といえるような汁物料理で、類似のものは全国各地に存在している。昔でいうところの、すいとんというやつだろうか。
 はっとの語源は、あまりの美味しさに御法度となったからとかなんとか。本当だろうか。
 小麦粉に水を加えて練って、伸ばして茹でたものを入れた汁物だ。はっとの形状に各地の特徴があって、ある地域では団子だったり、手でちぎって入れたり、様々のようだ。宮城の場合は、薄くのばしてぺらぺらにする。
 汁はしょう油ベースのお雑煮といえばそのものだ。だし汁にしょう油などで味付けをして、具はダイコン、ニンジン、サトイモ、長ネギ、肉などを入れる。
 はっと汁が美味しいというか、汁が美味しいわけで、はっとは入れなくても充分成立する。はっとを入れると腹の足しになることは間違いないのだけど。
 むしろ純粋にはっと汁を味わおうと思ったら、具は最小限にして、はっとだけを味わうようにした方がよかったかもしれない。はっとと長ネギくらいでよかった。そうなると、ちょっとした戦時中気分が味わえるだろう。白米は高いから、小麦粉というのは今でも腹ぺこ貧乏人の味方と言える。苦学生とかにお勧めしたい一品だ。

 全国郷土料理サンデーというのは、思いつきとしてはよかった。全国制覇はなかなか難しそうではあるけど、どうにかして47都道府県料理を作っていきたい。シリーズ化決定だ。
 これでとりあえず、沖縄、北海道、徳島、宮城はクリアということにしよう。愛知県と故郷三重県に関しても何度か料理してるから、これも作ったことにしよう。
 東北、北陸、九州あたりはそれぞれ特徴のある料理があって、何か一つくらい作れそうなものがありそうだ。問題は関東で、東京の郷土料理って何だろうと考えても思いつかない。江戸名物ということで深川丼あたりだろうか。神奈川とか何かあるんだろうか。
 まずはそれぞれの県にどんな料理があるのかを知るところから始めよう。もっといろいろ調べていけば、面白い料理も見つかるだろう。一番いいのは、その県では普通に食べてるのに他の地域の人は全然知らないような料理だ。そういう意味では、徳島のフィッシュカツというのが、今回の一番の収穫だった。


竜泉寺裏の墓地から見る夕焼け風景は個人的夕陽百選の一つ
2008年06月22日 (日) | 編集 |
竜泉寺-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 / Takumar 135mm f2.5/ 50mm f1.4



 個人的夕陽百選の一つに、竜泉寺裏がある。知る人ぞ知るというよりほとんど知ってる人はいないと思うけど、ここから見る夕焼け風景が気に入っている。墓地のど真ん中というロケーションが一般的には夕焼け鑑賞には向かないけど、そこさえ気にしなければとてもいい場所なのだ(たいていの人は気になる)。
 久しぶりにちょっと見に行きたくなって行ってきた。この日はそこからよく見える王子製紙の工場が火事になったというニュースもあって、それもちょっと気になっていた。
 夕焼け時間にはまだ早かったので、まずは竜泉寺に挨拶に寄った。ここはもう何度も訪れてる。ブログにもちょくちょく登場している。2006年11月には竜泉寺についてしっかり書いたから、もう付け足すことはあまりない。だから今日は写真中心の紹介になる。

竜泉寺-2

 竜泉寺は戦火や火災で何度も建物を失いながら再興され、現在は尾張四観音の一つとなっている。
 本堂や多宝塔は明治になってからの再建なので、見所とは言えない。一番はやはり重要文化財の仁王門だ。江戸初期の1607年に建てられたもので、堂々とした風格を有している。入母屋造のこけら葺き。両側には仁王像が立っている。

竜泉寺-3

 仁王門を斜めから。
 たくさんの幟(のぼり)が立っている。寄進というのか、奉納というのか、5千円だか1万円だかを納めると個人の名前入りで立てることができる。神社ならお稲荷さんの朱塗りの鳥居を寄進するというのもよくある。

竜泉寺-7

 明治40年に再建した本堂がだいぶガタが来ているので修繕したいから寄付して欲しいというお知らせだ。金額は1億円。高いのか安いのか、よく分からない。
 一人100円で100万人の協力が必要となる。こんなお願いの看板だけで簡単に1億円集まったとしたら、それはそれで問題のような気もする。賽銭に10円しか入れない私のような人間ばかりだと1,000万人の力を結集しないと集まらない。サラリーマンの生涯年収が約2億円というから、1億円というのは口で言うほど簡単なものじゃない。
 ここの本堂はともかくとして、名古屋城の本丸御殿は協力したい。こけら募金3千円で御殿に名前が載るから、これだけはしようかと思っている。名古屋城へ行ったときに募金もしたし、本丸御殿宝くじや本丸御殿茶を買ったりもして、ささやかながら協力姿勢も見せている。
 あちらの総工費は150億円。来年から着工して、完成は早くても平成29年と言われている。それまでちゃんと生きていられるだろうか。できれば、名古屋城をもう一度木造で造り直して欲しいけど、それは叶わぬ夢だ。

竜泉寺-4

 竜泉寺の昭和っぽいところがいい。でんわ、でんぽうって、今どき表の公衆電話から電報を打つ人はほとんどいないだろう。手作りの木製電話ボックスには、TELEPHONE BOXとある。外国人の人が訪れてるのを見たことがないけど、どうしてあえて英語だったんだろう。主なターゲットであるお年寄りには伝わりづらい。

竜泉寺-5

 この奥に模造竜泉寺城があって、展示室を兼ねている。一度入ってみてみたいと思いながら、いまだに果たせずにいる。日曜、祝日の朝9時から午後3時半までしか開いてないから、私としては厳しいところだ。
 昔はこの横に「展望台 百万ドルの絶景」と書かれた看板があったのに、いつの間にか撤去されてしまった。冷静に考えて百万ドルの価値はないことに気づいたのか。しかし、どうしてここでも百万ドルっていうアメリカナイズなんだ。ここの住職はアメリカに対する憧れが強いのかもしれない。
 竜泉寺城については、いつか一度入って、歴史的なことについても書きたいと思っている。昔からここは重要な戦闘拠点ということで歴史に登場したところだから、書くことはたくさんある。

竜泉寺-6

 竜泉寺は平安時代初期の800年前後に最澄が開いたとされる古刹だ。空海もここを訪れている。身近にありすぎてちょっと軽く見ているところがあるけど、実際は尾張を代表するお寺の一つだ。私自身、もう少し敬意を払うべきか。
 多宝塔は明治のものだから、さほどありがたみはない。とはいえ、明治28年(1895年)といえば100年以上は経っている。充分に古いものだ。

竜泉寺-8

 竜泉寺は猫の多いお寺で、その点でも行くのが楽しみなのだけど、昔から主のようにいた白猫を最近見ない。もういなくなってしまったんだろうか。このときは他の猫も見かけなかった。
 その代わり、近くの民家にいた。半飼い猫・半野良といった生活をしてるような猫だ。どちらも外国の猫の血が入ってそうだ。向かって右はシャム猫っぽい。

竜泉寺-9

 この日はあまり天気もよくなくて、雲が低い位置にかかっていたから、空は思ったほど焼けなかった。このあと太陽がすぐに隠れてしまって、夕焼けは不完全燃焼で終わった。
 ここは無粋な電線などもなくて、広くていい空が見られる場所だ。眼下にはたくさんの墓石が並んでいて、生きることと死ぬことを思う場所でもある。

竜泉寺-10

 火事があったのがどこか探したけど、分からなかった。それほど大規模なものではなく、午前中にベルトコンベアが燃えて1時間で消し止められたというからよかった。
 竜泉寺裏は夕焼けだけではなく、この風景も好きで、なんだか妙に心惹かれるものがある。こちらは夕暮れどきに灯りがともり始めてから雰囲気が出てくる。前時代的なような、近未来的なような、不思議な風景なのだ。

竜泉寺-11

 春日井は小牧空港から近いから、よく自衛隊機が飛んでいる。
 名古屋の空港が小牧から知多のセントレアに移ってしまったから、ここらあたりも静かになった。以前は、外へ出ると頭上をジャンボが飛んでいくのが当たり前の光景だったのに、今はあまり飛行機を見なくなってちょっと寂しい。

竜泉寺-12

 名古屋駅方面を撮るなら望遠レンズを持っていかないといけない。この日は忘れてしまって、135mmでしか撮れなかった。条件も悪かったから、写りがあまりよくない。
 この方角も、夕焼けか夜景になるとすごく絵になる。暗くなると手ぶれ補正を持ってしても手持ち望遠は厳しくなるから、そのうち三脚で夜景を撮ろう。夜の墓地で、三脚を立てて夜景を撮ってる人という図を想像すると、それはどうなんだとも思うけど。
 秋になって、夕焼けから日暮れの速度が速くなったときがねらい目だ。

 今日もややつなぎネタっぽくなってしまったけど、これはこれで写真を載せておきたかったからよしとする。竜泉寺も今までと違った撮り方ができたから、収穫はあった。
 夕焼けは残念だった。またそのうち出直そう。墓地の中の違う場所からの更なるベストポジションも探ってみたい。
 個人的夕陽百選を集めるというのも、一つのテーマとして持っている。今まで見た中で最高の夕焼けは、三重県の御座海岸で見た夕焼けだ。もう10年くらい前になるけど、いまだにあれを超える夕焼けは見ていない。琵琶湖の東岸から見た夕焼けも忘れがたいし、賢島も最高だった。名古屋港の東築地橋からイタリア村に沈む夕陽もよかった。ローカルなところでは、香流川、矢田川それぞれにお気に入りの場所がある。一人で100集めるのは大変だけど、少しずつ増やしていこう。


稲沢番外編は神社仏閣、花、虫、思い出話などの雑多ネタ
2008年06月21日 (土) | 編集 |
稲沢番外編-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / TAMRON SP 90mm f2.8



 稲沢神社仏閣巡りシリーズで使い切れなかった写真を並べて、今日は稲沢番外編。ネタ不足というよりも、余った写真を使い切ってすっきりしたかった。
 国府宮神社のはだか祭り(儺追神事)で使われた「なおいぎれ(儺追布)」が結ばれている様子。境内の社務所で1本100円で売られている。お守りというか、厄除けというか、日頃から持っている人もいて、願いを込めてこうして結びつけていく人もいる。稲沢の人は車の中に結んでいるのが多いんだとか。
 神社は受験シーズンが深まる年末から年始にかけてがオンシーズンでかき入れ時だ。だから、夏場はシーズンオフのようなもので、いたってのんびりしている。ピリピリした空気が張り詰めている1月あたりと今とでは、ずいぶん違うのを肌で感じる。

稲沢番外編-2

 性海寺の多宝塔を、大塚古墳からタムロン90mmで撮るとこうなる。なんとなく京都っぽいというか、中国っぽくもある。
 タムロン90mmを中望遠で使うのも好きだ。ちょっと絞るだけでカリッとなる。

稲沢番外編-3

 地図にも載ってないような神社。載ってるのかもしれないけど、通りすがりに一枚記念撮影。
 これは長光寺から性海寺へ向かう途中だったんじゃないかと思う。神明社だったろうか。境内はそこそこ広そうだったけど、本殿は確認できなかった。

稲沢番外編-4

 矢合観音を探しているときに迷い込んだ安楽寺。最初、ここが矢合観音かと思って、車をとめて歩いていったらどうも様子が違う。本堂もなく、仏像をしまい込んだような倉庫があるだけだ。
 立て札を見ると、国の重要文化財を3つも持っているとある。帰ってきてから調べたところ、木造十一面観音立像、木造阿弥陀如来坐像、木造釈迦如来坐像と、3つの重文があって、それぞれ藤原時代(平安時代の後期)に造られたものだそうだ。
 もともと国分寺の支院として建てられた寺ということで、歴史も古い。普段は仏像の公開はしてないようだけど、限定公開というのはありそうだ。
 参道は桜並木になっていたから、桜の季節はここも人で賑わうのかもしれない。

稲沢番外編-5

 このあたりは川や水路が複雑に入り組んでいる。昔は一面の田んぼ風景だったのではないか。今は郊外の町並と田んぼが混在している。地図で見ても、細い水路が毛細血管のように縦横無尽に張り巡らされているのが分かる。水が多く流れている町はいい町だ。気が淀まない。
 上の写真は安楽寺近くの三宅川にそそぐ水路と水門だろうか。水面に緑を映してちょっと雰囲気があった。

稲沢番外編-6

 稲沢は東海道新幹線が斜めに走っていて、ちょうと矢合観音近くを通っている。名古屋人の感覚からすると、なんで東京、名古屋、京都、大阪を結ぶ線が稲沢あたりを通らなければならないのかと不思議に思う。誰だよ、岐阜羽島なんて駅を作ったのは。岐阜を通るにしても、岐阜の中心から遠すぎて意味がない。どうせなら岐阜駅まで回ってもらわないと。
 そもそも東海道新幹線のルートは誰がどうやって決めたのか。効率だけを考えれば、名古屋から北上せずに三重県北部を通って真っ直ぐ西の京都を目指すのが一番早い。北陸との連絡を考えると、米原は絶対通りたかったというのはあるかもしれない。それなら岐阜羽島ではなく、素直に大垣でよかったんじゃないか。岐阜市内の人は岐阜羽島へ行くよりも名古屋駅まで行った方が近い。岐阜羽島なんかで待ってても、たまにこだまがとまるだけだ。
 それでも、新幹線がとまらない県であるより新幹線がとまる県であることを喜ぶべきか。

稲沢番外編-7

 昨日も登場した猫。たたずみ姿。猫だけが人の暮らしと共にあって自由に生きている唯一の動物だろう。その特異性は、考えてみると不思議でもあり、とても貴重なものでもある。

稲沢番外編-8

 サギのコロニー。小規模ながら、アオサギが5、6羽いるのが見えた。
 サギはこうして仲間同士でコロニーを作って、一緒に子育てをする。ダイサギやコサギ、ときにはカワウなども同居することがある。大きなコロニーになると、数百、数千羽単位になる。

稲沢番外編-9

 性海寺の歴史公園は、アジサイだけでなく、花菖蒲も植えられている。二つ一緒に見られるから、ちょと得した気分だ。

稲沢番外編-10

 花菖蒲は、もうここで見納めだろうか。今年は知立神社も行けたし、たくさん見て、勉強して、だいぶ花菖蒲とお近づきになれた。来年以降もたくさん見て、系統くらいは見分けられるようになろう。

稲沢番外編-11

 アジサイの品種は覚える気になれない。覚えても、日常会話の中で登場する機会がありそうにないし。ねえ、アジサイの品種で何が好き? なんて訊かれるとも思えないし、自分からしようとも思わない。中には、墨田の花火が好きだなとか即答する人もいるんだろうけど。
 アジサイに関して必要以上に興味を持つためには、まずアジサイ図鑑を買うことだろう。見たアジサイを後追いで調べるのではなく、まず図鑑で好きなのを見つけて、それを探すためにあちこちを巡るというふうにすれば、アジサイをもっと楽しめるようになるんじゃないかと思う。バラなんかも、そういうアプローチをするともっと理解を深めることができそうだ。

稲沢番外編-12

 こういう虫を見ると、なんでもかんでもカナブンかコガネムシと思ってしまう人は案外多いんじゃないか。でも、カナブンとコガネムシは違う種類だし、ハナムグリもまた別のものだ。コガネムシの見分けというのも、実はけっこう難しかったりする。そんなに種類はいないし、珍しいものはめったに見かけないから、一度覚えてしまえば簡単なのだけど。
 アジサイの花びらに見えているのは装飾花で、実際の花弁は役割を終えると落ちてしまう。だから、咲いているように見えても花としては終わっていることも多い。
 他の花と同様、雄しべと雌しべで受粉して、実をつけて種になる。このとき別の品種同士を掛け合わせると違うアジサイができたりするから、一般人でもアジサイの新種は生み出せる。やってみたら楽しい世界かもしれない。

稲沢番外編-13

 最後は稲沢市内で見かけたミュージックショップ。CDショップではなく、レコード店と言いたくなるような店で、表から見ただけで嬉しくなった。私が小中学校のときにあった店の雰囲気だ。店内をちらっとのぞき見たら、レコードだけでなくカセットテープさえも売っていそうだった。平成生まれの人たちは、曲がカセットテープで売られていたことを知らないだろう。カセットテープ自体見たことがないかもしれない。
 小学校のとき、初めて自分のお金で買ったレコードは、山口百恵の「秋桜」だった。今でも押し入れのどこかに「およげ!たいやきくん」なんかと一緒に眠っているはずだ。さすがにレコードプレイヤーは捨ててしまって、もう持ってないけれど。
 最後に買ったレコードは、昭和58年にH2Oが歌った「想い出がいっぱい」だったんじゃないかと思うけど、どうだろう。そのあとも何か買っただろうか。あれはテレビアニメ「みゆき」のエンディング曲だった。
 その後、レンタルレコード店というのが現れて、レコードは買うものから借りてカセットにダビングするものになった。そこからCDが登場してレコードを駆逐していくまではあまり時間がかからなかったような気がする。それでも、ダビングするのは相変わらずカセットテープで、MDが出てくるのはもっとずっとあとになってからだ。
 今でも、思い出の曲はほとんどがカセットテープの中にある。

 とりとめもなく雑多な感じになってしまったけど、写真もだいたい使い切ることができたし、これで稲沢編は番外編も含めて終了だ。
 来週は雨続きのようだから、在庫のネタでつないでいくことになりそうだ。金曜は出かけることが決まっているけど、できればそれまでに一回くらいどこかへ行きたい。最近、神社仏閣確率が高くなっているから、それ以外のネタを集めに。


何も知らずに迷い込んだ矢合観音と古刹萬徳寺訪問で稲沢編完結
2008年06月20日 (金) | 編集 |
矢合観音-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 矢合観音(やわせかんのん)は、とても分かりづらい場所にあった。地図で見ると、121号線を少し左に入ったところにあるようなのだけど、その入り口がよく分からない。2度通り過ぎて、3回目は車を店の駐車場にとめて歩いて確認しにいって、ようやく分かった。北側から南下した方がいいのだろうか。
 入り口は分かったものの、この道がまた狭い。対向車が来たら完全に立ち往生してしまう。前から車が来ませんようにと願いながら、ようやく裏手の駐車場にたどり着いた。いやはや、ここでずいぶん無駄に時間を食ってしまった。
 けど、迷いはこれで終わりではなかった。肝心の矢合観音の場所が分からない。北へ行っても南へ行ってもそれらしい建物がない。たまたま通りかかった近所の人に尋ねてようやく分かった。駐車場から見ると、南へ少し歩いて、左の細い道を入って左手の民家がそうだ。
 民家? そう、ここはどう見ても民家のたたずまいだ。お寺じゃない。矢合観音と書かれた表札がかかってなければ、分かりっこない。隠れ家的お店というのはあるけど、隠れ家的お寺というのはあまり聞かない。
 実際ここはお寺ではなく、観音様を持った民家で、住職もいないという。にもかかわらず、稲沢を代表するお寺ということになっている。私が今回寄ったのは、ここだけは重要文化財巡りではなく、稲沢の有名なお寺だというぼんやりとした情報によるものだった。何で有名だったのかという重要な情報が私の中で抜け落ちていたため、単なるおっかなびっくりの訪問に終わってしまい、ここを有名にしている万病に効く井戸水というものをいただいてくることもなく帰ってきてしまったのだった。なんて間抜けな。後の祭りとはこのことだ。
 このときはもう日没も近い時間ということで私以外に人はいなかったのだけど、昼間はおばあちゃん、おじいちゃん、病気の人がひっきりなしに水を求めてやってくる超人気スポットらしい。みなさん、ペットボトルや水筒なんかを持参して、井戸水をいただいていくんだとか。
 そんな話も知らないものだから、井戸の写真さえ撮ってない。上の写真の右側に少し写ってるのがそれで、ちらっと見て、今どきめずらしくこんなところに井戸があるんだと思っただけだった。境内にはここの家の人と思われるおばさまが掃除をしていた。井戸には見向きもしない私を見て、不思議に思ったことだろう。こいつ、何しに来たんだと。迷い込んでたまたま訪れるような場所じゃない。今にして思えば、惜しいことをしたもんだ。

矢合観音-2

 これが矢合観音のほぼ全景だ。民家としては広めの庭を持っているけど、お寺と思って見ると狭く感じるかもしれない。
 毎月18日の縁日は、参道から境内まで中高年で埋め尽くされるらしい。そういう意味では、ちょっと巣鴨に似たところと言えるかもしれない。
 井戸水はただ汲んで持ち帰ればいいというわけではなく、祈祷を受けて初めて霊水となる。上の写真でいうと、左側の建物が観音様がいる本堂に当たる場所で、右側の建物でまず申し込みをする。祈祷料は1,000円ほどだそうだ。病気が治るというなら1,000円は安いし、井戸水と思えば高い。
 本堂で祈祷を受けた水を持ち帰って、飲んだり悪いところに塗ったりすると病気が治るといわれている。
 ペットボトルは500ミリリットルくらいにしないといけないらしい。2リットルの大きなやつで持ち帰ろうなどとすると怒られる。灯油のポリタンクなどもってのほかだ。ここはただで水が汲めるとかそういうところではない。中には絶対いそうだけど。
 井戸水が万病に効くといって大勢が訪れるようになったのは最近のことではなく、話は江戸時代までさかのぼる。
 江戸時代後期、諸国を巡礼していた一人の行者がこの村を通りかかった。日も暮れて泊まるところを探して民家を訪ね歩くも、みすぼらしい身なりをした行者を警戒した村人はなかなか泊めてくれない。田舎に泊まろうは、江戸時代からあった。何軒目かでようやく泊めてくれる親切な家があって、翌朝、行者が泊まった部屋を主人が見ると小さな箱が置かれていて、中には観音像が入っていた。あの人は高貴な人だったに違いないと、この観音像を祀ったのが矢合観音の始まりだという話だ。泊めてあげるのを断った家はことごとく不幸が続いて滅びてしまったというオマケもつく。
 その行者の観音様と井戸水が病気に効くという話がどこでどう結びついたのかはよく分からない。評判を聞きつけた近所の人が観音様を見に来て、ついでにもらっていった井戸水で病気が治ったりしたことで、噂が噂を呼んで広まっていったということかもしれない。
 行者うんぬんの話は、あとから作られたお話という可能性も高い。もう一つの説として、一色城主橋本道一の弟で矢合城主・橋本大膳がこの地に観音菩薩を祀ったのが始まりだったというのもある。

矢合観音-3

 私が境内に立ち尽くしてどうしていいものか途方に暮れている姿を見かねて、奥さんが本堂が開いているからよかったらお参りしていってくださいと声をかけてくれた。せっかくだからそうさせていただきますということで、中に入って挨拶だけしてきた。
 写真を撮っていいものかどうか迷って、一枚だけ撮らせてもらった。焦って傾いて、手がぶれた。観音様(十一面観世音菩薩)も、遠くて小さいからよく見えない。
 それでも、一応お参りだけはできてよかった。それをしなかったら、民家の外観の写真を撮っただけで終わってしまったところだった。

矢合観音-4

 駐車場がある方は裏参道ということになるのだろうか。道ばたに観音様だか地蔵様だかを祀った祠がある。おいおい、キミ、そんなところで盗み食いかい。サビ猫が中に入ってなにやらごそごそしていた。私を見ても逃げないところをみると、近所のノラで人に慣れているやつだろう。こっちを見て、ニャーと一声鳴いた。
 どうやら水を飲んでいたようだ。供えられた水はきっと矢合観音の井戸水だろうから、この猫も病気知らずで長生きすることだろう。信心などなくても邪気がなければ効くはずだ。

矢合観音-5

 私に見つかった照れ隠しか、頭をかいて誤魔化していた。証拠写真も押さえたぞ。
 このあとしばらく道ばたでたたずんで、遠くを見ていた。逃げていかなかったのでカリカリチャンス到来。いつも持ち歩いているカリカリをあげたら食べていた。長生きしろよ。猫の恩返しはあるか。
 121号線から徒歩で矢合観音に向かう場合は、右に見えている道の向こうからこちらに向かうことになるのだと思う。この道は車は通れない。参道はちょっとした門前町のようになっていて、みやげ物屋や団子屋、植木屋などが並ぶ。
 有名なのは、さかえや菓子舗の矢合観音饅頭で、全国菓子博名誉金賞を受賞した名物まんじゅうだそうだ。もう一つ有名なのは、参道入り口に100年続く老舗の小玉屋食堂だ。参拝の行き帰りにまんじゅうを食べたり、食堂に寄ったりするのも、矢合観音の楽しみになっているのだろう。

矢合観音-6

 道を隔てた向かいの林の中に、小さな神社がある。どういういわれのある神社なのかはよく分からない。説明書きらしいものもなかった。
 石段があって、盛り土になっている上に小さな祠がある。
 鳥居の上の木がサギのコロニーになっていて、ダイサギかアオサギあたりが上でギャーギャー騒いでいた。時期的にヒナがいたのかもしれない。

萬徳寺-1

 この日の稲沢神社仏閣巡り最後に訪れたのは、国府宮神社にほど近い萬徳寺(まんとくじ)だった。日没間際で写真は厳しかったのだけど、せっかくここまで来たのだから、なんとしても多宝塔を撮っておきたかった。
 山号は長沼山。真言宗豊山派。
 一見するとさほど由緒のある寺に見えないから、多宝塔ばかりに心を奪われていた。けど、帰ってきてから古い歴史を持った名刹だということを知って、申し訳ないような、もったいないことをしたような気持ちになる。

 始まりは768年というから奈良時代後半、称徳天皇の勅願によって慈眼上人が創建したとされている。
 その後、木曽川(鵜沼川)の氾濫で一時荒廃したものを、834年、弘法大師空海がこの地を訪れたときに再興して、真言宗に宗旨替えして道場として再興した。
 その際、空海は本堂裏に如意宝珠(霊験あらたかな宝の玉)を埋めたとされている。空海が如意宝珠を埋めたのは、奈良の室生寺、山形の恩徳寺と、ここの三ヶ所しかないことから、何らかの理由でこの寺を重要と考えていたようだ。
 しかし、950年前後には火災、989年には強風で伽藍は壊滅してしまう。
 1254年に後深草天皇が常円上人を招いて、勅願寺として再興したのちは、鎌倉時代から室町時代にかけて繁栄し、一時は尾張国真言宗の本山となって53の末寺を持つほどになった。
 しかしながら、その後も度重なる水害と火災で伽藍を失い、現在は本堂と多宝塔などが残るだけとなった。
 上の写真に写っている山門は、清洲城の通用門を移築したものだそうだ。
 災害慣れしていたのが幸いして、多数の文化財は消失を逃れて、現在も国や県、市の指定文化財34を持っているという。

萬徳寺-2

 本堂はかなり立派なものの、まだ新しい。昭和44年に火災で失われて、その後建て直されたものだ。燃える前の古い本堂は重要文化財だったんだろうか。

萬徳寺-3

 多宝塔は、本堂の左手に建っている。そうそう、これを見に来たのだ。
 非常にシンプルというか、あっさりとした味付けの多宝塔だ。飾りっ気がない。
 室町時代中期に建立されたもので、性海寺の多宝塔との類似点が多いことから、あちらを参考に造られたのではないかといわれている。
 ただし、こちらの屋根は上下ともに檜皮葺(ひわだぶき)になっている。銅板葺よりもこちらの方が渋くて好きだ。
 塔内部には金剛界大日如来が安置されている。

萬徳寺-4

 多宝塔の向こうに見えているのが鎮守堂で、こちらも多宝塔同様、室町時代の建立で重要文化財に指定されている。こちらは1530年と、建てられた年数がはっきりしている。
 流造(ながれづくり)の檜皮葺で、小さいながらもなかなかの存在感を見せる。多宝塔とセットでいい感じだ。

萬徳寺-5

 日没時間になって、これ以上は撮れなくなった。予定通り5ヶ所すべて回れたから満足して帰ることにする。
 暗くてよく見えなかったのだけど、上の写真に写っている緑色はボタンだったようだ。ちょっとしたボタンの名所として近所では知られた存在らしい。5月の花だから、さすがに6月の半ばまでは残ってなかった。
 この寺は、元高見山の東関部屋が名古屋場所の宿舎としているところで、平成4年以降毎年訪れているそうだ。とすれば、曙も当然来ているはずだし、今なら高見盛が見られる。稽古を見に行って、「ニバーイ、ニバーイ」と声援を送ってみるのも楽しそうだ。観客の大部分は昭和の人だろうから、きっと通じる。

 今回の稲沢神社仏閣巡りシリーズはこれで完結となった。本編には入りきらなかった写真が残っているから、どこかで他のものと抱き合わせの二本立てで紹介しようと思っている。
 稲沢の魅力にも触れることができて有意義な散策となった。稲葉宿を中心に、もう一回は必ず行きたい。清洲と絡めれば一日コースにもなるから、やや遠方の人にもオススメできるスポットだ。
 一宮、犬山、春日井、小牧あたりは、まだまだ未開拓のところがたくさん残っている。今後も少しずつ回っていくことにしよう。


稲沢寺社巡りは長光寺から始まり、稲沢の魅力を知るきっかけともなった
2008年06月19日 (木) | 編集 |
長光寺-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 今回の稲沢神社仏閣巡りは、重要文化財巡りでもあった。回った順番と紹介する順序がバラバラになってしまっているけど、最初に行ったのがここ長光寺(ちょうこうじ)で、お目当ては六角円堂だった。
 東海道本線清洲駅の北、稲沢市の右下にあり、町名の六角町はこの六角円堂から来ている。場所がちょっと分かりづらい。北市場町を北へ進んで細い道に入っていくと、左手に突然現れる。楼門が奥に引っ込んでいて、手前に高いマンションがあるから、うっかりしてると見逃しそうになる。
 入り口の右側に駐車スペースがある。
 まずは入ってみないと始まらない。ちょっとお邪魔します。

長光寺-2

 なかなか立派な楼門(仁王門)だ。建てられたのは天明8年 (1788年)だそうだ。入母屋造の本瓦葺。彫刻も凝っている。
 このお寺自体は更に古く、1161年に平頼盛(清盛の弟)の寄進によって建てられた。1336年に足利尊氏が復興させて法相宗に宗旨替えをして寛林院と号したのち、1499年に臨済宗になり現在に至っている。
 織田家や徳川家も大事にしたお寺で、境内には信長が清洲城や岐阜城にも届けさせた水を汲んだとされる臥松水(がしょうすい)という井戸がある。信長の居城だった清洲城は、ここからさほど離れていない。私たちが南アルプスの天然水などを飲むように、昔の殿様は愛飲の井戸を持っていたのだろう。信長なら六甲のおいしい水を献上してもこれは六甲から汲んだ水ではあるまいと見破ったかもしれない。

長光寺-3

 門をくぐってすぐ、右斜め前に六角円堂(地蔵堂)が姿を現す。おお、なるほどこれだねと、まずは遠巻きにしばらく眺める。けっこうな存在感だ。
 じっくり見物する前に、本堂に挨拶だけしておかないといけない。真っ直ぐ進んだ突き当たりがそうだ。

長光寺-4

 興化山という山号の額が飾ってある。
 にしても、なんだ、このピカピカ加減は。歴史のある寺のはずなのに、やけに真新しい。けど、賽銭箱とか、床板とかは年季が入っていて、新旧のコントラストが妙な感じで戸惑う。
 帰ってきてから知ったのだけど、近年、本堂を建て替えたそうだ。どうりで新しいはずだ。それで、使える部分の木材などは再利用したということだろう。建て替える前の本堂は、どれくらい歴史があるものだったんだろう。

 ここは臨済宗妙心寺派の禅寺だ。宗教もなんであんなに派閥が好きなのか知らないけど、臨済宗もたくさんの宗派に分かれている。
 妙心寺派は臨済宗最大派閥で、京都の右京区にある妙心寺を大本山として、全国に末寺3,400を抱えている。
 他に主な宗派としては、日本最古の禅寺である京都建仁寺の建仁寺派、同じく京都の東福寺派、南禅寺派、大徳寺派、天龍寺派、鎌倉の建長寺派、円覚寺派などがある。
 臨済宗というのは、中国禅宗五家の中の一つで、唐の臨済義玄を宗祖とする。日本へは鎌倉時代に栄西らによって伝えられ、主に武家の間で支持されて、政治と結びついて発展していった。
 同じ禅宗でも一般大衆に受け入れられた曹洞宗とは性質が異なっている。
 臨済宗は、修行によって悟りを開き、師匠から弟子へ伝えることを重視しているのだとか。

長光寺-5

 あらためて六角円堂をしげしげと眺めてみる。うーむ、なるほどと納得する。何がどう納得かは自分でもよく分からないけど、存在としての説得力がある。フォルムが美しいというのもある。
 建てられたのは1510年のようで、古い時代の六角堂というのは全国でも残存しているものが少ないそうだから、文句なしの重要文化財だ。中でもここのものは特に古いものとされている。
 正面には鰐口(わにぐち)が吊されている。鰐口というのは、お寺の境内でお参りをするときにぶら下がっているヒモを引っ張ってじゃらじゃら鳴らす鐘の部分だ。
 これは天正11年(1583年)6月2日にかけられたことが分かっている。一年前のその日は本能寺の変があったときで、信長の一周忌にかけられたそうだ。
 地蔵堂というからには中に地蔵さんが安置されている。この地蔵は鉄で鋳造された珍しい地蔵ということで、これも重要文化財に指定されている。
 鉄は銅に比べて鋳造が難しいことから、あまり造られることがなく、細かい部分や仕上げも美しくならないといわれている。しかしながら、長光寺の地蔵菩薩立像(1.6メートル)は、鋳銅製と変わらないほどの美しさに感心する。写真を見るだけでもそれは伝わる。
 基本的には非公開となっているけど、お願いすれば見せてもらえるそうだ。いきなりというのはなんだから、事前に電話連絡をしておいた方がいいと思う。
 これは別名汗かき地蔵といって、何か悪いことが起きる前兆として全身に汗を吹きだして知らせるとされている。伊勢湾台風や太平洋戦争のときに汗をかいたんだとか。

長光寺-11

 裏側から順光で撮っておかないと、屋根の様子がよく分からない。こんな感じになっている。

長光寺-6

 楼門の中にいる仁王さん。朱塗りだけど、怒っている表情ではなく、穏やかな顔の仁王像だ。
 長光寺は尾張六地蔵の一番札所にもなっている。ランの館の隣にある二番札所清浄寺の巨大延命地蔵(高さ5メートル)は、そうとは知らずに見ている。ランの館へ行こうとして場所が分からず迷っていたらたまたまそこを突っ切ることになったのだった。あれがここにつながったのも、地蔵の導きだったのか。
 三番は南区呼続の地蔵院、四番は緑区鳴海の如意寺、五番は天白区島田の地蔵寺、六番は千種区今池の芳珠寺となっている。どこも市内で行きやすいところだから、近いうちに全部回ってしまおう。また新たな目標ができた。

長光寺-8

 門を出てすぐ前に、見た瞬間、うひょっと奇声を発してしまいそうな古い家がある。昔の面影を残しつつ相当熟してしまった感じだ。
 長光寺の門前には、かつて四ツ家追分(鎌倉街道、美濃路、岐阜街道の分岐点)に立っていた道標がある。ダンプカーが突っ込んで折ってしまったものを、この場所に移して保存しているんだそうだ。1819年に立てられた道標で、「右 ぎふ并浅井道」,「左 京都道并大垣道」と刻まれていた(今は字が薄くなっていてよく読めない)。
 近くには、浅野長勝宅跡の碑や(浅野長勝の甥が浅野長政で、養女のねねは秀吉の正室になっている)、清洲代官所跡などもある。
 今回は時間の都合で省略した南北朝時代の木造虚空蔵菩薩座像(重文)を所蔵する亀翁寺や、織田信雄が父信長の菩提を弔う為に建てた総見院もある。

長光寺-9

 稲沢のこのあたりは、清洲城の近くで、後に美濃路沿いの稲葉宿があったところなので、古い家が点在している。町並保存というふうではなさそうだけど、歩いて見て回ればけっこう見所が多そうだ。車で通りすぎてしまうのが惜しいくらいだった。もう一度別の機会に訪れたい。
 美濃路は、東海道の熱田から別れて、名古屋、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣を通って、垂井で中山道と合流する脇街道だった。かなり古くからあった道らしく、鎌倉時代には整備されて鎌倉街道の一つとして重要な街道となっていたようだ。戦国時代は、信長の桶狭間の戦い、秀吉の小田原征伐、家康の関ヶ原それぞれの凱旋路となった縁起のいい道でもある。
 江戸時代は、熱田から桑名までの海路を通るより少し遠回りになるものの、安全第一ということで美濃路まわりで旅をした人も多かったという。
 本陣・脇本陣もあって、大名の参勤交代でも使われたそうだ。
 稲葉宿があったのは、名鉄国府宮駅の西1キロあたりで、このあたりが色濃く当時の面影を保っている。道は細く入り組んでいて、かなり雑然としている。
 かつてこのあたりを稲葉村といい、のちに小沢村も加わって、合併するときに二つの文字を取って稲沢市と名づけられた。

長光寺-10

 稲沢は思った以上に見所の多い、いい町だった。秋葉宿のことは知らなかったから、思いがけない収穫でもあった。地味で見るべきものの少ないところというのは間違った思い込みとして、あらためねばなるまい。
 稲沢神社仏閣巡りシリーズは、5ヶ所のうち3ヶ所の紹介が終わって、残り2つになった。稲沢の宣伝のためにも、最後までしっかり書きたいと思う。


15分のアップダウン山道歩きをしても行く価値がある6月の築水池湿地
2008年06月18日 (水) | 編集 |
築水池湿地-1

Canon EOS 20D+TAMRON SP 90mm f2.8



 稲沢シリーズを続けると神社仏閣ばかりになってしまうので、いったん中断して、グリーンピア春日井に戻ることにする。そういえば、あちらもまだ終わってなかった。
 今日は、グリーンピアのとなりにある築水池湿地(ちくすいいけしっち)を紹介しようと思う。去年の同じ時期、グリーンピアを訪れたときにも行っているから、一年ぶりの再訪だ。そのときの様子はちょこっとだけこのブログにも登場している。
 この時期の湿地の花としては、まずトキソウがある。夏のサギソウと並んで初夏の湿地の主役だ。カキランももしかしたら咲いてるかと期待したけど、まだちょっと早かった。あれは6月の終わりから7月にかけてだ。築水池はササユリも自生しているから、それも楽しみにしていた。
 ササユリはやや時期を外したようで、あまりきれいに咲いているものがなかった。群生してるわけではなくて点在してるだけだから、ちょうどきれいに咲いている時期に当たるかどうかは運次第だ。

築水池湿地-2

 池の周りの散策路脇に、こんなふうにポツリ、ポツリと思い出したように咲いている。ササユリというのは本来、明るい森林などを好むはずで、築水池は光があまり当たらないから、育成条件としてはあまりよくないんじゃないかと思う。特に湿地帯を好むというわけでもないし、どうしてここに咲いているのか不思議だ。
 もともとササユリは人の暮らしの近い場所で、普通に咲いているありふれたユリだった。万葉集などで詠まれている山百合は、ササユリのことを指すと言われている。
 ここまで数が減ってしまったのは、開発と乱獲ばかりではなく、人が野山に入らなくなったからというのもありそうだ。里山というのは、人と共存しないと植生は豊かにならず、放置するとどんどん荒れてしまう。雑草や木々が生えすぎて、ササユリにしてみたら明るさが足りなくなって数を減らしていったのではないだろうか。
 自然に対して人間はいつでも悪者というわけではない。上手くバランスを取って共存していくことでお互いにとっての利益が生まれるというものだ。一度崩れたバランスを取り戻すのは難しい。

築水池湿地-3

 サギソウは姿を見れば、なるほどちょっとサギっぽいなと思うけど、トキソウはどこがトキだよと思う。トキなんて見たことがないから、これはトキじゃないとは言えないのだけど、写真で見るトキと野草のトキは結びつかない。
 それもそのはず、名前の由来は、姿形ではなく色から来ているのだった。トキ色(鴇色)という色があって、それはトキの羽の一部の薄いピンク色をいう。その色とトキソウの色が似ていることから、こう名づけられたようだ。それでちょっと納得はしたけど、トキのどの部分がピンク色なんだろうというあらたな疑問がわく。
 学名をニッポニアニッポンという日本を代表する鳥だったトキが絶滅してしまうなんて、なんとも残念というか恥ずかしいような気持ちだ。江戸時代までは、今でいうシラサギのように日本全国の田んぼにいるありふれた鳥だったのに。

築水池湿地-4

 築水池湿地のトキソウは、咲いている場所が立ち入り禁止になっているから、守られてたくさん咲いている。ただ、この花は雑然と咲いているから、離れて見るときれいじゃない。ほとんど雑草然としている。トキソウは、近くから見ないとその魅力が分からない。

築水池湿地-5

 夏の湿地を代表する植物の一つに、モウセンゴケがある。日本を代表する食虫植物だ。
 葉っぱが立ち上がってぴよーんと伸びるのがモウセンゴケで、地べた近くで広がるのがコモウセンゴケ。ときどき、どっちがどっちか混乱する。
 モウセンゴケは、白い花を咲かせ、コモウセンゴケはピンクの花を咲かせる。けど、私はまだ一度も咲いているところを見たことがない。特にコモウセンゴケは晴れた日の午前中しか花を開かないから、見られるチャンスは限られる。モウセンゴケは曇りの日の日中でも咲くそうなんだけど。
 葉っぱの先についた水滴から甘い匂いを発して、それに誘われて止まった虫を捕まえる。はえ取り紙のように虫はくっついたまま飛べなくなり、モウセンゴケは虫を溶かして吸収してしまうのだ。その場面をぜひ一度見てみたいと思っているけど、いまだに見たことがない。そんなに都合よく虫が捕まるもんなんだろうか。モウセンゴケは相当群生してるけど、全部を養おうと思ったら虫の大群が必要だ。
 実は虫を捕まえなくても生きていける。基本的には光合成で生きていて、虫はおやつのようなものらしい。虫からはチッ素分やリン酸などを吸収して、栄養にしているようで、虫を食べると元気になって、葉っぱも赤々となり、きれいな花をたくさんつける。
 葉っぱについたものが虫かそうじゃないかもちゃんと区別できるというから、かなり賢い。
 モウセンゴケの名前の由来は、葉っぱの様子が獣の毛で織った敷物「毛氈」から来ている。コケという名前がついているけど、苔の仲間ではない。

築水池湿地-6

 コモウセンゴケは、通常のコモウセンゴケの他に東海から近畿にかけて分布するトウカイコモウセンゴケと、ナガバノモウセンゴケがある。愛知県で見られるものは基本的にトウカイコモウセンゴケだと思うのだけど、あまり区別がついてない。トウカイコモウセンゴケは、モウセンゴケとコモウセンゴケの交雑種で、中間的な特徴を持っていると言われている。
 西日本では白い花を咲かせるシロバナコモウセンゴケが一般的らしい。愛知県ではピンクがほとんどだと思う。
 モウセンゴケよりはやや寒さに弱いようで、宮城県が北限とされている。
 モウセンゴケは夏だけ葉っぱが緑なのに対して、コモウセンゴケは常緑で、冬には赤色に紅葉する。

築水池湿地-7

 ひょろひょろっと頼りないような細い茎を伸ばして、その先にいくつかの小さなピンクの花を咲かせる。一度くらいは咲いているところを見てみたい。虫を捕らえているところも。

築水池湿地-8

 草の間からカエルもこんにちは。
 これはニホンアカガエルか、違うか。全身が見えてないからはっきりしない。
 カエルの見分け方の勉強も進んでない。もうちょっと頻繁に写真に撮れるといいんだけど、最近はあまり見かけなくなって偶然撮れる機会も少なくなった。もっとカエルに親しもうと思えば、カエルのいるところへ積極的に出向いていかないといけない。

築水池湿地-9

 ジャノメチョウは久しぶりに撮った。おととしくらいは勉強も兼ねてよく撮っていたけど、最近は見かけても撮らなくなっていた。久々に撮ったら名前が分からない。覚えたはずの見分けポイントもすっかり忘れてしまっていた。
 もう一度調べて勉強し直して、少し記憶が戻った。これは白色の帯が真っ直ぐに近いから、ヒメジャノメでいいと思う。この白い線が波打っているとコジャノメだ。コジャノメは翅の色ももう少し濃い。
 ジャノメは蛇の目から来ている。丸い模様をヘビの目に見立てたのは納得だ。

築水池湿地-10

 この時期、よく姿を目にするホオジロだ。鳴き声でも分かりやすい。大きな声でピッピチューといった感じで鳴いている。どう耳を澄ませても、一筆啓上仕候(いっぴつけいじょうつかまつりそうろう)とは聞こえないけど。

築水池湿地-11

 胸を反らせて鳴く姿勢もホオジロの特徴だ。あまり警戒心が強くないから、そこそこ近づいて撮れる。
 メスは頭の色がオスに比べると褐色というけど、メスは見たことがないのでよく分からない。高いところで鳴いているのはオスで、そういうふうに目立つ行動をしてくれないと見つけられない。

築水池湿地-12

 湿地帯はワイルドな場所にあることが多くて、あまり誰にも彼にもオススメできない。築水池湿地も例外ではなくて、場所はグリーンピアのすぐ隣ではあるけど、車をとめるところから現地まではかなりきついアップダウンの道を15分くらい歩かないと辿り着けない。低山歩きくらいの覚悟が必要だ。
 それでも、ここにしか咲かない花があるから、行く価値はある。トキソウに加えて、そろそろカキランも咲き始める頃だろう。この日は見かけなかったけど、ハッチョウトンボも飛ぶはずだ。8月になればサギソウも咲く。

 グリーンピアシリーズはこれで終わりではなくて、まだサボテン編と温室の花編が残っている。どちらも季節ものではないから、焦ることはない。そのうちどこかで紹介したい。神社仏閣の合間の一服という感じで挟み込もう。
 梅雨の中休みも終わって、また梅雨空が戻ってきそうだ。今日尾張旭と春日井で少し神社仏閣巡りをしてきたから、ネタの在庫はできた。雨の日は神社仏閣の話をゆっくり長々と書くことにしよう。


稲沢名所といえば一に国府宮神社で二番目はアジサイ寺の性海寺
2008年06月17日 (火) | 編集 |
性海寺-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS / TAMRON SP 90mm f2.8



 稲沢の神社仏閣巡りシリーズ第二弾は、アジサイ寺としても知られる性海寺(しょうかいじ)を紹介しようと思う。ダジャレじゃないよ。
 真言宗智山派のお寺で、山号を大塚山という。智山派の総本山は、京都東山の智積院(ちしゃくいん)で、大本山に川崎大師、成田山新勝寺、高尾山薬王院がある。開祖は覚鑁(かくばん)で、などと書き始めると長くなるので、今回はやめておく。川崎大師かどこかへ行ってきたら、また詳しく書くことにしよう。
 性海寺は、弘法大師空海が創建したということになっている。あまりはっきりしたことは分かってないようだけど、818年(?)に空海が熱田神宮へ参詣へ行くときこの地を通り、何らかの形で関わってお寺が建ったということらしい。銅像の歓喜天をここに埋めたのが始まりとかなんとか。
 当初の本尊は、空海作の愛染明王だったのかどうか。このあたりもよく分からない。
 現在の本尊、善光寺式阿弥陀三尊像は、1115年、浄連源延上人の手によるものだという。
 1253年(?)、大塚の領主・長谷部源政と熱田宮司出身の僧・良敏が伽藍を再興したというのは、はっきりしているようだ。
 1580年前後に兵火で一度焼失し、1648年に伽藍が再建されたという。
 ただ、この寺を大切に保護したという顔ぶれを見ると、北条時頼、足利尊氏、浅野長政、松平忠吉、徳川義直と豪華なメンバーが並ぶから、かなり重要な寺という位置づけだったらしいことがうかがえる。

性海寺-2

 三門はさほど立派というわけではないけど、江戸時代のものということで、お、いいね、と思わせる風格がある。

性海寺-3

 ちょうどアジサイシーズン終盤ということで、けっこうな賑わいを見せていた。それは門を入って右側の歴史公園の方で、境内は閑散としている。みんなお目当てはアジサイで、寺そのものを目的に訪れた人たちじゃない。
 私が見たかったのはこれ、多宝塔だ。最初に訪れたのは2005年だったか。3年とはいえ、変わらずそこに建っているのは喜ぶべきことだ。一度なくなってしまえば二度と戻らない。
 この多宝塔は、コンパクトでスリムな印象を受ける。よくいえばスマート、でもちょっと線が細いか。
 室町時代に建立されたもので、国の重要文化財に指定されている。
 高さは約13メートル。一辺が約3.6メートル。
 下層は四角形で、上層は円形、内部は八角形になっているそうだ。屋根は銅板葺で、相輪は青銅製。
 木製の渋い多宝塔とはまた違った魅力がある。

性海寺-4

 なかなかいいもんだと、一周ぐるりと回ってみる。これは裏側から見たところ。
 アジサイを見に来ていた人たちが見たら、完全に寺マニアと思われたことだろう。実際、そう思われても仕方がないところはあるのだけど、私は人が思ってるほど神社仏閣好きというわけではない。歴史のあるものが好きで、それにまつわる人間ドラマに興味あるだけだ。たとえるなら、競馬の馬やレースが好きというよりも馬と人間が織りなすドラマが好きというタイプの人に似ている。だから、建物や仏像なんかについても決して詳しい方ではない。城についても同じだ。

性海寺-5

 多宝塔の拝殿には愛染明王を安置している。
 以前は多宝塔と連結されていたそうだけど、今は分離している。
 5時を過ぎて、住職さんが賽銭箱をひっくり返して小銭を回収していた。ジャラジャラジャラといい音がしてたから、けっこうな売り上げ(?)があったようだ。私もちょっとだけ貢献した。
 愛染明王というのは、これまであまり縁がなくてよく知らないのだけど、大阪天王寺にある勝鬘院(愛染堂)は行ってみたい。ここには聖徳太子が建立して、豊臣秀吉が再建した多宝塔がある。

性海寺-6

 多宝塔に目を奪われがちだけど、本堂(太子堂)も江戸時代初期に再建された古い建物で、重要文化財に指定されている。こちらはぐっと渋い趣だ。
 入母屋造で、屋根はこけら葺。シャチホコも乗ってる。
 本堂の扉はいつも閉まっているのか、時間が遅かったから閉まっていたのか、どちらだろう。この中には、室内用の木造宝塔と木製五輪塔があるはずだ。
 どちらも国の重要文化財で、宝塔は織田信長が安土城に建てた宝塔のオリジナルと言われているものだ。高さ約2.6メートルの黒漆塗で、クギやカンナを一切使わずに造られているという。見られるものなら見たかった。

性海寺-7

 せっかくここまで来たのだから、アジサイも少し見ていこうということで、歴史公園に移動する。
 かつては庭園だったところが伊勢湾台風で被害を受けて、平成4年に歴史公園として整備されて今に至っている。どうしてアジサイにしたのかはよく分からない。何か一つくらい稲沢の花名所を作ろうということになってアジサイを選んだのかもしれない。
 約90種類、1万株のアジサイが植えられている。品種名のプレートがあって親切だ。手入れも行き届いている。
 行ったのは6月13日で、やや遅かった。まだ花はかなり残っていたものの、枯れ始めているものもけっこうあって、ピークは外していた。ここは県内の他のアジサイスポットより早いようだ。今年でいえば、6月10日より前に行くべきだったろう。

性海寺-8

 完全に私のターゲットになってしまった人。ロックオン完了。このあと、高い石の上によじ登ってすごい角度から撮影していた。ちょっと危なっかしくて大丈夫かと思って見ていたらシャッターチャンスを逃した。しまった。

性海寺-9

 携帯カメラで写真を撮っている人も本当に多くなった。この光景が当たり前になってそんなに何年も経ってないような気がするけど、今は何の違和感もなくなった。5年前でもこんなに携帯で写真を撮っている人はいなかった。
 日本人はこんなにも潜在的に写真を撮りたい願望の強い民族だったのか。日本人のメンタリティーと携帯カメラには深い関わりがありそうだ。ただ便利だから撮ってるというだけではない気がする。

性海寺-10

 奥の方へ進むと、こんもりと盛り上がったところがあって、その上から境内を見渡せるようになっている。ただの高台かと思いきや、実は古墳だったりする。歴史公園と名づけたのは、これがあるからだろう。
 空海が仏像を埋めたのはこことされている。
 大塚古墳と呼ばれる古墳は、直径約50メートル、高さ5メートルほどの円形で、周りは堀で囲まれている。ただし、現在の盛り土は鎌倉以降のものだろうと言われている。
 鎌倉時代、ここには大塚城という城があって、そのときこの古墳に土を持って物見台としていたようだ。築城は長谷部信蓮という人物らしいけど、詳しいことは分かっていない。
 大塚山という山号や、大塚町という町名は、ここから来ている。

性海寺-11

 古墳の上というか、物見台山頂からの眺め。定番の撮影スポットだ。
 手前にアジサイが咲いていて、現代の建物は木々にさえぎられて、絵になる風景だ。いい感じ。

性海寺-12

 この日は神社仏閣巡りが目的で、時間の余裕もなかったので、アジサイはちょこちょっと撮っただけだった。最後にアジサイ写真を2枚載せて終わりとしよう。

性海寺-13

 性海寺は一度行ってるから、もう行かなくてもいいかと思ったのだけど、多宝塔コレクションということで思い直してもう一度行っておいた。今回、しっかりいい条件で撮れたし、アジサイも見られたということで、思い残すことはない。愛知の多宝塔コンプリートに一歩近づいた。
 今回の稲沢神社仏閣巡りはこれが第二弾で、残りはまだ3ヶ所ある。順次紹介していこうと思っている。


空想沖縄もどきサンデー料理にめんそーれ、いみそーれ
2008年06月16日 (月) |