 PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4
日間賀島へ遊びに行って、島の神社仏閣を全制覇しようという人はあまりいないと思う。お遍路さんでも全部は回らない。しかし、我々は回った。余すところなく。今日はそのときの様子を、一気にまとめて紹介しようと思う。 日間賀島は6〜7世紀の古墳もたくさん見つかっていることから、古くから人が住んでいた島だということが分かる。だから、狭い島の割に神社仏閣の密度が濃い。神社が2つ、寺は5つもある。人口が多いから、寺もそれなりに成り立っているのだろうとは思う。 寺はそれぞれ入り組んだ内陸部にあるので、ちょっと大変だ。効率よく回るということもできないから、地図を頼りに地道に回っていくしかない。途中で場所を訊ねたら耳が遠いおばあさんで助けにはなってくれなかった。そこまでムキになって制覇する必要があるのかという疑問もわき起こってくるのだけど、こういうものは行きそびれるとあとあと気になるものだから、なるべくなら残さない方がいい。 寺は多くが東の集落に集まっていて、西には神社と寺が1つずつしかない。まずは北東の外れにある西の氏神様、八幡神社からいってみよう。
 社は民家風になっていて新しい。すべてがこぢんまりとしていて、なんとなく神社のミニチュア版みたいな印象を受ける。摂社や末社もあるから、神社の規模としてはそれなりのものなんだろうけど。 ここには禰宜(ねぎ)さんもいるようだ。何しろ船が多いところから、進水式やら季節ごとの漁の前やら祝詞をあげないといけないことが多いから、けっこう忙しそうだ。たぶん、常駐だろう。 毎年7月の第二土曜日には祇園祭りがある。昼の部では船形の山車を引き回し、夜は海の安全と豊漁祈願として365枚の素焼きの大皿「ほうろく」に火を付けて海に流す、ほうろく流しを行う。
 お社の中をのぞき撮り。 海のすぐそばだし、晒しているとすぐに痛んでしまうから、こうして中にしまい込んでいるのかもしれない。 祭神は海の神様の大錦津見命だそうだ。
 西にあるお寺、長心寺へとやって来た。 ソテツ? ヤシじゃないと思うから、やっぱりこれはソテツか。寺に入ったとたん、突然南国ムードになってちょっと戸惑う。このあと、島の寺のほとんどでこのソテツを目にすることになる。日間賀島の寺はどういう理由か分からないけどソテツがつきもののようだ。九州以南では自生するというけど、まさかここで自生でもあるまいから人が植えたものだろう。島の風土で育ちやすい木ということで選ばれたんだろうか。
 これが弁天堂か。とすると、本堂が阿弥陀堂だろうか。十王堂というのもあるらしい。 それか逆か。本尊が弁財天を祀った弁天堂かもしれない。 寺としては安産の神様として信仰されているとか。 詳しい歴史や由来についてはよく分からない。
 東に向かう途中の高台あたりにあった鳥居。地図にも載っていなくて正体は不明。石碑の文字からすると、戦争関係のところか。
 安楽寺へ行こうとして道に迷った。この先行き止まりという注意書きに従って道を折れて下ったら、呑海院(どんかいいん)に着いてしまった。別に順番は決まってないのだけど、自転車での登りが無駄になった。神社仏閣へといざなう案内標識のようなものは一切ない。島内の何ヶ所かに、小学生が手書きで描いた地図があるのだけど、だいぶ古びていて現在位置も記してない。島の様子は分かっても、今自分がどこにいるのかが分からない。
 曹洞宗龍松山呑海院。本尊は延命地蔵大菩薩。 弘法堂の中には、鯖(さば)を持った修行中の弘法大師を彫った鯖大師像がある。全国にはいくつかの鯖大師像があるそうだ。 南知多五色観音の一つでもある。 忠臣蔵に詳しい人なら大高源吾の名を知っているだろう。伝説なのか史実なのか、日間賀島では大高源吾はこの島で生まれ育ったという話になっている。この呑海院には、大高源吾のへその緒塚というものが建っている。 一般に大高源吾は赤穂(兵庫県)で生まれたとされている。日間賀島の話では、志を抱いて江戸に出て行く途中の天竜川で、大名行列の殿様の陣笠が風に飛ばされて川に落ちたのを見て、速い流れをもろともせず飛び込み泳いで陣笠を拾ったところそれが赤穂藩で、こいつは見込みがあるということで仕官することになったのだという。 まったく縁のない人間をつかまえてやつはうちの島出身だと言い張ることはないだろうから、実際に日間賀島生まれだった可能性はある。 討ち入り前は大石内蔵助の信頼も厚く、赤穂、大坂、京都、江戸と同士の間を駆け回った。俳句の才があり、子葉と名乗り、吉良邸の動向を探るために茶の湯の四方庵宗遍に弟子入りして、討ち入り当日の12月14日の夜に吉良邸で茶会があることを突き止めたとされている。討ち入りでも活躍したと伝えられている。 討ち入り後は松平隠岐守預かりとなり、浪士10人の最後に切腹して果てた。そのときの一句が、「梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の山」というものだった。享年32。 墓は大阪中央区の薬王寺にある。
 苦労してなんとか辿り着いた安楽寺。日間賀島小学校から真っ直ぐいけば着いたはずなのに、なんでこの先通行止めという注意書きがあったんだろう。あれは車のことだったのか。 日間賀島がタコの島となったのは、この寺が由来になっている。 あるとき島で大地震が起こり、日間賀島と佐久島の間の大磯にあった筑前寺が海の底に沈んでしまった。せめて本尊だけでも救い出そうとしたがいくら探しても見つからない。あきらめかけていたとき、タコ漁をしていて捕まった大ダコが阿弥陀如来像を抱いていた。これを章魚阿弥陀如来(たこあみだにょらい)として祀ったのが安楽寺の始まりで、日間賀島はタコを大事にするようになったのだという。 そんな大事なタコを獲って食っちゃいけないような気もするけど、自然の恵みのタコをありがたくいただくという気持ちがあればいいのかもしれない。正月三日に日間賀神社で作られた干しダコが毎年ここに奉納されるそうだ。
 けっこう古そうな本堂だ。その前にソテツがやっぱりいる。 阿弥陀堂はどれだろう。本堂なのか、隣のものなのか。そこに安置されている阿弥陀如来座像は鎌倉時代末期の作だそうだ。 普通、七五三などは神社でするものだけど、ここではお寺参りをする習慣があるらしい。
 ここにも鯖大師というのがある。呑海院と関係があるんだろうか。 石碑には毘沙門天の文字が見える。 ここに関しては、詳しいことは調べがつかなかった。
 大光院に着くと、入り口から入ってすぐのところでみやげ物屋があって、干物いかがですかという呼び込みをされてしまった。かなりひるむ。堂からはお経をあげている声が聞こえてきて、なんとなく入りづらくなって、入り口で引き返してしまった。ここだけそれまでとは雰囲気が違っていた。 帰ってきてから調べたら理由が分かった。ここは知多半島一帯にある知多新四国八十八ヶ所の一つで、お遍路さんがやって来る寺だったのだ。だから、門前のみやげ物屋などがあって、中からお経が聞こえたのだ。そういうことだったんだと納得したのはいいけど、ある意味では日間賀島で最も見ておくべき寺を見逃したという後悔も感じることとなった。創建は飛鳥時代というから、それだけでも見ておく価値はあった。ちょっと失敗した。 725年、行基によって創建され、1691年に再興されたという。 ここの境内から、風が強い冬の日に、富士山の頭の白い部分が見えることがあるという。
 西の八幡神社から始まり、東の日間賀神社で締めくくるというのは、収まりがいい。 ここも由緒などはよく分からない。境内の裏手から古墳が発見されているから、かなり古くからあったのだろう。 石碑にある村社というのは神社の社格のことで、上から府社、県社、藩社、郷社、村社、無格社となっている。式外というのは、延喜式神名帳に載っていない神社ということだ(載っているものを式内社という)。
 島の神社は神社らしい格好をしてない。これもパッと見は本殿には見えない。扉を開けて、やっぱりそうだったんだと初めて分かったくらいだ。
これで日間賀島の神社仏閣はすべてのはずだ。少なくとも地図に載っているものやネットに情報が出ているものに関してはすべて回りきったと思う。大光院は心残りだけど、自分の中では完結感がある。島民の人でも全部回っている人はそれほど多くないんじゃないか。回ったからといって特に自慢になることでもないけど。 シリーズ3回目にして早くも私が紹介できる日間賀島のネタは尽きた。あとはイルカとのふれあいの様子だけだ。番外編としての写真も少し残っているか。 今日、日間賀島の総括をしようかとも思っていたけど、また次回イルカのあとにする。島で感じたことや、日間賀島に対する思いはそのときまとめて書こう。 ということで、今日のところは神社仏閣紹介で、ここまでだ。
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