現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
完成図をヒントに逆算して作る方法論を見つけたサンデー
2008年08月31日 (日) | 編集 |
逆算サンデー

PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他



 今日のサンデー料理は、逆算サンデーだった。まずは完成図から入って、逆算して作っていった。そんなことは一つの方法論として当たり前といえば当たり前なのだけど、完成した料理を目指して作るというのではなく、あくまでも図としての完成図があって、そこから食材と料理を作っていくというアプローチはちょっと変わっていると言える。
 だから今回の料理は3品とも料理名は分からない。自分で作ったのに、作ってみるまでどんなものになるか分からなかった。
 方法としては、ガイドブックに載っている店の料理写真を見て、それをヒントに似せて作っていった。レシピもなく、使っている食材も分からないから、そのあたりは適当に考えて手持ちの食材の中から決めることになる。
 一番最初に決めたのが左手前の料理で、これはソースの色とかけ方を見てイメージがわいた。まず黄色いソースを作ろうということになって、卵黄とマヨネーズを混ぜたらいい色になった。これだけでは味がないから塩、コショウを入れて、しょう油も少し混ぜた。そこにマスタードを加えたら美味しいソースになったので、これでソースが完成した。
 次は中の具なわけだけど、これはどうでもよかった。以前どこかで見たギョーザの皮を細切りにして揚げるというを思い出して、それでいこうということになった。これを上に乗せるための具を考えて、要するにギョーザの中身を作ればいいのだと気づく。ただ、それも普通に作ったのでは面白くないから、少しアレンジを加えた。
 基本はシーチキン缶で、キャベツ、長ネギ、タマネギを混ぜて炒めて、しょう油、白ワイン、塩、コショウで味付けをして、最後にとろけるチーズを加えた。
 これは上出来だった。美味しくもあり、見た目も華やかで凝っているように見える。いろいろアレンジも効くし、おもてなし料理にもよさそうだ。
 ギョーザの皮はいつも余るから、こういう使い方をしてもいい。具の柔らかい食感と、揚げ焼きしたギョーザの皮のカリッとした食感が面白い。

 右のは最初の構想からだいぶずれていった一品だ。もともとはデミグラスソースを敷いた上に焼いたフォアグラが乗っている料理を見て、これでいこうと思ったのが出発点だった。それが完成したらトマトソースとマグロのいつもの料理になっていた。だいたい、フォアグラなんて買えないし。
 例によってトマトからトマトソースを作り、マグロは塩、コショウ、白ワイン、カレー粉を振ってしばらく置いたあと、ビニール袋でシェイクしてカタクリ粉をまぶして、オリーブオイルで焼く。
 ジャガイモは、よく洗ってラップをしてレンジで5分、追加で柔らかくなるまで丸ごと煮る。あとはフライドポテトのように切って、カタクリ粉をまぶして、バターで焼く。
 予定とは違ったものの、これも美味しかった。個人的にマグロは洋風にした方が好きだ。トマトソースとの相性もいいし、ジャガイモともいいコンビニなる。

 奥は、大根のエビあんかけをヒントに、それを洋風仕上げにしてみた。
 大根はスライスしてよく下茹でをしてから、塩、コショウ、コンソメの素で柔らかくなるまで煮込む。
 あんかけは、エビ、ニンジン、絹ごし豆腐、アスパラを白ワインで煮込んで、コンソメの素で味付けして、水溶きカタクリ粉でとろみをつける。
 他の2品が濃いめの料理だったから、これはあっさりしていてちょうどよかった。エビのダシが効いている。

 今回は一つのアプローチ方法を発見したサンデーとなった。メニューが思いつかないときは、レシピから料理を探すだけでなく、完成図を見てそこからイメージしていった方が早い場合もある。レシピからだと、どうしてもいつも作る料理が決まってしまいがちで、発想の転換が難しい。レストランのガイドブックは、食べたい料理を探すためだけではなく、自分が作りたい料理のヒントにもなる。この方法は、毎日献立を考えなくてはいけない主婦の人もオススメしたい。

 明日は早朝から滋賀・岐阜歴史巡りの旅に出るので、今日は早寝しないといけない。サンデー料理のブログもゆっくり書いてる時間がないから、これで終わりとする。
 明日から新シリーズ開始の予定です。ちょっといってきます。


古墳時代からの歴史が積み重なったまだら模様の街 〜大須7回(最終回)
2008年08月31日 (日) | 編集 |
大須番外編-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 大須シリーズの最後は番外編で締めくくりとなる。今回も長々と書いてきて、そろそろ書くこともなくなった。写真も残り少ない。本編には入らなかった写真を並べて、あと少しだけ書き加えておこう。

 大須の中には座ってゆっくりできるところが少ないから、大須公園と裏門前公園は小さいながらも貴重な憩いのスポットとなっている。
 ランの館は、北東の外れで大通りを一本渡った先だから、町名としては大須でも、感覚的には大須から外れている。それにランの館は有料だから(700円)、心おきなくのんびりできるところではない。
 上の写真は大須公園で、中央に噴水池があって、周囲にベンチが少し置いてある。下がコンクリートだから遊び用の公園とはちょっと違う。遊具もない。
 形は四角形ではあるものの、四つ辻に斜めに配置されているから菱形のようになっている。何故こんなことをしたのだろう。この方が買収する土地が少なく済んだということか。コメ兵、総見寺、光勝寺、ライオンズマンション、それぞれの角を削って公園にしている。あえてこの場所に公園を作る必然性は感じない。何か事情があったのだろうけど。

大須番外編-2

 こちらは大須演芸場の裏にある浪越公園。
 小山の上の木の根元でお弁当を食べている人がいて、のけぞった。何故ってこれは、古墳だからだ。なかなか人の墓の上に座ってものは食べない。入り口に公衆トイレがあったりして、一見すると公園に見える。名前も浪越公園だ。古墳の山の上に登るための階段まで作られている。登ってくださいと言わんばかりだ。
 那古野山古墳(なごのやまこふん)は、5世紀中頃から6世紀頃に作られたと考えられていて、大須古墳群の中の一つとされる。場所柄、受難の歴史を辿っている。
 本来、前方後円墳だったものを、江戸時代に清寿院が後園を造営するときに前方部分を削ってしまった。後方の円の部分だけが残り、当時はそこを浪越山と呼んでいたという。
 明治の神仏分離令によって清寿院は廃寺となり(明治5年)、境内を整備して愛知県初の公園「浪越公園(なごやこうえん)」として一般開放された。広さは2,000平方メートルあったそうだ。
 明治43年に公園は鶴舞に移され、浪越公園は取り壊しとなる。ただ、大正3年に規模を大きく縮小して、名古屋市の那古野山公園として復活して現在に至っている。
 残されている古墳部分は、後円の直径22メートル、高さ3メートルだけだ。この部分も時代によって土が盛られたり、形が変えられたりしているようで、本来の姿からはだいぶ変わってしまっている。調査したところ、2メートル以上掘ってようやく古墳時代の地層が出てきたとのことだ。
 古墳時代の地層からは須恵器片1点や複数の円筒埴輪破片などが発掘された。中近世の地層からも瓦や陶器などが見つかっている。

大須番外編-3

 古墳以外の公園スペースはごくごく狭い。古墳の周囲に少しスペースがあるだけだ。全景の写真を撮ろうにも、これ以上さがれないのですべては入らない。
 ここに入ってきても、特にすることはない。ほとんど公園としての機能も持っていないから、やはり古墳跡ということにしておけばよかったんじゃないか。行政上、公園としておいた方が都合がいいとかだろうか。
 名古屋三名水の一つ、柳の井戸は、この公園の入り口あたりにあったようだ。

大須番外編-4

 大須通りの向こうに見えているのが、名古屋スポーツセンターだ。私たちはもっぱら大須スケートリンクと呼んでいた。
 私がよく行っていたのは、小学生から中学生にかけてだから、ずい分前のことになる。当時からちびっこ天才スケーターとして知られていた伊藤みどりも見たことがある。リンクの中央でレオタードを着たちびっこがくるくる回っていた。帰りに自転車置き場を見ると、伊藤みどりと書かれた自転車があって、記念にまたがっておいた。
 スケートリンクができたのは、戦後の昭和28年(1953年)だから、もうずいぶん古い。名古屋から女子フィギュアの選手がたくさん出るのは、このスケート場があるからだ。通年営業しているスケート場は全国でも少ない。
 伊藤みどり、恩田美栄、安藤美姫、浅田真央もみんなこのスケート場で育った。
 この場所は前回もちらっと書いたように、大須二子山古墳があったところだ。大須球場があったのもここで、今はどちらも名残を残していない。
 大須二子山古墳は東海地方最大級の前方後円墳で、全長138メートル、高さ10メートルもあったとされている。これは熱田に残る断夫山古墳に次ぐ規模だ。6世紀前半に尾張地方を支配していた首長の墓と考えられている。
 江戸時代は、本願寺名古屋別院の後園になっていて、尾張藩三代藩主徳川綱誠の側室梅昌院と侍女21人の墓などがあったのだという。それも空襲で焼失してしまった。
 大した発掘調査もされることなく、昭和22年までにすべて破壊されてしまい、発掘品も少ない。見つかった銅鏡や甲冑などは名古屋市博物館や南山大学人類学博物館に収蔵されている。土がむき出しているところはほとんどなさそうだけど、土を掘り返せれば今でもいろいろ出てきそうだ。

大須番外編-5

 観光ルートと書かれたプレートが埋められてはいるものの、どこに何があるなどの案内はない。大須は観光地として整備されてないから、エリアマップなどもなく、ふらりと立ち寄った県外人にとっては分かりづらいところだ。もう少し散策案内みたいなものがあってもいい。観光案内所も見たことがないから、たぶんないんじゃないかと思う。本格的に大須を歩き回るときは、家からマップをプリントしていった方がよさそうだ。

大須番外編-6

 大須二丁目酒場。特に有名店というわけではなく、古い映画のポスターみたいなものが目についた。男はつらいよとか、青い山脈とか、たぶん、全部観ている。もちろん、リアルタイムじゃないけど。

大須番外編-7

 総見寺に咲いていたフヨウ(芙蓉)。淡いピンクの花が上品だ。
 瓦には五瓜(ごうり・ごか)の織田木瓜紋(おだもっこうもん)が彫られている。木瓜といえばボケの花だから、それを図案化したものかと思っていたら違うようだ。もともとは鳥の巣をデザイン化したもので、子孫繁栄の願いが込められているのだとか。胡瓜の切り口という説も違うらしい。

大須番外編-13

 春日神社の前に咲いていたこれはなんだろう。初めて見る花だ。何かに似てるような、似てないような、不思議な格好をしている。

大須番外編-8

 この夏はノウゼンカズラを撮り逃したかと思っていたら、大須で撮ることができた。この花の名前が気に入っている。ノウゼンカズラ、ノウゼンカズラと、口の中で何度も転がすようにつぶやいてしまう。響きとリズムがいい。

大須番外編-9

 サルスベリは漢字で書くと百日紅の名前通り、息の長い花だ。7月から9月にかけて3ヶ月以上花を咲かせる。よく見るからそのうち撮ればいいやと思っていると、いつの間にか姿を消してしまう。けど、一年に一度撮れば充分だ。

 大須がどうしてごった煮の街になったのか、今回こして歴史を辿ってみて、かなり見えてきた。江戸時代に清洲越で作られた寺社町は、門前町から商店街となり、空襲で焼けて戦後復興した。その過程で消えたものもあり、残ったものもある。新しいものが時代とともに積み重なっていき、街はまだら模様になった。
 まだこれからも変わっていくことだろう。古い部分も失われつつあるから、今のうちにもう一度よく見ておくといいと思う。商店街に活気はあっても、個人商店は高齢化もあって閉鎖傾向は加速している。古き良き大須の姿を垣間見られるのも、もうあとわずかかもしれない。
 私ももう一度平日に出向いて、普段の大須の姿を撮っておきたいと思っている。次はフィルムカメラを持っていこう。


ゆく寺くる寺---寺町大須400年の歴史に思いを馳せる 〜大須6回
2008年08月30日 (土) | 編集 |
大須寺編-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 かつて大須には尾張有数の名刹、七寺(ななつてら)があった。広大な境内には7つの伽藍を持ち、芝居小屋が3つも並んでいたという。最盛期は、大須観音や西別院よりも大きな寺だった。
 現在は駐車場の脇に寺の名残をわずかにとどめる程度で、かつての繁栄の面影はない。ここにそんな立派な寺院があったことを知る人もあまり多くないだろう。昭和20年の空襲で七堂伽藍はすべて焼失し、戦後復興の中で再建されることなく街の再開発の波に飲み込まれてしまった。現状の様子から1200年以上の歴史を持つ古刹をイメージするのは困難だ。
 正式名称を、稲園山正覚院長福寺(とうえんざんしょうかくいんちょうふくじ)という。
 奈良時代の735年、行基が尾張国中島郡萱津(今の海部郡甚目寺町)に正覚院という寺を建てたのが始まりとされる。
 781年、河内権守紀是広(かわちごんのかみきのこれひろ)が秋田城主の任を終えて故郷に帰る途中、この地で息子が病死してしまう。悲嘆余って紀是広は、正覚院の住職・智光上人(ちこうしょうにん)に息子を生き返らせてくれるようにと無理なお願いをした。智光上人はそれを受けて密法によって生き返らせてみせたという。しかし一瞬のことで、次の瞬間には再び息絶えた。
 それでも紀是広は感謝し、7歳でこの世を去った子供の追悼のために七堂伽藍(7区の仏閣と12の僧坊を建てた(787年)。
 七寺という名前はこの七堂伽藍によるものだけど、そう呼ばれるようになるのはもう少しあとの時代からだ。887年には水害で大きな被害を受け、941年に兵火に巻き込まれてかなりの建物が失われてしまう。
 1167年、勝幡城主だった尾張権守大中臣朝臣安長(おおなかとみあそんやすなが)が、亡き娘のためにその婿とともに現在の稲沢七ツ寺町に移して七堂伽藍と十二僧坊を再建した。1175年から1178年にかけて一切経を書写させ(七寺一切経)、阿弥陀如来像と観音菩薩、勢至菩薩像を奉納して、寺の名前を稲園山長福寺と改めた。七寺と称されるようになるのはこのときからのようだ。
 その七堂伽藍も建武の兵乱によって大半が焼失してしまう。1591年、秀吉の命を受けた清洲の豪族・鬼頭孫左衛門吉久が清洲に移して本堂を再建。稲沢の性海寺の良圓(りょうえん)を中興開山とする。
 三度目の引っ越しは1611年、家康の清洲越によるものだ。このとき失われた堂も次々に再建され、尾張藩二代藩主光友によって三重塔が再建されて七堂伽藍はみたび復活を遂げることになった(1730年)。
 明治12年(1879年)には真言宗智山派総本山智積院の末寺となり、明治44年(1911年)には準別格本山に昇格するも、空襲によって伽藍は焼け落ち、現在に至る。
 焼け残ったものは経蔵一棟と、観音菩薩、勢至菩薩像の2体、銅製の大日如来像その他だけだった。国宝だった本堂も、阿弥陀如来坐像、木造持国天像、毘沙門天像も焼失した。残った木造観音菩薩、勢至菩薩坐像、七寺一切経などが重要文化財に指定されている。

大須寺編-2

 これが現在の七寺のほぼ全景だ。豊川稲荷の幟が立っていて、鳥居がある。どういう状況になっているのか、よく分からない。右の建物が本堂だろうか。
 左には江戸時代(寛政年間)の作という大日如来像が野ざらしになっている。これがつぎはぎだらけで、修理のあとが生々しい。もう少し丁寧な修理ができなかったのか。戦争の傷跡をあえて残して見せようという狙いだろうか。

大須寺編-3

 堂の正面も境内っぽくはあるものの、大部分は駐車場になっている。
 いくら伽藍がことごとく焼け落ちたとはいえ、重要文化財も持つ歴史のある寺がここまでなってしまうものだろうか。大須観音があれほど復活しているのとは対照的だ。寂しいというより、辿ってきた歴史を知ると感慨深いものがある。

大須寺編-4

 所移ってこちらは総見寺。信長ゆかりの臨済宗妙心寺派のお寺だ。
 もともと伊勢国大島村にあった安国寺という寺で、本能寺の変で討たれた父信長の菩提を弔うために、次男の信雄(のぶかつ)が1583年に清洲へ移し、山号を景陽山、信長の法号にちなんで総見寺と改めた(安土にあった総見寺にちなんだという話も)。
 跡継ぎだった信忠も、本能寺の変に巻き込まれて自害に追い込まれている。信雄の若干トンチンカンぶりは以前にも何度か書いた。どうして伊勢からこの寺を移したのかといえば、このとき信雄は北畠具房の養嗣子となって伊勢にいたからだ。本能寺の変ののちに清洲会議で、信雄は尾張の本拠である清洲の領主となって、名前も織田に戻した。嫡子の信忠は出来がよかったというから、もし生き残っていたらその後の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
 1611年、清洲越でこの寺もここへ移ってきた。地名が大須になる以前は、この寺を基準として門前町、裏門前町と呼ばれていたのだそうだ。

大須寺編-5

 普段は一般開放されてないようで、門は閉ざされており、隙間からわずかに中がのぞけるだけだった。
 信長の菩提寺ということで、中には信長の廟と、信雄の廟もあるようだ。6月2日が信長の命日で、その日は法要を営んでいるというから、もしかするとその日なら入れるのかもしれない。
 ここは空襲で一部が焼けただけにとどまったようだ。ただ、門は新しく、1998年に完成したものという。
 信雄が描いたとされる信長の肖像画や「信長日記」、清洲城壁画など、所蔵品9点が県の指定文化財になっている。
 明治4年(1871年)11月の5日間、この寺で日本初の博覧会「博覧小会」が開催されている。どんなものが展示されたのだろう。
 明治7年には東本願寺名古屋別院でも「名古屋博覧会」が開かれ、その後もたびたび博覧会を開催している。名古屋は昔から博覧会好きな土地だったのだ。自分が生きている間にもう一度名古屋で万博をやりたいと思っている名古屋人は多い。もちろん、名古屋オリンピックもあきらめていない。

大須寺編-6

 焼きを入れたような渋い木造の仁王さんが立っている。これも門と一緒に彫ったのではないかと思う。新しいながらもなかなか味がある。
 本尊は薬師如来像らしい。

大須寺編-7

 大須はどこも寺社の縮小ぶりが激しい。この大光院もかつては大きな寺だったものが、今ではずいぶんこぢんまりしてしまっている。赤門通の名前の由来となった赤門も、こんな小さなただの赤色の門となってしまった。空襲で焼けるまでは、両側に仁王木像、楼上には十六羅漢木座像を安置する立派な楼門だった。1734年の火災で燃え、再建されたものは戦災で焼けた。今の門は昭和41年に造られたものだ。
 大須の赤門さん、明王さんとして地元では親しまれている。

大須寺編-8

 1603年、埼玉県行田市清善寺の末寺として、家康の第四子で清洲城主だった松平忠吉が明嶺理察和尚清洲を開山に建てた。曹洞宗の寺で、最初は興國山清善寺だった。忠吉が死んだのち、法名をとって大光院と改めた。1610年に清洲越によって現在の地に移る。
 本尊の烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)は、世の中の一切の穢れを浄める仏様とされていて、大須の遊郭の女たちに特に信仰されたという。それが転じて、のちに女性の病気が治るというので評判になった。
 毎月28日の縁日には赤門前に露店が数十軒並び、大勢の人で賑わうという。江戸の昔からそうだったようで、「尾張名所図会」にも境内は参拝客でごった返したと書かれている。昼間よりも夜の方が人が増えるそうだ。

大須寺編-9

 ここは紙張地蔵で知られる陽秀院だ。大須秋葉殿ともいうようだ。
 詳しいことは調べがつかなかった。寛永初年、開基は葉室嶺奕大和尚。1624年といえばすでに清洲越は済んでいる。場所は大光院の向かいあたりで、大光院と共に清洲から移ったと説明しているところもあるけど、それでは年号が合わない。
 1624年からこの地にあったことは確かなようで、三門などもかなり古びている。見た目の古さでは大須の寺の中で一番かもしれない。

大須寺編-10

 ちょっとおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。でも、雰囲気に飲まれた負けだ。なんでもないような顔をして写真を撮る。
 右端に写っているのが紙張地蔵だ。2枚10円の白い紙を買って、それを地蔵さんに張り付けて水をかけながら願掛けをする。そうすると、地蔵さんが病苦を引き受けてくれるんだそうだ。一身に負のエネルギーを受け止め続けて380年余り。空襲で地蔵堂は焼けても、この地蔵さんは生き延びた。ある意味負の波動が米軍の爆弾をも弾き返したといえる。
 誰かが持ち込んだ古くなった人形や、色あせた千羽鶴も一役買って、なんだかちょっと恐ろしいような気がしないでもない。丁重に頭を下げて、手を合わせてこの場をあとにした。

大須寺編-11

 極楽寺も、清洲越のお仲間だ。
 創建は鎌倉時代で、開山は良忍上人。もとは葉栗郡極楽寺村(のちの木曽川町で現在の一宮市)にあった寺で、1532年に木曽川の洪水で流されたものを、1604年に空朔教意上人が清洲に再建して、その後ここに移ってきた。
 浄土宗西山禅林寺派で、本尊は阿弥陀如来像。

大須寺編-12

 境内には、ぼけ除け観音というのが建っていた。そんなに古そうなものではない。江戸時代などは痴呆といった概念がなかったんじゃないか。みんなぼけるほど長生きできなかったというのもある。
 ぼけ除け観音というのは全国あちこちの寺にあるようだ。

大須寺編-13

 表からの写真だけ撮った阿弥陀寺。あまり寺らしい感じではなく、入りづらかったというのもある。
 正覚山往生院というのが正式名で、浄土宗のお寺だ。1608年創建で、開基は心蓮社本誉上人張南角公。ここも清洲越組のようだ。

 後半は少し駆け足の紹介になってしまったけど、これが今回大須で回った寺のすべてだ。前後半に分けようと思っていたら、1回で収まった。
 寺は全部行ったつもりが、いくつか取りこぼしをしていた。大須通りの南には、西本願寺名古屋別院などたくさんの寺が集まっているし、完全網羅のためには少なくとももう一度行かないといけない。
 今回の大須シリーズに関しては、残り1回、番外編を残すのみとなった。明日で終わらせることができれば、あさって日曜はサンデー料理で、月曜は遠出を予定しているからちょうどいい。来週からは新シリーズを始めたいと思っている。


大須では目立たない脇役の神社にもそれぞれの歴史がある 〜大須5回
2008年08月29日 (金) | 編集 |
大須の神社-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 今回の大須散策では、エリア内にある神社仏閣を全部まとめて回ってしまおうという狙いもあった。家から地図を印刷して、寺社も全部印をつけて、回りきったつもりだった。しかし、家に帰ってきてから復習してみると、三輪神社を一つ見落としていたことが分かった。三輪神社といえば、この前行った奈良の長谷寺や室生寺に近い三輪山と関わりが深い神社だ。こんな大事なものを逃してしまうとはなんたる不覚。もう一回大須へ行かなければいけない理由ができた。エリアから一本外れているという理由で行かなかった若宮八幡宮とあわせて、近いうちに行かなければならない。
 とりあえず今日のところは、巡ってきた3つの神社を紹介しようと思う。

 まずは春日神社からいってみよう。
 地下鉄上前津駅を出てすぐ、交通量の多い大須通りに面してそれはある。上の写真は、反対車線から見た境内の全景だ。このあたりはビルが建ち並ぶところで、よくぞこれだけでも残ったと思う。昔はもっと広かったに違いないけど、この場所でこれだけ残ればまずは上出来だろう。万松寺の鎮守だった桜天神社などは、栄の錦でビルの谷間のようなところにこそっと入り込んで肩身の狭い思いをしている。

大須の神社-2

 大通りに面しているのに、鳥居をくぐって一歩中に踏み入ると、店の中に入ったみたいにふっと音が消えて静かになる。この空間だけ少し空気も違うようだ。
 ちょっとニセモノっぽいけど、社殿は春日大社に似せて造っている。春日造と呼ばれる様式だ(切り妻造の妻入)。朱塗りの感じもそれっぽい。
 戦後の昭和34年(1959年)に再建されたものだから、まだまだ新しい。といってもそろそろ50年だから、修理や塗り直しくらいはしてるだろうか。
 創建の時期ははっきりしていない。平安時代の948年とか938年とか、そのあたりに奈良の春日大社から4柱大神の分霊を勧請したのが始まりとされている。どうして尾張のこんな場所に春日さんを呼んだのかと思ったら、春日大社を創建するとき常陸の国(茨城県)の鹿島神社から迎える神(白鹿に乗った武甕槌命)がここに泊まったから、だそうだ。そんな話があるわりには、尾張には春日神社はほとんどない。
 1500年代のはじめ頃、前津小林城の牧与左衛門尉長清という人物が社殿を建て直したりして整備したと伝わっている。
 尾張藩2代藩主の徳川光友が生まれるときに、母親がこの神社で安産祈願をしたともいわれている。この乾の方のエピソードについては、大森寺のとき詳しく書いた(興味と時間のある方はブログ内検索をして記事を探してください)。
 あれには後日談というか、別のエピソードがある。百姓の娘だった乾の方は、自分のような卑しい身分の人間の股から殿様を産むのはよくないといって、自ら腹を切って産んだのだとか。成長してからその話を聞いた光友は、母の供養のために名古屋城にでっかい大仏を造らせた。これが陶器でできた大仏で、戦時中避難させていたものが、どういう経緯があったのか、巡りめぐって湯河原温泉の福泉寺に首だけあるらしい。湯河原なんかには行く機会がなさそうだけど、行ったときはぜひ見てみたいものだ。
 昔は村の鎮守様として大事にされていた春日神社は、上前津地区の氏神様になっている。

大須の神社-3

 祭神は、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と経津主命(フツヌシノミコト)で、春日大社と同じだ。経津主神と建御雷神も祀られているかもしれない。
 社殿は新しくても、神社としては歴史がある。名古屋城の築城よりもずっと前からここにいた。最盛期は、相当広い境内だったという。

大須の神社-4

 この吊り灯篭も春日大社で見た。同じものかどうかまでは分からない。そこまではっきりは見てないし、覚えていない。
 朱塗りの色がちょっと安っぽいというかペンキっぽい。色も少しピンクがかっている。近くで見ると仕事が素人っぽい。塗りムラがある。経費削減のために関係者が塗ったか。今度塗り直すときはペンキ塗り好きの私にも一声かけて欲しい。

大須の神社-5

 なんだ、この狛犬。よく見ると、なるほど、そうか、鹿かと気づく。春日さんの神の使者は鹿だ。だから神社を守っているのも鹿でいいんだ。
 右はオスだったようだ。よく見なかったから気づかなかった。そっちを見れば角が生えているからすぐに分かった。

大須の神社-6

 大須観音の裏手に、ひっそり小さく北野神社がある。これが大須観音のいわば本家の方だ。この神社の一部である神宮寺が大須観音だったのだ。
 そのあたりの経緯は大須観音のときに書いた。けど、知らない人が多いのだろう。大須観音があんなにも賑わっていたのに、こちらを訪れる人はほとんどいなかった。そんな案内板みたいなものも立っていないから、みんな知らないまま通りすぎてしまう。

大須の神社-7

 撫で牛はまだ新しそうで、白々としていた。古いところでは、撫でられてテカテカになっている。これはあまり撫でられている様子がない。
 村社だから、やはり格のある神社だ。社格というのは、今では有名無実という建前でありながら、まったくなくなったとは言えないのだろう。厳然とあるといえばあるのかもしれない。
 神社は、大きく官社と諸社に分けられる。官社というのは文字通り官が統括するもので、官幣社と国幣社と分かれ、それぞれ大・中・小の格がある。別にそんなものを覚えても日常生活にはまったく役に立たないけど、上から官幣大社、国幣大社、官幣中社、国幣中社、官幣小社、国幣小社、別格官幣社の順に格付けされる。
 官幣大社は京都、奈良などをのぞいて一県に一つくらいで、たとえば東京なら明治神宮、愛知なら熱田神宮といったところだ。
 諸社は府社と県社が同等で、郷社、村社、無格社の順になる。全国の半数の神社が無格社だから、各のある神社というのはそれだけ重要度が高いといっていい。実質的な差はさほどないらしいけど。
 神社の世界というのも、一般にはあまり馴染みのないところでいろいろあるようだ。学校でも教えないし、テレビでもやらないから、自分で調べないと分からないことが多い。

大須の神社-8

 梅の紋でお馴染みの天神さんだ。祭神は当然、菅原道真になる。
 学問の神様と観音信仰がどうして結びついたのかについては、大須観音のところでは省略してしまったので、ここで少し書き加えておこう。
 そもそもは、1324年に後醍醐天皇が長岡庄(岐阜県の大須)に北野天満宮を造らせたのが始まりだ。これがのちに、清洲越のときに大須観音と共にこの地に移ってきて、北野神社となった。
 後醍醐天皇が天満宮を建てたのは、まだ菅原道真の怨念を恐れる気持ちがあったのだろうか。
 宇多天皇に重用されて出世街道をひた走った菅原道真は、次の醍醐天皇に嫌われて九州太宰府に左遷され、その地で無念の死を遂げる。これが平安時代の903年のことだ。その後、都では次々と関係者が謎の死を遂げ、人々は道真の怨念だと噂し合った。とうとう醍醐天皇もショックのあまり死んでしまい、いよいよ道真は怨霊だということになった。これを鎮めるために建てられたのが、太宰府天満宮であり、京都の北野天満宮だった。
 道真の死から400年以上経った時代に、人々は天神様のことをどう思っていたのだろう。まだ怨霊として恐れていたのか、その頃はすでに学問の神様としてあやかろうと思っていたのか。どういうつもりで後醍醐天皇が長岡庄に北野天満宮を建てさせたのはか分からない。1324年といえば、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画が発覚した年だ。とすれば、道真の怨霊を恐れたというよりも、むしろ道真を味方に取り込もうと考えていたなんてこともあるかもしれない。二度目の倒幕計画が発覚して、後醍醐天皇は1332年に隠岐島に流された。その後、復活して南朝吉野で朝廷を開き、南北朝時代が始まるのはまた別の話。
 大須観音に話を戻すと、後醍醐天皇は僧の能信上人に深く帰依をしていて、能信上人に北野天満宮を守るための寺を造るように命じた。それがのちの大須観音だ。
 能信上人は伊勢神宮に100日こもって、どの仏様を祀ればいいでしょうと一心不乱に祈ったところ、それなら観音様にしないというお告げを聞いて、観音寺を建てることにしたのだった。こうして、一見何のつながりもない天満宮と観音寺がくっつくことになった。

大須の神社-9

 隣には、正一位稲荷大神と染め抜かれた旗が立ち並ぶ稲荷さんがある。
 正一位(しょういちい)といえば、最高位を表す称号だから、すごく偉いように思うけど、基本的にこれは勝手に名乗っているだけで、名乗ることを特別に許されているとかそういうことではない。お稲荷さんの総本社である伏見稲荷大社が正一位で、そこから勧請した全国の稲荷神社がそれならうちも正一位だと言い張っているだけだ。

大須の神社-10

 次にやって来たのが、富士浅間神社だ。1495年、後土御門天皇の勅命で駿河の浅間神社から分霊を勧請して建てられたとされている。
 春日神社と同様、前津小林城の牧与左衛門尉長清が再建している(1527年)。
 現在の社殿は、昭和4年(1929年)に改築されたものだそうだ。ということは、ここは空襲で焼け残ったのか。

大須の神社-11

 狭い神社ながら、たくさんの神様がぎゅうぎゅう詰めになっている。浅間神社なら木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)は当然のこととして、瓊々杵命、大山祗命、天照大神など多数の神様を祀っている。境内社も、稲荷神社、天神社、出雲社、金比羅社、秋葉社と、いいとこ取りの寄せ集めのようになっている。それだけもともとは大きな神社だったということも言えるし、明治の廃仏毀釈の波をかぶった神社でもある。もとは、富士山観音寺清寿院という寺の鎮守だったのがこの富士浅間神社で、明治になってこの神社だけが残って今に至っている。
 清寿院は修験道の寺で、富士山観音寺とも呼ばれ、のちに藩命で清寿院と改めたという経緯があった(1667年)。
 広い境内には芝居小屋や見せ物小屋まであって、大変な賑わいだったという。
 ここには尾張三名水のひとつ、清寿院柳下水と名づけられた井戸があった(他のふたつは蒲焼町の扇湯の井戸、清水の亀尾水)。供水に使った井戸水は、将軍が上洛したときに飲用水として出されたそうだ。

大須の神社-12

 いろんな神様がいる神社は、ちょっと変わった神も招待した。招き猫ならぬ招き狐だ。そんなのいたっけ?
 妙に真新しい拝殿には「まねき稲荷」という額がかかっている。

大須の神社-13

 中をのぞき込んでみると、確かにお狐さんが招いている。犬がちょっとした芸をしてるところのようにも見える。お手、おかわり、みたいだ。
 狐の石像も、つい最近彫りましたという姿をしている。これを新たな大須名物にしようという狙いか?
 けど、招き猫のルーツは狐だという説があり、それによると本家は招き狐で、招き猫はそれのパロディーなのだという。実際、伏見稲荷には手招きしている古い狐の人形がある。そもそもは狐が商売繁盛や縁起物の象徴で、それが猫に変わっていったのは神聖な狐をそんなふうに人形にするのを明治政府が禁じたからだなんだとか。
 確かに、猫が縁起のいい生き物と思われるようになったのは最近のことで、昔は魔性という感覚が強かったのではないかと思う。そう考えると、猫がお金や人を呼び寄せる縁起のいい生き物だという発想は不自然ではある。

大須の神社-14

 すべてが新しすぎるというか近代的で、神様としてのありがたみがやや薄い。どこまで本気なのか、測りがたいところもある。見ようによっては稲荷さん全体がパロディのようにさえ見える。お台場とかにありそうだ。

 今回の大須神社レポートはここまでとしよう。途中でいろいろ脇道に逸れていろいろ書いていたら、また長めになった。
 次回はお寺編だ。1回で収まらないようだから、前後半になると思う。順調にいけば、今週いっぱいで大須編は完結となりそうだ。


大須の中の消えゆく昭和時代の名残を求めて 〜大須4回
2008年08月28日 (木) | 編集 |
大須の昭和-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 大須シリーズ第4回は、大須に残る昭和の断片と題してお送りします。
 古い商店街の大須といえども、年を追うごとに昭和の名残は確実に消えつつある。私が通っていた頃は昭和だったから、古さの程度こそあれ、時代的なギャップのようなものはさほど感じていなかった。大須は確かに古い街に映ってはいたものの、前時代的とまでは思わなかった。平成20年の今の目で見ると、大須は一つ前の時代の面影を確かに残している。
 ふと、思い出した話がある。知り合いの娘が母親に、お母さんは平成何年生まれなのと訊ねた。昭和50年だよと答えると、えー、昭和時代なんだと、驚かれたという。そう、昭和というのはもはや、大正時代とか明治時代と同じように、昭和時代なのだ。あと30年もすると、昭和の男は頭が固いだとか昭和の女は違うみたいな言い回しをするようになるのだろう。
 今でさえすでに昭和は懐かしい時代になりつつある。これがあと50年もしたら、昭和は二世代か三世代昔のことになる。そのときまで生きられていたら、いろいろなことが感慨深く感じられるのだろう。
 現在撮っている古い被写体の写真も、何十年かすれば立派な古写真になる。ただ、デジタルデータは色あせないから、私たちが今古い写真に感じるようなノスタルジーは抱けないだろうか。
 そんなことをあれこれ考えながら、大須の写真を並べてみる。その場所ができたてのピカピカだったときのことを思い浮かべたりしながら。

大須の昭和-2

 一番上の写真が刃物店で、2枚目がはきもの店。すごいと感心する。こういう個人の小さな専門店が今の時代を生き残っていくのは並大抵ではないはずだ。刃物などは特別な需要があるにしても、履き物はここじゃなければ売ってないというわけではない。値段も品揃えも量販店にはかなわない。昔なじみのお得意さんとかがいるんだろうか。
 看板に「白百合本舗特約」と書かれている。なんだろう。白百合本舗と特約店契約を結んでいることを知らせることが何か有利に働くというのか。
 ここは下駄や雪駄のオーダーメイドをしてくれるそうだ。そんなサービスは街の量販店にはない。きっと私の知らないところに思いがけない需要があって、専門店の強みというのも侮れないのだろう。

大須の昭和-3

 えらく小洒落てしまった天津甘栗の今井総本家。
 以前は建物も老朽化してるように見えたから、大須301ビル建設は渡りに船だったのかもしれない。
 295グラム入りの天津甘栗が1,000円というのは、けっこう高めのような気がするけどどうだろう。これくらいが相場なんだろうか。横浜の中華街では500円くらいだったけど、屋台のあれと比べてはいけないか。
 天津甘栗は美味しいから好きだ。皮をむくのが面倒じゃなければもっといい。かといって最初からむいてあると味気ない。それが甘栗と蟹の足の共通点だ。

大須の昭和-4

 鳥獣店か、なるほどと思う。私たちが子供の頃は、町内に一軒はこういうタイプのペット屋があった。店先のカゴにセキセイインコや文鳥などがいて、中には金魚や熱帯魚の水槽がある。店主はだいたい、ちょっとクセのあるオヤジで、少し怖かったりもした。
 夏になると、カブトやクワガタもこういう店で買った。養殖のテラテラした赤茶色のノコギリクワガタを思い出す。天然物はカブトムシでも、全身にうぶ毛が生えているのだ。
 インコも飼っていたから、エサも買いに行った。昔はホームセンターなんてものはなかった。
 懐かしい佇まいの店を見て嬉しかった。ただ、さすがに生き残るのは難しかったようだ。町のペット屋も、本当になくなった。

大須の昭和-5

 たぶんまだやっているはずの仁王門湯。この角度からは見えないけど、ちゃんと高い煙突も立っている。
 中も相当レトロらしく、初めて入るとかなり衝撃を受けるようだ。銭湯の趣味がない私は、必要に迫られないと行くことはないだろう。
 近年は燃料費の高騰で、全国的に銭湯がどんどん姿を消している。仁王門湯はなんとか頑張って欲しい。町に一つくらいは銭湯があってもいいと、部外者だから勝手なことを思う。

大須の昭和-6

 不況でもとりあえず床屋は行かないといけない。影響がなくはないだろうけど、比較的景気に左右されない職種といえるだろうか。私は自分で切るけど。
 田舎の方の古い町並みを歩くと、必要以上に床屋やパーマ屋がある。パーマ屋ってのは昭和的表現? 美容室ってのも最近は古いのか。
 隣ともう一つ向こうもシャッターを閉じている。このあたりも何かの店だったんじゃないか。

大須の昭和-7

 名古屋は個人の小さな喫茶店が多い。喫茶店王国だから、他のどの街よりも喫茶店密度が高いのだ。とにかく名古屋人はすぐに喫茶店に入りたがる。名古屋に来て、あてずっぽうに歩いても、おそらく15分以内に喫茶店とパチンコ屋が見つかるはずだ。
 喫茶店は近所の常連さんで成り立っているから、続くところは続く。ただ、簡単そうに見えて実際は意外と難しいのが喫茶店商売で、バイト先でも知り合いの店でも、いろいろ苦労しているのを見た。

大須の昭和-8

 ホテルの定義とはどんなものだろう。どんなに小さくても、人を泊める施設ならホテルを名乗るのは自由なんだろうか。
 こういう外れの小さな宿でも経営が成り立つものなんだろうか。
 そういえば、最近、連れ込みホテルって言葉を聞かなくなった。

大須の昭和-9

 建物は雨風に晒されると変色する。でもここまで黒ずむものだろうか。最初から白ではなく、もともとこんな色だったのかとさえ思わせる。
 大須はやっぱりすごいぞと、いろんな部分で感心する私であった。

大須の昭和-10

 長屋風アパートというか、アパート風住宅というか、こういう二階建ての家屋というのも最近は少なくなった。文化住宅というのとは少し違うか。
 前にあるのは何だろう。祠のようにも見えるし、井戸の名残のようでもある。よく分からなかった。

大須の昭和-11

 黒い格子の昔ながらの家と思わせて、実は本物の町屋ではなさそう。
 横にたくさん煙突をつけている。前にはビールの空き瓶とゴミ箱。焼き肉屋か、焼鳥屋といったところだろうか。
 大須は空襲で一面焼け野原になってしまったというから、戦前の古い建物はほとんど残っていないのだろうと思う。古く見えても戦後のものだ。町としての歴史は古くても、町並としてはそれほど古いところではない。円頓寺の方がずっと昔の名残がある。

大須の昭和-12

 すれ違いざま、おばさまが大きめの声で話しかけてきた。え? 私? と思って顔を見ると、こっちを見ていない。なんだ、大きな声の独り言か、大須ってやっぱり変な人が多いんだと思いつつ振り返ってみると、肩に乗せた猫に向かってしゃべりかけていた。なんだ、そういうことかと納得したけど、考えてみるとそれはそれで変だ。街中で肩に猫を乗せて話をしてる人なんて、見たことがない。

 大須は歩けば歩いただけ収穫があるところだ。久々だったから、どこを見ても新鮮だった。写真を撮るために歩いたのが初めてだったというのもある。
 こうして撮った写真を見ると、まだ全然甘い。対象にぐぐっと迫れていない。広角レンズではどうしても写真が説明的になってしまう。次は標準の単焦点か、中望遠あたりで迫ってみたい。タムロン90mmで切り取る大須風景なんてのも試みとしては面白そうだ。
 大須シリーズの残りは、神社仏閣あれこだ。神社編と寺編に分けて2回、あと1回番外編があって、完結となりそうだ。もう少し大須を一緒に味わいましょう。


大須を制するには寺の位置と通りの名前を把握すべし 〜大須3回
2008年08月27日 (水) | 編集 |
大須名所-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 これまで万松寺と大須観音を中心に大須の歴史を紹介してきた。3回目の今日は、大須の有名どころや通りについてまとめてみたいと思う。主だった通りにはそれぞれ名前がついていて、その数が多すぎて私自身もよく分かっていなかった。県外の人も、名古屋の人も、通りの名前など大した問題ではないだろうけど、自分の頭の中を整理するのも兼ねて、一応書いておくことにする。
 大須のエリアに関しては、非常に分かりやすい。一般的に大須というのは、東は矢場町の交差点から上前津までの南大津通、西は若宮から大須西までの伏見通り、南北は大通りの若宮大通りと大須通りで、その道に囲まれた四角いエリアを一般に大須と呼んでいる(町名としての大須はもっと広範囲に渡っている)。
 そのエリアの中には、東西南北それぞれ3本の主要な道が通っていて、その間に細い道がたくさん走っているという構造をしている。古い町の割に区画がすっきりしているのは、この街が城下町として人工的に作られたところだからだ。碁盤の目ほどではないものの、変に曲がりくねったりしてないので道に迷ったり方向感覚を失ったりすることはない(昔、自分が路上駐車した場所が分からなくなって、1時間半さまよって泣きそうになったことがあったけど)。
 大須を感覚的に理解するためには、寺の位置を把握しておくことが大事になる。通りの名前も寺にちなんでいるものが多い。万松寺があるところが万松寺通だし、大須観音があるところは観音通り、赤門通は大光院(明王殿)の赤門からきている。
 そんなことを頭に入れつつ、ぼちぼち大須散策を再開しよう。

 上の写真は、名古屋で有名な「コメ兵」だ。「いらんものはコメヒョーへ売ろう!」のCMでお馴染みで、名前を聞いたことがない名古屋人はほとんどいないんじゃないかと思う。
 昔は大きな質屋というイメージだったものが、年々成長を遂げて、今では日本最大級のリサイクルショップになった。東海銀行があった土地に6階建ての自社ビルまで建ててしまった。写真は、その本店の1階だ。
 貴金属から宝石、時計、ブランドバッグ、衣料、AV機器、パソコン、カメラ、楽器など多種多様で、新品や新古品なども扱い、もはや質屋という枠を超えている。
 それでも収まりきらず、西館、新西館、アメカジ館、Yen=g(エングラム)という量り売りの店まである。更に近年は東京、大阪にまで進出しているから、名古屋以外でも知名度は上がっているのかもしれない。
 以前は、米兵と表記していたので、この「ベイヘイ」ってアメリカ兵関係のものが売ってる店かなどと、とぼけたことを言ってる人もいた。実際のところ、アメリカ軍とは一切関係はない。創業者の実家が米屋をやっていて、赤門通で兵次郎という人が米屋をやっていたときの商号が米兵だったのだ。戦後は古着屋として再出発して、その後手広く商品を扱うようになり、今に至っている。
 私はずいぶん前に入ったきりで最近は入っていない。けっこう安いそうだから、機会があれば行ってみよう。中古カメラやレンズの掘り出し物とかあるだろうか。

大須名所-2

 通りはすっきりしているのに、通りの名前はすっきりとはいかない。上下3本ずつで通りの名も6つかと思うとそうではなく、途中で名前が変わってしまう。一番北の赤門通りは縦の大須本通から西は赤門明王通となり、その大須本通も万松寺と大須観音通を分けた南側は門前町通となる。その門前町通で左右に分かれた道は、東が東仁王門通で、西が仁王門通となり、途中で名前が分からないのは、真ん中の裏門前町通と、一番東の南北通りである新天地通だ。
 こんなもの、一度に全部覚えられない。大須を庭にしている人ならともかく、一般の名古屋人でも知らないことだ。ただ、大須は店が多くて場所が分かりづらいから、店の位置を説明するときに通りの名前が手がかりになる。万松寺なら、万松寺通を右に折れて新天地通りに入ってちょっと行った左側、というように。
 上の写真は、大須本通から大須観音寺通の東の入り口を見たところだ。この道を真っ直ぐ行くと、大須観音の北に出る。真ん中あたりで右に入ると大須演芸場がある。
 まあしかし、土地勘もなく初めて行くと、大須というのはとても分かりづらい街に違いない。

大須名所-3

 ここは赤門通が終わって赤門明王通に入ったところで、右に見えているビルが「大須ういろ」の本店だ。「大須ういろと〜ない〜ろ〜で〜す〜」というCMが頭にこびりついて離れない名古屋人も多い。もっと昔のCMは、「ボンボンボ〜ンと時計が三つ〜 坊やオヤツを食べました〜 トロリとろけてトロリンコ〜」だった。今の若手はそれは知らないか。
 名古屋名物ういろうは、この大須ういろと青柳ういろうという二大勢力で、永遠のライバルとして競い合っている。大須が「ういろ」なのに対して、青柳は「ういろう」という違いがある。このへんは名古屋人は厳しいので気をつけて欲しい。そんなのどっちでもいいよなんて言ってはいけない。
 青柳のCMは、「悔しかったら言ってみな 白黒抹茶小豆コーヒー柚桜 七つの味を残らずポイ ポポポイのポイポイポイ 青柳ういろう〜食べちゃった〜」だった。イヤになるほど聞かされたので、忘れようにも忘れられない。ほとんど洗脳だ。
 ういろうは漢字で書くと外郎だから、本来なら「ういろう」が正しい。それをあえて「ういろ」にしたのは、商標登録を取るときに一般的な「ういろう」では難しいと判断したからだそうだ。外郎というのは、古くから中国にあったもので、名古屋が発明したとかそういうことではない。名古屋人は見栄っ張りだから、安くてずっしり重たいのがみやげ物に向いていると、この地に根付いたといわれている。けど、あれは自分が持っていくにも人に渡すにも重たくてやっかいだ。名古屋人が特別ういろうの味が好きかといえば、決してそんなことはないということも付け加えておこう。名古屋の人がよその人からもらって一番がっかりするのが、ういろうかもしれない。

大須名所-4

 CMつながりで、「高価買い取り」とヨークシャ・テリアのCMでお馴染み、ビュピター宝飾だ。こんなところにあったとは知らなかった(裏門前町通あたりだったか、大須本通の北だったか)。
 名前は知っていてもどんな店かはよく知らない。宝飾品の中古売買だろうか。
 その前を行く、女の人二人がまたすごい格好で歩いていた。これも大須らしい光景の一部といえばそうだろう。
 セブンイレブンを挟んで、コメダさんもあった。名古屋人の心の故郷的喫茶店だ。

大須名所-5

 大須演芸場前へとやって来た。
 風前の灯火と言われながら幾度も閉鎖の危機を乗り越えて、今日まで生き延びてきた。3度も競売にかけられながら、最後の最後ぎりぎりのところで踏みとどまっている。
 大須が華やかだった時代は、大須二十館と呼ばれるほどたくさんの劇場などがあったという。それが今では大須演芸場と、七ツ寺共同スタジオの二つのみとなってしまった。
 演芸場ができたのが昭和40年(1965年)のことだ。建物としてはその3年前に、木造2階建てとして建っている。

大須名所-6

 大須演芸場の危機を聞いた古今亭志ん朝は、晩年の1991年から毎年独演会をここでやった(2001年死去)。日本一客が入らない演芸場で日本一客を呼べる落語家が公演を行ったというのは、今でも美談として語り継がれている。
 売れない頃のビートたけしもここで漫才をやり、明石家さんまは笑福亭さんまという名前で落語をやっている。楽屋通路の壁には1975年に書かれた明石家さんまの落書きも残っている。「今日も客なし 明日は?」
 島田洋七は、B&Bを組む前にここで初舞台を踏んだ。客は5人だったという。上沼恵美子の初舞台の場所でもあり、若き日の泉ピン子もよく出ていた。
 古いプログラムを見ると、トップバッターが、やすきよで、コント55号が続く、なんてこともあった。
 現在は東西から若手などを呼んだり、ロック歌舞伎スーパー一座が公演をしたりしているようだ。一日2回公演で、平日は昼から、土日は11時からで、入場料は1,500円。シルバー割引などもある。
 高校生の頃、一度は入っておくべきだった。今では大物になった芸人の若き日を見ることができたかもしれない。

大須名所-7

 門前町通の裏手あたり。左には富士浅間神社がある。
 このあたりはだいぶ外れで家賃も安いのだろう。若い子が店を出していた。昔ながらの古い商店と、大手のチェーン店と、個人の若い経営者の店などが渾然一体となっているところが大須の活気の素となっている。最近はアジア系の店も増えた。大須は安いものも多いし、日本に働きに来ている外国人たちにとってもここは魅力的な街と映っているようだ。それで、外国の店も自然とできていった。
 いろんな部分で大須も変化しているのを感じる。

大須名所-8

 大須名物、巨大招き猫。ふれあい広場と名づけられたここは、大須の待ち合わせ場所にもなっているんだとか。
 毎週日曜日は、「大須サンデー大道芸」と名づけられていて、全国から集まった大道芸人たちが芸を披露する。ジャグリングやパントマイム、風船ショーやフラメンコにマジック、ダンスに音楽にパフォーマンスなどを演じているという。
 大きな招き猫の下でフラメンコというのも、なかなかシュールな光景だ。
 この招き猫は、2.2メートル。昔はこの台座の中に大須ボーイと大須ギャルというからくり人形が入っていて、時間になると出てきて踊ったらしいのだけど、最近はどうなんだろう。ビデオスクリーンになってビデオが上映されるというから、そういうふうに変わったのだろうか。

大須名所-9

 東エリアでは、万松寺通と東仁王門通、新天地通が最も賑やかな通りとなっている。このアーケード街が大須商店街のメインストリートといっていいだろう。
 新天地通の北側がアメ横など、PC関連の店が集まっていて、個人的には馴染み深いところだ。
 万松寺通や東仁王門通は、新旧のいろんな店が並んでいて、特徴を言い表せない。古くからの衣料店や新しい外国の飲食店、古着屋、パーツ屋などなど、非常に雑然としている。私も、どこにどんな店があるのか、詳しいことはまったく把握していない。
 この日はあまりにも人通りが多くて特殊な日だった。今度静かな平日にもう一度行って、ゆっくり店なども確かめてこよう。写真もじっくり撮りたい。

大須名所-11

 アーケードの中に教会もある。仁王門通の名古屋福音伝道教会だ。大須は神社仏閣が集まっている地域だから、異国の神様がいても不自然ではない。
 江戸時代の名古屋におけるキリシタン事情はどうだったんだろう。どこかの神社か寺で、名古屋の隠れキリシタンを匿ったとかなんとかいうところがあった気がする。これもまた、一つのテーマとして頭に入れておこう。

大須名所-12

 大須射撃場なんてのもある。これも昭和だななどと思ったら大間違いだった。温泉にある射的などとは違い、公認射撃場なるもので、エアライフルを撃つところなんだそうだ。冷やかし半分でフラッと入っていく店ではないらしい。
 18禁で飲酒者は退場処分を食らう。景品は出ませんという但し書き。
 エアライフルといってもエアギターのようなまねごとではなくて、空気の力を利用して撃つライフルで、弾は金属製だ。8発500円は安いのか高いのかよく分からない。
 免許がいるのかどうかエアライフル事情はさっぱり知らないけど、私は銃関係は近づきたくない。種子島とかも撃ちたくないし。

大須名所-13

 ものすごく年季の入った店構えと、その前の道ばたに野菜を広げて直売するおばさま。名古屋市内で展開されている日常の光景とは思えない。
 店は、富田楼という古いうなぎ屋らしい。

 今回は大須のディープな一面を少しだけ紹介した。深みはまだまだこんなものではなくて、私などは近づけないところも多々ある。ただ、これまでの3回を通じて、少しずつ大須の魅力を分かってもらえてるのではないかと思う。
 ごった煮の鍋の中から何を選ぶかは、あなた次第。大須って、味噌煮込みおでんみたいなところだ。見た目はともかく、じっくり味が染み込んでいて美味しいところも似ている。
 県外の人が名古屋に来たときはぜひ一度寄っていって欲しいし、名古屋の人も変わりつつある大須を再発見してもらいたい。私も、もう一度といわず、二度、三度と行ってみたいと思っている。


大須夏まつりで大須観音も鳩が蹴散らされるほどの人だかり 〜大須2回
2008年08月26日 (火) | 編集 |
大須観音-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 大須について紹介するならば、街の名前の由来となった大須観音について書かなければならないのは当然のことだ。
 しかし、大須観音という名前のお寺は実は存在していない。大須にある観音さんということで昔から大須観音と呼ばれているだけで、正式名を北野山真福寺宝生院(ほうしょういん)という。たぶん、大須観音を知っている人の9割はこの名前を知らないのではないかと思う。ちょっとした意地悪で、大須観音の前に立っている人に、このへんに宝生院ってお寺はありませんかと訊ねてみるといい。10人中9人は、さあ、聞いたことないけど、と言うに違いない。それだけ大須観音という名で通っているとも言える。一番近い地下鉄の駅も、大須観音駅という名前になっている。
 前回も書いたように、大須観音は、尾張国長岡庄大須郷(現在の岐阜県羽島市大須)にあったもので、名古屋城築城に伴う清洲越の際、徳川家康の命令でこの地に移された(1612年)。
 清洲ではないのにここに移したのは、大須の地は水害が多かったせいもある。美濃の大須は、木曽川と長良川の合流地点にある郷で、大きな州という意味で名づけられた土地だった。
 元の大須観音の歴史をさかのぼってみると、1324年に後醍醐天皇が美濃の大須(長岡庄)に北野天満宮を創建し、1333年にその別当寺として能信上人に開かせた寺が真福寺宝生院だった。1333年は、鎌倉時代が終わった年だ。
 江戸時代、名古屋に移ってからは、門前町として発展していくこととなる。当時の大須の中心はこの大須観音だった。
 1600年代の終わりになると、名古屋城城下町の人口は6万5,000人にも達し、江戸、大坂、京都に次ぐ大都市となっていた。
 この頃、庶民の間で観音信仰が流行し、大須の観音さんも大いに賑わうようになる。尾張にも四国霊場と似たものを作ろうということで、尾張にも三十三ヶ所が設けられたりもした。やがて大須観音は日本三大観音の一つと言われるようになる(あとの二つは、浅草観音と三重県津市の津観音)。
 門前町は参拝客目当てのみやげ物屋や飲食店が建ち並び、夜も華やかになっていった。それがのちに商店街として発展していくあたりが浅草と似ているところと言えるだろう。
 明治に入ると廃仏毀釈で観音信仰は影を潜め、多くの寺も失われてしまった。それに第二次大戦が追い打ちをかけた。
 尾張三十三ヶ所が復活したのは戦後の昭和33年(1958年)で、大須観音は一番札所となった。名古屋から知多半島を一周して、瀬戸から名古屋に戻って、八事の興正寺で打納めとなる。行程は336キロ。

大須観音-2

 大須観音は、二度焼けている。最初は明治25年、隣の家から出た火が燃え移って焼失。二度目は第二次大戦の空襲で跡形もなくなった。再建されたのは昭和45年(1970年)になってからのことだ。そのため、本堂も仁王門もまだ新しい。
 火事に懲りて、建物はすべて鉄筋コンクリートとなった。名古屋城もそうだけど、これはどうにも味気ない。見た目以前に尊厳のようなものを感じなければ心の底から畏れ敬うという気持ちは湧いてこないものだ。それは気のせいなんかじゃない。昔の人はそのことをよく知っていて、だから必要以上に大きな建物を建てたり、豪華できらびやかにしたのだ。そこには庶民を圧倒するという狙いがあった。器というのは信仰心にとっても大事なものなのだ。
 仁王門の中の仁王像にも力が感じられない。
 名古屋城の本丸御殿は、ぜひ本物感にこだわって再建して欲しい。コンクリートは100年経ってもコンクリート建築のままだけど、木造は100年経てば歴史的建造物になる。

大須観音-3

 大須観音といえば鳩がつきものなのに、この日は人の多さに蹴散らされて姿が見えなかった。普段は参拝客の10倍くらいの鳩がいる。妙に鳩を大事にしてるようで、鳩エサの自販機まで置かれている。鳩にエサを与えないでくださいというところが多い中、積極的に鳩をかわいがろうとしているところも珍しい。おかげでムクムクに太った鳩を見かけることがある。
 本堂の姿はいい。どっしりと構えていながら優美さもある。堂々としたものだ。ただ、「尾張名所図会」に描かれた江戸期のものとも、再建された明治期のものともだいぶ違っている。昔の方は屋根の形などがシンプルだ。
「大悲殿」と名づけられているのは、大いに悲しいわけではなく、大いなる慈悲に満ちているという意味だろう。
 大須観音には、明治25年の火事で焼けるまで素晴らしい五重塔があった(1815年建立)。本尊として空海が彫った愛染明王像が安置されていうたという。
 これが失われたのがなんとも惜しまれる。どのみち空襲でやられていただろうけど、昭和まで建っていればもう少し写真や資料も残っていたはずだ。明治時代の写真は残っているので、機会があれば一度見て欲しい。再建計画はうやむやのうちに消えてしまったようだ。今更鉄筋コンクリートで建ててもしょうがない。

大須観音-4

 意表を突くフレームイン。上の方を見ながら撮っていたので手前に気づかなかった。本堂前の写真はこれ一枚しか撮ってなかったので、これを採用。
 近くから見ると本堂の造りの残念なところが目立つ。朱塗りもテラテラして高級感がない。日本三大観音というにはちょっと寂しいところだ。
 本尊は聖観音。
 名古屋七福神の一つである布袋像も安置している。

大須観音-5

 本堂右には紫雲殿という建物があって、つながっている。どういう建物かよく分からなかった。同じ名前の葬儀場とかがけっこうあるから、ここもそういう儀式か何かをするところかもしれない。
 見た目はちょっと中国の城郭っぽいか。

大須観音-6

 本堂から境内を見下ろしたところ。正面に見えているのが仁王門だから、それほど広くないのがこれで分かると思う。昔は当然、もっと広かった。

大須観音-7

 8月3日のこの日は大須夏祭りで、大須観音も大勢の人で混み合っていたけど、大須観音通商店街はもっとものすごいことになっていた。なんじゃこりゃ。普段の週末はこんなに賑わってはいない。
 平日は、お年寄りを中心にもっとスローな時間が流れている場所だ。大須の街自体が純然たる観光地ではないから、その点では浅草とはだいぶ違っている。
 毎月18日、28日は境内で骨董市が開かれていて、かなり人気らしい。1979年に始まったこの市も今では大須名物の一つとなり、100軒以上の骨董店が集まってくるようになった。思わぬ掘り出し物からインチキくさいものまでたくさん出品されているから、興味のある人は一度のぞいてみるといいかもしれない。しかし、「なんでも鑑定団」を観てると、骨董というのは本当に難しいものだとつくづく思う。
 それにしても、こんなに人が多い大須を初めて見た。これはやはり、夏まつり目当ての人たちだったのだろうか。
 夏まつりは2日間で、前日の土曜日から境内や商店街で様々なイベントが行われたようだ。太鼓フェスティバルや盆踊り、阿波踊りパレードに仕掛け花火など。コスプレサミットのパレードは大須観音から出発してここに戻ってくるというルートだった。そのときの人だかりも、写真で見ると大変なことになっている。
 翌日曜日は、サンバショーやラテンダンスショー、山車パレードやサンバパレード、境内では手筒花火も行われた。

大須観音-8

 境内の特設ステージでは、ダンス音楽のリハーサルをやっていた。イベントは夕方から夜にかけてがメインだったから、午後のこの時間はだんだん人が集まり始めていたときだったのだろう。大須の夏まつりって、そんなに有名だったのか。

大須観音-9

 ちょこっと屋台も出ていた。祭りにあわせてなのか、普段からなのか。骨董市のときも出るようだから、この日が特別というわけではなかったかもしれない。
 外国人もちょくちょく見かけた。コスプレサミットのときは、世界から観客としてやって来る人がいたんだろうか。コスプレパレードは一般参加もできるので、やりたい方はぜひ来年。名古屋が萌えた日、という記事のタイトルがあって笑えた。日本におけるコスプレの本場は、秋葉原ではなく大須なのだ。

大須観音-10

 本堂左には、右の紫雲殿と対になるように普門殿が建っている。十二支の念持仏が安置されていて、それぞれの生まれ年の守り本尊がある。
 大須観音でもう一つ忘れてはいけないのが、真福寺文庫(大須文庫)の存在だ。開基の能信上人が集めた蔵書は1万5千巻を超え、仁和寺(醍醐寺だったりもする)、根来寺の文庫と合わせて本朝三文庫と呼ばれている。現存する日本最古の古事記写本など国宝4点の他に、将門記や日本霊異記など、重要文化財も40点近く持っている。
 事前予約で有料らしいのだけど、詳しいことは知らない。いくらくらいするのか相場の見当もつかない。意外と300円くらいだったりしないのかな。
 その他に書いておくべきこととしては、松尾芭蕉が訪れているということか。1687年の12月3日、この地に立ち寄って句を残している。
 いざさらば 雪見に ころぶ所まで
 この日は雪が降ったらしい。仁王門の脇に句碑も建っている。
 碑といえば、大正琴発祥の地というのもある。明治45年に大須の森田五郎という人が八雲琴をもとにして小型の二弦琴を作って、これがのちに大正琴となっていったことから、ここを大正琴発祥の地としているようだ。
 からくり人形もある。万松寺は信長で、こちらは尾張藩七代藩主徳川宗春だ。宗春というのも尾張の名物藩主で、ユニークな人物だった。江戸の将軍吉宗の倹約令を無視して、庶民に芸能や消費を大いに奨励し、自らもド派手な衣装を身にまとって庶民の度肝を抜いたりした。江戸や大坂から芸人やら上人やらを呼び寄せ、芝居小屋や飲食店をたくさん作らせた。
 それが名古屋を商業地として発展させるきっけとなった一方、藩の財政は赤字に転じ、江戸の将軍家にも目をつけられ、結局徳川御三家筆頭でありながら尾張藩から一人の将軍も出せなかった一因にもなったといわれている。
 宗春のからくり人形は、11時から17時まで2時間置きに毎日4回行われている。

大須観音-11

 この日の大須散策は、大須観音が最後だったので、西門から出て、地下鉄に乗って円頓寺へ向かった。ただ、ブログの大須シリーズはまだ終わらない。あと2回か3回は続く予定だ。たぶん、明日もこの続きになると思う。


北京オリンピック閉幕記念で北京料理っぽいものを作ったサンデー
2008年08月25日 (月) | 編集 |
北京サンデー

PENTAX K100D+SMC Takumar 50mm f1.4 他



 北京オリンピック最終日ということで、先週の予告通り今日は中華サンデーにした。せっかくの北京開催なんだから、最初は北京料理を目指して出発した。目指せ北京ということで。しかし、途中からうやむやになってきて、一部は北京どころか中華からも脱線しそうになった。そもそも北京料理ってどういう料理をいうのだろうというところから始めないといけない。
 まず北京というところは、だいぶ北の方に位置しているということを頭に入れておく必要がある。緯度40度というのは、日本でいえば秋田、岩手と同じくらいだ。冬は寒く、夏はけっこう暑い。雨が少ないから、コメが穫れず、主食は小麦粉だというのも特徴の一つとなっている。中国でコメをよく食べるのは、南の地方なんだそうだ。
 気候というのもその土地の食べ物を決める大きな要素で、日本でも寒いところと暑いところではずいぶん違っているように、中国にも同じことが言える。一般的に味付けは濃いめで、油を多く使うとされる。
 海に近い割に魚をあまり食べず、肉をよく食べるのだという。代表的な料理はなんといってもアヒルの丸焼きの北京ダックだし、あとは焼き肉だったり、ジンギスカンだったり、羊のしゃぶしゃぶだったりと、やはり肉が多い。
 ご飯の代わりは小麦粉でまかなっている。麺類や、焼餅(シャオピン)、蒸した饅頭(マントウ)など、小麦粉が主食で米はあまり食べないようだ。ギョウザの位置づけも日本のおかずという扱いではなく水餃子をご飯代わりのように食べるらしい。
 料理のルーツとしては、華北地方の山東料理(さんとうりょうり)をベースとしている。これは中国八大料理(八大菜系)の一つで、山東料理、江蘇料理、浙江料理、安徽料理、福建料理、広東料理、湖南料理、四川料理に分かれている。日本ではだいたい四大料理で分けることが多い。北京、広東、四川、上海と。
 北京という都市は、春秋戦国以来、国の中心地で、遼、金、元、明、清と5つの王朝が置かれたところでもある。だから、宮廷料理として発展してきたという一面も持っている。民族も混じり合っているから、料理もさまざまな影響を受けて変化してきた。イスラム料理の影響も強いようだ。
 有名な108品の満漢全席も北京の宮廷料理だ。最初は山東料理で作られていたものが、のちに各地の料理を加えるようになっていった。
 とまあ、北京料理というのはそんなようなものだという概要が分かったところで、ぼちぼちメニューを決めて作ってみようかねと作ったのが上の写真の3品だった。宮廷料理とはほど遠い出来となった。こんな料理を西太后に出したらタダじゃ済まない。

 左手前は、鶏肉の唐揚げの甘酢あんかけだ。あんかけというのも北京料理の特徴の一つとなっている。
 鶏肉に塩、コショウ、カレー粉、酒を振りかけてしばらく置いたあと、カタクリ粉をまぶして揚げる。
 それとは別に、ニンジンとタマネギを茹でる。
 あんかけは、酒、しょう油、みりん、砂糖、酢、水溶きカタクリ粉で作る。
 これを北京料理と呼んでいいものかどうか分からないけど、一応中華の範ちゅうには入ると思う。料理としてはオーソドックスなものだから、まずいはずもない。

 右手前は水餃子だ。中国では日本のような焼きギョウザはほとんどなくて、ギョウザといえば水餃子を指す。
 タネも多種多様で、各家庭、店、個人によってそれぞれ違う。ギョウザという決まった料理を作るというのではなくて、自分が食べたいものをギョウザの皮に包んで食べるという感覚なのだろう。
 今回は、肉を使わず、エビ、白菜、キャベツ、長ネギ、シイタケで作った。
 沸騰したお湯に入れて、浮かび上がって透明な感じになってきたら差し水をしていったん温度を下げ、もう一度浮いてきたら取り出す。
 スープは、酒、しょう油、中華ダシ、塩、コショウ、豆板醤、唐辛子で、少しピリ辛にした。
 北京では黒酢で食べたりもするんだとか。

 奥は、豆腐と野菜のカニ缶あんかけで、これはあまり北京らしくないかもしれない。
 中国でも豆腐はよく食べられていて、たとえば麻婆豆腐などが有名だ。あれは四川料理に分類される。辛さが四川の特徴で、日本でもお馴染みの料理は多い。麻婆茄子、棒棒鶏、 回鍋肉、青椒肉絲、担担麺といったところが代表的なものだ。
 北京料理で豆腐を使ったものが何なのかよく分からなかったのだけど、たぶん使うことは間違いないと思う。カニと豆腐の煮込みみたいなものもありそうだから、カニ缶で代用して作ってみた。中国ではカニ缶は使わないだろうけど。

 今日はこんな感じの北京料理もどきサンデーとなった。北京再現度がどれくらいなのか、北京料理を食べたことがない私には判断がつかない。美味しさでいえば、4位級といったところか。銅メダルを獲るには何かあと一歩が足りない感じだった。敗者復活からの勝ち上がり3位決定戦で負けた料理といったところか。たとえが分かりづらい?
 北京オリンピックも今日で終わってしまって寂しい。2週間なんてあっけないものだと毎回思う。
 今回は全般的にドラマ不足で、成績どうこうではなくあまり出来のよくない大会だった。4年後まで覚えていられることは少なそうだ。前回のアテネの方が印象深いドラマが多かった。忘れずに記憶に残っているものは、北京はソフトの優勝と、野球のメダルなしあたりだろうか。驚きや興奮というのが少なかったのが残念なところだ。
 今回、オリンピックとサンデー料理で多少なりとも北京に近づくことができた。また中国料理に挑戦したい気持ちが強まった。上海料理なんてのもよく分かってないから、今度一回作ってみよう。作れば見えることもある。


大須を一言で説明するのは難しいから長々と説明することにした 〜大須1回
2008年08月24日 (日) | 編集 |
大須1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 今日から何回かに渡って、名古屋の大須という街について紹介していこうと思う。
 大須ってどんなところなのと訊かれても、一言では答えられない。一般的には、秋葉原と浅草と上野を足して小さくしたような街と説明されることが多いけど、そんなに分かりやすいところではない。原宿や巣鴨の要素も併せ持ちながら、実際はどこにも似ていない。大須は大須でしかなく、名古屋でも他に似た街はない。すごく雑多なところで、どうにも説明するのが難しいところなのだ。
 電気屋街といっても家電製品よりPCやパーツショップが中心で、大型電気店が集まる秋葉原とは性格が違う。そしてそれは、大須の一つの顔に過ぎない。
 人にとっては古着の街だし、別の人にとってはオーディオの街でもある。オタク系のボーイたち、皮系ファッションのカップル、おばあちゃん、おじさん、ギャル、兄ちゃん、アジア系の外国人、サラリーマン、家族連れ、主婦などが混在していて、誰が主役というわけでもない。日本有数の仏壇屋街でもあり、名古屋一の家具屋街でもある。昔からの問屋街でファッション関係の店も多く、近年は多国籍な飲食店が増えてきている。
 秋葉原で有名になったおでん缶も、メイド喫茶も、大須が発祥だ。大須ういろう、矢場とん、寿がきや、天むすの「千寿」など、大須から生まれた名古屋名物も多い。
 様々な種類のマニアックな専門店が集まる複合専門店街、と言えばそう遠くはないだろうか。活気があるといえばそうだし、雑然としているといえばそうで、名古屋人でも好き嫌いが別れる街でもある。私は昔から苦手なところだった。中学、高校のとき、よく行っていたのは、当時はまだパソコン(その頃はマイコンといっていた)が一般的ではなく、ソフトやパーツを買うには大須へ行くしかなかったからだ。札のお金は靴下に隠していかないといけないような感じがあるくらいのところだった。
 しばらく寄りつかなくて、この前行ったのがずいぶん久々のこととなった。ビデオデッキを修理するためのコンデンサを買いにいったのは、もう2年くらい前になるだろうか。
 8月3日のこの日曜日は、ちょうど大須まつりというのが開催されていて、普段の休日よりも人が多かった。良く言えばエネルギッシュ、個人的にはやっぱり雑然とした感じが苦手で、思うように写真が撮れずに歯がゆい思いをした。それでも、神社仏閣の写真を中心にけっこう枚数があるから、ゆっくり進めていくことにしよう。
 私の及び腰の写真で大須の魅力をどこまでお伝えできるだろう。今回はさっぱり自信がない。

大須1-8

 万松寺通商店街入り口の天津甘栗の店は昔からの馴染みだ。私がよく行っていたのが、この万松寺通で、天津甘栗の店の前をいつも通っていた。
 久々に見たら店がえらく新しくなっていて驚く。昔はこんな小綺麗な店じゃなかった。創業明治39年の老舗で、店構えもいかにもという雰囲気を持っていた。
 あの頃は前を通ると店の外まで甘栗の濃厚な香りがあふれ出していて、胸が悪くなりそうなくらいだったのに、その匂いはずいぶんおとなしくなっていた。ちょっと寂しく感じる。
 今井総本家の上に建っている大きなビルが、少し前話題になった大須301ビルだ。そうか、ここに建ったのか。つい最近のことだと思っていたら、2003年オープンというからもう5年も前のことになる。考えてみると、大須のこのあたりもずいぶん久しぶりだ。私がよく行っていたのは20年以上前だから、そりゃあ大須も変わって当然だ。昔通った「マイコンテック」や「三洋堂書店 上前津店 Σ」なんかはまだあるんだろうか。
 大須301ビルは、大須再開発の一環として複数の地権者が共同で建てたテナントビルで、ワンフロアすべてが中華料理店ということでも話題を集めた。これで横浜の中華街の要素も取り込んだと、名古屋人はちょっと自慢だったのだ。ただ、2フロア分店を集める計画が縮小してワンフロア12店舗となってしまい、ややしょんぼりしてしまった感はある。できた頃は押すなおすなの大盛況だったようだけど、飽きっぽい名古屋人のことだから、今はもう空いていることだろう。サンシャイン栄の名古屋麺屋横丁の二の舞にならないか心配だ。

大須1-9

 アーケードもずいぶんきれいになっていた。前はこんなに明るくて健全な感じではなかった。もっと昭和然としていた。屋根も床もだいぶ改築したらしい。私の中にあった大須のイメージが良くも悪くも崩れてしまった。
 最初にFM-7というマイコンを買ったとき、この通りを入ってすぐ右のゲームセンターの2階にあった中古ソフト屋によく行った。大須の一番の思い出はこの店だ。
 FM-7のCPUは8MHzで(2つ搭載)、メインメモリは64kBだった。それでも当時は処理速度が速いということで評判だったのだ。あれからX1までのゲームが一番楽しかった気がする。BASICのプログラムを打ち込んで、それがちゃんと動いただけでも嬉しかった。そういう時代を知ることができたのは幸運だったと思う。

大須1-10

 アーケード街の中に萬松寺(ばんしょうじ)というお寺がある(万松寺と書いた方が通りがいいか)。現在の大須の発展は、この万松寺から始まったと言っていい。
 もともとは、信長の父で古渡城主だった織田信秀が織田家の菩提寺として、那古野城の南側に建てたのが始まりだった。開山は、信秀の伯父で、赤津の雲興寺七世だった大雲永瑞大和尚。本尊は十一面観世音菩薩像。1540年のことだから、名古屋城が築城される60年以上前の話だ。
 中区錦から丸の内二、三丁目までと広大な寺領を持ち、大殿を中心に七堂伽藍が備わっていたという。
 徳川家康が6歳で今川の人質となるとき(1547年)、途中で奪還されて尾張に連れてこられ、2年余りを過ごしたのがこの万松寺だった。そのとき、家康は8歳年上の信長と出会っている。
 1552年、父信秀の葬儀が万松寺で行われた。僧300人や重臣が居並び、粛々と葬儀が進む中、喪主である信長は馬に乗って裸同然の姿で現れ、無言で前に進むと、抹香をわしづかみにして位牌に投げつけ、無言のまま去っていった。信秀42歳の早すぎる死に対する屈折した思いだったのか。このとき信長18歳。「尾張のうつけ」と呼ばれ、信長の代で尾張は滅びると誰もが本気で思い、嘆いたものだった。桶狭間の戦いで今川義元を破るのは、それから9年後のことだ。

大須1-12

 1610年、名古屋城築城に伴う清洲越で、大須は寺社の区域と定められて、大須観音などと共に万松寺もこの地に移ってきた。大須という地名は、もとは岐阜県羽島市大須にあった大須観音の移転でつけられたものだ。それまでここらは小林邑と呼ばれていた。江戸時代の大須は、門前町として発展を遂げることになる。
 幕末以降はかなり衰退したらしく、それを見かねて万松寺の大円覚典和尚が大正元年(1912年)に、二万坪以上あった寺領の大部分を開放するに至った。それを機に街作りが進み、大須は再び賑わいを取り戻すこととなる。しかし、大須の浮き沈みはまだまだ終わらない。
 大正から昭和の戦前にかけて、大須は名古屋有数の歓楽街として成長していく。栄、大須、円頓寺が当時の名古屋でもっとも華やかな場所だったというのは円頓寺のところでも書いた通りだ。劇場や演芸場、映画館などがたくさん建てられ、旭遊郭もあった。大道芸人や曲芸師などが集まり、祭りの日ともなれば10万人以上が集まったという。
 しかし、少しずつ時代も街も変わっていった。旭遊郭は中村区大門に移り、日本は戦争に負け、名古屋大空襲で大須も焼け野原になった。大須観音も万松寺もすっかり焼けてしまった。
 戦後少しずつ復興が進む中、1947年、大須に野球場が建設されたことを知る名古屋人は少ないかもしれない。今の名古屋スポーツセンター(大須スケートリンク)がある場所に大須球場はあった。けど、ここは大須二子山古墳と空襲で焼けた本願寺名古屋別院の跡地という罰当たりなところだった。昭和27年(1952年)の大須事件の舞台になったところということで知っている人もいるだろう。その年、大須球場は解体された。それ以前の1949年に、中日ドラゴンズの本拠地は中日スタヂアムに移っていた。
 昭和30年代になると日本は映画ブームとなり、映画館街だった大須にまた人が戻ってきた。しかしそれも束の間、映画人気がすたれると、大須からも人は遠のいた。
 それでも大須は商店街として復興を目指し、1965年には大須演芸場も作った。1967年に地下鉄名城線の上前津駅、1977年には鶴舞線の大須観音駅ができ、交通の便がよくなるとまた人が戻ってきた。その後の大須を決定づけたのが、1977年にできたラジオセンターアメ横ビル(今の第1アメ横ビル)のオープンだった。1984年には第2アメ横ビルもできて、大須はパソコン時代の到来に合わせるようにパソコンの街としての復活を遂げることとなる。
 私がよく行っていた時期は、ちょうとどん底を抜けて電気屋街に変貌しつつあるときだったのだろう。当時は写真を撮るなんて頭はまったくなくて、ぼんやりした記憶だけしか残っていない。それでも大須はもっと古めかしい商店街という印象だった。あの頃の写真が残っていて今見たら、とても懐かしく感じることだろう。あの頃、日常を写真に残すという発想はまったくなかった。

大須1-11

 万松寺と隣り合わせで、白雪枳尼真天(はくせつだきにしんてん)が祀られている白雪稲荷がある。
 白雪枳尼真天というのは、この地に千年も住んでいるという白狐の神様で、そこにはこんな話がある。
 万松寺が衰退してお金がなくなり困っていたところ、御小女郎なる者がやって来てお金を置いていった。後日、吉原から人が訪ねてきて、新しく雇い入れた女が去っていくときに「我は万松寺稲荷だった」と言い置いていったので確かめにきたのだという。さてはここの白狐さんが女に化けて吉原で稼いできてくれたらしいということになり、万松寺は白雪稲荷に感謝して、ますます大事にするようになったというお話だ。
 吉原の店もそれ以来繁盛するようになったというので、以来評判が高まり、水商売関係の人も多く参拝に訪れるようになったという。
 万松寺には、身代り不動明王というのもある。信長が越前の朝倉城を攻めた帰り道、琵琶湖近くで杉谷善住坊に鉄砲でねらい撃ちされて2発命中したものの、懐にあった万松寺の和尚からもらった干餅に当たって命を救われたということがあった。これも日頃信仰している不動明王の加護によるものということで、のちに加藤清正が万松寺の不動明王を身代り不動と名づけたのだった。加藤清正は名古屋城築城のとき、万松寺に寝泊まりしていて、毎日ここの不動明王にお参りしていたそうだ。
 これにちなんで、毎月28日は境内で餅つきをして、参拝者に配っている。
 万松寺の和尚は昔も今もユニークな人物が多いようで、今の住職もかなり変わってる。2002年には日本で初めて、パソコン供養なるものを行って話題となった。使わなくなったけど捨てるにはしのびないパソコンなどを集めて境内で供養したのだ。そのときは全部で200台近く集まったという。その後これは続いてるんだろうか。
 今ではメジャーになりつつ世界コスプレサミットも、もともとは住職が経営していたパソコンショップのイベントとして行われたものだった。2003年から数えて今年で6回目となり、本当に世界規模の大会になってきた。最初は4ヶ国だったものが今年の参加国は13となった。私が行った前日の8月2日は、大須の商店街で世界のコスプレイヤーたちによるパレードがあった。3日はオアシス21で本大会が開かれ、今年はブラジルがチャンピオンになった。発祥の地である日本はいまだに勝てていない。一般の人はまったく知らないイベントだと思うけど、こんなことも名古屋では行われているのだ。

大須1-13

 狭い境内ではこのとき何かのイベントがあった模様。人垣ができていて何をしているか見えなかった。
 万松寺の本堂はこの奥で、近代的なビルの姿をしている。空襲で焼けてからようやく再建がかなったのは平成6年のことだった。
 ここのからくり人形も名物の一つとなっている。毎日10時から18時まで2時間おきに、鐘の音と共に小窓の扉がぎぎぃーっと開いて、信長のからくり人形が出てくる。前半は抹香を投げつけたシーンが再現され、後半は人間五十年の敦盛を舞うのだ。ただし、人形が濡れるといけないので、雨天中止。

 予定ではもう少し話を先に進めて、巨大招き猫や春日神社のことを書くつもりだったのに、万松寺と商店街の歴史を長々と書きすぎて、ここで力尽きた。だいぶ長くなったし、今日はここまでとしよう。続きはまたあさって以降だ。
 大須の歴史と今についてはこれでだいたい書いたから、次からは写真中心になると思う。写真で大須が持つ空気感が少しでも伝わるといいのだけど。


赤目行きは歩いて焦って限界を超えてなんとか完走 〜室生寺第三回
2008年08月23日 (土) | 編集 |
室生寺3-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 室生寺奥の院の石段は普通の状態でも厳しいのに、残り少ない体力で登っていくようなところではなかった。こんなに急な登りが長く続くとは知らず、いったん登り始めたからには後には引けなかった。
 この日はあまりの疲労に食欲が完全に飛んでしまって、前日の夜からここまで18時間以上何も食べていなかった。とにかくアクエリアスやコーヒーなどを飲み続けて、それをエネルギーに替えていた。家に帰ってから体重を量ったら、一日足らずで5キロも減っていた。ボクサー並みの減量だ。今思い出してもこの日は過酷すぎた。
 帰りの時間も迫っていたから、石段の途中でおちおち休んでもいられない。重たい足取りで一歩ずつ登っていく。上までは果てしなく遠く感じた。
 帰りは楽かといえばそうじゃない。下りはヒザへの負担が大きいからかえってつらい。途中で完全にヒザがおかしくなった。
 もう、今はすっかり体重もヒザも元通りになった。超回復で前より丈夫になったことだろう。またそろそろロングウォークの時期が近づいている。

室生寺3-2

 歩いた時間はそれほど長くなったのかもしれない。せいぜい15分かそれくらいだったのだろう。ようやく何かの建物が見えてきた。ここが奥の院だろうか。まだ油断はできない。安心して続きがあると、ガクッときてしまうから。
 この懸造の建物は、位牌堂だ。間違いない、ここが奥の院だ。やれやれ、やっと着いたか。なんでこんな上に作ったんだ。いくら奥の院といったって、こんなに奥にすることはない。
 それはともかくとして、この位牌堂の懸造は見事なものだ。足場の枠組みがとても美しい。しばし見入る。
 ただ、この足が何かの理由でボキッといってしまったときは、建物ごと斜面を転がり落ちていくことになりそうだ。舞台の上にあまりたくさん人が乗ると危ないかもしれない。

室生寺3-3

 左が位牌堂で、右が御影堂(みえどう)。
 位牌堂は供養の儀式をするための堂で、御影堂は弘法大師空海を祀る堂となっている。太子堂とも呼ばれている。空海がこの寺に直接関わったのかどうかは分からない。真言密教の開祖ということで祀られているのだろう。これも鎌倉時代の建物で、重文指定になっている。
 御影堂は、ごえいどうとも読み、いわゆる開山堂だ。開山や宗祖を祀る堂ということでこう呼ばれる。
 ここ室生寺の御影堂には、弘法大師空海42歳の像が安置されている。

室生寺3-4

 奥の院まで行ったからといって、何がどうなるわけでもない。建物としては、上の二つがあるくらいで、特に見所とも言えない。位牌堂の懸造は一見の価値があることはあるにしても、行くか行かないかは意地の問題だ。
 上まで行っても夏場は木々が視界を遮って、見晴らしも悪い。葉の間からわずかに室生の町が見えるばかりだ。
 記念にぐるりと一周回って、ベンチを発見。嬉しくなって座ったのも束の間、いかん、時間がない、こうしちゃいられないというわけで、早々に奥の院をあとにした。奥の院での滞在時間は5分弱。あんなに苦労して登ったのに。

室生寺3-5

 本堂の近くに、北畠親房の墓とされる五輪塔(重文)がある。なんで室生寺に?
 北畠親房といえば、南北朝時代の公家で、後醍醐天皇死去ののち、南朝の指導的立場にあった人物だ。南朝の正当性を主張するために『神皇正統記』を書いたことでも知られている。
 その北畠親房の墓がどうして室生寺にあるのか、よく分かっていないらしい。1354年に奈良県吉野の賀名生(あのう)というところで死去している。現在の五條市で、南朝時代の首都の一つだったところだ。室生寺からはずいぶん離れている。生前にこの寺と関係があったのか、寺の誰かと知り合いだったのか。
 大正5年(1916年)に発掘調査が行われて、木製五輪塔や納骨壷が見つかったものの、誰の墓かは判明しなかったそうだ。特に嘘をつく理由もないと思うけど。
 南北朝時代については、私自身よく分かっていない部分もあるので、機会があれば勉強して書きたいと考えている。

室生寺3-6

 夕方5時前に室生寺をあとにする。なんとか奥の院まで行って、1時間弱で見学を終わらせることができた。ここまでは予定通り。ほぼ狂いなし。あとは2時間かけて駅までの7キロを歩くだけだ。
 散歩や散策ならともかく、単なる移動で7キロは普通歩かない。東京でいうと、新宿駅から東京駅まで歩くのと同じくらいだ。いくらお金がなくても、ほとんどの人は新宿から東京駅までは歩かない。名古屋なら、名駅から東山動物園くらいだ。名古屋人がそんな距離を歩くはずがない。
 道はほぼ室生川沿いで、なんとなくハイキングコースのようにはなっていなくもない。行き帰りに歩くという人もいるのだろう。ただ、けっこう車通りが多くて、歩道がないところもあるので、あまり気分のいい散策路ではない。林道のようなものだったら、もう少し気分よく歩けただろう。

室生寺3-7

 歩けども、歩けども、駅に近づいたような気がしない。気が遠くなりそうだ。道のりが果てなさすぎる。奥の院の石段の方がましだったとさえ思う。この帰り道は本当に遠く感じた。途中からとにかく、もう歩きたくないと思いで頭の中が一杯になった。歩くという行為にほとほとうんざりした。走るのと違って歩くことに限界はないと思っていたけど、やっぱり限界ってあるものなんだと思い知る。
 客観的に見たら、ものすごくトボトボ歩いたと思う。カメラをぶら下げていなければ、遭難者か何かかと思って車が止まってくれただろう。けど、カメラを持ってるから、好きで歩いてはるんだろうなと通りすぎるドライバーは判断したらしい。ついに最後まで一台も止まってくれることはなかった。室生口大野駅と大きく書いた紙を背中に貼っておくべきだったか。
 赤目滝で一度限界を超えてウォーキングハイ状態になり、長谷寺の帰りでダウン寸前まで追い込まれ、室生口の前半はまた復活模様だったのに奥の院でやられて、室生口からの帰り道でトワイライトゾーンに入った。疲労度のパーソナルベストをたたき出して、自分の歩き能力の限界を知った。
 そんなとき、私を励ますためにある使者が送り込まれてきた。それが下の写真の鹿さんだ。

室生寺3-8

 最初、道路沿いの川岸にいて、私の姿に驚いて、キョン、キョン、キョンというような大きな声を上げて、川をバシャバシャ渡って対岸まで駆けていった。突然の出来事に驚いたのは私も一緒で、とっさにカメラを向けられず、走っている姿を捉えることができなかった。撮ることができたのは、向こう岸に渡ったあとだった。惜しいことをした。この日は望遠レンズも持っていなかった。
 向こうにいったあともこちらをじっと見つめたまま、山中に響き渡るような大きな声で鳴き続けた。鹿があんなに大きな声を出す動物だというのを初めて知った。動物園や奈良公園にいる鹿はほとんど鳴かない。それはまさに、野生の呼び声だった。この声と姿の凛々しさに感動する私であった。
 奈良だから鹿がいるのは当たり前というわけではない。奈良公園からここまでは何十キロもあるから、逃げ出してきたとも思えない。生命力の輝きが野生と飼われているものとは違う。野生動物って、やっぱり美しいものなんだとあらためて思う。いつか大台ヶ原にカモシカを撮りにいこう。
 これでだいぶ疲れが吹き飛んで元気になった。きっと、室生山の神様が、私のあまりのヨレヨレぶりを見かねて、応援を送ってくれたのだろう。ありがとう、室生山と鹿さん。ここまで来てよかった。歩いたからこそこの出会いがあった。赤目からずっと一日歩き回っていろいろ見て、この鹿との遭遇が一番嬉しかった。旅はこういう思いがけない偶然があるから面白い。

室生寺3-9

 鹿との出会いから歩くこと30分。いったん気持ちは元気になったとはいえ、肉体的にはとっくに限界を超えているから、また激しく疲れてきた。そんな私を癒してくれたのがこの看板だった。
「一万本の花が咲く 弁財天 石楠花の丘 直進11キロ」
 って、直進できるか!
 目の前は草ボウボウで、川が流れていて、その向こうは山だ。直進なんてできっこない。川を越えて、山を越えて、真っ直ぐ11キロも歩くなんて、絶対イヤだ。けど、この看板には笑わせてもらった。それで体の力が抜けて、またちょっとだけ気持ちが元気になった。

室生寺3-10

 徒歩の7キロというのは、感覚がよく分からない。一度バスで走った道とはいえ、歩くとなると全然進まない。通った道ということは分かっても、駅から何分くらいだったのかが思い出せない。
 このあたりも田んぼがあったから、そろそろ町まで近いんじゃないかと喜んだら、ここは途中の集落で、またすぐに人家は消えた。実際、ここから駅はまだまだ先だった。
 アオサギが飛び立ったので撮ってみる。風景も単調だから、こんなちょっとした出来事が嬉しい。

室生寺3-11

 バス停の路線図を見ると、なんとか宅前、というバス停がある。完全に個人宅の前じゃないか。きっと、それくらいしか目標物がなかったのだろう。そこに停まる必要があるとすれば、この家の関係者くらいのものだ。
 オレンジに塗られているゾーンは、自由乗車区間となっていて、申告制でどこでも降りることができる。手を挙げれば乗せてもくれる。田舎のバスで暗黙の了解でそうなっているところはあるけど、最初からそういうゾーンとして設定されているのは初めて見た。親切といえば親切には違いない。

室生寺3-12

 室生寺を出て1時間半後、ようやく駅近くまで戻ってきた。橋を渡って、165号線をくぐれば、その先に大野寺があって、そこまで行けば駅までの距離感は分かる。
 上の写真の古い民家は、そば屋さんか何かの店だった。前の田んぼで米を作りながら店もやるというスタイルかもしれない。

室生寺3-13

 大野寺はすでに門が閉まっていた。ここも5時くらいまでだろう。
 大野寺は、室生寺の守りを固めるための寺の一つで、役行者が室生寺と同時に開創し、空海が堂宇を建てたという話が伝わっている。ただ、これも室生寺の伝承と同じで、実際にそうだったのかどうかは分からない。ただ、興福寺との関係が深く、室生寺の末寺だったことは間違いない。
 明治33年(1900年)火事になって、ほとんどの伽藍は失われてしまった。
 重文の身代わり地蔵(木造弥勒菩薩立像で秘仏)や、裏手の弥勒磨崖仏(自然石に刻まれた仏の姿に見える)、シダレザクラなどが有名だ。

室生寺3-14

 予定通り、最後は19時4分発の電車に乗って、帰路についた。お疲れ様でした。
 タイトなスケジュールをほぼ完璧にこなしたというのは、大きな収穫だった。こういう旅もやろうと思えばできるということが分かった。でも、同じコースをもう一度回ってみろと言われたらきっぱり御免被る。今回は分からなかったからできただけで、分かっていたらできていない。無知ゆえにできることもある。
 写真とネタの収穫はたくさんあって、そういう意味では非常に充実した赤目行きとなった。歴史の知識という部分でも大いに得るものがあった。
 断続的ながら長らく続いた赤目行きシリーズもこれで終わりとなる。また明日からは地元ネタや小ネタに戻ろう。まずは大須について書きたいと思っている。写真の枚数が多いから、何回かのシリーズになりそうだ。
 来週はまた電車の旅だ。滋賀と岐阜の歴史巡りは、どんなものになるだろう。関ヶ原あたりではまた歩くことになりそうだ。楽しみでもあり、ちょっと恐ろしいような気もしている。


これが見たいがためにここまでやって来た室生寺五重塔 〜室生寺第二回
2008年08月22日 (金) | 編集 |
室生寺2-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 仁王門をくぐって少し歩くと、左手に自然石を積み上げて作られた美しい石段が現れる。これを鎧坂(よろいざか)という。いよいよ700段の階段の始まりだ。
 本来ゆっくり撮るべきところを、やや急ぎ足でいく。のんびりしている時間的は余裕がなかった。
 5月には石段の両脇をシャクナゲが彩る。秋は赤、夏は緑で、冬は白。枯れた山寺にも四季折々の色がある。
 土門拳は雪の室生寺に執念を燃やした。
 このときは耳鳴りがするほどの蝉時雨が、頭の上から降りそそいでいた。

室生寺2-2

 鎧坂を登った先にあるのが金堂(こんどう)だ。金堂と聞くと、こんどーです、とついモノマネしたくなるのは30代以上のサガ。
 金堂というのは、いわゆる本堂の昔の呼び方だ。奈良時代から平安初期に建てられた寺院はこう呼んでいた。のちに本堂と名前を変えたり、そもそもこの時代の建物が残っていることが少ないので、金堂自体見かけることはあまり多くない。東大寺とか法隆寺とか唐招提寺とか、有名どころに残っていて、金という字が使われてるから、なにやら高尚なものに感じてしまいがちだ。
 室生寺の場合は特殊な例で、もともとの本堂であった金堂の他にもう一つの本堂がある。そのあたりのいきさつは、本堂のところであらためて書くことにして、まずは金堂の話をしたい。
 室生寺というのはいろいろ変わったところがあるというか、分からないことが多い。どういうわけか、本尊を祀るための金堂よりも先に五重塔が建てられている。五重塔は800年前後に建てられたことが分かっている。実質的な開基となった修円がこの世を去ったのが835年で、このときはまだ五重塔しか建っていなかったらしい。
 金堂が建ったのは修円の没後となると、850年前後だろうか。本堂が建てられたのは更にのちの鎌倉時代になってからで、室生寺が現在のような姿になるまでには相当な年数を要したようだ。
 ここは京の都からも平城京からも遠く離れていたことも幸いした。僧兵を持たなかったので戦に巻き込まれることもなく、大きな火事も出さなかったから、静かにゆっくりと歳月を重ねることができた。

 金堂は山の斜面を利用して建てられているために、懸造(かけづくり)になっている。長谷寺本堂や清水寺のような規模ではないものの、このスタイルは日本人の心に訴えるものがあるように思う。カッコいい建物だと思う。崖の途中に無理矢理建てている民家を見ると、土砂崩れは大丈夫かと心配になるけど。
 古い建物の屋根は、やはり柿葺(こけらぶき)がよく似合う。
 木材は杉が多く使われているようで、これは鎌倉末期の大修理でそうなったのかもしれない。正堂部分は平安時代前期のもので、礼堂(らいどう)は1672年に増設されたことが分かっている。最初は本尊を安置する正堂だけだったものに礼拝するための礼堂を付け足すことになって、そのとき懸造になったようだ。
 建物自体も当然の国宝指定で、堂内にも国宝、重文が並ぶ。
 本尊は釈迦如来立像で、これも国宝。もう一つの国宝が十一面観音立像で、あとは重文の文殊菩薩立像、薬師如来立像、地蔵菩薩立像が横一列に並び、手前には十二神将立像が立つ。
 これはもう圧巻としか言えない。写真撮影は禁止だからお見せできないのが残念だ。ただ、撮ったとしても実物の迫力は伝えきれない。
 以前は金堂の中まで入って近くから見られたらしい。今は舞台のところから離れて見るしかない。それがちょっと残念ではあった。

室生寺2-3

 金堂の左手にあるのが弥勒堂。名前の通り、本尊の弥勒菩薩立像を安置してある堂だ。鎌倉時代の建築で、当初の姿とはだいぶ変わっているらしい。
 本尊も建物も重文なのに、ここに客仏で国宝の釈迦如来坐像がいる。客仏というのは、廃寺になった寺などから移ってきた仏像のことだけど、これはどこから来たものなんだろう。平安前期に彫られたものという以外、どこのものだったのかは分かっていないのだという。
 ここも中は撮影禁止になっている。でも、ぼおっと暗がりの中に浮かび上がっている仏像が写っていて、これが釈迦如来坐像ではないかと思う。
 公開していない仏像や美術品なども多数所有していて、その中にも国宝や重文がたくさんある。特に平安時代初期のものは貴重だ。

室生寺2-4

 室生寺にも神仏習合の一面がある。金堂の右手、弥勒堂の向かいに天神社がある。上の写真は拝殿で、天神社は階段を登った奥だ。
 屋根は苔むしているというより、何か植物を栽培しているみたいでちょっと笑えた。
 室生龍穴神社との関係性を示していると言えるだろう。龍穴神社の方が古い式内社で、それに呼応する形で室生寺が建てられたという説は正しいんじゃないか。

室生寺2-5

 足下を見ると、石に仏像が彫られている。ミニ神棚みたいなものもちゃんと設置されているから、これも大事なものなのだろう。仏はちょっとコミカルな感じだ。下半身がロボットみたい。
 軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)という明王像で、4つの顔と4本の手を持ち、あらゆる敵から人間を守る守護神だそうだ。

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 残念なことに、本堂(灌頂堂)は大がかりな工事中で、全体がシートに覆われていた。鎌倉時代後期の1308年に建てられたもので、これも国宝指定になっている。横に回っても、裏に回っても、見えず、大工さんたちがトンカントンカン、作業をしている音だけが聞こえていた。
 灌頂(かんじょう)という密教の大切な儀式を行うために建てられた堂で、室生寺が真言宗に変わったことから、寺の中心はそれまでの金堂からこちらに移り、本堂となった。
 灌頂というのは、頭に水を灌いで正統な継承者とする儀式で、結縁灌頂、受明灌頂、伝法灌頂などがある。
 もともとこの場所には、創建時に本尊を祀るための堂があったとされている。それは五重塔よりも古いものだったかもしれない。
 本堂の建物は和様、大仏様、禅宗様が混じった独特の形式をしているそうだ。見てないので何とも言えない。屋根は入母屋造で、檜皮葺(ひわだぶき)らしい。檜皮葺は材料が貴重でもあるし、お金もかかることから格式の高いものとされ、昔は貴族の家などで使われたという。今はよほど重要な建物でしか使われていない。京都御所の紫宸殿、出雲大社、厳島神社、善光寺、清水寺、北野天満宮などだ。

室生寺2-7

 入り口だけ小さく開いていて、参拝はできるようになっていた。上からはトンカンうるさく音が響いていて、仏様もうるさいなぁと思っていたかもしれない。どの程度の修理をしているのだろう。
 如意輪観音坐像(重文)と、その手前左右には金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅が向かい合わせになっている。
 如意輪観音坐像は日本三大如意輪観音とされているそうで、秘仏となっていて見ることはできない。

室生寺2-8

 室生寺一番の見所といえば、やはりなんといってもこの五重塔だ。私が室生寺へ行きたいと思ったのは、この五重塔の存在を知ったからだった。
 階段の下から見上げる構図は定番となっていて、その場に自分が立ってみると、なるほどここしかないなと思う。ちょうど西日を受けて、美しく光っていた。いや、素晴らしい。

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 近くから見ると小さくほっそりしている。しかし、これは本物だと感じ入る。屋外にあるものでは最も小さな五重塔らしいけど(重文以上の中で)、大きさは問題じゃない。モノが違う。圧倒的な存在感だ。
 法隆寺の五重塔に次いで日本で2番目に古い800年頃のもので、文句なしの国宝だ。
 小さいとはいっても、16メートルある。ビルでいえば5階建てくらいだから、言われるほど小さくは感じない。

室生寺2-10

 この五重塔は、1998年(平成10年)9月22日に、台風の強風で倒れた杉の大木が屋根を直撃して大打撃を受けた。上の写真でいうと、手前左側の軒が上から下までざっくり削り取られてしまった。そのときの写真を見ると、マンガのようにばっくり割れていて、おおおぉぉぉ、と思わず声が出るほどだ。よくぞあの状態から直せたものだと感心する。
 不幸中の幸いだったのは、芯をはずれたことと、五重塔の造りがやわだったことだった。がっしりとした造りだったら、ポッキリ折れていたかもしれない。 
 修理工事は相当大がかりなものとなったようだ。一階ずつ切り離していったん持ち上げて、そこに木材を挟んでジャッキアップして修理していったのだという。解体までしなくてよかったのは、塔がコンパクトで軽かったというのがあった。破損部分の木を組み直して、屋根を葺いて、色を塗り直していき、2年がかりで元の姿を取り戻したのだった。
 以前の姿を知っている人は、色が派手になって安っぽくなったと思うらしいけど、本来の鮮やかさが戻っただけと思えばこの方がありがたくもある。昔の写真を見ると確かに渋いは渋い。でも、今の美しさも充分素晴らしいものだ。あれから8年経ったこともあって、だいぶ色が落ち着いてきたというのもあるだろう。
 修理後も国宝指定のままというのもよかった。修理の途中でいろいろ分かったこともあって、それもよかった点だ。800年前後に建てられたであろうという推定も、木の年輪を科学的に調査することで実証された。794年に伐採された木が使われているというから、ちょうど平安遷都の年だ。
 創建から鎌倉、江戸、明治時代にそれぞれ修理が行われたことも分かって、途中で手を加えられて姿を変えられていることも判明した。初期の頃はまだ板葺きだったようで、今の檜皮葺になったのは江戸時代に入ってからだったらしい。桂昌院が寄進して再興したときかもしれない。明治の修理では軒のラインも変えられという。

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 五重塔近くにあったこれは何だろう。マップにも載ってないから分からない。

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 五重塔から先は奥の院になる。ここで迷った。時間との兼ね合いもあって、進むべきか、引き返すべきか考えて、結局進んでしまった。この判断がこのあと私を大きく苦しめることになる。
 あまりにも深いダメージを負って3日回復しなかったことから判断ミスとするか、自分の限界を知ることができたことをもって正しい判断だったとするか、なんとも言えないところだ。ここで引き返していたら、このあとの展開はずいぶん楽になっていたことは間違いない。すでにこの時点でアップダウンの道を4時間半歩いていることを忘れてはいけなかった。更にこのあと2時間歩かなければいけないということを思い出せ。今ならそう私にアドバイスしたい。
 急勾配の階段がここから520段続く。この上り下りでヒザが壊れかけた。ガラスのヒザの人は決して室生寺の奥の院まで行ってはならない。

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 見上げる巨木たち。途中で少し休むためにこんな写真を撮ったりしてみる。
 途中、立ち止まって休んでいたら、上から杖をついたおじいさんが降りてきた。負けていられないと思う。
 奥の院から帰り道の話はまた次回ということにしよう。最後の最後に室生山は私にとびきりの贈りものをくれる。それはこの旅を通じて最も嬉しい出来事だった。
 次回、室生寺第三回は、赤目の旅シリーズの最終回でもある。


土門拳が愛した室生寺に私たちは日本人の心を見るか? 〜室生寺第一回
2008年08月21日 (木) | 編集 |
室生寺1-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 赤目滝で3時間、長谷寺で1時間歩き、この日の最終目的地である室生寺の手前までやって来た。
 朝の6時半に家を出て、近鉄室生口大野駅に降り立ったのが15時40分。まだ全行程の3分の2を終えたに過ぎなかった。本当に限界を超えるのはこのあとだということに、このときの私はまだ気づいていない。
 駅周辺にはそれなりに民家が集まっていて、ひなびているというふうでもない。街というほどでもないけれど。
 駅近くには小中学校もある。中学の生徒数120人ほどというのはどうなのだろう。1学年20人ずつの2クラスなら、まずまずそれなりなんだろうか。私たちの頃は、1クラス40人以上で最高11組まであったことがあった。そのときはさすがに多くなりすぎて分校ができた。

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 駅前ではアジサイがまだ枯れずに咲いていてちょっと驚く。赤目とは違って、ここはそれほど山奥というわけではないから、そんなに気候は違わないと思うのだけど。

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 駅前が無駄なほど広くなっている。バスも車も人もそんなに利用客はいないだろうから、こんなに広くしなくてもよかっただろうにと思う。駅前には店らしい店があるわけでもない。
 室生寺行き最終バスが15時50分。乗客は地元のおばさまと私の二人。運転手さんが