現身日和【うつせみびより】
この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと。
国府宮神社について紹介するついでに国府のことを勉強してみよう
2008年06月15日 (日) | 編集 |
国府宮-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 愛知県稲沢市(いなざわし)は、全国的にみて知名度が低いところではないかと思う。愛知県民の間でも影が薄い。白地図を見せられて稲沢はどこでしょうと訊かれたら自信を持って指をさせないかもしれない。えーと、けっこう左上の方だよねという程度の人が多いのではないか。昔、尾張の国の中心は、ここ稲沢だったということを知っている人も少なそうだ。学校でも習った記憶はないし、稲沢の人が自慢げに話しているのを聞いた覚えもない。稲沢の人自身が知らない可能性もある。
 今日は国府宮神社(こうのみやじんじゃ)のことを書くのだけど、その前に少し日本史の復習をしたいと思う。国府とは何かということも、学生の頃習ったっきりで忘れてしまってる人も多いだろう。守護・地頭なんて言葉は久しく忘れていたに違いない。
 日本史が好きだった人も、苦手だった人も、少しだけおつき合いください。

 国府(こくふ/こう)というのは、日本に国家という概念が生まれた奈良時代から平安時代にかけて、国が地方を管理するために政務機関を置いた都市のことをいう。その頃の日本というのは、まだ中央集権制が完成しておらず、共和制のような形で危うくバランスを取っていた。地方はその土地の豪族が取り仕切っていて(郡司)、朝廷の管理も行き届いていなかった。
 それでは何かと都合が悪いということで、重要な都市には国府を作り、国司(こくし)と呼ばれる中央の役人を派遣して地方を管理するようにした。国司は政治だけでなく、軍事や司法なども取り仕切る絶大な権力を与えられていて、主な仕事は年貢を中央に納めることだった。
 ついでだから国分寺にも触れておくと、聖武天皇が741年に、国家安泰のために一国に一つ作らせたのが国分寺で、たいていは国府近くに置かれた。国分寺という寺や地名として残っている場合は、そこが国府だったということになる。
 平安時代中期以降になると、租税システムなども確立され、国司としては細かい仕事は代役に任せるようになってくる。取り立てシステムも、個人単位から田んぼ単位になって、朝廷も一定の税収があればいいということになって、余分に取れた分に関しては力の強い農家や国司などがそれぞれ懐に入れて私腹を肥やしていくことになる。金を持てばますます権力が強くなっていくのは必然的な流れだった。
 平安末期にはかなり制度も乱れて怪しくなっていくのだけど、鎌倉時代になると更にややこしいことになる。朝廷と鎌倉幕府という二重支配の体制になるから。
 幕府は各地に、地頭を置き、その土地を管理することになる。当然、国司と役職がかぶることから、争いも起きたわけだけど、力は地頭の方が強く、だんだん国司は形式化していくことになる。
 もう一つの守護というのは、年代によって役割が違うので、説明するのは大変だ。鎌倉時代は地頭の監督という性格が強かったものが、室町時代になると軍事、警察だけでなく様々な権限を与えられるようになり、やがて守護大名と呼ばれる強大な存在となっていく。
 守護大名同士が各地で争うようになり、応仁の乱が起きる。1467年、室町幕府管領の細川勝元と山名持豊たち守護大名が争いとなり、全国に拡大して、戦国時代が始まる。
 守護の中には複数の国を支配する者が現れ、各国に守護代を置くようになる。そんな中、守護以上の強大な力を持つ守護代が現れたりして、争いはますます激しさを増していく。
 守護大名で代表的な存在が、遠江・駿河の今川家や、甲斐の武田、日向・大隅・薩摩の島津などだ。織田家は、尾張・遠江・越前守護斯波氏の尾張守護代だった。
 この頃になると、国司というのは名目だけのものとなっていたのだけど、成り上がりの戦国大名たちがこの地位を欲しがって朝廷に盛んに貢ぎ物をしたりして地位を得ようという動きが出てくる。大義名分や自分の正当性を主張したいという思惑があったのだろう。室町幕府は弱体化して、誰もが武力で天下統一を成し遂げるチャンスが訪れた。これがいわゆる下克上というやつだ。
 この先のことについては知っている人も多いと思うから省略する。守護代の織田家が天下を取りかけ、その家臣で農民出身の豊臣秀吉が天下を統一し、地方の小豪族にすぎなかった松平家の徳川家康が江戸幕府を開くことになる。時代は変わったと、朝廷や名門出が嘆いたのも無理はない。
 国司はどうなったかといえば、その後も役割を変えながら名前だけは江戸時代を通じて残った。もちろん、強大な権力などはなく、任命されてもいないのに自分がそうだと言い張る者も多かったという。

 非常に前置きが長くなったけど、その尾張の国府があったのが、この稲沢で、ここにあった神社だから、国府宮(こうのみや)と広く一般に呼ばれるようになったということを言いたかったのだ。正式名は、尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)という。
 国府がどこにあったのか、正確な場所は分かっていない。中島郡だったことは間違いないにしても、松下なのか下津町なのか、それ以外だったのか、はっきりしないようだ。松下公民館横に国府跡という石碑が建っているらしい。
 国分寺も今はもう残っていない。
 さて、いい加減本編に入ろう。すでに相当長くなりかけているから、恐れをなして逃げる用意をしてる人もいるかもしれない。でも大丈夫、国府宮神社に関しては、実はあまり書くことがないのだ。

国府宮-2

 楼門からして非常に雰囲気がある。最初に見たときは、こりゃあ見事なもんだと感心した。
 室町時代初期の建築で、国の重要文化財に指定されている。
 この楼門は、どこへ出しても恥ずかしくない。鎌倉だろうと京都だろうと奈良だろうと、互角の勝負ができる。ただ古くて立派というだけでなく、風格と品を備えている。
 現在は道路に面してしまっていて、雰囲気を壊しているけど、ずっと南にある鳥居から歩いていって、ここに辿り着くと、素晴らしさもまたひとしおだろう。

国府宮-3

 これが広くて長い参道だ。遠くに木造の鳥居が小さく見えている。街中で現在もこれだけ広い参道を持っている神社はそう多くない。ここははだか祭りの呼び名で知られる儺追神事(なおいしんじ)が行われる場所でもあるから、広いまま残したのだろう。
 国府宮のはだか祭りといえばこのあたりでは大変有名で、山梨の富士浅間神社火祭り、静岡の帯まつりとともに日本三奇祭の一つと言われる神事だ。
 767年、称徳天皇が全国の国分寺に悪霊退散、厄払いの勅令を出したことを受け、尾張の総社だった国府宮神社で厄除け神事を行ったのが始まりとされている。どこではだか祭りになったのかは、よく分かっていないようだ。いつからか、男たちは裸になった。
 毎年2月(旧正月13日)、42歳と25歳の厄年の男たちを中心に、さらしのふんどし一丁と白足袋という姿で集まってきて、祭りは始まる。その数、数千人。それを取り囲む見物者は15万人。
 毎年一人選ばれる神男(しんおとこ)が親衛隊に守られて登場するのが午後4時半頃。ここから祭りはクライマックスを迎える。神男を見つけた裸の男たちは一斉に神男に向かって突進していく。神男に触ると厄除けになるとされるためだ。
 神男は、人々が願いを書いたなおい笹を掲げ、拝殿へ向かって駆け込もうとする。もみ合う数千の裸男たち。ワッショイ、ワッショイのかけ声も勇ましく、やがて怒号に変わる。裸男たちに向かって手桶で浴びせかけられた水は、熱気によって一瞬で湯気となり立ち上る。だからこの祭りの日はとびきり寒い日じゃないと盛り上がらないのだ。この壮絶なもみ合いは1時間近くも続く。けが人必至。親衛隊にちゃんと渡すものを渡しておかないとしっかり守ってもらえなくて、神男は身の危険もあるという。
 なおい笹を拝殿に納めたところで一応祭りは終わりとなる。祈祷したなおい布は、1本100円で売られ、厄除けのお守りとして買っていく。
 この他にも、直径2メートル40、重さ4トンの大鏡餅が奉納され、翌日切り分けた餅をもらうためにみんな朝から並ぶ。これを食べると無病息災といわれている。
 実は今年の2月、この祭りを見るために国府宮まで行っている。車をとめるところを探してうろつき回っていたら、祭りが終わってしまったのだった。もったいないことをした。街中を普通にふんどし姿の男たちがプラプラ歩いている図はシュールでおかしかった。普段なら完全な異常事態なのに、その日その場の雰囲気では、みんな違和感なく受け入れているのだ。あれは面白い光景だった。祭りの様子も、一度は見てみたいと思っている。

国府宮-4

 こちらは西の大鳥居。車でくぐるというのもあまりないから、新鮮だ。ちょっと罰当たりな気もするけど。

国府宮-5

 拝殿、本殿などの様子。横から見ても全景を捉えることはできない。境内もなかなか広くて、ここに写ってる範囲の4倍くらいはある。
 境内の雰囲気は独特のものがある。荘厳というのではなく、神聖というのも違って、親しみやすい清浄さとでも言おうか。誰もが気軽に入っていけて、居心地がいい。でも、神的な空気が抜けているかといえば決してそんなことはなく、必要充分に閉じこめているから守られている安心感もある。個人的にもとても相性の良さを感じるところだ。
 学校帰りの中学生たちが、手水舎の水をひしゃくでゴクゴク飲んでる姿を見て、ああ、ここはいい神社だなと確信した。上品な若い女の人が門の前に車を横付けして、急ぎ足で中に入っていて、大きな柏手を打ってお参りしてたり、ジョギング途中のお父さんが拝殿の前まで走っていって、行きがけの駄賃のように賽銭を投げ込んで礼をしてまた走り去っていったり、見ているとみんなに親しまれている神社だということがよく分かる。

国府宮-7

 神社マニアでもないだろうに、女の子二人組が神社を楽しむようにあちこちを見学していたりもした。
 ここの参拝客は、年齢層が低い。おじいちゃん、おばあちゃんだけの神社ではない。波長というか、空気というか、幅広い年齢層を集めるパワーがあるということだろう。

国府宮-6

 拝殿は江戸時代初期の建築で、これも重要文化財に指定されている。切妻造で、内部は柱がたくさん立っている。
 拝殿の後ろに、廻廊、祭文殿、渡殿、本殿と続く尾張式と称される建築様式になっている。
 延喜式に載ってる式内社ということで歴史のあることは間違いないものの、創建などはよく分かってないようだ。尾張の国府と共に建てられたもので、尾張地方の総鎮守、総社と位置づけられている。当初は国司が祭祀を行っていたという。
 ちなみに、尾張の一宮は一宮市の真清田神社で、二宮は大懸神社、三宮は熱田神宮となっている。
 祭神の尾張大国霊神は、この地方の土地神様で、土地が持つ霊的なパワーを神とした自然神のようなものだろう。
 配祀は、伊弉册命、天照大御神、素盞烏尊などで、境内社として稲荷神社、司宮神社、神明社など六社がある。
 境内外には別宮宗形神社(大歳神之御子)と別宮大御霊神社(田心姫命)があって、この三つを総称して国府宮三社という。
 鎌倉時代あたりから神仏習合が始まったようで、江戸時代末期には相殿(主祭神と同格の祭神)は四十二神にまで増えたという。

国府宮-8

 こういうところにも、日本の美を感じる。

国府宮-9

 こちらの建物は、おそらく結婚式関係じゃないかと思う。神前結婚式が挙げられるようになっているから、披露宴会場とかかもしれない。
 訪れるときはいつも平日の夕方だから、結婚式に遭遇するチャンスはない。

国府宮-10

 境内から見る楼門。
 国府宮神社はどんな神社かというと、カッコイイ神社だ。わー、カッコイイなぁと思うのは、建物がいかしてるからだ。特にこの楼門はカッコイイ。男っぽくてハンサムな神社という言い方もできそうだ。

国府宮-11

 日没が近づいて、境内もそろそろ写真を撮るには厳しい時間帯になってきた。
 この日、稲沢で回った神社仏閣は5つ。国府宮神社は4つ目で、あと一つ、最後に萬徳寺が残った。それはここから車で3分くらいのことだから、なんとか頑張って行ってきた。稲沢神社仏閣巡り紹介は、おいおいしていく予定でいる。
 稲沢市神社コンプリートは数が多すぎて無理。120以上ある。
 国府宮神社に関して書くことはこれくらいだ。本編だけなら短く終わったのに、国府だとか守護大名だなんて話をしたから長くなった。まあでもいい。私も書いていて頭の中を整理できたし、なんとなく曖昧だった歴史の流れがちょっと分かったという人もいたんじゃないかと思う。私の中では、室町時代の南北朝時代から統一にかけてあたりが曖昧になったままだから、そのあたりについてもいずれ機会があれば、勉強し直して書きたいと思う。
 国府宮神社は私の好きな神社の一つなので、オススメします。


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