赤目行きは歩いて焦って限界を超えてなんとか完走 〜室生寺第三回

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS
室生寺奥の院の石段は普通の状態でも厳しいのに、残り少ない体力で登っていくようなところではなかった。こんなに急な登りが長く続くとは知らず、いったん登り始めたからには後には引けなかった。
この日はあまりの疲労に食欲が完全に飛んでしまって、前日の夜からここまで18時間以上何も食べていなかった。とにかくアクエリアスやコーヒーなどを飲み続けて、それをエネルギーに替えていた。家に帰ってから体重を量ったら、一日足らずで5キロも減っていた。ボクサー並みの減量だ。今思い出してもこの日は過酷すぎた。
帰りの時間も迫っていたから、石段の途中でおちおち休んでもいられない。重たい足取りで一歩ずつ登っていく。上までは果てしなく遠く感じた。
帰りは楽かといえばそうじゃない。下りはヒザへの負担が大きいからかえってつらい。途中で完全にヒザがおかしくなった。
もう、今はすっかり体重もヒザも元通りになった。超回復で前より丈夫になったことだろう。またそろそろロングウォークの時期が近づいている。

歩いた時間はそれほど長くなったのかもしれない。せいぜい15分かそれくらいだったのだろう。ようやく何かの建物が見えてきた。ここが奥の院だろうか。まだ油断はできない。安心して続きがあると、ガクッときてしまうから。
この懸造の建物は、位牌堂だ。間違いない、ここが奥の院だ。やれやれ、やっと着いたか。なんでこんな上に作ったんだ。いくら奥の院といったって、こんなに奥にすることはない。
それはともかくとして、この位牌堂の懸造は見事なものだ。足場の枠組みがとても美しい。しばし見入る。
ただ、この足が何かの理由でボキッといってしまったときは、建物ごと斜面を転がり落ちていくことになりそうだ。舞台の上にあまりたくさん人が乗ると危ないかもしれない。

左が位牌堂で、右が御影堂(みえどう)。
位牌堂は供養の儀式をするための堂で、御影堂は弘法大師空海を祀る堂となっている。太子堂とも呼ばれている。空海がこの寺に直接関わったのかどうかは分からない。真言密教の開祖ということで祀られているのだろう。これも鎌倉時代の建物で、重文指定になっている。
御影堂は、ごえいどうとも読み、いわゆる開山堂だ。開山や宗祖を祀る堂ということでこう呼ばれる。
ここ室生寺の御影堂には、弘法大師空海42歳の像が安置されている。

奥の院まで行ったからといって、何がどうなるわけでもない。建物としては、上の二つがあるくらいで、特に見所とも言えない。位牌堂の懸造は一見の価値があることはあるにしても、行くか行かないかは意地の問題だ。
上まで行っても夏場は木々が視界を遮って、見晴らしも悪い。葉の間からわずかに室生の町が見えるばかりだ。
記念にぐるりと一周回って、ベンチを発見。嬉しくなって座ったのも束の間、いかん、時間がない、こうしちゃいられないというわけで、早々に奥の院をあとにした。奥の院での滞在時間は5分弱。あんなに苦労して登ったのに。

本堂の近くに、北畠親房の墓とされる五輪塔(重文)がある。なんで室生寺に?
北畠親房といえば、南北朝時代の公家で、後醍醐天皇死去ののち、南朝の指導的立場にあった人物だ。南朝の正当性を主張するために『神皇正統記』を書いたことでも知られている。
その北畠親房の墓がどうして室生寺にあるのか、よく分かっていないらしい。1354年に奈良県吉野の賀名生(あのう)というところで死去している。現在の五條市で、南朝時代の首都の一つだったところだ。室生寺からはずいぶん離れている。生前にこの寺と関係があったのか、寺の誰かと知り合いだったのか。
大正5年(1916年)に発掘調査が行われて、木製五輪塔や納骨壷が見つかったものの、誰の墓かは判明しなかったそうだ。特に嘘をつく理由もないと思うけど。
南北朝時代については、私自身よく分かっていない部分もあるので、機会があれば勉強して書きたいと考えている。

夕方5時前に室生寺をあとにする。なんとか奥の院まで行って、1時間弱で見学を終わらせることができた。ここまでは予定通り。ほぼ狂いなし。あとは2時間かけて駅までの7キロを歩くだけだ。
散歩や散策ならともかく、単なる移動で7キロは普通歩かない。東京でいうと、新宿駅から東京駅まで歩くのと同じくらいだ。いくらお金がなくても、ほとんどの人は新宿から東京駅までは歩かない。名古屋なら、名駅から東山動物園くらいだ。名古屋人がそんな距離を歩くはずがない。
道はほぼ室生川沿いで、なんとなくハイキングコースのようにはなっていなくもない。行き帰りに歩くという人もいるのだろう。ただ、けっこう車通りが多くて、歩道がないところもあるので、あまり気分のいい散策路ではない。林道のようなものだったら、もう少し気分よく歩けただろう。

歩けども、歩けども、駅に近づいたような気がしない。気が遠くなりそうだ。道のりが果てなさすぎる。奥の院の石段の方がましだったとさえ思う。この帰り道は本当に遠く感じた。途中からとにかく、もう歩きたくないと思いで頭の中が一杯になった。歩くという行為にほとほとうんざりした。走るのと違って歩くことに限界はないと思っていたけど、やっぱり限界ってあるものなんだと思い知る。
客観的に見たら、ものすごくトボトボ歩いたと思う。カメラをぶら下げていなければ、遭難者か何かかと思って車が止まってくれただろう。けど、カメラを持ってるから、好きで歩いてはるんだろうなと通りすぎるドライバーは判断したらしい。ついに最後まで一台も止まってくれることはなかった。室生口大野駅と大きく書いた紙を背中に貼っておくべきだったか。
赤目滝で一度限界を超えてウォーキングハイ状態になり、長谷寺の帰りでダウン寸前まで追い込まれ、室生口の前半はまた復活模様だったのに奥の院でやられて、室生口からの帰り道でトワイライトゾーンに入った。疲労度のパーソナルベストをたたき出して、自分の歩き能力の限界を知った。
そんなとき、私を励ますためにある使者が送り込まれてきた。それが下の写真の鹿さんだ。

最初、道路沿いの川岸にいて、私の姿に驚いて、キョン、キョン、キョンというような大きな声を上げて、川をバシャバシャ渡って対岸まで駆けていった。突然の出来事に驚いたのは私も一緒で、とっさにカメラを向けられず、走っている姿を捉えることができなかった。撮ることができたのは、向こう岸に渡ったあとだった。惜しいことをした。この日は望遠レンズも持っていなかった。
向こうにいったあともこちらをじっと見つめたまま、山中に響き渡るような大きな声で鳴き続けた。鹿があんなに大きな声を出す動物だというのを初めて知った。動物園や奈良公園にいる鹿はほとんど鳴かない。それはまさに、野生の呼び声だった。この声と姿の凛々しさに感動する私であった。
奈良だから鹿がいるのは当たり前というわけではない。奈良公園からここまでは何十キロもあるから、逃げ出してきたとも思えない。生命力の輝きが野生と飼われているものとは違う。野生動物って、やっぱり美しいものなんだとあらためて思う。いつか大台ヶ原にカモシカを撮りにいこう。
これでだいぶ疲れが吹き飛んで元気になった。きっと、室生山の神様が、私のあまりのヨレヨレぶりを見かねて、応援を送ってくれたのだろう。ありがとう、室生山と鹿さん。ここまで来てよかった。歩いたからこそこの出会いがあった。赤目からずっと一日歩き回っていろいろ見て、この鹿との遭遇が一番嬉しかった。旅はこういう思いがけない偶然があるから面白い。

鹿との出会いから歩くこと30分。いったん気持ちは元気になったとはいえ、肉体的にはとっくに限界を超えているから、また激しく疲れてきた。そんな私を癒してくれたのがこの看板だった。
「一万本の花が咲く 弁財天 石楠花の丘 直進11キロ」
って、直進できるか!
目の前は草ボウボウで、川が流れていて、その向こうは山だ。直進なんてできっこない。川を越えて、山を越えて、真っ直ぐ11キロも歩くなんて、絶対イヤだ。けど、この看板には笑わせてもらった。それで体の力が抜けて、またちょっとだけ気持ちが元気になった。

徒歩の7キロというのは、感覚がよく分からない。一度バスで走った道とはいえ、歩くとなると全然進まない。通った道ということは分かっても、駅から何分くらいだったのかが思い出せない。
このあたりも田んぼがあったから、そろそろ町まで近いんじゃないかと喜んだら、ここは途中の集落で、またすぐに人家は消えた。実際、ここから駅はまだまだ先だった。
アオサギが飛び立ったので撮ってみる。風景も単調だから、こんなちょっとした出来事が嬉しい。

バス停の路線図を見ると、なんとか宅前、というバス停がある。完全に個人宅の前じゃないか。きっと、それくらいしか目標物がなかったのだろう。そこに停まる必要があるとすれば、この家の関係者くらいのものだ。
オレンジに塗られているゾーンは、自由乗車区間となっていて、申告制でどこでも降りることができる。手を挙げれば乗せてもくれる。田舎のバスで暗黙の了解でそうなっているところはあるけど、最初からそういうゾーンとして設定されているのは初めて見た。親切といえば親切には違いない。

室生寺を出て1時間半後、ようやく駅近くまで戻ってきた。橋を渡って、165号線をくぐれば、その先に大野寺があって、そこまで行けば駅までの距離感は分かる。
上の写真の古い民家は、そば屋さんか何かの店だった。前の田んぼで米を作りながら店もやるというスタイルかもしれない。

大野寺はすでに門が閉まっていた。ここも5時くらいまでだろう。
大野寺は、室生寺の守りを固めるための寺の一つで、役行者が室生寺と同時に開創し、空海が堂宇を建てたという話が伝わっている。ただ、これも室生寺の伝承と同じで、実際にそうだったのかどうかは分からない。ただ、興福寺との関係が深く、室生寺の末寺だったことは間違いない。
明治33年(1900年)火事になって、ほとんどの伽藍は失われてしまった。
重文の身代わり地蔵(木造弥勒菩薩立像で秘仏)や、裏手の弥勒磨崖仏(自然石に刻まれた仏の姿に見える)、シダレザクラなどが有名だ。

予定通り、最後は19時4分発の電車に乗って、帰路についた。お疲れ様でした。
タイトなスケジュールをほぼ完璧にこなしたというのは、大きな収穫だった。こういう旅もやろうと思えばできるということが分かった。でも、同じコースをもう一度回ってみろと言われたらきっぱり御免被る。今回は分からなかったからできただけで、分かっていたらできていない。無知ゆえにできることもある。
写真とネタの収穫はたくさんあって、そういう意味では非常に充実した赤目行きとなった。歴史の知識という部分でも大いに得るものがあった。
断続的ながら長らく続いた赤目行きシリーズもこれで終わりとなる。また明日からは地元ネタや小ネタに戻ろう。まずは大須について書きたいと思っている。写真の枚数が多いから、何回かのシリーズになりそうだ。
来週はまた電車の旅だ。滋賀と岐阜の歴史巡りは、どんなものになるだろう。関ヶ原あたりではまた歩くことになりそうだ。楽しみでもあり、ちょっと恐ろしいような気もしている。
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