大須夏まつりで大須観音も鳩が蹴散らされるほどの人だかり 〜大須2回

大須観音-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 大須について紹介するならば、街の名前の由来となった大須観音について書かなければならないのは当然のことだ。
 しかし、大須観音という名前のお寺は実は存在していない。大須にある観音さんということで昔から大須観音と呼ばれているだけで、正式名を北野山真福寺宝生院(ほうしょういん)という。たぶん、大須観音を知っている人の9割はこの名前を知らないのではないかと思う。ちょっとした意地悪で、大須観音の前に立っている人に、このへんに宝生院ってお寺はありませんかと訊ねてみるといい。10人中9人は、さあ、聞いたことないけど、と言うに違いない。それだけ大須観音という名で通っているとも言える。一番近い地下鉄の駅も、大須観音駅という名前になっている。
 前回も書いたように、大須観音は、尾張国長岡庄大須郷(現在の岐阜県羽島市大須)にあったもので、名古屋城築城に伴う清洲越の際、徳川家康の命令でこの地に移された(1612年)。
 清洲ではないのにここに移したのは、大須の地は水害が多かったせいもある。美濃の大須は、木曽川と長良川の合流地点にある郷で、大きな州という意味で名づけられた土地だった。
 元の大須観音の歴史をさかのぼってみると、1324年に後醍醐天皇が美濃の大須(長岡庄)に北野天満宮を創建し、1333年にその別当寺として能信上人に開かせた寺が真福寺宝生院だった。1333年は、鎌倉時代が終わった年だ。
 江戸時代、名古屋に移ってからは、門前町として発展していくこととなる。当時の大須の中心はこの大須観音だった。
 1600年代の終わりになると、名古屋城城下町の人口は6万5,000人にも達し、江戸、大坂、京都に次ぐ大都市となっていた。
 この頃、庶民の間で観音信仰が流行し、大須の観音さんも大いに賑わうようになる。尾張にも四国霊場と似たものを作ろうということで、尾張にも三十三ヶ所が設けられたりもした。やがて大須観音は日本三大観音の一つと言われるようになる(あとの二つは、浅草観音と三重県津市の津観音)。
 門前町は参拝客目当てのみやげ物屋や飲食店が建ち並び、夜も華やかになっていった。それがのちに商店街として発展していくあたりが浅草と似ているところと言えるだろう。
 明治に入ると廃仏毀釈で観音信仰は影を潜め、多くの寺も失われてしまった。それに第二次大戦が追い打ちをかけた。
 尾張三十三ヶ所が復活したのは戦後の昭和33年(1958年)で、大須観音は一番札所となった。名古屋から知多半島を一周して、瀬戸から名古屋に戻って、八事の興正寺で打納めとなる。行程は336キロ。

大須観音-2

 大須観音は、二度焼けている。最初は明治25年、隣の家から出た火が燃え移って焼失。二度目は第二次大戦の空襲で跡形もなくなった。再建されたのは昭和45年(1970年)になってからのことだ。そのため、本堂も仁王門もまだ新しい。
 火事に懲りて、建物はすべて鉄筋コンクリートとなった。名古屋城もそうだけど、これはどうにも味気ない。見た目以前に尊厳のようなものを感じなければ心の底から畏れ敬うという気持ちは湧いてこないものだ。それは気のせいなんかじゃない。昔の人はそのことをよく知っていて、だから必要以上に大きな建物を建てたり、豪華できらびやかにしたのだ。そこには庶民を圧倒するという狙いがあった。器というのは信仰心にとっても大事なものなのだ。
 仁王門の中の仁王像にも力が感じられない。
 名古屋城の本丸御殿は、ぜひ本物感にこだわって再建して欲しい。コンクリートは100年経ってもコンクリート建築のままだけど、木造は100年経てば歴史的建造物になる。

大須観音-3

 大須観音といえば鳩がつきものなのに、この日は人の多さに蹴散らされて姿が見えなかった。普段は参拝客の10倍くらいの鳩がいる。妙に鳩を大事にしてるようで、鳩エサの自販機まで置かれている。鳩にエサを与えないでくださいというところが多い中、積極的に鳩をかわいがろうとしているところも珍しい。おかげでムクムクに太った鳩を見かけることがある。
 本堂の姿はいい。どっしりと構えていながら優美さもある。堂々としたものだ。ただ、「尾張名所図会」に描かれた江戸期のものとも、再建された明治期のものともだいぶ違っている。昔の方は屋根の形などがシンプルだ。
「大悲殿」と名づけられているのは、大いに悲しいわけではなく、大いなる慈悲に満ちているという意味だろう。
 大須観音には、明治25年の火事で焼けるまで素晴らしい五重塔があった(1815年建立)。本尊として空海が彫った愛染明王像が安置されていうたという。
 これが失われたのがなんとも惜しまれる。どのみち空襲でやられていただろうけど、昭和まで建っていればもう少し写真や資料も残っていたはずだ。明治時代の写真は残っているので、機会があれば一度見て欲しい。再建計画はうやむやのうちに消えてしまったようだ。今更鉄筋コンクリートで建ててもしょうがない。

大須観音-4

 意表を突くフレームイン。上の方を見ながら撮っていたので手前に気づかなかった。本堂前の写真はこれ一枚しか撮ってなかったので、これを採用。
 近くから見ると本堂の造りの残念なところが目立つ。朱塗りもテラテラして高級感がない。日本三大観音というにはちょっと寂しいところだ。
 本尊は聖観音。
 名古屋七福神の一つである布袋像も安置している。

大須観音-5

 本堂右には紫雲殿という建物があって、つながっている。どういう建物かよく分からなかった。同じ名前の葬儀場とかがけっこうあるから、ここもそういう儀式か何かをするところかもしれない。
 見た目はちょっと中国の城郭っぽいか。

大須観音-6

 本堂から境内を見下ろしたところ。正面に見えているのが仁王門だから、それほど広くないのがこれで分かると思う。昔は当然、もっと広かった。

大須観音-7

 8月3日のこの日は大須夏祭りで、大須観音も大勢の人で混み合っていたけど、大須観音通商店街はもっとものすごいことになっていた。なんじゃこりゃ。普段の週末はこんなに賑わってはいない。
 平日は、お年寄りを中心にもっとスローな時間が流れている場所だ。大須の街自体が純然たる観光地ではないから、その点では浅草とはだいぶ違っている。
 毎月18日、28日は境内で骨董市が開かれていて、かなり人気らしい。1979年に始まったこの市も今では大須名物の一つとなり、100軒以上の骨董店が集まってくるようになった。思わぬ掘り出し物からインチキくさいものまでたくさん出品されているから、興味のある人は一度のぞいてみるといいかもしれない。しかし、「なんでも鑑定団」を観てると、骨董というのは本当に難しいものだとつくづく思う。
 それにしても、こんなに人が多い大須を初めて見た。これはやはり、夏まつり目当ての人たちだったのだろうか。
 夏まつりは2日間で、前日の土曜日から境内や商店街で様々なイベントが行われたようだ。太鼓フェスティバルや盆踊り、阿波踊りパレードに仕掛け花火など。コスプレサミットのパレードは大須観音から出発してここに戻ってくるというルートだった。そのときの人だかりも、写真で見ると大変なことになっている。
 翌日曜日は、サンバショーやラテンダンスショー、山車パレードやサンバパレード、境内では手筒花火も行われた。

大須観音-8

 境内の特設ステージでは、ダンス音楽のリハーサルをやっていた。イベントは夕方から夜にかけてがメインだったから、午後のこの時間はだんだん人が集まり始めていたときだったのだろう。大須の夏まつりって、そんなに有名だったのか。

大須観音-9

 ちょこっと屋台も出ていた。祭りにあわせてなのか、普段からなのか。骨董市のときも出るようだから、この日が特別というわけではなかったかもしれない。
 外国人もちょくちょく見かけた。コスプレサミットのときは、世界から観客としてやって来る人がいたんだろうか。コスプレパレードは一般参加もできるので、やりたい方はぜひ来年。名古屋が萌えた日、という記事のタイトルがあって笑えた。日本におけるコスプレの本場は、秋葉原ではなく大須なのだ。

大須観音-10

 本堂左には、右の紫雲殿と対になるように普門殿が建っている。十二支の念持仏が安置されていて、それぞれの生まれ年の守り本尊がある。
 大須観音でもう一つ忘れてはいけないのが、真福寺文庫(大須文庫)の存在だ。開基の能信上人が集めた蔵書は1万5千巻を超え、仁和寺(醍醐寺だったりもする)、根来寺の文庫と合わせて本朝三文庫と呼ばれている。現存する日本最古の古事記写本など国宝4点の他に、将門記や日本霊異記など、重要文化財も40点近く持っている。
 事前予約で有料らしいのだけど、詳しいことは知らない。いくらくらいするのか相場の見当もつかない。意外と300円くらいだったりしないのかな。
 その他に書いておくべきこととしては、松尾芭蕉が訪れているということか。1687年の12月3日、この地に立ち寄って句を残している。
 いざさらば 雪見に ころぶ所まで
 この日は雪が降ったらしい。仁王門の脇に句碑も建っている。
 碑といえば、大正琴発祥の地というのもある。明治45年に大須の森田五郎という人が八雲琴をもとにして小型の二弦琴を作って、これがのちに大正琴となっていったことから、ここを大正琴発祥の地としているようだ。
 からくり人形もある。万松寺は信長で、こちらは尾張藩七代藩主徳川宗春だ。宗春というのも尾張の名物藩主で、ユニークな人物だった。江戸の将軍吉宗の倹約令を無視して、庶民に芸能や消費を大いに奨励し、自らもド派手な衣装を身にまとって庶民の度肝を抜いたりした。江戸や大坂から芸人やら上人やらを呼び寄せ、芝居小屋や飲食店をたくさん作らせた。
 それが名古屋を商業地として発展させるきっけとなった一方、藩の財政は赤字に転じ、江戸の将軍家にも目をつけられ、結局徳川御三家筆頭でありながら尾張藩から一人の将軍も出せなかった一因にもなったといわれている。
 宗春のからくり人形は、11時から17時まで2時間置きに毎日4回行われている。

大須観音-11

 この日の大須散策は、大須観音が最後だったので、西門から出て、地下鉄に乗って円頓寺へ向かった。ただ、ブログの大須シリーズはまだ終わらない。あと2回か3回は続く予定だ。たぶん、明日もこの続きになると思う。
 
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