ゆく寺くる寺---寺町大須400年の歴史に思いを馳せる 〜大須6回

大須寺編-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 かつて大須には尾張有数の名刹、七寺(ななつてら)があった。広大な境内には7つの伽藍を持ち、芝居小屋が3つも並んでいたという。最盛期は、大須観音や西別院よりも大きな寺だった。
 現在は駐車場の脇に寺の名残をわずかにとどめる程度で、かつての繁栄の面影はない。ここにそんな立派な寺院があったことを知る人もあまり多くないだろう。昭和20年の空襲で七堂伽藍はすべて焼失し、戦後復興の中で再建されることなく街の再開発の波に飲み込まれてしまった。現状の様子から1200年以上の歴史を持つ古刹をイメージするのは困難だ。
 正式名称を、稲園山正覚院長福寺(とうえんざんしょうかくいんちょうふくじ)という。
 奈良時代の735年、行基が尾張国中島郡萱津(今の海部郡甚目寺町)に正覚院という寺を建てたのが始まりとされる。
 781年、河内権守紀是広(かわちごんのかみきのこれひろ)が秋田城主の任を終えて故郷に帰る途中、この地で息子が病死してしまう。悲嘆余って紀是広は、正覚院の住職・智光上人(ちこうしょうにん)に息子を生き返らせてくれるようにと無理なお願いをした。智光上人はそれを受けて密法によって生き返らせてみせたという。しかし一瞬のことで、次の瞬間には再び息絶えた。
 それでも紀是広は感謝し、7歳でこの世を去った子供の追悼のために七堂伽藍(7区の仏閣と12の僧坊を建てた(787年)。
 七寺という名前はこの七堂伽藍によるものだけど、そう呼ばれるようになるのはもう少しあとの時代からだ。887年には水害で大きな被害を受け、941年に兵火に巻き込まれてかなりの建物が失われてしまう。
 1167年、勝幡城主だった尾張権守大中臣朝臣安長(おおなかとみあそんやすなが)が、亡き娘のためにその婿とともに現在の稲沢七ツ寺町に移して七堂伽藍と十二僧坊を再建した。1175年から1178年にかけて一切経を書写させ(七寺一切経)、阿弥陀如来像と観音菩薩、勢至菩薩像を奉納して、寺の名前を稲園山長福寺と改めた。七寺と称されるようになるのはこのときからのようだ。
 その七堂伽藍も建武の兵乱によって大半が焼失してしまう。1591年、秀吉の命を受けた清洲の豪族・鬼頭孫左衛門吉久が清洲に移して本堂を再建。稲沢の性海寺の良圓(りょうえん)を中興開山とする。
 三度目の引っ越しは1611年、家康の清洲越によるものだ。このとき失われた堂も次々に再建され、尾張藩二代藩主光友によって三重塔が再建されて七堂伽藍はみたび復活を遂げることになった(1730年)。
 明治12年(1879年)には真言宗智山派総本山智積院の末寺となり、明治44年(1911年)には準別格本山に昇格するも、空襲によって伽藍は焼け落ち、現在に至る。
 焼け残ったものは経蔵一棟と、観音菩薩、勢至菩薩像の2体、銅製の大日如来像その他だけだった。国宝だった本堂も、阿弥陀如来坐像、木造持国天像、毘沙門天像も焼失した。残った木造観音菩薩、勢至菩薩坐像、七寺一切経などが重要文化財に指定されている。

大須寺編-2

 これが現在の七寺のほぼ全景だ。豊川稲荷の幟が立っていて、鳥居がある。どういう状況になっているのか、よく分からない。右の建物が本堂だろうか。
 左には江戸時代(寛政年間)の作という大日如来像が野ざらしになっている。これがつぎはぎだらけで、修理のあとが生々しい。もう少し丁寧な修理ができなかったのか。戦争の傷跡をあえて残して見せようという狙いだろうか。

大須寺編-3

 堂の正面も境内っぽくはあるものの、大部分は駐車場になっている。
 いくら伽藍がことごとく焼け落ちたとはいえ、重要文化財も持つ歴史のある寺がここまでなってしまうものだろうか。大須観音があれほど復活しているのとは対照的だ。寂しいというより、辿ってきた歴史を知ると感慨深いものがある。

大須寺編-4

 所移ってこちらは総見寺。信長ゆかりの臨済宗妙心寺派のお寺だ。
 もともと伊勢国大島村にあった安国寺という寺で、本能寺の変で討たれた父信長の菩提を弔うために、次男の信雄(のぶかつ)が1583年に清洲へ移し、山号を景陽山、信長の法号にちなんで総見寺と改めた(安土にあった総見寺にちなんだという話も)。
 跡継ぎだった信忠も、本能寺の変に巻き込まれて自害に追い込まれている。信雄の若干トンチンカンぶりは以前にも何度か書いた。どうして伊勢からこの寺を移したのかといえば、このとき信雄は北畠具房の養嗣子となって伊勢にいたからだ。本能寺の変ののちに清洲会議で、信雄は尾張の本拠である清洲の領主となって、名前も織田に戻した。嫡子の信忠は出来がよかったというから、もし生き残っていたらその後の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
 1611年、清洲越でこの寺もここへ移ってきた。地名が大須になる以前は、この寺を基準として門前町、裏門前町と呼ばれていたのだそうだ。

大須寺編-5

 普段は一般開放されてないようで、門は閉ざされており、隙間からわずかに中がのぞけるだけだった。
 信長の菩提寺ということで、中には信長の廟と、信雄の廟もあるようだ。6月2日が信長の命日で、その日は法要を営んでいるというから、もしかするとその日なら入れるのかもしれない。
 ここは空襲で一部が焼けただけにとどまったようだ。ただ、門は新しく、1998年に完成したものという。
 信雄が描いたとされる信長の肖像画や「信長日記」、清洲城壁画など、所蔵品9点が県の指定文化財になっている。
 明治4年(1871年)11月の5日間、この寺で日本初の博覧会「博覧小会」が開催されている。どんなものが展示されたのだろう。
 明治7年には東本願寺名古屋別院でも「名古屋博覧会」が開かれ、その後もたびたび博覧会を開催している。名古屋は昔から博覧会好きな土地だったのだ。自分が生きている間にもう一度名古屋で万博をやりたいと思っている名古屋人は多い。もちろん、名古屋オリンピックもあきらめていない。

大須寺編-6

 焼きを入れたような渋い木造の仁王さんが立っている。これも門と一緒に彫ったのではないかと思う。新しいながらもなかなか味がある。
 本尊は薬師如来像らしい。

大須寺編-7

 大須はどこも寺社の縮小ぶりが激しい。この大光院もかつては大きな寺だったものが、今ではずいぶんこぢんまりしてしまっている。赤門通の名前の由来となった赤門も、こんな小さなただの赤色の門となってしまった。空襲で焼けるまでは、両側に仁王木像、楼上には十六羅漢木座像を安置する立派な楼門だった。1734年の火災で燃え、再建されたものは戦災で焼けた。今の門は昭和41年に造られたものだ。
 大須の赤門さん、明王さんとして地元では親しまれている。

大須寺編-8

 1603年、埼玉県行田市清善寺の末寺として、家康の第四子で清洲城主だった松平忠吉が明嶺理察和尚清洲を開山に建てた。曹洞宗の寺で、最初は興國山清善寺だった。忠吉が死んだのち、法名をとって大光院と改めた。1610年に清洲越によって現在の地に移る。
 本尊の烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)は、世の中の一切の穢れを浄める仏様とされていて、大須の遊郭の女たちに特に信仰されたという。それが転じて、のちに女性の病気が治るというので評判になった。
 毎月28日の縁日には赤門前に露店が数十軒並び、大勢の人で賑わうという。江戸の昔からそうだったようで、「尾張名所図会」にも境内は参拝客でごった返したと書かれている。昼間よりも夜の方が人が増えるそうだ。

大須寺編-9

 ここは紙張地蔵で知られる陽秀院だ。大須秋葉殿ともいうようだ。
 詳しいことは調べがつかなかった。寛永初年、開基は葉室嶺奕大和尚。1624年といえばすでに清洲越は済んでいる。場所は大光院の向かいあたりで、大光院と共に清洲から移ったと説明しているところもあるけど、それでは年号が合わない。
 1624年からこの地にあったことは確かなようで、三門などもかなり古びている。見た目の古さでは大須の寺の中で一番かもしれない。

大須寺編-10

 ちょっとおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。でも、雰囲気に飲まれた負けだ。なんでもないような顔をして写真を撮る。
 右端に写っているのが紙張地蔵だ。2枚10円の白い紙を買って、それを地蔵さんに張り付けて水をかけながら願掛けをする。そうすると、地蔵さんが病苦を引き受けてくれるんだそうだ。一身に負のエネルギーを受け止め続けて380年余り。空襲で地蔵堂は焼けても、この地蔵さんは生き延びた。ある意味負の波動が米軍の爆弾をも弾き返したといえる。
 誰かが持ち込んだ古くなった人形や、色あせた千羽鶴も一役買って、なんだかちょっと恐ろしいような気がしないでもない。丁重に頭を下げて、手を合わせてこの場をあとにした。

大須寺編-11

 極楽寺も、清洲越のお仲間だ。
 創建は鎌倉時代で、開山は良忍上人。もとは葉栗郡極楽寺村(のちの木曽川町で現在の一宮市)にあった寺で、1532年に木曽川の洪水で流されたものを、1604年に空朔教意上人が清洲に再建して、その後ここに移ってきた。
 浄土宗西山禅林寺派で、本尊は阿弥陀如来像。

大須寺編-12

 境内には、ぼけ除け観音というのが建っていた。そんなに古そうなものではない。江戸時代などは痴呆といった概念がなかったんじゃないか。みんなぼけるほど長生きできなかったというのもある。
 ぼけ除け観音というのは全国あちこちの寺にあるようだ。

大須寺編-13

 表からの写真だけ撮った阿弥陀寺。あまり寺らしい感じではなく、入りづらかったというのもある。
 正覚山往生院というのが正式名で、浄土宗のお寺だ。1608年創建で、開基は心蓮社本誉上人張南角公。ここも清洲越組のようだ。

 後半は少し駆け足の紹介になってしまったけど、これが今回大須で回った寺のすべてだ。前後半に分けようと思っていたら、1回で収まった。
 寺は全部行ったつもりが、いくつか取りこぼしをしていた。大須通りの南には、西本願寺名古屋別院などたくさんの寺が集まっているし、完全網羅のためには少なくとももう一度行かないといけない。
 今回の大須シリーズに関しては、残り1回、番外編を残すのみとなった。明日で終わらせることができれば、あさって日曜はサンデー料理で、月曜は遠出を予定しているからちょうどいい。来週からは新シリーズを始めたいと思っている。
 
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