醒ヶ井最終回は梅花藻とヤマトタケルの話など 〜滋賀岐阜歴史編4回

醒ヶ井後編-1

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS



 醒ヶ井といえば梅花藻(ばいかも)が有名で、この花を目当てに訪れる人も多い。名物といえば、この花と養殖場しかないと言ったら醒ヶ井に失礼だろうか。中山道といっても、それだけを目当てに訊ねていく人は少ないはずだ。
 何はなくとも、梅花藻はある。ここにしか咲かない花と言っても言い過ぎではないほど珍しいものなので、わざわざそれだけを見に行く価値がある。まとまった数の花が見られるのは、滋賀県と岐阜の一部だけとなっている。養老の津屋川などでも咲いているようだ。
 育成条件は、水がきれいであることと、水温が年間を通じて14度前後であること、そして浅いことだ。湧き水を水源とする醒ヶ井の地蔵川は、ちょうどその条件に当てはまったというわけだ。
 7月から8月にかけて、梅に似た白い花を咲かせることからこの名がつけられた。直径1.5センチほどの小さな花は、流れに揺られながら水面から顔を出し、水中でも咲く。上の写真のピンク色は、落ちたサルスベリの花だ。この紅白のコントラストも、夏の終わりの地蔵川ならでは光景となっている。
 この川には絶滅危惧種のハリヨという魚がいる。肉食性の魚で、梅花藻に寄生する水生昆虫などを食べているそうだ。
 多少探してみたけど、姿はなかった。資料館だか、どこだかの水槽で飼われているとか。

醒ヶ井後編-2

 醒ヶ井の梅花藻の最盛期は、7月半ばから8月の前半にかけてだそうで、私が行ったときにはもう遅かった。満開時にはたくさんの人が写真を撮りにやって来る。白レンズ、赤帯レンズの群れで、川に入って撮ってるおっさんとかもいて、私としては花よりもむしろそっちの方を撮りたかった。

醒ヶ井後編-3

 絵になるようでなりきらないのが地蔵川の風景で、あまりいいポイントを見つけられなかった。なんとなく雑然とした感じがあって、自然でもなく、人工でもない中途半端さが難しい。
 水の流れの清らかさを伝えきれないもどかしさも残った。

醒ヶ井後編-4

  醒井地蔵尊。かつては川に本尊の地蔵さんを浸けていて、尻冷地蔵と呼ばれていたんだそうだ。今は本堂の中に安置されている。
 地蔵まつりは毎年8月23、24日というから、一週間遅れだった。そのときは賑わっていたんだろう。
 平安時代の817年、大干ばつになり、伝教大師が地蔵菩薩を彫って雨乞いをしたところ、大雨が3日間降り続いて救われたという伝承が残っている。
 地蔵堂は江戸時代に、大垣城城主の石川日向守が病気祈願の礼に建てたもので、その後2度再建されたのち、現在のものは平成2年に改修したものだそうだ。

醒ヶ井後編-5

 途中、ちゅくちょくお寺もある。いちいち入ることはしなかった。

醒ヶ井後編-6

 地蔵川を進んでいくと、唐突に像が建っているのを見つけることになる。醒ヶ井の名前の由来とも深い関わりがある日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の像だ。
 ヤマトタケルについては、日本書紀と古事記ではずいぶん記述が違ったり、架空の人物だという説もあったりで、はっきりしたことは分からない。ただ、モデルとなった人物や、元になった出来事などはあったのだろう。各地に様々な伝説が残されている。
 せっかくだから、日本武尊について少し書いておこう。
 ヤマトタケル(日本武尊、倭建命、小碓命とも表記される)は、景行天皇の皇子で仲哀天皇の父とされる日本神話上の英雄だ。
 父親の愛人を奪った兄の大碓命を素手でひねり殺してしまい、父親に恐れられ、遠ざけるために九州の熊襲建(クマソタケル)兄弟の討伐を命じられる。ときにヤマトタケル、弱冠16歳。
 わずかな配下しかつけてもらえなかったヤマトタケルは、伊勢の斎宮にいる叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を訪ねていってどうしたらいいか相談することにした。倭姫命がこれを持っていきなさいと差し出したのは、女物の衣装だった。
 九州に到着してみると、クマソタケル兄弟は完成したばかりの新居でお祝いの宴を催していた。そこへ美少女に扮して忍び込んでいき、わざと目立つ振る舞いをする。それに気づいた兄のタケルはもっと近くへ来るがいいと呼び寄せ、近づいたとたん、いきなり斬りつけるヤマトタケル。逃げる弟を追いかけ背中から一撃。
 知恵の勝利というか、ずるいというか、ヤマトタケルの戦法はいつもこの調子で、英雄らしからぬところがある。これは、のちの源義経につながるものを感じる。
 続いて出雲に入ったヤマトタケルは、出雲建(イズモタケル)を討つべくどうしたかというと、まず仲良しになった。そして、ある日、こっそりイズモタケルの太刀をニセモノと交換しておいて、一つ手合わせをしようじゃないかと誘った。そして、手合わせと称してばっさりいってしまう。
 やり方はともかくとして、見事西の蛮族たちを討伐したヤマトタケルは、報告をするために父親の元に帰っていった。すると、休む間も与えられず今度は東方の蛮族も討伐してくるがいいと命じられてしまう。このあたりも、義経と頼朝を見るようだ。
 嘆いたヤマトタケルは再び伊勢の叔母さん倭姫命のところへ行った。そのとき預かったのが、のちに神剣・草薙剣と呼ばれるようになる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)だった。
 途中、尾張に立ち寄ったとき、美夜受媛(ミヤズヒメ)と出会って恋に落ちる。帰ってきたら一緒になろうと約束をして、東国に旅立った。
 相模の国では逆にだまし討ちに遭い、火攻めを食らって危機一髪。それを救ったのが天叢雲剣で、燃えさかる草をこの剣でなぎ払って難を逃れることができた。そこから草薙剣の名がつけられた。
 東国で一仕事終えたヤマトタケルは尾張に戻って結婚する。それでも落ち着く間を与えられず、今度は伊吹山へ行って暴れている大蛇を退治るように言われる。何を思ったのか、草薙剣を美夜受媛に預けたまま出向いていったヤマトタケル。これが命取りだった。ヘビくらいなら素手でもいけると思ったのか。
 山に入って間もなく、目の前に白くて大きなイノシシが現れた。神の使いだろうと無視して先へ進むと、実はその白イノシシは神の化身で、怒った山の神は大きな氷の雨を降らせて、それに当たったヤマトタケルは失神してしまう。体調もにわかにおかしくなり、命からがら逃げるように山を降りてきた。
 すごく長い前置きだったけど、ここでようやく醒ヶ井が登場する。この地に辿り着いたヤマトタケルは、地蔵川の脇に腰を下ろし(腰掛け石と鞍掛石というのがある)、清水をごくごく飲むんだところ、シャキッと目が醒めるように元気になり、高熱も下がった。これならいけるということで、気を取り直して故郷の大和への帰路についたのだった。
 しかし、連戦と長旅で体は弱っており、体調もおかしくなってくる。養老から鈴鹿に至る頃にはフラフラのヨレヨレになっていて、歩くこともままらないくらいになっていた。
「わが足三重の匂(まか)りなして、いと疲れたり」と、言ったという。パトラッシュ、ボク、もう疲れたよ状態だ。歩き疲れる気持ちは私も少し分かる。
 この三重の匂りという言葉が三重県の語源になっているという。
 現在の三重県亀山市、当時の能煩野(のぼの)に至ったとき、ついにヤマトタケルは力尽きる。
「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭し うるわし」など国を思う歌4首を詠んで倒れ、帰らぬ人となったのであった。このときヤマトタケル30歳。
 死の知らせを聞いた奥さんたちはこの地を訪れ、お墓を作ることにした。そのとき、一羽の白鳥が空に飛び立ち、大和の方へ向かって飛んでいったという。
 亀山市には全長90メートルの前方後円墳があり、この能褒野御墓がヤマトタケルの墓ということになっている。隣には能褒野神社がある。
 その他、鈴鹿や亀山市に数ヶ所古墳などが存在している。

醒ヶ井後編-7

 これがヤマトタケルが飲んで調子を取り戻したとされる湧き水で、居醒の清水(いざめのしみず)と名づけられている。
 醒井(さめがい)の地名は、ここから来ている。
 隣の蟹石というのは、カニの姿に似ているからだろうか。似てないけど。

醒ヶ井後編-8

 奥まで行ったところに、加茂神社がある。この地域の氏神様だ。
 以前はもっと南にあったものが、名神高速が通るときにこの場所に移されたらしい。
 どういう由緒があるのか、調べがつかなかった。鳥居の額に別雷皇宮とあるから、京都の上賀茂神社から勧請した神社なのだろうと思う。全国にある賀茂神社や鴨神社も同じようなものだ。それが300社ほどあるという。
 醒ヶ井が賀茂氏と関係があるのかどうかは分からない。

醒ヶ井後編-9

 境内の広さはこんなもの。もともとどの程度の広さだったんだろう。
 なかなかいい雰囲気だった。悪い感じはない。

醒ヶ井後編-10

 神社の境内は、高台になっていて、見晴らしがいい。醒ヶ井の町並を眺めることができる。
 ここはちょっとおすすめの場所だ。

醒ヶ井後編-11

 加茂神社から先は特に見所がなさそうだったので、引き返すことにする。

醒ヶ井後編-12

 帰りは北側の道を通って、旧醒ヶ井郵便局を見ていくことにした。
 残念ながらここも月曜定休で、中に入ることができなかった。一階は資料館になっていて無料で、二階は有料(200円)とのことだ。醒ヶ井を訪ねるときは月曜は避けた方がいい。
 このかつてのモダン建築は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが大正4年(1915年)に設計したものだ。
 ヴォーリズといえば、日本でたくさんの洋館の設計をしたとともに、メンソレータムでお馴染みの近江兄弟社の創設者でもある。特に関西では馴染み深い建築家で、同志社大や関西学院大学など、多くの作品を残している。私は近江八幡で池田町洋館街を見た。そのときの様子はブログでも紹介した。
 郵便局や銀行などもたくさん手がけていて、この醒ヶ井郵便局もその一つだ。
 現在の姿は、昭和9年(1934年)に外側をモルタル張りにしたもので、当時のままではないらしい。本体は木造建築だ。
 昭和48年までは現役の郵便局として使われていたという。

 醒ヶ井について私が紹介できるのはこれくらいだ。もう充分だって? 予定より多い4回シリーズになったし、確かにこれくらいでいいだろう。
 すごくおすすめできるというほどではないにしても、全般的に雰囲気のいいところなので、近くに行くことがあればちょっとでも寄ってみて欲しいと思う。駅からもそんなに離れていないし、散策時間も1時間半程度のものだ。
 次回からは、隣の宿である柏原編へと移っていく。ここではやたら写真を撮った。けど、観光地としての核がないところだから、どういうふうに紹介していいものか、まだ自分の中でイメージが固まっていない。まずは町並写真を並べるところから始めようか。また3回か4回のシリーズになりそうだ。
Genre : 写真 旅の写真
 
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