南宮大社は謎が多くて魅力的なオススメ神社 〜滋賀岐阜歴史編17

Canon EOS 20D+Canon EF-S 17-85mm f4-5.6 IS
垂井編の最後に、南宮大社(なんぐうたいしゃ)を紹介して締めくくりとしたい。ここはいい神社だった。
最初の予定では、体力と時間が余っていたら寄ろうかくらいに軽く考えていたのだけど、歩き疲れて体力の限界を超える中、ここだけはどうしても行っておかなくてはいけないような気になって、なんとか頑張って歩いていった。駅からは1キロくらいだから、元気なときなら30分かからない。
新幹線の線路を越えるとすぐに大きな朱塗りの鳥居が現れる。高さ21メートルの鳥居は鉄製だそうだ。いつ誰が造ったのかは、ちょっと調べがつかなかった。そんなに古いものではなさそうだ。
後ろを振り返ると新幹線が走っていく。鳥居の中に新幹線が収まっているところを撮ろうとしばらく待ったのに、そういうときに限って来ない。あきらめて歩き始めて3分ほどしたら通りすぎていった。

南宮大社は、南宮山の麓にあり、いつ誰がこんな場所に建てたのか、よく分かっていない。周囲に何があるというわけではなく、南宮山が特別神聖な山という話も聞かない。祀られている神様は、金属の神である金山彦命(カナヤマヒコノカミ)で、南宮山とは直接関係なそうだ。垂井にあった美濃の国府からもだいぶ離れている。
社伝によれば、神武天皇即位のときに建てられたというけど、さすがにそれは伝説だろう。日本神話における即位は紀元前660年ということになっている。
崇神天皇5年(紀元前92年)のとき、南宮山の上に移って、その後今の場所に移されたという伝説もあるらしい。
現実的な話でいえば、かつて美濃の国府にあって、美濃国総社とされた南宮御旅神社(なんぐうおたびじんじゃ)にあった南宮大社が、今の場所に移ったというのが実際のところなんじゃないだろうか。国府ができたのは奈良時代だから、創建年はそのあたりだろう。国府の南にあるから南宮の名がつけられたというのも、もっともらしい話だ。
一説によると、壬申の乱のとき、大海人皇子(のちの天武天皇)が利用した野上の行宮(あんぐう)を社殿としたのが始まりという。行宮というのは、天皇や皇子が政変などで御所を追われて、一時的な仮の宮としたものをいう。野上行宮は、不破にあった尾張大隅の私邸で、関ヶ原に跡地とされる場所が伝わっている。もしくは、すでにその頃には南宮大社があって、大海人皇子が戦勝祈願をして、天武天皇即位後に、野上の行宮を南宮大社に送ったともいわれている。
信濃の諏訪大社、伊賀の敢国神社、摂津の廣田神社も南宮と呼ばれることがあり、特に諏訪大社と何らかの関係があることも指摘されている。諏訪大社を本山、南宮大社を中の宮、敢国神社を稚き児の宮とも呼ぶそうだ。
諏訪大社は、日本最古の神社の一つとされていて、ユダヤ人が建てた神社という説がある。南宮大社の金属の神は、まず間違いなく渡来人に関係している。社伝の神武天皇云々という話を話半分でも信じるならば、神武東征のときナガスネヒコとの戦いで神武天皇を金鵄(金色のトビ)が助けたというのが出てくる。これは金属製の武器や飛びもので戦って勝利したというのが伝説となったと考えていいのかもしれない。それによって神武天皇が大和を平定することができたとすれば、金山彦神は神として祀られる資格が充分にあったと言えるだろう。この時代に高度な金属加工をできたのは、大陸や朝鮮半島からの渡来人に他ならない。
いずれにしても、延喜式神名帳(927年)には仲山金山彦神社として載っていることから、すでにその頃までには由緒ある神社となっていたのは確かだ。
美濃国一宮であり、近代社格制度では1871年に国幣中社となり南宮神社と改め、1925年に国幣大社に昇格し、戦後に南宮大社と改称した。

思いがけずすごくいい神社で、期待していなかっただけに感動が大きかった。楼門は特に素晴らしい。
楼門の向こうに舞殿が見え、拝殿、本殿と一直線に並んでいる。
家光の再建ということで、ところどころに日光東照宮テイストが見られる。楼門の上の図柄も、東照宮で見たものとよく似ている。眠り猫があるあたりの感じだ。

楼門の中で守りを固めていたのは、これも東照宮で見た随神(ずいじん)というものか。ちょっと自信がないけど、楼門にいて仁王様じゃないとすれば、随神しかないようにも思う。

門の裏には、狛犬がいた。姿形は違えども、この配置も東照宮と同じだ。
関ヶ原で燃える前と、家光が再建したものとでは、ある程度変わってしまってんじゃないかと思うけど、どうなんだろう。随神、狛犬が守る楼門というのも、前は違っていたかもしれない。
そのあたりの資料を見つけられなくて、はっきりしたことは分からなかった。

楼門もいいけど、社殿がまたいい。南宮造りと呼ばれる独特の様式で、朱塗りが美しい。
関ヶ原で焼け落ちたのち、家光が再建したのもので、本殿、拝殿、楼門など、建物のほとんどは重要文化財に指定されている(18棟)。
以前は国宝もあったようだけど、今は重要文化財に格下げとなっている。
かつては21年ごとに式年遷宮が行われていたようだけど、室町時代以降は51年ごとになったという。一番最近では昭和47年というから、頑張れば次を見られそうだ。
再建が叶ったのは、この地出身の竹中半兵衛一族や、家光の乳母だった春日局の願いによるところが大きかったようだ。春日局の父親は、美濃の守護代斉藤氏で明智光秀の重臣だった人物だ。だから、関ヶ原以前の南宮大社を春日局は知っていたのだろう。
家光の再建といっても、家光はお金を出しただけだ。七千両というから、今の価値に換算して3億5千万か、5億といったところか。まだ徳川幕府にお金がうなっていたときだからポンと出せた金額だ。
再建がなったのは、関ヶ原の戦いから40年以上経った1642年のことだった。

平日の夕方で、駅から離れたところに位置しているにもかかわらず、ポツリ、ポツリながら参拝客が次々とやって来て途切れない。なかなかの人気者だ。金属の神様にみんな何をお願いに訪れているのだろう。
祭神の金山彦神(カナヤマヒコノカミ)は日本神話に登場する神で、古事記では金山毘売神となっている。
イザナミが、火の神カグツチ(軻遇突智)を産んでやけどをして苦しんでいるときに、嘔吐物(たぐり)から生まれたのが金山彦神とされている。古事記では一緒に金山毘売神(金山姫神)も生まれたと書かれている。金山姫神は、金山彦神の奥さん、または姉妹という。
南宮大社では、金山彦神が主神となっていて、金山姫神は祀られていない。南宮大社の元宮とされる南宮御旅神社では金山姫神の方が祀られている。
火の神を産むときの嘔吐物から生まれたというのは、金属加工を連想させる。なので、金属そのものよりも金属の加工を司る神といった方がよさそうだ。鉱山の神とするなら、かつての南宮山は何かの鉱物資源があった山だったのかもしれない。現在は金属関係の守護神とされていて、その方面の関係者がたくさん参拝に訪れるそうだ。
配祀として、見野命と、彦火火出見命が祀られている。彦火火出見命は神武天皇とされ、やはり神武天皇との関わりが深そうだ。見野命は、読み方からしても、美濃の神ということだろう。
南宮大社を地図で見ると、道に対して妙に斜めになっていることに気づくだろう。社殿は東南東を向いて建っている。北北西には何があるのだろうとずっと辿っていくと、伊吹山にぶつかる。これは明らかに伊吹山を遙拝するように建てられている。不破の関を監視する神という説もあり、そうなると壬申の乱や天武天皇との関係もやはり本当らしいということになってくる。

本殿は大がかりな工事中だった。足場が組まれて、シートに覆われていたから、本殿を見ることはできなかった。
関ヶ原の戦いで、毛利軍などが陣取ったのは、この奥左手あたりの南宮山麓だったか。現在の南宮山登山口は、南宮大社境内の左奥にある。
毛利軍が動けないように山裾の戦闘に吉川広家が陣取り、毛利軍その他を完全に押さえ込んだ。毛利秀元は山腹に、長束正家や安国寺恵瓊は後ろに控える形となり、進軍できないでいた。長宗我部盛親は更に後方に下がったところに陣取って最初から動く気がない。
しかし、関ヶ原と南宮大社の両方に行ってみると、その距離は遠すぎて、南宮山というのは戦場でさえないことが分かる。戦場になった場所からは直線距離にしても7、8キロある。これでは戦況がどうなっているか見えるはずもない。山に登るといっても、山道が整備されていない当時のことだ、何千、何万の軍団で登れるはずもない。せいぜい物見がいて、現地と行き来する伝令で状況を知ったという程度のことだろう。まさか戦闘が半日で終わってしまうとは思ってなかったといえばそうかもしれない。それにしても、ここからではあまりにも遠すぎてやる気がなかったと思われても仕方がない。それなのに、なんで南宮大社は焼け落ちてしまったのだろう。
やる気がなかったといえば、長我宗部盛親だ。四国の覇者となった長宗我部元親の四男でありながら兄たちを差し置いて家督を継いだ有能な元親も、関ヶ原ではいいとこなしだった。
最初は東軍につくつもりで使者を送ったら、近江で西軍に阻まれて、意志を伝えることができずに、なんとなく西軍に組み込まれてしまった。戦後、自分は戦闘には参加しなかったし、東軍につくつもりだったと、井伊直政に頼んで家康に取りなしてもらって一時は許されたものの、お家騒動で兄の津野親忠を殺してしまい、これが家康の怒りを買って土佐の領土没収となってしまう。間が悪いというか、なんというか。
京都に送られて謹慎生活を余儀なくされ、その後寺子屋の師匠となった。
転機が訪れたのは、1614年、豊臣家に招かれて、家臣として取り立ててもらえることになった。そして張り切って出陣した大阪冬の陣だったのに、ここでも出番がないまま戦は終結してしまう。かなり激戦が予測されたところに配置されていたのに、まるで戦の方から盛親を避けていくようだった。
盛親が唯一活躍した戦いは、八尾の戦いだった。徳川の藤堂高虎軍と激戦を演じて、壊滅寸前にまで追い込んだ。ただ、相手の援軍が来て撤退となり、翌日の天王寺・岡山での最終決戦には参加しないまま大坂城の守りに回った。
こりゃもう駄目だと悟った盛親はとんずら。京都に潜んでいるところを蜂須賀の家臣に見つかって捕らえられ、二条城の外で縛られたあと、六条河原で斬首された。
力があっても運がない武将はこうなるという一つの例がここにある。

すべてが派手な朱塗りというわけではなく、こういう渋い建物もある。
もともとは神仏習合として発展して、明治の神仏分離令が出るまではたくさんの仏堂を持っていた。護摩堂や本地堂の他、三重塔などもあり、それらは現在、南宮大社近くの朝倉山真禅院に移築されている。できればそちらも行きたかったのだけど、時間と体力切れだった。

いくつかの摂社がある中で、拝殿奥にある隼人社は重要なところなので、一声挨拶をしておきたい。写真のものは、樹下神社かもしれない。隼人社はその隣だとすると、回廊からじゃないと見えなかったような気がする。
京都の四条でさらし首になっていた平将門の首が関東に飛び立ったとき、再び反乱が起きることを恐れた南宮大社の隼人神は、飛びゆく将門の首を弓矢で射落としたという伝説がある。そのとき首が落ちた場所とされる岐阜県大垣市荒尾町には御首神社というのがあり、そこでは将門の首を祀っている。
首が落ちたとされる伝承地は他にもいくつかあって、東京大手門にある首塚が一番有名だろう。ここには数々の伝説もある。
体の各パーツを祀る神社があるのは平将門くらいのものだ。首だけでなく、足とか手とか胴体とか鎧や兜などを単品で祀る神社が東京にある。全部回ってパーツを揃えると、将門を味方につけられるようになるかもしれない。本体は言わずと知れた神田明神だ。
東国出身で、朝廷に刃向かった将門のことが江戸っ子は好きだったようで、将門様として神田明神を中心に将門信仰といったようなものがあった。時代が明治になったとき、朝敵である将門を本社の祭神にしておくのはまずいということで別殿に移すことになり、そこでひともんちゃくあった。氏子たちは怒り、新しく迎えた少彦名命の本社には賽銭を入れず、別殿に移された将門の方にばかり入れたという。
神田祭が台風で中止になったときは、将門様のお怒りだと新聞にも書かれるほどだった。戦後、首塚を移動させようとしたGHQに次々と災難が降りかかり、ついには動かすことを断念したというのもよく知られた話だ。

右手には朱塗りの小さな門があって、こちらにはお寺の名残と思われる大きなお堂のような建物が建っている。

神社の人気度を表すものとしては、参拝客の多さと絵馬の数がある。満載の絵馬が、南宮大社の人気を物語る。
私は絵馬というのは一度もかけたことがないと思う。そういえば、今年は一度もおみくじを引いていない。もう残り3ヶ月半だから遅すぎるか。

南宮大社前は、ちょっとした門前町になっている。昭和の風情が漂っていていい感じだった。
へとへとにへたばって、ベンチにへたり込んでサンデーカップを食べたのはこの前書いた通りだ。しばらく歩き出せなかった。
このあと美濃国二宮とされる大領神社(たいりょうじんじゃ)へ行き、駅への帰り道で道に迷ってさまようことになる。そのあたりのことは、明日の滋賀・岐阜歴史巡り最終回「旅の思い出編」で紹介しようと思っている。
南宮大社は、なかなかついでに寄れるようなところではないとは思うけど、機会があればぜひ一度訪れて欲しい神社だ。私のオススメ神社ベストテンに入る。そのうち、マイベスト100神社の一覧表を作ろう。
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