夢かうつつか内々神社とヤマトタケルとタケイナダネの話

OLYMPUS E-510+ZD 14-54mm f2.8-3.5
春日井市の奥、もうちょっと行くと岐阜県多治見市というところに内々神社(うつつじんじゃ)はある。以前一度行ったことがあって、もう一度行かなくてはいけないとずっと気になっていた。前回は2005年で、まだブログを始めてなかったから、勉強が不充分だった。ここのところ関ヶ原などで日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がちょくちょく登場していたから、ここのこともまとめて書いておこうと思っていたのだ。
せっかく短い紅葉の時期に神社なんかへ行かなくてもよさそうなものだけど、内々神社の裏にある庭園の紅葉はちょっと期待していた。
旧国道19号線は、新国道19号線ができるまで、尾張と美濃を結ぶ重要な道だった。内津峠の手前ということもあって、当時はこのあたりにちょっとした宿場町もできていたようだ。今はもう、面影も残っていない。19号線の抜け道として地元の車が飛ばしていく。
地図には少し行ったところに内津温泉というのが載っている。しかしもう宿が廃業して温泉はないという。秘湯を求めてさまよっても見つからない。

創建年は不明ながら、平安時代の「延喜式」に載る式内社ということで、格式は高い。その後は県社となっていた。
ちょっと変わった名前の由来はこうだ。
東国の平定を終えた日本武尊が内津峠にさしかかったとき、配下の者が早馬でやって来て、副将軍である建稲種命(タケイナダネノミコト)が駿河湾で水死した報告をした。それを聞いたヤマトタケルは「あの元気な建稲種命が……」と絶句したあと、「ああ現哉々々(うつつなりうつつなり」とつぶやいたという。そこに建稲種命を祀る社を建てたのが内々神社の始まりとされている。
前にも少し書いたかもしれないけど、このあたりの経緯をもう少し詳しく順を追って説明した方がいいかもしれない。
ヤマトタケルはまたの名を小碓命(オウスノミコト)といい、双子の兄の大碓命(オオウスノミコト)がいた。ヤマトタケルは兄のオオウスをひねり殺してしまったことで父(景行天皇)の怒りを買い、西へ東へと討伐の旅に追いやられることになる。
兄のオオウスが殺されたのが豊田市にある猿投神社とされていて、この神社についても近いうちに書く予定をしている。オオウスに関してはそのときまとめて書こう。
九州の熊襲建兄弟討伐を終えたヤマトタケルは、休む間を与えられず今度は東方の討伐を命じられることになる。再び伊勢神宮にいる叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を訪ね、ここで受け取ったのがのちに神剣・草薙剣となる天叢雲剣だった。
ヤマトタケルは熱田に立ち寄り、ここで尾張の祖とされるタケイナダネに出会い、東征の副将軍とし、その妹の宮簀姫命(ミヤズヒメノミコト)と婚約をする。そして、東方に向けて出発していった。
東国ではややピンチに陥りながらも天叢雲剣で難を逃れ、故郷の大和へ向けて帰る途中に内津峠を超えたところで話は最初に戻る。
一方のタケイナダネは、尾張に戻るために海沿いの道を行っていた。そして命を落とすことになり、遺体は愛知県幡豆郡あたりの海岸に流れ着いたとされ、そこには幡豆神社が建てられた。
この後のヤマトタケルについては、醒ヶ井のときに書いた。草薙剣を置いて伊吹山へ行って、戦に負け、ついに故郷へ帰り着けないまま終わってしまう。
そんなこんなを思いつつ内々神社を訪ねてみれば、また違った感慨も湧いてくる。

境内には少しモミジなどが植えられていて、ところどころ赤く染まって彩りを添えていた。
時刻は例によって日没間近。写真を撮りながら参拝しているうちに日が暮れてしまった。写真も後半は手ぶれとの戦いになって、戦いに負けて帰ってきた。

境内はさほど広くない。紅葉の季節とはいえ普段と変わらない静けさだった。デジイチを持った若手のカップルがひと組いたから、庭園などで一応知られた存在ではある。
創建は熱田神宮よりも早いという。ヤマトタケルの神話がどこまで事実に基づいたものかは分からないけど、内々神社がタケイナダネを祀るためだとすれば、ヤマトタケル亡き後、草薙剣を祀るために建てた熱田神宮よりも早い時期だというのは話の辻褄が合う。
現在は、日本武尊と宮簀姫命もあわせて祭神となっている。
勇猛だったタケイナダネにあやかろうと、古くから武将に信仰された神社だったという。秀吉も朝鮮出兵の前に、ここで戦勝祈願を行っている。

拝殿前には、素朴な木彫りの狛犬がいる。江戸時代あたりのものだろうか。
私は別に戦勝祈願をする必要はないのだけど、尾張っ子としてタケイナダネのご機嫌伺いに訪れるのは当然のことだ。この三人に守ってもらえれば、かなり心強い。

ここの見所の一つに、社殿の彫り物がある。ものすごく凝った見事なものだ。
現在の社殿は1818年に建てられたもので、善光寺表御門や京都御所御門などを造った信州の名工・立川一門が手がけた。この地方では、瀬戸の深川神社や、豊川の豊川稲荷も立川一門が建てている。どちらも以前にこのブログで登場した。
今でこそ歳月で黒ずんでしまっているけど、白木の彫刻だったから、できた当時はそれはもう素晴らしいものだったろう。
龍をはじめ、鳳凰や獅子などが彫られていて、これは一見の価値がある。

建築様式としては、本殿と拝殿を幣殿でつないだ権現造りとなっている。
長らく檜皮葺きだったものを、1981年にその上から銅板を被せて、今のスタイルになった。古い時代のものも見てみたかった。

本殿裏の庭園は夢窓国師が造ったとされるもので、やはりここは紅葉の季節がいい。
夢窓国師は南北朝時代の名僧で、この近くの多治見の永保寺の庭も手がけている。永保寺の紅葉を撮りに行ったのも去年だったか。そのとき夢窓国師についても書いた。
丸池の周りをぐるりと一周できるのだけど、道は悪く、アップダウンも激しい。ヒールの女性をデートに誘うには向かないところだ。滑って転んだ彼女に足下を掬われて、二人とも池に滑り落ちていったら洒落にならない。いや、あとから笑い話になるか。
池には鯉が泳いでいた。昔は亀もたくさんいたらしい。なんでもタケイナダネの霊が亀に乗って駿河の海からからやって来たという話で、以来亀は神の使いということで大事にされたそうだ。近くで亀を捕まえたときは、酒を飲ませてこの池に奉納したんだとか。今は亀の姿は見られなかった。

池を回って、中ノ島にも立って、社殿を反対側から回って、帰ることにした。
ずっと奥にいったところに奥の院があるというのだけど、相当険しい道のようだから、時間があるときに覚悟を決めて向かった方がよさそうだ。日没間際なんかに行ったら遭難してしまう。
最初にタケイナダネを祀ったのは、奥の院だったという話だ。

隣には北辰妙見寺がある。もともとは神仏習合で、同じ境内の中で一体化していたようだ。明治の神仏分離令で一応は切り離されたものの、現在も隣接して建っていて、自由に行き来できる。
開創は密蔵院を開山した慈妙上人で、室町時代の初期とされている。同じ春日井市内にある密蔵院についても、このブログで何度か紹介した。多宝塔があるあのお寺だ。全盛期は尾張地方の天台宗の中心として大いに栄え、戦国時代以降は衰退して今に至っている。
妙見寺に関してはあまりよく分からなかったのだけど、北辰というのは北極星のことだし、北斗七星を描いた幕がかかっていたことから、星信仰に関係がある寺のようだ。

ここは時期と時間がはまれば素晴らしい景観になる可能性を持っている。夜に雨が降った日の早朝にイチョウ絨毯が撮れたら、さぞかし絵になることだろう。私は無理だから、ここの近所の人に託したい。
日本中の神社仏閣は、何らかの形ですべて横のつながりがあるもので、あちこちを巡り歩いていると、思いがけないところで思いがけないところへつながっていって面白い。ヤマトタケルがこんなにも連鎖するというのも、ちょっと偶然を超えているようにも思う。
以前は歴史というと戦国時代と幕末くらいしか興味がなかったのだけど、ここ数年は時代をぐっと遡って古代日本史にも興味が出てきた。鎌倉や奈良へ行ってそれぞれの時代に馴染みもできたし、あとは京都と明日香へ行って、時代を埋めつつつなげていきたい。最終的にはやはり九州へ行って、邪馬台国を肌で感じる必要があるだろう。邪馬台国は、北九州で誕生して、大和へ移ったというのが一番自然な流れだと私も思っている。
尾張地方にもまだまだ巡るべき神社仏閣がたくさんある。ここ最近の流れの中では、大高、鳴海地区は一つ重要なポイントとして行く必要があるところだ。そこは尾張氏とも関係が深い。
ヤマトタケルと大碓命の話の続きは、猿投神社のときすることにしよう。
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